07/08/15(水) 夏休みが終わるという意味

 
 
 
 
 
【朝メニュー】
惣菜パン
すいかようかん(つくば土産)
コーヒー牛乳
 
【昼メニュー】
がき大将ラーメン
 
【夜メニュー】
キュウリのおひたし
こんぶ
カスタードプリン
 
 
同義として「祭りの後」とか「夢の終わり」等…。夏休みもまた然り。それは結局のところ、一時の現実逃避のようなものだろうか。終わってしまえば一気に醒める。翌日から訪れるであろう、あくせくした日常に向けて心の準備をする。その現実に対して慌てて身構える無意識の仕草こそ、夏休みの本質が刹那の逃避である証明だ。休みの終わりに少しでも抵抗感があり、070815明日からの日常に僅かでも抵抗感を感じるのなら、間違いなくその夏休みは夢の時間であり現実逃避の時間と言えた。
 
だが、それもやむなし。現実とは基本的に厳しく辛いもので、死ぬまで終わることは無い。人口の95%くらいは日々圧し掛かる現実に寿命をすり減らしているはずなのだから。その現実を一時でも忘れるために夏休みをはじめとする「祭りの時間」が存在し、しかもそれ無しには生きられないのだとするならば、人はなんと儚く悲しい生き物なのだろうか。出来ることなら残り10%の側の人間になりたい。迫り来る現実を楽しめるような心の強い人間に…。または毎日が祭りであるような、常に楽しい休みであるような、そんな立場になりたい…。日々の現実があるからこそ夢の時間は楽しいのだ、などという説もあるが、そんなものはしょせん虚しい空論・詭弁。どう考えてもエブリデーホリデーの方がいいに決まってる。きっとみんなそう思ってる。そうじゃないなんて言うヤツは、しょせん余裕に満ち溢れ上からものを見れる立場の人間だけだ。つまりバラモンだ。僧侶だ。世の中は想像以上に負のエネルギーに満ちていて、極めつけにやさぐれている。それが現実だ。この世界はカオスだ…。
 
と、そんな多種多様の現実が行き交う中、僕等の夏休みは終わった。一瞬だったような、とりとめも無かったような…。しかし最終日というだけあって、のんびりと過ごせた気はする。朝、時間を気にせずムクリと起床し、つくば土産の羊羹をつまむことも、昼、突然近所のラーメン屋で辛いラーメンを食いたいと思い立ち、そのままフラフラと歩くことも、近々嫁の友人が泊まりにくるからと、新しいシャンプー台をドンキホーテで衝動買いすることも、日常という現実空間ではなかなか出来ないことだ。この「細かいことは気にしない」スタンス、「後顧の憂いが無い」安心感は、まさしく休日にしか持ち得ない。それも夏休みや冬休みといった特大な休日でしか味わえないものだ。本質がはさぐれているとしても、確かにあの5日間、僕はバラモンだった。いつか本質もバラモンになりたいと、心の底からそう願った…。
 
一年365日、休むことの許されないデスサバイバルな日常の最中、それは突如訪れる。怨嗟の声を上げ世を呪い続ける我々社会の歯車の頭上に、御光と共に降り注ぐ。それが夏休み。キング・オブ・休日。疎かにすれば生涯地を這う。

07/08/14(火) つくば市探索→アキバ飲み

 
 
 
 
 
 
【朝メニュー】EV:つくばエキスポセンター(友人スーパーフェニックス、プリズマン)http://www.expocenter.or.jp/
ファミレス(茨城・つくば)
 
【昼メニュー】
とんかつ屋「とんQ」(茨城・つくば)
 
【夜メニュー】EV:飲み(嫁、嫁友人)
飲み屋「ザ・海峡」(東京・秋葉原)
 
 
昨日に続き、茨城のつくば市にて街中探索。まずはファミレスで適当にくつろいだ後、スーパーフェニックス、プリズマンと共につくばエキスポセンターという施設に向かった。つくばエキスポセンターとは、’85に開催されたつくば万博を機に、さらなる科学技術の発展と啓蒙を目的とし設立された施設だ。入場してみると、確かに色々な機械というかマシンというか、とにかく科学技術の粋を集めたっぽいものが置いてあった。中には、どう考えても80年代ではないかと思われるレトロチックなロボットなども見られたが、青少年の科学離れ、理数離れが著しいと言われる近年において、こうした施設は重要なのだと信じたい。環境破壊とは別の次元で、技術の発展は国の発展に繋がるという現実があるのだから…。
 
もっとも、僕はつくばエキスポセンターの存在を知らなかった。その発端となったつくば万博も、かつての大阪万博や花博に代表される万博という概念も、ついぞ最近まで気にしなかったのが実情だ。’05の愛知博なら辛うじて分かるが、それは一人の社会人として一般常識を多少なりとも気にし始めたことと、名古屋に出張先として度々赴いていたからたまたま知っていただけの話だ。本当は一生、ゲームとマンガを消費してダラダラ過ごしたかったのだが、世間がそれを許してくれなかった…。凡夫の悲しさ。主要都市の事件など目にもくれず、ポートピア’81=ポートピア連続殺人事件だと思い込んでいたあの頃が懐かしい。
 
まあ、昔の話である。今はこのとおり世間事情にも通じているし(?)、たとえ知らなくてもちょちょいとウィキペディアを開くだけで、30秒後にはしたり顔が出来る。まったく良い時代になった。PCがさえあれば、知識量に差は殆ど発生しないのだから…。だが、それを逆に考えれば悪い時代になったとも言える。いつでも検索出来るということは、人間の記憶力を衰えさせることを意味するのだから…。文明の発展と人間の能力の退化。両者は互いに反比例する。
 
そんな、能力低下著しい現代社会にて、文明と、その産物である娯楽文化は止め処もなく発達・増殖していく。とりわけ、人間にとってその代表格である外食文化、大人にとっての代表格・飲み屋文化などは、アリのように繁殖し続ける。つくばの街で見かけたとんかつ屋「とんQ」も、その帰りに寄ったアキバでふと立ち寄った飲み屋「ザ・海峡」も、その繁殖模様の一部。どこを見ても建物、建物、建物…。そして群がる人、人、人…。ただ欲求を満たすためだけの街であり、時間と暇と金を消費するためだけの人だった。一瞬、そう思ってしまう自分が居る。確かに文明は発達したが、ヒトとして退化しているのも確かであると…。
 
それでも我々は、消費と退廃を繰り返し、それを死ぬまで止めない。自らをすり減らしていると分かっていても…。だが、その瞬間は確かに心は高揚し、ある種の満足感を得られるのだ。友人とメシを食うのは楽しい。親族と酒を飲むのは楽しい。そんな快楽主義はいけないだろうか?刹那主義は罪だろうか?
 
真実は刻だけが知っている…。

07/08/13(月) つくば友人宅宿泊

 
 
 
【朝メニュー】
食パン
ハムエッグ
コーヒー
 
【昼メニュー】
無し
 
【夜メニュー】EV:茨城連れ宅訪問(スーパーフェニックス、プリズマン)
寿司屋「きらく」(茨城・つくば)
中華屋「「棲外棲」(茨城・つくば)
 
 
よく考えれば、二日前から夏休みに入っていた…。
 
ウチの会社の長期休暇は土日を合わせて5日間。これが果たして長いのか短いのか。前職はよくてせいぜい3日間だったことを考えると、現在の5日間という期間は長いかもしれない。しかし、世の中には一週間とか十数日間などという長期休暇を貰って余裕で海外に高飛びする輩も居る。そういう人等と比較すれば、自分の休みはとてつもなく短い。そう考えると、昔あった学生時代の1ヶ月以上とかいう休暇がいかに異次元かつ有り得ない日数だったかということが分かる。同時に無駄な日数だったとも…。あの時間は、ただただ怠惰に過ごしクズになるために存在したのだ。凡人にとって、長すぎる休暇は毒でしかない。
 
まあそんな苦い記憶も手伝ってか、社会人になってからは長期休暇の度にその意味を考えるようになった気がする。要するに、どう過ごしたかではなく、そこにどんな意味があったのか考えるという、一見回りくどいだけの思考の遊戯。例えば、ゲーム三昧だった時には、その内容を受けて自分の行動規範をより崇高なものに修正しようと心がけた。実家に規制した時は、親への孝行が不十分な自分を叱責し、こんなことではいけないと気合を入れた。パチスロオンリーだった時は、勝った時は「この金を更なる勝負に投資するのではなく、何か形に残るものを買おう」と心がけ、負けた時は「なぜ俺はこんな無駄な投資をしたのか、この負け金でプレステ3が買えたじゃないか」と反省の色を強くし、二度と打つまいと心に誓った。
 
要は、重要なのは休暇前の計画段階でなく、休暇中の実践段階でもなく、休暇終了後の満足度ですらない。ただただ起きてしまった出来事に対し無理矢理にでも意味をこじつけ、その意味から意義を紡ぎ出し、その意義をもって今後の人生に役立てようと心を奮い立たせる。後出しジャンケンを分析するがごとき淡々たる様相で…。この工程を一言で表すとこうなる。つまり「実践より理論」。
 
考えてみれば、危険で無意味な方法だ。なぜなら人生には練習と本番があり、本番に注力するのが真っ当。だけど先の手法とは、練習を疎かにして本番も疎かにする手法。さらに、今さらのように終わった本番を顧みた挙句、次に訪れるかもしれない本番へ向けて妄想を開始するという、傍から見たら情けない姿だ。その本番は遠い未来かもしれないというのに、もしかすると二度と訪れないかもしれないというのに、あくまで夢想を繰り返す。まさにデフレスパイラル。ダメルーチン。こうなった人間はもはや救出不可能。
 
まあそれでも、考えるという行為には価値があると、最近の僕は思っていたりする。実践者は自分の他にも多数おり、ゆえに人に任せれば問題ない。思考者すなわち理論派ももちろん数え切れないほど存在するが、えてしてその理論は一定のラインを抜け出ない。つまり型にはまった理論に落ち着きがちであると僕は思っている。もっと先の、より万人の納得できる、あるいは批判の余地のない思考や理論がこの世にはあるはずだと…。それを思い描きながら何かを考えるのは正直いって楽しい。何かを実践している時よりも…。人は考える葦である。全員がそうであるから全てを束ねる究極など存在しえず、それでも究極を目指すから死ぬまで飽きずに考え尽くすことも出来るのだ。人間であることをもっと喜びたいものである。
 
そんな感じで「考える」という精神作用を行うわけだが、一つの結論が出た場合、それを発信する先が不可欠となる。発信せずに自分の中だけで温めておくのは人間の性質として不可能だし、むしろ罪だとも言えよう。考えをぶつけてこそ自然であり建設的であり、そして社会のためなのである。自己完結のままで生涯を終えれる人など皆無と言えよう。もしそんな人間が居たら、その人は既に神の領域としか言いようがなかった。
 
で、その発信先なのだが、それは家族であったり友人であったり、最近ではブログなども候補に挙がるに違いない。いずれにしても、人はどこかで、そして誰かにマイセルフを発信している。僕の場合も例に漏れず、嫁であったり友人であったりブログであったり…。ただ、思想を結構煮詰めた時などは、友人のスーパーフェニックスなどに相対することが多かったりする。結局のところ、自分の妄想・妄言に付き合ってくれる相手というのは、よっぽどの聖人か、質的に同志めいた部分がある人くらいなものだろう。話を聞いているようでも大概の場合はすぐに忘れてしまうはずで、それは聖人とはいえない。聖人が僅少ならば、もう同志達に語るしかない。自分の一人相撲でしかないという可能性も頭の片隅に入れつつ、それでもこれといった時、これという人に都度、気炎を吐く僕だった。世に聞き手は数あれど、安心出来る聞き手はなかなか…。世の中は難しいものである。
 
そんな2007年、夏。5日間の休暇。珍しく実家に戻らず、茨城・つくばへ。久しぶりに友人宅へ宿泊した夏だった。そこの住人であるスーパーフェニックスそしてプリズマンに向かって思いの丈を吐いていた。同志として、男として…。
 
友と共に語った夏休み。泊まったつくば市。止まらない思考。しかしその頂は、遥か遠き理想郷。