20160126(火) 京都勝牛のおばちゃんとアンティ・アンズの姉ちゃん

160126(火)-01【0740頃】ヤクルトジョア、東京拉麵しんちゃん焼そば《家-嫁》_01 160126(火)-02【2000頃】牛カツ専門店「京都勝牛」ヨドバシAKIBA《秋葉原-友人1名》_01 160126(火)-02【2000頃】牛カツ専門店「京都勝牛」ヨドバシAKIBA《秋葉原-友人1名》_02 160126(火)-02【2000頃】牛カツ専門店「京都勝牛」ヨドバシAKIBA《秋葉原-友人1名》_03 160126(火)-02【2000頃】牛カツ専門店「京都勝牛」ヨドバシAKIBA《秋葉原-友人1名》_04 160126(火)-03【2300頃】土産 プレッツェル専門店「アンティ・アンズ」東京メトロ秋葉原駅構内 4つ1000円セット《秋葉原-一人》_01 160126(火)-03【2300頃】土産 プレッツェル専門店「アンティ・アンズ」東京メトロ秋葉原駅構内 4つ1000円セット《秋葉原-一人》_02 160126(火)-03【2300頃】土産 プレッツェル専門店「アンティ・アンズ」東京メトロ秋葉原駅構内 4つ1000円セット《秋葉原-一人》_03 160126(火)-03【2300頃】土産 プレッツェル専門店「アンティ・アンズ」東京メトロ秋葉原駅構内 4つ1000円セット《秋葉原-一人》_04 160126(火)-03【2300頃】土産 プレッツェル専門店「アンティ・アンズ」東京メトロ秋葉原駅構内 4つ1000円セット《秋葉原-一人》_05 160126(火)-03【2300頃】土産 プレッツェル専門店「アンティ・アンズ」東京メトロ秋葉原駅構内 4つ1000円セット《秋葉原-一人》_07 160126(火)-04【0020頃】アジ三枚下ろし刺身夜食《家-嫁》_01

【朝メシ】
ヤクルトジョア、東京拉麵しんちゃん焼そば(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
牛カツ専門店「京都勝牛」ヨドバシAKIBA(秋葉原-友人1名)
プレッツェル専門店「アンティ・アンズ」東京メトロ秋葉原駅構内 4つ1000円セット、アジ刺身(家-嫁)
 
【イベント】
仕事、秋葉原
  
  
【所感】
■ヨドAKIBAレストランフロア
仕事後、ヨドバシAKIBAのレストランフロアで友人と会食する。何度か訪れたが相変わらず通路が複雑だ。かつ敷居を極力取っ払った開け広げなオープンテラス風店舗構造に怖気付く。

食事しながら建物の外を歩く通行人を眺めるのと、食事しているところを通行人にガン見されるのと、どちらがより恥ずかしいシチュエーションか。やはりメシを食う自分の姿を見られる方だろう。自分が通行人ならば気付かれたらその場をそそくさと離れれば済むが、自分が客として店の席に座る側だと注目を集めても逃げ場が無い。

何度も言うが、こんな場所で密談なんて不可能。オープンだけに目立つ挙動も出来ない。つまり長居無用ということ。居酒屋風はやめて、純粋に食事ができる店を選ぶ。今回は「京都勝牛」という牛カツ専門店をチョイスした。これならサッと食べて帰れる。他に空いている店が少なかったというのもあるが、短期決戦には向いているだろう。
 
 
■「勝牛」
京都勝牛は、名前の通り京都発。脂の乗った牛カツと麦飯をベースとした定食が一般的なオーダーだ。牛カツが他の店と比べてかなり細切れになっているのが特徴的。醤油系、ソース系、塩、カレー系など様々なタレがあるため、カツを細く切って枚数を増やすことで色んなタレを楽しめるのが狙いだと思われる。

麦飯のお代わりは自由。お椀が小さいのでいっぱしの大人ならまずお代わりすることになるだろう。友人は1回、隣の席にいたカップルのメガネ兄ちゃんもお代わりしていたし、僕に限っては2回お代わりした。麦飯好きには嬉しいシステムだ。牛タンねぎしに通じるものがあるか。ツヤツヤの新米が当たり前のように食える時代だからこそ、逆麦飯を好む人間は多いのだ。

その代わり、キャベツのお代わりには無料ではなく、追加として100円支払わねばならない。この点、とんかつ和幸に一歩譲る。

味噌汁はどうだったか確認しなかったが、お得な部分もあれば割高に感じるシステムと言ったところだ。一応、味噌汁は赤ダシで大変美味しかった。牛カツも多彩なバリエーションの味が楽しめたし、悪くない店だろう。

ただ、店内が狭い。人気立地であるヨドバシカメラだけに、敷地の割り当て面積もシビアだったと予想されるが、それにしても京都勝牛のスペースは他の店に比べ手狭だ。その手狭なスペースになるべく人数を収容しようとカウンターとテーブルを目一杯詰め込んだというイメージ。隣の席との隙間も殆ど歩くスペースも殆ど見当たらない。無理矢理押し込まれている気がする。この窮屈感はいかんともし難かった。

だからか、同店には若い姉ちゃん店員とかなり年配のおばちゃん店員との二人の給仕がいたのだが、おばちゃんなんて店舗が狭いからか、客からの声が掛からない間、居心地悪そうに僕等のすぐ傍に立っていたりする。あと通路が狭すぎるので、オーダーやお代わりその他で声を掛けられた時など、テーブルにぶつかったり、箸を落っことしたり、その度に「すいません!すいません!」と謝っていたっけ。何か見ているこっちの方が惨めというか哀れになってくるよ。おばちゃんの方、ほんとテンパッてたな。それでも生きるためにはみっともない姿を見せてでも働かなくてはならない。世知辛い世の中だ。

そんな「京都勝牛」でのひと時。店がもう少しゆったりしているのなら、もう一度来店してもいいくらいの面白さはあった。
 
 
■土産
帰り際、東京メトロ日比谷線地下改札前の「アンティ・アンズ」という店の姉ちゃんが元気に可愛い声で呼び込みしていたので、つい声に釣られて買ってしまう。同店はプレッツェルというねじれた輪っかのような変な形をしたドイツの菓子だ。ドーナツをもう少し固くした感じか。多少固めだが、レンジで暖め直すと柔らかくなるので豆知識として覚えておきたい。

値段は一個300円以上するが、姉ちゃん曰く「4本で1000円というキャンペーンをやっております」と可愛らしい女子に弱い野郎リーマンである僕のツボをくすぐるような声で目をキラキラさせながら訴えかけつつ、試食などをさせてくれる。「美味いすね♪」と賞賛する僕に、「はいぃそうなんですぅ~っ♪ ナントカナントカ」と、分かり易い説明をしてくれたが、その説明内容は既に耳に入っておらず、足は勝手に店内に吸い込まれていた。

僕がレジに立っている時も、姉ちゃんは呼び込みを怠らず、女子高生やらカップルやらが僕の後ろにワラワラと並ぶ。呼び込みの効果は侮れない。

と同時に、店に客が入っているという状況が他の迷っている客の背中を後押しすることも忘れてはならない。今回の時間帯、僕が店に入るまで客は居なかった。だが僕がレジに立った途端、他の客も群がってきた。つまり僕がサクラ的な役割を果たしたわけだ。店に貢献したこの僕に、何か褒美が欲しいのう、姉ちゃんよっ。プレッツェルのように甘~い褒美がなっ!( ゚Д゚)

京都勝牛、そしてプレッツェル専門店の「アンティ・アンズ」。いずれも初めての体験。もう十数年通っている秋葉原でも、未知の場所や味はまだまだ多いということだ。
 
 
■過剰摂取
そんなプレッツェルを家で頬張りながら、昨晩に引き続きまたもアジをつい三枚下ろしにして作った刺身を夜食で食ったり、何だかんだと食事の摂取量がうなぎ上り。一向に減る傾向がない。プレッツェルも2本が限界だった。やはり4本は多かったか。

それでも、勝牛のおばちゃんの珍行動が見られたし、「アンティ・アンズ」の姉ちゃんの天使系笑顔も拝めたし、それを題材にして新たな思考なり哲学なり物語を構築すれば、すなわち自分の血肉とすれば、決して高い買い物ではない。

大切なのはどこに行ったか、何を買ったか、何を食ったかではなく、それによって何を得てどう活かすか、という点に尽きる。


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20160125(月) アジの三枚下ろしは三度目から輝く

160125(月)-01【2240~2310】アジ三枚下ろし&刺身 前回より遙かに巧み《家-嫁》_01 160125(月)-01【2240~2310】アジ三枚下ろし&刺身 前回より遙かに巧み《家-嫁》_04 160125(月)-01【2240~2310】アジ三枚下ろし&刺身 前回より遙かに巧み《家-嫁》_06 160125(月)-01【2240~2310】アジ三枚下ろし&刺身 前回より遙かに巧み《家-嫁》_09 160125(月)-02【2320~2340】鉄板焼き(アジ下ろし、うどん 上野屋台ソース)《家-嫁》_02 160125(月)-02【2320~2340】鉄板焼き(アジ下ろし、うどん 上野屋台ソース)《家-嫁》_03 160125(月)-02【2320~2340】鉄板焼き(アジ下ろし、うどん 上野屋台ソース)《家-嫁》_04 160125(月)-03【0030頃】エンゼルパイ《家-嫁》_01

【朝メシ】
牛乳(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
アジ三枚下ろし&刺身、鉄板焼きアジうどん、エンゼルパイ(家-嫁)
 
【イベント】
仕事、アジ三枚下ろし
  
  
【所感】
■三度目のアジ三枚下ろし
先週チャレンジした二度目のアジ三枚下ろしが予想以上に上手く仕上がったことに気を良くした俺は、土日明けた本日、三度アジの三枚下ろしに挑戦する。

無論、三枚に下ろしたあと刺身に加工するのも忘れない。そこまでの過程が俺にとってのアジであり、今現在唯一可能な調理法だからだ。俺の出来る唯一のアジ料理、ゆえに世界の全て。今日の夜メシはホットプレートで焼きうどんと決まっているのに、割り込むように突如アジの刺身を食卓に出現させた。ここまで執着するとはよほどの好き者と言える。
 
 
■三度目という段階の重要性
しかし少し視点を変えれば、前回から殆ど日を置かず今日の夜にアジを捌いたという選択肢はなかなかに悪くない。この時期に実行するのが意欲と実利の両面にとって最もプラスに作用するからだ。つまり反復による学習効果が見込める最適期ということ。

しかも一度目の試行で大失敗した後、その教訓を活かして成功を収めた二度目の経験を経た上での三度目。ここは成功体験を身体に覚え込ませるパートであり肝心要のフェーズ。モノにするために理想的な機会到来。それが三度目、すなわち今回の実践だ。

それも間を置いては意味がない。せっかく掴みかけたコツを忘れてしまうからだ。その成功の手順がまだ記憶と身体に残っている内にさっさと身に付けてしまえば後はどうとでもなるし、逆にその段階で身に付けられなければまた一からやり直しだ。それこそ二度手間、三度手間となり時間だけがいたずらに過ぎていくという最も無駄なパターン。

よって、三回は必要なのである。二回ではダメだ。それはまだ復習の段階に過ぎないからだ。反復というものは三回目から始まる。三回以上やってスキルは身に付く、モノになる。

スキルなんてものはいつだって0か1。身に付くか身に付かないか、そのどちらかでしかない。身体がちゃんと動くか、役に立つかどうか。中間はない。「多少出来る」というのであればそれは既に1であり、後は回数を重ねて練度を増せばいい。逆に「あんまり出来ないかもしれない」とうのなら、それはまだ0。もう一度初めからやり直すしかない。それは恐ろしいこと。すなわち恐怖である。
 
 
■自分が好きになれないのが真の恐怖
同時に本人にとっての損失でもある。該当スキルを習得できないという成長的損失だけでなく、身にも付かないもののために費やした時間的損失も被さるのが大きい。そうなると、時間ばかりが過ぎて何も成長していないと感じてしまうケースに陥る。反復して覚え込む前に挫折してしまうか飽きてしまうか、とにかく獲得して自分の血肉となる前に辞めてしまうため、見かけ上は全てが無かったことになってしまうからだ。無力感に苛まれつい自分を責めてしまう、三井のように。さらに費やした労力が報われなかった徒労感も手伝って「まるで成長していない」とますます懲罰的になる、三井のように。実際は以前より進歩していたとしても。

「何故俺はあんな無駄な時間を」と後悔の涙を流すのは、やれば出来たはずなのにやらなかった自分の意志の弱さが情けないからであり、続けていればモノに出来たかもしれないのに途中で退いてしまった自分の覚悟の足りなさを情けなく思うからだろう。

つまり自分が嫌いになるから泣けてくる。1を得るための努力を怠り、再び0となってしまった自分が。0になる恐怖を知りながら、その恐怖を克服するため立ち上がれなかった自分が。恐怖に打ち克つために必要な負荷や苦痛を味わうという恐怖に負け、自分が嫌いになるという本当の恐怖から目を背けてしまった自分のことが…。
 
 
■反復を超えた先に
だからこそ、その恐怖感を味わいたくないから何とか踏ん張る。未来のために今の恐怖を克服する。それは人として廃れたくない終わりたくないという切迫感の裏返しであり、突き詰めていけば世界に淘汰されて死にたくないという剥き出しの生存欲求。その追い詰められたがゆえのマイナス因子が向上心というプラス因子に反転した時、人は恐らく最大の力を発揮するだろう。惰性や義務感や切迫感でやっていた時と比べ、学習速度も習得率も格段の進歩を見せる。この段階こそが、復習や反復の先にある成長という段階。この領域に居ながら磨き上げたものは、単なるスキルを超えたその人の個性に、いや武器となるだろう。

自ら進んで得ようと志すこと、得るために努力すること、そのための時間や犠牲を厭わないこと、それがどれだけ本人を尊い場所へと導くか、本人にすら気付けまい。その領域は、恐らく人として最も高度な階層。だから輝いて見えるわけである。出来ることならその領域に留まり続けたいものだが、現実は思うように行かなくて、何か始めては辞め、何か始めては辞めることを繰り返し時間だけが過ぎていく。まるで成長していないと嘆く日々である。
 
 
■アジは行けそうな気がする
そんな中、アジの三枚下ろしについてはどうやらモノになりそうな予感だ。一度目の失敗と二度目の成功を経て、今回三度目の反復段階に素早く入ることが出来た。「せっかくアジの三枚下ろしを覚えられそうなのに、このままだとモノに出来ないまま全部忘れてしまう」という無意識の恐怖心がこの身を掻き立てたのだろうが、何といっても上手くなっていくのは面白いし楽しい。自分の中では筋トレや勉強など肉体的苦痛や精神的耐久力をそれほど必要としないジャンルだし、ある意味楽しんでやれる数少ない対象だった。

そもそも、平日仕事終わりにも関わらず、全く専門外のアジに挑戦しようという時点で相当な興味と情熱を持っていると言える。つまり意欲だ。無意識下では、帰宅後焼酎を飲みながらテレビでも観てゆるりと過ごしたいだろうに、疲弊した身体と心に鞭打ってまでアジの三枚下ろしをやりたいと切望し、実際に動く。意欲があるからこそ実行に移せるのであって、それだけアジの三枚下ろしに対するモチベーションが高いという証明。

モチベーションが高いから、仕事帰りなのに疲労は全く無かった。むしろテンションは高まるばかりだ。なぜなら深層心理には、二度目が上手く行ったのだから三度目も成功するだろうという自信があるから。成功した直後の楽しい思い出を持ったままでの即時反復なのだから、これはもうもらったようなものだ。俺は間違いなく飛躍的に上達する。そう確信していた。

そして予想通り、今回のアジはかなりすんなりと三枚に下ろせたのである。

 
 
■包丁選びは重要
まず包丁は、俺専用の名刀『緑川』ではなく、過去どこぞで買ったらしい薄っぺらい包丁『ナマクラ』を使用した。『緑川』はこの上なく切れるまさしく名刀だが、分類的には刺身包丁なので魚を捌くのには向かない。そもそも骨をガリガリするような荒々しい作業に刺身包丁を使うのはもったいないというか、刺身包丁に失礼な気がするのだ。

最近包丁を研ぐようになってからというもの、包丁の気持ちが段々と分かってきた、ような気がする。その内、包丁と会話し始めるかもしれないが、今なら刀に語りかける侍の気持ちも分かる。包丁は、可愛い。手塩にかければかけるほど強くなり、愛情をもって接すれば接するだけ美しくなっていく。まさに目に入れても痛くない自分の娘のごとし。包丁は、目に入れたらさすがに痛いけど、それでもやはり、可愛い。

同時に研ぎ続ける内に、包丁の価値というものも少しずつ分かってきた。視覚的に、いや自らの肌と指先で感じる。その切れ味や高級感を。包丁が持つ実力、ポテンシャル、そのオーラというものを。すなわちクオリティの良し悪し。良い包丁はオーラからして違うのだ。

そういう見方で考えた時、俺の持つ刺身包丁『緑川』は別格の存在。蛍光灯を反射する絶妙な屈折度合いで形取られたフォルム、スッと細く伸びながらも力感を失わない刀身は、体幹がしっかりした痩せマッチョとでも言うべきバランスの良さだ。ホント見ていて惚れ惚れする。こんないい包丁、刺身以外に使いたくない。

というわけで刺身包丁『緑川』は使用不可なのだが、俺の包丁はこれ一本しかない。だから嫁のヤツを借りることになるのだが、一番アジに適していそうな小出刃は左利きの嫁用にカスタマイズされた専用出刃だし、そもそも錆と刃こぼれがまだまだ酷いので研ぎ師としての片鱗を見せ始めた俺が今現在一生懸命研磨しているところだ。いわばメンテナンス中。出番はもう少し後になるだろう。

というわけで、消去法的に俺が使えるのは平べったく薄っぺらい刀身の『ナマクラ』以外に存在しないということになる。この包丁、本当にペラッペラで、捌いてる最中パキッと折れちゃうんじゃないかと心配なほどだ。もっと分厚いヤツがいいのだが。

ただ、この『ナマクラ』は文化包丁というカテゴリに属しており、アジその他魚を捌くのにも十分使えるらしい。文化包丁ってのは、基本的に殆どのことが出来るオールラウンドな包丁とのこと。にわかに信じ難いが包丁界ではそれが常識とのこと。つまり使う者の腕次第ということだ。

であれば仕方ない。この文化包丁『ナマクラ』で三枚下ろしに挑む以外に道はないだろう。最適は出刃であるが、文化包丁はある意味次点。刺身包丁より遙かに向いているはずだから。それすら使いこなせないようではアジの先に待つであろうタイやイナダなど屈強な魚達に挑む資格すらないということだ。その資格を手に入れるためにも俺は文化包丁『ナマクラ』で往く。いつか「技術がすごいから包丁なんて関係ない」と言われる日まで。
 
 
■成功体験の血肉化に成功
というわけで、手順に沿ってアジを捌いていく。まず頭を落とし、腹に切れ目を入れて内蔵を取り出す。次にアジの腹が右になるよう、かつ尻尾を向こう側に向けた体勢でアジの腹を尻尾側から包丁を入れて骨に沿って割いていく。今度は裏返して背中側から切り込み、まずは一枚。アジを裏返し、同じように今度は背中側から切れ目を入れて、腹に切り込み、二枚目を下ろす。これで三枚下ろしの完成。あとは身肉の二枚の腹骨を斜めに削ぎ落とし、皮を剥いて、最後小骨を西新井大師で買った骨抜きピンで慎重かつ確実に抜き取る。これで三枚下ろしの完成だ。

手順は2週間ほど前に見た三枚下ろしのYoutube動画をなるべく忠実に模倣するやり方。他にも捌き方は多数あるだろうが、何も知らなかった時に見たあのYoutube動画の鮮やかさには深い感動を覚えた。なので俺の中では、あのYoutubeのやり方こそが至上だ。初めて見たものを親と思い込んで生涯懐くヒヨコのように、俺はあの動画に心突き動かされたから。こんな感動がPCをちょっと立ち上げただけで得られるとは、良い時代になったものだ。

一度下ろしてしまえば後は刺身にするだけなので慣れたもの。刺身作りだけは呼吸をするレベルでもう出来るようになっている。さらに俺専用刺身包丁『緑川』が満を持して登場するのだから、なおさら余裕である。スッスッとアジを斜めにスライスしていき、皿に盛り付けていった。

そして俺自作の刺身が完成。アジが三尾で、タイムセールの割引が付いていたから実際掛かったコストは300円ちょっと。一尾100円だ。それなのにこれだけ新鮮かつ美味い刺身が食えるという。生魚から作る刺身は、もしかすると高級感、お得感、味や満足感の観点から最強に近い料理なのかもしれない。それは、ただ魚を捌く技術さえあれば誰でも出来るのだ。そうと分かれば会得しないではいられない。

にしても、初体験時は三尾で30~40分掛かったのに、今は半分程度の時間で仕上げることが出来る。たった三回で、だ。おれは天才だな。料理界のワールドワイドで見れば初心者丸出しの小物だろうが、自分の中では大した成長率だと満足至極。素晴らしいとしか言いようがない。もう一度いう、おれは天才だ。
 
 
■ホットプレート焼きうどん
まあ、そのアジの刺身はあくまで前菜。俺の我がままで突如発生した板前イベントの産物に過ぎない。本当のメイン料理は焼きうどんである。

これもザクザクと切った野菜とうどんをホットプレートにぶち込んで加熱するだけの手軽なお仕事ではあるが、手軽さの割にはボリューム感も満足感も高いから鉄板焼きというのはやめられない。こういうのはなぜか場も盛り上がるし。コスパの面、そしてイベント性で言えば、鉄板焼きや鍋こそが最上位なのかもしれないな。

そんな焼きうどんは非常に美味く、何より温かかった。部屋の空気も暖かくなった。そう感じたのは決して気のせいじゃない。このホットプレート、焼きうどんに使ったソース、何もかもが…。
 

■無機質もまた戦友
ホットプレートは、もう買ってから7年くらいは経つ。近くのヤマダ電機で買った特売品だが、予想に反して重宝している逸品だ。炊飯器やファンヒーター、TV、ビデオ、PCなど、長年連れ添ってきた多くの生活家電やIT家電は消耗し、あるいは突如故障し、今はもうここに居ない。そんな中、以外にもホットプレートは頑強に今も生き続ける。このホットプレートは俺等にとって思わぬ伏兵であり最古参の一人であり、長年の戦友。

そして焼きうどんに使ったソース。去年の花見の際、上野公園の屋台のおっちゃんに「その使ってるソース売ってくださいよw」と冗談で言ったら本当に売ってくれたというネタ付きの代物。ホットプレートでソースを使う時は大体このソースだが、業務用だけにまだ3分の1以上残っている。今年の花見までは恐らく持つであろう、鉄板焼きに特化した頼もしき戦友であった。

思い出を残す機械や調味料達。だがそれもいずれは壊れ、消滅するだろう。

その別れの時を待つ合間、俺という人間はアジの三枚開きという新たな技を習得しようと奮起する。無くしたものを別の何かで補うかのように。欠けたピースを埋める新たな戦友を探し、手繰り寄せるかのように。


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20160124(日) 極寒に激突することなく家でスピルバーグの激突!をただ観てた

160124(日)-01【1130頃】アイスコーヒー《家-嫁》_01 160124(日)-02【1230頃】日本一家で簡単に焼けるちぎりパン DVD映画「激突!(DUEL)」《家-嫁》_01 160124(日)-03【2000頃】塩ラーメン鍋《家-嫁》_01 160124(日)-03【2000頃】塩ラーメン鍋《家-嫁》_03

【朝メシ】
アイスコーヒー(家-嫁)
 
【昼メシ】
日本一家で簡単に焼けるちぎりパン(家-嫁)
 
【夜メシ】
塩ラーメン鍋(家-嫁)
 
【イベント】
DVD「激突」、修羅の門、マーシャと熊(Youtube)、臨床犯罪学者火村英生の推理
  
  
【所感】
■雪降る西と晴天の東
この日は文字通り家に篭ったままだった。

TVを点けると、気象予報通り西日本が過去最凶クラスの大寒波に見舞われている西日本の惨状が映る。全地域が壊滅的打撃を受けているわけではないが、激しい積雪で身動きが取れなくなったり、水道管が凍り付いて水が出なかったり、海水温度があまりに冷却されて魚が仮死状態のまま波打ち際に打ち上げられたりと、その窮境ぶりはやはり只事ではないようだ。

特に九州地方の長崎や鹿児島などは珍しすぎる雪に手間取る姿が激写され、沖縄本島では観測史上初めての雪を観測、奄美大島では115年ぶりに雪が降ったと伝説級の扱いをされるなど、その特異性には枚挙に暇がない。東京都心部も雪に対して打たれ弱いと思っていたが、南の者達にとってはもはや次元が異なるようだ。そりゃ100年以上も見たことがない現象が突然降りかかったら神降臨の予兆だと騒ぎ出したとしても無理からぬこと。

そんな彼等の窮境を気の毒に思いながら窓のカーテンをシャッと開ける。気持ちいいほどの快晴である。その青々とした空からは、大寒波・大降雪のイメージなど全く湧いてこない。今も雪に喘いでいる西日本との対比がとても皮肉な好天ぶりを見せ付ける関東地方の日曜だった。
 
 
■オールタイムインドア
とは言え、気温は十分に低い。日が照れば暖かくなるのは必定だが、それだけではカバーできないほど大気が冷却しているといことだろう。見かけの空の鮮やかさと、現実の外の寒さ。やはり一歩も外に出ず殻のように家に閉じ篭るのが正解と言える。

というわけで今日は、ストックしている菓子や酒をダラダラと消費しながら、レンタルしたDVDやTV鑑賞、Youtube視聴、読書(漫画)などにズルズルと興じた。僕も嫁も、途中途中で昼寝を交えつつ、今が何時か、ファンヒーターの効いた部屋が暖かいのか寒いのか、空気は綺麗なのか一酸化炭素が蔓延しているのか、諸々の事象に境界線がない。今日ほど思考能力ゼロで弛緩していた日も珍しい。

ただ、引き篭もる分、見かけ上の情報収集量はそれなりの気がした。
 
 
■映画「激突!」
ツタヤでレンタルしたDVDの1つを本日視聴。若き頃のスピルバーグ監督の作品で、荒削りだが独創的かつ挑戦的な映画であると評判は高い、らしい。数十年経った今でも同作を愛してやまないファンが多いとか。無名だからこその自由度。気を遣わず好きなことをやれると言ったところか。
 
 
【激突!】90点(100点満点)
商談のためクルマで高速を走らせていた主人公の中年男が、些細なことに腹を立てた大型タンクローリーの運転手に延々と追い掛け回される話。

主人公は遠く離れた商談の場所に向かうため、マイカーの赤いアメ車を飛ばす。その途中、彼はノロノロ運転で走る前方のタンクローリーを追い越した。だがしばらくすると再びタンクローリーが自分のアメ車を追い越してくる。一体何なんだと舌打しつつ、彼はもう一度タンクローリーを追い越したのだが、その追越を挑発だと受け取ったのか、タンクローリーは突如猛スピードで後ろに迫りピッタリと追走して主人公を煽ってきた。

予想もしない展開に動揺する主人公。大型タンクローリーの煽りはエスカレートし、その巨体をリアバンパーにガツガツとぶつけ始め、主人公はさすがに生命の危機を感じるに至る。一旦クルマを降りて休憩所に避難しても、相手は待機してやはり自分の回りを離れない。電話で警察を呼ぼうとすれば、電話ボックスごと轢き殺そうとする。

あるいは先回りし、あるいは物陰から突如現れ、必死に撒こうとするがタンクローリー。相手はもはや自分を殺すまで諦めないつもりだと悟った。単なる嫌がらせではなく明確な殺意を感じ取った主人公の、悲壮感溢れる逃走劇と、その後の腹を括った立ち回りに田舎のハイウェイがアツくアツく燃え上がる。

という映画だが、基本ストーリーはアメ車の主人公がタンクローリーの運転手に追い掛け回されるのが軸だ。撮り方がよほど上手いのか、ハラハラするほどのスピード感溢れる高速バトルは手に汗握る。こいつぁ熱い。名作の名に恥じない一品だ。

とにかくタンクローリーの運転手の狂気ぶりが溜まらない。超大型のタンクローリーがハエのようなアメ車をいたぶり、時には生身の主人公を弾きにかかる。もう狂ってるぜコイツと緊張もひとしお。実際こんなのに出会ったら発狂するだろうと思えるところがスピルバーグの才能の所以か。

しかもタンクローリーの運転手は最後まで姿が見えなかった。腕と、足がちょこっと見えるくらい。その顔の見えない相手という演出も恐怖感を大いに煽るだろう。

こういう映画のことを「ロードレイジムービー」と呼ぶらしい。「ロードレイジ」とは、“ドライバーが車の運転中に割り込みや追い越しなどに腹を立てて、過激な報復行動を取ること”とウィキペディアには記されているので、まさしく記述通りと言えよう。すぐ近くに居る顔の見えない狂人は、未来におけるストーカー等の存在を遙か昔から示唆していたスピルバーグのずば抜けた見識を示すのに十分という評があるが、まさしくその通りだと思う。

あと、JOJO第三部でも殆どというか全く同じような展開があった。「これJOJOと全く同じじゃん」と最初思ったが、JOJOが「激突!」を真似ていたというのが真実。オマージュという言い方だが、洋画や洋楽大好きの荒木センセイのことを考えればなるほど至極納得であった。

そして最後、追い回されていた主人公が、このままでは殺されるだけ、だったら逆に殺してやると腹を括ってタンクローリーに挑むという展開に最終的には進む。この時の主人公の覚悟した顔などが非常に勇ましい。同作は「激突」というタイトルではあるが、英語タイトルは「DUEL(デュエル)」。日本語で「決闘」とか「競合」とかそういう意味だが、このラストの展開を考えればまさしく「DUEL」というタイトルは言い得て妙だろう。それを日本語そのままに「決闘」としたのでは何となく西部劇っぽいし、「激突」とした日本語訳者もまた素晴らしいセンスだ。

とにかくこの映画は面白かった。何度観ても飽きないような気もする、そんな映画はあまり無い。名作に相応しいタイトルであった。
 
 
■その他諸々
あとは漫画の修羅の門をまた最初から読み返したり、YOUTUBEで「マーシャと熊」というロシアの子供向け番組を観たり、ドラマを観たりで時間はあっという間に過ぎる。

そんな受動態一辺倒の一日において、夜メシで食った塩ラーメン鍋という初めてのメニューは唯一のアクセントであり新鮮味溢れる時間だったのかもしれない。

とにかくあっさりと終わった日曜日。文字通り動かず、ただ読んで、観て、食って、寝ていただけの休日。当初の予定がそうだったとは言え、もう少し知性を働かせた活動をしても良かったかもしれない。知恵と知恵が激突させるような、思考と行動をDUEL、決闘させるような一幕があれば。


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20160123(土) アナ雪ヤクルトもマドレーヌも温泉も、その都度何か発見があるもの

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【朝メシ】
アイスコーヒー、ビール、ヤクルトジョア限定版レモン味アナと雪の女王(家-嫁)
 
【昼メシ】
コンビニサンドイッチ、コロッケ レシート888円(家-嫁)
 
【夜メシ】
小料理屋「甲斐路」(西新井-嫁)
スナック菓子、日清焼きそばUFO、ひつじのショーン煎餅(家-嫁)
 
【イベント】
おさるのジョージ、ひつじのショーン、義妹夫婦送り物(マドレーヌ、靴下)、西新井温泉、ツタヤDVD
  
  
【所感】
■テレビとオヤツとYOUTUBE
この週末は歴史的大寒波とのことなので、なるべく家に篭って過ごしたい。実際ハイリスクなのは西日本だけで、こっちはあまり関係ないのだが、自分がダラダラするため尤もらしい理由が欲しいだけ。つまり、ハナから遠出する気などなし。

だがせっかく引き篭るのだから、多少は前向きな活動をしたいとも思う。筋トレくらいはこなしておくか。朝の時点でそう決意した。しかし、それが真剣味のない決意であることも同時に理解した。あっさり読めた。多分、俺はやらないだろう、と。生産的な活動は何もしないだろう、と。

決意して僅かコンマ数秒で結論が読めてしまうのだから、俺の未来予知も捨てたものじゃない。こういうのを即断即決っていうんだろうか。俺の瞬間判断は速きこと風の如しか。

と、下らないことを考えながら「おさるのジョージ」と「ひつじのショーン」を視聴していたわけだが、本当に下らないことだなと心の中で深く頷く。だって、最初からやらないと分かっているのに俺はやる、やってやると意気込むなどと嘘付きもいいところ。黙ってればまだいいのに、嘘を吐くつもりで嘘を吐いているという、自分の足を食うタコであり蛇のごとしだ。

それに単なる時間の無駄だろう。そもそも解決するはずのない議論なんだから。言ったことをやるかやらないか、その二者択一以外にないんだから。この議論はアルマトラン時代の魔道士達のように過去何億回と繰り返してきた。分かり合えないだろ、どう考えても。

そして予言通り、本日筋トレメニューを履行することはなかった。俺は午前中、NHK Eテレアニメで1時間TVにへばり付いた後、冷蔵庫に残っていたアサヒスーパードライの缶をプシュッとこじ開け、先ほどの興奮冷めやらずPCを起動してYoutubeを開く。そこでまた「ひつじのショーン」を見る。さあ、第二幕だ…!

どうだ? 毛布を着ぐるみのように被りながら酒を飲み、ひつじ動画を延々とリピートさせて、恵比寿様のように貫禄たっぷりに座椅子に腰掛ける。これが今の俺という人間だ。なかなかの解脱っぷりではないか。
 
 
■小さい出来事 マドレーヌ
それでも何もない、何も起きないというほど世の中は単純ではなく。人が居れば、そこに引き寄せられる人間も居る。いわゆる目に見えぬ人間関係の力場の発生によって平坦なはずの空間が歪む。

まず、荷物が来た。義妹から寒中見舞い的な贈り物少々。内容物はマドレーヌと靴下だ。マドレーヌと言えば、トゥフォーシックスオーワン、通称24601の囚人用紙を破り捨て官憲の手を逃れたジャンバルジャンのハンドルネーム・マドレーヌ市長が有名だが、今回届いたのはバルジャンではなく洋菓子のマドレーヌの方。貝殻のような形をしたフランス発祥の人気菓子とされる。

なぜ貝殻なのか、マドレーヌと呼ぶのかは諸説あり。

まず、有名菓子屋のパティシエが料理長とケンカして出て行ってしまった時、そこにいた召使のマドレーヌがたまたま厨房にあったホタテ貝を使って見事な洋菓子を作り上げてその場の混乱を収めたというシンデレラストーリー的な逸話が起源だとする説。

次に、ポール・ドゥ・グロンディという枢機卿が「ちと新しい菓子を作ってみせよ」という酔狂な思い付きをお抱え料理人のマドレーヌ・シナモンに命じたところ、こいつホントに超美味しい菓子作ちゃったよ、という天才列伝を拠り所とする説。

最後に、キリスト教の聖地に巡礼するため、マドレーヌという女性がキリスト教のシンボルであるヤコブのホタテ貝を型取った菓子を作ったという敬虔深き聖女の逸話を背景とする説。

以上3つがウィキペディアによる解説だ。どれを信じるかはその人次第。少なくともジャンバルジャンでは無さそうだった。
 
 
■小さい出来事 アナ雪生存の驚愕
続いて、ヤクルトレディのおばちゃんが嫁を訪ねてきた。まあレディってのも何だし、ヤクルトミセスと言った方がしっくり来るが。俺等としては必ずしもヤクルトが必要ではない。しかし昔からの付き合いで、いやしがらみなのか、とにかく何かを買ってしまう嫁。気弱な嫁は断ることが出来ない。

だが、ヤクルトが身体に良いのは事実。私達は健康を買っているのよ、そうよ、そうなのよ、と自分に言い聞かせる嫁である。俺自身はヤクルト嫌いじゃないので特に異論はない。代金支払うのは嫁だしな…。

今回、その買ったヤクルトジョアの中にレモン味というバリエーションがあった。俺等としては見るのも初めてだ。少なくとも定番にはなかった気がする。それもそのはず、ヤクルトミセスの説明によれば、このレモン味は期間限定とのことだった。

そのパッケージがアナ雪なのだから俺としては仰天だ。アナ雪は2014年冬だけの一時的ブームだと思っていた。それが歴史あるディズニーキャラ達の中に食い込み、あまつさえ押し退け、レギュラー入りしそうな勢い。少なくとも俺はディズニーへの洞察力はなさそうだ。ディズニーというブランドの底知れぬ影響力に戦慄する他ない。

それにしても、ヤクルトジョアのパッケージに描かれたアナとかエルサとかオラフとか、トナカイ使いのあいつ、えーと、そう、クリストフとか、なんとまあ憎らしい顔をしていることよ。何かこっちを見下してるような、何の後ろめたさもないとばかりの、少しも恥じることなんてないわと言わんばかりの堂々としたドヤ顔なのだ。それが気に触る。あなたの不幸を照らしてあげるわ、と上から見下ろされているよう。

DVDを観てた時は「スゲー、なんて綺麗なCG! エルサ美しすぎる! さすがディズニー格が違う!」と大絶賛したものの、いざ静止画で確認してみると、まさしくディズニー特有のドヤ顔。やはり心から好きになれるという境地には辿り着けなさそうだ。ディズニー=メリーポピンズの俺は個人的にそう感じたのだった。
 
 
■小さい出来事 トリプルエイト
ひつじのショーンの動画を観ている時、見知らぬおっさんが牧場にレジャーシートを広げてサンドイッチを食っていた。そのサンドイッチがいかにもイギリスっぽく、やけに美味そう。刷り込みされた俺等は小腹も空いたことだしと、コンビニでサンドイッチを調達することになったのだ。

入金済みのナナコを手渡し「これで買ってきていいよ」という嫁の甘言に買い物役を引き受けた俺は、さっそく近所のセブンイレブンに走る。この時、半ズボンにTシャツ、上にダウンジャケットを羽織っただけの装備だった。外に出た瞬間、寒ぅ~っ!! 積雪はともかく、大寒波の方はここ東日本にもその片鱗を容赦なく刻み込む。

セブンイレブンに到着した俺は、サンドイッチを適当に購入。オマケでいつものようにアメリカンドッグも買おうと思ったが完売だったため、クリームコロッケで妥協する。それらをレジの姉ちゃんが多少緩慢気味な動きで計上。寒いから手がかじかんでいるのだろうか。気持ちは分かるが姉ちゃんよ、こんな寒い冬だからこそ、もっと激しくスピーディにサービスサービスぅッ…♪ 

そして驚愕の事態はこの直後に起こった。

「888円に、なりまぁす!」

と姉ちゃんがそこまで元気だったかどうかは忘れたが、なんと買い物金額の合計が税込888円だったのだ。意図も計算も何もなく、ただ無秩序に買ったのに、だ。かつて数ヶ月前に1000円ジャストのレシートを貰って喜んだことがあるが、今回はその比じゃない。

ダブルでなくトリプル。しかも数字は8.。本来なら3や7などがめでたいとされるが、末広がりの8こそが比類なき最強数字という裏設定は未だに多くの数字ファンに支持されている。俺もその裏設定を信じる者だ。これはすごい。トリプルスリーなど目じゃないほどの大賞。寒空の中、突如訪れたアツい演出。喜び勇んで俺は帰宅し、嫁にその旨報告した。

「へえ~、すごいじゃんっ」

反応はそれだけだったが、俺的には大満足だからいいんだ、これで、いいんだ。末広がりの可能性を垣間見た土曜日の日中。俺は引き当てた幸せの数字を胸に刻み、その数字に出会えた奇跡を喜び、リチャードギアのような優しさで何度も何度も叫んでいた。

オ~ウッ、ハぁチぃ~ッ♪
 
 
■やっぱり西新井
というわけで、日中も意外と色々あったりするものだ。生産的な何かというのではなく、ありのまま目の前で起こった出来事というだけの話だが、そういう何気ない日常風景の積み重ねが思い出となり、そこで感じた気持ちの集積が、いずれ哲学へと昇格するのかもしれません、ということで。

午後からは西新井にて行動。引き篭もると言っておきながら結局は外に出るわけだが、この西新井徘徊はもはや生活の一部とも言える俺等の習性だからには、そう易々と曲げるわけにもいかないだろう。今回は温泉、ツタヤDVDレンタル、小料理屋「甲斐路」での打ち上げ、イオンで買い物、という西新井四天王を全て網羅した。寒くて動くのすら辛い日としては良く頑張った方だと思う。

無論、どれもエキサイティングな体験だった
 
 
■西新井温泉で画竜点睛を欠く
温泉は、極寒だからこそか客は多かった。そして極寒だからこそか岩盤浴の温度が少し低かった気もする。汗の出がイマイチだったのが俺の唯一の不満点ではある。
 
 
■ツタヤで久々にワクテカレンタル
ツタヤではスピルバーグのデビュー作であり傑作と噂高い「激突!」をレンタル。中年男が運転する車が、ハイウェイでたまたま追い抜いた大型トレーラーの運転手の怒りを買い、ひたすら追いかけられるというスリリングな内容のようだ。シンプルそうだが、何しろ初期の荒々しいスピルバーグの作品だというし、そこがまた期待できる。

あとは久々に怖~いヤツでも借りようかと追加で2枚。1枚目はタイトルは忘れたが、複数の男達に拉致られ陵辱された挙句穴に埋められた女性が奇跡的に息を吹き返し、自分を陵辱した男達にバイオレンスかつ残虐に復讐していくというエキサイティングな内容。黒き門よ開け、という感じだ。

あと1枚は、仲の良さそうな夫婦の内の妻が失踪したが、実はその裏にはとんでもない闇が隠されていたというダークネスな愛憎劇と謳われるゴーンガールという作品。黒き闇、来たれ、という感じだ。

どれもこれも一筋縄では行かなそうなところがたまらない。
 
 
■甲斐路
甲斐路での飲みは相変わらずセンスがあり、かつアットホームさに溢れる創作料理をツマミに、風呂上りに飲む生ビールが最高。キリンであるところがまた憎らしく通好みなわけだ。そんな美味しい甲斐路でも、刺身はオーダーしないようにしている。刺身は、俺自身で作らねばならないからだ。これだけは店に頼らず、自分でやり遂げるのだ。
 
 
■イオンの魚コーナー
だからこそ、帰りのイオンではアジを買いたかった。昨日も買い逃している。その悔しさをバネに今日の朝も包丁を研いだ。アジを裁きたい。三枚に下ろしたい。その気持ちは膨れこそすれ消えたりはしないから…。

しかしアジは、無かった。甲斐路に寄る前、ほんの40~50分前は5~6パックあったのに。その間に売り切れるのはさすがにおかしい。多分、裏に引っ込めたのだろう。だから俺は、店員の兄ちゃんを捕まえて聞いてみた。「アジ、もう無いんですか?」と。

以前、同じ問いかけでマグロかサーモンの柵の所在を聞いた時、威勢のいい店員兄ちゃんは「引っ込めちゃいましたけど今持ってきますよ!」と、笑顔で奥から引っ張り出してくれたものだ。今回もそれを期待したかった、のだが。

「あぁ~、そうですね、もう無いですっ」と、兄ちゃんの返答。だが即答ではなかった。なにやら少し考え込んだ後、「アジは無いです」と確かに言った。その顔。「裏にはあるけど出すのが面倒臭いッス」と白状してるのと同じだ。

本当に売切れてしまったのかもしれない。だけど時間的計算から、また場の空気から、俺はアジは奥にあると踏んだ。ただ引っ込めただけだと。だったら別に「もう引っ込めて締まったんで」とありのままを言ってくれればいい。別にクレーマーになどなりはしない。ただ自分が面倒だったのか、俺が面倒臭そうな客に見えたのか。いずれにしても、この対応が残念でならい。

いずれにせよ、今日もアジは調達できず。アジとの縁は断ち切れたまま。いつか取り戻せるだろうか。
 
 
■結局動いた一日
そんな土曜日。思い返せば何だかんだと色々あった。やはり平坦な日など一日たりとて存在しない。それをどう感じるか、感じ取れるか、その人次第。光を光と、闇を闇と感じ取る正直な感性。闇を光と、光を闇と、歪曲し曲解し、解釈を捻じ曲げるのも美学の1つ。無感であることが一番灰色なのだと今日、改めて痛感した。

そして一日が今日も終わる。土曜日という日に別れの時が来る。偶然手に取った、年始に行った大阪ひつじのショーンカフェにて購入した「ショーンせんべい」。その賞味期限も今日が最後だった。これも何かの偶然か、巡り会わせか。土曜日に別れを告げた夜、思い出のあるひつじのショーンせんべいを勢いよくカチ割った。

束の間、エキサイティングな何かが俺の胸を通り抜けた。


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20160122(金) 休日の西日本大寒波、アジを逃したこと、天地無用、それらはあり得ることか、それとも

160122(金)-01【2140頃】スナック菓子各種(ココスナカムラ)《家-嫁》_02 160122(金)-02【2150頃】寒ブリ刺身柵(ココスナカムラ半額)《家-嫁》_02 160122(金)-02【2150頃】寒ブリ刺身柵(ココスナカムラ半額)《家-嫁》_06 160122(金)-02【2150頃】寒ブリ刺身柵(ココスナカムラ半額)《家-嫁》_07 160122(金)-03【2250頃】すき焼き・締めうどん《家-嫁》_02 160122(金)-03【2250頃】すき焼き・締めうどん《家-嫁》_04 160122(金)-03【2250頃】すき焼き・締めうどん《家-嫁》_06 160122(金)-04【2330頃】ワッフル《家-嫁》_02

【朝メシ】
牛乳(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
寒ブリ刺身柵(ココスナカムラ半額)、すき焼き・締めうどん、スナック菓子、ワッフル(家-嫁)
 
【イベント】
仕事、刺身探索
  
  
【所感】
■週始めの雪は幻のように
今週の月曜日、東京は今冬初の雪に見舞われパニックを起こした。積雪のため早朝から各交通機関は運休、遅延、あるいは間引き運転を繰り返し、駅前には電車待ちの人々が難民のごとく押し寄せた。会社への出勤や学校への登校に大きな支障を与えられた者達は大いに困惑・疲弊。

だけどその多くは心から困っていたわけでなく、むしろ自分の置かれた苦境をネタにし外部へ発信。いかに現場が混乱しているか、その投稿合戦に勤しむ。降り積もる雪以上に現場写真やメッセージがネット上に乱舞した。

だがその狂乱も昼間になれば半分は終息し、夜には道に積もった雪の大半が溶解。何事もなかったかのように再び日常が動き出した。束の間舞い降りた雪という格好の話題で盛り上がった記憶をSNSの過去ログに残して…。

たかが天候の変化でも格好のニュースネタと捉えられるネットユーザーの感性は、マスメディアの記者魂に通じるものがあるのか。何気ない日常ネタでもドラマ仕立てにできるセンスは一億総脚本家時代ともいうべき習性か。それとも単に退屈なだけか。何でもいいから騒ぎたい、お祭り気分を味わいたいという野次馬根性に過ぎないのか。

いずれにしても、機を見るに敏な全国各地の名も無き猛者達は、呼吸をするかのような気軽さとフットワークの軽さで、日常の中似潜む非日常を穿り返そうとアンテナを張っている。そこに潜む社会的批判や損害、命の危険など重大な判断基準も曖昧なままに。

リアルとバーチャルとの境目があやふやになる、という俗説。それは何も事件の加害者だけに適用されるものではない。傍観者や分析者もまた少しずつ感覚を麻痺させている。今回の突発的積雪とて、下手をすれば命を落とす可能性をも内包する気候条件なのだから。

とはいえ、それを言ってしまうと何も出来ないし何も言えないのも確か。当事者、部外者問わず発言の自由は平等に許されているはずで、憲法下でも表現の自由は保障されている。その自由を行使するか否かは結局発言者の意思次第だ。その意思に応じて発言するかもしれないし、されないかもしれない。発言したい欲求と、逆に抑え込もうとする責務。両者が、いわゆる良心という要素によって天秤に掛けられる。

その結果、発言が為されれば誰にも止めることはできない。自身が持つ良心の範疇で発言してOKと判断したからだ。その決断は尊重せねばならないし、止めてもいけないはず。その発言に対して返ってくる他者からの反応も基本的には本人に返ってくるものだから、発言から生じた因果関係を受け入れるという責任を果たしているのなら尚更他人が口を挟む筋でもない。

発言するか否か、発動するか否か、その判断基準となる良心の範囲も個人個人で全く異なる。ゆえに統一的見解など存在せず、模範解答もない。よって、身の危険、命の危険が潜むニュースについても、発言者が立つ位置、見る角度で内容も180度様変わりする。それは時に無責任かつ身の程知らずな発言に取れることもあるし、他人事で当事者意識のない傍観者的軽口にも聴こえるし、のん気で楽観的過ぎる言としても映り、ゆえに場合によっては火に油を注ぐことになる。

だが結局はその在り方こそが最も自然に近い。良心の尺度が各々違うと先程言った。だから1つの事象について発言すまいと抑え込む者と発言しようと決断した者との真っ二つに分かれるのが当然。どちらかに統一されるはずもない。よって発言は止められない。当事者であればより自分の感情に忠実に。傍観者であればより他人事の姿勢で。交わりもしない数多くの発言が、時に光となり、時に棘となって受信者に降りかかる。

そこに当事者も傍観者もない。いや、自分自身が直接的に関わらない事象が基本的には大半だ。命に関わる対象となれば尚更殆ど自分に関係なくなる。それでも皆が自分の価値観に基き考え、自分の意思によって発言している。

なので、当事者の身になって考えろという指摘は一見正当かつ隙のない糾弾に聞こえるが、それほど意味をなさない。むしろ正論を傘に着た反対者への威圧であり、機先を制して相手の潜在意識に罪悪感を植え付けることによって発言を封じ込める脅迫とも取れる。その時点で本来の発言の自由は損なわれている。そこには正義も何もない。自らの経験と価値観を、思い込みによって相手に植え付けようとする行為でしかない。本来、どちらにも正義などありはしない。

だから、自由に発言させれば良いのだ。普遍的な正義が存在せずとも、時代のトレンドや社会的多数意思というものは常に存在するわけで、それが見えざるエネルギーとなって働く。それは個人レベルで、ましてや一組織で操作できるような生易しい質量ではなく、もはや逆らえない自然の法則とも言える。

その法則が各発言者を裁定する。そして生き残る者は生き残り、淘汰されるべき者は自然に淘汰されるだろう。身近で言うならSNSの炎上騒動がそれに当たるか。表現の自由を行使した上で自然的に裁かれるのだ。その自然の流れを作っているのは一個人の価値観であり、その集合体として自然の法則が形成されているのが現実だが、それでもそのうねりは意図して出来るものでもあるまい。よって自然の法則による裁きと達観するしかないのだ。正義の概念が曖昧な人間社会においては。

収拾が付かないが、誰もが周囲を考えに考えて、先の先を想定して発言しているわけでもなく、その必要もないということ。月曜の大雪にしても、道は凍り靴は濡れ電車も大幅遅延したけれど、自分自身が命の危険に晒されることはほぼ皆無に近いと無意識で感じているからこそ、傍観者的にSNSで発言していた。少なくとも僕自身はそうだった。僕の中の良心ではあまり不穏当な領域にまで切り込めないが、それでも他人事だとして見ていた。

人というものは、少なくとも命の危険の度合いについてはある程度本能的に察知する。だから発言している内はまだ余裕がある証拠。本当に危険な時は発言している余裕なんて無い。と本人は無意識で安全を感じている。

その安全意識に誤りがあった時、すなわち本来の危険察知能力が働かなかった時、あるいは働く前に危険に遭遇してしまった時、人は戦慄するのだろう。現実が曖昧になっていたことに。そして本能で気付くだろう。まさかと思うことが起きる。それが現実という世界だったはずであると。

これが冒頭に述べた、傍観者でもバーチャルとリアルの境界線が曖昧になり得る可能性だ。自分の言葉も他人の言葉も多岐に亘りすぎて、曖昧すぎて、軸が有るようで無いようで、本気のようでも冗談のようでもあり、そもそも事実なのかどうなのかも分からず、それらの情報があまりに一時的に刹那的に溢れては消えるものだから、感覚は殆ど麻痺してしまう。

まさにリアルとバーチャルの融合であり病巣。今週月曜、本当に雪が積もったのか、出社に偉く難儀したことも、一時的にツイッターで盛り上がったことも、本当にあったことなのか。1週間も経っていないのに記憶が曖昧。全てが幻のようだ。
 
 
■週末から大寒波
という今週頭にあった幻(?)の積雪。あの大雪は結局、自分の中でリスクが低い他人事だったがゆえに記憶に薄く、記録にのみ残る。だがそこから4日後の今日、またも雪関連のニュースが飛び込んだ。

曰く、今週末西日本を大寒波が襲う模様。それは災害レベルの大寒波であり、移動手段は絶たれ、ライフラインが止まりかねないレベル7の危険性であると。特に九州地方、中国地、愛媛県などは要注意。孤立無援で家に閉じ込められることを想定し、食料3日分を買い込んでおくべしとか「ホントかよ」と冗談なのかマジなのか分からないニュースを上げるサイトすら出ている。誰でも自由にUPできるネット世界だけに、その情報も玉石混交。有象無象が多すぎて真偽を見分けられなくなりそうだ。こういう時、やはりたとえばNHKとか新聞社直営のニュースサイトなどは信頼に足るソースとして重宝する。

いずれにしても、中国地方だと実家の鳥取がモロぶち当たる。そんなニュースを見たからには流石に他人事として放っておくこともできず、メールで鳥取実家に警戒するよう連絡を入れておいた。「外に出ず引き篭もっておけ」「一応食料買っておけ」「暖房を絶やすな」等々、まるで心配性の母親みたいな自分の素振りに苦笑する。

自分自身でなくとも、身内や近しい関係者、すなわち自分にとって大切な人間が危険を被るかもしれない時には、普段は冷血漢でもやはり人は無意識に動いてしまうものかもしれないな。陳腐な言い方になるが、自分より大切な存在というのは確かにある。

それに対し実家は、「情報ありがとう、早速食料を買い込むためにスーパーに出かけます」という素直なものもあれば、「そんなことより、これから寄り合いの飲み会があるんだよ、面倒くせえ」という寒波など意にも介さない回答など様々だ。

いやそうじゃなくて、とツッコみたい部分もいささか見られたが、鳥取とて数十年前は積雪1メートルなんてのもザラだった地域。誰よりも雪の脅威を知っている現地人の実家の面々に、薄っぺらい僕が口出しするほどでもないのかもしれない。ほんの僅かな気の迷いが明暗を分ける。現代よりも遙かに厳しい社会に生きてきた両親達は、僕などよりも遙かにその対処法を熟知しているはずだった。
 
 
■包丁を研ぐ日々
なので僕としては、連絡の義務は一応果たしたということで、もっと身近な心配をすることにする。それは今日の晩メシだ。献立は既にすき焼きという金曜夜に相応しい素敵メニューが予定されているので基本線は心配ナシだが、それとは別に僕はどうしても刺身が切りたい。

先週、アジの三枚下ろしに挑戦したが、予想の数倍増しで難儀した。頭の中のシミュレーションと現実とのギャップに直面した。だがそこから心折れることなく、もっと腕を磨きたいとますます闘志を燃え上がらせる自分がいる。こういうのをギャップ萌えと言うのだろうか。来る再戦の日に備え、包丁を研ぐ日々が続く。

しかし、流石にいい加減研ぎ飽きてくる。毎日毎日、茶色の研ぎ石を置いて、僕の刺身包丁・緑川をシュッシュッシュッ。だが自分のばかり研いでも飽きてしまうし、大した刃こぼれもないのにこれ以上磨いても刀身が磨り減るだけということで、気分を変えて嫁のメイン包丁である姫鶴一文字を丁寧に磨く。

姫鶴一文字は刃こぼれだらけだ、もう8年も使っているのだからしょうがないが、それだけ愛着があるということだし、これがダメになると実質台所機能が麻痺するからには、僕の緑川以上に真剣に研がねばならない。だが刃こぼれなど一朝一夕に直るものでもないし、地道に少しずつ行こう。シュッシュッシュッ。

あとはハデに錆付き刃こぼれだらけだが、その分厚さと力強さが捨て難い嫁の小出刃・苦無も復活させるべし。これはいいアジ用包丁になり得る。シュッシュッ。

もう1つ、出刃っぽいが随分と薄っぺらく硬度的に頼りないが、僕の緑川以外では最も刃こぼれが少ない隠れた嫁の平包丁・ナマクラも研いでやってもいいかもしれない。どこかの景品で貰ったヤツらしいから破壊力に欠けて当然だが、ちゃんと使えばそれなりに機能するはずだ。シュッシュッシュッ。

そして最後、これも完全に錆付いてしまっているが、他4つの包丁と比べてその巨大さは抜きん出ている包丁1つ。分厚く重い刀身を支える大仰な柄を手にした時のズッシリとした重量感が半端ない、ある意味最強強度の嫁の大出刃・ドラゴン殺し。これは何とか復活させてやりたいものだ。かつて一度、北海道で買った冷凍アラマキジャケをバッサバッサと三枚下ろしにしたのを見た事がある。あれは壮観だった。下ろしたのは嫁でなく、重装備包丁の扱いに定評のある義妹だったが、それでもドラゴン殺しをこのまま眠らせたくはない。時間を掛けて、何とか日の目を見させてやろう。シュッシュッシュッ…。

と、毎日のように包丁研ぎに精を出す僕だけど、そうじゃねーだろ。研ぐなんてのは切る前の準備期間なんだ。潜伏確変みたいなものなんだ。僕が本当にやりたいのは切ること。このまま研ぎ師として埋もれるつもりはない。
 
 
■何しろ切りたかった
だから僕は、駅に到着してすぐ地元一番店のスーパー「ココスナカムラ」へと駆け込んだ。魚を買うためだ。当然、先週敗北した生アジを所望。あれからシミュレーションは何度もした。あとはもう切るのみ。アジを一度三枚下ろしにしたい。とにかく切り刻みたい、アジを。捌きたい、切り裂きたい、アジを。絶望ォーに身をよじれィ!アジども! そんな衝動だった。

しかし、そんな僕の情念をあざ笑うかのように鮮魚コーナーにはアジがない。何度探しても、どこを探しても、無かった。「ふざけんな!」僕は思わず喚いた。ここ、魚屋だろ? 魚っていえばまずアジだろ? アジは魚の王様だろ? それが何で無い? おかしいよ。つか悔しいよ、マジで、アジがなくて。変だよ。

打ちのめされたように魚コーナーを呆然と見下ろす僕。アジがないからには帰るか。撤退するか。いや無理だ。焚き付いてしまった、燃え上がってしまった。どうしても切りたい。何でもいいから包丁でブッ刺したい。この情動は何か切らないことには収まらないようだった。オレにこんなにアツい想いがまだ残っていたなんて。こんな野性が残っていたなんて。

というわけで、アジ以外の魚を探索する。アジに代わる魚といえば、イワシか。だがそのイワシもなし。何でだよ。ここの魚コーナーはどうなってんだ。僕の来店時間が遅いからか。にしてももうちょっと何かあるだろ。こうなったらもう何でもいい。三枚下ろしの練習さえできれば。そのためにもここは思い切り妥協する。とりあえずアジっぽい魚で、ある程度の大きさと抵抗感があって、頭と皮と背骨と身肉という魚の体を為していれば何でもいい。とにかく切らせてくれ。

だけど、無かった。既に下ろされたり開かれたりブロックに去れたりと加工された魚はかなり置いてあるのだが、肝心の丸ごと魚が。サカナ完全体がない。イジメにも程がある。途中、LINEで嫁に「この魚はどうだ? これは?」と質問しながら捜したのだが、アジの代わりになる魚は遂に見つからなかった。神はオレを捨てたもうた。

諦めた僕は、だけど何か切らずにはおれないという消えない衝動を少しでも慰めるべく、せめて刺身の柵でも買って帰ろうと予定を大幅修正する。サーモン、マグロ、鯛、ホタテ、色とりどりの柵が置いてあるが、今の僕にとってはどれも同じに見えた。

熟考と嫁とのLINE相談の結果、半額シールの貼ってあった寒ブリに決定。どれでも同じ、かつ嫁はブリが嫌いなのだが、寒ブリは自分の家で切ったことがない柵の1つだったのが決め手だ。かつ相当デカいので、半額となるとかなりお得でもあるし。それはそれで結構なのだが、やはり物足りなさは残る。それよりも、このスーパーの魚コーナーに僕は多分30~40分間は滞在していた。何度も何度も同じ場所をウロウロしていたリーマン男のことを、他の客はどう見ていたのか。

だが、何はともあれ獲物はゲットした。家に帰り、既にすき焼きの準備を終えている嫁を背に、買ったばかりの寒ブリをサクッと刺身にしていく。他の魚に比べて脂が多めとは言え、さすが僕の名刀・緑川の切れ味の良さよ。いや僕の腕が良すぎるのか? とにかく文字通りさっさと作り終えてしまう。

味も、さすが元が高いだけに脂が乗って良い寒ブリ。すき焼き前のツマミとしては出来すぎだ。これがメインでも納得するくらい。それでも、一抹の物足りなさ、不完全燃焼感が残るのは、やはり想い焦がれたアジという大本命を逃してしまった喪失感と、最初から出来上がっている柵をあつらえただけという肩透かしゆえだろうか。

いわば魔王を倒すために必殺剣を習得したのに、それをぶつける前に別の勇者が魔王を倒してしまったような感覚か。本命彼氏と二股彼氏とを天秤に掛けている内に本命彼氏が愛想を尽かして去ってしまったような後悔か。もっと早く動いていれば、もしかすると…。そんな可能性が否定できないからこそ口惜しい。とにかくアジは手に入らなかった。これが全ての事実だ。
 
 
■すき焼き
その腹いせにというわけではないが、すき焼きを貪り食った。このしょっぱさと甘さが絶妙に溶け込んだ割り下。その味わいが肉のシワ一本一本に、豆腐のキメ細やかなな隙間の中に、ちくわぶを溶かすように、シラタキをコーティングするかのように、全ての具材に溶け合い混じり合う。流石に安定と信頼の料理。すき焼きは未だかつて一度だって不味いと思ったことがない。割り下を自作したという嫁の創作度合いも健在のようだった。すき焼きは、本当にやめられない止まらない。
 
 
■思い立ったが吉日
そんな冷気漂う金曜の夜。明日からは西日本を中心に大寒波が押し寄せ荒ぶる休日の予感。こちら関東はそうでもなく、明日明後日の東西の温度差、そして感じ方の落差はきっと激しい。

同じように、三枚下ろしにするためアジを買いたいと意気込んだ自分の興奮と、それが叶わなかった現実との落差もまた激しくて、僕はもっと早く動いていればと何度も悔やむ。

そこで「思い立ったが吉日」という諺を思い出す。

月曜の東京における積雪大混乱も、SNSで呟いていた時は確かに盛り上がっていたのであり、その時「発信したい」という衝動に従ったがゆえに今でもログに残り、後で振り返ることが出来る。「アップするの面倒臭ぇ」とその時退いていたら、多分後日振り返った時にその当時の状況を把握する客観的資料が皆無のまま月曜日の騒乱が無かったことにされていただろう。ただの140文字の呟きでも、確かに役に立つことがあるのだ。

明日からの西日本大寒波の件も、実家に連絡しようとした矢先にすぐメールしたのが良かった。「後でいいや」とメールを補修していたら、そのまま金曜夜の怠惰に雪崩れ込み、結局実家に何も連絡することなく冷たい息子のまま僕は休みを過ごしていただろう。

アジにしても、今日必ず三枚下ろすんだという気持ちが本物ならば、惰性で残業などせずさっさと定時で上がり、地元駅のスーパーでも何でもとにかく素早く駆け込んでいれば、アジは多分見つかった。それを心の中で「まあ、魚コーナーに残っていたら買うとするかな」などと、どっちつかずの戦略を練ったから、こんな夜遅くまで後悔の念が後を引く。
 
 
■あり得ないことはあまり起きない
考えてみれば、毎日のように「これをやろう」「あれをやればきっといい感じ!」と頭の中では熱くなり、望むルートへの道筋も見えるのだが、その思い通りに身体を動かさず「明日から」と先延ばしにする事項が殆ど。全体の99%は絵に描いた餅のまま、再評価されることもなく、そもそも再評価しようにも思い出すこともなく記憶の藻屑と消えている。

言うは易しで行うは難し。その言葉が全てだが、ゆえに思い立ったが吉日でもあり、しかしそれを実行できる人間も決して多くはなく、だから思い立ってすぐに行う者にとって世の中は意外と易くて広い自由なキャンバスであり、ピコンと閃きはするが脳内トレーニングで終わってしまう者にとって世の中はあり得ないほど難くて狭い修羅の門。両者の開きは時が経てば経つほどに天と地ほどにかけ離れ、決して覆せない天地無用となる。

真の天地無用であるからには、ひっくり返ることはない。あり得ないことが起こる。それはやっている者の身にのみ発現する現象。だからこそ、あり得ない現象を起こすために、日々マメにやっていく必要があるのだ。「思い立ったが吉日」をその身で毎日、確実に積み上げていくのだ。それ以外にないと分かっているのに、まったく…。
 
 
■これこそ本当にあり得ないこと
天地無用と言えば、何と「天地無用!魎皇鬼」の第四期が制作されるとか、まるでエイプリルフール並の冗談が事実として上がっていた。

(天地無用公式)
http://tenchimuyo4th.com/

そんなバカなと叫びたくなるのも当然だ。第三期ですらもう無いと思っていたのに、さらにその先の四期とか、それこそあり得ない話だからだ。一体これ以上何すんの? というか僕、三期すら結末知らないってのに。もう天地への情熱は15年前くらいに天岩戸に封印済みで、アマノウズメですらそれを引き出すことは適いますまいと、神話はそこで終止符を打たれているというのに。

それとも三命の頂神すら超越し無敵の超次元生命体となられた天地様にはもはや不可能は無いと申されるか。6枚の光鷹翼を展開する樹雷皇家直系の超越神殿には八百万の神々ですら平伏すとおっしゃるか。それもいいだろう。

しかし、あれだけ大々的にファン達を虜にしておきながら、真剣に支えてくれたそのファン達を二期から十年以上も梨のつぶてで放置して、忘れた頃にどころか完全に存在すら頭の中から消えていた時にいきなり第三期を世に放ち、驚きよりもむしろ困惑と失笑でもって迎えられた「天地無用!魎皇鬼」の正統シリーズその第4弾を、この期に及んでまたも出すとは、もはや完全に想定を超えていた。

大抵の場合、思い立ったが吉日の精神で進まねばまず何も起きはしない。しかし稀に、あり得ないことが起きる、こともある。

20160121(木) 食ったチョコの分、脂肪は減らないという死亡遊戯のループ

160121(木)-01【2200頃】ブリ大根、半額寿司《家-嫁》_02 160121(木)-01【2200頃】ブリ大根、半額寿司《家-嫁》_04 160121(木)-01【2200頃】ブリ大根、半額寿司《家-嫁》_05 160121(木)-02【2250頃】マカデミアナッツ、チロルチョコセット、板チョコ3枚《家-嫁》_01 160121(木)-02【2250頃】マカデミアナッツ、チロルチョコセット、板チョコ3枚《家-嫁》_02 160121(木)-02【2250頃】マカデミアナッツ、チロルチョコセット、板チョコ3枚《家-嫁》_03

【朝メシ】
牛乳(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
ブリ大根、半額寿司(家-嫁)
 
【イベント】
仕事
  
  
【所感】
メシは昨日、ブリ大根を嫁が予め作っていたので準備の手間は掛からなかった。さらに帰り際、駅前の寿司屋で半額セールをやっていたので、それに釣られつい寿司を購入してしまう。寿司は自分で握ったものが一番、買う必要はないぜ、などとほざいていた割には、食ってみると店で買った寿司もやっぱ美味いわけだ。

まあ、リーズナブルに済むのならたまには良しということで。

それよりも、一度リセットして考え直さねばならないことがある。トレーニング、つまり筋トレのこと。先週、超過酷なトレーニングを月、火、水と続けたものの、結局週の後半は怠惰に負けて一時停滞。文字通り三日坊主となった。

これではいけないと考え直し、今週月曜に再び筋トレを開始する。しかしそれも結局は1日限りの奮起で、続く火、水、木と、今日までまた怠惰に刻を刻む始末。これじゃあ昨年と何ら変わりないじゃないか。もう2016年が始まって20日も経過したのに、未だ体重が100gも減らないってどういうことだ。

今年は筋トレできなかったら死ぬと宣言しているのに、このままじゃあ本当に死ななけりゃならない。いやだ死にたくない、逝きたくない。うわー死にたくない!逝きたくないーっ。

―ドクンッ

てなことになったらほんとピエロなので、今回ばかりは覚悟して臨まねば、本当に明日はない。今一度、2016年の意味と意義を考えてみる。

と言ってる側から、マカデミアナッツを取り出しポリポリ。続いてチロルチョコ、あまつさえ先週あたり買ってきた明治板チョコを、三枚も食ってしまった、一人で、延々と。やる気あんのか? ツッコミながらもチョコをかじる咀嚼スピードは変わらない。

寒いからいけないんだ、動くために熱エネルギーが、カロリーが必要なんだ。

そこで思い至る。僕の格好は短パンそして半袖Tシャツ。まるで夏がごとき服装だった。だから寒いのだ。ならば着よう、服を。そうすれば冬でも動ける。トレーニングもきっと続けられる。今度こそ新世界が、始まる。

最初からそれに気付くべきだった。


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20160120(水) 本物と偽物

160120(水)-01【2200頃】カレーライス、水菜サラダ《家-嫁》_02 160120(水)-01【2200頃】カレーライス、水菜サラダ《家-嫁》_03

【朝メシ】
牛乳(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
カレーライス、水菜サラダ(家-嫁)
 
【イベント】
仕事
  
  
【所感】
■マギの日、サンデーの日
水曜日の楽しみ、週刊少年サンデーの「マギ」は、アリババが変わらぬ情熱と優しさをもって、自信をなくした紅玉に励ましつつ、新たに得た異能の力を発揮して幹部達の信頼を得た上で、煌国民および紅玉の独立を手助けしていくという、まだまだ主人公のターンが続きそうな展開。紅玉とのフラグはますます濃厚になり、結婚まで待ったなし。

と思いきや、超然としたアリババはモルジアナ一筋という前提のもっと先、世界の深淵を見ているので期待するほどの恋愛要素はなかなか出現しないだろう。それよりも、夏黄文が何気に男前になっていくのが意外と見逃せない。

いずれにせよ、やはりマギは面白い。これを見ないと死んでしまうだろう。最近では密かに「絶チル」も楽しみにしたりするが。年始の満喫「絶チル」一気読みが、封印していた俺の美少女キャラ萌えを呼び起こしてしまった。

パンドラの箱は開けられ、バベルの塔が崩れ落ちるがごとく今まで守ってきた節度や常識は脆くもカタストロフィする。生涯アンタッチャブルであるべきだった俺の悪魔の感性がみるみると首をもたげ、ライトスピードで我が身を蝕む。もうエンプレスが止まらない。僕は、紫穂ちゃん…っ! 

薫も捨て難い。葵はどうでもいい。三位一体。汝、喜びて舞い上がれ。
 
 
■磐石なカレー
夜メシはカレーライスだ。昨日の夜、嫁が既に仕込みを終えていた。一日置いた分、味は濃厚、とろみも抜群。お代わりが止まらない。ハッシュドビーフと甲乙付け難いと毎度いっているが、さすがに今日だけはやはり…。僕は、カレーライスちゃんッ…!
 
 
■ココイチ疑惑
ココイチの異物混入メンチカツを、廃棄業者が横流ししていたという一連の報道。ココイチの名声に何ら傷付くことはないが、「ダイコー」および「みのりフーズ」はさすがに終わるだろう。横流しという違法行為も当然ながら、ココイチをこよなく愛するユーザーとしては、よくもボク等のココイチをっ、ココイチをよくもっ、といったところだろう。消費者の恨みを買うこと請け合い。みのりフーズ、ここにライトスピードでカタストロフィする。

いずれにしても有りえんな。中国を見下してる場合じゃない。これはもう資本主義の暗部だ。金が欲しくて仕方ないからもう善も悪も良心もないんだろうが。とにかく金、金、金。日本も相当狂っている。多分これが今の日本の姿であり、法治主義国家、自由競争、市場経済を突き詰めた結果。もう戻れないだろう。ライトニングストレート級に今後ますますカオスになる。だからと言って昭和が古き良き時代とも言い切れないが。
 
 
■本物
そんな俺は、久々に発売された「修羅の刻」に読み耽り、昭和の匂い漂うケンちゃん、ウッちゃん、そしてシズちゃんの昭和ロマンに年甲斐もなくワクワクしていた。

そんな世知辛い世の中においても、マギも絶チルも、修羅も、カレーライスも、ココイチも、人々から確かな信頼と正当な力量による評価を受ける。紛うことなき本物ということだ。みのりフーズやダイコーが偽物だったという、ただそれだけのことだ。全てが片方に振り切れるなんてことはない。世の中そんなもの。

いいなあ、本物だ…。

20160119(火) 三者三様、つけ麵屋「やすべえ」の記憶と想い

160119(火)-01【2000頃】秋葉原電気街口《秋葉原-一人》_02 160119(火)-01【2000頃】秋葉原電気街口《秋葉原-一人》_03 160119(火)-01【2000頃】秋葉原電気街口《秋葉原-一人》_04 160119(火)-02【2020~2100】つけ麺屋「やすべえ」 辛味みそつけ麵大盛・辛味MAXスペシャル・やすべえ特製トッピング《秋葉原-友人2名》_01 160119(火)-02【2020~2100】つけ麺屋「やすべえ」 辛味みそつけ麵大盛・辛味MAXスペシャル・やすべえ特製トッピング《秋葉原-友人2名》_03 160119(火)-03【2200頃】もちもちくり~むどらやき(株式会社ヴィアン)、コンビニアメリカンドッグ、とちおとめ氷結他《家-嫁》_01 160119(火)-03【2200頃】もちもちくり~むどらやき(株式会社ヴィアン)、コンビニアメリカンドッグ、とちおとめ氷結他《家-嫁》_02 160119(火)-03【2200頃】もちもちくり~むどらやき(株式会社ヴィアン)、コンビニアメリカンドッグ、とちおとめ氷結他《家-嫁》_03

【朝メシ】
牛乳(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
つけ麵屋「やすべえ」 辛味みそつけ麵大盛・辛味MAXスペシャル・やすべえ特製トッピング(秋葉原-友人2名)
もちもちくり~むどらやき(株式会社ヴィアン)、コンビニアメリカンドッグ、とちおとめ氷結他(家-嫁)
 
【イベント】
仕事、秋葉原
  
  
【所感】
■久々の友人
茨城の友人スーパーフェニックスが突如アキバに来るとのこと。「一緒にメシを食おうッ」と通常の数倍増しで息巻いた彼にいつもと違うテンションを感じた僕は、勢いに乗せられる形で「お、おう」とアキバに急行することに。しかも「やすべえ(つけ麵屋)に行こうぜ」と店舗指定までしてきた。これは何かあると踏んだ。

スーパーフェニックスが言うには、彼の友人であるマルス(仮称)も同行する模様。スーパーフェニックスの友人かつ職場の同僚でもあるマルスは、僕にとっても友人だ。そのマルスが「久々に『やすべえ』に行きたい」とスーパーフェニックスにせがんだため、じゃあせっかくだから佐波も付き合わせるかという流れになったようだ。

マルスと会うのは半年ぶりくらいになるか。懐かしいと感じるほど時は経っていないが、今年年賀状をもらっておきながら返事を出していない僕としては、その謝罪も含め会っておきたい相手であった。
 
 
■つけ麵屋「やすべえ」の深謀遠慮
「やすべえ」は、今回向かう秋葉原店をはじめ東京圏を中心に現在10店舗を構えるつけ麵屋。麵もスープも一味違うと評判で支持者も多い。来店した客が一見で終わらずリピーターになりやす店としても有名だ。実力の程が窺える。

その第一号店は高田馬場である。平成14年創業、つまり2002年だというから、2016年の現在から単純にみれば14年前にオープンしたことになるか。その年数をもって老舗と呼べるのか、ラーメン業界に造詣がない自分には分かりかねるが、展開店舗が首都圏の激戦区ばかりだという点、それでいて閉店せず多くの競合店と張り合っているという事実だけを見ても、決して時流に任せただけのポッと出ではないことが分かる。堅実に策を練り、着実に拡大している。
 
 
■やすべえ出店計画は神の采配
その堅実性は、店舗の展開先からも窺える。「やすべえ」の現時点における店舗所在地は、第一号店の高田馬場から始まって、渋谷、新宿、池袋、水道橋、赤坂、下北沢、練馬、秋葉原、そしてなぜか大阪の道頓堀となっている。この戦略は、考えてみれば相当綿密、かつしたたかだ。

(やすべえ公式サイト)
http://www.yasubee.com/index.html
 
 
■高田馬場発祥の意味
まず1号店の高田馬場は、ラーメン屋のメッカであり学生の多い街として有名。学生は思考が柔軟で何でも試したがる性格。そして柔軟ゆえに寛容だ。独断や偏見でいきなり拒絶したりはしない。つまり懐深い客が多いエリアなのだ。

初めて店を出す「やすべえ」としては、最初は柔軟で好奇心旺盛の学生達を相手にした方が好都合だと考える。辛口かつ世間ズレした人間ばかりの繁華街に比べハードルは低めという判断からだ。しかもラーメン屋に目がない連中がウヨウヨいる場所。それが高田馬場だった。

あとは物珍しさで来店した学生達に、実力を見せ付ければいいだけの話。美味ければあっさり認めてくれるのが若者の柔軟たる所以だ。そして「やすべえ」にはその実力があった。突然の良店の出現に沸いた学生達は、「やすべえ」の名前を頭に深く刻み込む。あとは放っておいても彼等が口コミで噂を広めてくれる。こうしてラーメン激戦区・高田馬場において「やすべえ」の存在感は磐石となった。
 
 
■渋谷、新宿、池袋で飛躍
その「『高田馬場』の『若者達』が絶賛!」というブランドを引っさげて、次は渋谷、新宿、池袋に攻め入る。東京三大繁華街と言われるこれら3つの都市は、東京を語る上で決して外せない、一種の枕詞のような存在だ。圧倒的な来店客数が見込め、かつ絶大なネームバリューも得られる。競合店がひしめく群雄割拠エリアだけにリスクも高いが、野望を持つ者としては決して避けては通れない戦略上の要所。

だからこそ攻め入る価値があるし、この三大繁華街で成功したのならもう怖いものはないと言える。「やすべえ」の狙いはまさにそこにあり、見事その難所を乗り越えたわけだ。さらにこの3都市を制したという事実は、知名度の磐石化だけに留まらない。どの客層にも対応できる確かな味付けという印象を世に示してみせたのである。

すなわち、高田馬場と同じく若者の街で流行にも敏感な渋谷、若者はもちろん雰囲気漂う大人達も行き交う街・新宿、老若男女も国籍も問わない雑多でカオスな人種の坩堝・池袋。この3つの都市で人類ほぼ全ての客層を網羅できる。それは、どこに店舗を出店しても失敗しないという証明でもあった。
 
 
■水道橋店で細部を補足
あとは少しずつ店舗網を広げ、「やすべえ」の名を不動のものにするだけ。東京ドームエリアがある水道橋に出店し、若者や子供やその親など様々な客層を取り込む、反面、教会もある静粛さや学術的にも発達した都市でもあるため、そこの知的文化層にもアピールする。
 
 
■赤坂店でオトナの味を
それでも全体的には若者向けな傾向も否めないと知れば、今度は大人でリッチな雰囲気漂う赤坂に店を出す。ハイソだが排他的な港区民達をも唸らせる「やすべえ」のつけ麵は、粗野で荒々しいだけでなく上品な一面も持つのだと人民はハッとするだろう。
 
 
■下北沢にハンター出店
反面、「やすべえ」は元来の冒険心も失わない。極めて独自的でとんがった街として有名な下北沢にも出店するのだ。自分達は一味違うと自負する下北民達の自尊心に巧みに食い込み、そこらでたむろするヤンキー層にも門戸を開く。下北ヤンキー狩り伝説の始まりである。
 
 
■練馬民ですら屈する
そこから転じて今度は練馬区という、おっとりした区画への進出。おっとりした住民および地域性、地味な場所。そんなイメージが付きまとう練馬区は保守性の塊であり、だからこそある意味とんでもない難所だ。そこに敢えて手を付け、支持を得た「やすべえ」が恐れる対象などもはや僅かであった。
 
 
■アキバのオタを弄ぶ
その「やすべえ」が恐れる僅かな対象の一つがオタクという人種だ。棲息するのはアニオタ、漫画オタ、メカオタ、ゲーオタ、フィギュアオタと、そのバリエーションは豊富、かつ深淵。「エリアの壁」を制した「やすべえ」が最後に挑む「人種の壁」への挑戦である。

家族連れやカップルや女性客が増え、今や他の繁華街と遜色ないメガシティとなった秋葉原だが、オタの巣窟という本質はまだまだ抜けない。いや永久にオタの聖地のままだろう。そんな不可解かつ計算の通じない相手、秋葉原に潜む一騎当千のオタク達。彼等にマンセーされれば東京攻略は成ったも同然だからこそ、「やすべえ」はこのアンタッチャブルシティ秋葉原へと歩を進めた。

そして結果は知っての通り「やすべえ」の大勝利で着地した。アキバ族という人種が選び抜かれた真性のオタの集合体であることに疑いはないが、同時にオタゆえにその情報収集能力や柔軟性も比類ない。彼等も面白いネタを欲しているのである。さらにオタ達はITツールを自在に駆使する、ある意味で先端を行く兵士。東京の主要都市で話題の「やすべえ」が出店するとなれば、皆がこぞってネタ作りに駆け付けるだろう。それがオタの習性だ。

結局、「やすべえ」にとっては大した障害でもなかった。それどころか連日行列が出来るほどの盛況ぶりだ。考えてみれば秋葉原も、他に負けず劣らず店舗が頻繁に入れ替わる紛うことなき激戦区。そこでこれだけ支持されているのだから、「やすべえ」の実力は紛れもない本物だったということである。いいなあ、本物だ…。
 
 
■そして都外へ
こうして東京で確固たる地位を築いた「やすべえ」は、戦場を都外へ移し始める。しかもその第一歩が神奈川や千葉、埼玉といった近隣の関東圏でなく、大阪の道頓堀という意外性。まさかの西日本ワープである。

だが僕からすれば、大阪進出はかなり筋が通った戦略にも見える。大阪は、東京と東西を二分する西日本のトップ1。人口的にも商圏的にもむしろ王道だ。逆に西日本地場の店が東日本にするとなれば、同じようにまず東京が選ばれるだろう。多くの企業でも、東京本社あるいは支社がまず真っ先に設置される。西日本でいえば、そのまま大阪本社あるいは支社が優先されるのと同じ理念だ。よって大阪をまず攻めることが、西日本で無名の「やすべえ」の名を知らしめる最短距離と言えた。

しかも大阪の中でも全国的に有名な「食いだおれの街」こと道頓堀。梅田や新地などキタエリアを選ばず、ミナミに進出したのは全くもって筋が通っている。店側そして客側も、食に対する気合や意欲が半端ない。それが道頓堀であり大阪ミナミだ。ここで名を上げれば将来的な全国制覇に向けた確実な足がかりになる。

大阪をある程度平らげたら、次は愛知の名古屋か栄、それから福岡の博多あたりが候補地として有力か。「やすべえ」は正真正銘の東京最都心部発祥の店。恐らく他のラーメン屋と考え方自体違うはずで、必然戦う土俵も違ってくる。彼等はあくまで大都市に拘る気がする。良い悪いという物差しではなく、そういう矜持でやっているような気がする。

しかし同じ大都市でも、神奈川、千葉、埼玉などには目もくれないのが「やすべえ」流。仮に出店するとしても後回しだ。

神奈川の、たとえば横浜などは、家系ラーメンが看板的に牛耳っている。暑苦しい海の男という感じだ。ネオンとコンクリートジャングルを信条とする「やすべえ」とは水と油であり、よって「やすべえ」は心理的にも横浜があまり好きになれない。

千葉にも船橋や幕張、浦安など大きな都市はあるし、埼玉も大宮やさいたまなど商圏として通用するエリアは星の如し。だがそれでも「やすべえ」は東京に拘る。そこまで看板を安売りする気はないと。イオンモールの中に出すなんてとんでもない迎合だと。確固たるプライド、曲げないポリシー。

それに、千葉や埼玉であれば電車一本で東京の「やすべえ」各店に出向けるだろう。千葉や船橋市民はJR総武線あたりを使って水道橋店なり秋葉原店まで来ればいい。和光市民や川越住民なら、東武東上線なり副都心線なりで池袋店か渋谷店にどうぞ。ついでに東京観光でもしていきなよ。と。

だから東京以外の関東圏大都市には「やすべえ」が無いし、出さないのだ。東京の店で殆どカバーできるからだ。「やすべえ」が押さえる主要都市は、そのまま県外から気軽に来れるターミナル都市でもあった。「やすべえ」の伝説は始まったばかり…。
 
 
■それぞれの「やすべえ」との出会い
そんな「やすべえ」で僕とスーパーフェニックス、マルスの3名は食事する。ただつけ麵を食うだけだが、それに対する見方や想いはそれぞれで大分異なる。この点、生きてきた環境が大きく左右する。三者三様、全くもって面白いものだ。

まず、スーパーフェニックスとマルスは学生時代、高田馬場が主な生活エリアだった。その名残で大学卒業後も高田馬場で頻繁に活動していた彼等は、一号店として2002年に創業した「やすべえ」に出会う。彼等は「やすべえ」を大いに気に入る。馬場で活動している間、二人はちょくちょく「やすべえ」に通っていたようだ。

そこから遅れること5~6年、多分2009頃か、僕は初めて「やすべえ」の存在を知る。まだスーパーフェニックスが結婚していない時期、東京の色んな都市で遊んでいた僕等。たまたま馬場で遊んでいた時、「うまいつけ麵屋があるんだよ」とスーパーフェニックスに連れて行かれたのがまさしく「やすべえ」だ。僕は一瞬で気に入った。「すげえ! 美味ぇ!」と年甲斐もなく吠えた。

さらに僕は当時、つけ麵があまり好きではなかった。大きな抵抗感を持っていた。だが高田馬場の「やすべえ」訪問を機に、つけ麵に対する見方を180度変えたのだ。「やすべえ」が無ければ、僕は今でもつけ麵に偏屈な嫌悪を抱いたままだったろう。だからこそ、たとえば同じつけ麵嫌いの嫁にも自信を持って勧めることができたのだが。

だが時が経ち、3人とも生活エリアや主戦場を別の場所に移していく。自然、高田馬場とは疎遠になっていた。ただ、認知した時期は大きく異なれど、僕、スーパーフェニックス、マルスの3人とも「やすべえ」の味を愛していることに変わりはない。

さらに時は経過し、秋葉原JR電気街口の一角に「やすべえ」が遂に入る。2010年のこと、つまり今から約5年前の時期だった。
 
 
■「やすべえ」との距離感
この秋葉原店がオープンしてからしばらくして、まずスーパーフェニックスが行った。そこから大分経った後、僕も久々の「やすべえ」を体験する。

だがスーパーフェニックスはそれ以降、秋葉原店に入ることは殆どない。マルスは秋葉原店自体に行ったことがないようだ。東京に出向くことも多いスーパーフェニックスだが、基本的な生活圏は茨城に置いている。秋葉原にはせいぜい月2~3回のペースだ。マルスは同じく茨城の職場で行動し、秋葉原での活動は既に激減していた。彼等にとって、やすべえ秋葉原店は身近な存在になりえなかったのだろう。

対して僕は、仕事上秋葉原に出向く機会も多く、会社からの帰り道という地理的条件も手伝って、未だに最低週1回は秋葉原に足を踏み入れる。当然、「やすべえ」に目が向く機会が増える。頻度は決して高くないものの、2ヶ月に1度くらいのぺーすで「やすべえ」のつけ麵を食っていたかもしれない。

そういう意味で考えれば、「やすべえ」のトータル来店数はスーパーフェニックスとマルスが圧倒的に多いけど、秋葉原店に限って言えば最も事情を熟知し、その変化をつぶさに感じ取れるのは距離的に一番近しい僕だろう。

それはアキバの街に対しても同じだ。たとえば今現在、僕等が立っているJR秋葉原電気街口付近。「何か大分雰囲気変わったよなー」とマルス等は言うけれど、思い至るのはそこまで。駅ビルアトレで買い物するという発想は僕以外にないだろう。

また、「やすべえ」の向かいにあるカレー屋「カレー厨房」は、店の内装は変わっていないが看板名はかつて「タイム」という地味な名前だったことにも気付くまい。アキバの景観を乱していたエウリアンこと悪徳絵画ショップ「BRAVE」が遂になくなったというちょっとした事件にしても、当然のことながらそれで盛り上がれるのは僕くらいなもの。

滞在する時間が違う。関わる回数が違う。当然、気付くポイントも見えるものも違ってくる。僕にとって、今日の「やすべえ秋葉原店」は約2週間ぶり。しかしスーパーフェニックスにとっては1~2年ぶりで、マルスに限っては2010年オープン以来一度も行っていないのだから、高田馬場店から換算しても最低6年ぶりということになる。

よって、ワクワクするポイントもかなり違った。僕は前回の「やすべえ」で、大好物の「辛味みそつけ麵」ではなく通常の「辛味つけ麵」を頼んでしまった間違いに忸怩たる思いを抱き、今回は間違えまいと念を押した。辛さは当然「辛味MAX」か、あるいはその上の「辛味MAXスペシャル」でも大丈夫。

スーパーフェニックスおよびマルスは、秋葉原店というより青春時代の思い出である高田馬場店を無意識的に基準としているようだ。

例を挙げるなら、今回二人は、つけ麵の上にいわゆる「全部乗せ」である「やすべえ特製トッピング」を追加注文した。彼等の中では、全部盛りのトッピングをするのが学生時代からのデフォルトのようだ。その流れで「佐波さんも当然トッピング頼むでしょ?」と息をするくらいの当たり前さで僕に促した。「やすべえ」でトッピングという発想自体そもそもなかった僕としては、「お、おう」と尻込み気味に同意するしかなく、それ以上に「やすべえ」におけるそれぞれのスタイルがまるで違うことを思い知る他なかった。

また、僕が「みそつけ麵」一択であるのに対し、他の二人は普通の「つけ麵」以外に考えられないと言う。僕が不味いと感じた普通の「つけ麵」を、彼等は「やっぱ美味ぇな、ささすが『やすべえ』だ!」と褒めちぎる。

これは味の好みも当然あるが、一番最初に食ったメニューのインパクトも関係するだろう。女にとって初めての男は特別なのと同じように、「やすべえ」初来店時に何を食ったかでその後の嗜好もある程度固定化される。彼等はきっと、一番最初に「つけ麵」を食った。僕は「みそつけ麵」を頼んだ。ただそれだけのことだが、それゆえに各個の想いや愛着の方向性は相容れないものとなる。僕には彼等の選択が理解できない。同時に彼等は僕の選定が分からない。

量に対する認識の違いも浮き彫りになった。主導するのはやはり久々の「やすべえ」に浮かれる二人だが、彼等は迷うことなく「大盛り」のボタンを押した。「大盛りだったよね」と互いに確認しているところを見ると、多分それが彼等のデフォなのだろう。当然、僕にも「佐波さんも大盛りでいいよね?」と当たり前のように言う。やはり「お、おう」と答えた僕だが、さすがに内心考えた。「多くね?」と。

「やすべえ」の麵は太麵なので、かなり食いでがある。常人なら中盛りが普通だ。女性であれば小盛りがちょうどいいだろう。僕も中盛りにしている。大盛りは正直言って半端ないのだ。真っ当な男が平気な顔して食える量ではないと確信している。だからずっと避けてきた。それをスーパーフェニックスとマルスはさも当然のように頼む。

もしかして勘違いしてるんじゃないか? 彼等二人はいずれも身長180cmオーバーの巨漢だが、食う量は僕と殆ど変わらないか、下手をすれば僕より食えないくらいだと今までの同席で確認済みだからだ。マルスは券売機を見ながら「今は『得盛り』っていうのもあるんだ、すげーな」と5年以上前の「やすべえ」には無かったメニューに新鮮な目で感嘆しているが、驚くとこはそこじゃない。大盛りを頼んでる時点でヤバイんだって。本当に大丈夫か? その上、特製トッピング、全部盛りもオーダーしているというのに。

案の定、僕はテーブルに出された大盛りを見て「こりゃダメだ」と溜め息を吐いた。到底食いきれる量じゃないと。それでも何とか頑張って完食したが、胃袋は文字通り破裂寸前の風船状態。フードファイターの気分だった。そしてスーパーフェニックスおよびマルスはというと、やはり僕と同じく腹はパンパン。「死ぬかと思った」などとほざく。やはり…。

その後、スーパーフェニックスとマルスは「オレ等がいつも頼んでたのって『中盛り』だったな」「だな、『大盛り』じゃなかった」と記憶違いを認め合う。長年のブランクゆえ、自分達がいつもオーダーしていた定番セットを忘れてしまっていたようだ。定期的に通う僕は、「やすべえ」大盛りの危険性を寸分違わず熟知していた。

ただ、全部盛りたる「特製トッピング」の内容については、僕などでは及ばぬ造詣が二人にあるようだ。トッピング内容は、チャーシューとタマゴとモヤシ、あと水餃子と板海苔。それだけでとんでもないボリュームなのだが、僕と違って二人は「トッピングの内容、前と変わってたよな?」「ああ、ちょっと違ってた」と、そのトッピングの食材の差異について論議していた。恐らく過去散々食った高田馬場店のトッピングをベースに話しているのだろう。僕には到底思い付かないポイントだ。この辺も、歴史や造詣の深さがもたらす発想の違いである。

そんな、秋葉原店への接し方、あるいは「やすべえ」という固有名詞に対するベクトルの違い。まさしく三者三様で交わることがない。本当に面白い。
 
 
■ヨドバシ上ゴルフ場へ
楽しいつけ麵を食った後は、ヨドバシアキバ9階のゴルフショップへ。スーパーフェニックスが明日ゴルフに行くようで、着ていくニューウェアを買うのに僕等も付き合った。

ヨドバシを利用する多くの人にとって、用があるのは8階のレストランフロアまで。その9階にゴルフショップがあることはあまり知られていない。知ってはいるが、利用する者は稀だろう。僕等3人は一応知っていた。が、スーパーフェニックス以外、ここで買い物したことはなかった。

その代わり、同じく9階にはゴルフショップの他に打ちっ放しの練習場があるのを僕は知っている。5~6年前、一時期だけ集中的に練習したことがあった。スーパーフェニックスは打ちっ放しの存在までは知らなかった模様だ。マルスも同じく。

誰もがどこかを使ったことがあるし知ってもいるが、誰一人全体像を把握しきれていない。だから一人では何もできないと言われるのだし、「三人集まれば文殊の知恵」という格言が真実なのだと思い知る。それぞれ違う視点、違う思考、違う生き方だから社会に幅も深みも出るのだ。互いが影響し合い、補強し合い、あるいは反発するから、その人個人の人生がより豊かになるのだ。友人とは貴重な存在である。
 
 
■ゴルフへの姿勢
物色は終わり、明日ゴルフへと旅立つスーパーフェニックス。平日からゴルフという僕等リーマンからすればどうかしていると思える離れ業も、個人事業主である彼にとっては日常茶飯事。また、顔を売らねばならない自営業だからこそ、彼にとっては好き嫌い以上のタスクとして重要視される。

単なるリーマンたる僕は、かつて5~6年前に数回コースを回っただけで十分。そのため平日の早朝から打ちっ放しで練習していた僅かな時期が全てだ。別段好きでもなく、生きるために必要でもないゴルフは、僕にとってかつて触りだけ体験したスポーツであり、そこそこ楽しかった思い出。

マルスは現在、子供も生まれたばかりで、また資格試験等の勉強もありゴルフどころではない。そこまで興味も持っていない。

三人にとってのゴルフもまた三者三様。コンスタントにゴルフ場へ通い、道具を新調していく現役のスーパーフェニックスはこれからも先に進む。マルスは進むでもなく排除するでもなく、とりあえず立ち止まる。僕はその記憶を過去の過去へと追いやって、環境が劇的に変わらない限り今後一切振り返ることはない。
 
これもまた各々の選択であり、道である。
 
 
■まるで異なる人生だからこそ
その後、マルスは秋葉原駅へと消えていき、見送った後スーパーフェニックスはタクシーでの帰宅を試み、僕はそれに同乗させてもらった。

いつもの梅島セブンイレブン前で降ろしてもらい、コンビニで食料や酒を調達しつつ、今日会った二人のことを考える。

スーパーフェニックスとは今でも付き合いがある。そして彼の友人であるマルスとも、やはり細々とだが交流は途絶えていない。半年に一度程度しか会わないが、それでも顔を見ると何となく安心するのだ。

世の中には、会わずとも存在確認さえ出来れば安心する相手が居る。生存している事実こそが心の支えになるという相手が。

近いところでは、かつて大阪で一緒に仕事をした上司がいる。もう15年は会ってないが、4~5年に一度くらいメールをすることもある。それが確認できるだけで僕は絶対的な安堵感を覚えるのだ。

もう一人、秋田に住む年下の友人の存在がある。僕が東京に来た初期の頃のコミュニティ面子で、まだ二十歳に満たない若者、いや殆ど少年だった。人との言い争いを好まず、常に受けに回るスタンスで、僕が見ても心が優しすぎると感じた相手だ。その繊細さと純粋さゆえ、汚れた東京は肌に合わなかったのか実家・秋田へ戻り、趣味だった絵を今も黙々と描き続けながら生きている。

もう別れてから10年は会ってないが、ツイッターの呟きに対して稀に「いいね」を密かに押してくれたり、たまに年賀状も出してくれたり、生存確認はできる相手だ。その年賀状に描かれた絵は毎年明らかにレベルアップしている。毎日地道に努力しているのだと一目で分かる。この初志貫徹の姿勢にこそ、僕は絶対的な好感を抱いていた。

10年以上前に別れ、絵が好きだからこれからも描き続けますと僕に宣言し、そして10年後経った今でも、宣言通りしっかりと絵を描き続けている彼。彼の描く優しいタッチの絵には、彼の真っ直ぐさと心の優しさがそのまま滲み出ているよう。なので僕は、会えなくとも彼が生きていてくれるだけで嬉しいし、それが確認できるだけで生きる力になっている。

マルスも僕にとってその類の友人なのだろう。元々、スーパーフェニックスを介して友人になった間柄だが、それとは別にモンハンの腕前が神業級の男として僕等のコミュニティ内では少なからずその名は知れ渡っていた。コミュニティ面子との交流もあった。

しかしマルスは、元々スーパーフェニックスのリア友という下地もあり、また僕も彼等と同年代ということも関係してか、ゲーム以外のシーンではコミュニティから一歩引いて僕個人に対して交流の門戸を開いていたようだ。結婚式には僕だけ呼んでくれたし、僕は返していないが今年年賀状もくれた。

つまり僕はマルスにとって、コミュ友ではなくリア友という認識なのだろう。バーチャルから知り合いそのまま長年のリア友にまで昇華した僕等のコミュニティ内の人間関係も珍しいが、リアルとバーチャルを明確に分けているリアリストなマルスの感性も潔い。こういう付き合い方もあるのだな、と新鮮な思いだ。

そんなマルスと久しぶりに対面し、頻繁に会合しているスーパーフェニックスを交え、同年代3人の男が秋葉原に小1時間集った夜のこと。マルスはもう家に着いているだろう。スーパーフェニックスはタクシーの中でうたた寝でもしているか。それぞれに帰る場所があり、だけどその合間に訪れる僅かな時間、僕等は少しだけ交わる。

ドアを開ける。台所では、嫁が明日の夜メシに予定しているカレーライスを煮込んでいる。リビングではテレビが垂れ流しにされている。本やゴミが大分散らばってきている。座椅子には亀二が偉そうに座っている。ここが僕の帰る場所だった。

20160118(月) 大雪とツイッターとSMAPとバルス

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【朝メシ】
牛乳(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
火鍋 サッポロ一番みそラーメン締め(家-嫁)
 
【イベント】
仕事、雪、SMAP生放送、運動
  
  
【所感】
■大雪と急冷
週明けから雪が積もる。大雪警報が発令される。昨日日曜日の天気予報の時点でそう予想されていた。だがしょせん天気予報。予定ではない。予想の域を出ない。天気予報なんて日常茶飯事的に外れるんだ。

それでも昔と比較すれば、精度も確度も格段に向上した。観測技術の発達、洗練化、分析対象や判断基準の多彩化によって、より多角的で柔軟な天候予測が可能となった。必然、正解ルートの絞込みも練度が増し、的中率も向上する。気象庁や数多の天気予報士達による長き年月の苦闘。その積み重ねから導き出した天気予報の正確性は、かつてのヤン坊マー坊とは比べるべくもなかった。

なので、もし外れたとしても恥ずべきことじゃない。天気はすなわち天の気持ち、それは神の意思。ランダムかつ気まぐれだ。そこに科学的法則性を見出せたとしても100%にはなりえない。人間が天の気持ちを正確に読み取れるはずもないのだ。しょせん人間が天を従えるのは不可能。起こることをただ後追いで報じるか、予測するしかない。起こった事実、これから起こる事実を捻じ曲げることはできない。我々は神ならぬ人間に過ぎないのだから。

■雪
とは言え、今回の大雪警報はバッチリ的中したようで、起床してカーテンを開けた途端、外は一面の白。雪、雪が降っていた。一晩置いただけで雪が積もっていた。滅多に降らない都市部での雪。道という道を覆う積雪。そして連動したように急激に下がった気温。一部凍りつくアスファルト。だけど場所によっては溶けたかき氷のようになっている道。こりゃ、荒れるな。そう直感した。雪に慣れない地域であればあるほど、都市部であればあるほどパニックを起こす。そして東京は雪への耐性が皆無に近かった。
 
 
■電車狂想曲
まず、車の機動力が失われる。いくら天気予報が知らせているからと言って、この時を見越して既にタイヤをスタッドレスに替えている、またはチェーンを取り付けている人間はまだそれほど多くないのではないだろうか。

バイクや自転車など二輪系も、同じ理由で凍結した路面では危険極まりない。必然、歩きが増える。

だが、その徒歩も甚だ不便を被るだろう。車や人が頻繁に通るため、車道と歩道どちらの状態も不便かつ不快になるのが雪の日のセオリー。雪が溶けてみぞれのようになった部分、あるいは完全に溶解し水浸しになっている部分を歩くと靴は濡れ、靴下までビチョビチョ。雪が殆ど降らない地域だけに、長靴を常備している者も少ない。いつもの革靴やパンプスで出かけることとなる。女性はブーツがあるからまだ良いが、スーツのリーマンは最悪だ。

そんな装備なので、濡れるだけでなく滑る。道路には凍結した部分も多数だ。道中、滑って転びそうになる通勤客を僕は多く見た。僕も何度も滑りそうになった。こういう時、ホント靴って重要だよな、などと思ってしまう。雪という存在は、遊ぶためのツールとして見れば楽しいが、日常生活の障害物と捉えると心底憎らしい。

そして電車。これこそ最悪だ。朝から停まっていた。JRも東武戦も西武線も東京メトロも、多くの鉄道が運休あるいは遅延である。よって予想通り、駅は大パニック。普段5分に1本来る電車が、1時間に1度か2度という間隔まで落ち込むのだ。ただでさえ交通手段を失った人間達がプラスオンされるのに、普段より電車を利用する客が増えるというのに、これじゃあ駅がパンクするのは当然。膨大な人間が駅に殺到し、だけど電車は思い切り制限を掛けられるという反比例現象が各地で勃発していた。

僕の最寄駅も例に漏れず。改札の時点で入場制限がされ、入れない人間達は団子状態で改札前に待ち構える。そこから列は外まで伸び、まるでパチンコ屋の新装開店のごとき行列が出来上がる。僕も最初そこに並んだ。しかし1~2分で諦めた。どう見ても無理だろと。誰が見ても入れる道理がないじゃん、と。なのに皆、並んじゃうんだよな。僕の後ろのカップルも、「ここに並ばなきゃいけないの?」と彼氏に愚痴を垂れていた。実際は僕等が並んでいるところだけでなく、別の入口からも行列が伸びているから、今ここに並んでいても順番に改札に入れる保証はない。何しろ団子状態でワケが分からなくなっているんだから。多分、気の強いヤツは強引に押し入り、ちゃんと並んでいるつもりの人間は「並ぶ意味ないじゃん!」と誰にともなくキレるだろう。そうなるのは分かっている。だが現実問題として、一人一人順番を決めて統制できるような状態でもない。だから並んだところで余計なストレスを抱えるだけだ。精神衛生上よくない。だから僕はさっさと切り上げ、遅刻を承知で近くの喫茶店「シルビア」へ駆け込んだのだ。恐らくこの行列が捌けてマトモに乗れるようになるまで最低でも1時間~1時間半は掛かる。どうせ他のエリアも大混雑で遅刻は確定しているのだから、自分だけ頑張って早く行こうとしても無意味だと考えた。

それに、待機する喫茶店にしたって席が無限にあるわけじゃない。その内、並んでもしょうがないことに気付く人間も随時出てくるはずだ。そうなってからでは遅いんだ。まだ席が空いている内に、他のヤツ等が開き直って喫茶店に駆け込まない内に、席を確保しておく。この刹那の判断が、数分の差が恐らく後の数時間の命運を決める。僕はすぐさま喫茶店シルビアへと走る。

ちなみに僕より30分以上早く家を出ていた嫁は、1時間以上改札で待ちぼうけを喰らいながらも、ほふく前進する兵士のように少しずつ電車に近付き最終的には乗れた模様。その頑張りは大したものだ。僕からすれば徒労とも言えるが。
 
一応数十分前に家を出てみたものの駅は予想通りコミケのカベ状態だった朝。僕の沿線、日比谷線乗り入れ東武伊勢崎線終了のお知らせ。この程度の雪でうろたえおって、ホント都会は打たれ弱い。客が殺到して席らなくなる前に喫茶店に滑り込んだ正解者の僕はただただそう思った。
 
 
■喫茶店シルビア
というわけで喫茶店シルビアに入った僕だが、土曜の昼間くらいしか埋まらない席はほぼ満席、僕が来店した時点で最後の一人か二人というレベルだった。空いている4人席に座った瞬間、もう空席待ちの客が並び始める。まさしく刹那の判断力が天国と地獄を決めた瞬間だ。天国モードに入った僕は、NEWSWEEK を読みながら悠々と寛ぎ始める。

「いらっしゃいませ」の声はない。座って十分以上経っても水すら来ない。だがそれも仕方ない。この客数に対し、ウエイトレスの姉ちゃんはたったの一人なのだ。駅と同じく、姉ちゃんの頭もパンクしているのだろう。

それでも、かつてシルビアを一人で切り盛りしていた美形で仕事ができすぎるスーパー女神、通称「黒髪ねーちゃん」であれば、こんな状況でも普通に対応できたと確信している。実際、過去も同じような雪でシルビアに入った時、彼女は難なく一人で客を捌いていたし。あの黒髪ねーちゃんだけは次元が別だった。あまりに先を行き過ぎていた。もう居ないのがあまりに悔やまれる。運営会社の松岡商事は、時給2000円払ってでも彼女を引き止めておくべきだった。
 
 
■長丁場
席に就いて20分ほど経過してからウェイトレスの姉ちゃんが水を運びつつオーダーを聞いてくる。長丁場になりそうなのでモーニングセットを注文。そのオーダーもテーブルに置かれるまで1時間ほど掛かったが、まあどうでもいいという心境だ。別に怒りはしない。だけど気持ちのいい対応とも決して言い切れない。黒髪ねーちゃんがいないとこんなもんか、程度の達観で対峙していた。

その間にも、入口付近の列は増えていく。しかし空席待ちをする皆さんには悪いが、どう見たって今座ってる客達は電車待ちのリーマンやOLなわけで、駅で並んでる奴等が掃けて電車がスムーズに動き出すまで微動だにしない連中ばかりであって。よって、いくら待っても席は空かないと思う。

それでも待ち続ける客達。可愛そうになってきた。ここはウェイトレスが機転を利かせて相席を提案するとかした方がいいんじゃないだろうか。僕も含めてだが、2人席や4人席に1人で座っている客がかなり多い。元々ゆったりとした席をコンセプトとした店なので仕方ないが、状況に応じて相席を検討するべきだろう。

と思っていたら、並んでいるリーマンのおっちゃんが「相席にすりゃいいだろ?」とウェイトレスに食って掛かった。まあ尤もな話だ。立ってる連中からすれば、4人分の席をのうのうと独り占めする僕等のような客は殺したくて仕方あるまい。分かってる。自覚している。

だけど僕からはウェイトレスに言わない。僕が良くとも、他の客はそうじゃないかもしれないからだ。誰にも邪魔されず一人で寛ぎたい客だっているはず。そういう客が居る上で「僕の席、相席にしてもらってもいいですよ」などとウェイトレスに提言することは、そういう客等からすれば余計な差し出口であり、越権行為であり、ただの嫌味。「余計なこと言うなこのバカ」であり、「なに勝手に決めてんだバカ」である。僕は、余計なことを言って他の客に恨まれたくない。
 
 
■偽物の譲り合い
また僕自身、シチュエーションは違うが、かつて電車の座席に座っていた時、似たような思いをした。その時、僕の隣に姉ちゃんが座っていた。そして停車した駅から親子連れが2組乗り込んできた。母と子供1人の1組2名、それが2組で合計4名だ。

この時、席を立ってその親子達に譲るという選択肢もあった。しかし僕は敢えてしなかった。腰が痛くて立ちたくなかったのだ。僕の方がむしろ立派な病人だと。だがそれ以上に、乗り込んできたママ二人の態度が気に食わなかった。大声で喋ったり、子供を電車内で遊ばせて放置している無責任ぶりなど、到底譲りたくなるような人種じゃなかったのだ。

それでも隣の姉ちゃんは、何を血迷ったのかスッと立ち上がり「よろしければどうぞ」などとそのママ達に席を譲ろうとする。僕はこの時、「余計なことすんなこのアマ!」と心から思ったのだ。なに変な正義感出してるんだと。なに情に流されてんだと。それ間違ってるからと。

アンタはただ「女」と「子供」という記号に対して反射的に動いただけ。状況に追い込まれただけで、むしろその状況に耐えかねての逃げだ。いわば自分にリスクがない範囲だけで優しさを振りまくだけの行為。それは婦人の仁愛に過ぎない。広い視点で見れば何の好影響も及ぼさない、視野の狭い自己満足なのだ。客観的に物事を見ていない。

客観的に見れていたのなら、人としてこんなウザいママ集団に席を譲ろうという発想など出ないはずだから。この女達は感謝なんてしないよ。何か席譲ってもらっちゃったラッキー♪程度の認識だろう。

さらにアンタは僕のことを考えていない。アンタが立ったところで空くのは一人分。子供は二人だ。人数調整のためにはすぐ隣の僕も立たなきゃいけないシチュエーションではないか。全く望んでいない僕に、アンタは無言の圧力を掛けているんだ。僕が席を立たなきゃならない状況に追い込んでいるんだ、無意識に。後はアナタが立ってくれれば丸く収まるわ、と。ふざけんな。

だからこそ僕は、そのとき不快な顔を多分していた。だが状況からして立つしかない。立たざるを得ない。僕には何のメリットもないのに。仕方なく僕は、姉ちゃんに続いて席を立ち、「どうぞ」とママ二人に言った。

ママ二人は僕等の譲渡に対し「どうも」と礼を言った後、当たり前のように自分達二人が空いた席に座った。子供達を立たせたままで。

ほら見ろ…! 僕は思わず心の中に姉ちゃんに毒付いた。アンタとしては子供達に席を譲ったつもりだろうが、当然ママ達も子供を座らせて自分達は立つと思っていたんだろうが、これが現実だ。子供達を差し置いて自分等がドカッと座る。その程度のママ達なんだよこの二人は。

そんな二人に席を譲って、姉ちゃんよ、アンタ後悔したろう。「え!?」と目を見開いたろう。最初に見て気付くべきだった。盲目的に席を譲るからこうなる。僕は気付いていた。だけどアンタが無策にも席を立ったから巻き添えを食った。この落とし前、どう付けてくれんの?
 
 
■相席は店員の仕事
という記憶もあったので、喫茶店においても自分からウェイトレスに「相席にしたらどう?」と提案などしない。それはやはりウェイトレスの仕事だ。彼女等の裁量であり責任でありミッション。店内の客全てを納得させつつ、最良の方法を採らねばならない。この辺、繊細なセンスが問われる。多分、黒髪ねーちゃんならばやってくれただろうが、今回の姉ちゃんはリーマンおっちゃんの要望に対して「はあ、まあ」と受け答えつつも尻込みしていたようだ。
 
 
■出発
そんな感じで時間は過ぎていく。僕もテーブルに出されたモーニングセットを小出しにちまちまと食いながら、ゆでたまごに大量の塩を掛けたりして一人遊ぶ。だがさすがに退屈になってきた。他の客もちらほらと会計を始めていることだし、僕もそろそろ外の様子を見に行くとするか。

一度出たらもう戻れないし、出たところでどうせまだ駅は混んでいるだろうが。めんどくせえ、駆け引きをするのもめんどくせえ。それでも僕は、喫茶店シルビアを後にする。

まあ、結構身構えて進入した駅だが、予想よりは大分空いていたので意外。北千住駅までしか行かないガ、一本目の電車に乗り込めた。それに北千住に出てしまえばもうこちらのもの。いくらでも電車は来るのだ。ダメなのは北千住までの東武線だけなのだ。というわけで、混雑しそうな一本目はスルーしつつ、次発東京メトロ行きますグォゴゴゴゴッ…!
 
 
■ツイッター
ところで、喫茶店待ちをしている間、僕は本を読みつつずっとツイッターをしていた。Facebook等に比べて毒のある言葉を吐けるし、仕事連中にアカウント見つかってないし、気楽かつ気軽に呟ける。こういう場合はやはりツイッターがベストだ。

僕と同じ気持ちの連中も多いのだろう。ストップした電車や駅の大混雑状況を写メに撮り、嬉しそうにツイートする者達で溢れていた。

中には、大混雑している駅のホームの電光掲示板に「雪はそこにあるか」という文字が唐突に流れ、場違いな台詞にキレるツイートなども見られて面白い。

一応、この「雪はそこにあるか」というタイミングの悪いフレーズは、元々JR東日本のスキー客を誘致しよう、スキスキスキー♪というキャンペーンの言葉のようだ。よって意地悪で流したわけじゃなく、プログラム上たまたまその文字が流れだだけの話だ。

http://jr-skiski.com/

それでもまあ、TPOを見ながらプログラムを変えようぜ。と言いたい気持ちもある。とにかく朝は殺伐としていた。
 
 
■昼は適当
その疲れもあってか、日中は完全にローペース。皆、雪騒動で情熱を使い果たしたのだろう。こんな日は適当に流すに限る。さっさと帰るに限る。
 
 
■ツイッター その2
夜、テレビでSMAPの解散騒動に対する生放送があるということで、TVを点けていた。その放送では、リーダーの仲居を差し置いて木村が中心に立ち、他の4人が騒動を起こしてスイマセンでしたと謝罪させられていた。これを「公開処刑」だと報道機関は評したが、言い得て妙だ。とても見てられない。

ところでそのSMAP報道の際、視聴者が一斉にツイートしたためか、ツイッターが一時システムダウンを起こしたのだとか。ネットのニュースにも、「“バルス”耐えきったツイッターがSMAPの緊急生放送に陥落」などと載っていた。

まあいいけど、ホントどうでもいいネタをニュースサイトでやるのね。しかもYAHOOニュースとかで。そういうのは別のニュースサイトに任せて、もっと大手らしい記事に特化してもらいたいところ。こんなのはまさしくツイッターレベルの内輪ネタだ。

こういうネタを平気で乗せるという感性が時代の流れってヤツか。そういう感性の若造が記事を書く側のポストに就いて、視野の狭いままで視野の狭いネタを疲労する。一般ユーザーと同じ視点と感性で記事を書く。いや投稿する感覚。

つかバルスとかいつまで引っ張ってんだよ。内輪だけでやれよと言いたい。時代が変わったのかもしれないな。

それでもここから分析するとすれば、バルスすら耐え切ったツイッターがSMAPによって落ちたという件。かつて2ちゃんはバルスでダウンしたという。だがツイッターはしなかった。そしてSMAPレベルのネタであればツイッターですらシステム障害に陥らせること可能。つまり、

「ツイッターサーバー>2ちゃんサーバー」であり、「SMAP>バルス」だという序列付けがここに確定した。

とまあ、ホントどうでもいい話。ごくごく狭いこの真に益にならない小ネタ、受動的情報、「あっそうなんだ」レベルのネタである。何か意味あんのか。

そのスマスマ生放送でも、「視聴者の皆さんの声です」というキャスターの声の下、そのコメントが読まれる。それがまたキモイ。

みんな味方です! とか、日本中が待ってます! とか、ホントに一般視聴者が言ってんのかなと、TV側の仕込みじゃないのか。みんながそう思ってますとか、日本中が自分と同じ意見ですとか、なぜ断言できる。まさしく視野の狭い独善的ファンの典型。ディズニーファンもそうだが、これが世に聞こえるジャニオタの恐ろしさかと。

そんな決め付け発言をすれば、他の人間から余計に敬遠される。ただでさえ偏見で見られているのに、余計色眼鏡で見られる。民主党の「国民みんなが反対してるのに、何勝手に法案通してるんですか、総理、総理っ」と根拠もなくいつのまにか全国民の代弁者、国民の総意であると勝手に話を作っている民主党の根拠なき発言と同レベルである。この辺、気をつけたいところ。
 
 
■美味しいメシで締め
そんな感じで、雪とかツイッターとかSMAPなどでアツくなった月曜日。下手をすれば炎上の可能性、ネタ。そんな恐怖を払拭するため、夕飯で出された火鍋。非常に美味く、そして身体が熱くなる鍋だった。

同じ熱くなるのなら、こういう感じで健全に熱くなりたいものだ。

20160116(土) 始動! アジの三枚下ろし

160116(土)-01【0830~0930】おさるのジョージ、ひつじのショーン アイスコーヒー《家-嫁》_07 160116(土)-02【1000頃】新潟荷物 きんぴらごぼう、タクアン、白菜漬物《家-嫁》_01 160116(土)-02【1000頃】新潟荷物 きんぴらごぼう、タクアン、白菜漬物《家-嫁》_03 160116(土)-05【1300頃】新潟きんぴらごぼう、タクアン、白菜漬物、納豆《家-嫁》_02 160116(土)-06【1440頃】山正青果店《西新井-嫁》_01 160116(土)-07【2020~2100】アジ三枚下ろし《家-嫁》_001 160116(土)-07【2020~2100】アジ三枚下ろし《家-嫁》_002 160116(土)-07【2020~2100】アジ三枚下ろし《家-嫁》_004 160116(土)-07【2020~2100】アジ三枚下ろし《家-嫁》_012 160116(土)-07【2020~2100】アジ三枚下ろし《家-嫁》_013 160116(土)-07【2020~2100】アジ三枚下ろし《家-嫁》_014 160116(土)-07【2020~2100】アジ三枚下ろし《家-嫁》_015 160116(土)-08【2130頃】アジ刺身(三枚下ろし)、バチマグロ・鯛刺身(柵)、きんぴらごぼう《家-嫁》_02 160116(土)-08【2130頃】アジ刺身(三枚下ろし)、バチマグロ・鯛刺身(柵)、きんぴらごぼう《家-嫁》_03 160116(土)-08【2130頃】アジ刺身(三枚下ろし)、バチマグロ・鯛刺身(柵)、きんぴらごぼう《家-嫁》_04 160116(土)-08【2130頃】アジ刺身(三枚下ろし)、バチマグロ・鯛刺身(柵)、きんぴらごぼう《家-嫁》_05 160116(土)-08【2130頃】アジ刺身(三枚下ろし)、バチマグロ・鯛刺身(柵)、きんぴらごぼう《家-嫁》_06 160116(土)-08【2130頃】アジ刺身(三枚下ろし)、バチマグロ・鯛刺身(柵)、きんぴらごぼう《家-嫁》_07 160116(土)-09【2230頃】キットカット、明治板チョコ《家-嫁》_01 160116(土)-09【2230頃】キットカット、明治板チョコ《家-嫁》_02 160116(土)-011【2330頃】7プレミアム濃厚抹茶バー《家-嫁》_01 160116(土)-011【2330頃】7プレミアム濃厚抹茶バー《家-嫁》_02

【朝メシ】
アイスコーヒー、きんぴらごぼう(家-嫁)
 
【昼メシ】
新潟きんぴらごぼう、タクアン、白菜漬物、納豆(家-嫁)
 
【夜メシ】
アジ刺身(三枚下ろし)、バチマグロ・鯛刺身(柵)、きんぴらごぼう、キットカット、明治板チョコ濃厚抹茶バー(家-嫁)
 
【イベント】
おさるのジョージ、ひつじのショーン、包丁研ぎ、新潟荷物、西新井温泉、アジ三枚下ろし
  
  
【所感】
■僕はアニマル
朝、毛布をマントのようにして全身を包ませながら「おさるのジョージ」と「ひつじのショーン」を鑑賞する。動物番組を観ている僕等の方が、まるで冬は活動したくない冬眠中の動物のようだ。
 
 
■おさるのジョージ
ジョージはウッキウッキー、ウホッ、ウホホッ、と身振り手振りで活発に動き回るものの、ナレーションの説明無しには何を言っているのかは相変わらず全然分からない。しかし黄色い帽子のおじさんはその意図をきちんと汲めているようだ。長年の信頼関係ゆえに可能な人間と動物の意思疎通。愛情は種族を超える。

それは同作の原作者である絵本作家ハンス・アウグスト・レイとマーグレット・レイ夫妻の哲学であり、動物好きな彼等ならではの純粋なアプローチ法だ。ジョージがトラブルを起こしても暖かい目で見守る黄色い帽子のおじさんの懐の深さは、レイ夫妻の優しさをそのまま反映していると思える。
 
 
■ひつじのショーン
ショーンはメ゛ェ~、メ゛ェ~、マ゛ァ~、と羊っぽい鳴き声で他の羊達やビッツァーと盛んにやり取りしてるが、ナレーション無しでもショーン達の思考や行動がすんなり理解できてしまうのは流石アードマンの制作技術といったところか。ジェスチャー、角度、テンポ、その動かせ方と見せ方にはシンプルながらも非凡なものがあり、全ての演出が計算し尽くされていると分かる。

まさにジェスチャーが全て。手足の動き、視線に至る各キャラの全身の動作で話の展開を視聴者に分からせる手法。そこにあるのは、牧場主ですら人間の発音をしていないという徹底した人間言語の排除だ。反面、ほのぼのした動物達の行動一つ一つが動物の枠を超えている。

動物なのに人間以上の人間臭さを見せるショーン達のやり取りに隠されたのは、人間至上主義的世界に対するアンチテーゼかもしれない。人間は別に偉くない。動物達が隠れてやっていることに気付けない、動物達の真意も全く読み取れないグズ。人間なんてしょせんその程度のもの。動物と何ら変わりないのだ、と。

しかし、だからこそその皮肉が面白い。どのタイトルを観ても、一度観たことのある話ででも楽しめる。同作を放送しているNHKのEテレでは、本場イギリスで制作されたシーズン4まで全て放送してしまっているため、現在は同じ話を使い回しながら視聴者を誤魔化している。僕等も通常TV視聴やツタヤのレンタルDVDを含めれば現存のタイトルは全話コンプリートしているはずだ。

よって最近では観る前から「あ、これ前も観た」「ああ、あの話だよね」と内容が分かってしまう有様。それでも飽きることなく楽しめる「ひつじのショーン」は、まさしくコメディ番組として完成されたコンテンツ。使い捨ての現代社会をものともしない普遍性があった。
 
 
■新潟からの荷物
新潟実家から荷物が届いた。きんぴらごぼう、タクアンや白菜の漬物などだ。多少温暖気味だったとはいえ、これから本格的な積雪に見舞われると予想される新潟実家の山間部。山と積もる雪に遮られ活動量が大幅に低下する、低下せざるを得ない場所では、より長持ちする食料の確保が重要だ。市販のものに比べて塩分たっぷりの漬物は、まさしく極寒地の生命線とも言えた。

その生命の一部をお裾分けしてもらった僕等は、早速もらった漬物を取り出し、ご飯を炊いて昼食を頂く。この米も新潟実家からもらった魚沼産コシヒカリ。ありがたい気持ちで僕等は生産地新潟の食材で彩ったメシを頂戴しつつ、実家の両親がこの厳しい冬を壮健で過ごせるよう、遠く東京の地から祈るのだった。
 
 
■TVに影響されて献立を決める
メルヘンなNHK教育アニメを観た後は一気に俗っぽい番組に切り替わる。やっていたのは寿司屋の特集。外国で寿司屋を経営している外人が日本の寿司屋を視察して、日本のオートメーションされた店内や仕入れ方法、鮮度の見分け方法、その他調理方法などにいちいち驚くという内容だ。

最近流行りの“日本の技術スゲー”番組。必死に日本アゲしてるところが笑えると同時に、確かに緻密な技術や器用さにおいて日本は突出しているが、だからこそ大雑把かつ強引でスケールが物を言うグローバル社会において日本は遅れを取ってしまうのだろうとも痛感する。

アメリカやEU勢、中国などにはできないことが日本にはできる。だが反面、日本ができないことを彼等はやれるし、実際にやる。そして地球規模という見地からすれば、日本ができることよりも彼等がすることの方が優先されるのだ。日本は経済や技術で頂点を極めたとしても、トップに立つことはできないだろう。ダイナミックさ、根本的な思考の違い、様々な理由はあれど、やはり戦争に負けたのは大きかった。

そんな寿司屋特集を見て、僕は久しぶりに寿司を握りたくなってしまった。TVに映る職人の手さばきはまさしく惚れ惚れするほど。素早く正確に、かつリズミカルに握り寿司を握っていく。僕もここ半年ほど寿司を握っていない。一度握って感覚を取り戻してみるか。そんなことを考えながら、番組の職人の手付きを鷹のような目で観察していたが…。

それよりも、寿司職人が魚を華麗に捌いて寿司ネタをスピーディに作っていく場面に見とれた。刺身にしても寿司ネタにしても、最終的にはあの薄っぺらい状態にしなければいけない。最初から刺身状にして売られているものもあれば、僕のように柵をスーパーから買ってきて切り分ける方法もある。

だが一番鮮度が高いのは、何と言っても生魚を一尾丸ごと買ってきてそれを捌くという方法。まあ当然のことだ。その場でシメてその場で調理する以上に美味い食い方などない。魚の場合は冷凍というプロセスが入っているだろうが、生魚を買って捌く手法は一般人が考えうる限りで最も新鮮であることに疑いはない。

その方法を寿司職人はやっていた。まあこれもよく考えたら当然のことだが、仮にも老舗と呼ばれ高級寿司店を謳う店の職人が、最初から出来上がった柵を仕入れているとなると興醒めだ。マグロなど元がデカすぎる魚はともかく、腕前一本で生きている職人達は、生魚からネタを仕込むのが王道なのではなかろうか。

このように、生魚一尾から作られた刺身ネタや寿司ネタのことを「生ネタ」と呼ぶらしい。寿司屋の職人達はその多くが生ネタのはずだし、そうでなければスーパーで柵を調達して気楽に包丁で切ってる僕と大差ない。だったら家で自分でやるわ、ってことになる。一般人では届かない技術と巧の技で高品質のネタを提供するのが職人達の使命であり、存在意義であり、矜持なのではなかろうか。

そんな矜持溢れる職人の魚捌きを見て、僕は不覚にも感動したわけである。「カッコいい」と見とれてしまったわけである。こういう風に僕もやってみたい、と。柵から刺身を切り分けただけで有頂天になっていた今までの自分がみみっちく思えてきた。

だがこれは、一皮剥けたということでもある。過去の自分を超えるため次のステップへ、新たなステージに向かおうと決めた勇気ある行動。そんな自分が好きになれる。盛り上がった僕は、さっそくYoutubeを見ながらアジの捌き方を勉強した。何度も、何度も。2時間くらいずっと液晶モニタにかじり付いていたか。そのせいで予定していた西新井温泉への出発が遅れたと言っていい。

とりあえず、この辺かなり参考になった


http://matome.naver.jp/odai/2133725485894007601

図解入りの解説も熟読した

あと、手袋を嵌めて超スピーディに捌いている動画もあった。頭を落として三枚に下ろし、皮を剝ぐまで、その一連の動作を一尾20秒も掛かってないんじゃないかというスピードだ。ナニこのヒト機械みたい。とにかく超惚れ惚れ。動画再生とイメージトレーニングのお陰で、自分にもできるような気がした。既に熟練職人の気分になっていた。

その思い込みは、夜、実際にアジを捌いてみて大きな間違いだったと気付くのだが。
 
 
■包丁をひたすら研ぐ
テンションが高くなっていた僕は、準備のために砥石を出して包丁を研ぎ始める。僕が新潟の義父から進呈された名刀「緑川」は刺身包丁だ。魚を捌くには出刃包丁が良いとされるようだが、とりあえず僕にはこの緑川しかないのでこれ一本で行く所存。ドライバーだけで勝負するプロゴルファー猿のように。

だが僕の包丁・緑川は本当に素晴らしい包丁。よく切れるし、美しい、刃こぼれ1つない。僕もしょせんは小学生から数十年間包丁を握っていなかった素人に過ぎないが、それでも使っていれば包丁の良し悪しは分かってくる。だからこそ、この名刀は大切に使いたい。今日だけでなく、僕は緑川を使う前、砥石で研ぐことを案外怠っていない。

そのついでに、嫁の包丁も研いだ。大分前にもらった出刃だが、あまりに使っていなかったので錆びまくり、刃こぼれもしまくり。嫁も「もう使わないからいいや」ととっくの昔に匙を投げている包丁だ。本当に汚いし錆びだらけ。使い物にならない。ハッキリいってただの燃えないゴミである。だが、だからこそそれを再生させたとすれば僕は英雄。ここは一つ、このゴミを研いで使えるようにして嫁を驚かせてみよう、などと一人野心に燃えていた。

だが、錆びはともかく刃こぼれした包丁なんて研ぎ石で直せるのだろうか。またも動画を検索する僕。すると、一応直せるようなことを言っている。そういうことならとりあえずやってみるか。研ぎ石を準備し、その汚い出刃包丁を一心不乱に研ぎ始めた。

研げば研ぐほどに、茶色やら黒ずんだ水がガンガン垂れてくる。汚ねぇな…。思いつつも何度も包丁を洗っては研ぐを繰り返した結果、錆びの方は大分落ちてきたようだ。しかし刃こぼれはさすがに簡単には直らない。多少は刃こぼれが小さくなってきたようだが、一体マトモな包丁に修復するのに何時間掛かるんだろう。気が遠くなる。

だけど意外と根は上げない。むしろ研ぐことが楽しくなってきた僕である。研ぐ手付きもリズミカルに、まるで猟奇殺人犯が楽しそうにサバイバルナイフを研ぐ時の高揚感で、僕は一心不乱に包丁を研ぎ続ける。30分くらい研いでいたかもしれない。嫁に言われて途中断念したが、正直2時間でも3時間でも続けていたい作業だ。アーミーナイフをチラつかせ「切れ味イイぜぇー、触れると死ぬぜぇー」と嬉しそうに見せびらかす男は、傍から見ればウザくてアブない野郎でしかないが、彼等の気持ちもほんの少し分かる気もした。
 
 
■西新井イオンとアリオ
区切りがついた頃、ようやく西新井温泉へ。西新井駅の東口方面に向かって歩いていくと、駅西口の雄アリオと並び西新井住民の生活を支える東口一の買い物スポット、イオンが見える。駅東口にはそのイオンを迂回して行く必要があるので面倒だが、地元民は皆分かっているので馬鹿正直に迂回はしない。堂々とイオンの入口から進入し、1階食料品売場コーナーを反対側の出口まで真っ直ぐ突っ切るのが基本だ。店内をショートカットするだけで駅までの所要時間は半分以下に抑えられる。

イオン側もそれを分かっているから、逆にショートカットしようとする客の心理を利用して販促をかける。通り道に試食販売員や屋台を置いて場を賑やかし、あわよくば衝動買いやついで買いをさせようとするのだ。

実際、僕等もイオン店内をショートカットする際、まずは入口付近の鮮魚コーナーを物色し、そこで新鮮なイカや刺身の柵が売っていれば温泉の帰りに買って帰る。次に少し歩いたところで物産展をよく開催しているのでそれをチェック。さらに出口付近にはジュースやインスタント食品・レトルト食品や菓子など週ごとで変わる売り筋商品が山のように積み上げてられたコーナーがある。最後は出口を出てすぐの場所に服や帽子、陶磁器など服飾や生活雑貨の即売会が催されている。

それら全てがイオン店内のショートカット最短ルート上に設置されているため、自然と目を向けてしまうのだ。イオン側がそのように仕向けている。客が自然に動く経路、すなわち動線を活用したマーケティングである。客達は自分の意思で買っているようで、その実イオンに踊らされているのだ。癪だけど買いたくなってしまうのだから仕方ない。相手は小売業最大手なのだから。

とりあえずイオンに行けば、日用品を始め生活シーンで必要なものは大体入手できる。本当に便利だ。しかし、アパレルを前面に押し出すアリオとは大分毛色の違う店であるのは確か。いやむしろ正反対と言って良いくらいだ。テナントに入る業態、客層など、アリオとイオンは何から何まで対称的だ。

ファッションその他の文化的、遊行的な欲求はイオンでは満たせない。そういう場合はアリオに行くしかないだろう。実際、少なくともアパレル関連ではアリオで揃わないものはないくらいの充実度だと思う。他にもファンシーショップや書店、ペットショップ、レストラン、映画館など中に入る店は多彩で、客層もそれに見合って若者や子供連れ、カップルが多い。特に小中高生あたりの女性若年層は全員ここ以外行くところがないんじゃないかと思うくらいにアリオに集中。いや、よく考えたらアリオ以外で若者をあまり見ない気すらしてくる。

まさしく複合商業施設、ショッピングモールの名に相応しい在り方だろう。西新井の大型店舗において、アリオほど成功した店も他にない。

対して、食料品と日用雑貨に比重を置いたフロア作りをするイオンは、アリオに比べて随分と生活臭が漂う。1階食料品コーナーより上のフロアには、服飾系や家具など生活雑貨店も多数入っているのだが、服飾はスーツや中年・熟年用カジュアルファッションなどお堅いラインナップを中心に配置しているし、生活雑貨も100円ショップとかリーズナブルな鍋や収納BOXやスリッパなど、そのフロア作りは明らかにわざと。そういう客層を狙っているのだと分かる。あくまで「生活に必要なもの」を厳選しているのだ。

よってイオンには若者があまりいない。空気を華やかにしてくれる若い女性や元気な少女達の姿もさほど見えない。今日の晩メシを真剣に考える主婦や家族連れ、「別に何でもいいじゃん使えれば」と開き直った賢者モードの男女、ママ、その連れのクソガキなど、修羅のオーラを漂わす者達がイオンの主要顧客なのである。

つまりアリオは華やか、イオンは地味。だが言い方を換えればアリオは虚であり、イオンが実であるとも取れる。アリオが夢の世界でイオンが現実の世界だ。楽しむならアリオに出向くのが最良かもしれない。だが生きるために不可欠なのはむしろイオンの方。アリオの戦略は至極正しい。しかしイオンの在り方や運営方針もまた正義なのだ。

煌びやかに、華やかに咲き乱れるアリオという巨木の下で展開される百花繚乱。その反対側に、カラフルな花弁は付けないし芳醇な果肉も実らないけど、地中深くまでしっかりと根を張った静かなる大樹が一本。老いた大樹は人々をただ見つめ、彼等のために光合成を繰り返しながら陰で人々の生を支える。それが西新井イオンであった。
 
 
■伏兵・山正青果店
そんなイオンだから、少なくとも食料品コーナーに対する消費者達の信頼度は高い。1階はいつでもレジが大混雑である。野菜もある、鮮魚もある。菓子も酒も惣菜も豊富。むしろ「本当に必要な食料品」を標榜するだけに、堅実性と確実性はアリオよりも優れていそうだ。これぞスーパーの真髄。イオン独り勝ちである。

しかし実のところ、イオン側にはある意味アリオよりも手強い競合店が店を構えている。山正(やましょう)青果店という個人店だ。文字通り野菜と果物を売る専門店で、店内はかなり狭い。しかしいつ見ても客でごった返しているのである。その繁盛ぶりと人口密度はイオンやアリオの野菜コーナーはおろか、西友やサミット、ココスナカムラ、ザ・プライスなど、西新井を含めた足立区内のどのスーパーよりも高いかもしれない。

その山正青果店は、イオンと小道を挟んだすぐ向かいにある。つまり真正面。巨大企業イオンを相手取った正面からの真っ向勝負をしているのである。にも関わらず、山正の客足は一向に途絶えることがない。大企業にまるで引けを取らない。

なぜか。その理由は安いから。農家から直で仕入れているのか分からないが、とにかく安い。かつ新鮮だ。どの青果も瑞々しく美味しそう。イオンも豊富な品揃えと大量仕入れによるバイイングパワーを駆使した低価格戦略を取っているだが、それでも山正には敵わないのである。巨艦イオンに挑む山正の単機駆け。大きさも品揃えも関係ない、何かに特化した独自路線。店とはまさに千差万別であった。
 
 
■西新井温泉、
物色した後はいつも通り西新井温泉で夕方まで過ごす。サウナ、水風呂、湯舟、休憩を挟んでの岩盤浴、従来通りの黄金ルートだ。今年の目標に沿って休憩時は漫画を読まず、持参した活字の新書を熟読。当然、湯舟の中や岩盤浴でのストレッチも怠らない。休憩時にこそ鍛えるという矛盾も、続けていればいつか矛盾じゃなくなるはずだ。

ついでに、僕を見て挨拶してくる整体の受付姉ちゃんに対し、今までは気の小さそうな会釈だけで返していたが、今日は「こんにちは!」と声を出してこちらから挨拶した。人嫌いに拍車が掛かる昨今、このままではいけない。こういう細かい部分から変えていくべきだ。挨拶は自分から、笑顔で、爽やかに。下手をすれば暑苦しいと取られかねないが、根暗よりはマシだろう。

あと岩盤浴の時、ちょっと腐女子っぽいメガネ姉ちゃんとぽっちゃり姉ちゃんの二人組が、開始前待ち時間、「どういう仕組みなのかな」などとオドオドしながら話していた。きっとここの岩盤浴は初めてなのだろう。僕等の持ち物を見て「この荷物は持ち込んじゃいけないのかな、置いていった方がいいのかな」と一旦更衣室に戻ったり、その控え目な挙動不審がまた初々しくて可愛らしい。たとえそれが腐女子だろうと、周囲に配慮しつつ落ち着いたトーンで会話してくれるのは近くの人間からすればストレスがなくてありがたいし、よって可愛く見える。それに比べ、人目も憚らず延々とデカい声で喋りまくるおばちゃん連中は可愛げの欠片もない。これが妖怪というやつか、と民族伝承の実例を見る気持ちになるのだ。
 
 
■鮮魚の価値は
温泉の後、昼間の宣言通りイオンで新鮮そうなアジを三尾買った僕等。今夜はこのアジを捌く…。

同時に刺身のネタもいくつか購入。いかにアジ三尾とは言え、失敗したら元も子もない。夜メシはボロボロに崩れたアジだけなのかとリビングの空気が悪くなること請け合い。それを防ぐため、マトモな刺身も買っておく必要があるということで、今回はバチマグロと鯛の柵を購入した。今までサーモンやカツオなどを購入することが多く、鯛は滅多に切らないので結構新鮮。マグロに比べると割安だし、値引もされているし。

それら刺身の柵も、入荷したての昼時はバカ高いが、夜の時間帯に入ってくると2割引など多少の割引がされるからお得だ。鮮度が命の魚介類は全くもって価格変動が目まぐるしく、買うタイミングによって得した気分にもなるし、逆に損をした気持ちにさせられる場合もある。

ただ、待っていれば安くなるだろうと踏んで逡巡していると、時間を置いて再度店に訪れた時、目当ての魚が他の客に買われて無くなっていたなんてことも多々だ。誰もが割引きタイムセールを待っているわけじゃない。鮮度を重視する客もいれば、昼時にしか買い物する時間がない客もいる。1パック3000円のノドグロを板チョコを買うような感覚でカゴに入れるリッチな客だっているだろう。そんな客達にとって割引など端から考慮にないのであって、定価購入が当たり前なのだ。

そうやって鮮度の高い魚が、脂のノリがいい魚が順にカゴの中に消えていく。それはすなわち値段の張る魚だ。販売する魚屋だってプロ。その目利きでクオリティの高い魚には、それに見合った価格を付ける。客から見てその価格付けが妥当ならば早い段階で買われるだろうし、もし客から見て割安だと感じたならばそれが真っ先にカゴ行きだ。客だって素人じゃない。魚介コーナーに毎日通うような輩の目利きは侮れないものがある。そんな客達だから良い魚を真っ先に探し出し、値段との兼ね合いに問題がなければさっさと掻っ攫っていくだろう。

というわけで、当たり前のことではあるが、質が高く安い魚が真っ先に買われていく。そういう魚は百戦錬磨の目利き客達から逃れることはまずできず、夜に魚コーナーに行ったところでまず残っていない。次に、他と比べて明らかに安い魚が売れるだろう。見た目は多少見劣りしても、圧倒的価格のアドバンテージは見過ごせない。とにかくその魚を食いたいという客が次々に買っていくだろう。そこから、多少値段は張るけど質の良い魚が売れる。これで魚介コーナーにおける仁義無用の買い物バトル、その第一ステージが終了する。

第一ステージで売れ残った魚は大体決まっている。見た目や鮮度はいいけど高すぎる魚。安いけど見かけが悪かったり、細切れのようにボリューム感のない魚。とにかく払う金に釣り合わないと感じる魚は残る。平日のタイムセールに群がるリーマンやOL、あるいは割引を狙って殺到する主婦達は、そんな残り物を掴まされているのだ。

彼等はいいものを安く買えた、得をしたとほくそ笑んでいるかもしれない。しかし本物には出会えないのだ。メッキではない、一般とは次元の違う、モノが違う、惚れ惚れしてしまうような本当の本物。ケンシンマエダをまじまじと見つめ、「いいなあ…本物だ」と、修羅の領域に入れる数少ない器であるケンシンに見惚れる静流のような気分は味わえないだろう。

だがそれも良し。重要なのは、買った魚がその人にとって満足するものかどうかだから。買って、調理して、食って、それが美味いと思ったのなら、それでよかろうなのだ。僕等が今回買ったマグロと鯛は、僕の刺身切り技術が秀逸なのもあるだろうが、文句なしに極上の刺身だった。正直、柵を切る技術は相当向上した気がする。
 
 
■アジの三枚おろし
そしてもう1つの本番、アジ。加工されていない丸ごとのアジ。このアジを捌き、一から刺身を作るのだ。今まで柵からしか刺身を作ったことはないオレが、いや一度だけ新潟実家で義父にサンマを一匹捌かされたが、それでも生涯一度しか魚を捌いたことがないオレが、ついに生魚の三枚下ろしへとステップアップする。

いや現在の自分のレベルを考えればステップアップどころじゃない。ジャンプアップだ。SU1チラリツコから金枠シンジに突如ジャンプするがごとき突アツ演出だ。やってやる。アジを三枚に下ろしてやる。Youtubeも何度も見たし、シミュレーションは万全だ。さあ来いアジッ…。終わりなきオレの確変がここから始まる。
 
 
■嫁の前座三枚下ろし
その前に、まずは嫁が三尾の内の一尾を「ウチにもやらせてぇな」と三枚に下ろす。僕としては二尾捌ければ十分なので、快く一尾譲った。同時に、これから起こるであろう奇跡を考えて内心ほくそ笑む。僕の目論見はこうだ。

まず、嫁は普段から料理しているので当然魚も普通に捌ける。三枚に下ろす技術も持っている。まあ無難に下ろすだろう。実際、嫁は与えたアジを大変綺麗に捌いた。1分も掛からなかったか。真ん中の背骨がくっ付いた部位にも殆ど身が付いておらず、綺麗に身を削ぎ取った感じだ。なかなかの手練だと評価した。

対してオレはズブの素人。今日、人生で初めてアジを捌くというビギナーだ。嫁はきっとオレが失敗すると思っている。その事実を踏まえ、「やっぱウチの足元にも及ばんわ」と圧倒的な序列を付けようと目論んでいる。

だが、そんな嫁の予想を裏切るかのように、オレは華麗な包丁捌きでアジをスピーディに、リズミカルに捌く。まるで芸術のようにアジを三枚に下ろし、皮を剝ぎ、自作の柵を完成させる。そんなオレのあまりの天才ぶりに嫁は開いた口が塞がらない、というシナリオだ。

私は空手などやったことはありませんが、こう蹴った方がいいと思いますよ?
ガシィツ…!
あの小僧、やったことがないなどと言いながら…かなりやっているっ。

―本当に空手をやったことがないと聞いた時は震えが止まらなんだぞ。
別に空手になど興味はありませんでしたしね…。

という風になるはずだ、予定では。大丈夫、アジの構造や包丁の入れ方、順番…。頭を落とし、腹に切り込みを入れて内蔵を取り出し、その後はまず背から、裏返して次は腹から背骨に沿って切り込み、最後は手で押さえつけながらズバッと切り取る。野菜を切る時のように爪は立てない、むしろ指の腹で押さえるように、左手は添えるだけ。反対側でもそれを繰り返せば見事なアジの三枚下ろしが出来上がるはず。包丁の切っ先を恐れず、手早く、スムーズに、リズムに乗せて…。大丈夫、この時のためにYoutune動画をリピートさせつつ準備してきた。大丈夫、僕ならできる…。

オレはアジを一尾、まな板に乗せ、包丁をその頭にズプリと入れた。しかし…、
 
 
■僕の本番三枚下ろし
ガツンッ…! 包丁を持つ手に激しい衝撃と抵抗感が伝わる。頭が落とせない。骨が邪魔して首が落ちない。もっと軽く落とせると思ったのに、いきなり想定外だった。その時点で出鼻を挫かれた。

傍で観察していた嫁が「もっと勢い付けて、ガツン!て感じで一気にやんないとダメだよ!」と、監督然としてオレに言う。舐められてる。それみたことかという顔をしている。しょせん実践を積んでない素人ね、とその瞳が言っている。くそう、悔しい。だが事実、オレはたじろいでいた。魚の頭を落とすのってこんなにキツい作業なのか? 人間の首を一撃で落とす戦国時代の武将達って鬼神か何かか?

結局、ようやく魚の頭を落としたものの、後は総崩れ。包丁が入らないのだ、とにかく。背骨が思った以上に頑強で、肉身もかなり固いというか抵抗感があって、スパッと切れる代物じゃなかった。しかも包丁に慣れてないものだから、こんな態勢で切り込んでいくと勢いで手を切っちゃうんじゃないかと、終始ビクビクしてしまう。バカな、こんなはずじゃあ、こんな…。終いには泣きそうになっていた。

結局、二尾目は途中から嫁が下ろした。最後の三尾目だけ、もう一度気力を振り絞って全て自分でやってみたが、結果は同じ。背骨に身が付きまくり、上下の2枚はほとんど身がなく、「これ、皮?」と言わんばかりだ。せっかく西新井大師で燕三条産の高級骨抜きも買ったというのに、腕が全然追い付いていなかった。

要は、実践不足なのだ。頭でいくら繰り返したところで、実技でやってみなければ実には付かない。そうやって未熟な現実を理想に少しずつ近付けていくのだ。それをたった2時間のYoutubeで習得した気分になるなど、身の程知らずもいいとこだった。

現実とのギャップを思い知らされたアジの三枚下ろし。だけど闘志は衰えず、良い勉強になったと考えている。今後練習して上手くなればいいだけの話だ、と。
 
 
■刺身にするのは早い
新たな目標が出現した日。今後は生アジを買う日が増えていくだろう。一度下ろしてしまえば、後は僕の領分。マグロや鯛も含め、刺身に加工するのはもうお手の物だ。余裕で皿に盛ってやった。それがまた、とろけるほどに美味い。自分で切ったという自負があるからか。食いきれないと思えた大量のアジの刺身は、ヒョイパクヒョイパクと口に運ばれ、漬け丼にされ、一夜の内に姿を消したのであった。

大いなる恥と、反動としての大いなる野望を抱いた今日という日を僕は忘れない。