【朝メシ】
アイスコーヒー、きんぴらごぼう(家-嫁)
【昼メシ】
新潟きんぴらごぼう、タクアン、白菜漬物、納豆(家-嫁)
【夜メシ】
アジ刺身(三枚下ろし)、バチマグロ・鯛刺身(柵)、きんぴらごぼう、キットカット、明治板チョコ濃厚抹茶バー(家-嫁)
【イベント】
おさるのジョージ、ひつじのショーン、包丁研ぎ、新潟荷物、西新井温泉、アジ三枚下ろし
【所感】
■僕はアニマル
朝、毛布をマントのようにして全身を包ませながら「おさるのジョージ」と「ひつじのショーン」を鑑賞する。動物番組を観ている僕等の方が、まるで冬は活動したくない冬眠中の動物のようだ。
■おさるのジョージ
ジョージはウッキウッキー、ウホッ、ウホホッ、と身振り手振りで活発に動き回るものの、ナレーションの説明無しには何を言っているのかは相変わらず全然分からない。しかし黄色い帽子のおじさんはその意図をきちんと汲めているようだ。長年の信頼関係ゆえに可能な人間と動物の意思疎通。愛情は種族を超える。
それは同作の原作者である絵本作家ハンス・アウグスト・レイとマーグレット・レイ夫妻の哲学であり、動物好きな彼等ならではの純粋なアプローチ法だ。ジョージがトラブルを起こしても暖かい目で見守る黄色い帽子のおじさんの懐の深さは、レイ夫妻の優しさをそのまま反映していると思える。
■ひつじのショーン
ショーンはメ゛ェ~、メ゛ェ~、マ゛ァ~、と羊っぽい鳴き声で他の羊達やビッツァーと盛んにやり取りしてるが、ナレーション無しでもショーン達の思考や行動がすんなり理解できてしまうのは流石アードマンの制作技術といったところか。ジェスチャー、角度、テンポ、その動かせ方と見せ方にはシンプルながらも非凡なものがあり、全ての演出が計算し尽くされていると分かる。
まさにジェスチャーが全て。手足の動き、視線に至る各キャラの全身の動作で話の展開を視聴者に分からせる手法。そこにあるのは、牧場主ですら人間の発音をしていないという徹底した人間言語の排除だ。反面、ほのぼのした動物達の行動一つ一つが動物の枠を超えている。
動物なのに人間以上の人間臭さを見せるショーン達のやり取りに隠されたのは、人間至上主義的世界に対するアンチテーゼかもしれない。人間は別に偉くない。動物達が隠れてやっていることに気付けない、動物達の真意も全く読み取れないグズ。人間なんてしょせんその程度のもの。動物と何ら変わりないのだ、と。
しかし、だからこそその皮肉が面白い。どのタイトルを観ても、一度観たことのある話ででも楽しめる。同作を放送しているNHKのEテレでは、本場イギリスで制作されたシーズン4まで全て放送してしまっているため、現在は同じ話を使い回しながら視聴者を誤魔化している。僕等も通常TV視聴やツタヤのレンタルDVDを含めれば現存のタイトルは全話コンプリートしているはずだ。
よって最近では観る前から「あ、これ前も観た」「ああ、あの話だよね」と内容が分かってしまう有様。それでも飽きることなく楽しめる「ひつじのショーン」は、まさしくコメディ番組として完成されたコンテンツ。使い捨ての現代社会をものともしない普遍性があった。
■新潟からの荷物
新潟実家から荷物が届いた。きんぴらごぼう、タクアンや白菜の漬物などだ。多少温暖気味だったとはいえ、これから本格的な積雪に見舞われると予想される新潟実家の山間部。山と積もる雪に遮られ活動量が大幅に低下する、低下せざるを得ない場所では、より長持ちする食料の確保が重要だ。市販のものに比べて塩分たっぷりの漬物は、まさしく極寒地の生命線とも言えた。
その生命の一部をお裾分けしてもらった僕等は、早速もらった漬物を取り出し、ご飯を炊いて昼食を頂く。この米も新潟実家からもらった魚沼産コシヒカリ。ありがたい気持ちで僕等は生産地新潟の食材で彩ったメシを頂戴しつつ、実家の両親がこの厳しい冬を壮健で過ごせるよう、遠く東京の地から祈るのだった。
■TVに影響されて献立を決める
メルヘンなNHK教育アニメを観た後は一気に俗っぽい番組に切り替わる。やっていたのは寿司屋の特集。外国で寿司屋を経営している外人が日本の寿司屋を視察して、日本のオートメーションされた店内や仕入れ方法、鮮度の見分け方法、その他調理方法などにいちいち驚くという内容だ。
最近流行りの“日本の技術スゲー”番組。必死に日本アゲしてるところが笑えると同時に、確かに緻密な技術や器用さにおいて日本は突出しているが、だからこそ大雑把かつ強引でスケールが物を言うグローバル社会において日本は遅れを取ってしまうのだろうとも痛感する。
アメリカやEU勢、中国などにはできないことが日本にはできる。だが反面、日本ができないことを彼等はやれるし、実際にやる。そして地球規模という見地からすれば、日本ができることよりも彼等がすることの方が優先されるのだ。日本は経済や技術で頂点を極めたとしても、トップに立つことはできないだろう。ダイナミックさ、根本的な思考の違い、様々な理由はあれど、やはり戦争に負けたのは大きかった。
そんな寿司屋特集を見て、僕は久しぶりに寿司を握りたくなってしまった。TVに映る職人の手さばきはまさしく惚れ惚れするほど。素早く正確に、かつリズミカルに握り寿司を握っていく。僕もここ半年ほど寿司を握っていない。一度握って感覚を取り戻してみるか。そんなことを考えながら、番組の職人の手付きを鷹のような目で観察していたが…。
それよりも、寿司職人が魚を華麗に捌いて寿司ネタをスピーディに作っていく場面に見とれた。刺身にしても寿司ネタにしても、最終的にはあの薄っぺらい状態にしなければいけない。最初から刺身状にして売られているものもあれば、僕のように柵をスーパーから買ってきて切り分ける方法もある。
だが一番鮮度が高いのは、何と言っても生魚を一尾丸ごと買ってきてそれを捌くという方法。まあ当然のことだ。その場でシメてその場で調理する以上に美味い食い方などない。魚の場合は冷凍というプロセスが入っているだろうが、生魚を買って捌く手法は一般人が考えうる限りで最も新鮮であることに疑いはない。
その方法を寿司職人はやっていた。まあこれもよく考えたら当然のことだが、仮にも老舗と呼ばれ高級寿司店を謳う店の職人が、最初から出来上がった柵を仕入れているとなると興醒めだ。マグロなど元がデカすぎる魚はともかく、腕前一本で生きている職人達は、生魚からネタを仕込むのが王道なのではなかろうか。
このように、生魚一尾から作られた刺身ネタや寿司ネタのことを「生ネタ」と呼ぶらしい。寿司屋の職人達はその多くが生ネタのはずだし、そうでなければスーパーで柵を調達して気楽に包丁で切ってる僕と大差ない。だったら家で自分でやるわ、ってことになる。一般人では届かない技術と巧の技で高品質のネタを提供するのが職人達の使命であり、存在意義であり、矜持なのではなかろうか。
そんな矜持溢れる職人の魚捌きを見て、僕は不覚にも感動したわけである。「カッコいい」と見とれてしまったわけである。こういう風に僕もやってみたい、と。柵から刺身を切り分けただけで有頂天になっていた今までの自分がみみっちく思えてきた。
だがこれは、一皮剥けたということでもある。過去の自分を超えるため次のステップへ、新たなステージに向かおうと決めた勇気ある行動。そんな自分が好きになれる。盛り上がった僕は、さっそくYoutubeを見ながらアジの捌き方を勉強した。何度も、何度も。2時間くらいずっと液晶モニタにかじり付いていたか。そのせいで予定していた西新井温泉への出発が遅れたと言っていい。
とりあえず、この辺かなり参考になった
↓
http://matome.naver.jp/odai/2133725485894007601
図解入りの解説も熟読した
↓
あと、手袋を嵌めて超スピーディに捌いている動画もあった。頭を落として三枚に下ろし、皮を剝ぐまで、その一連の動作を一尾20秒も掛かってないんじゃないかというスピードだ。ナニこのヒト機械みたい。とにかく超惚れ惚れ。動画再生とイメージトレーニングのお陰で、自分にもできるような気がした。既に熟練職人の気分になっていた。
その思い込みは、夜、実際にアジを捌いてみて大きな間違いだったと気付くのだが。
■包丁をひたすら研ぐ
テンションが高くなっていた僕は、準備のために砥石を出して包丁を研ぎ始める。僕が新潟の義父から進呈された名刀「緑川」は刺身包丁だ。魚を捌くには出刃包丁が良いとされるようだが、とりあえず僕にはこの緑川しかないのでこれ一本で行く所存。ドライバーだけで勝負するプロゴルファー猿のように。
だが僕の包丁・緑川は本当に素晴らしい包丁。よく切れるし、美しい、刃こぼれ1つない。僕もしょせんは小学生から数十年間包丁を握っていなかった素人に過ぎないが、それでも使っていれば包丁の良し悪しは分かってくる。だからこそ、この名刀は大切に使いたい。今日だけでなく、僕は緑川を使う前、砥石で研ぐことを案外怠っていない。
そのついでに、嫁の包丁も研いだ。大分前にもらった出刃だが、あまりに使っていなかったので錆びまくり、刃こぼれもしまくり。嫁も「もう使わないからいいや」ととっくの昔に匙を投げている包丁だ。本当に汚いし錆びだらけ。使い物にならない。ハッキリいってただの燃えないゴミである。だが、だからこそそれを再生させたとすれば僕は英雄。ここは一つ、このゴミを研いで使えるようにして嫁を驚かせてみよう、などと一人野心に燃えていた。
だが、錆びはともかく刃こぼれした包丁なんて研ぎ石で直せるのだろうか。またも動画を検索する僕。すると、一応直せるようなことを言っている。そういうことならとりあえずやってみるか。研ぎ石を準備し、その汚い出刃包丁を一心不乱に研ぎ始めた。
研げば研ぐほどに、茶色やら黒ずんだ水がガンガン垂れてくる。汚ねぇな…。思いつつも何度も包丁を洗っては研ぐを繰り返した結果、錆びの方は大分落ちてきたようだ。しかし刃こぼれはさすがに簡単には直らない。多少は刃こぼれが小さくなってきたようだが、一体マトモな包丁に修復するのに何時間掛かるんだろう。気が遠くなる。
だけど意外と根は上げない。むしろ研ぐことが楽しくなってきた僕である。研ぐ手付きもリズミカルに、まるで猟奇殺人犯が楽しそうにサバイバルナイフを研ぐ時の高揚感で、僕は一心不乱に包丁を研ぎ続ける。30分くらい研いでいたかもしれない。嫁に言われて途中断念したが、正直2時間でも3時間でも続けていたい作業だ。アーミーナイフをチラつかせ「切れ味イイぜぇー、触れると死ぬぜぇー」と嬉しそうに見せびらかす男は、傍から見ればウザくてアブない野郎でしかないが、彼等の気持ちもほんの少し分かる気もした。
■西新井イオンとアリオ
区切りがついた頃、ようやく西新井温泉へ。西新井駅の東口方面に向かって歩いていくと、駅西口の雄アリオと並び西新井住民の生活を支える東口一の買い物スポット、イオンが見える。駅東口にはそのイオンを迂回して行く必要があるので面倒だが、地元民は皆分かっているので馬鹿正直に迂回はしない。堂々とイオンの入口から進入し、1階食料品売場コーナーを反対側の出口まで真っ直ぐ突っ切るのが基本だ。店内をショートカットするだけで駅までの所要時間は半分以下に抑えられる。
イオン側もそれを分かっているから、逆にショートカットしようとする客の心理を利用して販促をかける。通り道に試食販売員や屋台を置いて場を賑やかし、あわよくば衝動買いやついで買いをさせようとするのだ。
実際、僕等もイオン店内をショートカットする際、まずは入口付近の鮮魚コーナーを物色し、そこで新鮮なイカや刺身の柵が売っていれば温泉の帰りに買って帰る。次に少し歩いたところで物産展をよく開催しているのでそれをチェック。さらに出口付近にはジュースやインスタント食品・レトルト食品や菓子など週ごとで変わる売り筋商品が山のように積み上げてられたコーナーがある。最後は出口を出てすぐの場所に服や帽子、陶磁器など服飾や生活雑貨の即売会が催されている。
それら全てがイオン店内のショートカット最短ルート上に設置されているため、自然と目を向けてしまうのだ。イオン側がそのように仕向けている。客が自然に動く経路、すなわち動線を活用したマーケティングである。客達は自分の意思で買っているようで、その実イオンに踊らされているのだ。癪だけど買いたくなってしまうのだから仕方ない。相手は小売業最大手なのだから。
とりあえずイオンに行けば、日用品を始め生活シーンで必要なものは大体入手できる。本当に便利だ。しかし、アパレルを前面に押し出すアリオとは大分毛色の違う店であるのは確か。いやむしろ正反対と言って良いくらいだ。テナントに入る業態、客層など、アリオとイオンは何から何まで対称的だ。
ファッションその他の文化的、遊行的な欲求はイオンでは満たせない。そういう場合はアリオに行くしかないだろう。実際、少なくともアパレル関連ではアリオで揃わないものはないくらいの充実度だと思う。他にもファンシーショップや書店、ペットショップ、レストラン、映画館など中に入る店は多彩で、客層もそれに見合って若者や子供連れ、カップルが多い。特に小中高生あたりの女性若年層は全員ここ以外行くところがないんじゃないかと思うくらいにアリオに集中。いや、よく考えたらアリオ以外で若者をあまり見ない気すらしてくる。
まさしく複合商業施設、ショッピングモールの名に相応しい在り方だろう。西新井の大型店舗において、アリオほど成功した店も他にない。
対して、食料品と日用雑貨に比重を置いたフロア作りをするイオンは、アリオに比べて随分と生活臭が漂う。1階食料品コーナーより上のフロアには、服飾系や家具など生活雑貨店も多数入っているのだが、服飾はスーツや中年・熟年用カジュアルファッションなどお堅いラインナップを中心に配置しているし、生活雑貨も100円ショップとかリーズナブルな鍋や収納BOXやスリッパなど、そのフロア作りは明らかにわざと。そういう客層を狙っているのだと分かる。あくまで「生活に必要なもの」を厳選しているのだ。
よってイオンには若者があまりいない。空気を華やかにしてくれる若い女性や元気な少女達の姿もさほど見えない。今日の晩メシを真剣に考える主婦や家族連れ、「別に何でもいいじゃん使えれば」と開き直った賢者モードの男女、ママ、その連れのクソガキなど、修羅のオーラを漂わす者達がイオンの主要顧客なのである。
つまりアリオは華やか、イオンは地味。だが言い方を換えればアリオは虚であり、イオンが実であるとも取れる。アリオが夢の世界でイオンが現実の世界だ。楽しむならアリオに出向くのが最良かもしれない。だが生きるために不可欠なのはむしろイオンの方。アリオの戦略は至極正しい。しかしイオンの在り方や運営方針もまた正義なのだ。
煌びやかに、華やかに咲き乱れるアリオという巨木の下で展開される百花繚乱。その反対側に、カラフルな花弁は付けないし芳醇な果肉も実らないけど、地中深くまでしっかりと根を張った静かなる大樹が一本。老いた大樹は人々をただ見つめ、彼等のために光合成を繰り返しながら陰で人々の生を支える。それが西新井イオンであった。
■伏兵・山正青果店
そんなイオンだから、少なくとも食料品コーナーに対する消費者達の信頼度は高い。1階はいつでもレジが大混雑である。野菜もある、鮮魚もある。菓子も酒も惣菜も豊富。むしろ「本当に必要な食料品」を標榜するだけに、堅実性と確実性はアリオよりも優れていそうだ。これぞスーパーの真髄。イオン独り勝ちである。
しかし実のところ、イオン側にはある意味アリオよりも手強い競合店が店を構えている。山正(やましょう)青果店という個人店だ。文字通り野菜と果物を売る専門店で、店内はかなり狭い。しかしいつ見ても客でごった返しているのである。その繁盛ぶりと人口密度はイオンやアリオの野菜コーナーはおろか、西友やサミット、ココスナカムラ、ザ・プライスなど、西新井を含めた足立区内のどのスーパーよりも高いかもしれない。
その山正青果店は、イオンと小道を挟んだすぐ向かいにある。つまり真正面。巨大企業イオンを相手取った正面からの真っ向勝負をしているのである。にも関わらず、山正の客足は一向に途絶えることがない。大企業にまるで引けを取らない。
なぜか。その理由は安いから。農家から直で仕入れているのか分からないが、とにかく安い。かつ新鮮だ。どの青果も瑞々しく美味しそう。イオンも豊富な品揃えと大量仕入れによるバイイングパワーを駆使した低価格戦略を取っているだが、それでも山正には敵わないのである。巨艦イオンに挑む山正の単機駆け。大きさも品揃えも関係ない、何かに特化した独自路線。店とはまさに千差万別であった。
■西新井温泉、
物色した後はいつも通り西新井温泉で夕方まで過ごす。サウナ、水風呂、湯舟、休憩を挟んでの岩盤浴、従来通りの黄金ルートだ。今年の目標に沿って休憩時は漫画を読まず、持参した活字の新書を熟読。当然、湯舟の中や岩盤浴でのストレッチも怠らない。休憩時にこそ鍛えるという矛盾も、続けていればいつか矛盾じゃなくなるはずだ。
ついでに、僕を見て挨拶してくる整体の受付姉ちゃんに対し、今までは気の小さそうな会釈だけで返していたが、今日は「こんにちは!」と声を出してこちらから挨拶した。人嫌いに拍車が掛かる昨今、このままではいけない。こういう細かい部分から変えていくべきだ。挨拶は自分から、笑顔で、爽やかに。下手をすれば暑苦しいと取られかねないが、根暗よりはマシだろう。
あと岩盤浴の時、ちょっと腐女子っぽいメガネ姉ちゃんとぽっちゃり姉ちゃんの二人組が、開始前待ち時間、「どういう仕組みなのかな」などとオドオドしながら話していた。きっとここの岩盤浴は初めてなのだろう。僕等の持ち物を見て「この荷物は持ち込んじゃいけないのかな、置いていった方がいいのかな」と一旦更衣室に戻ったり、その控え目な挙動不審がまた初々しくて可愛らしい。たとえそれが腐女子だろうと、周囲に配慮しつつ落ち着いたトーンで会話してくれるのは近くの人間からすればストレスがなくてありがたいし、よって可愛く見える。それに比べ、人目も憚らず延々とデカい声で喋りまくるおばちゃん連中は可愛げの欠片もない。これが妖怪というやつか、と民族伝承の実例を見る気持ちになるのだ。
■鮮魚の価値は
温泉の後、昼間の宣言通りイオンで新鮮そうなアジを三尾買った僕等。今夜はこのアジを捌く…。
同時に刺身のネタもいくつか購入。いかにアジ三尾とは言え、失敗したら元も子もない。夜メシはボロボロに崩れたアジだけなのかとリビングの空気が悪くなること請け合い。それを防ぐため、マトモな刺身も買っておく必要があるということで、今回はバチマグロと鯛の柵を購入した。今までサーモンやカツオなどを購入することが多く、鯛は滅多に切らないので結構新鮮。マグロに比べると割安だし、値引もされているし。
それら刺身の柵も、入荷したての昼時はバカ高いが、夜の時間帯に入ってくると2割引など多少の割引がされるからお得だ。鮮度が命の魚介類は全くもって価格変動が目まぐるしく、買うタイミングによって得した気分にもなるし、逆に損をした気持ちにさせられる場合もある。
ただ、待っていれば安くなるだろうと踏んで逡巡していると、時間を置いて再度店に訪れた時、目当ての魚が他の客に買われて無くなっていたなんてことも多々だ。誰もが割引きタイムセールを待っているわけじゃない。鮮度を重視する客もいれば、昼時にしか買い物する時間がない客もいる。1パック3000円のノドグロを板チョコを買うような感覚でカゴに入れるリッチな客だっているだろう。そんな客達にとって割引など端から考慮にないのであって、定価購入が当たり前なのだ。
そうやって鮮度の高い魚が、脂のノリがいい魚が順にカゴの中に消えていく。それはすなわち値段の張る魚だ。販売する魚屋だってプロ。その目利きでクオリティの高い魚には、それに見合った価格を付ける。客から見てその価格付けが妥当ならば早い段階で買われるだろうし、もし客から見て割安だと感じたならばそれが真っ先にカゴ行きだ。客だって素人じゃない。魚介コーナーに毎日通うような輩の目利きは侮れないものがある。そんな客達だから良い魚を真っ先に探し出し、値段との兼ね合いに問題がなければさっさと掻っ攫っていくだろう。
というわけで、当たり前のことではあるが、質が高く安い魚が真っ先に買われていく。そういう魚は百戦錬磨の目利き客達から逃れることはまずできず、夜に魚コーナーに行ったところでまず残っていない。次に、他と比べて明らかに安い魚が売れるだろう。見た目は多少見劣りしても、圧倒的価格のアドバンテージは見過ごせない。とにかくその魚を食いたいという客が次々に買っていくだろう。そこから、多少値段は張るけど質の良い魚が売れる。これで魚介コーナーにおける仁義無用の買い物バトル、その第一ステージが終了する。
第一ステージで売れ残った魚は大体決まっている。見た目や鮮度はいいけど高すぎる魚。安いけど見かけが悪かったり、細切れのようにボリューム感のない魚。とにかく払う金に釣り合わないと感じる魚は残る。平日のタイムセールに群がるリーマンやOL、あるいは割引を狙って殺到する主婦達は、そんな残り物を掴まされているのだ。
彼等はいいものを安く買えた、得をしたとほくそ笑んでいるかもしれない。しかし本物には出会えないのだ。メッキではない、一般とは次元の違う、モノが違う、惚れ惚れしてしまうような本当の本物。ケンシンマエダをまじまじと見つめ、「いいなあ…本物だ」と、修羅の領域に入れる数少ない器であるケンシンに見惚れる静流のような気分は味わえないだろう。
だがそれも良し。重要なのは、買った魚がその人にとって満足するものかどうかだから。買って、調理して、食って、それが美味いと思ったのなら、それでよかろうなのだ。僕等が今回買ったマグロと鯛は、僕の刺身切り技術が秀逸なのもあるだろうが、文句なしに極上の刺身だった。正直、柵を切る技術は相当向上した気がする。
■アジの三枚おろし
そしてもう1つの本番、アジ。加工されていない丸ごとのアジ。このアジを捌き、一から刺身を作るのだ。今まで柵からしか刺身を作ったことはないオレが、いや一度だけ新潟実家で義父にサンマを一匹捌かされたが、それでも生涯一度しか魚を捌いたことがないオレが、ついに生魚の三枚下ろしへとステップアップする。
いや現在の自分のレベルを考えればステップアップどころじゃない。ジャンプアップだ。SU1チラリツコから金枠シンジに突如ジャンプするがごとき突アツ演出だ。やってやる。アジを三枚に下ろしてやる。Youtubeも何度も見たし、シミュレーションは万全だ。さあ来いアジッ…。終わりなきオレの確変がここから始まる。
■嫁の前座三枚下ろし
その前に、まずは嫁が三尾の内の一尾を「ウチにもやらせてぇな」と三枚に下ろす。僕としては二尾捌ければ十分なので、快く一尾譲った。同時に、これから起こるであろう奇跡を考えて内心ほくそ笑む。僕の目論見はこうだ。
まず、嫁は普段から料理しているので当然魚も普通に捌ける。三枚に下ろす技術も持っている。まあ無難に下ろすだろう。実際、嫁は与えたアジを大変綺麗に捌いた。1分も掛からなかったか。真ん中の背骨がくっ付いた部位にも殆ど身が付いておらず、綺麗に身を削ぎ取った感じだ。なかなかの手練だと評価した。
対してオレはズブの素人。今日、人生で初めてアジを捌くというビギナーだ。嫁はきっとオレが失敗すると思っている。その事実を踏まえ、「やっぱウチの足元にも及ばんわ」と圧倒的な序列を付けようと目論んでいる。
だが、そんな嫁の予想を裏切るかのように、オレは華麗な包丁捌きでアジをスピーディに、リズミカルに捌く。まるで芸術のようにアジを三枚に下ろし、皮を剝ぎ、自作の柵を完成させる。そんなオレのあまりの天才ぶりに嫁は開いた口が塞がらない、というシナリオだ。
私は空手などやったことはありませんが、こう蹴った方がいいと思いますよ?
ガシィツ…!
あの小僧、やったことがないなどと言いながら…かなりやっているっ。
―本当に空手をやったことがないと聞いた時は震えが止まらなんだぞ。
別に空手になど興味はありませんでしたしね…。
という風になるはずだ、予定では。大丈夫、アジの構造や包丁の入れ方、順番…。頭を落とし、腹に切り込みを入れて内蔵を取り出し、その後はまず背から、裏返して次は腹から背骨に沿って切り込み、最後は手で押さえつけながらズバッと切り取る。野菜を切る時のように爪は立てない、むしろ指の腹で押さえるように、左手は添えるだけ。反対側でもそれを繰り返せば見事なアジの三枚下ろしが出来上がるはず。包丁の切っ先を恐れず、手早く、スムーズに、リズムに乗せて…。大丈夫、この時のためにYoutune動画をリピートさせつつ準備してきた。大丈夫、僕ならできる…。
オレはアジを一尾、まな板に乗せ、包丁をその頭にズプリと入れた。しかし…、
■僕の本番三枚下ろし
ガツンッ…! 包丁を持つ手に激しい衝撃と抵抗感が伝わる。頭が落とせない。骨が邪魔して首が落ちない。もっと軽く落とせると思ったのに、いきなり想定外だった。その時点で出鼻を挫かれた。
傍で観察していた嫁が「もっと勢い付けて、ガツン!て感じで一気にやんないとダメだよ!」と、監督然としてオレに言う。舐められてる。それみたことかという顔をしている。しょせん実践を積んでない素人ね、とその瞳が言っている。くそう、悔しい。だが事実、オレはたじろいでいた。魚の頭を落とすのってこんなにキツい作業なのか? 人間の首を一撃で落とす戦国時代の武将達って鬼神か何かか?
結局、ようやく魚の頭を落としたものの、後は総崩れ。包丁が入らないのだ、とにかく。背骨が思った以上に頑強で、肉身もかなり固いというか抵抗感があって、スパッと切れる代物じゃなかった。しかも包丁に慣れてないものだから、こんな態勢で切り込んでいくと勢いで手を切っちゃうんじゃないかと、終始ビクビクしてしまう。バカな、こんなはずじゃあ、こんな…。終いには泣きそうになっていた。
結局、二尾目は途中から嫁が下ろした。最後の三尾目だけ、もう一度気力を振り絞って全て自分でやってみたが、結果は同じ。背骨に身が付きまくり、上下の2枚はほとんど身がなく、「これ、皮?」と言わんばかりだ。せっかく西新井大師で燕三条産の高級骨抜きも買ったというのに、腕が全然追い付いていなかった。
要は、実践不足なのだ。頭でいくら繰り返したところで、実技でやってみなければ実には付かない。そうやって未熟な現実を理想に少しずつ近付けていくのだ。それをたった2時間のYoutubeで習得した気分になるなど、身の程知らずもいいとこだった。
現実とのギャップを思い知らされたアジの三枚下ろし。だけど闘志は衰えず、良い勉強になったと考えている。今後練習して上手くなればいいだけの話だ、と。
■刺身にするのは早い
新たな目標が出現した日。今後は生アジを買う日が増えていくだろう。一度下ろしてしまえば、後は僕の領分。マグロや鯛も含め、刺身に加工するのはもうお手の物だ。余裕で皿に盛ってやった。それがまた、とろけるほどに美味い。自分で切ったという自負があるからか。食いきれないと思えた大量のアジの刺身は、ヒョイパクヒョイパクと口に運ばれ、漬け丼にされ、一夜の内に姿を消したのであった。
大いなる恥と、反動としての大いなる野望を抱いた今日という日を僕は忘れない。