20130430(火) 怒りの4月を締めくくったのは、怒りのペンネ・アラビアータ

130430(火)-02【0800~0820】マックコーヒー(梅島マック)《東京・梅島-一人》_01130430(火)-03【2250~2320】ペンネ・アラビアータ、エビと豆腐のグリーンピースのあん煮《家-嫁》_01

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 【朝メシ】(家-嫁)
野菜ジュース、マックコーヒー(梅島マック)

【昼メシ】(職場付近-一人)
コンビニカレーパン

【夜メシ】(家-嫁)
ペンネ・アラビアータ、エビと豆腐のグリーンピースのあん煮

【イベント】
朝マック、GW中日
 
 
【所感】
三日間の新潟帰省も無事終わり、GW前半は恙無く消化された。持ち帰ったのは、実家からお土産にもらった餅と秘蔵のウイスキー。得たものは、盛大な宴会を軸にした三日間の楽しい思い出。心に仕舞ったのは、自分の余計な物思い。蓄えてきたのものは、鋭気と、溢れんばかりの贅肉だった。僕の会社はカレンダー通り。GWの前後に挟まれた中途半端な中日がそこにある。後半開始までの二日間、気だるい平日が始まる。

出社した人間達の締まりのない顔を見るだけで、社内にGWボケが発動していると分かる。僕も同じく。正直、飛び石長期休暇の中日にやる仕事など殆ど存在しない。あったとしても重要性は低い。取引先の殆どが、中日もGW期間の一つと捉えているからだ。なので当然、お客からは電話も来ないし、メールも来ない。基本的な考えとして、相手が居るかどうかも不確かなGWの中日に重要な仕事を充てること自体が間違っているということだ。重要な案件は、GW開始前に全て終わらせておくか、あるいはGW明けまで放置するのが常識的なスタンスである。

というわけで、今日は僕も大した仕事が無い。適当に実績や数字を集計した表などを作成しつつ過ごす。統計や数字の集計などは、どれだけ複雑なものを作ろうと頭をあまり使わないから楽だ。数字に間違いが無いかとか、計算式の参照元に誤りは無いかとか、罫線や体裁の部分とか、せいぜいその辺りを気を付ておけばいい。細心の注意を払うというレベルではない。既に出来上がっている既存の事実や数字を拾い出し、それをまとめるだけでいいのだから。いわば受動態、受身の仕事。客体であり、依存の領域である。ゆえに頭を使わない。極端な話、時間さえ掛ければ誰でも出来る。

本当に辛いのは、そこから先。集計の後。存在する事実を元に、どう改善し、先方に提案し、コンセンサスをとるか。そのための道標やプランを作成するのが最も気を揉むのだ。これは能動態、攻めの仕事。主体的であり自主性の領域に属するだろう。シミュレーションするのも頭を使うし、筋道を立てるのにも気を揉むし、社内外で調整する作業が発生するのでストレスも溜まる。これは、いくら時間を掛けようと誰にでも出来る類のものじゃない。考える人間でなければ、いや考えようとする人間でなければ先には進めない。つまり、やる気の問題である。

やる気さえあれば本当は誰にでも出来る。だけどそこまでやるのが面倒臭いから、ストレス溜まるのは嫌だからと、そこに手を付けない。能動仕事の手前で、受動態の状態で立ち止まってしまう。思考放棄や丸投げや押し付けが癖になっている人間は、能動的な仕事が段々出来なくなる。それは自分の次元を下げることに繋がる。だから、仕事に慣れすぎた人間は、堕落するのだ。かつての緊張感やストレスを避けようとして、安易な集計・分析作業以上のことをしなくなるから。集計して何になる。そこから考えなければ話にならない。さらに、その考えに基いて動ける人間だけが、違うものを手に入れることが出来るのではないか?

とは言え今日の僕は、黙々と数字を拾い、集計し、出来上がったデータを分析するのみ。そこから先は特に考えない。出来上がった資料を視ているが、見てはいない。視線を対象物付近に置いているだけで、注視していない。意識は蚊帳の外。無意識に瞳を落とすのみ。Watchはしていない、seeしているだけ。四次元から三次元を俯瞰するブリックヴィンケルのように、ボクはその数字の羅列をただ眺めていた。

数字をただ見ているだけの僕。周囲はネット検索に耽る人間が、あるいは雑談の坩堝が。「コイツ等、やるんならせめて慎ましやかにやれよ」と怒りが湧いてくるが、別に僕も真剣にそう思ってない。僕も真剣じゃないから。どちらも真剣じゃない。どちらかが少しだけマシ、という次元だ。中日なんてこんなものだよな。こうなることは分かってるんだから、中日も休みにしてくっつけちゃえばいいのに。10連休なんて胸熱すぎる。

そんな弛緩した仕事を切り上げ、早々に帰宅する。今日の夜メシは「ペンネ・アラビアータ」だった。ペンネとは、パスタの種類の一つ。通常の長く細いパスタと違い、短い筒状となっている。端っこがペン先のように尖っているからその名が付いたとも言われているらしい。

日本人が馴染み易い例で分かり易く言えば、マカロニだ。無論、ペンネはマカロニと比べれば、歯応えがしっかりしているし、ソースも絡み易い。まさにパスタの名に恥じない存在感を有している。主食としての主役を充分に張れる。そこがマカロニとの根本的な違いと言えよう。

ひ弱なマカロニは、せいぜいサラダの添え物、あるいはグラタンの中の一食材でしかない。周りに支えられてこそ生きるタイプ。自分一人では存在感を主張できない。よって、それ以上の高みは目指せない。しかも、柔らすぎるので形がすぐ崩れる。確固とした芯が無いということだ。芯が無いので自立性にも欠ける。つまり流され易い、染まり易いということだ。マカロニは、他の物が一緒になった途端、存在感がなくなる。マヨネーズを掛けただけで思いっきりマヨネーズ味になり、イタリアンドレッシングで混ぜ合わせただけでイタリアンドレッシングそのものに同化してしまう。「アナタ色に染まりたいの」と自分の主体性の無さを棚に上げて、自ら男の言いなりになろうとする女と同じだ。自分色に染めたいのが男の願望だとしても、あまりにマカロニすぎる女は避けた方がいいだろう。多少歯応えのあるペンネ女の方が可愛げがある。その頑なさをほぐす楽しみもあるしな、ククク。いずれにしても、マカロニ女はやめた方がいい。

結論としては、ペンネとマカロニは全くの別物だ。しかし形状だけを見ればほぼマカロニ。両者を区分けするためには、「主役のペンネと脇役のマカロニ」という位置付けで覚えればいいだろう。あるいは「頑固なペンネとマヨネーズ負けするマカロニ」という覚え方。ペン先っぽい形状から「ペンネのペンネームはペンネ」という覚え方もある。かなりどうでもいい。何より、余計にこんがらがってきたので、その覚え方は辞めた方が無難かもしれない。

まあ、「マカロニっぽい形をしたパスタがペンネ」と思っておけばほぼ間違いない。幼稚な覚え方だが、僕だって昔はペンネの存在を知らなかったのだし、最初は誰だって知らなかったはずだ。自分が知ったからと言って、まだ知らない人間を笑っていいはずはない。それは浅はかな人間がすることだ。そうではなく、大きなたなごころをもって、優しく、だけど時に厳しく教えを施してあげるのが大人としての在り方だろう。

自分が経験した瞬間、気が大きくなるという豹変。オレは世界を知ったと錯覚し、実は足下しか水に浸かってないという井の中の蛙。経験者になった途端、未経験者を攻撃する側に廻るのは、ハッキリ言って幼稚だ。

自分が未経験者であった時、経験者に笑われた惨めな記憶を、他の誰かに転嫁することで気を晴らすのか? 経験者となった途端、手の平を返したように自分以外の未経験者を蔑むのか? 攻撃される側から解放されからと言って、今度は自分が攻撃する側に回るのか? それはただ心が狭い。余裕がない。そうではなく、かつて笑われた屈辱を知る人間だからこそ優しくなれるのではないのか? かつて笑われていたからこそ、今笑われている人間に優しく手を差し伸べられるはずじゃないのか? 

悲しみを知る人間は人に優しくなれる。修羅を経験したからこそ、余裕が無いように見えて実は大きな余裕がある。だから優しくなる。包容力が自然に身に付く。それが人の成長じゃないのか? 自分がやられたからと言って、他の誰かにぶつけるのはただ狭量なだけで、心に余裕がない小物でしかない。大物は、悲しみを全て受け止め、それを周囲に波及させないものだ。小物は、受け取った悪意を別の形の悪意として周囲に放つから、小物が小物を呼び、いつまで経っても健全な方向に向かわないのだ。そんな悪意の連鎖はどこかで断ち切らねばならない。悲しみの螺旋は誰かが断ち切らねばならない。それが出来る人間こそが大物。それはつまり、勇者だ。誰か勇者はおらんかね?

勇者不在の世の中。あまりに小物揃いで怒りが湧いてくる。そういえば「ペンネ・アラビアータ」の『アラビアータ』とは、イタリア語で『怒り(いかり)』という意味らしい。この名前が付いたいきさつは僕でもよく理解出来る。なぜなら、元々「アラビアータ」という料理はパスタの味付け方法の一つ。トマトソースベースなのだが、唐辛子の量を通常の料理に比べてかなり多くしたり、とにかく『辛い』ことを念頭に作られるパスタ料理だからだ。

そんな辛い「アラビアータ」を食ったらどうなるか。その辛さに顔は赤くなり、ブルブルと震えながら苦虫を潰したように歯を食いしばるという表情になるのは明白。つまり、「怒っているような顔」になるわけだ。ウィキペディアも言っている。「あまりに辛いので、食べるとまるでカッカと怒っているように見える」と。その原因となった「アラビアータ」が、『怒り』というイタリア語から来ているのも充分に納得出来た。

その「アラビアータ」のことは、エヴァンゲリオンに関連付ければなおのこと覚え易いと思う。つまり、碇シンジ、碇ゲンドウ、碇ユイ、そして「碇アラビアータ」だ。「碇」はすなわち「怒り」。であるから、その連想先は自ずと「怒り・アラビアータ」となり、そこから「怒り」=「辛い」となり、一連の連想は終着を見せる。

先述したペンネも一緒にセットで覚えれば、なお良い。つまり「ペンネは頑固、マカロニは軟弱」というくだり。「ペンネは頑固」である。そして「『碇アラビアータ』は『怒りアラビアータ』」である。怒る理由は、『辛い』から。だから、「碇アラビアータ」は「ペンネアラビアータ」。それはとても辛いパスタ。

そういえば、碇シンジも結構頑固だ。よく拗ねるし、よくキレるし。碇ゲンドウは自分の目的のためには他の犠牲を一切気にしない超頑固オヤジ。碇ユイは、ゲンドウ以上に我が侭で自分勝手の頑固ママ。以上のことから、どの角度からどう見ても、「ペンネ・アラビアータ」とは、「歯応えのあるペンネを超辛いソースで絡めたパスタ」であるという結論に至る。「ペンネ・アラビアータ」の謎はこれで全て修了だ。全てのペンネ・アラビアータ卒業者に、おめでとう、おめでとう・・・。

そこで思ったんだが、先ほどの「悲しみを知る人間だからこそ優しくなれる」というくだりについて。そういえば、碇シンジもそんなタイプだな。虐められるし、皆に怒られるし、悲しみを知っている人間だ。シンジも辛かったろう。辛いのは嫌いか? 好きじゃないです。楽しいこと、見つけたかい? ・・・。 それもいいさ。けど辛いことを知っている人間の方がそれだけ人に優しく出来る。それは弱さとは違うからな。悲しみを知るからこそ、シンジは時に優しかったのだろうか。悲しみの連鎖を終わらせる才能を持ったシンジは勇者だな。でも一方では頑固でもあるから、たまにキレるのが玉に瑕。

碇ゲンドウも、ユイを失った悲しみを知っている。だけどその悲しみを、別の誰かを犠牲にすることで解消しようとしたところが頂けない。それが彼の限界。ただただ頑固で自分勝手なオッサンだ。ゲンドウは勇者ではない。碇ユイは、ゲンドウとシンジが悲しみに陥るきっかけを自分から意図的に作り出した女だから、到底勇者とは言えない。むしろ悪魔だ。自分の目的が第一優先で、他者は気にしない性格だから。ユイは勇者ではない。だけど小物ではない。そんな、自分勝手に動いて周りを引っ掻き回す超頑固な女。一番厄介なタイプだ。これで美人じゃなかったら、とっくに男達から総スカンを喰らっている。

こうして碇家の人間を分析してみると、ロクなのが居ないな。結局、一番マシで常識人なのはミサトさんに落ち着くのか。時に厳しく、時に優しく、だけどアツい女。シンジにとって母親であり、妹であり、恋人であり、娼婦であり・・・。ミサトさんこそがイイ女の代名詞だ。レイやアスカとは格が違う。なぜ一番人気がレイまたはアスカなのか。ミサトさんがなぜ一番じゃないのか。その不遇さには納得できない。ただ三十路というだけで人気が落ちるなんて到底納得できない。ミサトさんこそが主役だ。無感情人形なレイでもなく、癇癪持ちのアスカでもなく、まして狂ったメガネでしかないマリなどでは断じてない。ミサトさんが一番。間違いない。そんなミサトさんを騙して弄んだ碇一族に対して、まるでアラビアータを食った時のように怒りが込み上げてくる。

思えば、4月は様々なものに対して怒り続けた月だったな。カルシウムが足りないんじゃないか? 「ペンネ・アラビアータ」は炭水化物がメインだ。カルシウムは期待できない。ならばもう一つの料理「エビと豆腐のグリーンピースのあん煮」はどうだ? 入っているのは、エビと、豆腐と、グリーンピースだが。ちょっとカルシウム含有量を調べてみた。

http://www.eiyoukeisan.com/calorie/nut_list/calcium.html

それによると、グリーンピースのカルシウム含有量は26mgとのこと。少ない。戦力にならない。ならば豆腐はどうか。

「豆腐 150mg」

なかなかだと思うが、カルシウムの多い食材は、500mgとか1000mgなどの数値が出ているから、それらに比べたら豆腐はちょっと心許ない。それならエビはどうなんだ? 何かいっぱい種類があるけど・・・。

「干しエビ 7100mg」

すげぇ、ダントツじゃないか。文字通りケタが違う。でも今日出たエビは干しエビじゃないしな。サイトをよく見れば、桜エビとかもある。

「桜エビ 690mg」

干したものはカルシウムが多いらしい。にぼしとか、しいたけとか。つか、肝心の僕のエビはどうなんだよ。干してないエビ。つまり生のエビだ。多分車エビだと思うけど。えーと、どこだ・・・あ、あった・・・。

「車エビ 41mg」

少なっ!? リーサルウェポンがこれかよ。こりゃカルシウム不足になるわけだ。僕が怒ってばっかりなのも頷けた。

無論、僕は勇者じゃないから、全て自分の中で消化することはしない。そこまで聖人ではない。受けた怒りはどこかで、誰かにぶつける所存だ。対象は相当絞り込むけどな。極限まで絞り込む。他の関係ない誰かにではなく、受けた張本人に、受けた痛みをそのままダイレクトに、むしろ100倍返ししたくてたまらない、そんな衝動 of 4月。

周囲の人間にはなるべく影響させない。だけど特定のターゲットだけに対しては、執拗にダークマターを放出したいし、実際にするだろう。これが、僕だ。僕は言われたことは忘れない人間。つまり根に持つタイプ。正しいとか正しくないとかじゃなくて、ただ脳内に根付いたポリシーが、譲れない矜持がそうさせる。正解じゃない。だけど決して間違ってもいない。憎いから、戦えるんだろ? それもまた真理。負のパワーもまた、生きるための糧だということを、ずっと前から知っていた。

それでも今日はただ、怒る局面の多かった4月という月の最後の日を密かに終える。カルシウム不足の「エビと豆腐のグリーンピースのあん煮」と、怒りのアクセラレーター「ペンネ・アラビアータ」を食いながら、フィスカルイヤーの最初の月を締めくくる。


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20130429(月祝) 新潟帰省三日目 うな重が消えたワケと、玉子とじカツ重が出されたワケ。そして俺の運動能力および気力が低空飛行なワケ

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 【朝メシ】(新潟実家-嫁、義父母)
カメパン、サラダ、天ぷら、玉子とじカツ重

【昼メシ】(新幹線内-嫁)
牛タンつまみ、ビール

【夜メシ】(家-嫁)
お茶

【イベント】
新潟帰省
 
 
【所感】
今朝も10時間くらい睡眠した。布団の中で目が覚めても、未だまどろみの中。目を瞑ればたちまち眠りの園に旅立つ自信がある。身体機能がおかしくなってしまったんじゃないかと疑うくらい、寝ようと思えばいくらでも寝られる状態を保っていた。

終わってみれば、新潟帰省の3分の1は寝ていた気がする。食って、飲んで、温泉に入って、そして寝て・・・。身体が休まったことに間違いはないだろうが、その分、確実に肉体が衰えた。そういえば、来週はマラソン大会じゃないか。さすがに焦燥感を否めなくなった僕は、少し運動するよう自分を鼓舞した。身体を動かさないせいで体力が落ちているのは容易に想像できるし、連日の暴飲暴食で腹が全く減らないフォアグラ状態。この三日間で一体どれだけの贅肉が付いたのか、考えるだけでも恐ろしい。その不安を少しでも払拭するため、運動靴に履き替えて外に出た。

さて、走るか。最初はそう考える。しかし不思議なもので、身体は脳からの命令を無視し続ける。休日というエレメントは、人から運動という意欲を根こそぎ奪うトリガーなのだ。結局、走る気が1グラムも生じなかった。だけど全く身体を動かさないのも自分に負けた気がするので、ウォーキングに切り替えることで妥協する。僕は嫁を伴って約1km先のバス停へ、てくてくと歩く。そこを往復し、さらに反対方向の川がある方面へ歩を進め、合計3kmほどウォーキングした。徒歩だと意外と長く感じる3kmという距離。車や電車などの文明の利器を使わない素の人間にとって、日本はあまりに広すぎた。

歩いている途中、道端に大量の果物が不法投棄されているのを見かけた。聞けば、性悪・自分勝手な人間として近所でも評判の区民の仕業とのことだ。公金で人を雇い、果物を大量生産し、だけどその中には出来の悪いものも結構あったので、それら不出来な果物の処理に困り、結局そこら辺に無断で捨てたようだ。パッと見だけで100個以上は捨ててある。自分の懐を痛めることなく人の金でモノを作り、今度は自分の敷地でない場所に勝手に捨てて他人の敷地を侵害する。大量生産した挙句、その全てのケツを持つことなく、良いものだけを残して悪いものは人に押し付ける。景観を損なう以上に、人の輪を損なう所業だ。その、誰かに食べられるという本来の仕事を果たす前に廃棄されてしまった哀れな果物達の姿に、身勝手な人間の悪意が凝縮されていた。都会だろうと、田舎だろうと、どうしようもない人間はどうしようもない。片田舎で見つけたその無法地帯に胸が痛む思いだった。

それでも基本的には美しい景色。新潟実家は山の中。山はただそこに佇んでいるだけで美しい。その山間に点在する民家と、彼等が移動するために整備された一本の道路。人口が少ないため、車は殆ど通らない。ゆえに周りを気にすることなく散歩できる。その解放感。道路の両端には、スミレやタンポポなど、色とりどりの花が咲いている。森林に囲まれた緑一色の道を、所々に咲く黄色や紫のワンポイントが鮮やかに装飾する。本当にのどかな場所だ。そして本当に綺麗な景色だ。こういう場所を歩くだけで、心が洗浄される気分になる。返す返すも自然は偉大であった。

それにしても、重ね重ね1kmという距離は長いよな。バス停までの片道だけで随分と時間が掛かった。マラソン大会では、その10倍の距離を、しかもランニングするわけだから、冷静に考えれば気が遠くなる話だ。しばらく走ってないからこそ、あんな長距離をわざわざ苦しい思いをしながら走るヤツの気が知れないと思う自分が居る。だけど、その苦しみの先に、えもいわれぬ喜びが待っていることも知っている。だから、みんな苦しくても走るのだろう。走った人間にしか分からない喜びが、耐えて走り切った人間にしか到達できない境地がある。僕も同じはずだ。少なくともまだこの時点では、走ることに対する気持ちは潰えていないはずだった。だけど今のまま放っておけば間違いなく潰える。潰える前に動くしかない。

散歩から帰ってきた後、家の近くで山菜を少し摘み取った。そこいらの丘に普通に生えている。今回採ったのは「たらの芽」だ。オスとメスで見かけに違いがあり、食えるのは基本メスだ。人間だって、メスの方が人の目を惹くし、食べ甲斐があるからな、ククク。まったく、ただそこに居て流し目を送るだけで周囲を惑わすのだから、女というヤツはまったく厄介な生き物だ。

山菜を取りつつ、その丘に駆け上がってみた。丘は土で出来ていて、傾斜50度くらいの急斜面。だけど、頂上まではせいぜい2mくらいしかない。よって、助走を付けて一気に駆け抜ければ、登り切るのにさほど苦労はしない。一定以上の運動能力が備わっていれば、の話だ。1年ほど前、僕はこの丘を駆け上ったことがある。身体を鍛えに鍛えていた全盛期の時期だ。しかもその時は体長80cmのぬいぐるみを抱えながら駆け上がっていた。それでも余裕で頂上に辿り着けた。よほど身体の組織が活性化していたのだろう。

だけど今日、僕はあの時と同じような速度とタイミングで駆け上がったつもりだったのに、登り切るどころか途中でよろけてしまった。結局、そのまま手を付きながら、両手両脚を使って這い上がるという惨めな頂上到達を演じてしまった。まったくもって体たらくだが、たった1年でこうも体力と筋力と瞬発力を低下させてしまう事実に愕然とする。鍛えるのを止めるだけで、ここまで身体能力にダイレクトに反映されるとは、ショックだった。

だけど何よりショックだったのは、それを予感しつつも未だ動こうとしない自分だ。こりゃ、根本的に性根を叩き直す必要がありそうだ。僕にとって、戦闘力および運動能力の保持は一種の信仰に近い。肉体の能力が水準以上であることで、自分に自信が持てる。自分は一応、動物としての能力を損なわないよう努力しているんだと。苦しいことに耐える頑強なメンタルをまだ持っているんだと自分を納得させることで、正気を保っている。ゆえに、それが無くなってしまった場合、立ち直れない気がする。なので今回の無様な肉体低下について本気で心配してしまった。せめてもの救いは、山菜を自分の手で摘み取る機会を得られたことと、たらの芽のオスとメスの見分けが出来るようになった自分の成長くらいなもの。虚しいのう。

朝メシは、先ほど摘んだ山菜等の天ぷらをたんまり食ってから、続けざまにメインディッシュである「玉子とじカツ重」へと移行するというコースだった。相変わらずボリューム満点である。ただ、一つだけ気になることがあった。帰りの朝には毎回定番として出ていた「うな重」が、今回は用意されていなかったのだ。

理由はすぐに判明した。新潟両親曰く、ウナギが売っていないとのことだ。近所のスーパーにも、大手スーパーにも、国産、外国産問わず在庫が全く無いらしい。時期的なものというよりも、入荷自体していないのかもしれないと僕は思った。なぜならば、去年あたり「ニホンウナギが絶滅危惧種になるかもしれない」というニュースを見たからだ。そのニュース曰く、ニホンウナギの生態はずっと分からなかったのだが、遂にある程度の判明に至った。しかし、判明した時には漁獲量が既に激減していたのだとか。ざっくばらんに言えば、「気付いたらそうなってました」ということだ。マヌケすぎる話である。

「じゃあ養殖すりゃいいじゃん?」と言っても、その養殖の稚魚として使う「シラスウナギ」も不漁となってしまったため、その養殖もジリ貧となっている。結果、ウナギは全国的に不漁となった。まあ、生態が解明されていないような得体の知らない魚を平気で食っている人間の神経もどうかと思うが、「ウナギ絶滅の危機」というニュースが流れてから約半年、ようやく一般国民の実生活がその通説に追いついたわけだ。今日の新潟の食卓のように。

最新ニュースが現実として実生活に浸透するのは半年後とか1年後のスパンが必要。IT見本市で展示されている最新機種が、量産・製品化されて一般店舗に売り出されるのには最低でも2年掛かるのと同じだ。いずれにしても、いつも食っていたウナギが出て来ないという光景は、表層だけでは終わらない問題。深い意味がそこには潜んでいる。一家庭では論じきれない世界規模の問題が、ここ新潟実家の食卓に凝縮されていた。

まあ、その代わりに出た「玉子とじカツ重」が美味だったから文句は無いけどな。ちょっとしょっぱかったという評価も出たが、僕としては、水分でちょっとふやけたカツが、絶妙に味付けられた玉子で包まれているそのビジュアルだけでヨダレが止まらない。カツ重もイイね!

ただ、一つだけ気になることがあった。「なぜカツ『重』なのか」という疑問なのだ。僕はすかさず、「何でカツ丼じゃなくてカツ重なの?」と訊いてみた。そんな僕の問いに、義母は「特に意味はない。重箱の方が豪華に見えるから」と淡々と答えた。意味を問い質す以前に、その堂々たる姿によって僕は一もニもなく納得してしまった。真偽の程は分からない。だけど自信満々で説明されれば、たとえ真実でなくとも納得してしまうのが人間の不思議。「言葉の意味は分からないが、とにかくすごい自信だ」と言ったアデランス中野さんは正しいことを言っていた、ということだ。堂々と振舞っていた方が、虚勢を張るには便利。知らなくても、ハッキリと言い切る強さも時には必要ということだ。

こうして最後のメシも食い終わり、今回の新潟滞在は終了。ビールサーバーで生ビールをなみなみと注いだジョッキを帰りの車の中に持ち込む破天荒な挙動も、新潟ならでのノリだ。車に乗りながら、外の景色をふと見てみる。初日に来た時点では、雪がまだ多く残り積もっていた。だけど三日目の今日、その雪の大半が溶けている。ここ数日、ずっと陽気が続いていたからな。それでも、たった三日間での出来事だ。残雪の山景色から、花萌ゆる春の季節へ移行するのに三日と掛からない現実。たった三日で、こうも景色が変貌する自然の気まぐれ。時間の移り変わりは、時に緩やかで目立たない。だけど時に、その変化の過程を見落としてしまうほど急激だ。人智の及ぶ領域ではない。

そんな人智の及ばぬ自然の妙。新幹線に乗る前に寄った温泉施設「麻生の湯」の敷地内でも、その片鱗は窺える。建物の近くに、鮮やかなピンクを咲かせていた花々を見つけたのだ。それを見て、僕は「明けない夜はない」という事実を知る。この花は何だろう。バラだろうか。分からない。だけどキレイだ。そう、キレイだ。その一言に尽きるし、それ以上の言葉は出てこないし、それ以外の言葉は要らない。花には問答無用で人の心を動かす美しさがある。それは決して花だけでなくて。本当に美しいと思うものに出会った時、人は言葉を忘れてただ魅入る。僕は、偶然見つけたこのバラの花の美しさを、頭の片隅に少しでも残せるよう努めた。この新潟帰省を後に想起出来るよう、そのピンク色を無意識に頭の中で関連付けていた。

「麻生の湯」を出て、帰りの新幹線に乗る。新幹線の中でビールを飲みながら、ツマミの牛タンを食いちぎる。最近読み始めた「万能鑑定士Qの事件簿」シリーズに視線を落としながら、僕は今回の新潟帰省の総括をしていた。いつものように食って、温泉入って、寝て。だけど今回は特に、何というか、主に寝てました。それが総括である。

嫁や両親は、そんな僕を見て「調子が悪いのかな」と思ったことだろう。悪いことをした。だけど調子が悪かったわけじゃない。ただ考えすぎただけだ。それ以外はいつもと変わらない。メシはいつものように美味かったし、風呂も気持ちよかったし、僕を取り囲む面々は暖かかった。新潟帰省は、いつもと同じく充実していた。だけど楽しいからこそ、充実するからこそ、もう一歩先に行かなければとも思ってしまう。返せる内に返さねばならないと考えてしまう。

何を返すのか。恩を返すのか。返すとすれば何がいいのか。元気で居てくれればそれでいい、他に特に望まない。そう言ってくれるのが大半だ。返す必要など無いと、殆どはそう答えるだろう。それも分かっている、理屈では。だけど心情的に納得しきれない。自分を納得させることが出来ない。今の自分は、そういう考え方になっている。

返し方にも色々ある。返す必要も本当はない。だけど返す必要があると自身が思っている限りは、返すべきだろう。その返し方に正解は無い。それぞれに合った返し方がある。ただ確かなのは、いつか終わると分かっているからこそ、尽きてしまうと分かるからこそ、動くのは早ければ早いほどいい。結局のところ、誰が何と言ったところで、自分が納得しない限り解決しない。

今回の新潟帰省は、そんな明確に表現できないような心の奥底の、気持ちの部分について考えていた。


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20130428(日) 新潟帰省二日目 野外バーベキューの真髄と、八木ヶ鼻温泉の思索適合性と、義父の寿司握り技術の崇高さ

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 【朝メシ】(新潟実家-嫁、義父母)
うどの酢味噌和え、バーベキュー

【昼メシ】(新潟実家-嫁、義父母)
無し

【夜メシ】(新潟実家-嫁、義父母)
寿司、煮物

【イベント】
新潟帰省、八木ヶ鼻温泉
 
 
【所感】
12時間ほど睡眠した後、早朝メシ。本当によく眠った。死んでんじゃないかと思えるくらい、くたばっていた。それでも思考はクリアにならない。身体も鉛のように重いまま。あれだけ寝たのに回復していないなど、にわかに信じがたいけど・・・。

それでも、早朝メシとしてテーブルに出された山菜の酢味噌和えは、いつも通り美味かった。ただ山から摘んできて味付けしただけの料理。だけど、シンプルゆえに最強。素材の鮮度がそのまま美味しさに繋がるからだ。直行便どころではない、「ちょっとトイレに行って来る」という気軽さで、すぐそこの道端で山菜を摘み取って持ち帰り、2分後にはテーブルに出ている。この採集から盛り付けまでのロスタイムは殆どない。ほぼオンタイムだ。料理は鮮度が命、つまりスピードが命。新潟実家の食材調達速度を持つ環境を僕は他に知らない。ゆえに最強であり、これ以上の料理は無いのである。

採れたての山菜を捨てるほど食い散らかせる環境、新潟実家。都内の高級料亭で仰々しく出される山菜が霞んで見える。そういった事象を考えれば、新潟実家はありえないほど贅沢な環境だ。新潟実家の強み、ひいては田舎の強み。それは自然の幸を、最高の鮮度で調達し、その鮮度を完璧に保った状態で食えるという環境にある。僕は都市部が好きである、楽しいから。だけど田舎も大好きである、料理が新鮮だから。それは身体と、そして心の健やかさに繋がる。俗世的な享楽に身を任せるだけでは得られない境地である。都会と田舎、両者をバランス良く愛するという感性は、今のところ保たれている。僕はまだ正常な証拠だった。

朝メシはバーベキュー。しかも野外。野外というだけで血が騒ぐ。バーベキューだけに限らない。食事だけに限定されない。外で、太陽の下、あるいは月灯りの下で事を成すこと自体に燃えるのだ。もはや動物の本能と言える。燃え上がる僕等は、テーブルと椅子を玄関前に並べ、炭をおこして巨大なステーキや上等な和牛を飽きるまで焼いて、食う。ビールサーバーで注いできた生ビールを、冷蔵庫から取り出してきたワインを、秘蔵のウイスキーを、飲む。それだけで異次元に到達した紀文になる。これこそバーベキューの醍醐味であり本領と言えた。

そういえば僕は、首都圏の著名な公園に併設されているバーベキュー場でバーベキューをした経験がない。皆で企画したり、誘われたこともあったけど、結局実現はしなかった。だから非常に残念に思っていたし、公園のバーベキューに憧れを抱いていた。だけどよく考えれば、僕は新潟に帰省する度にバーベキューをやっている。場所と面子が異なるだけで、バーベキューというコンテンツを実施した回数という点に絞って見れば多分最高ランク。僕ほど回数こなしている人間もそうは居まい。何しろ、新潟に帰れば必ずセットで付いてくるのだ。明らかに頭5つくらい抜けているはず。

だから悲しむ必要は特にない。今回も青空の下、色々なものを食った。厚いステーキを塩コショウでサッと適当に味付けして、それをナイフとフォークで優雅に切り取る。溢れ出てくる肉汁を眺めるだけで辛抱たまらない。薄い和牛を焼肉のタレで水浸しにして、それを網の上に惜しげもなく放り投げる。タレが染み込んだ薄肉は、絶頂なまでに美味だ。ご飯の上に乗せても美味しい。他にも新鮮な野菜やキノコを次々に焼いていき、緑の栄養素をふんだんに取り込んだ。

最後は、何を思ったのか嫁が「バームクーヘンを作る」と言い出した。嫁は、そこら辺に落ちてた太い木を拾い上げたと思ったら、それを網の上に設置して、その木をゆっくりと回しながら、ホットケーキの素を溶かしたヤツを少しずつ垂らしていく。上手く行けば年輪のように少しずつ焼けてきて、最終的にはこんがり焼けた大自然のバームクーヘンが出来上がると自信満々で説明したものだ。だけど上手く行ったのは最初だけ。ホットケーキの素は、焼けて固まる前に、スベスベした丸い木の上から垂れるように次々と落ちていく。いつまで経ってもバームクーヘンの形を為さない。「何で上手くいかないの?」と聞かれても、そりゃあそんな棒っ切れで上手く行くとは思えないし、棒の回転速度も均等じゃないし。とにかく器具と焼き方に問題があったんじゃないかな?としか答えられない。結局、僕等の目の前に最終的に出されたのは、バームクーヘンは諦め、ホットケーキの素の残りをフライパンを使ってキレイに焼いた、どこをどう見ても普通のホットケーキだった。

まあオチは容易に想像できた。だがそれでも、青空の下で食べるホットケーキは、室内で食べるそれよりも遥かに美味しく感じた。だからこそ野外はいい。そして、バームクーヘン初挑戦は失敗に終わったが、そんな何でもアリなところがバーベキューの醍醐味なのである。自由度が高いから楽しい。何でも焼けるから楽しい。野外で皆と、とりとめもない話をして騒ぎながら、好きなだけ飲んで食えるから嬉しい。バーベキューという行事の人気が廃れない理由を僕はひしひしと感じていた。

だからこそ、残念だ。今まで公園バーベキューが実現しなかったことが。バーベキューの回数自体は積み重なっても、面子や場所を変えてのバーベキューは、とりわけ公園でのバーベキューは、やはりまだ未経験。なぜ、あの時実現しなかったのだろうか、なぜ実現できなかったのだろうか。僕の方から積極的に動くべきだったのだろうか。未だに後悔が残る。バーベキューは積極性の証、そして親愛の証。だからこそ、それをやる者は前向きになり、絆もさらに深まる。それは良い思い出となる。それが出来なかったことに対する一抹の寂しさが、僕の胸を襲った。こんなに楽しいバーベキューだからこそ、他の色んな人等ともバーベキューが出来たのなら、どれだけ楽しいことか。

朝のバーベキューを堪能した後、一寝入りしてから温泉へ。今日は三条市の「八木ヶ鼻温泉」へ向かった。その名の通り、天狗の鼻のように突き出た珍しい形の岩山「八木ヶ鼻」を望める爽快な立地にある温泉だ。さらに温泉内には「たなごころの湯」という薬湯があり、それも名物の一つとなっている。露天もゆったりと出来て快適。僕はこの温泉が、新潟の中で上位一、二番目を争うほどに好きである。ただ昨日に続き、僕は長時間風呂に入れる身体ではなさそうだったので、今回もサウナや風呂はそこそこにしておきつつ、休息を主軸に時間を過ごすことにした。喫煙所、休憩所、ロビー、食堂。同温泉には色々な設備がある。暇になるということは少なくとも無かった。

喫煙所でタバコを二本ほど吸う。荒くれ系のおっさん二人が血気盛んに会話しながら乱暴なオーラを放っている。今の非力な僕ではとても勝てないな。奥には、それを冷ややかな目で見るスリムな姉ちゃんが居る。なかなかにミステリアスビューティーだな。喫煙所を出てジュースを二本ほど買って椅子に座る。窓から太陽が照り付けてきて、程よい陽気になってくる。眠い、ちょっと寝るか。椅子に座りながらしばし眠った。

起きてサウナへ。そして湯船へ。さらに露天へ。身体はサッパリ。汗もかいた。特にサウナについては、時間のタイミング的に、館内で催されるサウナイベント「熱風サウナ ロウリュ」にちょうどぶち当たった。一言で言えば、従業員がサウナ室に篭る熱風を、うちわなどで扇ぎ、客にその熱風を吹きかけるという、一種の嫌がらせイベントだ。だが、好みは人それぞれ。余計なお世話と思っていても、そのイベントを好む客は多い。あまりに熱い部屋に居るものだから、正常な思考が働かなくなっているのだろう。好き者達の熱風の宴。それが「熱風サウナ ロウリュ」。紐解くと大体、以下のような展開になる。

超高熱のサウナ室の中、無言で座りながら熱さに耐える客達。その静寂を破るようにドアが突然開かれ、ねじりハチマキを巻いた屈強な男二人がサウナ室に乱入する。男達は開口一番「お待たせしました!」と叫ぶ。別に待ってねーよとツッコむ輩は多分居ない。なぜなら好き者揃いだから。

男達は元気よく挨拶した後、突然説明的になる。「これからロウリュを開始します。熱したマグマのようなこの特殊な石に、ミントの香りがする液体をかけると、そこから発した水蒸気は通常より遥かに高温となります。その熱風を、我々がこのバスタオルをうちわ代わりにして皆様お一人ずつに、まんべんなく送り届けます。それでは皆様、猛烈な熱さをお楽しみ下さい」と、老練な執事のように落ち着き払って説明する。そこまで細かく言わなくてもいいよとツッコむ奴もやはり居ない。好き者にとっては、そのしちめんどくさいやり取りですら楽しみの一つだからだ。

言うが早いか、男達は、超熱い岩に特殊な液体をぶっ掛ける。その瞬間、異常なまでの水蒸気が室内に充満する。ミントの匂いがする。何かとても心地良い。その恍惚をかき消すように、男達は威勢良く叫ぶ。「さあー、行きますよ!まずはこちらのお方から!ウッシ!ウッシ!ウッシ!ウッシ!」と、体育会系のごとき激しい動きでバスタオルをあちらこちらに仰ぎ続ける。そして、まるで50℃を超えるエジプトの砂漠の中、熱砂が吹き荒れるがごとき勢いで、我が肉体にモアッとした熱風が届く。熱ッ!確かに熱ッ!だけどこの瞬間がイイ!

まさしく熱風サウナ。だが、それが逆に楽しい。ゆえに、誰一人として途中で抜け出す者は居ない。僕も同じだ。こういった、勢いだけのバカらしいイベントの方が逆に心が和むのだ。それに、熱いと言っても、逃げるほどじゃないし。かつて友人等と行った広島旅行にて、石風呂(いわぶろ)温泉と呼ばれる天然洞窟のサウナ室に入った時のことを考えれば屁でもない。あそこは真に地獄の業火だった。

広島の岩風呂温泉。そこにはサウナ室が二つある。機械を使わない、地熱すなわちマグマの熱を利用した超自然現象によるサウナだ。その二つの部屋は、それぞれ通称「70℃部屋」と「100℃部屋」の二つなのだが、「70℃部屋」は普通のサウナをちょっと熱くした程度だった。しかし「100℃部屋」は、完全に異次元の世界。入った瞬間、身体全体に凶暴な高温蒸気が付き纏う。いや、身体に張り付く。「暑い」でなく、まさに「熱い」という表現が相応しい。いや、「熱い」という言葉すら生ぬるい。そう、「熱い」ではなく「焼ける」だ。まさしく焼ける熱さだった。

何より息をすることが出来ない。息を吸い込むだけで気管がやられる感覚は、入る人間に死の恐怖を植え付ける。放っておくとマジで身体から発火しそうな身の危険。それを僕は全身で感じた。ゆえに7秒で飛び出した。這いずり出るように、「100℃部屋」の扉を開けた。友人等は僕の無様な姿を見て笑い転げていたが、じゃあお前等入ってみろって、マジで命が危ないから、と死にそうな形相で皆に訴えかけていたっけ。いい思い出、いや恐ろしい思い出だ。アレこそが本当の地獄だ。その時のことを考えれば、八木ヶ鼻温泉の熱風サウナは、涼やかな夏の日のそよ風。気持ちよいひと時であった。

そんな感じで温泉タイムを終え、帰宅する。今日は寿司。義父も今日は出掛ける用事も特に無く、区長を譲り渡した開放感からか、ものすごい勢いで酒をあおっていたっけ。寿司を握るその手さばきは相変わらず職人のようにキビキビとしていたが。この、義父のサマになりすぎている寿司の握り方、そして刺身を作る時の包丁捌きを見るだけで僕は、積み重ねた人間にしか出せない安定感と信頼感、そして深みを肌で感じた。

何かをやり遂げた人間はオーラが違う。義父は、スーパーの多店舗経営で店舗経営の何たるかを自分なりに極め、同時に魚の下ろし方やさばき方も既に職人の領域。実際、店で魚をさばいていたのだから、実戦を経て培った確かな技術と言えるだろう。積み重ね、積み重ね、自分の技にまで磨き上げ、最後は人生において自分に最後まで残る業(わざ)にまで昇華させた。そんな生き方は、素晴らしいの一言に尽きる。

翻って考える。僕には何かあるのか。自分の両手を開いて見てみる。キレイな手の平だ。年季の「ね」の字も無い。僕には一体、何があるんだ。小手先のパソコンテクニックがあったって、それが何になると言うのだ。そもそも僕は、あと何年生きられるのか。それまでに何か得られるのか。やはりそういう考えに行き着いてしまう。

今日は、なかなか面白いTVドラマを皆で観て、興奮していた。だけどそれを鑑賞しながらも考えてしまう。それを制作したであろうスタッフと役者達の生き生きとした顔を見ると、じゃあ今の自分はどうなんだと見比べてしまう。ただ目の前にあるものを純粋に楽しめばいいだけなのに、自省という余計な精神作用が紛れ込む。答えが出ないから、結局今日も早めに寝付いてしまうという流れだ。よほど疲れているのか。新潟という何の枷も無い場所に来たからこそ、解放感に満ち溢れる場所だからこそ、思索の自由度も高まり際限なく考えてしまう。自由に考えられる環境だからこそ、考えすぎて力尽きてしまう。そんなパターンかもしれないな。答えが出るわけでもないのに、しょうがないな。

この新潟実家での触れ合い、団らん。それぞれの家に、それぞれ固有の団らんがある。自分達以外は誰も存在しない、介入できないという強固な結束がそこにはある。ある意味、最強の空間であり、同時に排他的な空気だ。ゆえにその固有結界の構成員にとっては、そこに身を置くだけで心地良い。絶対に疎外されない安心感があるから。その空間において、自分は必要とされる存在だという安心感である。自分は要らない人間ではない、という救済の心がそこに潜む。

だからこそだろうか。その時に感じる気持ちはピュアで一途。すなわち「幸せ」という感情だ。強固な固有結界に居る時、心が満たされる。満たされているから他には目を向けない、振り返らない。振り返らなくても幸せにやっていけるからだ。

振り返るのは、そこに不満がある時だ。既存の固有結界に満足しないから宙に浮く。何か無いかと探してもがく。その固有結界さえ強固であり続ければ、それが揺るがない限り、本来空隙は襲ってこない。そこが揺らいでいるから、空虚が侵入する。それが自分を弱くする。

固有結界にも色々あるだろう。最もストレートなものは、人で形成される固有結界だ。結界内に居る人間が、自分の幸せを約束してくれるという結界。だけどそうでないものもある。例えば、その人個人だけに拠る信念に基いた、想いや衝動で形成された固有結界。人ではない、物でもない、「何かを成し遂げたい」という情動で構成された空間。それが存在する限りは、恐らくブレない。

今の僕にはそれが多分ない。だから恐らくブレている。だから考えが前に進まず、迷宮入りしてしまう。出口が無いので寝る以外になくなる。僕に必要なのは、その固有結界の再形成と中身の強化だろう。義父の包丁さばきのように見事な、何があってもブレることのない固有結界が欲しい。ベッドでイビキをかきながらも、そう切に願っていた。

休みの日までそんなことを考えて。不毛ではあるな。


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20130427(土) 新潟帰省一日目 鯛のお頭付きと生ビールの旨さの影に潜む、集落の暗部と俺の暗部

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 【朝メシ】(東京・池袋~新潟・小出-嫁)
コンビニサンドイッチ

【昼メシ】(新潟実家-義父母)
自作いなり寿司、焼きオニギリ

【夜メシ】(新潟実家-嫁、義父母)
いなりずし、焼きオニギリ、刺身 鯛の尾頭付き、んべい(義妹土産)、うどの酢味噌和え、こごみの酢味噌和え、ぜんまいのお浸し、たけのこの里

【イベント】
無し
 
 
【所感】
GW前半は新潟帰省。昨年の紅葉以来なので、半年以上ぶりとなる。好んで行かないわけじゃない。その主な原因は雪だ。新潟は、特に実家があるエリアは豪雪地帯なので、冬は基本的に帰省出来ない。二階の窓や屋根まで雪が積もるレベルだ。住んでいる当人達ですら身動きが取れなくなるのだから、外部の人間が侵入するのはなおさら困難となる。

新潟実家が言うには、豪雪になる前に食料を1~2週間分ほど買い溜めし、積もった後はなるべく外出せず家の中に引き篭るのが効率性、安全性の面からベターとのこと。クマの冬眠のようなものだ。篭城するのである。

篭城とは、ひたすら城に篭り続ける持久戦。篭りっぱなしでは、いずれ食料が尽きて餓死する。かといって城から打って出れば、ここぞとばかりに敵兵に包囲殲滅させられる。唯一の頼みは外からの援軍。それを当てにして篭城するのである。その援軍が来るまでの間、どれだけの期間、城の中でじっと耐えていられるか。忍耐力よりも重要なのは食料の貯蔵量。食えさえすれば人は生きていける。だからこそ、有事に備えた普段からの備蓄が鍵となる。大震災の時、皆が備蓄の重要性を思い知ったはずだ。

ただ篭城とは、援軍の数が多数の場合に初めて成立する。いくら援軍を寄越そうと少数では意味がない。まとめて討ち取られるだけだ。城の中と外から敵兵を挟み撃ちに出来るほどの大軍が駆け付けてこそ逆転勝利の可能性が見えてくる。城を囲む1万人の敵兵に対し、外から100人の援軍を寄越したところで犠牲者が増えるだけ。少なくとも半分の5千くらいの援軍が必要だろう。

いずれにせよ、篭城をするにしても、その篭城から打って出るにしても、城内の味方を助けるため援軍に向かうとしても。万全の準備が整ってから実行に移すべき。雪の中、僕等が新潟実家に行くということは、篭城中の城を囲む圧倒的多数の敵兵を蹴散らして城に駆け付けようとする行為と同じ。そんなリスクを冒さずとも、雪が溶けた季節に行けば良いのである。新潟実家の両親も「来ても意味が無いから来なくていい」と言っているし。雪の地域って大変だよね。積雪5cmで大騒ぎする東京が笑い物にされるのもよく分かる。

というわけで、久々の新潟。従来は新幹線を使うのだが、今回は行きだけ高速バスを使った。コスト的にキツくなってきたので。新幹線を使けば、東京~長岡まで1時間半、だけど片道で一人8000円かかる。対して高速バスは、所要時間は4~5時間で、しかも道路状況によってもっと遅れることもザラだけど、運賃は片道3000円程度。金額的に新幹線の半額以下、ともすれば3分の1近くまで抑えられる。その点は非常にリーズナブルだ。本当は全てそうしたいのだが、帰りの翌日は大体仕事なので、長時間移動であまり疲労したくないし。僕が腰痛持ちだから、長時間座っていられないというのもあるし。色々と申し訳ない気持ちではあるが、せめて今回の往路だけは金銭的に浮いたので良かった。

早朝、池袋の高速バス乗り場へ向かう。今まで僕が見た早朝の池袋と言えば、裏通りに放置された生ゴミに大量のカラスが群がる光景と、鼻をつく異臭。とにかく非常に不快だった。しかし今回行ってみると、以前に比べて裏道が小奇麗になっている。豊島区が池袋の街を改善しようと動いたのだろうか。無論、昼や夜になれば暴力とエロスとカオスに満ちた街になるのだが、少しだけ池袋を見直した僕である。近くのコンビニでサンドイッチを買ってからバスに乗り込んだ。

バスは関越道を通り、上里サービスエリアで一度休憩を入れた後、新潟を目指す。僕等は新潟の大分前の小出インターチェンジで降車し、そこで実家両親の迎えを待つというルートだ。途中の上里SAは、相変わらず人でごったがえしていた。いつにない行列も見られた。その行列の視線の先には、可愛らしい着ぐるみが何体か並び、愛らしく躍ったり、子供達と握手したりしていた。着ぐるみのタスキには「ぐんまくん」と書いてある。群馬県のご当地キャラのようだ。サービスエリアというポイントは、まさしく放っておいても人が集まる場所。ご当地キャラおよび特産物をアピールするには打ってつけなのだろう。逆に言うと、サービスエリアしか選択肢は無い気がする。なぜなら、彼等はマイナーだからだ。マイナーキャラがメジャーな場所で勝負したところで勝てるはずがないからだ。

例えば、同じように集客力のあるディズニーランドとか、東京ドームとか、JRの駅前などに「ぐんまくん」が登場したとしても多分、意味はない。少しは珍しがるかもしれないが、客は大して心動かされないだろう。ミッキーとかジャビット君に比べて「ぐんまくん」は知名度で遥かに劣るからだ。駅前にしても、みんな忙しいから「ぐんまくん」に構っている暇はない。結局、誰も群馬県のために金を落としていかない。そこへいくと、サービスエリアなどは、車を降りてからしばらく時間を潰そうと考えている客が多いから、マイナーキャラに目を向ける心が余裕もある。そして懐も緩くなっている。だから金を落としていきやすい。マイナーキャラで最大の効果を上げるためには、サービスエリアほど適切なポイントは無いと言えた。

そんな上里SAを抜け出し、小出インターを目指す僕等。基本的に、池袋~小出までの所要時間はおよそ3時間半と謳っている。しかし時間通りに着いた試しは今まで無かった。いつも混雑する時期に利用するので大体、5時間とか、悪い時には6時間くらい掛かったものだ。しかし今回は、予想以上にスムーズにバスは進んだ模様。結局、30分くらいの遅れで済んだ。むしろ、想定より早く着きすぎたため、両親がまだ迎えに到着しておらず、僕等が30分ほど小出インターで待つハメになったという状況だ。珍しいこともあるものだが・・・、

その小出インターは基本ショボい。ショボかった。バス停留場所には、半分腐ったような板で建てられた待ち客用のボロ小屋が一軒ポツンと建てられているだけ。周囲を見ても、マトモに車を停める場所もなく、何年も前から捨てられていた廃車がずっとそのままだったりと、何しろ寂れたインターチェンジだった。

しかし今回、そのボロ小屋がキレイに建て替えられていた。ヒノキ板の残り香が伝わってきそうなつややかな素材は、造りたての新築小屋を容易に連想させる。中にあるベンチも、以前の座っただけで崩れそうな長椅子から、頑丈そうな新しい長椅子に入れ替えられている。しかも2つも備付けてある。その小屋の周りも、送り迎えの車のための駐車場がキチンと整備されていた。グレードアップにも程があるというか、その二点だけで小出インターが生まれ変わったように見えた。

まるで、ウジ虫からチョウに羽化したかのよう。財政難の小出市が珍しく奮発したのだろうか。地方債でも発行して金が入ったのか。ともかく、マイナーな一地方のちょっとした場所で感じた変化。5~6年の歳月を掛け、小屋と駐車場という限定ポイントではあるが確かな変化が生じた。こんな誰も見向きもしないような、見捨てられた一エリアですら、時間が経てば風景が変化するのだから、人口過密の大都市ならばなおさらだ。それこそ週単位、一日単位、場合によっては分単位で目まぐるしく移り変わる。そこに人が関わる限り、どんな過疎地でも諸行無常の摂理からは逃れられない。

人間も同じだろう。建物や道路などの無機物ですらそうなのだから、有機物の筆頭たる人間が変わらぬ道理はない。人の心がいつまでも同じなわけはない。全ては時の経過と環境の流れのままに、色褪せ、薄れ、消える。それに代わり新しいものが入る。その繰り返し。人の心こそ諸行無常だ。その様が何となく悲しい。考えるだけで寂しい。分かっていても胸が締め付けられる。

この小出インターの5~6年を掛けた小さな変貌は、この世界に横たわり続ける世の摂理の一旦。人間世界の縮図だ。その変化に関わる人間の数、そして掛けた時間が違うだけ。最終的に変化することに変わりはない。風景が変わって、環境が変わって、人が変わって、自分も変わって、何が残るのか。それでも最後まで残るものがあるのか。諸行無常に逆行する、そんな永遠不変のものが・・・。世間的には違っても、そう思う本人が生きている間だけでも不変であれば、それは不変だ。そんなものが果たしてあるのだろうか。僕は、予定よりも早く着いた小出インターの寂しい景色を眺めながら、見上げた雨空に向かって、自らの中にある哲学めいた想いを解き放つ。バス、予想よりも早く着いちゃったなあ。それはそれで嬉しいけど、手放しでは喜べない状況だなあ。そんなこともふと考えながら。

なぜなら、早く到着するということは、渋滞が少ないことを意味するからだ。つまり、昔に比べて新潟方面に移動する車両が減ったという予想が立てられる。三段論法で考えれば、新潟の人気が落ち込んだという証明になる。実際どうなのか知らないが、初めて新潟に訪れた時に比べて確かに人は少なくなっている。無論、一番のターニングポイントは東日本大震災の時だったとは思うが、それ以降も様々な観光地や施設を見る限り、客足は回復しているように見えない。

思い当たる節はある。新潟が得意とするウインタースポーツは廃れ気味。一時期、県を上げて取り組み大いに活性化した温泉ブームも過ぎ去った。ならば、新潟に用は無いわけで。人が減ったのも必然かもしれない。いや、元に戻ったというべきか。新潟とは、元々そういう土地のはずだから。僕等にしたって、帰省時は温泉に浸かるだけで、後は家でメシを食って終わり。目的は限られている。僕等ですらそうなのだから、元も縁の無い人間ならば、用が無くなればなおさら来るはずがない。

そう、帰省であれ観光であれ、誰だって目的は限られている。その限られた目的が自分の中で重要性を失ってしまったら、行く必要を感じなくなって当然だ。基本的に人の心は移り気なのだ。一度心が離れてしまえば、もう取り戻せない。人の心は儚くて、世の中の移り変わりは虚しくて・・・。一抹の寂しさを感じながら、小出インターから義父母の車に乗り込んだ。

義父母と合流後、とりあえず昼メシを食う。本来ならば、外にダンボール紙でも敷いてピクニックばりに食事するのだが、今日はあいにくの雨。義母の作ってきた弁当を狭い車の中で広げ、缶ビールと共に乾杯した。昼からビールは当たり前。弁当の内容は、いなり寿司と焼きオニギリ。普通のオニギリが出てくるいつもの帰省と違っており、なおかつどちらも僕の大好物だ。最近僕の元気が無いと聞き付けた義母が、敢えて用意してくれたのだろう。その気遣いに感謝しつつも、気遣わせてしまう自分の現状が心苦しい。いなり寿司は店に売っているものよりも甘く、だけどしっかりとした味だった。焼きオニギリは、醤油でなく味噌を塗っているタイプで、見事な焦げが付いていた。どちらも旨い。店で食うよりも圧倒的に旨かった。義父母の心を感じ取った、そんな雨の日の車内でのこと。

弁当食った後は、長岡市の「川口温泉」へ。かなり広い温泉で、地域では人気の温泉施設である。そこで、いつもより短めに約4時間ほど過ごした。人気店だけあって客は多く、全部で4つある休憩所が全て塞がっているほど。どれだけ景気が悪くても、集まる場所には人が集まるものだ。ディズニーしかり、スカイツリーしかり、まるで不況知らず。いくら節約・節制しても、人はどこかに必ず金を落とすものだから。慎重な現代人の財布の紐を緩めさせる力を持つ場所、引力を持った場所、景気に左右されない魅力を持つ者こそが、時代を超越した本物と言える。川口温泉は、サウナや風呂はスタンダードの域を出ないが、露天から眺め下ろす絶景を備えた立地条件と、加工のない天然の源泉を有している分、他と一線を画する。館内には美味しい(らしい)レストランもある。休憩所も大人数を収容できる。他の温泉に比べ、人気の理由が分かる造りをしていた。

ただ、景気に左右されない川口温泉の中に居ても、僕の心は不景気のまま。物思いは何処であろうと自動的に展開されてしまうようだ。普段であれば、サウナ室に5~6回は入って「体重がまた絞れたぜ」と鏡を見ながら自分の肉体に惚れ惚れするパターンだが、今日はそのサウナも1回きり。それ以前に肉体がみすぼらしい。衰えに衰えた自分の身体を見ること自体が恥ずかしいわけだ。何より疲労していた。心もそうかもしれないが、身体もぐったりと疲れ果てていた。サウナの熱気に耐えうる体力も無い、あまり物事を考えられない。僕は風呂に入ることよりも、休息をメインとした温泉タイムを過ごすことにした。

そんなわけで、川口温泉内ではあまり根を詰めたことは考えずダラダラと過ごす。まず館外の喫煙所でタバコを数本吸う。入口付近では、新潟産のニンニクやら塩やらを街頭販売している。その中の「ひげニンニク」とやらは試食も出来るようだ。調理器具を使い、油で揚げる。揚げたてを試食できる。「よかったらどうぞ」という姉ちゃんの言葉に従い食ってみた。まあまあだな。だが飛び上がるほどの美味さは無い。買うほどでもない。だけど嫁は、押しに弱い性格のためか一袋買っていた。

しょうがねーなと思いつつ、館内に入りジュースを二本ほど買って椅子に座る。そこでちょっと寝入ってしまった。次に風呂に入る。15分ほどサウナに居たが、耐えられなくなってすぐに出る。源泉、露天などにも長くは浸かっていられない。相当体力が落ちているな。一旦風呂から出て寝るか。館内通路にあるソファーにグッタリとして30分ほど寝入った。

次に館外に出て、また喫煙。該当販売の姉ちゃんが暇そうに「ひげニンニク」売場に立っていた。そして、どう見ても買う気ゼロと分かる暇そうな爺さんの話し相手をさせられたりしていた。僕としては、その「ひげニンニク」の隣にある「激辛ひげニンニク」に興味があったのだが、試食は出来ないらしい。ならばやはり買う意味は無い。そう思ってしばらくタバコを吸っていると、姉ちゃんと同じ販売のスタッフらしきバーコードオヤジと、仕入業者っぽい兄ちゃん二人が雑談を始めた。

業者「どうすか、売れますか?」
姉ちゃん「ひげニンニクはそこそこです」
オヤジ「それよりも、なぜか塩が売れてるよ!」
業者「塩?マジっすか?オマケみたいなもんなのに」
オヤジ「客が勝手に買っていくんだよ、ウハウハだよな~ワハハw」
業者「ですねーハハハッw」
姉ちゃん「はは、は・・・」

お前等、目の前にその客が居るのに、客を小馬鹿にしたような話をするなよ。しかも大声で。これだから接客の何たるかも知らない田舎オヤジは困る。姉ちゃんだけは、何となく言葉が憚られるように苦笑していた。うむ、この姉ちゃんは見込みがあるな。よし、それじゃあ僕は塩を買ってやろう。自制を効かせた姉ちゃんの売上に貢献するために。「ひげニンニク」は嫁が既に買ってしまったしな。バーコードオヤジ曰く、客が勝手に買っていくという噂の塩が、どの程度なのか試してやろうじゃないか。僕は、オヤジや業者が立ち去った後、姉ちゃんに歩み寄り、しばし雑談した後、「その塩下さいよ」と持ちかけた。姉ちゃんはビックリしたような顔で僕を見返したが、好意の持てる人間には少しでも何かをしてあげたいのが人情。たとえ初めて会った人間でも、だ。いや逆に、初めて会った人間だからこそかもしれない。人嫌いになりつつある昨今だからこそ、誰も知らない場所での一期一会を大切にしたいと思った。

しかし、噂の新潟の塩。たったこれだけの量で600円か、高いな。同じ量ならスーパーで100円で買えるぞ? まあいい。まだ雪が残る新潟、その寒空の中、ジャンパーを羽織り頑張って実演販売している姉ちゃんへのご褒美ってことで。館内でぬくぬく過ごし、たまに外に出てきて売行きを確認する怠け者のバーコードオヤジのためでは決してない。でも、僕が支払った640円は結局、姉ちゃんより地位的に上であろうオヤジの懐にいっぱい入るんだろうな。忸怩たる思いを抱くがどうにも出来ない。他人の団体にまで干渉は出来ない。そこまでの権力はない。僕はただ心の中で嘆くのみだ。そんな無力な自分が腹立たしかった。

そんな感じで、タバコ、短い風呂、睡眠というループをダラダラと繰り返して時間は過ぎ去っていく。まさに無気力人間の手本のような過ごし方だった。どうしようもないが、しょうがない。僕等は夜メシを食うために家へと車を向けた。その車の中でも、僕は後部座席でグッタリと寝入ってしまう。まるで屍のように。そういえば高速バスでも殆ど寝ていたな。どんだけリビングデッドなんだよ・・・。

あんまり関係ないが、高速バスについて。僕等は新潟行きのバス会社に、いつも「越後交通」を利用している。オーナーは田中眞紀子だ。代表取締役副社長だとか。先代・田中角栄時代から受け継いだ遺産だ。新潟は田中一族の牛耳る田中王国だと言われて久しいが、未だにその名残は新潟という地に強く根付いている。特に角栄時代に生きた人々、今で言うところのお爺ちゃんお婆ちゃん世代は、当時の信仰そのままに田中絶対視の見方がまだ相当強いらしい。新潟の実家に居る義父母からそう聞いた。

確かに外部に居る僕ですら、その雰囲気は感じ取れる。空気の読めない言動を乱発する眞紀子が未だに政治生命を絶たれないのは、新潟県民の未だ根強い田中家信奉がその原因の一つだろう。外部から見れば裸の王様、誰も相手にしていない。だけど彼女は生きて、相変わらずわめき散らしている。新潟という限定された地域で積み上げた歴史がそれを可能にしている。

その土地土地ごとに違う、積み重ねられた歴史。同じ人間でも、場所によって存在感も重みも全く違うという現実。眞紀子は、新潟県内でなら生きていけるだろう。だけど東京では生きていけない。相手にされない。本心では東京で活躍したいかもしれない。だけど出来ない。周囲がそれを許さないからだ。知性と政略で勝負するのでなく、感情と批判だけでわめきちらす眞紀子は、永田町からすればただの小うるさいだけのおばさん。結局、彼女は新潟でしか通用しない。新潟ならばまだ許してくれるからだ。許してくれないまでも、他の県よりは寛容だろう。よって、眞紀子は新潟でしか生きられない。自分が生きたい場所と、自分が生きられる場所とは必ずしも同じではない。むしろ異なることが多い。眞紀子もそのほんの一例に過ぎない。殆どの人間がそうだ。

自分が本心から生きたいと願う場所、望む環境や人、身を置きたい場所、自分が自分で居られるはずの場所、すなわち自分が望む居場所。だけど現実には、そこに辿り着けないことも多い。すり合わない、条件が合わない、噛み合わない、あるいは拒否される。望んでもそこに行けないことは多い。ゆえに人は、それとは別の場所にひとまずは落ち着く。自分が生きられる場所、現実として自分に適している環境、自分でなく他者から望まれた上での場所。それもまた、居場所と言えよう。同じ居場所という言葉でも、本質には大きな開きがある。言い方を換えれば、理想と現実。自分の存在価値を認めてもらいたいという出発点と、自分の存在価値を認めてもらった末の終着点とでは、少なからないズレが生じる。

眞紀子にしても、自分の存在価値を最も発揮できる場所を選ぶ賢明さがあると言えば、そうかもしれない。誰しも、自分の存在価値を認めて欲しいと自らが願う場所があり、その対象が居る。反面、自らが望まずとも自分の存在価値を認められてしまう場所があり、認めてくれる対象が居る。両者は大体、同じにならない。自分が欲する存在意義と、結果として出てきた存在価値との違い。その人の存在理由に対する自分と相手との認識が合致しないからすれ違いが起こり、結局は分かり合えない。その違いのせいで皆が苦しむ。世の中は何て悲しいのか。分かり合えれば誰も泣かないで済むのに。上っ面だけ見れば傲岸不遜な眞紀子も、もしかすると心の中では落ち込み悲しんでいるのだろうか。まさかな。だけど、心の奥底は本人にしか分からない。だから、小うるさいだけの眞紀子に対してですら誰にも断定は出来ない。

そんな眞紀子の野望と実際の現状とのギャップから透けて見える、人の適正というもの。そして土地土地での風習。僕等が赴いた実家でも、それは展開されていた。それは、新潟実家周辺で執り行われている区長制についての話。

新潟の実家がある集落では区長制を採用している。その区長の役割は、周囲の推薦によって区民の誰かが持ち回りでこなしている。任期は二年だったか。義父は二期連続でその役を拝命した。そして今回、ようやく他の人間にバトンタッチできるいきさつとなり、義父としては胸を撫で下ろす格好になった。しかし、事は簡単に解決しておらず、未だ複雑な小競り合いが続いている模様。いつも陽気で笑顔を崩さない義父が、今回その件について羅刹のように荒ぶっていたからだ。

その一連の話は昔から僕も聞いていた。帰省する度に、その情報を聞きながら、僕なりに分析していたものだ。義父も基本的には面白おかしく、だけど時に神妙な面持ちで話していたっけ。その時の義父の表情や言葉の裏に潜んでいる、少しだけ暗い影を見落とすことはなかったけれど、基本的には余所の話だからと僕はあくまで聴衆としてその物語に耳を傾けていた。しかし、積もり積もったものが今回爆発したのだろう。これまでの抑えていたものが一気に噴出した感じだ。こんな義父の姿は始めて見た。よほどのことがあったのだろうと予測する。僕は、説法のように途切れることなく発せられる義父の物語にただただ耳を傾けていた。

今回の帰省は、この義父の口から語られる話に耳を傾け、そこから諸々のことについて考え、考えすぎて出てしまった知恵熱を治めるために寝過ぎなほどに寝た、そんな三日間だったろう。田舎ゆえに潜む悪徳、悪しき慣習、それに対する折り合いの付け方、つまり田舎での近所付き合いの複雑さについて考えた三日間だったとも言える。

簡単に言うと、二期連続で区長を歴任した義父は、本来なら一期で任期満了のはずだった。しかし、二期目になっても適任者が見当たらなかった。区長の仕事は意外とハードなのだ。ゆえに誰もやりたがらない。諸々の雑用があり、時間も拘束され、だけど報酬は月1万だとか子供の使いレベル。それでいて外部との付き合いや飲みやらで完全に足が出る。だから誰もやりたがらない。

ただ、それをサポートしてくれる渉外係とか会計係のような役割も存在するから、そのサポート役と上手くタッグを組めば、それなりに区政は円滑に進む。だけど、そのサポート役にこそ実は病巣が潜んでいた。たとえば、皆で公民館を掃除する順番を決めたのに、ソイツだけ守らなかったり、注意すると「勝手に決めておいて何でオレがやらなきゃならないんだ」みたいにキレてみたり。会計係が区民からちょっとした反論をされると、「文句があるならオレはやらねーぞ」と脅してみたり。補助金の使途を明らかにしなかったり、収支と実際の残高の計算がかなり合わなかったり、場合によっては自分個人のためにパソコンを購入したり、小屋を建てたり。だけどそれは区民達がIT活動をするための必要設備として買っているのであり、それを自分の家に置いてあるだけだと強弁してみたり。

話を聞いていると、どうみても不正だ。横領にすらなりかねない。だけど周囲は何も言えない。狭い集落で、殆どが身内だからだ。陰口は叩けるけど面と向かっては言えない、そういう微妙な関係。だから誰も不正を正せない。波風を立てると、集落で生きていけなくなる可能性もあるから。そういう狭い世界だ。通常の常識が通用しない。

そんなわけで、互いが互いのことを信用していないのが区長および他の役員を選出する際の大きな壁となっているのだが、その中でも義父は信用を得ていた模様。元々、義父達は昔からの新潟住民でなく、十数年前に外から越してきた人間だ。だから田舎独特の風習に合わせるのに最初は苦労したし、輪に溶け込むのにかなり気を遣ったとのこと。だけどその気遣いの結果、一回り外から集落のことを客観的に見れる人物だと評価され、かつ公明正大な人間という太鼓判を周囲から押されたようだ。僕もそう思う。義父は公明正大であると、普段の触れ合いで僕自身が確信している。

その信用力を買われて大役を任されるのであれば、本来なら男子の本懐だ。義父であれば不正もしないし、不正をしそうな人間に面と向かって言ってくれるだろうという期待感を持たれていたはずのだから。だから皆が、義父をずっと区長に添えようと盛り立てていた。

だが実際は、盛り上げていたのではなく、押し付けていたのだ。嫌なことを義父に押し付けて、自分等は文句だけ言う立場に甘んじていたい。そんな区民達の事なかれ主義、無責任主義が見え隠れする。そして、いかに公明正大な義父とて、集落の一因だ。あまり派手なことをやらかしても角が立つ。皆は支持すると言っているが、結局は不正者から反撃を受けても押し黙り、義父に全て責任をなすりつけようとする意図を心の中に隠し持っている。臭いものに蓋をしたくはないけれど、自らが蓋を開けて被害を被るのはゴメンだという魂胆が見え見えなのだ。そんな不正を不正と言えない特殊空間に義父は身を置きながら、責任ある立場だから仕事はこなさなければならないと真面目に政務する。だけど、結局は各々の我が強すぎて皆を一方向に向かせることはほぼ不可能。肝心なところでは協力しないのだ。

その葛藤と軋轢にいい加減疲れてしまったのだろう。今回の件についても、3月で義父は二期目を終えているのに未だ後継者が定まらず、5月前まで来てしまっている模様。完全な放置状態、無政府状態だ。いや、後継者候補は居るのだが、ソイツは不遜な態度で「そんなにやって欲しかったら、皆で団結して僕を盛り上げると約束しろ。いやその前に、主要人物全て出揃って顔を出せ。オレに対して三顧の礼を取れ」と居丈高になるという勘違いぶり。それに呆れ果てた区民達は、匙を投げて問題を先送りにしてしまったという。

義父はそんな茶番に業を煮やし、今日、公民館で皆を集めて本来の候補にさっさと引継ぎ書類などを強引に渡してしまおうと考えたようだ。ゆえに、今日はいつもより大分早めに温泉を出た。夜メシの準備を早めに済ませ、僕等が食っている間に独り引継ぎの用事で出かけるために。その宣言通り、義父は帰宅早々、夜メシ用の刺身の調理を手早く終えて、区の会合へと出掛けてしまった。通常であれば、新潟に着く昼頃から夕方までじっくり温泉に浸かり、皆で家に帰る。帰宅してから義父母が夜メシの用意を始め、出来上がったら皆で乾杯して、後は3~4時間多いに騒ぐという流れなのだ。しかし今日は違っていた。

義父は、嫌なことはさっさと済ませたかったのだろう。さっさと家に戻り、皆と刺身を食いながら飲みたかったに違いない。義父の苦労と内なる怒りが手に取るように分かった。ゆえに僕も、その会合に最初の最初だけ参加することにした。一体、どんな愚か者達なのか、その姿を見たかったからだ。荷物持ちという位置付けで、僕は義父に付いて行った。色々妄想しながら、義父に続いて公民館に入った時、そこに居たのは愛想の悪そうな男だった。なるほど、こりゃなかなか手強そうだ。その姿だけで僕は大体を予想した後、挨拶だけして「じゃあボクはこれで」とそそくさと家に戻った。義父も大変だな・・・。

帰宅した僕は、義母と嫁に混じり、義父が予めさばいてくれた刺身を美味しく頂く。鯛のお頭付きという豪勢極まりない装いだ。高級料亭にも負けない旨い料理が新潟実家では普通に出てくる。僕は、ビールサーバーで生ビールを注ぎながら、ウイスキーを飲みながら、義妹が送ってくれた煎餅をかじりながら、いつものように楽しく時間を過ごしていた。ただ、いつもと少し違う部分もある。やはり義父の件があったからだろう。それに加え、今の僕の心が後ろ向きな考え方になっているからだろう。義父は、会合から戻ってきてから、怒り心頭と言わんばかりに刺身を喰らい、酒を飲んで、僕等に語っていた。

義父曰く。ヤツ等はオレに言った、「ちゃんとした引継ぎもしないのにいきなり『これが区長の道具一式です』」と言って渡すだけとは何事か、と。無責任すぎるぞこのバカヤロウ!」と。対してオレはこう答えた、「任期満了の3月は過ぎているのに、後継者も居るはずなのに、それを見ないフリして何も動かず、オレの言うことも聞かず、物事を放置してきたのは皆さんじゃないですか? 一体どちらが無責任ですか? それと、人を平気でバカと言いますが、その言葉はそのままお返ししますよ」と。

それで区民達はシーンと静まり返って何も言えなくなったという。今まで矢面に立って修羅場を潜ってきた義父に対し、その背に隠れて安穏と過ごしていた打たれ弱い区民達が太刀打ちできるはずもなかったのだろう。義父はそれを分かっていたから今回、敢えて攻撃的な口調で対峙したのだとも思える。義父としては、本当はずっと前から区民達にそう言いたかったのだろうが、立場上、抑えていたに違いない。それが今日、開放されたわけだ。義父はそんなバトルをしてきたようだ。家に帰ってからも義父は益々ヒートアップし、珍しくダークサイドな気炎を吐いていたっけ。温厚な義父でも怒るのだな。そう感じてもいた。

いや、温厚であろうと同じ人間だ。ある一線を越えてしまえば、後は本能のままに攻撃的な顔が出る。僕もそうかもしれない。最近、やけに否定的で、そして攻撃的だ。その姿からは、周囲から紳士とか超温厚青年と言われ続けていたかつての姿がまるで想像出来ない。自分でも、「オレって昔は優しい人間だったっけ?」とたまに疑わしくなる時がある。僕もまた、義父と同じように、ずっと耐えていた一線を越えてしまったのかもしれない。何かの糸が切れたのかもしれない。抑えていた分だけ、その奔流はすさまじい。

そんなことを考えつつ、ひと時の宴会を僕は楽しんだ。美味しい刺身と、大量の酒と、今周りに居る人達の変わらぬ陽気さと笑顔と、その中でも義父のいつもと違う一面と、そしてやはりいつもと違う僕と・・・。あまりの思考に脳がパンクしたのか、あるいはここ数ヶ月の疲労が噴出したのか、この日は早く寝た。夜の8時には、もう寝ていた。ここまで宴会が短めにシャットアウトすることは殆ど無い。一体どうしたことか。分かっている。自分では分かっている。だけど今はただ、この暖かい布団の中で、ドロのように眠りたい。とにかく身体がもう動かないから。瞼が重いから。何より、寝ている間は何も考えないでいられるから。お休み・・・。


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20130426(金) 色々な定番 新潟帰省、くまモン焼酎、ハッシュドビーフ、物思いスパイラル等・・・

130426(金)-03【2240~2305】ハッシュドビーフ、ブロッコリーの味噌チーズボイル焼き、白菜とサバ缶のクリーム煮、ヱヴァQブルーレイディスク《家-嫁》_01 130426(金)-03【2240~2305】ハッシュドビーフ、ブロッコリーの味噌チーズボイル焼き、白菜とサバ缶のクリーム煮、ヱヴァQブルーレイディスク《家-嫁》_02 130426(金)-03【2240~2305】ハッシュドビーフ、ブロッコリーの味噌チーズボイル焼き、白菜とサバ缶のクリーム煮、ヱヴァQブルーレイディスク《家-嫁》_03 130426(金)-03【2240~2305】ハッシュドビーフ、ブロッコリーの味噌チーズボイル焼き、白菜とサバ缶のクリーム煮、ヱヴァQブルーレイディスク《家-嫁》_06 130426(金)-04【2310頃】ポテチ《家-嫁》_01 130426(金)-05【2325頃】プチシュー《家-嫁》_01

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルト

【昼メシ】(職場付近-一人)
コンビニカレーパン

【夜メシ】(家-嫁)
ハッシュドビーフ、ブロッコリーの味噌チーズボイル焼き、白菜とサバ缶のクリーム煮、オーザック、プチシュー

【イベント】
無し
 
 
【所感】
明日からGW。カレンダー通りだけど、それでも計7日間の休日が舞い込む。大型連休と呼ぶに相応しい様相だ。以前のように「どこ行こっか、何しよっか」と心躍るスケジューリングをする体勢でも無いけれど、それでも身体を労わり心を見直す機会という点では平日に遥かに勝る。それで何が変わるか分からない。多分、根本はさして変わらない。しかし、何もせずとも時だけは平等に流れていくのが摂理ならば、せめて今出来ることをしていくしかあるまいよ。というわけで、GW前半は新潟帰省の予定を立てた。僕のメンタルがどうであろうと、変わらない、変えてはいけない定例行事の一つ。

その定例行事の直前に、嫁は決まって文明堂のカステラをお土産として買ってくる。5~6年あたり前から始めた土産イベント。一回目の時、実家が大層喜んだことをきっかけに毎回同じものをお土産に持参するようになり、今ではお定まりのアクション、挨拶代わりのようなものである。酔っ払った波平の折詰くらい定番。それをワンパターンと呼ぶか? そうではない、安全牌と言うべき。ハズしたくない場面、スベッてはいけない局面で、わざわざ危険牌を掴んだところで何の得もない。安全牌の所在が分かっている以上、徹頭徹尾それを掴み上げるのが大人というものだ。ある意味で陳腐な策だが、効果があるから多用されるし、多用されるから陳腐にもなる。ルパート・ケッセルリンクの言葉だ。ワンパターン、それは真理と呼び変えてもいい。

新潟への土産とは別に、嫁は日常でも変なものをよく買う。これも変わらない定型行事の一つ。たとえば、デパートに寄った際とか、他にもスーパーに新商品が出てたからとか、そこのコンビニでキャラもののグッズがもらえるキャンペーンをやってたからなどと理由を付けては何か買ってくる。立ち寄った店で、日常の風景と異なる商品やレイアウトを見つけ出しては、足繁く買い漁ってくる。いわゆる押しに弱いタイプ、社交辞令を無視できないタイプ、分かり易く言えば押し売りを断れないタイプだ。まあ高い壷とかを買ってこない分、危険度は少ない。買ってくるものも、基本的には菓子とかジュースとかオモチャとか日用品とか、場合によっては服とかカバンくらいの範囲。実用的で、かつ重くならないレベルに留まっている。リーズナブルな範囲内と言える。

ただ、嫁はそれら買った物を自分で食ったり使うことは殆どなく、大概は他の人間に献上してしまう。むしろ誰かに上げるために買っている感が強い。いわゆる尽くしたいタイプ、慈愛と施しの精神が旺盛なタイプ、分かり易く言えば自分からお布施をしてしまうタイプだ。まあ見知らぬ団体に寄付とかしない分、致命的な実害は無い。逆に、リーズナブルな小物で相手の歓心を買えるのだとしたら、場合によっては有利に働くかもしれない。リーズナブルな人心操作術と言える。

無論、嫁にそういう打算的な気持ちは無いようだが。ひたすら無償の精神と博愛主義。マザーテレサのような振る舞いだ。何度か程ほどにしとけば?と言ったこともあるが、普通に続けているから、好きでやっているのだろう。僕は何も言わないことにした。まあ、ある意味感心に値するマメさとも言えるし。その見返りを求めない行為は、いつかどこかで自分に還元されることだろう、暖かな気持ちと共に。

僕とは真逆だな。僕は嫌な世間ばかり吸収してしまったせいか、押し売りにも随分強くなったし、目新しいものにも動じない鉄の心臓も手に入れたような気はするが、言動に棘が出てきた感がひしひしとする。ダークサイドに陥った自覚も相当出てきた。これは本来、避けねばならなかったルートだったはずだが、抗し切れず取り込まれてしまったのかもしれない。自分の精神の弱さが招いたことだという感は否めない。いずれにしても、それはきっといつかどこかで自分に返ってくるに違いない、手痛いしっぺ返しとして。多分間違いない。

善くも悪くも、自分の今まで積み重ねてきた言動は、結局自分に跳ね返ってくる。そういう意味で世の中は平等だと思える。そのしっぺ返しを上手くすり抜ける人間も居るが、根本的な部分では報われていない。裸の王様になっていることに気付かないまま人生を終えることになる。ある意味おめでたい。おめでたいまま終われば本人は幸せなままかもしれない。だけどおめでたい=幸せという図式は必ずしも成立しなくて、どうしても悲しさは拭えない。だけどそれでいい。それが世の中の正常な姿だと思う。恐らく確実なことは、人は正道に逆らえば、その報いをどこかで受けている。気付く気付かないという次元では語れない、世の中のもう一つの摂理である。

話を戻して、その衝動的買い物が好きな嫁が、少し前、「くまモン」グッズを買ってきていた。「くまモン」とは熊本県のゆるキャラとのことで、黒い熊をデフォルメ化したご当地キャラだ。最近ではありがちなパターンと言えるが、このご当地キャラを抱えているか否かでその土地の知名度や歳入が大きく増減するのだから、是が非でも他県の人間に金を落として行って欲しい都道府県としては、得体の知れない動物だろうが萌えキャラだろうが、すがりたいところだ。しょせん、腐るほどの人口を抱え、放っておいても人や金が入り込んでくる都市部の人間に、地方の財政の厳しさや、そこに住む人間が抱える悩みは分からんよ。

とりあえず嫁は、その「くまモン」グッズを、どこかで立ち寄った物産展でいくつか購入してきた模様。くまモン焼酎、くまモン梅酒、そしてくまモンマグカップの計3つだ。「かわいいっしょ?」嬉しそうにそれを並べる嫁を眺めつつ、僕はとりあえずくまモン焼酎を飲んだ。まあ普通の焼酎だな。続いてくまモン梅酒も口に付ける。まあそこいらの梅酒と同じ感じだな。クマもんマグカップは、マグカップにくまモンの絵がプリントされている。まあ、要するにキャラものだな。そんなもんだ。味は二の次。そこにくまモンが付いているかどうかで価値が変わってくる。価値が上がれば何となく味も美味く感じる。全ては受け手のテンション次第。ご当地キャラのマジックがここにある。まあ嫁は幸せそうにくまモンを愛でていたし、それでいいではないか。このご当地グッズの在り方もまた、世の中に流布するパターンの一つだ。

嫁のことをどうこう言う僕もまた、最近パターン化している行動がある。物思いという精神作用がそれに該当する。自分の言動を掘り起し、振り返り、分析し、メンタルの弱さを自省するという流れ。今日もまた同じことを考えている。ここ最近、そんなんばっかだが、絶対的にコミュニケーション不足という自覚は強く抱いている。敢えてそれを避ける傾向にあるというか。友人との飲みも回避したがる場合すらあるという時点で、さすがに大丈夫か?と思ってしまうこともしばしば。漠然とした不安を感じた僕は、自分の状況を少しネットで調べながら分析する。ネットの情報など無責任なものが多いが、それだけに容赦ない。余計に凹む。次に、「対人恐怖症チェック」なるサイトがあったので、やってみた。ネットにありがちなこの類の性格分析は、僕としては正直鼻で笑う対象だし、ゆえに基本興味はないが、今は占いでも祈祷でも、精神的な何かにすがってしまう心境に傾いているから性質が悪い。芯が弱くなっているという裏返しだと思われる。

その心理テストは以下。対人活動の活発さを争点にしたアンケートに答えていき、総合的な精神状態が結果として反映される、ありがちなテストだ。

http://心理テスト無料.jp/Question/Controller.cgi?Execution=Question&QuestionNo=5

その結果で出てくるのは、大まかに五つ。
① 問題なし
② 対人関係で多少不安だが社会的生活は営めるレベル
③ 社会生活を営むための対人活動が低下している。
④ 社会生活を営むための対人活動が極めて低下している。
⑤ もはや働くことも困難

下に行けば行くほど重症となる。

そして僕の結果は④だった。

曰く、「社会生活を営む上で必要な対人活動がきわめて低下した状態におちいっている」とのこと。「対人活動が極めて低下している」の中の『極めて』という部分がミソだ。その一言が自分の心に暗い影を落とす。まだ働くことは出来るが、一歩間違えば働けない状態まで落ち込むということだ。話にならないな。

ただ、「え?マジで?」というより、「まあ、そうだろうね」というのが正直な感想。こういうアンケートは無責任で、何の科学的根拠もないけれど、それだけにアンケートの質問はダイレクトで、何の熟考も無く機械的に結果を導き出す。ゆえにある意味では分析するのに役立つわけだ。

ちなみに、他に診断した人間達の累計人数は、①~⑤の合計で約171800人。結構な人数がやってるんだな。中には遊び半分、だけど中には真剣に悩み、居ても立っても居られなくなって診断してしまった人間も居ると思われる。僕のように。

その171800人の内訳としては、①~⑤で以下のように分布している。

① 何も問題なし 33600人(19.6%)
② 社会生活の維持はOK 36700人(21.4%)
③ 社会生活維持能力が低下気味 39300人(22.9%)
④ 社会生活維持能力が極めて低下 32700人(19.0%)
⑤ もはや働けないレベル 29500人(17.2%)

こんな無料診断で何かが分かるとは思えないが、自分でも明らかに何か肝心な感性が低下していると感じるので、笑ってスルーは出来ない。第一、普段は忌避するはずのこういった心理テストを受けているという一点だけでも、今までと違う自分だと判断できる。結構やばいんじゃね? と、つい不安になったりならなかったり。

そういや、会社に居るだけで変な視線を感じる気分というか、吐きそうになってくる時があるな。自律神経失調症すか? 自分がそんなのになるなんて信じたくないな。そんな弱いメンタルだとは認めたくない。ただ、どうも何かがしっくり来ないのは確かで。何が原因か、大方の見当は付いている。発端も大体把握は出来る。だけどそんなこと言っても始まらないし、それをこれからどうするか、というのが重要なんだよな。分かってはいるのだが。

そんなことを思いながら事務所で仕事をしていると、後輩が一人で黙々と出張準備をしている。上司達から色々指令を受けて、相当なミッションを抱え込んでいるようだ。大変そうだ。僕は行かないけど。それを見て、同僚達が次々と帰っていく。手伝おうと思わないのだろうか。こんなに大変そうなのに。一人で行くという不安を抱えながら一生懸命やってるのに。なぜ、そんな他人事みたいにさっさと会社を出れるのか。結局、みんな帰ってしまった。一応僕は、見るに見かねたので少し手伝ってみた。後輩を憐れむと共に、他の人間のそっけなさに憤りに似た感覚を覚えたものだ。そういった、ちょっとした他人の言動を華麗にスルーすることが最近出来ない。黒い感情を抑えることが出来ない。メンタル面でのコントロールが効かないというスパイラル。この精神動向こそが、僕の最近の最も多いパターンと言える。

出張準備の手伝いや、事務所の鍵閉めなどもあり、帰宅は深夜近く。 どっと疲れた感はある。ホントに大丈夫かと自分に言い聞かせながら、それでも平静を装おうとするが、やはり無理だった。静かに念仏を唱えて瞑想する僧侶のように、僕はブツブツと独り言を言いながら座椅子に佇んでいる。その姿を見かねてか、あるいは僕が色んな部分を疲弊させていると既に判断していたのか、夜メシに用意されていたのはハッシュドビーフだった。僕の一番の大好物と言っていいメニュー。かつ、僕が脆弱メンタルに陥っている時には、大概ハッシュドビーフが用意されている。嫁なりの気遣いと言ったところだろうか。多分、そうなのだろう。この夜メシのハッシュドビーフが出されるタイミングもまた、嫁のパターン化された定例行事であることを、僕は知っている。今はそのハッシュドビーフをありがたく頂戴するのみ。ハッシュドビーフはいつ、どんな精神状態で食っても美味い。そう感じられる時点で、僕はまだ正常の範囲内かもしれない。そう思えた。

色々な定番。その人ごとで持っている定型的行為。長期休暇での新潟帰省も、嫁の衝動的買い与えも、僕の答えの出ない自省スパイラルも、ハッシュドビーフも、世の中に溢れんばかりに散らばる数多の定番行為の中の、ほんの一例だろう。


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20130425(木) ヱヴァQとの入れ替え、職場の人間の入れ替わり、豆苗の生え変わり、色んな変遷

130425(木)-02【2250頃】豆苗(とうみょう)《家-嫁》_01130425(木)-03【2255~2320】豆苗とマイタケのキムチ炒め、春雨とキノコとモヤシの激辛炒め《家-嫁》_01130425(木)-03【2255~2320】豆苗とマイタケのキムチ炒め、春雨とキノコとモヤシの激辛炒め《家-嫁》_02130425(木)-04【2325頃】バームクーヘン(ドイツ友人土産)《家-嫁》_01

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルトジョア

【昼メシ】(職場付近-一人)
コンビニカレーパン

【夜メシ】(家-嫁)
豆苗とマイタケのキムチ炒め、春雨とキノコとモヤシの激辛炒め、バームクーヘン(ドイツ友人土産)

【イベント】
無し
 
 
【所感】
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版Q」のBD・DVDが本日から発売する。という情報を得たのが数週間前だったか。昨年の劇場公開からもう半年近く経過した計算になるわけだ。今回のヱヴァQのDVD発売情報は、周囲の人間が何度か話題にしていたので自然と耳に入ってきた。映画は観たが、それ以降の関連情報に特に興味を示さず、購入意欲も特に湧かなかったので放置していたが、世間は動いているのだな。

そんな動いている世間の情報に僕もめっきり疎くなった。前提として興味の対象が狭まり過ぎた。今の現象を例えるなら、セントラルドグマ内部の景色と碇指令以外の事象は殆ど気に留めない綾波レイちゃんくらいの視界の狭さ。一応、アニメ界ではトップランクのコンテンツであるはずの「ヱヴァQDVD化」についてすら今まで頭に入らなかったとは、その周りの見えなさに自嘲するしかない。

前回「破」の時は、映画も5回観て、DVDも2枚買って、そこから1~2年経っても自分の中でずっと盛り上がっていたという、飛ぶ鳥を落とす勢い。しかし今は渡り鳥の群れから一羽離れ、森の奥に生い茂る樹木の中の一本の木の枝に留まり続けて動かない鳥のごとし。大自然と一体化してしまった岩のようだ。

その鳥が留まっている枝が折れたらどうするか。飛ぶ力が無い以上、落下するしかない。地面に叩き付けられ、羽どころか足も折れ、身体もひしゃげ、再起不能になる。飛べない鳥の辿る道は二つ。見世物として飼い殺しにされるか、ネコのエサになるか。どの道、辿り着く運命は死という一文字だ。緩やかに命を奪われるか、一瞬で断たれるか。

無論、枝に留まって動かない鳥に限らず、死からは誰も逃れられない。だけど地面から飛び立つ跳躍力と大空を飛び回る力強い羽を持っている鳥と、それが衰えてしまったあるいは無くしてしまった鳥とでは、死という運命を回避出来る確率が全く違う。最終的に死に辿り着くにしても、それまでの猶予時間も圧倒的に違う。枝に留まり続ける鳥は、最短距離で死に近いということだ。これを現代に当てはめると、情報弱者という言葉になる。単に目や耳から得る単一情報に留まらず、処世術やコミュニケーション能力、その他生きるためのスキルの修得度合いなど全ての情報を含むという意味。留まり続ける鳥は、その生存情報において圧倒的に脆弱になる。

情報弱者になるということは、渡り鳥の群れから離れるということだ。群れを離れているため、ネコに襲われそうになった時、誰も助けてくれない。よって、情報不足と興味の欠落は、身の危険度の大幅UPを意味する。命を絶たれないためには、最低限滞空し続けるだけの羽力は持っていなければならない。羽をもがれた鳥ほど軌道修正が難しい存在はない。

というわけで、少しでも世間情報を収集するために、ヱヴァQのDVDくらいは買ってみるか、などと少しだけ意欲を見せてみた。明日ヨドバシあたりで買ってこよっと・・・。あと、近くのセブンイレブンに寄って、5月上旬に開催予定のマラソン大会の払い込みもしておいた。マラソンについては、意欲の大小は別として、大会参加・完走という実践レベルでの実績はコンスタントに積み上がっているわけだから、それこそやめることは出来ない。今のところ、僕にとって最低限の推進力を保つために必要な羽の一つだ。かつ、今年に入って唯一継続しているイベントでもある。今、この羽をもがれると、足が動かなくなり、頭も働かなくなるという数珠繋ぎスパイラルに陥ってしまいそうで怖い。ゆえに足が止まってしまう前に入店。気力がもがれる前に入金。数千円で出来る延命措置がコンビニレジの前にある。

そういえば仕事中のこと。ビル内の集合喫煙所で、同じビルに入っている顔馴染みの会社の人と少し話をしていた。いい新入社員は入りましたか?と僕は彼に聞いてみた。3月、4月は人の動きが激しい時期だからな。特に4月は流入の時期だ。この不況で新規雇用をしない企業も多いだろうけど、まあウチもそうなんだけど、まあウチの場合は少人数でこき使う系なんだけど、新規雇用をする会社はいつだってするもの。恐らく、人の流れを絶やすことの退廃性と危険性を知っているから。

で、その馴染みの会社の人のところには、新入社員がは6人入ったらしい。大学出たての新卒も居れば、中途として転職して来た者も居るとか。6人が多いか否か、それは会社の規模と業況によるだろうけど、少なくとも僕から見れば充分に盛況だと思える。これで、そちらさんの会社はしばらく安泰ですね。僕は彼に向かってそう言ったものだ。

結局のところ、新しい血が入らない組織はいずれ腐っていく。新しい血が入らない原因が、雇用側が敢えて新しい人間を入れないのか、それとも募集しているけど被雇用者側から見限られるほど魅力のない会社なのかは分からない。だけど古い血ばかりだと確実に腐る。つまりダレる、ぬるくなる、なあなあになる。なあなあだから、誰も止める者が居ない。ストッパーが居ない。つまり歯止めが効かない。歯止めが効かないから腐るところまで腐るだろう。そして一度腐り切ってしまえば、再び活性化する可能性は僅少。自明の理だ。

ウチもきっと腐っているはず。ゆえに活性化もしまい。逆に、今目の前で僕と話をしている顔馴染みの彼が属する会社はきっと、色んな血を取り混ぜながら活性化していくのだろう。そこから数時間後、僕は喫煙所やエレベーターの前で、その馴染みの会社に新しく入ったと思われる新入社員の兄ちゃんと姉ちゃんと偶然顔を合わせた。彼も彼女も、僕とは初対面だろうに、非常に元気よく「こんにちわ」と挨拶してきたり、エレベーター内では「何階ですか?」と笑顔で聞いてきてくれたり、とても気持ちの良い対応をして来たのだった。全く見知らぬ人間に、礼を尽くして対応出来る人は、それだけで好意に値する。その新入社員の彼と彼女の笑顔を見ているだけで癒される。やっぱ若い人はいいね。というより、属する職場がいい人達だから、新しく入る人も自然といい人になるのかな。ウチはどうなんだろうね~。

ただ、新しく入る人間が居れば、出る人間も居る。僕は、馴染みのその会社に今期新入社員として入った若い兄ちゃんと姉ちゃんと挨拶を交わした。だがその時、ふと思い出した。そういや、あの姉ちゃんはどこ行った?と。その姉ちゃんも、その顔馴染みの会社に勤めてた人で、少し前まで喫煙所でよく話をしていたはず。その姉ちゃんの姿を最近見かけないことに気付いた。そういやここ2~3ヶ月は見ていないな、と。喫煙所でタバコを吸いながら、いつもの馴染みの人等と話をしつつも、何か物足りないような気がしていたが、その姉ちゃんが居なかったからだと僕はようやく得心がいった。多分、辞めたのだろう。結構話が合って面白い姉ちゃんだったのだが、もう一緒にタバコを吸いながらお話出来ないとは残念だ。人ってこうも簡単に居なくなるんだな。少し寂しい気持ちになった。

そういう光景は、ここ以外の場所のあらゆるところで日々発生しているだろう。無論、このビルだけに限っても、あるいは僕の職場だけに限っても、過去何度も何度も同じ光景が繰り返されている。人が去っては入り、入っては去り。去った人は皆、どんどん過去へと押しやられていく。だけど去った本人にとっては、残っている僕等の方が過去の存在だ。どちらを始点にするかで違う。どちらか一方から見た時、もう一方が過去と呼ばれる対象となる。

確実なのは、人は流動するということ。自分が入ってくるのか、出て行くのか、あるいは誰かが入って来るのか、出て行くのか。主観を切り替えれば対象も違うけど、客観的に見れば、人が流動しているという現象が連綿と続いているのみ。何というか皆、思い切りがいいな。腰が軽いというか。今回のタバコ姉ちゃんも、あの職場は結構好きそうに見えたんだけどな。環境の変化があったのか、思うところがあったのか、軽やかに居なくなっていた、いつの間にか。

今まで辞めていった人達も同じく。いずれにしても、フットワークが軽い、思い切りがいい。そして、そういう人等は大体の場合、後日笑顔になっていたりするものだ。彼女だけが特別なんじゃない。動く人は結構いる。腰の重いヤツ、思い切りのないヤツ、あるいは口だけ番長なヤツが座して動かないだけだ。動かないまま腐っていき、笑顔が曇っていくだけの話だ。そういや僕は動いてないな。僕は今後、笑顔で居られるんだろうか。

就業時間終了後、僕は液晶モニタに張り付きながら座して動かない。周囲の同僚達は、7時半頃から立ち上がって群がり雑談を開始し、「そろそろ帰るかな」などと言いつつも、結局9時前まで居たりして、やはり座して動かない。口だけは動いても身体は結局動かないという人間が、時代に取り残されて停滞していくのかもしれない。あれがどうとか、ああするべきだとか、実際行動に移さないのに、雑談の中だけで盛り上がってもホント意味が無いと思うんだけどな。時間の無駄というか。彼等は、行動するために話をしているのではなく、話をするために話をしている。暇を潰すために無駄な話をしている。傍から聞いているだけで苦笑し、何度も心の中で突っ込む次第だ。早く帰りゃいいのに、そんなに暇だったら、その時間を僕にくれよ、と。まさしく、腰の重い人間達の、思い切りの無い人間達による、空虚な雑談をするための淀んだ空間。それがまさに、ここだ。

帰宅して台所をチラ見する僕。イチゴパックみたいな透明なビニールの入れ物に、カイワレ大根のような野菜が沢山生えていた。僕は見たまんま「カイワレ大根?」と聞いてみた。しかし、どうやら違うらしい。「えーと、これは・・・『とうにょう』だよ」と嫁は答えた。「と、糖尿? ウソだろ?」「いや、確かそんな名前だった。私も初めて買うからうろ覚えだけど」 マジで?いやしかし、本当に『とうにょう』という名前なんだろうか。だってさ。僕は不安になって再確認した。「そりゃ多分、間違ってるんじゃないの?」「何で?」「だって、ちょっと名前が、ねえ? そんな名前、わざわざ付けないと思うんだけど」「・・・確かに。ちょっともう一回調べてみるね」 30秒後、買い物袋の中を漁っていた嫁が僕に振り向きこう言った。「『とうにょう』じゃなくて『とうみょう』だった」 まあ、そりゃそうだよな。しかし「とうみょう」なんてものは初めて聞いたけど、何だろ・・・。困った時のウィキペディア。それによるとこうだった。

とうみょう。漢字で「豆苗(とうみょう)」と書く。中国が発祥だとか。見た目はほんとカイワレ大根にそっくりだが、実際はエンドウ豆の若菜のことをそう呼ぶらしい。元々は、エンドウ豆から生えた茎とか葉っぱが充分に成長してからそれを摘んでいたようだが、最近ではエンドウ豆から生えた幼い苗の時、つまり若い内に刈り取ってしまう。その時期がまた美味とのことだ。まだ成長しない間に摘み取って食っちゃうという行為自体が贅沢で、ゆえに豆苗は贅沢品として認識されている模様だ。実際、発祥地の中国では、祝い事があった際に食う習慣があるらしい。まだ熟れてない内に、若い内に食っとけと言うわけだ。何も知らない幼い内にさっさと手を付けちまえと。しょうがねーな中国人は。熟した方が深い味わいがあるってことも世の中には多いというのに。大人の味わいというヤツだよ、分かるか中国人よ?

その豆苗を、マイタケとキムチで混ぜ合わせて炒めた料理が今日のメインディッシュ。 「豆苗とマイタケのキムチ炒め」というそのままの料理名だが、キムチの辛さがまたピリリと効いていてイイね。かなり美味い。でも、全体的に結構辛口なので、豆苗もその辛さに思いっきり染まっているというか、本来の豆苗がどんな味なのかよく分からなかったという部分はある。本来、主役であるはずの豆苗が、キムチのインパクトに隠れてしまったということだ。ウィキペディア説では、様々な逸話を孕んだおめでたい食材。だけど食った印象は「キムチの味がしました」。結局、豆苗とは何だったのか。カイワレ大根よりも上なのか、下なのか。今日一日だけでは判断出来ないところ。だが嫁曰く、豆苗は、全部刈り取ってしまっても、もう一回だけ生えてくるという。つまり一つの豆で苗を二回まで食うことが出来る。一本で二度美味しいということだ。一度生娘を楽しんだ後、数週間後には同じようなクオリティをもう一度味わえるということだ。こりゃ驚きだな。エロオヤジが黙っちゃいまい。豆苗か、なかなかスゲェ野菜があったものだな。中国4000年の歴史は違うな。

それよりも、もう一つのメインディッシュとして出た「春雨とキノコとモヤシの激辛炒め」の方がむしろインパクトは大きかったかもしれないな。その名の通りの料理なのだが、本来真っ白あるいは透明色であるはずの春雨とモヤシが、スパイスにまみれ紅々と染まっている。最初は「明太子和え」かと思い、「明太子ですか?」と聞いたが、嫁は「ううん。そうじゃなくて激辛な色々」とだけ言ってニヤリと不敵に笑うのみ。口に入れてから納得したその味わい。辛口大好きな僕を唸らせるほどに激辛だった。こりゃあ、辛い、だけどそれがまた美味い。普通の人間が食えばショックで舌が一瞬やられる。だけど辛党人間が食えば感激で脳が一瞬やられる。どうして一般家庭でここまで激辛な料理を用意したのか、嫁の心境は窺い知れないが、豆苗の件といい、非常に印象の強い夜メシだったかもしれなかった。

そんな、色んなものの入れ替わり、移り変わりを感じた一日。DVD屋でも、メイン棚に陳列されるヱヴァ劇場版も「破」から「Q」へと入れ替わる。殆どの観衆にとって全盛期であるはずの「破」は、記憶の中だけに留まり、目に見える形として今後世に氾濫するのは「Q」。「僕は『Q』は嫌いだ、『破』がいいんだ」と言ったところで、店に在庫が無ければ選ぶことは出来ない。

職場でも人が次々と入れ替わる。全盛期時代を構成していた人達の存在は、それを大切に感じている人間の記憶の中だけに留まり、実際に一緒に対話し仕事をするのは今目の前に居る同僚達。「僕はあの人の方がよかったんだ、コイツは嫌いなんだ」と言ったところで、この場所に居ない人を選ぶことは出来ない。

食材でも、時代が経てば、かつて一世を風靡して永久に続くかと思われた「カイワレ大根」が、似たような姿をした「豆苗」に取って代わられる。「僕は『カイワレ大根』しか知らないんだ、今さら『豆苗』なんて食えるか」と言ったところで、スーパーに売ってなければ食材を選ぶことは出来ない。

好き嫌いはその人だけの価値観であり感傷。目の前に残っている最新情報が世の中の現実。そのギャップに耐えられなくなった時、人は最新を追うことを辞め、昔に戻ろうとする。懐古主義に陥り過去の回想へと逃避する。心の安らぎという観点、生きる方便という観点。どちらが良いとは言い切れない。ただ世の中の理がそこに在るのみ。

全ての情報が更新されている。環境も、人も、モノも、それに伴う価値観も。古きは新しきに押しやられ、過去の思い出へと追いやられていく。その更新の過程で残ったものが、自分にとっての最新で、だけど最新が最盛期とは必ずしもなりえなくて。最盛期だったものを残し続けるか、それが人間に可能なのか、少なくともその気持ちを世間に反映させるほどの影響力を一個の人間は持っていない。であれば自分の出来ることは、自分だけの最盛期を、今の最新に合わせながら組み込んでいく努力をすることくらいなのか。

人一人の力は世の中の大いなる意志の前では無力であり、人一人の強い気持ちは歴史の濁流の中では木っ端のように脆いものであり、だけどそこに整合性を付けるほどに人の心は単純じゃなくて。人とは一筋縄ではいかないものである。


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20130424(水) 黒田日銀バズーカと俺のしけったバズーカとの違い、新橋「ハンブルグ」のナポリバーグとマックポテトホルダーとの違い

130424(水)-03【1540~1610】ナポリバーグ(喫茶店「ハンブルグ」 新橋駅前第一ビル)《東京・新橋-職場同僚》_01 130424(水)-03【1540~1610】ナポリバーグ(喫茶店「ハンブルグ」 新橋駅前第一ビル)《東京・新橋-職場同僚》_02 130424(水)-03【1540~1610】ナポリバーグ(喫茶店「ハンブルグ」 新橋駅前第一ビル)《東京・新橋-職場同僚》_03 130424(水)-04【2130~2200】マック(てりたまチキン、マックポテトホルダー)《家-嫁》_01 130424(水)-04【2130~2200】マック(てりたまチキン、マックポテトホルダー)《家-嫁》_02 130424(水)-04【2130~2200】マック(てりたまチキン、マックポテトホルダー)《家-嫁》_04

 【朝メシ】(家-嫁)
乳酸菌飲料、マックコーヒー(駅前マック)

【昼メシ】(東京・新橋-職場同僚)
ナポリバーグ(喫茶店「ハンブルグ」 新橋駅前第一ビル)、

【夜メシ】(家-嫁)
マック(てりたまチキン、マックポテトホルダー)

【イベント】
新橋、マックポテトホルダー
 
 
【所感】
衆院選で自民・公明が圧勝したことによって金融緩和政策への期待感が高まり、日経平均株価は8ヶ月半ぶりに9900円台を回復した。同時に、民主党時代には1ドル=80円をキープするのも困難だったドル円相場も一気に85円台まで円安へと振れた。他のクロス円相場も堰を切ったように一斉に反発。低迷していた金融市場はにわかに色めき立った。

それが昨年12月の話だ。そこから日経平均は日々続伸。外国為替もほぼ円安トレンドに転換したという一致した認識が業界に定着し始めた。そう思われた矢先、トドメとばかりに3月の日銀総裁・黒田の異次元バズーカ砲が放たれる。その黒田砲に市場は急反応し、過去類を見ないほどの異常事態が発生。外為レートでも、わずか二日間でドル円90円→95円、ユーロ円は119円→126円という、まさに異次元ワープとも言える振れ幅を見せた。今現在も、日による多少の反転はあるけれど、株高・円安の流れは未だ止まる気配を見せず、実体経済が追い付かないままに金融市場は膨張の一途を辿っている。その光景は、かつての88年バブルを髣髴とさせる。

この自民党の政権復帰に端を発し、黒田バズーカを背景に一層狂乱的な乱高下を見せるアベノミクス市場。その束の間のビッグウェーブに乗り、巨万の富を築き上げた人間は多いだろう。まさしく一日で家が建つレベル。誇張ではなく、それだけの威力を明らかに有していた。火事場泥棒とは言えない、機転と判断力と行動に対する報酬だ。だからこそ、逆にウェーブに乗るタイミングを間違え、あるいは乗り方を失敗し、奈落へ転落した者も居よう。

いずれにせよ、一連の事態は、資本主義経済社会に生きる人々を躍らせるに充分な狂乱。各々で成功か失敗かの違いはあるけれど、関わった者を例外なく異次元へと連れ去った。それがアベノミクスバブル。飛ばされた異次元は光の世界か、はたまた闇か。光が差す先には、社畜からの開放、豪邸と美女に囲まれた酒池肉林生活、俗世から離れ悠々自適に暮らす自由人としての道が待っている。闇の道には、借金取りから逃げ回る日々、ブルーシートの家とビショ濡れの雑草に囲まれた河川敷生活、全てを捨ててあの世へ旅立つという究極の決断が鎌首をもたげながら待ち構えている。バブルの表と裏。そこには必ず同質量の天国と地獄が並存する。哀れな自由経済の羊達を巻き込みながら、光と闇は常に頭上で交差している。

もし、この自民党大勝の初動から流れを察知し、調達可能な財産全てを投入してビッグウェーブに乗っていたら、今の僕は全く別の世界に居たのだろうか。そうかもしれない。それに間に合わなくとも、日銀バズーカから参戦していれば新築一戸建てくらいは買えたのだろうか。最大レバレッジで、最も振れ幅の大きいユーロ円をロングしていれば、今頃は・・・。

だけどそれはギャンブルだ。パチンコとさほど変わらない。そして、今となってはしょせん仮定の話である。既に終わった過去は変えられない。そもそも現実問題、自分にそれが出来たかというのも怪しい話。 調達可能な財産全てを投入すると言って、それが本当に可能だったのか。嫁に対して、ここは一つキミの全財産をオレに託してみないかとでも言うのか。上手くすれば家が建つからと。あるいは実家に連絡して、オレだよオレ、ちょっとどうしても金が必要になっちゃってさ、500万くらい振り込んでくんない?とでも話すのか。それで納得するのか。理由も言わずに。

いや、理由を話したところで納得するのか。何の保証も無いのに。市場もまた水物だ。リターンが必ず保証されるわけではなく、当然のことながらリスクもフィフティフィフティ。悪くすれば全財産が溶けて一家離散の憂き目に遭う。そんな不安定なものに、命とも言える金を預けるヤツが居るのか。仮に最大限財産を調達出来たとして、僕自身、勝負出来たのか。確たる勝算があるわけでもないのに、失うリスクがあるのに、人から預かった金を、それも桁違いの金を、魑魅魍魎の跋扈する金融市場に投入出来たのか。オレにそんな度胸があるのか。パチで嫁から借りた金を全部溶かしてしまった時ですら、もうオレはダメだと千住新橋から飛び降りる算段まで立ててしまう程度のこのオレが。

まあ、いずれにしても無かった話。あったかもしれないけど、結局は選ばなかった世界。具現化されなかったもう一つの自分。エヴァのパイロットではない、もう一人の碇シンジみたいなものだ。現実は常に一つ。そして過去と現在を繋ぐ線は一本だけ。もし望む未来があったのならば、そこに至るまでの過去の時点で、望む未来に見合った動きを開始していなければならない。望む未来に辿り着くには、それに相応しい望む過去を積み重ねることが必須条件だ。それをしなかったのに、そうしていればなどと言うのは妄想以外の何物でもない。

それに、「望む過去を積み重ねる」という行為自体が人間には不可能。その時点では基本、気付けない。過去が終わり、未来から過去を振り返った時に、ようやく過去の分析と理想の未来の再構築が可能になるのだ。しかもその再構築は、しょせん仮定の話。妄想の領域を出ない。「ああしておけばよかった」「こうしていればもっと上手く行った」とただ悔やむだけの非生産的な精神活動に終始するのみだ。その都度その都度、最良であるはずの未来に気付き、道を修正していけるのは凡夫の為せる技じゃない。もはや天才だろう。

そう。過去を過去としてでなく、その過去が現在進行形であるその瞬間に気付ける人だけが、望む未来を手に出来る。未来視は誰にも出来ないけど、想像を働かせることは可能だ。その想像をより鮮明に具体的に、かつ現実的可能性に沿って展開出来る者だけが理想に近付く。それがシミュレーションの効能。話が突飛になりすぎて夢物語を語るだけで、結局自分に陶酔して終わってしまうだけの妄想とは一線を画するスキルである。現実的かつ志を伴ったシミュレーションを具体化し、リスクを恐れずそのシミュレーションに自らの身体を、金を、そして生命を投げ出せる少数の者だけが成功する。だから、それが出来ない人間は、未来へのシミュレーションを断固たる決意でやり通せない大多数の人間は、何度も同じ間違をし、何度も道を誤る。

返す返す言うが、過ぎ去った話をしてもしょうがない。訪れない未来を語ってもしょうがない。過去は変えられない。ただ振り返るだけのものだ。僕に出来るのは、せいぜい在りし日々のことを振り返りながらマック店内でアイスコーヒーを飲むくらいのもの。そんな僕もまた凡夫。世間を見れば、僕が妄想しながら無為な一日を過ごしているその間にも、ユーロ円などは午前中に128円から129円まで上がり、だけど夕方になると127円前半まで急反落し、それでも夜にはまた129円台に買い戻されるという乱高下を見せている。市場に巣食う投資家や投機家達が、それぞれの思惑を実現させるために、あるいは他者を煽り、あるいは騙し、生き馬の目を射抜く戦いを分単位で繰り広げている。関心のある者、ない者の存在に関係なく、市場はかくも活性化しているわけだ。

そんな金融市場は、もはやビジネスや資産運用の域を超えた、欺き合いの心理戦。マネーパワーを背景とした弱肉強食のサバイバル。そのサバイバルの中に身を投じ、戦い続ければ、それだけで感性と胆力が鍛えられるだろう。金融・経済の世界を強欲に渡り歩くというのは、いかにも俗物丸出しな感じがするけれど。ただ、その俗物志向にも一理ある。

本当に大切なものは金以外の部分にこそある。それが恐らくは、人間が究極として辿り着く境地ではあるけれど、それが見つからないのであれば、あるいは見つけても得られないのであれば、それに代替できる存在を探すしかない。穴を埋めてくれる何かを見つけるしかない。唯一代替出来るのは、やはり金しかないのではないか。金はパワーだ。そのパワーの源を追い求めている間、人は頭脳の衰えを防ぎ、生命力も保っていられる。それもまた、一つの幸せの形には違いないのだ。

人生という旅を歩き続ける人間にとっての最後の拠り所は、誰か特定の人物であったり、夢や目標であったり、揺ぎない信念や志といった、精神世界を主眼に置いたもの。だけど自由経済資本主義という荒波を泳ぐ人間にとっての最後の拠り所は、やはり金しかあるまい。人間の持つ人格は一面だけではない。一人の中にいくつもの人格を宿しているもの。精神的支柱を糧に生きる自分も居れば、亡者のように金を追い求める自分も同じように内在している。個人個人の違いは、それらの中のどの側面がより強く表に出ているかの違いでしかない。今、自分の中で一番強く出ている側面はどれか。それを分析するだけで現在の心理状況が推し量れるというものだ。

もう一つ分かっているのは、アベノミクスによる金融市場の活況に実社会は全然追い付いていないということ。追い付いたとしても、給料が上がる保証はない、豊かにしてくれる約束など誰もしてくれない。世の中は相変わらず不況だ。豊かになるには自分がやる以外にない。最終的に頼れるのは結局のところ自分しか居ないということだ。ゆえに皆、闘い続ける。自由競争という大海が広がる限り、人生の旅路が続く限り。描いた未来を実現するために、より適切な過去を積み重ねながら。

そんな不況の中、朝出かけた時、同じマンションに住む知り合いにバッタリと会った。僕はその人と話をしながら駅に向かう。その人は間もなく定年を迎えるらしい。ただ、本心では現職をもっと続けたくて、その旨を会社に願い出たのだが、会社もそれを受け入れるだけの余裕はなく、再雇用してもらえないとのこと。やはり実社会はまだまだ不況である。老後何もしないと生活が楽にはならないし、自分には働く気力もまだ充分にあるからと、その人は再就職を考えていると言った。介護の勉強してるとか。その年齢で新たに勉強しようというバイタリティは見習うべきだろう。

その人は、「キミ、最近調子が良くないって噂だけど、無理しちゃだめだよ」と僕の身体を心配してくれもした。嫁さんをあんまり心配させるなと。「まあいざとなったら保険金だけは残せますよ」という僕のジョークはあまりウケなかったようだ。フゥーッとため息を吐き、アメリカ人のように首を左右に振りながら、その人は言った。何をするにも身体が資本なんだからと。何かあっても結局、誰も助けてくれないんだからと。だからまず自分の身体を第一に考えなさいと。有り体な一般論だが、結局その人の言う通りなんだよな。その人と駅前で分かれ、僕はいつものようにマックでコーヒーを飲みながら、その一般論について考えをめぐらせていた。

会社を存続させようと無理をしたところで、病気になれば保障など全くしてくれないだろう。また、他の従業員が恩を感じることも大してないだろう。コイツが色々やるお陰で自分は楽が出来るぜ程度に考えている人間も多いと思われる。別に恩に着て欲しいわけじゃない。だけど自分のやっている意義はせめて見出したい。それが見出せないから、最近余計に塞ぎこむのだ。

自分がやることによって会社が存続するのは、確かに自分の生活を保つことに繋がる。しかし同時に、他の従業員も助けている。自分が頑張ることが他の誰かの助けになっている。それ自体は喜ばしいこと。だけど問題は、自分が助けている他の誰かの全員が全員助けるに値する人間ばかりとは限らないということだ。誰か身を裂いて構築したものに胡坐をかいて怠ける人間、漁夫の利を得ようとするのが見え見えな人間、誰かがやる限り自分は絶対に動こうとしない人間。そういう者も確実に紛れていると肌で感じてしまうから、自分の時間を削ってまで働くことに疑問を持ってしまう。

僕が最近思うのは、仮に頑張ったとして、誰が喜ぶのかということ。自分が誰かのために頑張って、果たしてそれは報われるのかということ。喜んでもらえるのは嬉しい。だけど、それは喜んでもらいたい相手に限る。誰だって、基本は自分のために頑張りたい。だけど、誰かのために頑張りたいという欲求も反面では持っている。その相手が自分で納得出来る相手であれば、いくら犠牲を払っても悔いはないだろう。本来、自分の時間や命とは、自分自身か、あるいはそれに同等する存在にだけ使う価値があるはずだから。だけど現実を見ればそうじゃない。だから葛藤が余計に強くなる。「なぜオレはあんな無駄な時間を」というセリフは決して口にしたくないのに、今のままだとそれが口からこぼれ出てしまいそうだから嫌になる。

基本的には自分が生きるため。その副産物として、好きな人達が豊かになればよりベターだ。だけど結果として見れば、好きでもない人間が楽をする手伝いをしているだけで。そもそも、豊かにしたいと思える相手が職場の周りには殆ど居なくて。そのギャップに神経が磨り減る。喜んで欲しくない人間に喜ばれたところで、逆に自分が無為なことをしていると自己嫌悪に陥るだけだ。

その結果、自分が身体を壊したり病気になってしまったらどうなるか。誰も喜ばない。好きな相手のために身体を壊すのならまだ納得は出来るが、そうではない場合はただただ無意味でやるせない。何より、誰も助けてくれない。見舞いの言葉を掛けてきたとしても、とどのつまり生活に対する保障など何もしてくれないと分かり切っている。それじゃあ自分自身が報われない。相手からすれば、やり得。だけど自分からすれば、やり損。

だからこそ、面倒見てくれるわけじゃない赤の他人のためにいくら頑張ったところで意味は無いから、もう少し自分を大切にしなさいと、あの人は言ったのだ。その経験豊かな人生訓を以って。身につまされる話であった。僕は一体、誰のために頑張っているのか。何のために頑張っているのか。最終的には自分のためと言うけれど、本当に自分のためになっているのか。力を傾ける僕はもしかして重大な認識違いをしているのではないだろうか。

昼、引継ぎで担当となる顧客に挨拶するため新橋に向かう。オヤジの聖地のように言われているが、場所によってはオシャレ。そこを歩く人達も、街中のオヤジリーマンでなく、若い青年リーマンやOLがひしめいている。ポイントを絞れば意外と洗練されているものだ。それにしてもウチのお客さん、カッコいいビルに入ってるなー。話の仕方もシステムも先端を行ってる風だし。イマドキの企業って感じ。ボロビルかつ旧態依然な体制で、古臭いシステムと根性論が大好きなウチの会社とは大違いだな。久々に、タイプの違うお客さんを顔を合わせ、新鮮な気分になった。

その帰り、一緒に来ていた同僚と一緒に、新橋駅前第一ビルの食堂に入って飯を食った。このビルは、いつ来ても暗くて、汚くて、統一性がない。建物の中なのに、赤ちょうちんが並ぶ裏通りチックな雰囲気だ。オヤジ達がいかにも好みそう。今の人等はこんな汚いところで食うのかどうか知らないが、このビルこそまさしく「新橋 of 新橋’s」と言えた。

そこにある店の一つ、洋食喫茶店「ハンブルグ」というところに入り、ナポリバーグをオーダーする。ナポリタンの上にハンバーグが乗った、昭和チックなメニューである。他にもメニューは豊富にあったのだが、マスターのオヤジがカウンター奥の汚い厨房で作業しながら「もうナポリバーグとラーメンしかないよ!」と愛想なく吐き捨てたので、選択の余地が無かったというのが実際の理由だ。オヤジはおオーダーを聞くや否や、手馴れた手つきでその汚い厨房でフライパンを巧みに操り、ほどなく「へいお待ちっ!」とテーブルにそれをぶっきらぼうに置いた。いかにも昔ながらのナポリタンそしてハンバーグである。何か胡散臭いなー。ナプキンなんて既にケチャップで汚れてやがるし。僕は恐る恐るそれを口に運んだのだが・・・。

うめぇッ! ナニコレ美味しいんだけど。ナポリタンは、まさに昭和風のこってりした味付けで、だけどそのケチャップ加減と炒め方を絶妙なバランスで施しているのか、いくら食ってももたれなさそうだ。そしてハンバーグ。その無骨そうな外観と裏腹に、突き立たナイフがサクリと入る柔らかさ。挽き肉は舌の中でフワリと踊り、肉汁とケチャップソースが交じり合ったジューシーな味わいが口の中にとろけて広がる。これは意外だった。こんなに旨いナポリタンとハンバーグを食ったことは滅多に無い。夢中に食う僕の方を見て、さっきまで慇懃だったオヤジが「どうです、美味いでしょう!」とドヤ顔で微笑んだ。「確かに、すごく・・・美味しいです!」僕は満面の笑顔をオヤジに返すのだった。これで780円とは、安い。都会化・近代化が推奨される現代の風潮の中、未だに昔の名残と暖簾を堅持し続ける新橋の一角。その底力を思い知った気がした。

会社に戻ると、色々な人間が話を持って来る。自分のお客が大変なことになってます、何とか社内に掛け合ってもらえませんか、とか。ここのお客はこうで、あのお客はこんな感じだ、と分析結果だけを投げてきて、じゃあ後はよろしく、とか。え?僕がやんの? 考えて判断するのは僕の役目? 分析だけするのは誰でも出来る。統計を取ればいいだけなのだ。そこから考えて判断して形にする過程が最も大変で重要なんじゃないか。何でそれを放棄しようとするのか。やっぱ旧態依然だわー。何かやる気無くなるわー。自分が頭を使うべき場所は、命を掛けるべき対象は、ここじゃない気がする。

仕事中、親父から携帯に着信があったので、会社を出てから電話する。6月に予定している兄貴の結婚式について、泊まるホテルをどうするかとか、色々だ。会場は鳥取だから、多分有給を取る事になるだろう。その時、親父達がGW明けくらいに東京見物のため上京するという話もした。せっかく鳥取くんだりから時間を掛けてこっちに来るんだ。目一杯エスコートさせてもらうとしようか。他でもない親父達のためでもあるしな。自分の時間と労力を割いてもいい相手。今日の朝に感じたこと。その意味を、久々に話す実家の親父との電話でふと思い出した僕だった。

夜メシはマックのテイクアウト。季節バーガーの「てりたまチキン」である。少し心が沈みがちとは言え、てりたま系は僕の大好物なので、それ自体にはやはり心躍る。そのてりたまを僕と嫁の分を、今回はLLセットで購入した。聞くところによると、LLセットを買ったお客には、「マックポテトホルダー」をプレゼントしているという。マックのポテトフライを固定するためのプラスチック容器だ。毎日マックのポテトを貪り食うオーバーサイズミー的アメリカ人にとっては宝物だろう。しかし僕等は別にマック依存症でもないし、何か役に立つんだろうか。それでも、記念品として考えればもらっておいて損は無いかもしれない。いずれガラクタになると分かっていても、その都度その都度の思い出として刻まれるはずだからな。「日銀黒田バズーカ砲が発射された日」のように、「マックポテトホルダーをもらった日」という形で、そのインパクトは多分残る。

些細な記念品でも、少し心揺れるひと時。LLセットを頼むだけでもらえる幸せ。飲みもしないLサイズドリンクを押し付けられたお詫びの品と考えれば整合性は取れる。何事もギブアンドテイク。損得は大概の場合、フィフティフィフティだ。為替が円高か円安に振れるか、その可能性もフィフティフィフティだし、僕の体調不良が回復に向かうか否かもフィフティフィフティ。

それを良い方に傾けるためには、自分の感性とセンスと胆力とを磨く意外にない。それらを磨くために、自分の時間を好きでもない人間のために浪費している場合じゃない。残された寿命だけは、磨いても伸びるものじゃないから。もうフィフティフィフティを割り込んでいるかもしれない。もしかすると、残りの寿命は既に30%あたりを切っているかもしれない。少なくともナインティナインまで生きれるなんてことは、まず無い無い。

よって、ゼロに近付く前に気付く必要がある。長年溜まりに溜まったはずのポテンシャルを異次元緩和させ、秘めたるバズーカ砲を撃ち込むこと。そこから壮大なバブルが始まる。異次元へとワープする時が遂に来た。


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20130423(火) 長年付き合いのあるお客と離れる心の打撃、香水の意外と強い破壊力、寿司屋半額セールの破壊力

130423(火)-02【0810~0835】マックコーヒー(梅島マック)《東京・梅島-一人》_01 130423(火)-03【1830~1920】ルノアール秋葉原《東京・秋葉原-一人》_01 130423(火)-04【2045頃】くまモン焼酎、くまモン梅酒、くまモングラス《家-嫁》_01 130423(火)-05【2050~2120】寿司半額セール(梅島ちよだ寿司)、菓子パン30%オフセール(梅島パン屋)《家-嫁》_01 130423(火)-05【2050~2120】寿司半額セール(梅島ちよだ寿司)、菓子パン30%オフセール(梅島パン屋)《家-嫁》_03 130423(火)-05【2050~2120】寿司半額セール(梅島ちよだ寿司)、菓子パン30%オフセール(梅島パン屋)《家-嫁》_04

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルトジョア、マックコーヒー(駅前マック)

【昼メシ】(職場付近-一人)
コンビニカレーパン

【夜メシ】(家-嫁)
寿司半額セール(梅島ちよだ寿司)、菓子パン30%オフセール

【イベント】
アキバ
 
 
【所感】
今日も朝、仕事に行く前に地元のマックでコーヒータイム。とても落ち着く。ただ、体調は何となくイマイチなんだよな。コーヒー飲んでマッタリしてる間はいいが、そろそろ出かけるかと思い始めると吐き気が込み上げてくるような。最近、似たような状況に陥ることがとみに増えた。メンタルが脆弱化してるのかもしれない。マック店内でも、周囲を眺めつつ、同時に虚空に視線を泳がせ思考を遥か先に飛ばしている気分。

現実味が無いんだよな。僕は今どこに居るのかという。見える景色が去年以前と全く違う。他の人間とも見ているものが違う。違ってきた。少しずつ価値観にズレが生じてきて、そのズレが修正出来ないまま進み、今では全くの別人になってしまっているような。ゆえに自分の立ち位置が掴めず、価値観がズレ過ぎたので他人の考えを参考にしようという気にもならず、行き場なく浮遊する。TVでは、GW休暇で海外旅行に行く人が増えているなどと特集していたが、今の僕はあまり心を刺激されない。そうじゃなくて、もっと・・・。やるべきことは至って限定的で、今はそれしか見えなくて、ゆえに他のものがあまり見えない。

旅行は過去、充分にやった。少なくとも人よりは圧倒的に旅をしただろう。今思えば、真っ当な精神の時に行けるだけ旅行に行っておいてよかった。過去、「行ける時に行っておいた方がいい、何が起こるか分からない」と言い聞かせていたが、今まさに予想通りの展開になっているわけだ。旅は、良い。人間を豊かにするための最高峰イベント。だけどそれは、心も最高潮であればこそ、豊かな心を伴ってこそだ。そうでない時は、動かない方がいい。多分、まだ慌てる時間じゃない。

午後、仕事でアキバに少し寄った。パチンコ屋のアイオンと浜田電気とツクモ本店が並ぶ通りを歩いていると、メイド達が「よろちくおねがいちまーつ♪」と、鼻の詰まったような甲高い声でチラシを配ってくる、いや押し付けようとしてくる。最近のアキバでは日常的な光景だ。僕にとって、アキバが変わったと思わせる一番の原因は、この日中から悪びれることもなく闊歩するメイド達の存在なのだが、今日見た光景はそのさらに上を行くものだった。

そのチラシメイド達が、3メートルおきに立っているのだ。一番こっち側のメイドが「よろちくー♪」と言うのをシカトしても、すぐ先に違うメイドうが待ち構えている。それを素通りしても、また別の店のメイドが手ぐすね引いて待っている。たった20メートル歩いただけで、5~6人のメイドから勧誘を受けるハメになった。まるでバケツリレー。大企業の会長が玄関先に帰宅した瞬間、左右一列にズラリと雁首揃えて並び「お帰りなさいませ旦那様!」と一斉にお辞儀する使用人達のようだ。メイド達はにこやかに笑っているが、正直不気味な光景であった。

アキバはたまにしか来ないから気付かなかったけど、いつの間にかここまでイッてしまっていたのか。まあ元々何でもアリな街だったし、流行り廃りに乗る特性で今まで来た街だけど、それでも踏み越えてはいけない一線があるだろうに。彼女等にしたって、メイドとは名ばかりのただのバイトだ。自分を抑えてご主人様に尽くそうという精神など持ち合わせていない。放っておけばどんどんつけ上がる。その増長を許した結果が今のアキバの姿。終わってる。何かが壊れている。

頭を捻りながら、馴染みのお客さんのところに向かう。少しプレゼントを持って行ったり。10年以上の付き合いがある、とてもよくしてくれたお客さんである。今回、そのお客さんの担当を外れることが内定した。その旨を事前に伝えることも今日の訪問理由の一つだ。「ところで、御社の担当を外れるかもしれません」と僕は何気なく言った。それを聞いたお客さんは、「またまたご冗談を」と苦笑したけど、実のところ本当でしてね。お客さんは笑いながら、「ウチよりもっと大切な上顧客の担当をするんですか?」などと聞いてきたり。「いや、内勤が多くなって、あと地方を回る仕事が多くなりそうなんで」と僕も適当な理由を付けて誤魔化しておいたけど、言葉を交わせば交わすほど感慨深くなってしまった。

「気付けばもう10年以上もやってましたね」「そうですね、私がこっちに配属になった時には既に担当が佐波さんだったし」などと互いに思い出を懐かしみつつ、「まあ改めて案内しますので」と僕は念押しする。「わかりました、それにしても寂しいですね」お客さんはポツリと言った。「ええ、寂しいです、ホントに」本心から僕は答えた。この担当替えについては社内で事前に通達があり、僕も最近は社内の事項に関心が殆どなくなっているので「そうですか了解しました」と受け流していたけれど、いざお客さんのところに行って直接対面すると、寂しい気持ちで一杯になる。

思い出が多すぎた。僕が入社して間もなく担当となり、他のお客は何度も担当を変わっていったけど、このお客さんだけは唯一ずっと僕が窓口だった。数え切れないほど仕事の話をしたし、時には罵声も浴びせられ、だけど時には色々無理なお願いも聞いてもらった。残業代や代休が出なくても応援に行ったことも何度もあったし、傾いた時も変わらず見続けたし、仕事帰りに一緒に飲んだり、パチを一緒に打ったり、時には金を借りたりもしたっけ。

東京に来て、今の仕事に就いてから、このお客さんを軸に僕は動いていた。いわば僕の青春だった。それが、無くなる。いざ現実にそうなってみると、喪失感が桁違い。人間は感情で生きる生き物。心が崩れかけても、自分に残されたモチベーションに最後は頼っている。このお客さんの存在は僕にとって、少なくとも仕事の部分のモチベーションを支えてくれていた一つだったからこそ、何かが崩れ落ちる音がした。一つの時代が終わったのか。ならば僕は今後・・・。そんな気持ちになった。

その件もあり、以降仕事する気が起きなくなった僕は、喫茶店のルノアールに潜り、ノートPCを開きながら一時間ほど自分の世界に没入した。テーブル席が満席だったので、壁際に打ち付けられた一人用の席で黙々とタイピングしながらアイスコーヒーをすする。アキバの中でも、数少ない心休まる空間である。その後、ヨドバシカメラを少し覗いてみたが、1階にMac専用コーナーが設けられていた。かなりのスペースを割いたようで、ヨドバシひいてはアップルの力の入れ様が分かる。アップルのレイアウトって、シンプルだけど、他に媚びないポリシーや哲学があって何かカッコイイよね。強者だからこそ出来る力技。文句があるなら売らなくていいと。アップルのような圧倒的なパワーを、せめて一分野だけでも手に入れられないものだろうか。超人願望はきっと誰の心の中にも燻っている。

会社に戻る電車の中、座席が一人分空いたので僕はそこに座った。両隣には女性。左側は、黒髪ロングでワンピース姿の知的風姉ちゃんで、スヤスヤと寝ている。右側は、茶髪ロングにタイトな服で固めたいかにもギャル系姉ちゃんで、キアヌリーブスのごとき目まぐるしさでスマホを弄りまくっている。気恥ずかしいな、という気持ちは特に無いが、それよりもギャル姉ちゃんのスマホ操作の挙動があまりに縦横無尽すぎて目に付く。キアヌ姉ちゃんのとてもウザい挙動から逃げるため、目を瞑って寝たフリをしていると、今度は不意に香水の匂いがフワッと鼻をついた。フワッというよりプーンという感じか。結構キツい匂いに寝たフリも出来ない。せっかく視界を閉ざしたのに、今度は嗅覚を攻撃されるのか。僕は何もしていないのに酷い仕打ちである。

何で女という生き物は、そんなキツい香水をわざわざ付けようとするのか。ほどよく汗をかき、新陳代謝よく生活していれば、人間の体臭はそれほど臭くならない。加齢臭というのも、結局は積もり積もった老廃物を新陳代謝で排除する作業を怠ったから出てくるもの。それを怠り、香水で誤魔化したところで虚しいだけではなかろうか。それで一生誤魔化し続けるのだろうか、虚勢を張り続けるため高い金を延々と払い続けるのだろうか。結局のところ、健康な人間こそが一番金が掛からないといことだ。

そもそも論として、元々女はいい匂いなのだ。多分、気にするほどじゃない。陸奥八雲なども、自分は男だと言い張る詩織に対して言っている。「お前、女だろ。だって匂いが全然違う」と。その言葉に動揺する詩織を、自分の汗まみれの胸元にグイッと押し付けながら「これが男の匂いだ」と説明し、さらに今度は自分の顔を、詩織の首筋あたりに鼻先がくっ付くほどに近付けて、詩織の匂いをクンクンと犬のように嗅ぎ回りながら、「お前はいい匂いがする」と無邪気な少年のようにニヤリと笑う。その時の陸奥八雲の言葉が全てだと思われる。無論、現代で陸奥八雲のような真似をすれば即刻捕まるので自重した方が無難だが。それが許されるのはイケメンと、陸奥八雲のように自分の男力に絶大の自信があるヤツに限る。陸奥八雲は、天然のフリをしているが、実は狡猾で計算高いエロ格闘家。詩織にビンタされても仕方ない。陸奥一族は代々そうである。しかし、その天然と本能とが同居した佇まいが、女にとってはまた良いのである。多分ね。

帰宅前、メシは何にするかと嫁と相談した結果、寿司にしようということになった。僕は早速、地元の寿司屋に寄ってみる。すると遅い時間帯だったからか、全ての商品が半額セール。しかも結構上等な寿司も残っている。嬉しくなった僕は、思いつくままに寿司を買い漁るのだった。何しろ980円の寿司が490円、2000円の寿司になると1000円で買えちゃうんだからな。元の単価が高ければ高いほど、その威力を実感する。閉店間際の半額セールの破壊力は本当に半端ない。ついでに寄ったパン屋でも、30%引きセールを行っていた。得をした気分になった僕は、そこでもパンを5~6個買っていった。

実のところ、今日の夜メシは、寿司の他に、地元のとんかつ屋に行こうという案も出ていた。しかし半額という点を考えると、やはり寿司が正解だった。とんかつ屋ならば、定食を頼んでビールを飲んだだけで、一人2000円はするだろう。だけど今回の寿司は、相当なボリュームを買い込んだにも関わらず、二人で2000円も掛かっていない。想像以上の破壊力であった。閉店間際を狙う戦略は、日々を無駄なく生きようとする庶民にとって、活用して損はない戦略である。

そんな大量の寿司とパンを食い散らかし、腹を満たした僕等。メシを喰い終わって時計を見ても、まだ10時だ。いつもと比べて時間が相当余っている。だけど、今日の朝マックでのこととか、アキバのお客さんのこととか、色んな物思いが頭に浮上してきてしまった僕は、何となく力が抜ける感覚を覚える。このテンションになった以上、今日は何も出来そうにない。せっかく早く帰れたのに残念である。自分のメンタルの不安定さを呪いつつ、そのまま寝落ちした。

現実味のないコーヒー屋での物思い。馴染みのお客さんとの思い出が全て過去になってしまう悲しみ。寿司屋の半額セールを全身で味わった喜び。全て合わせればプラマイゼロ、という単純な計算式も成り立たない。人の心はあやふやなもの。元々、有って無いようなものである。寿司屋が元々付けている値段も、まあ有って無いようなものである。


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20130422(月) 朝のマック店内は理想郷であり、愛を込めて作った書類とサバの塩焼きは何よりも美しい

130422(月)-02【0820~0835】マックコーヒー(梅島マック)《東京・梅島-一人》_01 130422(月)-03【2215~2245】サバの塩焼き、厚揚げともやしの炒め物、大根とキュウリのサラダ《家-嫁》_01 130422(月)-03【2215~2245】サバの塩焼き、厚揚げともやしの炒め物、大根とキュウリのサラダ《家-嫁》_02 130422(月)-03【2215~2245】サバの塩焼き、厚揚げともやしの炒め物、大根とキュウリのサラダ《家-嫁》_03

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルト、マックコーヒー(駅前マック)

【昼メシ】(職場付近-一人)
コンビニカレーパン

【夜メシ】(家-嫁)
サバの塩焼き、厚揚げともやしの炒め物、大根とキュウリのサラダ

【イベント】
無し
 
 
【所感】
朝、地元駅のマックでホットコーヒーを飲む。会社の始業時間に間に合う電車が発車するギリギリまで粘る。最近週2~3回は訪れるマック店内でのコーヒータイムは、今の僕にとって心落ちつくひと時。周囲も騒がしくない。殆どの客が自分だけの世界に入り、黙々と朝の数十分を過ごしている。

店内には、互いが干渉しないという暗黙の了解と、どこか突き放したようなオーラが漂っている。気を遣わなくて逆に落ち着く。そして、使い込まれて古ぼけてしまったテーブルや椅子が無造作に置かれる様も、清掃もそこそこのちょっと汚い床もグッド。安っぽい内装が緊張感を一層ほぐしてくれる。

そんな静寂と放置プレイが織り成す絶妙なバランス。この空間から離れ難い。周囲の沈黙の空気を肌で感じつつ、時折起こるざわめきや周囲のか細い会話をBGMにしながら、僕は約20分間の安寧に、演出されたエルドラドに酔いしれる。最近の習慣、会社に行く前の朝マック。100円で買える幸せ。

会社に出向き、仕事を黙々とこなしつつ時間は経過していく。こっちは朝のマックと違い、静寂一路というわけでもない。静寂半分、喧騒半分と言ったところか。まあ、極端に静まり返った職場というのも、みんな仕事してんのかよという感じで逆に気持ち悪いが。ただ、静寂時の社内の雰囲気は、心地良い静寂を醸し出すマック店内と真逆。空気が重く、濁っている、澱んでいる。負のオーラがそこら中に蔓延している感覚だ。そこに身を置いているだけで押し潰されそうになる、寿命が縮む。こんな空間からはいち早く離れたいと思わせる。

逆に喧騒時は、従業員同士が対話したり、雑談したり、時に叱責などが飛び交う。仕事場独特の雰囲気と言えばそうかもしれない。だが、叱責というよりも、暴言とか嘲りとか侮蔑とか、人格を攻撃する方向に向かう場合も結構多かったりするので、それが自然と耳に入ってしまう僕としては気分が良くない。使い古した書類の裏側に文字が書かれたものを間違ってコピーした者が居た時、「頭おかしいんじゃねーの」と吐き捨てるように呟いたり。感情的な暴言、ワザとと思えるようなネチネチ、チクチクとした捨て台詞、それがポロッと出てくること自体、不快感の対象だ。心理的に与することが出来ない、相容れない。言葉には人格が滲み出るもの。悪意が露わになるシーンが多すぎる。

対話時も、どこか空虚なオーラが漂う。皆、あまり真剣でないというか、互いが互いの話を大して聞いてないというか。内心では嫌悪し合っているからそうなるのか。これもまた悪意の裏返しか。結局、互いに良くしよう、助けようという団結力や協調性が希薄というか。いや、各々が長年積み重ねてきた悪意や失望が、今の閉塞感を形成してしまったのかもしれない。団結しよう、強調しよう、つまり相手を尊重しようという感性が、過去繰り返されてきた不毛な摩擦によって、皆の中から消失してしまったに違いない。言うことを聞かない、遂行しない、適当に受け流す、ある時はシカトする。時には表に出た言動で、時には物言わぬその態度で、互いを攻撃する。信頼や思いやりの欠如。互いのパフォーマンスを最大限発揮できないまま、悪意と諦観だけが無限に増殖している。そして多分、もう戻らない。イタい空気と言わざるを得ない。

雑談時も、何か白々しいというか、空々しいというか、緊張感も若干足りないというか。メリハリを付けて楽しく対話を弾ませるのと、ブレーキなく好きなことをお喋りするのとでは全然違うからな。最近は特にその弛緩ぶりに歯止めが効かないというか、節操を感じられない。

空間が醸し出す雰囲気の千差万別。身を置くだけで精神が平穏・幸福になる朝のマック店内の佇まい。対して、席に座っているだけで苦痛だけが積み上がる職場の雰囲気。昔はこんなんじゃなかったのにな。もはやムードメーカーも居ないから、安牌が居ないから。すなわち、他人を攻撃せず、飄々と受け流しつつ、場を和らげられる人間の不在。だからギスギスする。なだめ、和む拠り所が無いから、振り上げた拳の収めどころが見つからない。

安牌と言われる人間。安っぽく聞こえるが、意外と少ない。なぜならそれはセンスだからだ。センス無き人間が盛り上げようとしたところでワザとらしくてすんなり受け入れられない。本質が攻撃性が高いと分かっている人間がたまに優しくしても、白々しいだけで興醒めする。センスある人間は、自然にそういう振る舞いを行い、しかもそれが元来の性質だから嫌味も感じない。安牌のセンスを持つ者は、何もしなくとも勝手に好かれる。センス無き者は、いくら努力しようが好かれない。センスある人は皆、居なくなってしまった。自らのセンスを活かす場所は他にあるから、それが正当に評価される場所はもっと他にあるからと、無意識に見切るに違いない。いずれにしても、今の職場は真意が通じない相手ばかり、敵ばかりとなりつつある。心を隠す以外に身の処し様がない。寂しいものだ。

あと、雰囲気とはあまり関係ないが、僕的にもう一つ我慢ならないことがある。僕んとこに提出されてくるワードとかエクセル文書について。英語やカタカナが全角と半角バラバラで統一性がないものが相当目立つ。あと、罫線の太さや使い方が不自然とか、本文が左に偏りすぎて右と下の空白が異様に空いているとか、段落と段落の間に設ける空白部分が、ある段落は一行分だけど別の段落は二行分だったり、とにかく統一性がない。これには相当イラッと来る。

書類作成の大部分は僕がやることが多いが、書類チェックの仕事も結構回ってくるようになった。意外とチェック能力が高いと見なされているようなので。だけど、それだけに体裁がバラバラな書類を見ると不快感を禁じえない。大抵のことは我慢しているが、これに関してだけは怒鳴りたい気分なる。何でこんなに適当なんだと。その統一性の無さがお前等は気にならないのかと。もちろん、文章その他の書類は内容がまず第一。だけどそれと同じくらい、見易さも重要だろう。半角と全角が入り乱れてるだけで見辛い、大きさが違うのだから当たり前だ。つまり、美しくないんだよな。提出されて来る書類は美しくない。

ゆえに、口ではやんわりと指摘しながらも、心の中では憤慨する。ザッと見ただけで気付くだろ。見る者に対して気ィ遣ってんのかよ。そう思ってしまう。たとえば、日本語部分は全角、英語部分は半角とか、そう打ち込むルールを意識付けておけばこんな状態は起こらない。F10キーを押すクセだけ付けておけば、勝手にバランスの取れた文章が出来上がる。そうならないということは、ただただ打ち込んだ文字を機械的にスペースキーで変換してるだけ。ルールがない。ポリシーがない。しかもそれを見返してない。それは、普段から気にしてないという裏返しだ。つまりプライドがない。

気にならないのか?そういうブサイクで平気なのか? 僕は書類を作る時、見易さはかなり重視する。文章の美しさも重視する。 ただただ美しい体裁の書類を求める。そこに大した労力は要らない。ルールを自分で作っておけばいいだけの話なのだから。かつて、書類のことで色々口うるさい人間は沢山居た。そんな細かい部分までいちいち気にすんのかよと僕は思っていた。しかしその反面、一理あるとも感じていた。美しさを求める潜在的欲求が、その口うるさい人間に一部だけ同意していた。そんな流れの中、いつの間にか、誰よりも書類の体裁を気にするようになった自分が居る。神経質なほどに。それを神経質と言うか否か。僕はただ、美しい文体を求めているだけだ。そのポリシーが皆無な人間を見ていると、無性にやるせなくなってくる。

最初は変哲も無い、ただの『白』だ。「ファイルの新規作成」を選択すると表れる、無機質な白のキャンバス。そのまっさらな空白の中に、自分の頭に描いた文章を、表を、数字を、図式を、美しく並べていく。何度も消して、整えて。過程はどうでもいい。その末に完成した結果こそが、作り手に達成感を与えるのだ。その出来上がった書類が均整の取れたものであればあるほど、美しければ美しいほどに、僕はこの上ない恍惚感を覚える。

なぜコイツ等は、そんなに適当な結果で満足するのか。もっと美を追求してもいいだろうに。見掛け倒しには決してならない。美が整った書類は、意外と機能性や実益性にも富んだ結果を作り出す。なぜなら、想いを込めて、愛を込めて作っているからだ。逆に体裁が整っていないというだけで、熱意が含まれていない、愛を感じない。結局のところ、愛のない書類には魂は宿らない。

夜メシ出た「サバの塩焼き」なんかも同じだ。スーパーで買った時点では、どれもが生臭い。見かけも表皮部分は青黒く、裏面の肉部分は赤みがかった色をしている。買った時点では変哲もない生のサバだ。それを、塩やみりんや醤油で味付けしていき、ロースターやフライパンなどを使ってじっくりと焼いていく。すると全く異なる結果が出てくる。たとえば味付けの匙加減一つで、あるいは使う調理器具によって、出来上がるサバの塩焼きは全く違うものになるのだ。他にも、焼く時間の長さや焦げの付け方、果ては焼きゴテのような細い焦げ後を何本付けるか、どのくらいの深さで付けるかなど、調整する要素は無限に存在する。だから面白いのだ。

今日、サバの塩焼きを作った家庭や飲み屋は、全国的に見れば100万世帯を下るまい。何百万匹のサバが、今日という日に塩焼きにされた。だけど、出来上がった何百万のサバの塩焼きは全て他と違っているはずで、同じものなど一つも無い。それぞれの家庭が、それぞれの飲み屋が、各々の想いを込めて調理していたからだ。そんなサバの塩焼きは何よりも美しく、愛を感じる。今日、僕の前に出されたサバの塩焼きにもまた、魂が宿っている。それが、美しさを求めるということ。愛を込めるということだ。

世界に一つだけのサバ。一生懸命に焼けばいい。


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20130421(日) 友人海外赴任壮行会。いつもの「鍛冶屋文蔵」で、真心と愛情を込めたボールペンを

130421(日)-01【0950頃】菓子パン、アイスコーヒー《家-嫁》_02 130421(日)-02【1025~1030】PC作業《家-嫁》_02 130421(日)-03【1800~2020】居酒屋「鍛冶屋文蔵」(海外赴任友人送別会)《東京・御徒町-友人10名》_01 130421(日)-03【1800~2020】居酒屋「鍛冶屋文蔵」(海外赴任友人送別会)《東京・御徒町-友人10名》_03 130421(日)-03【1800~2020】居酒屋「鍛冶屋文蔵」(海外赴任友人送別会)《東京・御徒町-友人10名》_04 130421(日)-04【2040~2140】アイリッシュパブ「HUB北千住」《東京・北千住-友人1名》_01 130421(日)-05【2215頃】プチシュー《家-嫁》_01 130421(日)-06【0025頃】納豆《家-嫁》_01

 【朝メシ】(家-嫁)
無し

【昼メシ】(家-嫁)
竹の子ご飯

【夜メシ】(東京・御徒町-友人9名)
居酒屋「鍛冶屋文蔵」

【夜メシ二次会】(東京・北千住-友人1名)
アイリッシュパブ「HUB」

【イベント】
海外赴任友人壮行会
 
 
【所感】
今日は、久々に友人等との飲み。その前にカラオケの予定も入っている。場所は御徒町。昼から「パセラ」でカラオケし、夕方から「鍛冶屋文蔵」で打ち上げる。過去十数回は繰り返してきた定番ルートだ。無論、カラオケ好きな僕は、いつだって0次会のカラオケから参加していた。今日も最初はそのつもりだった。しかし、身体がだるい。何か知らないけど動けないでござる。

昨日のマラソンは雨の中で走った。もしかしてそれが祟ったのか。それとも考えすぎて知恵熱が出たのか。何とも言えない。だけど現実として、カラオケに参加するのは不可能だと判断した。こんなことは今まで一度も無かったのに。ある意味、動揺を隠せない。

しかも動揺の半分は、体調とは全く別の部分。つまり、別に歌えなくてもいいか、と内心で達観していることである。カラオケに対しての執着が無い、無くなっていると自覚出来てしまう。昨年までは、風邪を引こうが怪我をしようが、それこそ仕事の外回りの合間だろうが、カラオケ屋を見つけては1時間だろうと30分だろうとヒトカラしていた。最低でも週2回、多い時には5日連続なんてこともあった。ランキングバトルで90点台を常時出せるようになって、ますますのテンション高くのめり込んでいった。自分の生活の一部であり、もはや特技にまで昇華したと豪語するほどカラオケが好きだったじゃないか。それなのに・・・。

この豹変ぶりは何だ。何があったのだ。自分でも分からない。分からないけど、何となく虚しくなったというのはある。ヒトカラが楽しかったのは、歌う度に高音が出せるようになり歌唱力がUPしていく自分を実感出来るという高揚感もあったけど、それ以上にカラオケ以外の生活部分が充実していたからではないか。仕事は別にしても、他の部分が十分すぎるほど楽しく幸せだったから、それに引っ張られる形でカラオケ熱も最高潮に達していたと分析出来るかもしれない。結局、全ては抱き合わせなのだ。少し前まで、仕事以外の時間はかなり充実していた。その代償として、自分にとって核となるはずの最も大切なものを置き去りにしている自覚もあったけど。それでも楽しかったと言える。

それがどこからか一転し、突然灰色になる。ゲームもしなくなった、漫画の量も激減した。筋トレも疎かになり始め、酒への興味も薄れ、色んな街を徘徊して見聞を広めようという気も削がれていく。旅行や水族館巡りですら億劫になってくる。その他、色んな情報を自分の糧にしようとする情報収集欲も減退し、飲み会への参加意欲も薄れていき、終いには構築してきた多くの交友関係を保とうという積極性も薄弱化してきている。競馬もしない。20年間続けていたパチすらやめた。それらに比べれば、カラオケなどは数年前から急浮上してきた新興勢力だ。手放すのにそう時間は掛からない。気付けば、今までの自分を構成してきた殆どの要素がこぼれ落ちていた。

代わりにマラソンを始め、英語学習に色気を見せ、あとは小説を読んだり何かを書き綴る日々。それだけが僕の中に辛うじて残っている。ただ、この姿こそが本来の僕に近いという自覚も一方ではある。置き去りにしていた、自分にとって核となるはずの最も大切なもの、それに対する意欲。それが顔を出してきたという感触も抱いてはいる。だけど、ここまで他の殆どのものを無くしてしまうと、さすがに唖然とせざるを得ない。幾らなんでも釣り合わないんじゃないのかと。バランスが悪すぎるんじゃないのかと。

だけど、事実はそうなっている。多分、自分はどこかで壊れた。そして滅多なことでは戻らないだろう。そのポイントは、ある程度の予想は出来なくはないけれど、分析したところで意味はない。だから、残されたものにせめて注力するのである。つくづく、色んなものが離れて行ってしまった。大事なものが剥がれ落ちてしまった。この喪失感が果たしていつか埋まるのだろうか。上手いこと補完されればいいな。

その補完計画の一端として、友人からメールが来ていた。会合しないかと。受信したのは午後3時頃。だけど友人がメールを出してきた時間は昼前だ。メールを見落としていた。というか、バイブが鳴ったのだけど、どうせスパムだろうと思って取らなかったのだ。それが重要なメールだったと気付いた時にはもう遅い。結局、会合はお流れになった。僕は何をやっているのか。

次に、髪が大分長くなっていたので、行きつけの美容院に予約の電話を入れる。電話口で、いつものN君を僕は指名した。だけどN君はインフルエンザで1週間ほど休暇を取っているためしばらく予約出来ないと突っ返された。何てことだ。このまま放っておいたら落武者のような髪型になってしまう。カラオケの棄権と、重要メールのシカトと、掛かりつけのスタイリストの長期休暇の三連コンボ。悪い時には悪いことが重なるものである。

ただ、いくら悪いことが続くとは言え、カラオケには不参加表明したとは言え、飲み会には参加せねばならない。今日は、静岡在住の友人が来ている。随分年下だが、もう10年間以上も付き合っている大切な友人だ。その彼が、仕事で5月から台湾に赴任する。仲間内から初の海外組が出るわけである。ただ、赴任期間が長い。最低でも5年とか。悪くすれば、もう会えないかもしれないのだ。参加以外の選択肢は無い。

しかもその友人は、海外赴任前に滑り込みで結婚を決めた。旅立ちという悲しさ以上に、喜ばしい出来事もひっさげてくるのだ。そういう意味でも、この飲み会はスルー出来ない。いくら最近付き合いの悪い僕でも、このメモリアルイベントにも参加しないのは鬼畜生の部類。なんと友達甲斐の無いヤツかと皆から総スカンを食らうレベルだ。二度と彼等に顔向けできない。だから、せめて晩節は汚さぬよう、這ってでも参加する必要性があった。

大切な友人を見送るため、着替えて外に出る。その前に僕は、ふと思い立ち、北千住のマルイに寄った。彼にプレゼントを贈るために。

ネクタイや小物など、色々物色してみたが、やはりボールペンが一番良い。別に頻繁に使うアイテムじゃないかもしれない。だけどボールペンならば大人っぽいし、贈り物としては定番だ。嫌がられることはない。まず外さない。困った時にはとりあえずボールペン、これ鉄板。

ただ、それとは別に、ボールペンというものに対しては自分なりの意味合いを見出している。それは敬意と愛情だ。親愛の情と言い換えてもいい。ボールペンが放つ光沢は知性の輝き。滲み出るインクはそのまま滲み出る愛情の証。だからこそボールペン。尊敬しているからこそ、親愛の情があるからこそ、ボールペンを贈る。僕自身がそう決めた。だから選択に間違いはない。ボールペンに決定。

ただ、安物でいいわけでもない。彼はいい大人だし、これから赴任する台湾では人の上に立つ職制に駆け上る。つまり栄転だ。彼のステータスに見合ったものを、いや、彼の足を引っ張らないレベルのものを。高級である必要はない。それよりも知性滲み出るボールペンがいい。僕はボールペンのことはランスロットくらいしか分からないので、店の姉ちゃんに色々話を聞いた。だけど姉ちゃんは大した知識も無いようで、僕としては頼りなかった。だから僕は、自身の感性に任せた。人に選ばせるのではなく、自分自身の直観で選ぶ。大切な贈り物をしてきた時、いつも僕はそうしていたじゃないか、と。

そう、僕自身が選んでこそ価値がある。閃きに従った結果、CROSSというブランドの青のボールペンを買った。一本5000円だ、これなら彼のステータスを汚さない。ついでに替え芯も買っておこう。台湾には替え芯が売っていないかもしれないから。彼の赴任期間は5年らしいから、1年に1本使うとして、5本買っておこう。1本600円、5本で3000円。本体と合わせれば8000円だ。高いとか安いとかいう問題よりも、僕自身の感性が納得してゴーサインを出したことが何よりも素晴らしいと思えた。彼にはこのCROSSのボールペンがきっとよく似合う。これ以外に有り得ない。

僕は基本、プレゼントとかが苦手だ。タイミングを掴めないし、なに気張っちゃってんのと陰口叩かれるのが怖いし、勘違いされたりするのも嫌だし。嫁などは真逆だ。物怖じせずガンガン贈る。そのアグレッシブさは尊敬に値する。まあ俺の場合、それ以前に恥ずかしい。そんな柄じゃない。よって、これまで誰かのために贈り物をしたことも数えるほどしかなく、人生における区切りや節目の際に自分から進んで贈ろうと思ったこともごく稀だ。だけど僕は今回、贈ろうと思った。今まで仲間達を束ねてきたWebサイトの管理人として、年上かつ人生の先輩として、そして友人として出来ること。いや、むしろやらなければならないこと。それは僕の務めであるように感じた。会計8000円。自分のために買ったとすれば、それは高い買い物だ。しかし贈り物の場合は不思議と勿体ないと感じない。結局は、贈る相手が誰であるか。それが全てである。

彼とは10年以上付き合ってきた。その思い出の多くを今は忘れてしまっていると思うけど、楽しかったはずの思い出の中に彼は何度も登場していたのは間違いない。仲間内で一番年下だったから、いつも周囲に気を遣い、だけどご機嫌取りや下手に出るという厭らしさは全くない、好ましい男だった。

いつだったか、何度目かの旅行でのこと。旅館で煙草が切れてしまった時、彼に「タバコ、一本もらってもいいすかね?」と彼に申し訳なさそうに言ったことがあった。その時、彼は「当たり前じゃないですか! もう~佐波さん、そんなに気を遣わないで下さいよ、僕ら長い付き合いじゃないですか!」と満面の笑顔で僕に煙草を箱ごと差し出していたっけ。あの時、僕は彼の優しさの深さを知った。ことさらにオーバーにリアクションすることによって、僕が心理的に受け取り易い状況を作ったのだ。あの時から、彼が一気に好きになった。僕はその時のことを今でも鮮明に覚えている。感激や感動を伴った記憶だけは、実のところどれだけ時が経っても忘れないものだから。

その他でも、旅行で、飲み会で、彼は何度も登場し、行動を共にしてきた。僕は、過去の楽しい思い出の中の何十分の一かを彼から頂いた。その恩返しであり、感謝の気持であり、そして敬意と親愛を込めた贈り物だ。偽らざる真心。定番やパターンだから贈るのでなく、ただ贈りたいという衝動を抑えきれずに贈る。金を払ってでも受け取って欲しいと思える相手。その情動の理由。もう愛以外にない。それに僕は今、自分のために金を使いたいとあまり思わないし、欲しいものも殆ど無い。ならば自分に使うよりも、喜んでもらえる人に使った方が有意義だし、金にとっても本望だろう。

最近、考える。人は究極的に自分が一番可愛い生き物だと言われる。それは多分、正しい。だけど切り口を変えて見れば、自分のことは案外どうでもいいと感じる側面も持っているかもしれない。突き詰めれば、結局のところ人は誰かのために生きているし、誰かのために生きたいと願う生き物かもしれない。ある段階を突き抜けると、他の誰かの価値を自分の価値よりも上に置くようになる。たとえば、子供のことを「何があっても絶対守るよ」と強く言う母親とか、「アナタは私の人生の全てよ」とホストに貢ぐマダムとか、いかにも相手を上に置いている。自分を捨てている。それが実は潜在的な自己満足の現れだったり、何かの代償行為と見える場合もあるかも知れないが、自分自身がそう信じているのならば口を挟む必要はない。確固たる信念があればそれでいい。

そういうわけで、人は本心では誰かのために生きることを願っており、それによって幸せを感じる生き物なのではないか、ということ。誰かのために金を使いたい。誰かのために時間を割きたい。誰かのために労力を惜しまない。誰かのために命を投げ出したい。誰かのために死にたい。人は結局、死に場所をいつも探しており、その場所が理想により近付くことを願う。理想を見つければ、そこに全力で殉じる事が出来る。その理想郷を構成するための対象を、無意識に相手を探しているのだ。だけど実際は、なかなか見つからないだろう。だから胸を張って「生きててよかった」と言えない。殆どの人が理想郷を無意識に求めている。見つからないままに。ただ、今回に限っては、友人のために買ったCROSSのボールペンは、瞬間では有るが僕にとっての理想だった。僕は、彼のために贈ろうと心から思った。久々に良い買い物をした。

プレゼントを抱え、御徒町の飲み屋「鍛冶屋文蔵」に赴き、皆と合流。部屋には10名からの仲間が居る。見知った顔。もう何十回、いや何百回と顔を合わせた面子かもしれない。だから会話もワンパターンになりがちだけど、毎回アレンジを加えているので飽きは来ない。僕は今自分が出来ること、すなわち聞き役に徹して相槌を打っていた。

ほどなくして僕は、台湾赴任する彼の元に歩み寄り、「どうぞ、海外赴任祝いです」と、まるで中学生のようなぶっきらぼうさで、グリーンのリボンが付いたマルイの袋を差し出した。何というシャイ。僕はこういうのに慣れてないので、何となく気恥ずかしい。でも渡せたことで100%満足出来た。しかも彼は、「マジですか!? うおおぉ~、信じられない、マジで嬉しいッス、泣きそうッス!」と、文字通り瞳を潤ませながらはしゃぎまくっている。何という謝意。ここまで喜ばれるとは、嬉しいけどリアクションに困るぜ。

だけど本当は分かってる。この光景を、僕は実のところ望んでいたと。敬意と親愛を込めて贈ったプレゼントが、真心が相手に届いた。それを自分で確認出来る、真心が届いたと確信できる。この満足感が欲しかったのだ、僕は。心の中が、えもいわれぬ感情でジワリと満たされる。今日のハイボールは、いつもよりも甘い気がした。

飲み会も終わり、最後、鍛冶屋文蔵の入口前。「せっかくだから記念写真撮りましょう」と友人の一人が提案する。5年後、台湾から日本に戻ってくる彼のために、その時再会するはずの仲間達のために、今現在の姿を形として残しておくために。僕等は最初の頃、写真をあまり撮ってこなかった。だけど時間が経つに連れて、その重要性に気付いた。肉体は過去には戻れない。だけど記憶は過去に遡れる。その触媒として、確固とした姿形が映っているものを。すなわち写真である。重要である。楽しい思い出だろうが、仮に辛い思い出だろうが、在りし日を振り返れる道具は映像しかない。

僕自身も、肝心な時に写真を撮ってこなかったことが多かった。後に激しく後悔した。写真がなければ、誰だって記憶があやふやになってしまうというのに。その内、輪郭まで思い出せなくなってしまいかねない。自分の頭の中だけで当時を再現するのは不可能なのだ。助けが要る。その助けがあれば、何十年経とうと、当時あったイベントが、思い出が、会話の内容さえも、その時抱いた気持ちを伴って蘇る。だから写真を撮るんじゃないか。もっと早く気付けば良かったな。まあいい。

店員の兄ちゃんにお願いしつつ、飲み屋の入口で僕等10人は兄弟のように寄り添う。はい、チーズ・・・! この一枚の写真は、僕等にとって確かにあった過去であり、未来を生きるための力の一つ。思い出だけはタダだから。忘れようと自分で思わない限り、いつまでも取っておけるから。今は彼にエールを送る。海外で彼が栄達・飛躍せんことを。

皆と別れ、電車が僕と同じ方面の二人の友人と話しながら帰る。最近、アクティブじゃないねと言われ、申し訳ない気持ちになったり。だけどそれ以上にやることがあるのでと彼に言うと、しかしそれは結局、誰かの目に触れて誰かの耳に留まる、つまり誰かに分かってもらわないことには魂が浄化されないんじゃいの?という鋭いツッコミを受けたり。そうなんだよな。自分の頭の中だけで妄想している限り、迷宮を抜けられないだろう。結局、自分の思想なり行動なり結果なりというものは、誰かの理解を得ないと昇華されないし納得しない。つまり想いが成仏出来ない。難しいものである。

友人の一人と別れる。まだ時間は早めだったので、もう一人の友人と「どこかで飲みますか?」と北千住の街中に繰り出した。とりあえず北千住レベル1の彼が、「どっかいいとこ教えてくださいよ」と僕にせがむので、レベル1に相応しいアイリッシュパブ「HUB」を選択することにした。飲み屋にもレベルがある。素人がレベルの高い店にいきなり行くと、魂を抜き取られる。そんな悪鬼めいた店も北千住には跋扈する。修羅の店に足を踏み入れるには、それなりの経験と度胸が必要なのだ。今の彼では、異次元会話をするマスターと75歳のチーママ・キミちゃんを擁する昭和サロン「小柳」に入った瞬間、掴まって二度と店から出られなくなるだろう。「小柳」に行ける強者は僕とつくばの友人くらいなものだ。

そのHUBで、彼は今の職場についていつものように苦言を呈していた。

「結局のところ、みんなやってないんですよね」
「普通に仕事をやっていればいいと言うけど、実はそれは普通じゃないんですよ」
「その普通ですら出来ていないのが現実なんですよ」
「よくそれで経済大国になったもんだとむしろ感心しますよ」

手厳しいが、頷ける部分はある。普通という言葉の定義は曖昧だ。自分が普通と思っていることでも、人によっては相当ハードだったり、逆にぬるすぎると感じる人も居る。彼にとっての普通と、彼がよく口にする「怠け癖のついたおっさん」や「老害」の普通とは、大きな隔たりがあるに違いない。だからやるせないと彼は言うわけだ。最初から設定しているハードルが違う。分かる気がする。

彼はこうも言った。

「というわけで、やってない人間の方が多いの現実の世の中です」
「みんなやってないんだから、その中でやる人間が成功するのは当たり前なんですよ」
「ミラクルでもなんでもない。成功するべくして成功してるんですよ」
「だって他のヤツがやってないんだから」

「抜きん出る」とか「杭が出る」というよりも、周りの杭が出ていないから、自分の杭が出ているように見えるということか。これも分かる気がする。

最後に彼は、こう言った。

「中ニ病とは、何も現実離れしたニートだけに使われる言葉じゃなく、現実に戻ってきた人間にも適用されます」
「ニートが中ニ病を脱却して現実に戻るわけですが、その現実の方が実は全然ぬるかった場合どうするか」
「悩みます。せっかくレベルが高いと思っていた現実に戻ってきたのに、実はレベルが低かった現実に今度は悩まされるんです。理想と志はニート時代の方が高かった。実際の現実レベルの方が低かったと」
「そこでまた中ニ病が発動するんです。今後は現実の中で。こんなぬるい世界なら、自分が変えてやるよという」
「つまり革命志向を持ってしまう。そして今度は現実での中ニ病になる。それが中ニ病の意味です」

なるほどねぇ。確かに、一理ある気がする。内に篭っている時よりも、現実世界の方が容易かったとか、無いとは言えない。まあ元々相当のポテンシャルと能力と、志の高さを秘めた人間だから言えることだろうが。なかなか興味深い話を聞きながら、僕と友人はハイボールを2杯ほど平らげた。

海外赴任する友人に贈った一本のボールペン。鍛冶屋文蔵で撮った一枚の写真。その時の僕等言葉、僕の言葉、僕の気持ち・・・。今日という日のことは、たとえ写真が無かったとしても、後々も記憶に残るだろう。本当に残る記憶というものには、大きな感動や感激が伴う。あるいは激しいショックや傷跡とセットになる。本当に残る記憶というものの中には、例外なく愛があった。5年後、海外から帰ってきた友人が、今よりもより愛深き男となっていますように・・・。


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