【朝メシ】(家-嫁)
野菜ジュース、マックコーヒー(梅島マック)
【昼メシ】(職場付近-一人)
コンビニカレーパン
【夜メシ】(家-嫁)
ペンネ・アラビアータ、エビと豆腐のグリーンピースのあん煮
【イベント】
朝マック、GW中日
【所感】
三日間の新潟帰省も無事終わり、GW前半は恙無く消化された。持ち帰ったのは、実家からお土産にもらった餅と秘蔵のウイスキー。得たものは、盛大な宴会を軸にした三日間の楽しい思い出。心に仕舞ったのは、自分の余計な物思い。蓄えてきたのものは、鋭気と、溢れんばかりの贅肉だった。僕の会社はカレンダー通り。GWの前後に挟まれた中途半端な中日がそこにある。後半開始までの二日間、気だるい平日が始まる。
出社した人間達の締まりのない顔を見るだけで、社内にGWボケが発動していると分かる。僕も同じく。正直、飛び石長期休暇の中日にやる仕事など殆ど存在しない。あったとしても重要性は低い。取引先の殆どが、中日もGW期間の一つと捉えているからだ。なので当然、お客からは電話も来ないし、メールも来ない。基本的な考えとして、相手が居るかどうかも不確かなGWの中日に重要な仕事を充てること自体が間違っているということだ。重要な案件は、GW開始前に全て終わらせておくか、あるいはGW明けまで放置するのが常識的なスタンスである。
というわけで、今日は僕も大した仕事が無い。適当に実績や数字を集計した表などを作成しつつ過ごす。統計や数字の集計などは、どれだけ複雑なものを作ろうと頭をあまり使わないから楽だ。数字に間違いが無いかとか、計算式の参照元に誤りは無いかとか、罫線や体裁の部分とか、せいぜいその辺りを気を付ておけばいい。細心の注意を払うというレベルではない。既に出来上がっている既存の事実や数字を拾い出し、それをまとめるだけでいいのだから。いわば受動態、受身の仕事。客体であり、依存の領域である。ゆえに頭を使わない。極端な話、時間さえ掛ければ誰でも出来る。
本当に辛いのは、そこから先。集計の後。存在する事実を元に、どう改善し、先方に提案し、コンセンサスをとるか。そのための道標やプランを作成するのが最も気を揉むのだ。これは能動態、攻めの仕事。主体的であり自主性の領域に属するだろう。シミュレーションするのも頭を使うし、筋道を立てるのにも気を揉むし、社内外で調整する作業が発生するのでストレスも溜まる。これは、いくら時間を掛けようと誰にでも出来る類のものじゃない。考える人間でなければ、いや考えようとする人間でなければ先には進めない。つまり、やる気の問題である。
やる気さえあれば本当は誰にでも出来る。だけどそこまでやるのが面倒臭いから、ストレス溜まるのは嫌だからと、そこに手を付けない。能動仕事の手前で、受動態の状態で立ち止まってしまう。思考放棄や丸投げや押し付けが癖になっている人間は、能動的な仕事が段々出来なくなる。それは自分の次元を下げることに繋がる。だから、仕事に慣れすぎた人間は、堕落するのだ。かつての緊張感やストレスを避けようとして、安易な集計・分析作業以上のことをしなくなるから。集計して何になる。そこから考えなければ話にならない。さらに、その考えに基いて動ける人間だけが、違うものを手に入れることが出来るのではないか?
とは言え今日の僕は、黙々と数字を拾い、集計し、出来上がったデータを分析するのみ。そこから先は特に考えない。出来上がった資料を視ているが、見てはいない。視線を対象物付近に置いているだけで、注視していない。意識は蚊帳の外。無意識に瞳を落とすのみ。Watchはしていない、seeしているだけ。四次元から三次元を俯瞰するブリックヴィンケルのように、ボクはその数字の羅列をただ眺めていた。
数字をただ見ているだけの僕。周囲はネット検索に耽る人間が、あるいは雑談の坩堝が。「コイツ等、やるんならせめて慎ましやかにやれよ」と怒りが湧いてくるが、別に僕も真剣にそう思ってない。僕も真剣じゃないから。どちらも真剣じゃない。どちらかが少しだけマシ、という次元だ。中日なんてこんなものだよな。こうなることは分かってるんだから、中日も休みにしてくっつけちゃえばいいのに。10連休なんて胸熱すぎる。
そんな弛緩した仕事を切り上げ、早々に帰宅する。今日の夜メシは「ペンネ・アラビアータ」だった。ペンネとは、パスタの種類の一つ。通常の長く細いパスタと違い、短い筒状となっている。端っこがペン先のように尖っているからその名が付いたとも言われているらしい。
日本人が馴染み易い例で分かり易く言えば、マカロニだ。無論、ペンネはマカロニと比べれば、歯応えがしっかりしているし、ソースも絡み易い。まさにパスタの名に恥じない存在感を有している。主食としての主役を充分に張れる。そこがマカロニとの根本的な違いと言えよう。
ひ弱なマカロニは、せいぜいサラダの添え物、あるいはグラタンの中の一食材でしかない。周りに支えられてこそ生きるタイプ。自分一人では存在感を主張できない。よって、それ以上の高みは目指せない。しかも、柔らすぎるので形がすぐ崩れる。確固とした芯が無いということだ。芯が無いので自立性にも欠ける。つまり流され易い、染まり易いということだ。マカロニは、他の物が一緒になった途端、存在感がなくなる。マヨネーズを掛けただけで思いっきりマヨネーズ味になり、イタリアンドレッシングで混ぜ合わせただけでイタリアンドレッシングそのものに同化してしまう。「アナタ色に染まりたいの」と自分の主体性の無さを棚に上げて、自ら男の言いなりになろうとする女と同じだ。自分色に染めたいのが男の願望だとしても、あまりにマカロニすぎる女は避けた方がいいだろう。多少歯応えのあるペンネ女の方が可愛げがある。その頑なさをほぐす楽しみもあるしな、ククク。いずれにしても、マカロニ女はやめた方がいい。
結論としては、ペンネとマカロニは全くの別物だ。しかし形状だけを見ればほぼマカロニ。両者を区分けするためには、「主役のペンネと脇役のマカロニ」という位置付けで覚えればいいだろう。あるいは「頑固なペンネとマヨネーズ負けするマカロニ」という覚え方。ペン先っぽい形状から「ペンネのペンネームはペンネ」という覚え方もある。かなりどうでもいい。何より、余計にこんがらがってきたので、その覚え方は辞めた方が無難かもしれない。
まあ、「マカロニっぽい形をしたパスタがペンネ」と思っておけばほぼ間違いない。幼稚な覚え方だが、僕だって昔はペンネの存在を知らなかったのだし、最初は誰だって知らなかったはずだ。自分が知ったからと言って、まだ知らない人間を笑っていいはずはない。それは浅はかな人間がすることだ。そうではなく、大きなたなごころをもって、優しく、だけど時に厳しく教えを施してあげるのが大人としての在り方だろう。
自分が経験した瞬間、気が大きくなるという豹変。オレは世界を知ったと錯覚し、実は足下しか水に浸かってないという井の中の蛙。経験者になった途端、未経験者を攻撃する側に廻るのは、ハッキリ言って幼稚だ。
自分が未経験者であった時、経験者に笑われた惨めな記憶を、他の誰かに転嫁することで気を晴らすのか? 経験者となった途端、手の平を返したように自分以外の未経験者を蔑むのか? 攻撃される側から解放されからと言って、今度は自分が攻撃する側に回るのか? それはただ心が狭い。余裕がない。そうではなく、かつて笑われた屈辱を知る人間だからこそ優しくなれるのではないのか? かつて笑われていたからこそ、今笑われている人間に優しく手を差し伸べられるはずじゃないのか?
悲しみを知る人間は人に優しくなれる。修羅を経験したからこそ、余裕が無いように見えて実は大きな余裕がある。だから優しくなる。包容力が自然に身に付く。それが人の成長じゃないのか? 自分がやられたからと言って、他の誰かにぶつけるのはただ狭量なだけで、心に余裕がない小物でしかない。大物は、悲しみを全て受け止め、それを周囲に波及させないものだ。小物は、受け取った悪意を別の形の悪意として周囲に放つから、小物が小物を呼び、いつまで経っても健全な方向に向かわないのだ。そんな悪意の連鎖はどこかで断ち切らねばならない。悲しみの螺旋は誰かが断ち切らねばならない。それが出来る人間こそが大物。それはつまり、勇者だ。誰か勇者はおらんかね?
勇者不在の世の中。あまりに小物揃いで怒りが湧いてくる。そういえば「ペンネ・アラビアータ」の『アラビアータ』とは、イタリア語で『怒り(いかり)』という意味らしい。この名前が付いたいきさつは僕でもよく理解出来る。なぜなら、元々「アラビアータ」という料理はパスタの味付け方法の一つ。トマトソースベースなのだが、唐辛子の量を通常の料理に比べてかなり多くしたり、とにかく『辛い』ことを念頭に作られるパスタ料理だからだ。
そんな辛い「アラビアータ」を食ったらどうなるか。その辛さに顔は赤くなり、ブルブルと震えながら苦虫を潰したように歯を食いしばるという表情になるのは明白。つまり、「怒っているような顔」になるわけだ。ウィキペディアも言っている。「あまりに辛いので、食べるとまるでカッカと怒っているように見える」と。その原因となった「アラビアータ」が、『怒り』というイタリア語から来ているのも充分に納得出来た。
その「アラビアータ」のことは、エヴァンゲリオンに関連付ければなおのこと覚え易いと思う。つまり、碇シンジ、碇ゲンドウ、碇ユイ、そして「碇アラビアータ」だ。「碇」はすなわち「怒り」。であるから、その連想先は自ずと「怒り・アラビアータ」となり、そこから「怒り」=「辛い」となり、一連の連想は終着を見せる。
先述したペンネも一緒にセットで覚えれば、なお良い。つまり「ペンネは頑固、マカロニは軟弱」というくだり。「ペンネは頑固」である。そして「『碇アラビアータ』は『怒りアラビアータ』」である。怒る理由は、『辛い』から。だから、「碇アラビアータ」は「ペンネアラビアータ」。それはとても辛いパスタ。
そういえば、碇シンジも結構頑固だ。よく拗ねるし、よくキレるし。碇ゲンドウは自分の目的のためには他の犠牲を一切気にしない超頑固オヤジ。碇ユイは、ゲンドウ以上に我が侭で自分勝手の頑固ママ。以上のことから、どの角度からどう見ても、「ペンネ・アラビアータ」とは、「歯応えのあるペンネを超辛いソースで絡めたパスタ」であるという結論に至る。「ペンネ・アラビアータ」の謎はこれで全て修了だ。全てのペンネ・アラビアータ卒業者に、おめでとう、おめでとう・・・。
そこで思ったんだが、先ほどの「悲しみを知る人間だからこそ優しくなれる」というくだりについて。そういえば、碇シンジもそんなタイプだな。虐められるし、皆に怒られるし、悲しみを知っている人間だ。シンジも辛かったろう。辛いのは嫌いか? 好きじゃないです。楽しいこと、見つけたかい? ・・・。 それもいいさ。けど辛いことを知っている人間の方がそれだけ人に優しく出来る。それは弱さとは違うからな。悲しみを知るからこそ、シンジは時に優しかったのだろうか。悲しみの連鎖を終わらせる才能を持ったシンジは勇者だな。でも一方では頑固でもあるから、たまにキレるのが玉に瑕。
碇ゲンドウも、ユイを失った悲しみを知っている。だけどその悲しみを、別の誰かを犠牲にすることで解消しようとしたところが頂けない。それが彼の限界。ただただ頑固で自分勝手なオッサンだ。ゲンドウは勇者ではない。碇ユイは、ゲンドウとシンジが悲しみに陥るきっかけを自分から意図的に作り出した女だから、到底勇者とは言えない。むしろ悪魔だ。自分の目的が第一優先で、他者は気にしない性格だから。ユイは勇者ではない。だけど小物ではない。そんな、自分勝手に動いて周りを引っ掻き回す超頑固な女。一番厄介なタイプだ。これで美人じゃなかったら、とっくに男達から総スカンを喰らっている。
こうして碇家の人間を分析してみると、ロクなのが居ないな。結局、一番マシで常識人なのはミサトさんに落ち着くのか。時に厳しく、時に優しく、だけどアツい女。シンジにとって母親であり、妹であり、恋人であり、娼婦であり・・・。ミサトさんこそがイイ女の代名詞だ。レイやアスカとは格が違う。なぜ一番人気がレイまたはアスカなのか。ミサトさんがなぜ一番じゃないのか。その不遇さには納得できない。ただ三十路というだけで人気が落ちるなんて到底納得できない。ミサトさんこそが主役だ。無感情人形なレイでもなく、癇癪持ちのアスカでもなく、まして狂ったメガネでしかないマリなどでは断じてない。ミサトさんが一番。間違いない。そんなミサトさんを騙して弄んだ碇一族に対して、まるでアラビアータを食った時のように怒りが込み上げてくる。
思えば、4月は様々なものに対して怒り続けた月だったな。カルシウムが足りないんじゃないか? 「ペンネ・アラビアータ」は炭水化物がメインだ。カルシウムは期待できない。ならばもう一つの料理「エビと豆腐のグリーンピースのあん煮」はどうだ? 入っているのは、エビと、豆腐と、グリーンピースだが。ちょっとカルシウム含有量を調べてみた。
http://www.eiyoukeisan.com/calorie/nut_list/calcium.html
それによると、グリーンピースのカルシウム含有量は26mgとのこと。少ない。戦力にならない。ならば豆腐はどうか。
「豆腐 150mg」
なかなかだと思うが、カルシウムの多い食材は、500mgとか1000mgなどの数値が出ているから、それらに比べたら豆腐はちょっと心許ない。それならエビはどうなんだ? 何かいっぱい種類があるけど・・・。
「干しエビ 7100mg」
すげぇ、ダントツじゃないか。文字通りケタが違う。でも今日出たエビは干しエビじゃないしな。サイトをよく見れば、桜エビとかもある。
「桜エビ 690mg」
干したものはカルシウムが多いらしい。にぼしとか、しいたけとか。つか、肝心の僕のエビはどうなんだよ。干してないエビ。つまり生のエビだ。多分車エビだと思うけど。えーと、どこだ・・・あ、あった・・・。
「車エビ 41mg」
少なっ!? リーサルウェポンがこれかよ。こりゃカルシウム不足になるわけだ。僕が怒ってばっかりなのも頷けた。
無論、僕は勇者じゃないから、全て自分の中で消化することはしない。そこまで聖人ではない。受けた怒りはどこかで、誰かにぶつける所存だ。対象は相当絞り込むけどな。極限まで絞り込む。他の関係ない誰かにではなく、受けた張本人に、受けた痛みをそのままダイレクトに、むしろ100倍返ししたくてたまらない、そんな衝動 of 4月。
周囲の人間にはなるべく影響させない。だけど特定のターゲットだけに対しては、執拗にダークマターを放出したいし、実際にするだろう。これが、僕だ。僕は言われたことは忘れない人間。つまり根に持つタイプ。正しいとか正しくないとかじゃなくて、ただ脳内に根付いたポリシーが、譲れない矜持がそうさせる。正解じゃない。だけど決して間違ってもいない。憎いから、戦えるんだろ? それもまた真理。負のパワーもまた、生きるための糧だということを、ずっと前から知っていた。
それでも今日はただ、怒る局面の多かった4月という月の最後の日を密かに終える。カルシウム不足の「エビと豆腐のグリーンピースのあん煮」と、怒りのアクセラレーター「ペンネ・アラビアータ」を食いながら、フィスカルイヤーの最初の月を締めくくる。