【朝メシ】
アイスコーヒー、ヤクルトジョア(家-嫁)
【昼メシ】
カレードリア目玉焼き乗せ、チューハイ(家-嫁)
【夜メシ】
酒屋「みやび邸 一蔵(いぞう)(六本木-嫁)
マクドナルド持ち帰り グランベーコンチーズ(家-嫁)
【暦】
月 卯月(うづき)
二十四節気 第5「清明(せいめい)」
七十二候 清明末候(第15)「虹始見(にじはじめてあらわる)」
【イベント】
六本木ヒルズ・森アーツセンターギャラリー「大エルミタージュ美術館展」、東京ミッドタウン10周年記念イベント「江戸富士」
【所感】
■久々に緩慢な朝
昨日はディズニーシー帰りで深夜の帰宅。歩き回った上にはしゃいだお陰か、とんでもなく疲労した。とにかく眠かった。
その眠気は今朝起床した後も継続中。今日が乗馬休みで良かったと心底思う。こんな日に馬に乗ったら落馬は必至だ。締まりのない顔、集中力の散漫、すなわちダメな騎手。馬は乗り手の状態をすぐ見抜く。ダメな騎手は馬に舐められることを、俺等はここ1ヶ月の乗馬体験で、もう知っていた。
いずれにしても、眠気とだるさでキビキビした行動が取れない。身体の動きは緩慢、集中力も途切れ途切れ、意識の視点は定まらない。それでも何とか従来の土曜日の朝らしく過ごそうと、目覚めのアイスコーヒーを飲みながら形式的にTVを点けて「ひつじのショーン」を観賞するのが精一杯。しかし、相変わらずのティミーの可愛さに癒される内に、意識が少しずつ覚醒してきた。ほっと一息、である。
コーヒー、そしてTVというツールがいかにも落ち着いた朝のひと時という感じ。大人の休日、かくあるべし。反面、部屋に横たわって何の考えもなくコーヒーを喉に流し込んでTV画面に映る映像と音に身を任せるという受動的行為は、いかにも生産性に欠けた姿勢であり、意思力を失った者が陥る悪癖とも取れる。単純に“大人”という言葉で括ってしまうのは早計な、朝のコーヒータイム。優雅と取るか、惰性と見なすか、考え方は人次第。損間、時間だけは平等に過ぎている。
■充実したのか、させたいのか
その時間を無駄にせぬよう、午後からは大いに活動しなければならない。乗馬がない分、それに見合った充実感を得るために。この、何が何でも「充実させたい」「充実させねばならない」という強迫観念にも似た感情の正体は何なのか。
“焦り”だろう。成し遂げていないことへの焦り、成果を出せていないことへの焦り、余命に対する焦り、残された時間に対する焦りだ。時間と成果が結びつかない状態が恐怖を生み、焦りへと転じる。逆に成果が出れば、焦りの心は生じない。成果は“充実”に結び付くからだ。充実こそが心に納得と平穏をもたらす。反対に、充実しなければ焦り続けるのみ。
人の本能であり生命源とも言える承認欲求からそれは生まれる。何のために生きているのか、という問い掛け。殆どの例外なく誰もがぶち当たる問い掛けであり葛藤だ。頭で自問自答しなくとも、深層心理で常に問うている。言わずともその言動で吐露しているのだ。隠せはしない。
承認欲求は、自我を保つために必要だ。自我を保つには自らの存在意義を見出さなければならない。そのためには成果を上げる必要があるし、そこに向かって行動しなければ成果は上げらないことも分かってる。だが、行動するには見合った時間が必要。すなわち命を消耗する必要がある。人の命はイコール時間。成果を上げるためにその時間を使えてない、無駄な時間を過ごしている、残された命を無為に消費している。それが罪悪感となり、何とか払拭したいともがく。
だけど実際には動けない、動かない。そうなると一層焦燥感は高まり、気持ちだけが逸る。「充実させねばならない」と呪文のように言い聞かせるという悪循環だ。断ち切るには結局のところ動く以外にないのだけれど、動くにも色々あって、衝動から発する能動的なものもあれば、義務感や惰性でそうしているに過ぎないケースもある。その本質は、自分の心に問うてみなければ分かるまい。表層的でない、もっと奥深い部分、深層心理に問い掛けなければ。
その深層心理への自問自答をした時、先述した本来自分が望むべき成果に繋がる動きが出来ている人間は、実際のところそうは居ないのではないか。何かすることによって時間を一応埋めてはいるが、それが果たして本当に必要な行動だと、自分の望んだ道を歩くために避けては通れない途中経過なのだと、胸を張って言えるのか。その半信半疑もまた、時間を無為に過ごしているのではという疑念に繋がる。
それでも何もしないよりマシだからと、まるで追い込まれるように時間を塗りつぶしていく。明確にならない何かしらの“成果”を得るために。命の無駄遣いをしないために。存在意義を確立するために。そうすることで自我が保てるし、どこかの地点で承認欲求に繋がるかもしれない。だから今は時間を埋めるのだ。充実させたい、充実せねばならないのだ…。
という心の叫び。本来順序が逆なのだ。充実感を得たいから動くのではなく、動いている内にいつの間にか充実感を覚えていた、というのが自然であり最良のはずだ。そうは思っていても、現実問題、時は刻一刻と過ぎ去る。ロシア人哲学者のように永遠に考え続けるより、やはり身体を動かした方がベターだろう。
だから今日も動くのだ。閉じ篭らないよう。外の空気を吸うために。そこから情報を掻き集めるために。知見を得るために。見聞を広めるために。その選択が正解なのか、的外れの勘違いなのか。死ぬ時になれば否応なしに答えは出る。だけど、死までに残された時間を埋めていかなければ検証すら出来まい。検証するのも、検証対象も自分自身に他ならないということを肝に銘じるべし。
他者の批判はしょせん無責任なもの。自分に対してのみしか正しい批判は下せないのだ。自分自身にしか責任は負えない。過去、現在、未来、その間に亘る膨大な言動も選択も、誰が何と言おうと自分だけのものである。動かなければ自分自身の批判すら始まらないからこそ…。
■か細い雑草にも生じる検証と充実
ふとベランダに置かれた鉢植達を見る。去年秋頃から趣味的に育て始め、現在キキョウ、デンマークカクタス、ヒヤシンス、ミニバラの4種類を生育中。全て枯れてしまったが、枯れるべき季節に、枯れるべくして枯れたので問題はない。
重要なのは、むしろその後。花の枯れてしまった鉢植えに、水や、たまに栄養を与えている。花は一回で消滅するにあらず、翌年も咲くからだ。種類によっては何年間も同じ場所に咲き続けるものもある。
その中で、キキョウの鉢植えに、小さな何かが生えている。1センチくらいの細長い緑の草が1本、焦げ付いたような茶褐色の土からチョコンと顔を出していた。これはキキョウの新芽なのか。キキョウの二世代目が遂に息吹いたのか。それともただの雑草か。道端に無限に生い茂った名も無き草木達と同じ、取るに足りない草なのか。
その1センチ程度の若草が生長すれば、答えは自ずと出る。だが、雑草の可能性を孕んだ上で、それまで何もしないことこそ無意味。いつものように水を遣り、たまに日光に当て、今までと変わらず育て、愛でていく。これも時間の有効な使い方と言えるのではなかろうか。まさしく、先ほどから何度も述べている“充実”だ。
キキョウの第二世代であれば喜ばしいこと。だけどたとえ雑草だったとしても、俺達が時間と手間を掛けて育てた草であり、何物にも変えがたい。別に計ってそうしたわけじゃなく、いつの間にかそうなっていたのだと。この自然発生的な気持ちこそが“充実”。後から振り返ってそうだったと腑に落ちる気持ちこそが…。
だからこそ、まずは後で振り返るために。振り返る材料を得るために、外出。天候は晴れだが少しずつ微妙な曇り空へと変わっていく。天気予報は多少の雨が降るかもしれないと。しかし外に出られない天気ではない。
久しぶりに訪問販売に来たヤクルトレディからヤクルトジョアなどを購入し、昨日のディズニーシーで最後に寄ったアラビアンコーストのアトラクション「シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ」のYoutube動画を探して昨日の余韻に浸ったり、再びTV番組を見たり、気付けば昼の1時半。結構ダラダラと過ごしてしまったが、まだ日中は始まったばかり。十分挽回できる時間帯だと分析し外に出た。最終的に間に合えばよかろう、なのだ。
■ベルモント公園のハイクオリティたる所以
駅に向かう途中、ベルモント公園に寄って花観賞。同公園は狭い敷地ながら、区役所に近い立地条件もあって地元住民から重宝されている。オーストラリアのベルモント市と提携している関係上、園内もオセアニア的で南国風な洒落た造型だ。とても足立区とは思えない。
その国際的な風情を見込んでか、十数ヶ国の在日外国人達が一堂に会して歌やダンス、露店などで盛り上がる一大イベント「あだち国際まつり」の開催地として、ここベルモントが毎年選ばれている。この点から、国際色に富むという点では足立区随一。いや、足立区で「国際的な公園」といえばもうベルモント公園以外に存在しないとまで言える(俺調べ)。同園がいかに重要か。足立区における確固たるポジションを確立している。
ただ、そのポジションは、重要イベントを任されるという一側面だけで築き上げたものではない。「国際派公園」と両翼を為す、ベルモント公園のもう一つの顔。それが「園芸に力を入れている公園」という顔だ。
まずベルモント公園は、足立区でも有数のバラ園として名が高く、春から冬までほぼ一年中何かしらのバラを鑑賞することが可能だ。四季折々に咲くバラは鮮やかで、時に儚そうで、しかし例外なく美しく、公園を行き来する者達の目と心を日々楽しませている。ここのバラを見るためだけに訪れる人間も居るだろう。花弁に食い込むほど顔をバラに接近し写真撮影している人間をよく見かける。ここのバラは、規模や本数だけでは語れない。育てる者の情熱が滲み出たかのような魅力がある。
その情熱は、当然バラ以外にも注がれる。同公園では季節に合わせて多種多様の草花が育てられており、一年を通して花を見ない日はないほどだ。元々、掃除や芝生の整備など職員の管理もしっかり行き届いたベルモント公園はゴミや汚れも少なく、自然観賞には持って来い。木陰にレジャーシートを敷き、四季折々の花々を眺めながら、持参した弁当を広げる…。この上ない幸せだ。近所の者は、そうじゃなくとも一度試してみることをお勧めしたい。敷地は狭いけど。
その四季折々の花模様が展開される一年。その序章であり、最も明るく温かく鮮やかな花が咲くという春の季節。その春の花の代名詞・チューリップが、ここベルモント公園に咲いていた。壇眩しさで目を細めてしまいそうなほど鮮やかな、赤と黄色の輝きを放ち。太陽のエネルギーを吸収したかのように明々と、堂々と、生命力に満ち溢れるその姿で咲き誇っていた。
何故こうも美しいのか。なぜこうも元気一杯なのか。見ている方も元気になるチューリップは、まさしく春の代名詞。世界において、品種の数も人気も圧倒的な理由が良く分かる。そんな見事なベルモント公園のチューリップ花壇だった。
水泳を辞め、人形町・浜町公園の桜と遂に縁のないまま過ぎ去ってしまった春初旬という季節。都内の桜達が葉桜に変わり始める桜花乱舞の4月上旬。その悔しさと後ろめたさを打ち砕くように、地元ベルモント公園のチューリップから本格的な花の季節が始まる。目まぐるしい百花繚乱が今年もまた始まった。
もう進むしかない。俺の錆び付いた光武を無双天威させるため、ジュテームモナムール合体するまで、わたしたち一歩も引きません。それが、ベルモント公園なのです。
気合を入れ直し、目的地である六本木へ向かった。
■お洒落で雑多な六本木ヒルズ
東京メトロ日比谷線に40分間ほど揺られ、六本木駅で降車した俺等は、六本木ヒルズ方面の地下通路を歩いていく。シンプルかつ現代的な通路。男性も女性も、歩く人の多くは派手さを抑えながらもさりげなく着飾っている。ウチの地元と、足立区の住民と、東京23区北東部と、何かが、何かが根本的に違う気がする。来訪する度にそう思う。
無理も無い。恋人同士一つ取っても、森タワー展望台フロアの窓際に寄り添うように佇んで、男は女の腰に手を当てて、窓の外に広がる東京タワーなど港区の都会的風景を視界に置きながら、無言で見詰め合ってシャンパングラスで乾杯するような連中なのだから。
振る舞いも、仕草も、言葉遣いも、流し目の巧みさも、何もかもが違って当然なのだよ。育った土壌、すなわち土俵が最初から違っているのだから。後天的に港区住民になろうと思うなら、“洗練“という言葉を意識することなく”洗練“された立ち振る舞いが出来るようになるまで訓練しなければならない。自然発生的に洗練した仕草が出るよう細胞を作り変える必要があるだろう。都会に合わせるというのもなかなかハードだ。
それは地上に出ても変わらない。六本木ヒルズの象徴である超高層近代ビル・森タワー傍に隣接する入口。この入口をメトロハットと呼ぶらしいが、そのメトロハットの地下から地上までを一気に貫く吹き抜けのスケール感がまた凄い。メガトン爆弾を落としたかのようにぽっかりと空いた吹き抜けの、直径50メートル級の吹き抜けの、セントラルドグマを髣髴とさせる人工的で巨大な吹き抜けを通り抜け、地上に出た瞬間がこの上なく興奮するのだ。リフトオフ、と叫びたくなる。六本木ヒルズに来たぞ、と叫ぶ。
そして、その巨大クレーターの中を走るエスカレーターがまた良い。飾らないけど存在感を放ちまくる、吹き抜けのちょうど中央を一直線に抜けるエスカレーターが。地下から地上へ、あるいは地上から地下へと一直線に伸びる、細長く心細いけど科学の粋を集めたこの上下エスカレーターに乗るだけで、セントラルドグマのエスカレーターを無言で降りる碇シンジと綾波レイのような気分に陥る。無音の中、エスカレーターの機械音だけが響き亘る。そんな錯覚すら覚える。
このように、たかが六本木ヒルズ入口の一部に過ぎない吹き抜けとエスカレーターについてここまで熱く語る人間もそうは居まい。それだけ六本木ヒルズは文明的ということだ。
特に、最先端の建築学とIT技術が散りばめられた六本木ヒルズ森タワーと隣接のビル群は秀逸。インフォメーションにはいかにもIT系のやり手ビジネスパーソン風が、お洒落で色気のある服装をした美女が、欧米から中南米系、イスラム諸国を始め多くの外国人が行き交う。六本木ヒルズは文字通り多国籍だ。ただし一定以上洗練された外国人が集う、ある意味排他的な多国籍ビル施設だと言い切れた。
そんな外国人客達に対してインフォメーションの受付嬢は笑顔で、キビキビとした動作と素早い判断で、流暢な英語を話しながらテキパキと捌いていく。本当に同じ女か? ホントに同じ人間か? とつい周囲を見渡してしまう。働く女性は眩しい、そんな言葉を体現するかのようなインフォメーションレディだった。
まあ六本木ヒルズを出ると、案外そうでもない部分も多いが。六本木通りとか芋洗坂などを歩く人種は玉石混交、そこらの雑多な街と雰囲気は変わらない。だけど六本木ヒルズはさにあらず、である。装いと振る舞いが基本的に違うよな。そういう意味で、気軽になれない場所ではある。だけど誰も他人を見ていない分、自由に振舞ってもいい解放感も少なからずあった。
あと、六本木ヒルズにしても、六本木は喫煙者に多少優しい。六本木通りの目立つ場所に喫煙所が設置されたりしているのを見てちょっと感動した。新宿ですらもうこんな場所は無いのに、と。
六本木ヒルズにも、少し外れた場所に屋外喫煙スペースが設けられている。粋なことに、そこから東京タワーを中心とした都会的ビル景色が拝める配置だ。俺は、六本木ヒルズのこの喫煙所から見渡せる東京タワーの姿がとてもとても好きだった。
喫煙者に優しく、大人に優しい六本木ヒルズであった。
■美術館に行く子供
かと言って、子供が居ないわけでもない。今回訪れた美術館には、小学生低学年~高学年くらいの少年少女が結構見られた。無論、保護者同伴だが、皆大人しく、むしろ大人より真剣に美術館に飾られた名画に見入っている。音声ガイドをレンタルしている子供も相当数居た。上野の美術館ですらそんな意識の高い子供は居なかったような。
親の方針なのか、子供の純粋な興味からか、ともかくこれが港区クオリティ。「なにこのレベルの高い教育は?」である。子供の顔をよく見れば、幼いのに随分と知的な顔をしている。行動は顔付きにも現れるのだろう。深夜過ぎても親に引っ付いて居酒屋で騒ぎまくる足立区のクソガキ共とは全くモノが違うと瞬時に分かった。俺だったら100%六本木の子供の方を育てたいな。
■なぜ大人は美術館に行くのか
無論、大人も美術館が大好きだ。好きな人は当然そうだし、そうでなくとも一度ハマれば好きになる。美術館にはそれだけの魅力があると思っている。他の趣味とは一線を画す、自分の教養レベルを高めるための趣味と言えばいいのか。感受性を磨くには美術品がいいと博学者は言う。視野を広げ、教養を身に付けるためには芸術品に触れろと偉人は言う。
■教養とは何だ?
が、教養ってそもそも身に付くものだろうか。その身に付けるべき教養とは、より高いレベルという意味か。視野を広げるということは、高尚で高邁な視点のことか。それは上から目線を身に付けるということか。優位に立つための方便、他を見下すためのツールとして美術鑑賞はあるのか。そもそも教養に高い低いなんて線引きがあるのか。あっていいのか。
それは厳然としてあるし、あっていいし、あるべきだろう。教養イコール単に知識量や情報量でないことは、相当昔から言われてきていた。多方面の知識や情報を取り込み、それらをTPOに合わせて適切にアウトプットできる能力を知性と呼ぶことも。その知性のさらに先に教養はある。
教養は、言ってみれば心の豊かさの自然発露。それを体現している者を教養人と呼ぶ。公平かつ柔軟な対話が出来る自分の姿、その振る舞いや立ち回りが自然発生的に出てくる心の余裕、無理を生じさせることなくそれを続けられる心の強さと許容量を以ってして、何人にも対等に、だけど時には一歩押しながら、あるいは引きながら、その空間を決して壊すことなく話を前に進められる状態を教養が身に付いていると評して良いのではなかろうか。
よって、知識人=教養人ではないし、両者を敢えて言い分けるのもワザとなんじゃないかと思える。両者は全く別物。教養人との対話は前に進むが、単なる知識人だとそもそも話が進まない。根本的な視点の次元が違うのだろう。
多彩な話をするという点で、論客という言葉とも似ているように感じるが、やはり教養人とは別だろう。発する雰囲気というものがある。高圧的なのか、臨機応変なのか。対話すると自然と顔や言動に現れる。
論客と教養人、どちらも話は前に進むかもしれない。だが論客は、その強引さと攻撃的弁舌ゆえに、相手に不快な思いを抱かせるかもしれない。俺のイメージでは橋下徹氏やホリエモンのイメージ。話はポンポンと進む気はするが、押し切られてかなりのダメージを受けそう。爽やかに終わることができないイメージ。後に遺恨を残しそうだ。
だが教養人と話せば、相手も納得した上で話が前に進む気がする。俺のイメージでは…パッと浮かんでこないな。それほどに教養人というのは探し辛い。敢えて挙げてみるなら、小泉政権時代にイラクであった日本人3名拉致事件あたりに、TVで中東専門コメンテーターとして出ていた大野元裕さんなんかは、喋り方にも知性に溢れ、とても分かりやすかった。口調も安定していたし。ああいう人は、知識人という呼び名は相応しくない。教養人と言った方がしっくり来る。そんなことを思ったものだ。
その大野さんも、今では民進党の議員だ。大野さんほどの逸材は、民進党などに勿体無い。むしろ大野さんが表舞台にあまり出ない時点で民進党の底が知れている。その民進党員は、教養人など当然居らず、知識人ですらなく、単なる不平屋集団。話が進まないし、そもそも話が始まらない。だから民進党はダメなんだと、そろそろ気付いてもいい頃だ。
大野さんの他には、そうだな、ヒュー・ジャックマンなんかも教養人的な雰囲気を醸し出していそうだ。紳士というか。まあ実際紳士だろうけど。とにかく聡明で人当たりが抜群という印象はある。そして他者を見下さない。確固とした己を持ちながらも人を愛すという姿勢を自然に備えているからだろう。
結局、イメージこそが肝心なのである。
そのイメージ分析から行けば、たとえばお笑い芸人だと、アンジャッシュ渡部は知識はあるし知性もあるかもしれないが、教養人には届かないという感じ。逆にアンタッチャブル山崎の方が、人を不快にさせない配慮やリアクションを常に心がけているであろうに一瞬一瞬の受け答えの瞬発力が極めて高いことから、より教養人の本質に近いという気がする。頭が切れる、頭の回転が速い、冴えている、そんな表現だろうか。教養とは違うような、だけど単に「頭がいい」という表現では形容してはいけないような、一つ抜けた魅力がある。それが教養人というものではなかろうか。
話がこんがらがって来た。言いたいのは、何のために美術館に行くのか。行く意義や価値があるのか、という点だ。
あと、行きたくとも何処にあるのか分からないという疑問も生じるかもしれない。美術館なんてものは大都市の限られた場所にしかなくて、結局お高く止まった人間達の高尚な遊戯ではないか。そう考えるとどこか敷居が高く感じる。そうなると、美術館に行こうという発想自体無くなってくるという。それら美術館に対する懐疑や抵抗感…。
しかし敷居の高さについては、現実問題大して高くはない。俺等は美術館・博物館の宝庫たる上野公園が比較的近いこともあり、行く回数は多分平均以上だろう。結果、美術館巡りが好きになった。しかし別に上野公園でなくとも美術館、あるいは博物館など砂の数ほど存在する。別に中世・近代ヨーロッパの巨匠達の絵画を展示していなければ美術館じゃないなんて定義はない。
たとえばジブリ美術館だって立派な美術館だし、アンパンマンミュージアムなども本質的には同じだ。有名画家である必要はなく、少しアートに造詣のある人達の作品を飾っている場所なら何だっていい。小学生の粘土細工だってアート。伝統的なアートでなくとも、たとえば鉄道博物館など現代技術が生んだ機械でも十分芸術と言えるのではないか。
重要なのは、平凡を上回る才能や技巧に触れること。その才能や技巧が作品というカタチとして表現されていること。その展示物の集合体であり、その集合体を閲覧できる場所であれば何でもいいはずである。ちょっとした非日常を味わう空間であれば。
その「ちょっとした非日常」が、そのまま美術館の価値であり、意義。そして何のために美術館に行くのかという回答になる。それは視野を広げるためで、心を豊かにするためで、良い意味での教養人になるための手法の一つと心得れば、美術館がいかに有用か、その身で実感できるはずだ。本来掘り起こされていなければならないはずの感性を再発掘するため。時の経過と共に埋没してしまった物の見を取り戻すため。きっと美術館はそのためにある。
とは言っても、やはり「美術館」という言葉自体は重々しく、よそよそしいのも確か。そこへ意識を向けるきっかけが必要だ。非常に興味をそそられるコンテンツであるとか、他の遊びや趣味は飽きたのでちょっと変わった場所に行ってみようとか、TVの特集で見たら何となく面白そうだったとか、好きな著名人が紹介していたので一度どんなものか確認してみようとか、まあ何でもいいのだが。
現代はマスメディアに加えインターネット社会なので、美術館のコンテンツや魅力といった関連情報はすぐに取得できる。その点、便利だ。タイミングが合えば、足を運ぶ気持ちにすぐなるだろう。そして一度意識がそちらに向けば、美術館という選択肢は自分の意識下に固定され、繰り返せば繰り返すほど美術館の魅力の虜になるに違いない。
それには、ある程度の年齢も必要なのだろうか。他の娯楽施設に比べれば、やはり年齢層は比較的は高めに見えるが。
そうかもしれない。俺とて、昔は美術館という選択肢など端からゼロだった。興味も無ければ、行って何になるという意識が強かったように思える。しかし年齢を重ねる内に、その真価が分かり始めた。そう思い込んだ。精神的な位が高まる気分になるのだ。テンションが高まるのではなく、尊い気持ちになる。
やはり、年齢と共に芸術に触れたくなる気持ちも強まるのか。直感としてそう思う。過去のように王族や貴族など特権階級が牛耳るものでなく、庶民も気軽に行って良い場所が今の美術館。知的好奇心を満たせ、歴史的ロマンもある素敵な場所だ。
しかしながら、若い頃はそれになかなか気付けない。旺盛な好奇心は、若いがゆえにもっとエキサイティングでアクティブなものに向かいがちだからだ。必然的に、歴史への興味も薄いまま。美術館は、その歴史とセットで観賞するのが醍醐味なわけで、どうしたって若者からは敬遠される。もちろんエキサイティングでもないどころか、そこから最も離れた場所にあるのが美術館だ。若者としてはますます物足りない。という仕組みだ。若いエネルギーから湧き出る好奇心を満たすものは、他に腐るほどあるのだから。
室内ならゲームや漫画、その他音楽や映像に没頭できる。どれも新鮮かつエキサイティングな世界。感情を激しく揺さぶられる。分かりやすく、目に見える形で揺さぶられるから気軽に入れるし、のめり込み易い。
外に出れば出たで、若ければスポーツで汗を流すのも体力的に苦ではない。スポーツ観戦で熱狂するのもよし。カラオケで声を張り上げるのも、ショッピングで街を歩き回るのも、遊園地のアトラクションではしゃぐのも、ちょっとした旅行だってそうだ。とにかくテンションが高まりまくる。ほんの少しの材料で規定以上に盛り上がれるのは、まさしく若さの力であり特権。飲み屋で大きな声を張り上げ管を巻くおっさんとは盛り上がるまでのプロセスが違う。楽しみ方の本質が多分異なるはずである。だから世代が離れ過ぎると両者は分かり合えない。世代の壁は永遠に、永遠に立ちはだかり続ける。
ただ、そうやって多くの娯楽や趣味、遊びを吸収していくに従い、次第にその情熱も冷め、頻度も下がってくる。物足りなくなったのか、マンネリに飽きたのか、逆に目一杯やり切って完全燃焼したからかもしれない。自分に合わないと判断したので切り捨てたというケースもありそうだ。
いずれにしても、その境地に達するには一定以上の回数をこなすことが必要。それは時間を掛けるということで、そのまま年月を費やす意味に他ならない。年月を費やし、飽きるまで色んなものを貪っていく内に、歳を取るわけである。人生は短いようで案外長いもの。迂遠と言ってもいい。なので同じこと、同じ場所の繰り返しではいずれ飽きが来るのが自然の摂理。それでも飽きないものは、生涯の趣味でありライフワークと言っていいだろう。そういうものがある人は大切にした方がいい。
歳と共に様々なことに対し、飽きる。このプロセスは殆どの人間が通るはずで、水が高きから低きに流れるごとしだ。体力も衰えてくる。軽い足取りでちょっと出掛けることも億劫になる。当然思考能力も低下する。自立的に鍛えない限り、心も身体も年齢に応じて衰退するのは仕方ない。
だから連動して気力も萎む。欲求すら減退し、無関心になっていく。こうなるともう、能動的に何かしようと動くことすら面倒になってくる。結果、視野が狭まる。人は、新しいものを取り込むことによって視野を広められない生き物だから。もう一つ、数少ないものでも突き詰めることで視野を深める手法もなくはないが、他の事象に惑わされず同じ対象に集中することは、広く浅く掻き集めることより遥かに困難なので、現実的ではない。
歳を取れば落ち着く、と人は言う。そうではない。単に衰えるのだ。言い方を誤魔化してもしょうがない。成長できなくなり、成長する気もなくなる。少し困難なものには挑むことすらしない。見ないフリをするのみだ。よって何かに手を伸ばす気力も失せ、今まで得てきた僅かな資産や地位や交友関係、そしてプライドを守るだけの時間へと変質していく。余生と言えば聞こえはいいが、平坦で新たな何かを得られずただ失い続ける時間。死ぬまでは何とか全てを失わないよう踏ん張る我慢の時間である。
そんな我慢の時間だけで果たして生きていけるだろうか。いや、生きていけない。やはり何か心の清涼剤が必要なのだ。手軽に行けて、体力や精神力をそこまで必要とせず、かつ質が高そうに感じられる趣味が。狭まった視野を広げるための趣味が。取り戻すための趣味や余暇の過ごし方が…。
そこで美術館の登場なわけである。あらゆることをやり尽くし、ふと周りを見渡す。今まで想定の外にあった美術館というスポットが、すんなり頭に入ってくる。幸い歴史にも興味が出てきた。なぜなら自分自身、かなりの時を刻み、年齢を重ねてきた歴史人だから。目の前の人物でなく、過去の偉人や歴史上の人物などにロマンを感じる年頃になってきた。のだ。美術館は、芸術の宝庫であると共に、過去の偉人の宝庫、歴史の宝庫。若かりし頃に持っていたワクワク感が再燃すること間違いない。
この点で言うと、神社仏閣も似たような性質を持つだろう。神社巡りや寺巡りが好きなのは大体中年以降だ。俺等も神社巡りが大好きだが、そこで一緒になるツアー客達の顔ぶれを見ると、殆どがご老体、中年、壮年、熟年だ。安心できる場所、かつ安定した場所なのだろう。無駄なトラブルなく、一定以上楽しんでもらえる、そんな確信があってこそツアーなどでは神社仏閣巡りが大人気。俺はそう見ている。
また、その神社をはじめとする史跡で、ガイドの眠くなるような説明にいちいち深く頷くおばちゃん達をよく見るが、それもまた年を取ったがゆえに歴史に興味が出てきた、と言ったところだろう。実際、話を理解しているようには見えないが、頷くだけで深い歴史に触れた気分になれるし、それはそれで楽しみ方の一つ。肝心なのは、新たな娯楽を得た、という実感だ。
新たな娯楽。すなわち神社。テンションを高める必要もない場所で、静かなる情熱を胸に宿しながら粛々と拝見するという、その行為が本人を安心させる。じっくりと、年月を掛けて楽しめる、老いた者達の聖域。それが神社だ。美術館に通じるコンセプトがあるのではなかろうか。
無論、神社仏閣巡りが好きな若者も居るし、美術館だってそうだろう。しかし全体を俯瞰すれば、やはりその二つは熟した大人向けの娯楽だと思える。まあ歴史の宝庫を観賞する権利は、自分自身がその内歴史になってしまう人達に譲って良いのではないか。何事も順番だ。順当にこの世から先に居なくなる人達が先に美術館や神社仏閣を見て、その間若い者はエキサイティングでエロスでデンジャラスな娯楽に興じればいい。自分が年を取れば、かつて老兵達が辿った道を歩けばよいのだ。すなわち同じように美術館へ、神社へ、仏閣へ…。そして最後は仏門へ…。
あと、美術館に惹かれるのはその深みのある歴史背景だけでない。歴史が誇る才能の宝庫という点が重要だ。その才能を発揮し実績を上げることが如何に困難か、ある程度の年数を生きてきたからこそ分かる。だから類まれなる才能を持つ過去の美術家達に対しては素直に尊敬の念を抱く。それも歳を重ねてこその感性ではなかろうか。若い頃は持っていた望んだものに「届きそうだ」という感覚。だけど届きそうで届かない。それどころか全く届かないと思い知る場合もある。だからこそ、それに届いた偉人の偉大さが分かるのだ、と。酸いも甘いも知った年齢に達して初めて悟れることもあろう。
と、そう感じ始めるのは一体何歳なのか。かなりの個人差があるだろうが、様々な事象に「飽き」を感じ、だけど胸を揺らす何かを束の間でも欲すならば、美術館へ行ってみるのがいいだろう。絵画をただ眺めるのではなく、その背景にあった王朝や貴族達の勢力争い、戦争、宗教観、一般民衆の風俗事情など、ありとあらゆる要素が詰まった歴史の証人、それこそが絵画の本領なのだと肝に銘じながら観るのがベスト。そういった物事が絵画から自然と読み取れるようになれば、美術館は君の日常。君はもうハマっている。
そして既にハマっている俺等は、六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーにて開催中の「大エルミタージュ美術館展」へと今日、赴いたのである。非日常を得るために。歴史と、その歴史が誇る才能に触れるために。新たな情熱の灯火を自分達の胸に宿すために。
■大エルミタージュ美術館展の素晴らしさ
東京において美術館の聖地と言えば上野だが、六本木ヒルズも捨てたものではなく、むしろクオリティは最高峰に近い。扱う作品も権威あるものから斬新なものまで、その選択センスはさすが六本木的だ。基本的には外さないと断言していいだろう。
その六本木ヒルズの美術館は、その象徴である中心ビル・森タワー内に設営されているが、同じビル内に二つの美術館がある。52階の「森アーツセンターギャラリー」と、その1コ上、53階にある「森美術館」の二つだ。両者は扱う展示も開催時期も異なっており独立している。
まあネットで「六本木ヒルズ 美術館」とでも検索すればすぐに分かるが、観賞したい展示がどちらの美術館なのか間違えないよう気を付けた方がいいだろう。俺にしても、今回の「エルミタージュ美術館展」について、53階の森美術館でやっているのかとてっきり思っていた次第だ。相当込むんだろうな、と。
実際行ってみれば、森美術館は60分待ちとかとんでもない混雑の模様。だけど良く見ると森美術館でやっているのは歴代アメコミヒーローのオブジェなどを展示する「マーベル展」。こっちの方が一般的には大人気で六本木ヒルズのメインを張っているっぽい。意外だ。
「エルミタージュ展」はその下の「森アーツギャラリーセンター」。予想以上に空いており、10分待ちで入れるという状態だった。チケット売り場でも、マーベル展チケット購入のために並ぶ長蛇の列を他所に、俺等は早々にチケットゲット。入口前で記念写真を撮る余裕すら見せながら、エルミタージュ展に堂々と入場した次第だ。
嬉しい誤算だが、何となく釈然としない気もするな。エルミタージュってそこまで人気ないのだろうか。以前、同じ森アーツギャラリーセンターで開催された「マリーアントワネット展」などは、それこそ溜め息が漏れるほど果てしない行列だったのだが。美術に優劣はない。だがそれでも、エルミタージュ展が他に劣っているとは思わない。
と、熱く語るほど俺はエルミタージュ美術館について知っているわけじゃない。元々、電車広告で盛んに宣伝されているのを見て「ちょっと面白そう」という認識。また、ちょうど今日の朝か、TVでピース又吉がロシア現地のエルミタージュ美術館を訪問、解説するというロケ番組を放送していた。最初の方は「え? 何コイツ偉そうにロシアを語っちゃってんの?」と思いつつ、「このヤロウ、印税ガッポリもらってるくせにタダでロシア旅行しやがって。どうせTV局の経費なんだろ?」と嫉妬心丸出しで番組を観ていたが、さすがお笑い芸人というべきか、又吉のコメントはやはり結構面白い。又吉はロシア文学なども大好きとのことなので、考えれば良いチョイスなのかもしれない。
一時ニュースゼロのキャスターなど似合わないことをしているなと思ったが、やはり自分の好きな文学や芸術について語る方が彼の本領が発揮できるというもの。人にはそれぞれ適性があるとしみじみ感じた次第である。じゃあ俺の適性は…? 色々考えてしまう。
ともかくその又吉によるエルミタージュ美術館紹介番組というタイムリーな出来事も手伝って、ますます六本木のエルミタージュ展に行きたいと切望したのだった。
ちなみに、森アーツセンターギャラリーの「大エルミタージュ美術館展」の音声ガイドは当の又吉。だから前もってテレビで宣伝していたのかと後になって分かった。別に又吉だからというわけじゃないが、今まで音声ガイドなど使ったことがない俺等も、会場が空いていたこともあって一度音声ガイドをレンタルしてみたわけだが、音声ガイドはかなり使える。
音声ガイド。該当する絵にまつわる背景を非常に分かりやすく説明してくれるため、その作品に対する造詣も愛着が涌きやすい、美術館では毎回のように、取り憑かれたように一箇所から動かない客をよく見かける。そういう時、後ろがつかえてるんだからさっさと動けよ、と邪魔に思うこともあるけれど、音声ガイドを着けていたらそりゃあ動けないよな。ガイドの説明が終わるまで動けない。もっとその絵に対する理解を深めたい、気分に浸りたい。そう思うよな。
本来、美術品はベルトコンベアーに流されるように観るのではなく、一つの絵の前に立ち止まり、納得するまで吟味するものだよな。だけど観賞するのは自分だけじゃないから。美術館ってのは大抵の場合混雑していてそれどころじゃないから。もっと余裕を持ってじっくりと堪能したい。常識外の大金を払って絵を収集する富豪達の気持ちが多少分かる気がする。感動的な名画を好きな時に、好きなだけ観ることが出来るのだから。
差し当たり今回は、この音声ガイドのお陰で従来の美術館観賞に比べ遥かに理解度を深めることができた。エカテリーナ二世が身に着けている王冠はこうだとか、紋章の意味はこうだとか、貴族風の男性が胸に手を当てているのは世間で成功を収めたことへの自尊心の表れだとか、絵画に描かれている人物や風景、身に着ける装飾品、表情に至るまで、その見方を教えてくれる。言われたことを忘れないようにメモまで取ってしまう勤勉ぶりだ。
自分の視覚で、そして音声ガイドの力も借りて聴覚で、それらを重ね合わせた五感を使って絵画は観賞するものなのだと、そうすることで貴重な体験が得られ感受性が磨かれるのだと、今回のエルミタージュ展では痛感した次第。特に、メモを取るという珍しい行為。いかにも興味を持っている、勉強しているという気分になる。
それがいいのかもしれない。美術館のような場所では、スマホという便利ツールも使えない。だがそれを補うため、本来の人間が持つ原始的能力を働かせる貴重な契機だと考えることも出来る。己が肉体の各部位、器官を動かして、必死で脳を働かせるチャンスなのだ。
目の前に佇む感動的な絵画を描いた名匠達、何でこんな絵が描けるんだ?どういう脳構造をしてるんだ?と感嘆を禁じえない、常人を遥かに凌駕した彼等巨匠達もまた、その絵画を描く際、機械など遣わず自らの手だけで完成させたはず。人間の五感を持って絵を描いたはず。
だから観る側も同じように生まれた時から持っていた五感だけを使って観るのが礼儀であり義務であり当たり前。スマホはおろか、カメラも何も必要ない。美術館とは、そういう場所。生物としての人間の極みを形にした場所が美術館。人類の宝なのだ。だから中近世、近代に亘る西洋の巨匠達が描いた絵画は至宝とされ、世の王族・貴族達はそれらの絵を収集し、画家達を保護した。戦争が起きても、美術品だけは焼失させぬよう避難させてきた。後世に残すべきだと感じていた身体。歴史を超える人類の宝だと本能で感じていたからである。
そんな人類の宝を観賞する際、野暮な機械など邪魔なだけ。そうは思わないか?
今回のエルミタージュ展も、多くの客達が静かに魅入り、食い入るように各々の胸に思いを馳せていたに違いない。こういう場所だとスマホを出す輩も基本居ないので、ストレスもない。
ただ、1人だけ、スマホじゃないけどニンテンドーDSかPSPか、絵画が展示されている裏の壁に寄りかかってポータブルゲームをプレイしていた女子が居たな。ひっそりとした暗がりの中、液晶画面から放たれる電子の光がやけに癇に障ったものだ。こんな場所で恥ずかしげもなくプレイするその小娘に対しても。スマホは禁止されてるけどゲームは別に禁止されてないからいいんじゃね?とかそういう問題じゃない。空気読めってことだ。何でもかんでも予め言い置かれてないとダメだとか、書いてないからいいとか、本当にただの屁理屈。何のためにここに入ったんだと。こういう輩は美術館に来なくていい。
と、稀に心の中で憤慨しつつも、六本木ヒルズ森アーツセンターギャラリーにて開催された「大エルミタージュ美術館展」は、大満足。チケット代以上の価値があったというか、今まで通った美術館の中で最も理解が出来、心揺さぶられ、記憶に残る来訪となりそうである。
エルミタージュ美術館があるロシア・サンクトペテルブルクの歴史、最初はロマノフ王朝の歴史紹介から始まり、王朝がいかに西洋絵画の収集に熱心だったかという設立への背景などを理解していく。そしてルーベンスとかクラーナハとか? 西洋美術の巨匠達の素晴らしすぎる絵画はまさに胸を打つもので、時に貴族的な、時に庶民的な、さらにキリストとマリアなど多分に宗教観の投影された時代の絵画など、どれもこれも唸るものばかり。一回では物足りない。もっと展示されている絵について知りたい。
そんな衝動もあり、2500円もする分厚いガイドブックを買ってしまった。初めてのことである。つまり、それほど今回の美術館巡りが楽しかったということ。家に帰ったら、今日の感動を忘れないようじっくり復習したい。
というか、本物のエルミタージュ美術館に行きたくなってきた。嫁も「ロシアに行きたいね」などと口にする始末。今まで海外旅行を画策するにしても、ロシアという選択肢はゼロだったのに、美術館一つでこうも急上昇するとは。それほどエルミタージュ美術館という場所に価値があるということで、ステータスが世界的に高いということに違いない。
実際、エルミタージュ美術館は、フランス・パリのルーブル美術館、アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館と並んで世界三大美術館に数えられるほど有名だそうだ。量質ともに最高だと評判も高い。
まあその三大美術館にしても、メトロポリタンではなく、スペイン・マドリードのプラド美術館が三大美術館の一つだとか、三大ではなく五大ならイギリス・ロンドンの大英博物館が入るとか、台湾・台北の故宮博物館は四大美術館の一つだとか、人によって見解がかなり違う模様。しかし三大美術館においてルーブルとエルミタージュだけは完全に固定している感じだ。つまり、万人から見たトップ2というわけ。これは益々行きたくなる。
いつの日かロシア旅行に行けることを夢見て、俺等は六本木ヒルズを後にした。
■ミッドタウンの都会的公園風景
続いて東京ミッドタウンへ向かった。六本木ヒルズから歩いて10~15分と大した距離はないが、どこからどこまでが「ミッドタウン」なのか、俺には相変わらず分からない。一応説明では、「ミッドタウン・タワー」という超高層ビルを中心としたビル群の総称、ありうはオフィスやショッピング、ホテルなど多ジャンルの機能が集約された一大複合施設とされている。が、漠然としすぎてやはりピンと来ないな。
とりあえず、六本木駅を出て外苑東通りから上を見上げると、コナミ、そして富士フィルムのデカいロゴがある2つのビルがやたら目立つ。コナミの方がミッドタウン・イーストというビルで、富士フィルムの方がミッドタウン・ウエストと呼ばれているが、この2つのビルを目印にすると良いかもしれない。そのイーストとウエストの間を歩いていくと、正面にシンボルのミッドタウン・タワーがそびえ立っている。右側のイーストにも左側のウエストにもショップがそれなりに入っているが、左側にはウエストの隣にガレリアというビルがあり、このガレリアが多分ショッピングビルとしてのメインなのではなかろうか。各々のビルがごちゃごちゃと入り組んでいて面倒臭いが、フロアを回っていると結構楽しいのでおススメだ。
そのガレリア側の外周からミッドタウン・タワーのあたりまで、ミッドタウン・ガーデンと呼ばれる区画があるが、綺麗に整備された植林や並木道、公園、テラスなど、都会の中のちょっとしたオアシスを演出したエリアとなっている。芝生の一角にはテーブルやベンチもセッティングされ、着飾った客達がそこに座って高層ビルをバックにサンドイッチやシャンパンを嗜む光景は、いかにも都会的な優雅さを醸し出す。植えられた並木もかなり洗練されているし、ここで花見をするのも悪くなさそう。洒落乙な場所と言える。
とりあえず俺等も、空いているテーブルに座り、ちょうど近くに出ていた出店に並んでシャンパンとバケット的なツマミを購入して都会のオアシスを堪能した。大自然の中で飲む酒もいいが、こういった高層ビルの隙間でささやかな自然を堪能しながら飲む酒もたまには悪くない。
それにしてもその出店、長蛇の列の割にはクオリティが低かった。シャンパンが少量なのはいいとして、バケットセットなんて、美味そうかつ器も大きそうな写真と全く違った。現物は器も小さく、野菜の鮮度も萎れていて全く瑞々しさがない。それで1500円とか有りえない価格だ。こんなのコンビニのサラダセットの方が10倍上等だ。出来上がるまで20分くらい待たされたし、ホントふざけた値付けであった。
■お決まりのプロジェクションマッピング
そんな感じで油を売っている内に日も暮れてきた。ここからが本番だ。ここミッドタウンの自然部分であるミッドタウン・ガーデンの中に、芝生広場という文字通り芝生の広場があるのだが、ここでプロジェクションマッピングイベントを開催中とのことだ。それを観るためにミッドタウンに来たわけである。
イベント名は「江戸富士」。富士山を模した土の山が広場内に造られており、そこにプロジェクションマッピングで装飾するという手筈。ミッドタウン開業10周年記念としてのイベントらしい。プロジェクションマッピングは、都会的デジタルアートで最近のしているクリエイター集団ネイキッドが手がけるとあって、期待は膨らむばかりであった。
個人的にも、10年前といえば俺等が結婚式を挙げた年。式場は赤坂のホテルで、その時ホテルの窓からミッドタウンの夜景を眺めていた。そこからちょうど10年。いわば俺等はミッドタウンと一緒に歩んできたことになり、運命を感じる次第だ。なのでこの「江戸富士」には必ず行きたかったのだが…。
さすがネイキッドの技術力とセンス。「江戸富士」と呼ばれるこの土細工は、昼間の姿はどうみてもただの砂山です。が、夜になりネイキッドのプロジェクションマッピングが加わった瞬間、変哲もなかった砂山は即座にグランドイリュージョン。色彩豊かな光と絵、雅でありながら躍動感とドラマ性に溢れた映像がジェットコースターのように降り注ぎ、観衆も思わず立ち止まり息を呑む。さすがネイキッド。興奮で俺の富士山も爆発寸前だった。
都会のオアシス、ミッドタウン。全てが人工的で擬似的だけど、やはり来て正解だった。
■飲み屋も充実、六本木
プロジェクションマッピングを見た後は、少し買い物してから六本木で飲み屋を探して打ち上げ。結局、芋洗坂入口付近の「一蔵(いぞう)」という飲み屋に落ち着いたが、そこまで混んでない上にしっかりした個室が用意されているので結構使えそうだ。
個室と一言で言っても、完全防備の個室もあれば、薄っぺらパーテションレベルを個室と称する居酒屋もある。だけど大事なのはゆったりさ、そして防音性。その点で、「一蔵」の個室は、フスマのような薄い壁に見えるのに、そこまで周囲の声が気にならない。部屋同士が廊下を挟んで設置されていたり、中央に広めの枯山水的な空間を設けたりと、うまい具合に空気の振動が拡散するよう作っているのだろう。普通の居酒屋とどこか趣が異なる感じで好感度は高かった。
まあ、客層も比較的上品というか、落ち着いて話す客が多かったという理由もあるが。これが場所柄なのか。六本木の店には、外国人も混じりやんちゃで騒がしいギャハハハな路面店もあれば、ヒルズ周辺レストランのように優雅なひと時を過ごすべく落ち着き払った紳士淑女がウフフウフフする店もある。今回の「一蔵」は、立地は前者だけど性質は後者といったところか。周りの雑音がないと本当に心が安定する。
その中で1箇所だけ、五月蝿い男女グループもあったけど。かなり離れた大部屋で、20人くらいは居たか。スーツを着ていたから社会人だろうが、とにかくデカい声が響く響く。完全に学生サークルのノリだ。中でも特に、姉ちゃんがダミ声でアハハ!ギャハハ!ウヒャヒャ!と、もうずっと笑いっぱなし。その音量が完全に公害レベル。メガホンで拡声してるんじゃないかと思えるくらい下品でやかましい笑い方だ。結構顔は可愛いんだけど、こんな女とは絶対付き合いたくないと思った。
というか、場所を間違えている。TPOを取り違えている集団だと思った。たまに、こういう集団も紛れるのが世の常だが、そんなに騒ぎたいならカラオケ屋かクラブにでも行ってくれ。
■六本木の一日
飲んでいる内に夜も深まり、そろそろ帰宅の準備をする時間。昼からヒルズの美術館、夕方からはミッドタウンのプロジェクションマッピング、そして夜は活気溢れる六本木交差点付近で飲み。これほど長く六本木に滞在したのは初めてかもしれないが、その分、六本木の魅力を再発掘した気分である。
新宿、渋谷、池袋なんかより、俺は六本木の方がいいな。また来よう、うん…。
早い再訪を誓い、少し空いた小腹を満たすため途中マクドナルドの新メニュー「グラン」シリーズのバーガーを持ち帰り、家でゆっくり余韻に浸る。出発は遅かったが、それを取り返すくらい活動し、何より充実した一日だった。
こんな休日が毎日送れたら、どれだけ幸せだろう。