【朝メニュー】
惣菜パン
すいかようかん(つくば土産)
コーヒー牛乳
【昼メニュー】
がき大将ラーメン
【夜メニュー】
キュウリのおひたし
こんぶ
カスタードプリン
同義として「祭りの後」とか「夢の終わり」等…。夏休みもまた然り。それは結局のところ、一時の現実逃避のようなものだろうか。終わってしまえば一気に醒める。翌日から訪れるであろう、あくせくした日常に向けて心の準備をする。その現実に対して慌てて身構える無意識の仕草こそ、夏休みの本質が刹那の逃避である証明だ。休みの終わりに少しでも抵抗感があり、070815明日からの日常に僅かでも抵抗感を感じるのなら、間違いなくその夏休みは夢の時間であり現実逃避の時間と言えた。
だが、それもやむなし。現実とは基本的に厳しく辛いもので、死ぬまで終わることは無い。人口の95%くらいは日々圧し掛かる現実に寿命をすり減らしているはずなのだから。その現実を一時でも忘れるために夏休みをはじめとする「祭りの時間」が存在し、しかもそれ無しには生きられないのだとするならば、人はなんと儚く悲しい生き物なのだろうか。出来ることなら残り10%の側の人間になりたい。迫り来る現実を楽しめるような心の強い人間に…。または毎日が祭りであるような、常に楽しい休みであるような、そんな立場になりたい…。日々の現実があるからこそ夢の時間は楽しいのだ、などという説もあるが、そんなものはしょせん虚しい空論・詭弁。どう考えてもエブリデーホリデーの方がいいに決まってる。きっとみんなそう思ってる。そうじゃないなんて言うヤツは、しょせん余裕に満ち溢れ上からものを見れる立場の人間だけだ。つまりバラモンだ。僧侶だ。世の中は想像以上に負のエネルギーに満ちていて、極めつけにやさぐれている。それが現実だ。この世界はカオスだ…。
と、そんな多種多様の現実が行き交う中、僕等の夏休みは終わった。一瞬だったような、とりとめも無かったような…。しかし最終日というだけあって、のんびりと過ごせた気はする。朝、時間を気にせずムクリと起床し、つくば土産の羊羹をつまむことも、昼、突然近所のラーメン屋で辛いラーメンを食いたいと思い立ち、そのままフラフラと歩くことも、近々嫁の友人が泊まりにくるからと、新しいシャンプー台をドンキホーテで衝動買いすることも、日常という現実空間ではなかなか出来ないことだ。この「細かいことは気にしない」スタンス、「後顧の憂いが無い」安心感は、まさしく休日にしか持ち得ない。それも夏休みや冬休みといった特大な休日でしか味わえないものだ。本質がはさぐれているとしても、確かにあの5日間、僕はバラモンだった。いつか本質もバラモンになりたいと、心の底からそう願った…。
一年365日、休むことの許されないデスサバイバルな日常の最中、それは突如訪れる。怨嗟の声を上げ世を呪い続ける我々社会の歯車の頭上に、御光と共に降り注ぐ。それが夏休み。キング・オブ・休日。疎かにすれば生涯地を這う。