20170909(土) 乗馬で正反動が出来ない悔しさ、馬やゾウに餌をやる楽しさ、温泉と酒の喜び

【朝メシ】
・家/アイスコーヒー
 
【昼メシ】
・東武動物公園西園レストラン(カレーライス、生ビール)
 
【夜メシ】
・西新井/居酒屋「甲斐路」
 
【暦】
月 長月(ながつき)
二十四節気 第15「白露(はくろ)」
七十二候 白露初候(第43「草露白(くさのつゆしろし)」 White Dew on the Grass
 
【イベント】
乗馬、温泉
 
 
【所感】
■早起きの辛さ
本日は乗馬の日。レッスン開始が朝9時と早いため、準備や移動時間から逆算して朝5時半に起床する。キュロットやグローブ、温泉用の着替えなどをバッグに詰め込み、シャワーを浴びて、腰痛改善ストレッチは一日たりとも欠かせないのでそれもこなして…。

にしても眠い。マジで…。胡坐をかいて何とか体勢を整えているが、少しでも横になったら昼まで熟睡しそうな勢い。1日はまだ始まってもいないのに早くも倒れそうだ。

昨日は夜メシを食ったのが深夜過ぎ。寝付いたのが1時前。単純に睡眠不足という側面もあるだろう。それは生理上の問題だから仕方ないとは言え、楽しいはずの休日にこんな体たらくでどうする…。

一旦寝入ってしまえば後はない。昏睡した時間だけ、楽しめたはずの時間を、機会を、場所を取り戻すことが困難になる。今まで何度も思い知ったはずだ。二度寝の罪を。味わったはずだ。目覚めてふと見た時計の針が指していた『8時』が、朝8時じゃなくて夜の8時だったと気付いた時の絶望感を…。だから寝るな、俺。出発まで何とか起きていろ、俺よ…。

起立せよ…!

嫁も同じく半分寝ているようで、夢遊病のようにフラフラしながらシャワー室へと歩を進めたり、正座して首だけを獅子舞のようにカクカクさせながら洗濯物を畳んだり、かなり危ない動きだ。大丈夫か?

でも馬にやるニンジンだけは、ちゃっかりと準備済み。ビニール袋にギッシリ詰まった細切れニンジンを馬達(主にパロム)に与えるのが嫁にとって最重要項目の一つというか義務。好きなことは頼まれなくても勝手にやる。かつ進んでやる。乗馬クラブに限らず、それが世間の不文律だろう。摂理と言ってもいい。逆に、本当に嫌なことは頼まれたってやりはしない。これもまた摂理だが…。
 
 
■花の愛で方にも個性
それでいい。楽しみ方は人それぞれだからだ。モノの見方、受け取り方、アプローチする角度、注目するポイント、あらゆるものが各人で違うのが人間の面白さだろう。

例えば今日の朝。乗馬のため西新井駅に向かって歩いている途中、俺等は綺麗に咲いたアサガオ(朝顔)を見つけたのだが、この朝顔一つ取ってもその場に居合わせた俺と、嫁と、亀六(亀のぬいぐるみ)とでは瞬間的に感じた認識はかなり異なるわけで…。

嫁がまず「綺麗な朝顔だね」と言った。人として至ってスタンダードな感じ方と言えよう。面白味に欠ける言い回しでもある。

対して俺は「ふーん、まあ確かにね」と殆ど上の空。朝顔にはあまり興味が無いからそのように素通りしたが、面白味がないというより聴いてて気分が悪いリアクションかもしれない。言葉遣いには気を付けたいところ。

しかし判断材料の軸として、興味があるかないか、道端の何気ない風景に心を向けられる余裕があるかどうかという観点が、当人のリアクションに大きな影響を与えるという厳然たる事実は見逃せない。

そのやり取りの後、亀六が「ユウガオは~、目覚めても~、アサガオになれない~」などと口走った。一体何のことかと訝ると、どうやらそれは平原綾香の「今宵も月」という歌の歌詞らしい。何で平原綾香?と俺などは思ったが、どうやら先週行った平原綾香コンサートのセットリストに入っていた模様。もう忘れたのかと非難される始末だが、俺としては平原綾香は大好きだけど、「スタートライン」とか彼女のミュージカルが俺は好きなわけで、全曲覚える気はさらさら無い。よって「今宵も月」なんて忘れて当然というスタンスだ。

しかし嫁や亀六としては俺のその適当さが気に入らないらしく、「朝顔だけじゃなくて昼顔も夕顔もあるんだよ」と薀蓄を披露しながら無知な俺を責め立ててくる。俺だって昼顔くらい知ってるよ、と反論するも、夕顔なんてあったっけ?という内心は一応隠して平静を装うのが精一杯。

そもそも「昼顔」という言葉には何かよくないイメージが出来てしまった。何でだろ…。そうだ、上戸彩が出ていた「昼顔 ~平日午後3時の恋人たち~」とかいうドラマのせいだ、と思い出す。美しい花を侮辱しやがって何のつもりだよ。しかもこのドラマ、フジテレビらしいじゃねぇか。ほんとフジ終わってんな。

などとネットで諸々調べて思った俺であるが、この間、数十秒も掛からない。馬の操縦は未熟でも、IT絡みの操作なら2級取得者レベルだと自任する。

そんなネット巧者の俺は、さらに朝顔、昼顔、夕顔の他に、夜顔という種類もあることを瞬時に突き止める。その中でも朝顔、昼顔、夜顔の3つがヒルガオ科で、夕顔だけがウリ科で仲間外れだという薀蓄も仕入れた。その後、理論武装した俺が早速、嫁や亀六に対して「これマメな」と昼顔についてドヤ顔で語ったかどうかは定かではない。
 
 
■個性という言葉の捉え方
このように、見方や感じ方はそれぞれで全く違うということ。注目するポイントが各々で異なるから、楽しみ方もそのポイントに沿ったベクトルになるはずで、生きてきた環境やそこで培ってきた価値観が各自異なるから注目するポイントも当然分散するわけで、発着点から既に三者三様だ。同じはずがない。この当たり前を認識するかしないかで思考の柔軟性に天と地ほどの開きが出てくるに違いないし、懐の深さにもきっと関わってくる。

そう考えると、「違っているのが当たり前」と言えるし、場合によっては「違っていていい」という言い回しになるかもしれない。人の真価は本来その『他者との違い』にこそ集約されるはずで、そこを画一化してしまうと一体何が何だか分からない。誰のために生きているのかも分からない。「違うことの自然」を認識した方が少なくともストレスは軽減されるはずだが…。

にしても、「違っているのが当たり前」という見方は、どちらかというと俯瞰的だ。上から超然と見下ろし見渡す視点というイメージがある。反対に「違っていていい」という言い方は、下から見上げるような趣だ。自分自身に言い聞かせるような、何かに立ち向かうような、強がりも似た空気を纏っているように見えなくもない。ともすれば悲鳴にも聴こえるが…。

このニュアンスの違いは一体何か。前者は余裕ある王者の言葉。後者は追い詰められたマイノリティの呪詛のような…。そう感じてしまうのは、俺自身がマイノリティだと自覚しているからか。平静を装いながら、実際は他者に惑わされまくりで超然と出来ない自分自身に対する苛立ちが、自らの思考を支離滅裂にさせるのか。

リアルの人間的交流は別として、記号としての情報開示や情報交換という観点において、ネットやSNSが発達した現代社会は一昔に比べて圧倒的に周囲との垣根が取っ払われている。他者の状況がすぐに見えてしまう。見たくなくても視界に入ってくる、耳に聴こえてきてしまう。自分の中に確固とした核を持っていないと周りの環境に容易に振り回される。周りの声に惑わされる機会が多すぎる。

便利で、しかしある意味生きにくい。それが現代社会だ。ガラスのように繊細な者は生きるのも辛いと感じるだろう。心が痛がりだから、あまり抵抗せず、突き詰めて思考することもなるべく避けて、軋轢を回避して、つまり流されるべきところは流されて…。

だが流されてはいけない部分もある。それが、守らねばならない個性。保たねばならない『個』であり、失くしてはいけない『核』なのだろう。それを無くすと、文字通り「自分を見失った」状態になる。自分を見失えば、周りも見えなくなる。視野がどんどん狭くなる…。

自分自身を省みると、どうか。流されていないつもりではいるが、果たして自分の視野は広がっているのだろうか、それとも日を追う毎に狭量になっているのだろうか。よく分からない。少なくとも自分を全否定した時が最後であるのは間違いない。肯定できる部分はなるべく残すか、新たに作るか…。乗馬だって、きっとその一環だ。
 
 
■否定から争いが生まれる
自分を肯定するのは人として当然。いや、肯定したいという願望がまずはある。そうでなければ自我を保てない。問題はその後だ。自己肯定の後はどうするか。他者も肯定するのか、できるのか。または自己肯定の反動で他者を否定するのか。自己を守るために他者を否定するのか。単に攻撃したいだけのサディストなのか。

あるいは他者の否定ではなく、かといって肯定でもない、いわば許容か。グレーゾーンにも似た曖昧さだが、一定のラインまで許容することで何とか折り合いを付けるとして、そのラインは誰が定めたラインなのか…。自分自身に他ならない。結局、どこまでいっても基準は本人でしかない。

その現実の下、他者との違いをどこまで許容するか。許容の後に肯定や敬意や賞賛という念が続けば良好な関係性となる。その念が本心からのものであれば、少なくともその人は狭量ではないだろう。頭の中での理論としてそう思っているだけならば、まだ見識が足りない。頭の中で思っていないけど表面上分かったフリをするのは偽善。ハナから理解しようとせず拒絶一辺倒ならもう末期。老害が陥り易いパターンだ。俺の身近にも何人か老害が見られる。まさしく害しかない存在。許容限度を越えた老害は消えてもいいと思っている。

それはそれとして、頭で考えることと実際口に出る言葉が同じであるのが基本はベターだろうか。思言一致とでもいえばいいのか、人として安定しているし信頼もできる。その言葉を現実の態度や振る舞いとして実践できれば言動一致。さらに信頼は高まるだろう。先述した懐の深さに関わってもくる。懐深い人間には、説明できない魅力が自然と備わっているもの。老害には生涯と全財産を掛けても得られない資質だ。

それでも基本的に、人間というものは自分中心だ。「自分はこう考える」「自分はこう思う」、あるいは「こうだ」という断言も、しょせん本人だけのもの。他者からの同調を得たとしても、その他者は本心から同調しているのか分からない。面従腹背ならまさしくピエロ。ポリシーや流儀といった言葉も、言い方を換えればマイルールであり、もっと言うならただのエゴ。世の中の仕組みとは、人間同士のエゴの押し付け合い。この図式を塗り替える手法は現時点で到底見つけられない。

己を知り、他も知ることの難しさがここにあり、争いやいさかいが絶えない理由もまたここにある…。

楽しいはずの乗馬においてすら、その「各々の楽しみ方がある」という部分を全員と共有できそうにない。そう感じるシーンも多いし、まさしく今日の乗馬クラブでもその一端を味わった。馬のつぶらな瞳に癒されるとか、そんな生易しいことも言ってらんないな。そう、分かっているんだ。いや、分かっていたんだ、ずっと前から。あの場所もまたエゴの塊であり、我が激しくぶつかり合う人間世界なのだということを…。
 
 
■一筋縄ではいかない乗馬クラブ事情
俺等が入会している東武クレインにて、今日受ける予定のレッスンは2つ。1つ目は朝9時からのベーシックA~馬場。インストラクターは河東氏(仮称)。2つ目が、11時半からのベーシック馬場。インストラクターは鬼頭氏(仮称)だ。3月から通い始めていつの間にか半年経ったが、まだまだ初心者の側と言えよう。自覚十分だ。何しろ未だに頭絡の付け方を忘れる始末だからな。

ただ、乗馬をやっている最中は楽しい。シンプルにそう思う。クレインも色々な評判があるようで大変そうだが…。
例えば、

クレインは他のクラブと違って馬具販売の営業攻勢がすさまじく、金が異常に掛かる。最初に聞いていたのと違うという理由で辞めた会員は数知れず、あるいは資金的に付いていけず退会せざるを得なかった切ない話も数知れず。という巷での定説とか。

本来は上流階級のスポーツだった乗馬を広く大衆に普及させたのはクレインの功績だという声が多い反面、営利主義に過ぎると陰口も叩かれているようだ。その陰口に対しては、最低限必要な管理費を賄うため、経営を維持するため、競馬その他多くの馬業界から引退した馬達を引き取るための受け皿として存続するためには営利を求めるのも已む無し、というのがオーソドックスな反論だ。しかしこの論争に決着が付くことはない。過去から延々と繰り返され、今後も変わることなく繰り返されるだろう。

ただ、「クレインはコストが掛かる」という説は自分の中にも実感としてなくはない。定期コスト以外の臨時出費が多い気はしている。このハイペースで金が飛んでいく感覚は、まるでパチスロ吉宗で大ハマリを喰らっている時のようだ。冷や汗が止まらない…。まあ基本的に趣味というものは、しっかりやればそれなりに経費が掛かるもの。気にしすぎると楽しめなくなってしまうし、続けられる間は続けたいと思っている。

しかし、コストが掛かる割には毎回同じようなレッスン内容ばかりで新しい技術がなかなか習得できない。結果、上のクラスになかなか上がれない。という分析もクレインに常に付きまとう。これは生徒の安全を最優先、事故はご法度というクラブの方針があるためスパルタなトレーニングやハードな反復練習を避けるからだとか、個人レッスンではなく部班による合同練習が基本なので1人1人を細かく指導できないのが理由だとか、敢えて遅々として進まない部班レッスンを取って長期的に騎乗料を吸い上げるシステムこそがクラブの営利主義を如実に表しているだとか、ネット上ではまことしやかに語られている。

真相は知らない。ただ、個人的にはもっとハードにしごいてくれても問題ないと思っている。負荷を掛けずして上達するはずはないし、上達したいのなら相応の負荷は覚悟するべきだし、むしろ歓迎して然るべき。ぬるま湯ほど不幸な生き方はない。

あと、クレインを端的に表す言葉として「メリーゴーランド」という単語がよく使われるようだ。部班レッスンで馬に乗った生徒達が、埒で作られた円をただグルグル回り続ける光景がメリーゴーランドに似ているからそう呼ばれている、と聞いた。だからクレインは成長ペースが遅いのだ、とも。

ただ、遅くても上達はするのが人間。そして同じ時間でも、工夫によっていくらでも密度を濃く出来る。手綱の握り方、脚の使い方一つ取っても、自分で考え、いちいち意識し、緊張感と集中力を保って実践するのと、ただ惰性でメリーゴーランド内を回っているだけとでは天と地の差が生じる。と、インストラクターの先生方から言われてからというもの、自分なりにそれを実践しようと一応試みている。だから自分の中では意外と中身が濃いし、結構疲れる。この「疲れ」もまた充実感の基であるが。

俺としては技術向上のために鍛錬していると自分で納得できているのなら十分に充実感を得られる。また馬にボディタッチできることも得がたい時間だ。乗馬している間の精神状態は総じて悪くない。楽しいと思う。それだけじゃダメなのかね?

まあそれだけじゃダメなんだろう、きっと。しかしその要素を外してしまったらそれこそ意味が無くなってしまう。楽しさを忘れた趣味は、もはや趣味じゃない。ただでさえ腐臭漂う魑魅魍魎の日常を生きているのだから、せめて乗馬の時間くらいは楽しくやりたいものだ。他者への嫉妬とか蔑みとか、そういった悪感情とも無縁で居たい。
 
 
■あまり聞きたくない人間関係
悪感情…。自分で吐き出すのも避けたいし、他者が口にしているのを聴くのも正直避けたいところだ。皆、楽しくやろうぜ、と。

いや、概ね皆が楽しくやっているように見える、傍目には。館内ロビーとかテラスでは、生徒と先生で、あるいは顔見知り同士で楽しく談笑している風だし。厩舎ではオキニの馬に話し掛けながら餌をやったり、その顔は幸せそうだ。洗い場でも和気藹々とした雰囲気が見て取れる。基本的には優しい人種だと思われる。

それもそのはずというか、ここに通う人間は例外なく馬が好き。嫌いなら来るはずない。で、馬が好きなんだから多分動物全般が好きだと推測。そんな人間が優しくないわけがない。

だから、厩舎で勝手に餌をやっていても誰1人咎めない。餌に毒とか盛るヤツがいたらどうすだよ、などと最初の頃は心配していたが、しばらくして無用な心配だと考え直した。なぜなら馬好きな人間が馬に害を与えるわけがないとからだ。つまりは性善説…。

その大前提の下で乗馬クラブは成り立っている。また現実にそういった事例が無かったから今でも制限されてないんじゃないのかな、とも思う。コンサート会場や観劇場での爆破テロが珍しくなくなった世界の昨今、日本では荷物検査があまり厳しくないのも、人件費や手間以前に爆発物を持ち込むヤツなんて居ないという性善説に基いての緩和に違いない。乗馬クラブも同じ理論。

だからこそ逆に、事が一旦起こってしまえばもはや規制を入れざるを得ない。いちいち検査せねばならない。見張りを立てて、監視カメラを設置して…。だがなるべくなら入れたくないし、今のところその必要性もないから放置しているだけ、現実に事が起こらない限りは…。乗馬クラブも同じ理論。

そんなギリギリのラインを背に、運営側は客達の良心を信じて規制の手を緩めている。利用者もその事実を認識しているから、自分が足を引っ張らないよう自らを律する。そんな暗黙の了解や信頼関係で成り立つ世界を事も無げにぶち壊してしまうから、そんな存在に対して人は、大いなる非難を込めて“テロ”と呼ぶのである。

乗馬クラブに通う人間は馬好きで、優しい。これが覆らないスタンダード。好きな馬の居る場所で怒ったり、罵り合ったり、文句を言ったり、争ったりするはずがない。という論法は一応筋が通っている。

だがその優しさは、馬がまず存在しての優しさだ。会員の無償の優しさも愛情も、少年少女のような無垢な心も、何より先にまずは馬に向けられる。いわば馬限定の愛。同質量の愛情や労わりが人間にも与えられるということにはならない。人間に対しては、あくまで外の世界と同じ人間同士のコミュニケーションだ。それはもう本人の性格や資質が全てであり、馬は全く関係ない領域となる。

“馬好き“というステータスは全員共通なのに、”対人間”に及ぶと途端に齟齬が生じ始める。「馬愛=人間愛」とはならない。よって、耳を傾ければ陰口が飛び交い、声には出さねど嫌悪感や蔑みの混じった空気が漂い、目を凝らせばあからさまな態度の硬化や見下しの表情が視界に入ることもある。それは日常と何ら変わらない人間社会の一部。
 
 
■先生に対する評価と好き嫌い
たとえば今日の送迎バスの中。いつもと比べ、東武動物公園駅で送迎バス待ちをする人間が今日は圧倒的に多かった。その理由は確か、毎月前半の土曜日が専用馬の抽選会だったからだと記憶しているが、専用馬を申し込むだけあって、少なくとも俺等より上級者であることは疑いない。実際、申込書を10枚以上持っている強者も見られたし、違う世界の生き物を見ているようだ。

その上級者同士でも顔見知りらしく、混んだバス内では各所で楽しくお喋りしていたのだが、インストラクターの評価について結構辛辣なことを言っている人も居た。「○○さんはノリが軽くて嫌だ」とか「○○先生は無愛想だから合わない」とか、まあ次から次へと出てくるインストラクター品評会。そりゃあ人によって好き嫌いはあるだろうけど、教えてもらってる立場なんだし、もうちょっと穏便に。陰口叩くにしても、努めて面白おかしく話すようにしては欲しいところだな。ネガティブな内容をそのまま言うだけじゃあ芸がない。笑い話に変換できることこそ話し手として必要とされる器量だと思うのだが。俺等は基本どの先生も好きなだけに、あまり聞きたくはない話題だった。全く以ってドロドロしている。

中でも一番気になったのが、「○○先生は下のクラスの人達には人気だよね」と車内の誰かが言ったこと。それは言外に、「私達上級クラスからは人気がない」、もっと言えば「嫌い」と公言するに等しい。俺、その先生かなり好きなんだけど…。

つか『下のクラス』って何だよ、『下のクラス』って。マッタク何て言い草。上から目線にも程がある。そういうアンタ等にだって『下のクラス』だった時代があっただろうに、それを忘れてないか? その時代、自分が同じことを言われたらどう思うのか、少しは考えたのか? 第一、その『下のクラス』の時、助けてくれたのは誰か。初心者丸出しの挙動に目をつむり、温かい目で見守ってくれたのがインストラクターなんじゃないの? という気持ちを抱いた次第だ。

この感覚は決して正解とは言えない。人間の感情は一面だけでは計れないからだ。過去、嫌なことをされたなら、それだけで拒否感を抱くのが自然だ。しかしその感覚は間違ってもいない。俺には、時間が経ったからと言って過去世話になったインストラクターを悪く言うことは出来ない。例外は当然あるが…。

その例外として、レッスンは殆ど受けてないけど、洗い場とか馬装絡みで直近に何度か嫌な思いをさせられたインストラクターは居る。少なくとも俺等はそう受け取った。そんな嫌そうな顔しなくていいだろと。そう考えると、バスの中で批評していた『上のクラス』の方々も、過去色々と切ない思いをさせられたのかもしれないな。人間の心は一筋縄ではいかない。
 
 
■熟練の会員は他者を見下すものなのか
それは対インストラクターだけに留まるまい。会員同士でも、表には出ない無言のプレッシャーや激しいバトルが繰り広げられていることを、俺はここ半年の乗馬クラブ通いで思い知っている。

典型的なのは、先の言い方を借りるなら、下のクラスの人間に対する上級者の態度。明らかな蔑みの表情が見て取れる。もちろん全員ではない。しかし上級者になればなるほど、その率が高まる気がするのは決して気のせいじゃない。疑いもなく、そこには見下しのオーラが漂っている。

例えば今日、嫁が洗い場で馬装解除をしている時のこと。これからは上級者、下級者という言い方で統一することにするが…。その馬はすぐに別の会員が使うようで、嫁は馬装だけ解除していた。次に使うのは上級者だ。嫁はまだ下級者なので。そこまでスピーディに出来るレベルでもない。そこで嫌な思いをしていたようだ。

こういうケースで上級者にありがちなのが、馬装に手間取る下級者を「何ちんたらしてんのよ」という目で見下すという構図だ。言葉には出さずとも態度で表す。ジト目で睨み付けたり、溜め息を吐いたり、こちらが話しかけてもシカトしたり、あからさまなプレッシャーを掛けてくる。やられている側にはそれが分かってしまう。なぜなら目が笑ってないからだ。

嫌味な性格になると行動はさらにエスカレートする。例えば腕組みした指をトントンと鳴らしたり、足でコツコツと地面を蹴ったり。そのリズミカルなコツコツ運動が、どれだけ下級者に精神的ダメージを与えているか上級者は知る由もない。だが知る必要もない。上級者にとって下級者は無価値、取るに足らない存在だからだ。

そう。上級者は下級者と関わることに何のメリットも感じない。優しく教えることなんてせず、むしろ冷たく当たる。話し掛けられてもシカトする。思い知らせるために。お前は道端に転がる路傍の石なのだと、同じ空間に立つんじゃないと…。

場合によっては邪魔だとすら思う。道端に無造作に咲く雑草のように。だからとことん冷徹になれる。刈り取る、邪魔な雑草を。放つ、禍々しいオーラを…。人間としては選ばれし聖戦士の俺だけど、乗馬となれば分が悪い。上級者という名のオーラバトラー達が繰り出すハイパーオーラ斬りにはひとたまりもない。

などと書いている内に無性に腹が立ってきた。まるで乗馬クラブがこの上なくヤクザな場所のようではないか。そんなことは全然ないんだが、上級者はテキパキ動けない下級者を人として扱わない風潮は少なからずあると思われる。その際、相手に分かるような苛立ちのアクションを敢えて取るという点も狡猾だ。

ここで一旦、先に述べた嫁の馬装解除時の不愉快事についての話題に戻ることにする。嫁が馬装解除している時、傍から見ていた上級者が何をしていたかというと、ジト目で嫁を睨み付けていたらしい。それは嫁が馬装解除に手間取っていたことに対してかと最初は思った。しかしどうやらそうではなかったらしい。どこかのタイミングで馬がボロをしたようなのだ。物語はここから急展開する。

馬がボロをした。本来ならそそくさと掃除するところだが、嫁はボロをしたことに気付いていなかった。しかし上級者のガン付けは一向に止まない。何でそんなに怖い目で見るの?と嫁が怯えてながら上級者の様子を伺っていると、上級者は心底堪らないと言った表情で、ハァーッ!と深い溜め息を吐いた。そして直後、嫁に対して馬がボロをした場所を指し示したのだ。手や指じゃなく、アゴで。「あんた、そこにボロあんでしょ、バカなの?」とばかりの態度でアゴをクイッと動かしたわけだ。口で言えよ!

と、嫁はその時心の中で憤ったとのことだが、俺も全く同感だな。普通に教えてくれりゃあいいものを、わざわざ挑発的で侮辱的なパフォーマンスを繰り出す性根。人を人と思っていない証拠であり、驕りと高ぶりに満ちたワンシーンと言える。お前だってボロの掃除すら出来ない素人時代があった癖に。お前はインストラクターか? クレインのオーナーか? ただの会員だろ。偉そうにすんな。

と、ますます腹が立ってきたついでに、俺が経験した上級者達の驕りを一つ挙げてみると…。

俺がレッスンで使う馬を上級者が使っていて、洗い場で戻ってくるのを待っていた時。戻ってきた後、その馬自分が使いますんで~と伝えたら、眼中にないとばかりに無視された。どう見ても聴こえているはずなのに。さらに、当時自分で馬装を一通りするのは殆ど初めてだったので、気を紛らわすためにその上級者に一言二言話しかけてみたが、これもまた完全スルーされた。こっちとしては熟練者に敬意を払ったつもりだが、上級者は俺の姿など目に入らないといわんばかりのスタンスだ。結局、その上級者は、自分の馬装を外すと無言でスタスタと去っていったのだった…。

何様だよこのジジイッ! 無想転生を会得したケンシロウに恐怖するラオウのごとく拳をワナワナと震わせながらジジイの後姿を見送ったあの日のことを俺は忘れない。

他にも似たような事例があったな。上級者の前で自分が馬装解除する前のことだったか。俺はその時、次の人のために馬装を解除するケースと、馬装解除しないで次の人がそのまま使うケースとの2通りがあることをあまりよく知らなかったのだが、とりあえず上級者に向かって「えーと、これは馬装を解いて、いいんですかね」と恐る恐る聞いてみた。それに対し上級者は、「自分の鞍があるんで」と、波打ち際に打ち上げられたイワシを見下ろすかのような能面顔で言い放った。

俺としては「はあ…鞍…ですか?」という心境だが、上級者の言いたいことは汲み取れなかった。「自分の鞍を持ってるから、今馬に乗せている鞍は外して下さいね。馬装は解除して下さいね」と普通に言ってくれりゃあいいのに、わざわざ能面顔で「自分の鞍があるんで」「自分の鞍があるんで」の一点張りだ。だから何なんだよ! と言いたくなるような典型的意地悪ババアのことも、俺は決して忘れない。この種の人間は、相手が嫌がるようなことをむしろ意図的にやるという点で共通している。

他にも事例がいくつかあったけど、大体はシカト系、あるいは威圧系だったと記憶している。大体は洗い場での馬装時だ。というか洗い場以外で上級者と関わることなんてないがね。上から目線とか、小馬鹿にしているとか、さも呆れた風なジェスチャーを取るとか、そういうこと以前に人としてのコミュニケーション能力に疑問を呈したい俺である。

乗馬クラブに限らず、同じ場所に長く居ると人は勘違いしがちだ。その場所が自分の場所であるかのように錯覚する。自分の常識がスタンダードであり、自分のルールが正しいルールだと無意識に考えるようになる。経験が多くなればなるほどに、自分は何でも知っていると思い込みがちだ。その思い違いが傲慢な態度として表に出る。他者に対して攻撃性が高まる。さらに、その相手が自分より劣ると判断したら容赦はしない。

大いなる勘違いだ。そこはソイツ専用の場所でもなければ、ソイツ中心に他者が動くわけでもない。皆が1人1人、自我と意識を有した一個人なのだ。しょせん、自分は数多く居る会員の1人に過ぎない。その当たり前を正常に解釈できない時点でもう自身を制御できていない。馬のコントロールは上手くとも、人の心をコントロールできない。そういう上級者に遭遇して嫌な思いをした下級者は、俺の他にもかなり居るはずである。

だからこそ俺は、そういう上級者達を見る度に「自分はこうはなりたくない」と自問する。反面教師はどの世界でも履き捨てるほど居るということ。相手が上級者だろうが、経験の浅い初心者だろうが、自分からは努めて明るく、決して攻撃の意を示さず穏やかに。

今日のレッスンでも、自分が乗った後、洗い場に戻した時、恐らくベーシックBあたりと思われるメガネの姉ちゃんが待っていた。次は自分が使うからと。かなり自身が無さげな表情。馬装もまだ自分では出来ないクラスだ。なので俺としては笑顔で「じゃあ馬装はこのままにしておきますね」と爽やかに言い放ち、あとは一言二言声を掛けてクールに去ったわけで。それだけでメガネ姉ちゃんはどこか安心したような表情になる。

全く以って何もかも円滑に進むやり取り。しかもそれは。何の労力もなく簡単に出来る仕草。ちょっと笑顔を見せるだけで世の中は円滑に進むのに、嫌な顔をする理由なんて一つもないのに、何でそれが出来ない人間がこの世の中には多いのだろうな。不思議でならない。エレベーターから出る時、『開』ボタンを押してくれている人に「どうもありがとうございます」と謝意を伝えるだけで大変良好な雰囲気になるのに、わざわざ不機嫌そうな顔で出て行くのは何でだろうな。不思議でならない。
 
 
■いい人も当然居ますがね
こんなことばかり言うと、上級者は高慢でいけすかないマイペース野郎ばかりで、乗馬クラブは悪の巣窟のように思えてしまうが、上級者の中にはいい人だって当然居る。そういう人にも何人も会った。

シチュエーションは、先と同じく洗い場の馬装前後になるが、明らかに自分より上の人が馬装を親切に教えてくれたこともあるし、自分が次に乗る馬を指して「この馬はなかなか暴れ馬ですから気を付けてね、ハハハ」と和やかに話し掛けてくれたり、次に遣う上の人が「プロテクターは自分のがありますので、プロテクターだけ外しといてもらえばいいですよ~」と丁寧に指示してくれたり。

嫁も何度か上級者に教えてもらったとか言ってたな。特に印象的なのが、2級だか何だか結構上のライセンスを持っている人が居て、その人の顔を嫁は何故か知っていたわけだが、あるとき嫁が連れてくる予定の馬が厩舎に居なかったことがあった。その時はちょうどインストラクターも見当たらず途方に暮れていたところ、その2級の人が「ふーん、そうなんだ、じゃあ一緒に探そっか♪」と嫁を助けてくれたとか、そんな話を聞いた。まるで我が家のごとくスタスタと歩いていく2級保持者の様子はまさしく主(ヌシ)の風格だが、同じ主でも我が物顔で下々の者達を苛める主か、優しくしてくれる主かで見解は180度異なるのは言うまでもない。とにかく嫁は、相当感謝していたようだった。

こういう人達を見る度に「自分もこうあるべきだ」と考える。反面教師と同じく、見本となる人間も多数居るということだ。少なくとも自分はこちら側の人間でありたい。
 
 
■同じ境遇同士の結束は自然と固くなる
そんな感じで、上の人達の人物批評をしてみたわけだが、やはり同じレベルのレッスンを受けている者同士は打ち解けやすいのだろうか。現在俺はベーシック馬場だが、ベーシックC、B、A、そして馬場と、その時々に顔を合わせていた面子と楽しく話したことも結構あったし、コミュニケーションもマトモに取れていた。

まあ同窓生とか同期生みたいなものだろう。全く違う場所に居るよりも、同じ境遇に居る人間に親近感を感じるのは人間としてごく当然の心情。互いの気持ちが分かるからこそ通じる話もあるし、心の壁も薄くなる。

まあ、そんな同期生達も、いつの間にか殆ど姿を見なくなってしまった…。青年、年配男子、女子、年配女子、小学生…、それこそ色んな世代の同期生が居て、知る限り20人くらいと一定の会話をしたような記憶があるが、現時点で「やあ、これはどうも」と言える相手は3人しかいない。

その内1人は俺等よりもさらに上のコースに行っている。顔を見れば挨拶くらいはする。もう1人は小学生の男の子。彼に付き添っている母さんとも会えば談笑できる関係。あと1人は、顔は前から知っていたが話したことはなく、だが同じベーシック馬場で先週その人と2人だけでレッスンを受けたのがきっかけで、色々と話をする機会があったため顔見知りとなった。

だが、その他かつては顔見知りだった人々は、少なくとも俺等がクラブに通う土曜日には姿を見せていない。遥か上のクラスに上っているか、曜日を変えたか。辞めてしまった人も相当数居るように思われる。理由はきっと諸々。それが人の世とは言え、寂しいものだな。

誰もが生活の中に『軸』というものを持っている。仕事であったり、家庭であったり、自分を高めるための学業やスポーツ、創作活動であったり、心の中に掲げるミッションやライフワークであったり、そして趣味であったり…。

ひたすら上を目指す人間以外の多くの民にとって、乗馬は趣味の部類だろう。各自が目標を持って励んでいても、やはり趣味の領域だ。やっている内に、趣味の範疇を超えて生活の軸の中に組み込まれる者も居る。あくまで趣味としてのラインを崩さない者も居る。だが生活の中で優先順位が低まれば、自然と軸から除外されるだろう。

軸の変化は環境の変化。趣味もまた環境に大きく左右されるもの。だから趣味は生活の軸から外れやすい。それがなくては生きていけない、それをせずにはおれないという、衝き動かされる何かがなければ、趣味はあくまで趣味なのだ。もう居ない人達の中で、乗馬は生活の軸ではなくなったというだけのことだ。

それでもやはり一抹の寂しさはあるな。1日24時間365日の中、ほんの月数回、さらに数十分だけしか顔を合わせない面子。だが毎日数え切れない見知らぬ人間達とすれ違うだけで終わる日々だけに、その数十分の交わりに貴重な縁を感じるのもまた事実。社会的生き物の人間にとって、心の安定は自分にとって特定の何かが在るという事実によってもたらされるものだ。この場合は特定の相手が居るという事実。それがほんの僅かな触れ合いだろうとも。
 
 
■乗馬の上達度
と、気付けば精神論、魂論ばかり述べている。悪い癖だ。肝心なのは乗馬だというのに。ということで、今日はレッスンを2鞍受けた。現状、俺のクラスはベーシック馬場。今日の2鞍で8鞍目と9鞍目になる計算だ。

いつの間にかそんなことに…。正反動もロクに練習してないのに、見極めとか正直やりたくない。少し前、正反動なんてベーシック馬場では殆どやらなかったせいで上に行ってから苦労した、という話を同席した人に聞いてから、中途半端な状態で先に進むことに躊躇いを感じる。もっと早く教えてくれよとインストラクターに愚痴りたくなるが、自分のためにも、正反動をもっと練習してから次に行きたいところ。あーあ、今日正反動やってくんねーかな。

と思っていたところ、1つ目のレッスンである9時からのベーシックA~馬場で正反動をかなり練習させてくれた。今までベーシック馬場で正反動の練習など殆どなかったのに。しかもA~馬場で。インストラクターは河東氏である。
 
 
■ベーシックA~馬場
河東氏は、常歩、軽速歩、とお決まりの流れでしばらくレッスンして時間が半分くらい経過した後、「ここにベーシックAの人は居ますか~?」と質問し、皆が首を振ったのを確認すると、安心したように「じゃあ今日は正反動をやりましょうか!」と、何故か嬉しそうなドヤ顔で宣言した。そのドヤ顔が数瞬、俺の方を向いていた気がする。「せかやらゆうたでしょ?」と言わんばかりだ。その熱い視線の意味に俺は気付いた。

というのも、ちょうど先週の土曜も、今日と同じく9時からのベーシックA~馬場を予約していた。担当は河東氏だ。彼のレッスン自体、数ヶ月ぶりで楽しみにしていたが、あいにくの大雨のためキャンセルしてしまった。その後見たら、場所をインドアに変えて普通にレッスンしていたのだが、キャンセルしてしまい河東氏に何となく申し訳ない気がしていた。

そこから天候は晴れに向かい、午後のレッスンを受けようと洗い場で馬装しているところに件の河東氏が通り掛かった。彼は「佐波さん! 今日は残念でしたね~ぇ」と笑顔と哀愁入り混じる顔で話しかけてくる。俺は、雨じゃなかったらキャンセルしなかったのに、ていうかまさかインドアでやるなんて気が付かなかったですよ~、などとおどけたポーズで弁解しつつ、「川東さんのレッスン久しぶりに受けたかったんだけどなぁ~ッ!」とおだてることも忘れない。

その時「レッスンで何か不明な点とかありますか?」と聞かれたので、「実は正反動を全然やってなくて、マジ不安ですわ」と関西風に不安を吐露してみた。それを聞いた川東氏は、「おお正反動ですか、なるほど! まあ僕がやる時はみっちりバッチリ正反動やりまくるんですけどね~」「じゃあその機会があったらお願いしますよ」などという会話をしたのが先週のこと。

そして翌週である今日、河東氏のレッスンに普通にぶち当たった。彼は恐らく、先週俺が「正反動」「正反動」と呪文のように繰り返していたのを見て、今日かなりの時間をそれに割いてくれたのだろう。なかなか義理堅い川東氏であった。

俺だけでなく、他のレッスン生達もかなり喜んでいる模様だ。聞くに、彼等もやはり俺と同じく正反動を殆どやっておらず不安だったとのこと。俺自身だけでなく他の人達の役にも立てて非常に嬉しい限りだ。

1人だけ、前回ベーシックAを卒業したばかりで今日がベーシック馬場初めての小学生の男の子が居たが、彼にとっては初っ端からいきなり正反動やらされて何が何だか分からなかったに違いない。ちょっと悪いことをしたかな。ただ、後半になっても滅多に練習できない正反動を1回目から経験できるというのは考え様によっては超ラッキー。彼のためにもきっとプラスになるだろう。子供が難関に挑戦する姿を見るのは中々良いもの。俺も嫁も、顔見知りのその男の子のことが結構好きなので、彼には大会とかに出るくらい上手くなって欲しいと願う。

というわけで、インストラクター河東氏の機転によって、大いに正反動の練習が出来た朝のレッスン。正直、ボヨンボヨンと馬に跳ね飛ばされるだけで、あまり習得できた感はない。ミーティングの時、河東氏が右手を馬、左手を騎手に見立てて「正反動のタイミングが合わなかった時はこう、ボンボンボンッ!と余計に突き上げられます、分かりますね?」などと実演してくれたりもしたが、理論では分かっているが実践は多分もっと難しいだろうな。感覚は結局自分の身体で掴むしかないのだ。

何事も慣れるのが必要で、そのためには回数をこなすことが必須。軽速歩だって最初は全く出来なったが、今では気軽に出来るようになっている。きっと正反動も同じだ、と思いたい。

あと、正反動の指摘だけでなく、河東氏からはレッスン中に色んな指摘を受けた。手綱が長いとか、両拳が上に上ってしまっているとか、他のインストラクターにも注意されている項目も多かったが、「なるほどそうだったのか!」と気付かされることも多かった。

例えば馬上での姿勢だが、俺が常歩しているのを見た河東氏が「佐波さんは馬体の挟みがちょっと甘いですね、バランス悪くなりますよ」と言った。その後、「膝で押さえてる感じがします。そうじゃなくて太股で挟んで、内股気味で、でも膝はむしろ離して、そしてふくらはぎでも挟む。鐙を踏む足は内股気味のイメージで。そうするとバランスが取れてぶれないですよ」と説明した。

おお、なるほど! と俺は目から鱗が落ちた気分だ。今まで軽速歩の時なども、たまに左右にぶれるような、あぶなっかしい感覚を何度も味わっていた。多分馬上でのバランスが悪いのだろうと、下半身がしっかり馬体を捉えていないのだろうと。

そう考えると、軽速歩は出来るのに、常歩しながら立つのが苦手だった。ベーシックBあたりまでは普通に出来ていたのに、いつからか立ったまま歩くことが出来なくなってしまった。鐙の踏み方や姿勢が安定していないということなのだろうが、その原因がどうにも分からないまま現在まで来てしまい不安だったところ、今日の河東氏の言葉でピンと来たわけだ。言われた通りにやってみると、かなり安定するようになった、気がする。そのアドバイスを踏まえ、ずっと太股とふくらはぎを意識しながら馬に乗っていた。

恐らく他のインストラクターからも似たような指摘を受けたはずだが、今回の河東氏のアドバイスがやけにすんなりと入ってきた気がする。彼のレッスンは10鞍ぶりくらいで、しばらく彼の指導の声を聴いていない。だから余計に彼の指摘が新鮮に感じたのかもしれない。久しぶりに会ったのでいつもよりも燃え上がる恋人同士みたいなものか。

また河東氏にしても、しばらく俺の乗り方を見てなかったため、パッと見でおかしい部分が一瞬で分かったのかもしれない。例えば、身長120cmの小学3年生の男の子が高校3年時に180cmまで伸びたとして、彼の両親は毎日子供の成長を見てるから、あくまでじわじわと大きくなった程度の認識だろう。しかし6年間彼に全く会っていない親戚が180cmの彼を唐突に見せられたとしたら、「あら随分大きくなったわね!」とまずはそのすさまじい成長振りに反応するはず。サウザーが久しぶりにケンシロウに会った時、開口一番「でかくなったな小僧」とゴツい肉体にまず目が行ってしまったのと同じだ。ベーシックAの最初の頃の俺しか知らない河東氏だからこそ、時間を経て変わり果てた俺の姿を捉えやすかったに違いない。

この「太股とふくらはぎを締める」とうい点を特に意識して今後は練習していきたい。
 
 
■馬の割り当て方
あと、練習にはあまり関係ないが、いや結構関係あるかもしれないが、今日俺が練習した2鞍にて割り当てられた馬は、いずれも今まで乗ったことのない馬だった。

まず、朝のベーシックA~馬場はアラレ。モニタ画面を見て「え?アラレ?」と目を疑ったほどだ。それほど予想だにしていなかった。アラレ自体はベーシックAとか馬場あたりではよく使われる馬のはず。嫁なども結構乗っている。だが俺は一度もない。というか、多分タイプが違う。本来、俺に割り当てられる種類の馬じゃないはず、と。

俺は今まで、クイーンズペスカとかシルクビックタイムとか、暴れる系の馬が多かった記憶がある。あとはハコダテサンサン、シシリー、サンキューあたりも多かったか。今まで35鞍程度乗ってきたが、大体同じ馬が順繰り回って来る雰囲気だった。少なくとも俺はそう感じている。

レッスンで乗る馬はクラブ側が意図的に決める。という説はネットのどこかで見た。乗り手の技量とか適性を見ながら合う馬をあてがっているのだと。逆に、そんなことは全くなくて馬はあくまでランダムで決まる、という説もある。俺は意図的派だ。少なくとも先週まではそうだった。

しかし、いきなりアラレとか予想外の馬が来ると、ランダム説もあり得る気がする。あるいは、暴れ馬系が多かったから、たまにタイプの違う気弱なアラレをあてがってみようなどというクラブ側の分析が介在していたとしたら、やはり意図的ということにもなる。どっちがどっちなのか…。

そんな感じで悩む俺に対し、朝のアラレに引き続き、次のベーシック馬場ではベリーベリーという、これまた全く想定外の馬が当てられる。無論、初だ。ますます馬選別のシステムが分からなくなってきた。

が、敢えて言うならベリーベリーは振動が少ない馬なので正反動のコツを掴むのには向いている。と、そういえば先週インストラクターが言っていた。川東氏ではなく、その時はたまたま雑談していた表氏(仮称)だったが、俺がしきりに正反動正反動言っていたものだから、表先生は「振動の少ない馬をお勧めしますよ」とアドバイスしていたっけ。

その後「何ならマンツーマンで」と続くのはお約束だが、もしかして先週のその会話を覚えていた表先生が、正反動の練習がしやすいベリーベリーをねじ込んでくれたとかいう、粋な計らいだろうか。だとしたら、やはりランダムだけではないという結論になるが…。
 
 
■正反動自主練習できず
まあ、分からないな。分かったことと言えば、ベリーベリーは確かに振動が少ない馬だという事実。しかしそれに乗ったベーシック馬場のレッスンででは、正反動の練習を一度もできなかったということ。せっかくのベリーベリーを有効活用できないままレッスンが終わってしまった。ホント、いつの間にか時間が経っていたことに後悔した。

インストラクターは鬼頭氏(仮称)。常歩、軽速歩もやるが、どちらかというと手綱の使い方と姿勢、何より脚によう馬の圧迫を重んじる人だ。決して蹴ってはいけない。蹴らずに挟め。それで反応が鈍ければ鞭を使え。とにかく蹴るな。これが鬼頭氏の乗馬哲学である。

基本は圧迫だけで殆ど馬を操れる。それさえ出来ればいつでも発進できるし停止も可能。軽速歩だって長く続ける必要なんてなく、3~4回出来れば十分。それよりも、出したいと思った時にすぐ出せることが重要。そのために常歩の時から手綱や圧迫で馬が言うことを聞くように調教しておくのだ。でなければ到底上のレベルでは通用しない。

そんな鬼頭氏、静かそうな見かけと違ってかなり熱い男である。最初は怖いと思ったが、俺等は結構好き。先を見据えて練習プログラムを組むという姿勢も上昇志向で良い。まあ、そのお陰で圧迫の練習に集中しすぎて正反動まで行かないまま終わってしまったわけだが。

そういう場合は、軽速歩の時に自主的に正反動をすればOK、とインストラクターの誰かが言っていた。しかし鬼頭氏は、生徒達が出せと言われてすぐに軽速歩を出せるようになったことに満足したのか、軽速歩で走ったあと5歩くらいで「はい常歩~」と、正反動をさせる隙すらなく終わってしまう。聞き分けの良い生徒達にすごく満足そうな顔をしている鬼頭氏に強く言うことなど到底できなかった。

まあ、そのお陰で鬼頭氏曰く「山のように動かないベリーベリー」を、結構動かせるようになっていた。鞭もしっかり使えたし、途中先頭も任されたし、これはこれで充実したレッスンだった。

正反動にはまだ全然自信はない。だけど少しずつ進んでいる。レッスン後、鬼頭氏がベーシック馬場の4のチェックを普通にしてくれたが、この次は見極めになってしまう。正反動がまだ全然できてないのでスルーした方がいいかもしれない。まだまだ道のりは長そうであった。
 
 
■動物園と風呂と居酒屋
乗馬の後は、いつも通りオキニの馬にニンジンなどをやって乗馬クラブを後にする。嫁は持ってきた餌の半分くらいパロムにやっていたが。乗る機会すら今後殆どないだろうに、まあ、何か気に入るところがあったに違いないう。

その後、東武動物公園で毎度のごとく生ビールを飲み、ゾウに餌をやって、西新井温泉で汗を流し、最後は西新井の馴染みの居酒屋「甲斐路」で美味い酒を飲んで終了。今回の西新井温泉は結構長い間滞在したので、少しずつ読んでいたJOJO第三部を読了することが出来た。

生活の軸に、西新井温泉と甲斐路が随分前から組み込まれている俺等の生活。その中に、東武動物公園という新たな地名が組み込まれつつある2017年、9月のこと。得た軸ができるだけ末永く続くよう…。