20160219(金) ウイスキー響の品薄状態とサントリーの苦境

160219(金)-00【1520頃】洋酒専門店「リカーズハセガワ」八重洲地下街《八重洲-一人》_01 160219(金)-00【1520頃】洋酒専門店「リカーズハセガワ」八重洲地下街《八重洲-一人》_02 160219(金)-00【1520頃】洋酒専門店「リカーズハセガワ」八重洲地下街《八重洲-一人》_04 160219(金)-01【2315頃】卵焼き(ココスナカムラ)、グリーンカレー鍋《家-嫁》_01 160219(金)-01【2315頃】卵焼き(ココスナカムラ)、グリーンカレー鍋《家-嫁》_06 160219(金)-01【2315頃】卵焼き(ココスナカムラ)、グリーンカレー鍋《家-嫁》_08 160219(金)-01【2315頃】卵焼き(ココスナカムラ)、グリーンカレー鍋《家-嫁》_10 160219(金)-02【2345頃】ギザギザポテト、プッチンプリンハッピーピンク、リッツカスタードサンド《家-嫁》_01

【朝メシ】
無し(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
卵焼き(ココスナカムラ)、グリーンカレー鍋、ギザギザポテト、プッチンプリンハッピーピンク、リッツカスタードサンド(家-嫁)
 
【イベント】
仕事、リカーズハセガワ(ウイスキー探し)
  
  
【所感】
■ウイスキーをプレゼントしたい気持ち
二十歳になる青年との土曜日の会合に向けて、プレゼントに渡すウイスキーを調達するため、北千住のリカーショップを探して回ったのが昨日の夜のこと。何を渡せば一番良いか。自分自身、学生時代に飲んだ酒の中で問答無用に美味しいと直感し、この上なく感銘を受けたサントリーの響が真っ先に頭に浮かんだ。プレゼントには響以外有り得ないと。

ただ同時に、響と一言に言っても俺が感動した響は一体どれだったのか、そこが思い出せないでもいた。俺が知る限りでも、響には12年、17年、21年、そして30年がラインナップされていたはず。さらに最近では、熟成年数が記載されていないノンエイジの響も店頭での露出が高い。リカーショップなどしばらく出向いていないため、最近の事情は良く分からないのが正直なところだが。
 
 
■響との出会いと衝撃
俺が初めて響を飲んだのは、当時学生として過ごしていた京都から実家に帰省した際、親父がもらった中元か歳暮の中で見つけた時のことだ。他のドリンクとセットで箱詰めされていたその琥珀色の太瓶は場違いなほどのオーラに満ち溢れていた。力強い剛性と重量感、軽々しく触れてはならない厳粛さとを兼ね揃え、まさしく惚れ惚れするほどの芸術品。そう、見た瞬間芸術だと思った。一瞬で魅せらていた。

俺は居ても立ってもいられなくなり、すぐさま親父に「このウイスキー飲んでいい?」と恐る恐る懇願。親父は「ああ、オレどっちかっていうとブランデー派だし、別に響とか要らないわ、飲みたきゃ勝手に持っていきな」と、只ならぬ気配を漂わす琥珀色の瓶を、コーラのペットボトルを投げるような気軽さで俺にポイッと手渡した。

『ウイスキーとブランデーの何が違うんだよ、どっちも同じようなモンだろ?』と親父の意味不明発言に心の中でツッコミを入れつつも、圧倒的なポテンシャルで魂を惹き付ける響を棚ボタゲットできた幸運に狂喜していた俺は、全くもって酒も世間も知らぬ若造であったな。茶色い蒸留酒は何でもウイスキーと一括りに呼んでいた頃のこと。

その若造だった俺でも、与えられた響を飲んだ時の感動は今でも忘れない。ストレートでクイッと飲んでみたのだが、ウイスキーやバーボン、ブランデー特有の、不意打ちのように喉を焼くような乱暴性や、口腔にネトリと纏わりつくような異物感が全く無かった。スルッと、水のように喉に入り込んできたのだ。粘度が低いと思った。それでいて香りは上品かつクセがなく、しかし味には深みがあり、まさに芳醇という言葉が相応しい。

だけど決して単調でなく、味にかなりの複雑性も見られる。響がブレンデッドウイスキーと呼ばれる所以を、その意味すら知らぬ当時ですら本能で感じ取っていた。そんな複雑だがスッキリとしたエクセレントな液体の滑らかさが口いっぱいに広がり、フワッとした芳しさが鼻腔にまで届き、程なくしてジワッと顔全体に上品な微粒子が行き渡る感じ。もう言葉が無かった。問答無用で美味いと感じだ。思わず「ヤベッ!!」と感動の溜め息を漏らしたはずだ、当時は。

同時に間違いなく高い酒だと思った。これは相当な時間と労力を使って丁寧に魂を込めて作られた酒なのだと。滅多に世に出てこないプレミアムなウイスキーに違いないと。それほど俺は響を飲んだ瞬間、打ち震えた。文字通りゾクリとした。

そんな感じで親父から漁夫の利的に頂戴した響を手にした後、俺は京都に戻って響を探した。街中のリカーショップを回ろうと思ったが、幸いなことに近所のコンビニにそれは普通に置いてあった。今よりもコンビニの酒ラインナップは多種かつ高級酒も揃えていたので。だがそれでも響は別格だったのか、レジの中にうやうやしく飾られていた。価格は…確か2万円だった。「高ぇッ!」、思わず唸る。

当時、ウイスキー(やバーボンやブランデー)というものは欧米が最高峰だと勝手に思い込んでいた俺は、ジムビームやアーリータイムズを有り難がって愛飲し、うめぇうめぇ流石洋モノは一味違うぜなどと知った風な顔をしつつ、オレはお前等とは目の付け処が違うんだと友人等との差別化を図ろうと必死だった。

その合間にトリスやレッドウイスキーなど安酒を近くのコンビニで買い込み、オレはウイスキーが好きだから、ウイスキーならいくらでも量が飲める男だからというレッテルを構築しようと必死で量をこなすことで密かに肝臓を鍛え、TVのCMでVSOPなどを見掛けた時には、これが多分業界最高の酒なんだろうなと思い切りCMに踊らされていたという状況。

その蒸留酒群雄割拠の時代、サントリーが何をやっていたか、どれだけ地道にコツコツとそのブランドを確立していたかなど気にも留めはせず、サントリーがどれほどの実力者だったのか全く知らなかった時代の、まさしく欧米至上主義に毒された青二才の考えと言えよう。

そんな中、出会った響。その味わいは圧倒的かつ衝撃的で、瞬間俺の中でウイスキーの最高峰は響にすり替わっていた。それもそれで随分単純な思考だが、そこから20年経った今現在も、俺にとって響以上の酒は現れていない。
 
 
■蒸留年数とブームの年数
問題は、その当時のセンセーショナルすぎる響が何年物だったかということなのだが、さすがに当時の瓶のラベルまで覚えていない。ただ、当時はウイスキーなどの洋酒は今より遙かに普及率が低かった一部の者の嗜好品で、だから必然的に単価も上がっていたはず。その事実と、当時に比べウイスキーが安く手に入る現在の状況を考慮すれば、俺が飲んだ響は12年くらいだったのではなかろうかと予想する。

俺の時代は、どちらかというとウイスキー暗黒時代だったと思われる。ウイスキーを飲む人間は周りにそれほど居なかった。ウイスキーが流行っていたのはその十数年くらい前、すなわち1970~1980年代の高度成長時代後期だったのではと思われる。スナックやバーやパブなどを中心とした第一次ハイボールブームの時代だ。

俺の時は、そのブームが廃れてウイスキーがそれほど好まれなかった時期。そこからさらに時が経った2010年くらいから、小雪などCMによるハイボールのヒットをバネにウイスキー熱が再び高まって現在に至る。そんな流れだと思われる。

だから現在のハイボールブームも、新たなヒットというよりも、冷静に見ればかつて流行ったハイボールブームの焼き直しという位置付けになるだろう。この潮流をさらに冷静に眺めるならば、ブームやトレンドというものは20~30年サイクルで入れ替わるという法則が見事に具現化されている。さらに加えるなら、20~30年前に廃れたブームがその20~30年後にまた脚光を浴びるというサイクルもまた法則通りだ。

これを過去の使い回しというか、忘れた頃に仕掛ける黄金の戦略と取るか。その忘れた頃という20~30年というサイクルが、ちょうど子供達が大人になるサイクルであり、大人達は社会から引退する時期であり、すなわち世代交代という人間社会のサイクルであることは察しが付くだろう。20~30年前にまだ生まれていない人間にとっては文字通り新鮮なブームだし、20~30年前にそれを楽しんだ人間も「ああ~懐かしいなあ」程度の認識か、昔のことすぎてもう忘れているだろうから使い回しに対する非難や衝突も少ない。その売り手側の仕掛けと受け手側の捉え方をどう評価するか、それこそ本人次第だった。
 
 
■大型店舗と個別店舗のメリットデメリット
とりあえず、響12年に当たりを付けて北千住のリカーショップを回ったものの、姿形も見えない。マルイ1Fの酒店、ルミネの成城石井、あと無駄足だと思いつつイトーヨーカードー系Priceの酒コーナーも確認したが、気配すらなかった。

そういえば、駅西口を出た商店街通り沿いを少し歩いた場所に酒専門の個人商店がかつてはあったはずだが、昨日その近辺を探ったところ、店自体が見つからなかった。確かこの辺りに、と注視したにも関わらず携帯ショップや服飾店しか見つからない。もしかして閉店してしまったのだろうか。大分昔、誰かの祝いに久保田碧寿をここで買って、店主のおっちゃんも嬉しげに語っていたのに。

これも時代の波か。マルイやルミネの大型ショッピングセンターの圧倒的購買力と品揃えで、今や個人商店のアドバンテージは殆ど、いや全く無くなった。しかしブランドや種類に捉われない長年酒を扱ってきた店主の目利きによる独自のラインナップと、一デパートの店員では培えないマニアックな薀蓄とが形成する独自の世界は、まさしく個人専門店の愛すべき特色だったとも思う。その点で存在価値は十分残っているはず。

そんな機微すら求めない客が増えたのだろうか。そうなのだろう。ただ欲しいものが飲めればいいと。有名銘柄が、高級酒が置いてあれば後はそれを淡々と買うだけだと。

酒が一部の嗜好品でなくなり、コモディティ化したがゆえの購買層の増加。それは浅く広くというユーザーのライト化現象と表裏一体だ。業界の売上げ的にはプラスなのだろうが、その裏で大切な何かが失われる。

それならこっちがいいね、スッキリさを求めるならこっちだね、とドヤ顔で話す酒博士の薀蓄を聞きながら、酒を選んでいるというワクワク感、その過程にこそ本来の商売の姿があるはずなのだと。それがいわば男のロマンに、女のロマンに、ひいては買い物の楽しさに繋がるのだと。

時間と無駄を掛けたくない消費者の効率性重視志向が、その消費者をいかにクオリティ高く、かつ大量に捌くかという売り手の合理化思考が、買い物の本来の楽しさを忘れさせていく。その裏に潜む拝金主義という名のリアリズムが、愛すべきロマンチシズムを駆逐する。

大型店の進出により物や人の流れはよりスピーディかつ効率的に変化し、結果人々の生活は向上していく。購入までの流れはスムーズかつシステマチック。品数は豊富で色彩豊かで価格も適正。質の良い教育により接客技術も向上し、スタッフのクオリティの平均値が押し上がる。比例するように顧客満足度も高まっていく。一極集中がもたらす商品群の豊富化と回転率の高さと低価格化。その効能は計り知れない。

だが反面、多数の個別店舗が乱立する分散化型の市場の良さを潰すことにも繋がる。幅広い選択肢が存在し、生じるケースや顧客毎の事情によって様変わりする潜在的な正解を探し当てる楽しさが減っていく。品質や効率の追求という市場経済での至上命題が社会の求めるところだとしても、悲しむべき点だ。

それはシャッター街と化した各所の商店街と、それを駆逐した大型デパートやチェーン店との対比に似てもいる。

欲しいものを、時間を掛けず、やり取りをなるべく簡素に、なるべく安く、業務のようにこなしていく。人と人とのやり取りが少しずつ抜け落ちていく。受け手が喜ぶようなラッピングや配送手段まで、多種多様のバリエーションが用意され消費者に提案される。これはつまり、殆どの過程が代行業によって成り立つということ。多くの分業が一箇所で可能になったことにより、結果的に一箇所で市場を寡占している状態だ。

ある意味、視野が狭くなりかねない体制で、自らの思考能力を低下させる原因の一つ。贈り手は深く考える必要もなく、各行程の専門家に丸投げしていけば良い。前振り、物品の内容や選定、演出、返礼に至るまで、事細かく、かつ隙なく礼に則って専門家達が代行してくれるのだから。自ら考え選んでいるようで、実は最初から用意されたフォーマットから選ばされている。

母の日の花、端午や桃節句の贈り物や写真、クリスマスや誕生日のプレゼント、バレンタインのチョコ等、ありとあらゆるギフトがその流れ作業の上にある。今現在、ギフトは個々のオリジナリティ重視よりも、いかに規格から外れないか、専門家によって練りに練られた成功の法則の下、成功し感謝される確率をいかに高確率に持っていくかが重要。つまり失敗しないために、決まった成功枠の中から抽出するというリスク排除を優先した結果、『考える』ではなく『選ぶ』癖が付いてしまっているのだ。

そこには根本的な意味での温もりが足りない。プレゼントというものは、何よりも心が込もっていることが重要。贈り手が受け手のことを考え、何を送るか悩み、より良いものを贈ろうと労力を割いて自ら調べ、考えに考えた結果、導き出す。その過程が「心がこもっている」ということ。目に見えない想いの波動のようなものだ。

万人に受け入れられる正解例をプロから提示され、その中からピックアップしてベルトコンベアー的に済ませるのとはワケが違う。それは『創り出して』いるのではない、『選んで』いるのでもない、ただ決められた期限内に裁量の結果を出すという業務を『こなして』いるだけだ。

高価だから最良ではない。相手にとってこの上なく有用性がある品だから最高でもない。その辺は実のところ最重要ポイントではないのだ。それがたとえ、相手が一番喜ぶモノであったとしても、相手が最高のプレゼントだと礼を言ってきたとしても、それよりも見逃してはいけない点がある。自分の出来る限りの真心をそこに込めたかどうか、ということ。ただのビー玉でも、真心が込められていれば、自分がありったけの真心を込めたと信じられたなら、贈り手としてそれ以上の満足感はない。そして真心が込められていれば相手には伝わるはずである。

俺は、あまりにシステム化した世の中は逆に殺伐化を招くと考えている者である。
 
 
■響は17年が一番古かった
そんな北千住唯一と言ってよかった個人専門店が、マルイ、ルミネ、ヨーカドーという三大勢力に飲み込まれる形で現在残ったリカーショップと呼べる場所。12年物は一つもなかった。無論、17年や21年などは望むべくもなく。

あるのは熟成年数表記なしのノンエイジのみ。もうそれはいいっちゅーの、と言いたくなるほどノンエイジ響だけが豊富に棚を占拠していた。山崎12年とか白州18年などはラインナップされているのに、なぜ響だけがここまで貧相なのか。今では山崎の方が世間的に圧倒的メジャーだというのは理解しているが、そういうことじゃないんだよ。洋酒ってジャンルはそうじゃないんだよ。

この機転の利かない部分が大手百貨店や小売店の販売力の限界であり、仕入れの限界でもある。本当にコアな客の需要は満たせない。コアな客の嗜好はコアな売り手にしか読み取れない。

だからこそ仕入元も、コアな売り手にしかビンテージ物や本当に価値ある品は大手量販には卸さない。そんな閉鎖的だが一種の玄人協定を結び、断固としてそれを堅守するという一面が流通業界にはまだ残っているのも確か。それはボリュームの最大化と顧客の多層化を至上とする物品販売にて、それでも最後まで守るべきプライド、いや聖域と呼べる感性だった。

つまり、最低限の物は揃えるが、コアな需要は満たせない。いや敢えてコアな需要を排除して全体的かつ平均的なクオリティを最大化させるとした方が適切だろう。響のビンテージ物はここでは手に入らない。どだい無理な話だったのだ。
 
 
■ノンエイジの蔓延
そうは言っても、数年前はこの手の大手販売店でも扱っていた記憶があるのだ。いや、確かに少し前までは響に限らずウイスキーの年数表示物がもっと店に並んでいた。それがここ最近になって急激に姿を消していったように思える。代わりにノンエイジ物が幅を利かせる。響に限らず、山崎や白州も同じだ。2015年半ば頃からサントリーにはこの傾向が見られる。何故か。

その理由は大きく二つある。需要が増大し生産量が追いつかなくなったこと。そして値上げだ。この二つの要因によって、ノンエイジウイスキーが大量生産されることになった。いや、足りない分を埋め合わせるためノンエイジを出さざるを得なかったという順番の方が正しい。調べれば調べるほど、その一連の流れは十二分に納得できるものだというのが個人的な感想だ。
 
 
■値上げの背景
まず、2015年4月からサントリーはウイスキーを軒並み2割値上げした。響、山崎、白州など同社を代表する国産ウイスキーと、同社が輸入している外来洋酒ボウモアやマッカラン等のスコッチウイスキーも値上げの対象だとされる。

俺的にはこの記事がなかなか分かり易い。
http://economic.jp/?p=44421

この値上げの第一の根拠としては円安がある。2013年4月の日銀・黒田総裁が放った異次元緩和バズーカを始めとするアベノミクス政策によって、当時円高株安基調だったトレンドは一気に円安株高へと反転。当時1ドル=100円にも見たなかったドル円相場は最高125円付近まで推移し、2015年末までそのトレンドは続いていた。

円安なので輸入価格は当然上がる。ウイスキー業界であれば、熟成に使うオーク樽、原材料である麦芽やトウモロコシなどの輸入価格が高騰するというのは市場原理としていたって自明の理だ。その高騰分を製品販売価格に転嫁するという理論は企業の論理からすれば十分成り立つだろう。

また、国産でないマッカランなどは紛れもなく直接輸入コストが上がるわけだから、マッカランを上げて響や山崎を上げないとなると、ブランドごとの価格バランスが崩れてしまう。だからマッカランを上げるなら響や山崎も同じくらい値上げして銘柄同士の全体的なバランスを取る必要があった。そんな考えも多少は便乗値上げのきらいはあるが、ブランドを重要視する業界であれば決して非難できない戦略だろう。

だったらマッカランを据え置きにすればいいじゃん、という理屈はあまり賢くない。それではマッカランの輸入増加分だけ、そして響や山崎の価格を据え置きした分だけ利益を圧迫するという損失の連鎖。全部据え置きよりは全部上げた方がいいに決まってる。

それでも、コスト高だけを理由にするのはあまりに苦しい。2015年4月の値上げ対象になったのは、先述した通り輸入酒と、国産では響、山崎、白州というプレミアムなランクのウイスキーのみ。大衆向けエントリーモデルの角瓶などは値上げせず据え置きしたのだ。

値上げするなら、むしろこういった低価格ウイスキーが先じゃないのか。数が売れて、かつ元々の単価が低い製品の価格を顧客が不満に思わない程度に微増させた方が、トータルとしての利益額を稼ぐのが一番収益を確保する方法。かつ消費者との間に軋轢を生まない方法だと思われる。

角瓶であれば700mlの売価が税別1414円だそうだから、2割UPだとしても1696円。200円程度の値上げならそこまで変わらないだろう。200円はやりすぎだと思うなら100円でもいい。むしろ売価をキリよく1500円としておけば十分に誤魔化しうる。全体的に何の支障もない。その分、数が圧倒的に売れるのだから、サントリーが管轄するウイスキーという括りで考えればコスト高を十分カバーできるだろう。

そう考えれば、響や白州などの本当の意味で酒を嗜好品としている愛好者達御用達のウイスキーだけを狙い打ちするがごとく値上げする方が、「どうせお前等高くても買うんだろ?」と見透かされているようで、よっぽどカンジ悪い。「お前等どうせ吸うんだろ?」と喫煙者の足元を見て無限連鎖的に値が上がるタバコのような逃げ場の無さだ。

ウイスキーは完全なる嗜好品なのだ。大衆など二の次。不人気時代もずっとウイスキーを愛し続け、ウイスキーを見捨てないでいてくれた愛好者達にこそ還元すべきなのであり、その象徴たる響を値上げするなんてとんでもない。恩知らずとはこのことだ。

しかし、現実的にはそうも言っていられない。むしろ価格を上げなければ、愛好者の手に渡る前に、ビンテージの価値も分からぬ十把一絡げなにわかファン達が買占めてしまいかねない。ただ話題欲しさに、自分で熟考することなく「イイ酒だと聞いたから」というまさに含蓄もなにもないミーハー根性だけで、金に飽かして価値のあるビンテージ物を攫ってしまう。それを防ぐために、値上げは一つの対策手段であることは否めないのだ。

正直、格安の角瓶などどうでもいいのだ、ユーザーにとって。それはサントリーにとっても同じことで、角瓶の動向でサントリーの地位は揺るぎもしないし貶められもしない。彼等の評価を左右するのは、まさにプレミアムクラス。国産の響、山崎、白州なのである。これをどう扱うかによってサントリーの世間的評価は大きく変わってしまう。サントリーウイスキーを支えてきたのは、誰が何と言おうとこれら上位モデルのビンテージ物。それは昔も今も何ら変わらないことを消費者は認識すべきだ。

それを踏まえて、サントリー国産ウイスキー三巨頭である響、山崎、白州の動向およびそれに伴う影響力を分析してみる。この場合、三巨頭の代表として響のみを例に取ってみるが…。

先に述べた円安やコスト高を理由に響を値上げしたことは、対外的な理由としては正当だ。しかし心情的にわだかまりが残る。その理由だけでは愛好家に気を遣っているように見えないからだ。本来、ビンテージウイスキーレベルのカテゴリになれば、それを愛用するマニアだけで十分回るのだ。初級者や大衆的な消費者は必要ない。人気のハイボールも、それこそ大量生産する角瓶を作ればいい。本来ビンテージ物はストレートかロックで飲むもの。

そんなマニア達に気を遣った理由とは何か。消費に生産が追い付かないため、一般的市場との切り離しを図るために止むを得ず値上げした。と、こう言えばいい。むしろその方がマニアは納得するだろう。つまり、ウイスキーの『ウ』の字も分からぬ知ったかぶり達が、訳知り顔で貴重な響を買っていってしまう。これは響およびそれを愛するマニアの皆様の品格を貶める行為であり、そんな道理を知らない連中に、今まで苦労して構築してきた上質な空間をこれ以上壊されないためにも、防衛措置として値上げします。と、こう説明すればいいのだ。自称マニア達は自尊心をくすぐられ満足至極。値上げも已む無しとドヤ顔をするだろう。そして優越感に浸る。俺等は高いビンテージを買って選ばれし空間で酒を楽しむのみ。お前等は安酒でも飲んでウイスキーを知った気になってろ。と。
 
 
■本当に生産が追い付ていなかった
つまり、そうしなければ防げないほどにウイスキーが一般的に浸透してしまったということ。その起爆剤として有名なのが、2014年9月から2015年3月にかけて放送されたNHK朝の連続テレビ小説「マッサン」。ニッカウヰスキーの創始者・竹鶴政孝とその妻リタを、玉山鉄二およびシャーロット・ケイト・フォックスが好演し、ウイスキーブームに一気に火が点いたのは記憶に新しい。

同ドラマ放送中、今まで死に体だと思われていたニッカブランドの竹鶴や余市が全国の店頭や居酒屋に並びまくった光景を覚えている人間も多数居るだろう。この時期にウイスキーブームが爆発的に広まったのは紛れもない事実なのである。

ただ、ウイスキーの、特にビンテージ物は、それこそ数十年という熟成期間を経て初めて世に出される代物。欲しいからと言って簡単に出てくるものじゃない。規定の熟成期間を終えるまで気長に待つ以外にないのだ。

全体的な需要は急激に膨れ上がった。中には、ウイスキーの中でもより価値のあるビンテージ物を試したいと思う消費者も出てくる。本来見込んでいたビンテージ物の需要を遙かに超過してしまったのは容易に予想できるだろう。それによって、ドラマ「マッサン」の本丸であるニッカは当然のごとく需要過多、供給不足に追い込まれる。

「マッサン」のもう一方の主役といえるサントリーも当然、その波に飲まれるのは火を見るより明らか。元々クオリティが高いサントリーウイスキーだけに、愛飲者も激増したことだろう。だがサントリーのような大企業をもってしても、その過大すぎる需要に対応し切れなかった。だから過剰なブームにブレーキを掛けるために、とりわけ貴重なビンテージ物を守るために値上げという手に踏み切った。

これが、真相に近いサントリーの本音だと俺は確信している。サントリーのウイスキー蒸留所は、大阪の山崎蒸留所と山梨の白州蒸留所しか基本的に存在しないのだ。熟成させる量にも限界があるだろう。

最近、愛知の知多にも蒸留所が存在すると知ったが、それを知ったのも2015年9月頃のことで、「知多」という銘柄でサントリーから11年ぶりにウイスキーが新発売されたという話題性をもってようやく知多蒸留所の名前が知れ渡った。俺はその時まで知多の存在など一ミリグラムも知らなかった。他の人間の殆どがそうだっただろう。
 
 
■知多の真相
それはそうだろう。「知多」は、いわば苦肉の策で出したウイスキーであることが明白だからだ。何しろ「知多」もまたノンエイジ。2015年9月、社のブランドを賭け満を持して発売された体裁の、いわばリーサルウェポン的な新発売ウイスキーが、いきなりノンエイジなのである。

元々、「知多」の銘柄でウイスキーを発売させるつもりはなかったのかもしれない。知多蒸留所は予想外に40年近くも稼動しているらしいから、本気であればそれこそ「知多21年」とかビンテージっぽいウイスキーを出せたはずなのだ。しかしそれをしなかった。いや元々知多蒸留所の役割はそうじゃなかった。しかし山崎蒸留所と白州蒸留所だけではもう追い付かなくなったから、全く想定外だった知多をまるで虎の子であるかのように扱い、大衆を煽るしかなかったのだ。

もう、生産が追いつかないのだ、全く。長年愛情を込めて寝かせてきたビンテージの原酒が枯れそうなのだ。そうなったらもう誤魔化すしかないだろう。ビンテージに遙かに及ばないとしても、ノンエイジこそ新たなスタイルだと主張し、強引にでも潮流を作るしかないだろう。存続するためには売るしかないのだから。売るためには何かを作らねばならないのだから。

さらにもう一つ、ドラマ「マッサン」の他でウイスキー人気を炊き付けた要因、いや正確に言えば供給不足のトリガーとなった要因がある。すなわち国産ウイスキーに対する外国人客の増加、とりわけ中国人の爆買いによる買い占めだ。これは間違いなく外せない。

一世代前と違い、今現在日本の国産ウイスキーの世界的評価はうなぎ上りだ。サントリーも当然今では世界に知れたる実力派メーカー。同社が輸入しているマッカランやラフロイグは品薄じゃないのだ。今でも普通に買えるのだ。つまり、日本の国産ウイスキーが狙い打ちされているのは明らか。それは地道な企業努力が実ったとして評価に値する事実だが、そんな外国人客からのオファーが増えたため、供給不足に拍車を掛けたという一面は当然にある。

そして中国人の爆買い客。これは俺自身が裏を取ったわけじゃないので自信の程は半々だが、昨年秋に職場の同僚が同席した飲み会でのこと。ちょうど「知多」が発売して少し経った時期だ。俺は店のカウンターにおもむろに置いてあった「知多」という瓶を見て「こんなものが出てるのか」と驚いたが、その同僚は「知多」が発売したてのウイスキーであることを知っていた。

かつ、何度か既に飲んでいた。味は「そこそこ」だと評していた。その同僚は山崎や響のビンテージを定常的に飲んでいたので、その舌からすれば「知多」はそこそこにしかならなかったのだろう。だがその評価こそが全てを物語っている。そして俺も、その評価に全く賛同である。

その時同僚はもう一つ、「知多」が発売された背景を実しやかに語った。それが爆買い客の存在である。

2015年当時、中国人の爆買いはまさに熾烈を極めていたのは誰もが知るところだが、その矛先は酒造メーカーにも及んでいた模様。サントリーで言うなら、山崎蒸留所に中国人客が大挙して押しかけ、既に評価の高まっていた山崎や響などビンテージウイスキーを根こそぎ買い尽くしていった、というのである。

その煽りを受けて通常の日本の店には山崎や響が流通しなくなり、変わりにノンエイジで間に合わせるしかないというハメになったと。そして、あまりに品薄となりすぎた山崎の埋め合わせをするため、急遽ピンチヒッター的に「知多」が発売されたのだと。同僚は訳知り顔で話していた。

その買占めに関しては、記事が結構ある。2chのスレにも同様のことが記述されていたので一応載せておくが。

http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1439050816/

俺は、同僚の話を聞いてたその瞬間、まさに得心した気分だった。なるほど、そういう流れなのかと。これで全てが繋がったと。
2015年4月、サントリーは国産の上位銘柄だけを値上げした。その背景はドラマ「マッサン」を筆頭としたPR効果によるもの。国内需要が爆発的に伸びた。加えて外国での評価も高まり、とにかく金に物を言わせる中国爆買い客も加わり、プレミアムな価値を有するサントリー国産ウイスキーは一気に市場から消え失せる。もう値上げをして食い止める他ないと判断した。

そしてこの2015年4月の値上げに、響12年は入っていなかった。なぜなら廃番となったからである。響12年は市場になかなか無いのではなく、すでに生産完了していたのだ。全くその事実を知らなかった俺は、なぜ12年が見つからないのか得心する。1年近く前に終わっていたのだと。

その12年に代わってエントリーモデルとなったのがノンエイジ響である。今現在の響ラインナップは、ノンエイジ、17年、21年、30年なのだ。12年の完了と共に他のビンテージ物は値上げし、新しく入れたノンエイジになるべく人々を注目させようとしたサントリーの苦労が手に取るように分かる。

が、2割程度の値上げで怯むような相手じゃない。本来から居た固有のファン、つまり無理をせず、慎ましく高級酒を楽しんでいた日本人消費者は値上げによって多少自重するかもしれないが、他の客のことなど考えぬ金のある一般客と、持ち金に際限が無く転売すら視野に入れている中国人爆買い客は全く退かない。

退くわけがない。供給が追い付かなくなればなるほど販売価格は釣り上がり、それこそが買う側としては思う壺。スマップのコンサートチケットと同じ理屈だ。飲みたいから買うのではなく、高いから、転売で高く売れるから買うという最悪のサイクルに突入する。とにかく湯水のように金を使える人間だけがそれを入手出来る状態に既になっていた。

ここまで来てしまえば、もう勢いは止まらない。元に戻せない。Web通販などを見ても、2014年4月の値上げで10000円から12000円にあったとされる響17年が、既に14000円である。とっくに完売したはずの12年もそのWeb通販上にはちらほらと残っているおうだが、10000円とか12000円とか、今現在生産し続けている17年に迫る価格まで値段が釣り上がっているのである。これこそヤフオク方式だ。いくら完了した製品だからと言って、12年は17年にどう足掻いても及ばない。なのに値段は同じくらいまで高騰しているという。これこそ愛のない値付け。真に飲みたい人間なら売りに出すはずもなく、酒を愛している人間ならこんなつまらないことはしない。

だから今の状態は既に異常なのである。12年をWebで見つけた時は「おっ」と少し喜んだが、そんな便乗値上げでボッタクろうとする奴等の手に乗るつもりは毛頭ない。12年を買うという選択肢はこの時点でなくなっていた。

そして値上げした2015年4月から、それでもまるで生産が追い付かないという絶望的事態を修復するために、出されたのがノンエイジウイスキーなのだ。完全に辻褄が合う。

そして「知多」もまた、そんな苦境の最中に現れたノンエイジウイスキー。2015年9月に発売されたとなれば、まさしく時間軸的にあまりにも筋が通り過ぎている。多分に場繋ぎ的ではあるが、増加する消費者にサントリーブランドのウイスキーを届けたいというサントリーの崇高な義務感によって輩出された最後の手段とも言うべき銘柄だろう。ある意味、ノンエイジへの転換を決定付けるリーサルウェポンだったのかもしれない。

響にも言えることだが、この2015年9月の「知多」発売、いや4月の値上げの時点で、いや響12年を完了とした時点で、サントリーウイスキーはノンエイジを主流とする戦略に完全に固定していたのだろう。
 
 
■ノンエイジの実体
その指摘に対してサントリーはこう答えている。「ノンエイジでも美味いものは美味い」と。「ビンテージ物に何ら劣ることのないクオリティだと自負している」と。「ビンテージだろうとノンエイジだろうと、美味いものは美味いと言える舌のしっかりした消費者が増えてきたこと」で、それは「ウイスキーの文化が遂に大衆レベルまで根付いた」証拠だと喜んで見せるが。

そんなわけはない。全て嘘っぱちであり建前なのだ。ハッキリさせておくが、例えば響17年と12年だと明らかに味が違う。17年の方が美味い。これはほぼ間違いない。そしてノンエイジはさらに明確に異なる。いや、明確に味が落ちる。これは間違いないというより確信に近い自信がある。明らかに味が違うのだ。

当たり前のこと。だからビンテージなのだ。そのために絶妙なブレンドを施し手間を掛け、時間を掛け、12年も17年も21年も熟成させ続けるのだ。その苦労の結晶ビンテージとノンエイジが同列だとすれば、ビンテージに掛けた苦労とは何なのか。今一度明言する。ノンエイジはあくまでノンエイジレベルだと。不味いとは言わない。ビンテージが際立って美味い、それだけの話だ。

そもそも値段を見れば一目瞭然。サントリー国産ウイスキーを値上げした2015年4月の価格帯を見れば、響17年で10000円から12000円に値上げしたとのこと。しかも昨年値上げしたのに、今現在市場価格を見てみると、さらに上がっているのだ。17年で14000円くらいするのだ。つまり一時的値上げに留まらず、そこからもずっと上昇トレンドが続いているのだ。それだけ希少性が高い、つまり求めている人間が存在するということになる。

12年にしても、17年には及ばないだろうから、17年が2015年4月時の値上げ前で10000円だったとするなら、12年は多分6000円~8000円くらいだったと思われる。

それに対し、響ノンエイジは今現在で約4000円。ビンテージの半分以下なのである。この明らかすぎる価格差が既に、ノンエイジは量産品でありビンテージには全く及ばないことを物語っているのだ。値付けしたサントリー自身がそう言っているのだ。こんな落差のあり過ぎる値付けを見せられながら、サントリーの最高級ブランドたる響を十二分に楽しめますとメーカーに説明されたところで全く説得力がない。

それでも、ノンエイジ主体の販売方法からもう脱せないのだ、サントリーは。想定以上の、計算違いの事態が発生し、値上げなどの策を講じるも間に合わず、プレミアムなウイスキーはより一層プレミアムと化した。「知多」が発売されたことがサントリーの苦境を示す象徴だと今になれば分かる。もうサントリーはノンエイジを出すしか道がなかったのである。
 
 
■結局、俺の飲んだ響は何年モノだったのか
だが、主流がそうであるとしても、二十歳になる若者にノンエイジを与えるのはイマイチ味気なさを感じるのも確か。12年はもう消えた。とすればあとは17年か。17年をこの際、明日会う彼に与えてみようか。俺が学生時代に感動したのも、12年ではなく17年だったかもしれないし。

実際そうだった。昨年完了となった12年は、どうやら販売期間はたった6年間しかなかった模様。つまり2009年に発売した超若手だったのだ、12年は。つまり俺の学生時代はまだ12年は存在しなかった。無論、ノンエイジも同様だ。

対して17年は、1989年に発売した古株だという。というか、響という銘柄で初めて発売されたのが17年のようだ。仮に21年や30年が同時期に発売されていたとしても、そんな京都の片隅のコンビニにほいほい置いてあるはずがない。

とすれば、消去法的に俺が学生時代に飲んだ響は17年しかありえないということになる。そうか、そうだったのか。俺が飲んで涙が出るほど感動したのは17年だったのか。それなら納得できる。道理で有り得ないほど美味いと思ったわけだ。12年じゃああそこまで感激しなかった。

響ラインナップ(公式)
http://www.suntory.co.jp/whisky/hibiki/portfolio/21years/
 
 
■リカーズハセガワ
そんな様々な事情から、とりあえず17年を探してみようと考えた。北千住ならいざ知らず、職場近くの八重洲や丸の内ならさすがに売っているかもしれないと。

そして今日、八重洲地下街にある「リカーズハセガワ」という酒専門店を見つけ出し、初めてそこに向かった俺である。まさしく専門店に相応しく、ウイスキーからスコッチからブランデーからワインまで、何千本置いてるの?というくらい、狭い店内に所狭しと洋酒が陳列してある。ノンエイジだけでなく、ビンテージ物も多数だ。

しかもここは、100円か200円払えば試飲させてくれるという嬉しいシステム。店のレジで雑談している店員のおっちゃんと姉ちゃんも、いかにも酒のことなら何でも知ってそうな玄人風のオーラを醸し出しているし。

当然のように響17年もあった。念のため12年の所在を聞いてみると、「生産完了しましたね」とバイトっぽい姉ちゃんは普通に答え、響は他に何があるかと聞くと、「21年がありますよ、43200円」と、気軽な会話のようにとんでもないことを言ってくる。「そ、そうですか」とうろたえ、俺は店を後にする。

17年はあと1個しか在庫がなく人気の高さを物語っていた。しかしやはりその値段に気圧されたのが正直なところだ。ここはノンエイジでも別にいいかな。二十歳にいきなり17年はやっぱ早い気がするし、まずは初心者向けとしてノンエイジを与え、大人の味が分かるようになってから年数を上げる。そんな手法でもいいんじゃなかろうか。

結論を一旦保留にし、俺は店を出るのだった。

■グリーンカレー鍋
夜メシはグリーンカレー鍋という珍しい鍋だった。通常のグリーンカレーのように辛すぎず、多少マイルドさも感じられる。鍋用にちゃんとアレンジしているようだ。なかなか深みのある鍋だった。

前菜として刺身の柵か、あるいはアジでも買おうかとスーパーに寄ったが、どちらも不発だったので今回は回避。代わりになぜか卵焼きを購入するに至る。
 
 
■須らく世の中は保留癖
留保していたビンテージウイスキーを根こそぎかっ攫われたサントリー。保留していた「知多」はじめノンエイジウイスキーを出さざるを得ない状況に追い込まれる。そのノンエイジかビンテージか、どちらをプレゼントに買うか、決断を保留させる俺。夜、刺身を切ろうという勢いを、品薄を理由に保留させたスーパーでの買い物。

世の中には、星の数ほどの保留があった。


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20160218(木) ノラネコと教会とイエスについて、堕天使の俺は考えた

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【朝メシ】
無し(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
バチマグロ刺身(柵ココスナカムラ)、日清焼そばUFO、ちよだ鮨かっぱ巻き半額セール、納豆、アクエリアスゼロ(家-嫁)
 
【イベント】
仕事、秋葉原、教会、ココスナカムラ
  
  
【所感】
■あの時のノラネコ
朝、地元の駅近くで一匹のノラネコを見た。雑種で色は黒の縞模様。仮に『シマシマ』と呼ぶが、どこにでもいるようなネコだ。

ノラネコなど別段珍しくもない。特に俺等の地元はそこら中がノラネコだらけ。かつ気ままだ。俺等の住むマンションの近くにもわんさか群がっているし。軒下や車の下に隠れ、人気のいない時間帯にゴミを漁る。可愛がってやろうと近付こうとしてもバネのように飛んで逃げる可愛くないヤツ等。ウチのベランダに侵入して来たネコもいた。餌付けしようと試みるも捕獲に失敗したが。

その中でも、駅に向かう途中の民家に住み着く老いたペルシャネコ、通称『ぎんちゃん』は可愛かった。半分ボケていたのだろうが、動きが遅すぎて逆に触るのが可哀想なくらい。そのノロノロとした動きを少し離れた場所から見守るのが俺等の楽しみの一つだった。

しかし、その『ぎんちゃん』も、昨年末あたりから今年に入って一度も姿を見ていない。もしや、遂に天に召されてしまったのか。だとしても、いつ逝っても不思議じゃないほどお婆ちゃんだったので驚きはないが、単純に居なくなったことが純粋に寂しく、悲しい。本当に『ぎんちゃん』のことは可愛く思っていたので。

要は思い入れがあるかどうか。俺等は『ぎんちゃん』に深い思い入れがあった。数週間に1度、出勤前あるいは帰宅中の通り道で彼女の発見するだけで心踊り、その姿を監察するだけで楽しかった。しかし今はもういない。姿が見えない。真相を飼い主に聞きたいけど、聞けない…。
 
 
■特定できているネコ
冒頭のシマシマは、思い入れという程でもないが、何度も同じ姿を見かけているという点で記憶に残っているネコだ。ノラネコパラダイスの地元において、個体が特定できるだけで特別なのかもしれない。

シマシマが出没するこの一画には居酒屋「養老乃瀧」、隣に場末のパブ、そして向かいに小さな立ち飲み屋が並ぶという、エサには困らなそうなエリアだ。キン肉マン的に例えるなら、ああっネコだ、それも養老乃瀧のだ、それを食べてはいかーん、と言ったところか。ネコもネコで、客の食べ残しとかをやろうとすると、卵と味噌汁もつけてな、などとぶしつけな態度で贅沢品を要求してきそう。

というわけで、シマシマのことは『ヨウロウ』と改名することにしたが。ヨウロウのことは、仔ネコの頃から多分知っている。

数年前、養老乃瀧と隣の民家の間の狭い隙間にちっちゃい仔ネコが二匹生まれ、たまにチョコチョコと駆け回っていたのを見て超可愛いと思った記憶がある。で、その隙間にいつも見知らぬ誰かがエサ入りの空き缶を密かに置いていたのも見ている。多分、パブの従業員か、飲み屋の人間か、近所の誰かか…。

ほどなく、その隙間に「エサを与えないで」という看板が立てられたが、聞く耳持たぬとばかりにエサは当たり前のように置いてあった。よっぽどネコが好きなヤツなんだろうと思ったものだ。ゆえにあの仔ネコ等も餓死する心配はなかったに違いない。

その中の一匹が、今目に映っているヨウロウだと俺等はほぼ確信している。

そんな子供の頃の記憶があるからか、ヨウロウは人慣れしている。通行人に懐きはしないが、エサのもらい方は心得ていそうだ。養老乃瀧の入口前に門番のように普通に居座っているのをよく見るし、立ち飲み屋の入口前や客の足元などに平気で擦り寄り、窓外の肘付きテーブルに当たり前のようにピョンと飛び乗りエサを待っている。パブの姉ちゃん等もたまに餌をやっていた。

飲み屋に来るやかましい客や激しい雑踏で殺伐とした世の中、純粋にエサを求めて寄ってくるノラネコは従業員等の心の癒しとなっているのかもしれない。ここいらはメイン通りに比べ人通りも少ないので、お互い密かに行動するにも適しているのかもしれない。

そんな、見知ったノラネコ『ヨウロウ』と一部の人間の、場末細道における触れ合い。ヨウロウをかなり贔屓していた立ち飲み屋も今は潰れ、別のラーメン屋に変わっている。前と違って、ヨウロウ始めノラネコにも冷たげだ。

それでもヨウロウはめげることなく、窓の締まった店外をヒタヒタと歩き、店外のカウンターテーブルにピョンッと飛び乗り自らの存在をアピールする。動きが完全に染み付いている、懲りないヤツよ。それしか生きる術を知らないのだろう。だが、それでいい。ヨウロウ、お前はこの区画全員のペット、心の癒しなんだから。
 
 
■教会に立て篭もった男
本日夜8時頃、千葉県佐倉市で36歳男が教会に立て篭もる事件が起きたようだ。男はカウンセリングを受けるため両親と共に教会を訪れたところ、隠し持っていたバットや刃物を振りかざして暴れ出した模様。人質を取って立て篭もったが、程なくして突入した警察に取り押さえられて事件は収束したというが。

最初から凶器を隠し持っていたことが一種の計画性を匂わせるが、最初から誰かを殺す気満々で所持していたかといえば微妙。だったら死人が出ている。ケガ人はいたが誰も死亡していないことから、追い詰められて凶暴化したというのが妥当だろう。

教会にイヤイヤ連れて来られた時点でストレスは爆発寸前で、残された道は自衛のための攻撃。そうと決まれば自分を傷付けるか、他人を傷付けるかの二択しかない。自分を傷付けることは出来ず、その矛先は他人へ向かう以外に無かった、と。

そもそも、カウンセリングを受けに来たという行為から、精神が不安定だと傍目に判断されていると分かる。心が病んでいるのか、弱っているのか、いずれにしても自虐的かつ内罰的になるのがパターン。忘れてはいけないのが、それとセットで排他的かつ攻撃的にもなるということだ。一言で表せば脆く不安定な精神状態だ。

不安だから、何かあった時のために予め準備する。自分の身に危害が及びそうになったケースを想定しながら。それは肉体的危害だけでなく、当然精神的危害も含む。つまり弱っている。自分の弱さをカバーするため、護身用としての凶器を忍ばせるのは決して突飛とは言えない。

また、教会に出向いたのも自らの意志ではなく半強制だ。望まない強引な連れ出しが、ただでさえ弱った心を圧迫し、強迫観念や被害妄想を刺激した。追い詰められた結果、準備していた護身用武器を振りかざした。他人を攻撃するというより自分を守るため、他人を自分に近付けないための暴発というのが真相に近いのではなかろうか。

結局、暴発する以外に道がなかった。少なくとも男の中では、他の道は全て閉ざされていた。その後、どんな結末が待っているか、自分の身がどうなるか、予測できれば暴発などしない。既に正常を逸脱しているから、狂気に足を踏み入れているから後のことなど考えない出たとこ勝負なのだ。そこに破滅が待っていると無意識で確信していても…。

むしろ何もかも終わって欲しかったのかもしれない。どんな結末であれ、もう終わらなければ止まらない。自分で終わらすか、誰かが終わらせてくれるか。終焉を望むのは、もう戻れない人間の本能。狂気の終着点は基本的に一つしかない。

強制とは言え、神聖なる教会に足を踏み入れた一人の病んだ男。教会の扉を開けた時、彼は何を思っただろうか。何かを求めたのだろうか。期待しただろうか。救いの道を。世界の理を見通した神父であれば道を示してくれるかもしれないと、救ってくれるかもしれないと、密かに望みを掛けたのだろうか。

それが叶わなかったのか。期待外れだったのか。見た瞬間、分かってしまったのか。神聖とはほど遠い、イメージと異なる俗っぽいオーラがそこにあったのか。現実が見えてしまったのか。どこも同じなのだと。ここにも自分の居場所はないのだと。ここでも自分を救ってくれないのだと。彼は何を救いたかったのか。何から救われたかったのか。

同じく教会に迷い込み、本心からの涙を流し心洗われた伊沢マサキのようには行かなかったようだ。

マサキには、誰にも吐露したことのない自分の痛みを見抜き、心の中の深い傷を瞬時に見抜いてくれた少女が居た。しかし男には誰も居なかった。マサキは天に召された少女から受け取った十字架のネックレスを心の支えとして今も肌身離さず着けている。男は神聖な十字架の前で、自らの傷を隠し持ったナイフの切っ先に込めて振りかざす。

ホーリーランドはマサキの中にあった。男の見た先にホーリーランドはなかった。
 
 
■教会に出向く俺
何の偶然か、男の教会立て篭もり事件が起こる数時間前、仕事で秋葉原へ出向いていた俺は、途中キリスト系の教会に立ち寄った。本当に何の偶然か、そうしようと出発前に決めていた。やはり何かから救われたくて。精神的な支えが欲しくて。人や物じゃない、自分自身の中にあるものでもない、目に見えない外部の何か、自分を俯瞰する神性を纏った上位の存在を感じたかった。

神代ユウ的に言うなら信仰。まさしく信仰だ。人に言われても出来ない。自分でやろうとしても出来ない。正直、手詰まり。もうどうしようもない。だから立ち上がるための天啓を、神からの啓示を無意識に探したかったように思われる。この拳、これはボクの牙だ、と。その牙を研ぐどころか抜け堕ちている状態で、全く復活しないからこそ、もう人でない何かに頼る心情なのだと。

立て篭もった男と同じく、何かに追い詰められた一匹の獣がここにいた。
 
 
■教会に期待する男
元々、数年前からキリスト教というか教会には興味があった。長崎旅行で立ち寄ったカトリック教会『大浦天主堂』にて受け取った機関紙『聖母の騎士』と、その発刊者にしてナチスドイツの迫害の末殉教した聖人、マキシミリアン・コルベ神父の存在は、自分にとってまさに衝撃であり、だからこそ運命を感じた。

あれからたまにキリスト教についての情報を収集しつつ、今は嫁から買ってもらったクロスのネックレスを伊沢マサキのように肌身離さず着けている。神の声を聴きたい、神と一体になりたい、そんなジャージィ・ローマン状態。まさに神頼みであった。

そんないきさつもあり、アキバに出向くと決まった瞬間、近隣の教会を探した。プロテスタントや正教会がダメだというわけではないが、できればコルベ神父と同じカトリック系が望ましい。

また、聖書を読んでみたいと常々思ってもいた。一般に聖書にはいわゆる旧約聖書と新約聖書があり、旧約聖書はユダヤ教の聖典。キリスト教はその旧約聖書に加え、キリスト由来の追記を加えた新約聖書を聖典とする、らしい。旧約聖書については、「新しい」「旧い」というイメージで序列付けるのは失礼だというユダヤ教徒に配慮して、ヘブライ語聖書と現在では呼ぶようだが。

調べたところ、聖書を無料で配布しているところもあるとか。買えば済むが、とりあえずタダでもらえるのならそれに越したことはないんじゃないかという敬虔とは程遠い俗っぽさ。しかし試読して、気に入ったら改めて立派な聖書を購入するという順序でも良いと思うのだ。

聖書を作成、配布、発売している組織はどこだろう。正直特定はできないし、唯一の組織が請け負っているとも思えないが、日本においては「日本聖書協会」という組織が結構力を持っている感じがする。

(日本聖書協会)

トップページ

その流れで検索していくと、「聖書配布協力会」という組織にぶち当たった。いかにも聖書を配布してますみたいな雰囲気だけど、ざっと見るに、どうやらこの組織は田舎町とかでたまに見かける「イエスを信じる者は救われる」「悔い改めなければ裁きが下される」「信じぬ者は地獄に落ちる」など、かなり挑発的かつ攻撃的なあの看板を作っている大元らしい。何てこった。

さらにこの組織は、都会の街でよく走っている街宣車の元締めでもある模様。「神を信じぬ者達は地獄の業火に焼かれて云々」とかいう、物騒な言葉をスピーカーから大音量で流しながらノロノロと走っている、あの車だ。初めて知ったというか、色んな謎が解けた。ふと視点を変えただけで意外と答えがすんなり見つかるもの。

(聖書配布協力会)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8%E9%85%8D%E5%B8%83%E5%8D%94%E5%8A%9B%E4%BC%9A

それはそれとして、協会の荘厳な雰囲気に包まれつつ、心を洗いたいと思った今日。ついでに聖書ももらえるといいな、なんてことを考えながら最寄の協会を探した。

それで検索すると、カトリック東京大司教区というエリアの中の、カトリック神田教会およびカトリック浅草教会というのが近そうだ。神田教会は水道橋駅だからちょっと時間内に移動できない。浅草教会なら秋葉原駅から佐久間町を突っ切り浅草橋方面に歩いて10分程度だから十分可能だ。よし、浅草教会に行こう。アキバへ向けて出発する俺だった。

(カトリック浅草教会)
http://tokyo.catholic.jp/archdiocese/church/tokyo/15343/
 
 
■教会を選ぶ男
しかし実際アキバに出ると、意外と時間がない。どうも浅草橋方面に行く余裕は無さそうだ。だから次善の策として、予め調べておいた「神田キリスト教会」という場所に進路を変更する。

ここは、カトリックではない。「日本聖公会」というイギリス発祥のキリスト教諸派の一つのようだ。

(日本聖公会)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%81%96%E5%85%AC%E4%BC%9A

しかしキリスト系には違いなさそうだし、聖典も旧約聖書と新約聖書のようだ。事情に詳しい信者のブログなどを読むに、ちゃんとしたキリスト教の教会と胡散臭い教会を見分ける方法として、いくつかの判断基準があるという。曰く、

入会を強制しない教会、寄付金や物品の購入を強いない教会、等々。そして旧約聖書と新約聖書を唯一の聖典としている教会。ここは大きなポイントらしい。キリスト教であるからには信仰の対象は神の子キリストであり、それ以外の神や教会の権力者を崇めよという時点で教義に反していると。真っ当なキリスト教徒の思想や行動規範、全ての拠り所は旧約聖書と新約聖書以外にありえないのだと。

なるほど、シンプルだが確かに真理だと納得する。そして日本聖公会の聖典は旧約聖書と新約聖書である模様。これなら何かあっても安心である。

しかしながら、神田キリスト教会の場所がある地図を見ると、昌平橋通りの内側に芳林公園のすぐ隣に建っていたのだ。今日の今日まで全く気付かなかった。

いや、この建物の存在自体は十数年前から知っていたのだ。しかし、そこがどんな建物なのか、何をしている場所なのか、気にしたことは一度もなかった。それは見えていないも同様で、知らぬも同然。物理的な死角ではなく心理的な死角によって、自分の世界には存在しなかった建物。

それが突然現れる。視点を変える、思考を変えるとはまさにこうなのか、と考えさせられる1シーンである。それは他の人間も同じ。こんな小道ですら、アキバ族達はワラワラと湧き出て四方を歩く。PCアウトレットショップ屋へ、食堂へ、ラーメン屋へ、コスプレメイド屋へ、思い思いの店に吸い込まれていく。

その中で、近隣では最も巨大かつ威厳に満ちた建物はまずこの「神田キリスト教会」だろう。認識してようやく分かった。そんな建物なのに、誰も見向きもしない。気にしていない、つまり見えていないのである。彼等にとって、ここは間違いなく思考の外。世界に存在しないビル。俺もつい先ほどまでそうだった。アキバを歩き始めてから十数年。景色が変わるとはこういうことを言う。
 
 
■教会に肩透かしを喰らった男
というわけで、誰も見向きもしないその建物へ足を向け、入口の扉を開ける俺。俺のイメージでは、ごめん下さいと扉を開けるとそこには荘厳で静謐な礼拝堂があって、奥の方に外人の牧師が静かに立っていて、「ドウシマシタ迷える子羊よ」と慈愛に満ちた笑顔で語りかけてくる、という感じなのだが。

1階には誰も居なかった。照明も消えていて、大きなテーブルがあって、そこに多種多様の機関紙やパンフレットが置いてあるのみ。いきなりの静寂というか暗闇に力が抜けてしまう俺。いいのか、こんなんで。

困惑して立ち往生していると、「祈りを捧げたい方は2階の礼拝堂へどうぞ」という案内が貼ってあった。なるほど2階か、そこに牧師が笑顔で立っているわけだな。よし、上へゴーだ。階段を上る。相変わらず照明は落とされているが、ドアのガラス越しの向こうには礼拝堂と思われる場所が広がる。よし、この扉を開けば、牧師が…。

ガチャンッ…!
しかしドアは開かない。
ガタガタッ、ガタッ!
いくら開こうとしてもビクともしない。
つまり、営業していなかった。

マジで? ホントに誰もいないのか? おーい、誰かいませんかー、開けて下さいよー、ねえ…。

結局扉は開かず、誰の返事もなく、意を決した初教会は不発に終わる。教会って24時間開いてるんじゃなかったのか。脱力しつつ、溜め息を漏らす俺。こうなったら、やはりカトリック浅草教会に行くしかないな。休日にでも出向いてみるか。気を取り直して神田キリスト教会を後にする。1階に置いてあったパンフレットを数部手に取り、そこに控えめに置いてあった「寄付箱」と書かれた箱の中に、1円玉をチャリンッ、投入しながら…。

神は居る。だけどそれは自分の中に。人が居れば神が出来る、神の在るところ人が必ず居る。それはつまり、どんな場所にも人が居る、ということ。立て篭もった男は人を避け、心の中で何かに救いを求めた。しかし救いの一手になるはずだった教会にもまた人は居て、人が運営している。どこも変わらない。だから結局は自分次第なのだと…。
 
 
■ウイスキーを買えなかった男
仕事後、北千住のマルイで嫁と共に買い物をしていた。明後日土曜、嫁の友人の甥に会う約束がある。二十歳を迎えた彼にウイスキーを、それも俺のお気に入りの響をプレゼントしようと画策した上での買い物だ。12年くらいがいい。17年は若造にはまだ早い。しかし、マルイのリカーショップに響12年は無かった。熟成年数の表記がないノンエイジの響があるのみであった。

おかしいな、あっても良さそうなのに。マルイの他、ルミネやその他ショップも回ったが、結局見つからず、あるのはやはりノンエイジのみ。一帯どういうことだろうか。別にノンエイジでもいいんだけど、どうせなら…。ネットでも調べたが、やけに高い。ボッタクリじゃないかと思える値段だ。こんなの買いたくない。

この少し後、響12年は既にメーカー完了となっている事実を知るのだが、差し当たり明日仕事中に、八重洲か丸の内のリカーショップを探してみることにして、とりあえず今日は大人しく帰る俺等だった。

 
■夜メシはささやかにする男
その甥に少しでもスリムな姿を見せるため今週初めからダイエットをしている。その関係でメシはなるべく控えめに。バチマグロの刺身の柵を一切れ、あとは日清焼そばUFO。そして地元駅前の「ちよだ鮨」で半額セールをやっていたので、カッパ巻きを購入。あとは納豆で終了だ。炭水化物を摂取してしまったが、それでもかなり自制している。付け焼刃とは分かっているが、今週一杯は我慢したいところだった。
 
 
■ネコとイエスとスリムな教会
朝、そして夜に見かけるあのノラネコは貪欲で、しかし俺と違ってスリム。教会が信仰するイエスもまたスリム。教会はこの世のあらゆる場所にあり、だけど神は心の中にあり、その境界線は曖昧。教会に立て篭もった男は境界線を踏み外してしまった。俺は、道を踏み外すことなく、だけど今日垣間見た従来と少し異なるあるべき道を臨むという点では道を踏み外しても良いのではないか。

メシを食って即力尽きてそのまま朝まで寝落ちしてしまった堕天使状態の俺はそんな風に考えるのだった。


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20160217(水) クレーマーは決して満たされないし、腹も簡単には満たされないし、何より心の渇きが一番満たされない

160217(水)-02【2255頃】牛乳「牧場の大地」。ミニストップ春巻、カップラーメン「明星中華三昧四川飯店坦々麺」《家-嫁》_01

【朝メシ】
無し(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
牛乳「牧場の大地」。ミニストップ春巻、カップラーメン「明星中華三昧四川飯店坦々麺」(家-嫁)
 
【イベント】
仕事
  
  
【所感】
■クレーマーという言葉の嫌らしさ
商売上の顧客である販売店から電話が掛かってきた。その店で商品(精密機器)を購入した一般ユーザーが、使えないから返品してくれと購入店に申し付けてきた。そのユーザーを受付した店舗スタッフが、返品を受けてよいものか判断に迷い、ウチに電話で尋ねてきたという流れだ。店舗スタッフはかなり困った声色をしていた。

初期不良であれば何の問題もない。購入前から既に壊れていた、購入してすぐ不具合が発生した、しばらく使っていたらもうダメになった等、初期不良の概念は様々だが、大体販売店側で適用期間を設定しているのが常識だ。モノによるが、購入後1週間~1ヶ月がセオリーだと思われる。それ以内であれば、無償で交換や返品に応じるという取り決め。

本来であれば、壊れていないか確認する意味も込め、購入後すぐに開封、通電、使用するのが消費者のある意味義務。しかし、中には女々しい理由で開封を先延ばしにする連中もいる。

ちょっと開封する暇が無くて…。何のために買ったんだよっ。普段は仕事が忙しくて…。じゃあ休日にやれよっ。実は大して欲しくなかったんだけどちょっとした勢いで…。捨ててしまえっ。

という感じで、買った人間全てがルパンダイブのようにガツガツしているわけでもないのが現状。そのくせ、しばらく時が経ってから開封したとき壊れてたりすると、自分の先延ばしを棚に上げて店やメーカーに激怒するのだ。

そういった面倒臭いトラブルを避けるために、初期不良期間が設けられている。売り手の温情というより、後で足を掬われないための防御措置、予防線だ。いくら説明しても聞かない客は聞かないし、言っても分からない客には分からない。だから予め初期不良交換期間について念押しし、レシートなどの売上伝票に文書として残し、手渡す。その売上伝票が無ければ受け付けない旨を宣言する。

それでもダメな相手も存在するのだけど、殆どの客はこれで撃退可能。だからと言って、それを盾に高慢な態度を取るのも店舗スタッフとしてはよろしくないが。初期不良期間を過ぎているから一切受け付けませんが他に何か? と、まるで契約書を盾に取って無慈悲な貸し剥がしを行う銀行員のような冷酷な瞳で客を追い返すというのは余りに人間味がない。

相手はあくまでお客であり、その前に一人の人間。ケンカ腰よりも一歩歩み寄った方が話しやすいし、相手も聞く耳を持ちやすい。一度ケンカに発展したら基本的には修復不可能。他の店舗スタッフに交代する以外に解決法はないのである。

人間対人間。これが全て。店舗スタッフの客に対する態度もそうだが、それはそのまま客の店舗スタッフに対する姿勢としても当てはまる。どちらが上、ということは基本ない。

多少話が逸れたが、1週間ないしは1ヶ月という初期不良期間の間に客が持ち込んでくるのは店舗スタッフとして基本的にOK。無論、理由によるが。マニュアルにない使い方をして壊したとか、ワザと落としたとか、叩きつけたとか、客に大きな瑕疵が認められる場合には初期不良期間内だろうが拒絶する理由になるだろう。稀に、飽きたからとか、もう要らないから、などど子供のような理由で返品しようと試みる輩も湧いてくるが、まあ舐めんなって感じだな。

ただ、そんな理由は自分で言わなければ分かりはしない。ただ「使ってたら壊れた」とか「開けたらいきなり動かなかった」と言い切ればいいのだ。無論、嘘を見抜かれるケースも多いが。店員を騙せても、その先の販社やメーカーのプロフェッショナルに掛かれば、事実と異なる出まかせなどすぐにバレる。店でも、アップルクイックガレージのスタッフなどであれば、改造行為や無茶な使い方をすれば即座に判別するだろう。

意外と嘘は吐き通せない。いくら「オレが壊したんじゃない」と言い張っても、「そうは言っても、ここがこうなってますよ? 自然に使っていれば付かない傷なんです、有り得ない現象なんです。これはお客さんが故意的に、あるいは過失的にやりましたね?」と理詰めで凄まれれば、気弱な客、素直な客であればあるほど「ソウデスワタシガヤリマシタ」とうな垂れながら白状する。身の丈に合わぬ嘘や虚勢はほどほどにした方が身の為だろう。下手に出れば、あるいは店員も情けを掛けてくれるかもしれない。その温情に賭けた方が良い場合もある。

正直に言うか、嘘を突き通すか、二つに一つ…。

まあ初期不良対応期間を過ぎても、真っ当な製品であればメーカー保証が付いているパターンが殆どではなかろうか。期間は大体1年間とか。モノによっては3年や5年なんてのもあるが、一般消費者が平常シーンで使う精密機器程度であれば、やはり1年がスタンダードに違いない。もし初期不良対応期間を過ぎても、メーカー保証1年の権利を行為し無償で対応してもらえるわけだ。

メーカーとしても、ヘビーな使い方をせず普通に使用していて1年で壊れる程度の物を作ったとなれば製造業の名折れ。1年くらいは普通に保証できますよ、という自信の表れでもあり、購入ユーザーの将来の不安を払拭し、保険を掛けてあげる意味合いも含む。

このように、よほどの物ぐさか、よほどのクレーマーでもない限り、初期不良対応期間とその先のメーカー保証をさらに超えた時期に「返品してくれ」なんて駆け込む客は殆どいない。

だが今回僕が電話で受けた店舗スタッフの話によると、かなり危険なお客さんだった模様だ。

そもそも、購入したのが昨年の2月とのこと。今年でちょうど1年経つか経たないかである。初期不良の返品なんて既にできないし、メーカー保証の1年だってギリギリのラインで適用されてないかもしれない。適用されたとしても返品はありえなく、通常は修理か交換だ。それを返品しろの一点張りである。

しかもその理由が、「ちゃんと使えないから」とのこと。自分の持つ環境では使えないことが分かった。使えない機械を持っていても意味がない。だから返品する、金返してくれ、と。

そんなの通るわけがない。だったら初期不良期間にまず持ってくるべき。自分の環境では使えないからという理由は初期不良に含まれない気がするが、それでも筋としては持ってくるならその期間内だ。それを過ぎたら諦めてメーカー保証を受ければいい。まだ1年もあるんだから、その間に何か解決法なり代替案を考えればいい。故障じゃないんだから、自分の環境で使えないだけだから返品は無理、そう言われたら他人に売ればいいじゃないか。とにかく一度自分の意志で買ったのだから、そして使う意志を見せたんだから、そこから1年間も何も文句を言ってこなかったんだから、返品してくれはないだろう。それなのに、返品しろという。

さらに言うなら、どうやらこのお客は、自分の住んでいる場所から2~3県は離れた、いや海を隔てた場所で購入した模様。1年前、出張か何かの時に現地の店に寄って買ってきた。それでずっと使えない状況を知っていたのか知らなかったのか分からないが、1年間放置していた。そして今回、同じ地域に出張することになったので、1年前と同じ店に言って「使えないから返品しろ」と怒鳴り込んできたのだ。

まあ、さすがに部類としてはクレーマーだよな。電話で話した店員さんは困っていたが、事情を聞いた販社の僕は、さすがに返品は受けられないと返答する。その代わりメーカー保証内での修理なら受けれると思いますよ、その取次ぎはいつでもしますから、と販社の人間として出来る範囲の案を提示した。店員さんも、そうですよね、と納得し、その旨お客さんに伝えたようだ。

これで一件落着したと僕は思っていた。しかし、

販社である僕のところに、メーカーの人間から電話が掛かってくる。どうやら例のお客さんが、直接メーカーに電話を入れたらしいのだ。しかもカスタマーサポートの部署と、営業部のどちらにも電話を掛けたとか。さらにその電話も、自分の携帯などではなく店のレジ内の電話を使って掛けていたとか。それも、2時間も。2時間も店の電話を使って、メーカーにゴネていた、というのだ。僕は「何だそりゃ?」と目眩がした。

結局、メーカーの人間もほとほと疲れたようで、「今回は受けて下さいよ」と僕にむしろ頼むように言ってきた。まあ仕方ないか。店だけでなく、メーカーまで巻き込むとは、ここまで色んな方面の人間を疲弊させるとは。久々のモンスターを見た気分だった。

クレーマーという言葉が浸透して久しい。その線引きは難しく、軽率にその言葉を使うのは躊躇われるし、多用するのも浅はかすぎるし、その言葉を使う自分のメンタリティも澱み幼稚化しているような、その言葉に頼りすぎて物事を深く考えられなくなっていきそうな、そんな危うさを持ったキーワードだった。
 
 
■メシは軽く
という一幕が日中に展開され、だけど一日の中ではほんの米粒のような比率しか占めない一瞬の出来事だ。しかし、その一瞬の出来事くらいしか思い出すことがない、ピックアップする話題がない。日々が灰色過ぎるのか、沢山あるはずなのにそれに気付けない自分の頭の回転の遅さが原因なのか、とにかく話すことはない、興味を持てることがない、なんて日々がもう3年間くらい続いているのだとしたら、十分に見事なゾンビが出来上がっていても良さそう。

嫁は友人等との飲みに出かけていたのでメシが用意されないということで、しかし取り立ってて豪勢にとか楽しくとかそんなテンションもないので、家にあったカップラーメンと、コンビニで買った春巻きをチョチョイと食って終了。腹に入れた、という表現がまさしく正しい夜メシだった。

ホントに大丈夫なのか?と自問自答した。頭は動いているか?記憶する力はまだ残っているか?と

確かめるため、今日食ったカップラーメンのパッケージ、その商品名を短時間で記憶できるかやってみた。坦々麺だったのだが、正確には明星の「中華三昧 四川飯店 坦々麺」という文字が書いてある。それを一発で覚えられるかどうか。

十数秒パッケージを睨み付け、そこから目を離して口に出して言ってみる。「明星 中華三昧 四川飯店 坦々麺っ!」。

言えた…。ちゃんと漏らさず発音できた。うむ、短期の記憶力はまだ存在しているようだ。あとは長期的な記憶力と、それ以上に興味を持てる心、なんだろうな、きっと…。


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20160216(火) ドロリと溶解するポトフと報道ステーションの妖怪達

160216(火)-01【2200頃】鯛大根、ポトフ《家-嫁》_01 160216(火)-01【2200頃】鯛大根、ポトフ《家-嫁》_03 160216(火)-01【2200頃】鯛大根、ポトフ《家-嫁》_04 160216(火)-02【2220頃】納豆《家-嫁》_01

【朝メシ】
無し(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
鯛大根、ポトフ、納豆(家-嫁)
 
【イベント】
仕事
  
  
【所感】
■ポトフと大根
昨日に引き続き、食事制限ダイエットは継続中。だがこんなペースじゃ全く効果が見られないまま本番を迎えてしまいそうな僕は、「野菜サラダだけでいいよ」「スープだけでいいよ」と世迷い言を口にし始める。無理だって自分自身が一番知ってるくせに、芝居掛かった口調で覚悟のない覚悟の台詞を口走る。

誰に対するアピールなのか。実際、野菜サラダだけとかスープ一品なんてものを出されたら猛烈に文句言うくせに、我ながらこんな茶番をよくやる…。

言われるまでもなく現実を正確に分析していた嫁は、僕のポーズを気にすることなく固形物を出してくる。それでも無駄なエネルギーを身体に残さないようにという良心か、鯛のアラを使った鯛大根が今日の献立だ。

そしてもう一つ、スープという言葉を一応尊重したのか、その大型版であるポトフが用意した。確かにこれならば、消化効率もよく、贅肉になり難い。よく煮込んだのか、野菜がドロドロに溶け、本当に消化が良さそうだ。なかなかセンスのあるレパートリーと言える。

ジャガイモやニンジンなどポトフの定番具材の他、食い手のありそうな大型のソーセージが入っているのは、どうせ野菜だけじゃ根を上げるだろう僕の潜在的不満を回避する一品か、それとも晩メシくらいは美味しく食べられるようにという、せめてもの情けか。情けは人のためならず。武士の情け。今回は果たしてどちらか。
 
 
■報ステ観るのは消去法
メシを食いながら、古舘伊知郎の報道ステーションをTVで観ている。最近ニュース番組が少なくて困る。ニュースこそが最も心を落ち着かせて観られる安牌だというのに。そのニュース番組ですらキワモノが多い状態。特に報ステは、古舘伊知郎の隣に座る本日のコメンテイターと称する解説者達が曲者揃いで有名だ。

最近だと憲法学者の木村草太の露出が目立つか。まだ30代だろうに、まるで悟り切った高僧のように微動だにせず無表情で佇み、呪文のようにブツブツと何かを解説している姿は、言ってることは理論だっていてもその挙動だけでキワモノだ。もう顔覚えちまったよ。
 
 
■放送事故だったあの時の坊主
高僧と言えば、いつだったか、昨年の報ステで坊主がコメンテーターとして同席していた日があった。その坊主の喋りがもう酷くて、下を向きながらブツブツと独り言を言っているようなトーンで視聴者には全く聴こえない。

しかもうろ覚えだが、会話が殆ど噛み合っていなかった気がする。質問や見解を求める古舘に対し、全く的外れな返しをする坊主。対話ではなく独白。元々会話が噛み合わない古舘ですら目に見えて困惑するレベルである。テレビの前であることを一切気にしないかのごとく、坊主は自分の言いたい事を小声でただ呟き続けていた。

そうそう、これこれ。

http://majikichi.com/archives/9078359.html

坊主のあまりの世間ズレぶりに、「何だこいつ!?」と僕ですら思わず顔をしかめる。嫁は同じく不快感を示しながらも、「どこかで見たことある」と身に覚えがある様子。しばらくして、「『考えない~、考えない~』の本を書いた坊主だ!」とその正体を遂に思い出した。

名前は小池龍之介。無理をしない生き方を提唱し、それに関連する多くの著書も出している、悟り系ハウツー本の著者としてちょっとした有名人のようだ。嫁の言う本は多分「考えない練習」を指しているのだろう。確かに著書の中にあり、実際に当時買った嫁が「これいいこと書いてあるわ~、実践してみよっと♪」などと喜んでいたのを覚えている。

それが、こんなクソ坊主だったとは、本を買ったことをさぞ後悔しているだろうな。僕が心が弱っていた時期、心屋仁之助のハードカバーを購入してしまったあの時のように。

案の定、嫁は「こんなヤツだったの! 買わなきゃよかった!」とクセモノ古館ですら震え上がらせる坊主に向かって毒を吐いていた。顔さえ知らなければ、どんな人間か知らないままならお互い幸せで居られたのに。SNSのように顔が見えないままの方が幸せってこともある。高尚な人間だと思って会ってみたら実際はこの上ない俗物で幻滅することもある。裏に潜んだまま生きた方が幸せな人間もいる。表に出てくるべきではなかった人間もたくさんいる。

この坊主は、まさしく表に出てくるべきではなかった。これは坊主本人の資質もあるが、古館の人選にも責任があるだろう。ちゃんと事前に身辺調査しとけよと言いたい。
 
 
■民主党もまた坊主レベル
ところで、今日の報道ステーションで、国会の予算会議を扱っていた。軽減税率の話とか、色々。そこで自民党の安倍ちゃんや麻生さんの答弁に民主党が見当違いの論理で食って掛かるのがもはや定番の風景と言えようが、その民主党員らが、事あるごとに「えーっ!?」と野次を飛ばすのが特段耳に残った。

何か言う度、「えーっ!?」と、やる気のない間延びした声で野次を飛ばす。「えーっ!?」ではなく「えーっ♪」とむしろ楽しんでいるような、バカにしているような感じだ。野次ではなく、全く身の入らない演劇の練習風景のよう。子供じみているというか、これで面白いと思ってるのか、コイツ等は本当に思考能力ゼロの野次馬レベルなメンタリティだよな。

今をときめく文春によれば、甘利辞任後の後任に爆弾野郎・石原を持ってくることで自民党の支持率は10%以上落ち込むが、それでも安倍首相は選挙になれば民主など全く敵ではないと余裕過ぎる自信を持っている、と分析していた。僕も、その通りだと思うよ。報道ステーションしか観る番組がない人間のような消去法的思考で選んでもそうなるし、積極的思考で選ぼうとしても、民主に入れる人間がどれだけ居るんだ、って話だ。
 
 
■ポトフはフランスだってーの
得体の知れない坊主。底の知れすぎている民主党。思い込みや自分勝手や知ったかぶりと、真実とはかけ離れた様々な想念がTVに飛び交う。嘘を付いてはいけない。だけど発言するならその根拠や自信をある程度備えてから発言した方が良いかもしれない。

今日、夕食で出されたポトフについてもそうだった。最初、ポトフがどこの国の料理なのか思い出せなかった僕等。その内、嫁が「フランス、だったっけ? 発音がそれっぽい」などと持論を展開した。まあ、まさしくフランスの家庭料理というのが正解なのだが、僕は何を思ったか、「ロシアだよ、ロシアっ!」とやけに自信満々に反論してしまったのだ。何故か知らないが、とてつもない自信があった。根拠などなく、きちんと調べたこともない、イメージだけの言葉だったと今では反省しきりなのだが…。

多分、ロシアの「ボルシチ」を最初イメージしてしまったのだと思う。そのボルシチの下位互換料理がポトフだという独自解釈。さらに拳銃の「トカレフ」も頭に浮かんだのは間違いない。むしろこっちの方が影響力が大きかった。その「トカレフ」という発音が「ポトフ」に似ているので、脳内変換により「トカレフ≒ポトフ」のような方程式が僕の中で勝手に確立されたのだ。

トカレフ→ロシア
トカレフ≒ポトフ
ボルシチ>ポトフ

三段論法。後で今一度調べ直すという行為を怠っていたら、一生このままポトフはロシアの料理だと自分理論を豪語し続け大恥をかくところだった。民主や報道ステーションの坊主の仲間入りをするところだった。
 
 
ちゃんと、調べてから言おう。その場で一旦立ち止まって調べよう。あるいは後で調べ直そう。俗世に留まり続けるためには欠かせない。


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20160215(月) 付け焼刃の鍋ダイエットが始まる

160215(月)-01【2300頃】餃子鍋(醤油味)《家-嫁》_01 160215(月)-03【2340頃】ラヴィアンレーヴバレンタインチョコ《家-嫁》_01

【朝メシ】
無し(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
餃子鍋(醤油味)、チョコ、納豆(家-嫁)
 
【イベント】
仕事
  
  
【所感】
■往生際悪きダイエット
今週一杯、一時的に酒を絶つことにした。かつ、炭水化物の窃取もやめる。すなわち米を炊かないということ。土曜日までに多少なりとも痩せなければならないからだ。小学生の時、僕等の結婚式に参加してくれ、今は大学生活を満喫している嫁の友人の甥が飲み会に参加するため、少しでも引き締まった自分を演出する必要がある。

本来なら、もっと早くに着手せねばならなかった案件。今月初めから参加は決まっていた。そこから会合の当日まで約3週間あり、それだけの期間があれば、ベスト体重に持っていくことは決して不可能ではないはずだった。昔の自分ならば。朝ジョギングして、夜に筋トレをする。そのサイクルだけで事足りるはずだった。

しかし結局動き出すことが出来ず、一週間前の今日を虚しく迎える。何度も「走れ、今日は走るんだ」と叱咤しても布団にスッポリ包まった四肢は微動だにせず、「やるんだ、腹筋を、それだけでカッコいい逆三体型になれるじゃないか」と呪文のように心の中で唱えつつ、漫画を読む手が止まらない。目標の意味を忘れかけている。覚悟が足りない。現実から逃避している。ホントこの体たらくには参る。

なのでせめて付け焼刃として、食事の摂取量を控えるという、策としては最も下の下を洗濯する。選択せざるを得ない自分の弱さが身に染みる。そんな一時的に食事を減らすなんて方法は、ハッキリいって何の意味ももたらさないと自分自身が一番知っているつもりなのだが。

しかし、それでも一つだけ、今年に入ってから続けているトレーニングがあった。歯磨きをする時、洗面台に立ったり椅子に座って磨くのではなく、片足で立ちつつもう一方の足を後ろに蹴り上げるように伸ばし、上体を地面と平行にさせるポーズを取りながら歯を磨く、という習慣だ。女子フィギュアスケートで片足を後ろに上げながら滑る時のポーズというか、ヨガではウォーリアースリーなどと呼ばれるようだが、表を磨く間は右足、裏を磨く時には左足に入れ替える等の自分なりの手法でやっている。この体勢で2~3分歯を磨くわけだ。

これが結構辛い。よって何かしらの効果はあると判断している。そのポーズを取っただけでも腰は相変わらず激痛だが、それを言ったら何も出来ないので、可能な範囲では鍛えたいところ。いわゆる隙間時間の活用だ。この考え方は間違っていない。何しろ、最初の頃は歯磨きを終えた瞬間、立っていられなくなる程の痛みと疲労が襲っていたのが、今では大した負荷を感じない。こんなちょっとした動作でも1ヶ月半続ければ成果は実感できるということだ。

もう一つ、今月に入ってからだが拳立て伏せもほぼ毎日続けている。朝出かける前に30回から始まって、日が経つ毎に回数を増やしていく。今では40回までこなせるようになり、そこまで疲労もしない。1週間前からは、さらに夜帰宅した直後も同回数やっている。面白いもので、鏡を見ると胸筋が多少だけ盛り上がり、胸に割れ目が出来ているのが確認できる。たったそれだけの継続で、ここまでの効果が期待できるのだ。

しかし、その40回にしても、少し前に比べれば飛躍的成長だが、かつては10kgのウエイトを着用して60回とか普通にやれてたことを考えると、やはり現実的には相当に衰えたと言える。

そもそも、ヨガのポーズを1ヵ月半続け、かつ拳立てを2週間ずっとやり続けても、体重は現在の69kgから殆ど減っていないのだ。かつては3週間で70kgから62kgまでダウンさせることが、しかもしっかり筋肉を付けた上での絞り込みができたことを考えると、成果に対する時間効率、即ち密度が果てしなく薄まっていると言わざるをえない。つまり好意率が悪く、無駄な時間ばかり使っているということ。体力以上に気力が落ちている。

密度の薄さはトレーニング以外の局面でも自覚できる。たとえば仕事で一つの提案書を作るのに今までの2~3倍の時間が掛かったり。しかも一回で終わらせ切れない、集中力が途切れるというオマケ付きだ。

10日前にヨドバシで買ったACアダプターのタップも未だに取り替えていない。メールやメッセージにレスポンスするのですら2時間後とか、下手をすれば2~3日後なんてこともザラ。悪くすれば返信せずにシカトというケースも多発している。何かにつけてスピードが遅くなり、文字通り腰が重くなった。そんな面倒なことをするより、亀二の膝枕でウダウダと寝ていた方が幸せなのだ。

それに反比例するように、時間間隔は鈍る。長い時間が経っているはずなのに、短く感じる。何もしていない内に活動時間がなくなっていた、なんて感じ方をずっとしている現在の状況はかなり危険水域なのかもしれない。

とにかく多少なりとも覚醒するために、少なくとも歯磨きの件と拳立て伏せは今後も続行し、できるだけ早く通常の本格筋トレも定着させる。そして走る。今すぐ出来るとは思えないが、ここ一週間、食事制限程度という基礎の基礎くらいは堅守したい。

その点、鍋は有用だ。腹も膨れるし、具材も殆ど野菜なので身体に残らない。さらに栄養もあり、何より美味しい。ダイエットには野菜サラダが一番。それが無理なら鍋が次善の策だと確信を持つ僕だった。

夜食でチョコを食ってしまった僕が言えた義理じゃないが、それでも鍋はいい。鍋は様々な観点から料理界の救世主であり完成型。


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20160214(日) バレンタインの日にボクを包む漫喫の薄暗い光

160214(日)-01【0745頃】ズーロジーカメチョコ亀子さん《家-嫁》_03 160214(日)-02【0745頃】バレンタインショコラ《家-嫁》_01 160214(日)-03【1000頃】自作カメパン、目玉焼き《家-嫁》_01 160214(日)-03【1000頃】自作カメパン、目玉焼き《家-嫁》_05 160214(日)-03【1000頃】自作カメパン、目玉焼き《家-嫁》_06 160214(日)-03【1000頃】自作カメパン、目玉焼き《家-嫁》_07 160214(日)-03【1000頃】自作カメパン、目玉焼き《家-嫁》_08 160214(日)-05【1315~1815】漫画喫茶イソップ ボクを包む月の光、キャプテン翼他、《西新井-嫁》_02 160214(日)-05【1315~1815】漫画喫茶イソップ ボクを包む月の光、キャプテン翼他、《西新井-嫁》_06 160214(日)-05【1315~1815】漫画喫茶イソップ ボクを包む月の光、キャプテン翼他、《西新井-嫁》_08 160214(日)-05【1315~1815】漫画喫茶イソップ ボクを包む月の光、キャプテン翼他、《西新井-嫁》_09 160214(日)-06【1920頃】イオン西新井亀二プレゼント カーディガン《家-嫁》_03 160214(日)-06【1920頃】イオン西新井亀二プレゼント カーディガン《家-嫁》_05 160214(日)-07【2000頃】バチマグロ柵刺身、キムチ鍋 真田丸《家-嫁》_01 160214(日)-07【2000頃】バチマグロ柵刺身、キムチ鍋 真田丸《家-嫁》_03 160214(日)-07【2000頃】バチマグロ柵刺身、キムチ鍋 真田丸《家-嫁》_09

【朝メシ】
アイスコーヒー、自作カメパン、目玉焼き(家-嫁)
 
【昼メシ】
フリードリンク 漫画喫茶イソップ(西新井-嫁)
 
【夜メシ】
バチマグロ柵刺身、キムチ鍋(家-嫁)
 
【イベント】
亀パン自作、漫画喫茶イソップ、真田丸
  
  
【所感】
■バレンタイン
2月14日はバレンタインデー。その起源は3世紀まで遡ったローマ帝国時代。時の皇帝の意向に従わず男女の愛を唱え続けたため処刑されたキリスト教の聖職者・ウァレンティヌス(バレンタイン)にちなんだ記念日とされる。

逸話の詳細については3年前、同ブログで自分なりに調べたようなので割愛するが、

(3年前)

20130214(木) バレンタインデーにおける無限すぎるチョコのやり取り

愛の伝道師として崇高な殉教を遂げた彼は後世聖人に列せられ、時の経過に伴い聖人ウァレンティヌスに由来する2月14日は愛を確かめ合う日、とりわけ恋人同士など男女の愛を深める日だという認識が、教会の地道な啓蒙活動によって定着した。慣習というより、もはや教義のレベル、公式イベントとしての地位をキリスト教内にて築くに至る。

キリスト教と言っても、カトリックを始めとする西方教会の勢力圏でのみ浸透する記念日だ。西方教会の影響力が及ばない東方諸教会、正教会エリアでは、聖ウァレンティヌスの存在も飛び抜けた位置付けではないし、男女の愛を謳うバレンタインデーという概念も盛んではない。西方教会と東方教会の明らかな価値観の相違は、まさしくお互い相容れないアメリカとロシアの構図そのものだ。

日本においては、そのアメリカの価値観、すなわち西方教会的な価値観を多く取り込んできた歴史もあり、バレンタインデーはクリスマスに匹敵するメジャーイベントだ。かと言ってキリスト教徒でもないため、欧米諸国のように信者としてのキリスト教的解釈にあまり捉われもしない。男女間の愛情表現という教義に独自解釈を加えてアレンジするのが日本流である。別にバレンタインでーに限ったことではなく、今に始まったことでもない。

結果、チョコの拡販を至上命題としたイメージ戦略を根幹とした商業主義的イベントが日本のバレンタインデー。天文学的なチョコと、年代によってはちょっぴり甘い気持ちとが、束の間日本国内に乱れ飛ぶ。

宗教的基盤や根拠があるかどうかでイベントの考え方や接し方は大きく変わる。宗教的基盤がないことは、柔軟で自由な発想の土壌にもなり、無節操の温床にもなり得る。少なくとも、日本ほどあからさまなアジテーションをするバレインタインデーは世界のどこにもないのではなかろうか。ローマ教皇も嘆く案件。これまで推定5000億部は発刊されたという世界一のダントツロングセラーである聖書を駆使して全世界への布教を果たした西方教会の想いも、ここ極東の島国には未だ届いていない。

とりあえず今年のバレンタインは、嫁から手作りのショコラパウンドケーキと、梅島の名店ラヴィアンレーヴのチョコを、それから義妹からチョコ少々、あとはメスのウサギからタバコを一箱もらって終了。至って穏やかなイベントだったが、これくらいでちょうどいい。
 
 
■今度はキャラパン
朝メシは自作の亀パン。いつものパンレシピをさらにアレンジした、いわゆるキャラパンだ。通常のちぎりパンをクリアし、チョココロネやソーセージパンへと発展し、そして今度はキャラパンへとステップアップする。もう殆どのパンが作れるんじゃないかというレベルまで達した模様である。続けるってスゴイ。

宝島社から発売された型付きのパンレシピ本「日本一簡単に家で出来るちぎりパン」。強力粉とイースト菌、他基本的な調味料と、レシピ本に同梱されている型を使うだけで美味しいちぎりパンが誰でも焼けるという触れ込みで、実際その通り簡単にできたと絶賛する消費者が続出した。誇大広告や看板倒れの商品が氾濫する中、久々に出てきた後悔しない買い物だ。こういうのを真のヒット商品と呼ぶ。

その「日本一簡単に家で出来るちぎりパン」を活用し、同梱のエンゼル型やスクエア型のちぎりパンをマニュアルに忠実に作っていくのが第一段階。何度か作っていく内に、薄力粉を水でこねる力加減、硬さ加減、温度調節などを微調整していき、より理想的なパンに近付いていくだろう。表面はパリッと小気味よく、中身はフワッと軽い。水気は少なめで、柔らかいけどモチモチしすぎない食感。これが恐らく同レシピ本で辿り着けるスタンダードちぎりパンの最終形だ。繰り返し焼いていた愛用者はそこに辿り着いたはずだし、嫁も既にその領域に達した。

そんな彼等は第二段階に移る。基本形のちぎりパンを型で焼く際、ジャムやバター、チョコ、あん、クリームなど甘味物を混入したり表面に塗ったりして菓子パン風に加工する。あるいはハムやタマゴ、野菜などを挟みサンドイッチとして楽しむ方法だ。内から外からアレンジを加え、ただのちぎりパンを色彩と味わいに富んだものに変化させる。レシピ本にもそのアレンジ法は多数紹介されているし、第一段階をクリアした者なら誰もが試みる道だろう。

同時に、その時点で同梱の型をもはや使用せずとも形状を手製できる技能を修得している状態とも言える。レシピや型という今までのレールに乗っかった状態を脱し、自分自身でレールを敷いていく。好きなパンを、思う形で、思う味付けで創造するという、無から有を創り出す段階だ。イミテーターからクリエーターへとクラスチェンジしたのだ。

今回の亀パンもまたクリエーターの領分。なかなか美味いパンだった。もはや僕では手の届かぬ境地を目指し、嫁は自らのパン工房を今後も進化させていくだろう。ちなみに亀の顔は僕が描いたが、亀LOVEだけに、パンがまるで生きているようで、僕等をつぶらな瞳で見つめているようで、なかなか手を出すことができない。豚を飼っている人間が豚を食うのを躊躇うように。
 
 
■漫画喫茶頻度向上
昼からは西新井の漫画喫茶「イソップ」へと向かった。別段強い要望ではなかったが、どうもこのまま家に篭っているとTVを見て夜が終わるだけだったので、それよりは家にないタイトルを呼んで知識の幅を広げた方がマシだと考えた。前回訪問した際、途中までで読み残した漫画もある。

嫁は漫画喫茶という場所自体が新鮮だからいいだろうが、ずっと前に漫喫を極め尽くした僕にとっては退廃の象徴。ここ5年は殆ど使っていなかったのに、今年に入ってもう3回目だ。あり得ないペースというか、まさか漫画喫茶という選択肢が復活するなんて思ってもみなかった。

だが、家に篭るよりは情報の幅が広がることに間違いはないと思う。また現在の心身的ステータスでは、アウトドアや街散策に出かけるほどの気力が全くない。それならば家の外に出る分、生産的と言えば生産的。ニートよりはよかろうなのだぁー、ズバァーッ。
 
 
■読むペースは衰えず
とりあえず3時間パックで1000円のコースを選択。僕は前回読みきれなかった日渡早紀「ボクを包む月の光」をテーブルに積む。そしてフリードリンクを机に置き、途中まで読んだ4巻から最終15巻まで一気通貫で読破した。

まさしく前作「ぼくの地球を守って」を読んでから10年以上越しの邂逅。今まで気付かなかったのが不思議なくらいだが、いつだったか同作はイマイチだという批評がネットに載っていたため「なら読む必要もないか」とその時点で気持ちが向かわなくなっていた記憶がある。しかし実際手に取って読んでみると結構面白かったと思われた。
 
 
■ボクを包む月の光
そう、「ボクを包む月の光」は僕にとってはかなり没頭できた。オレ等は幸せになっていいと口では宣言し続けていた輪が、しかし内心では紫苑の境遇に思いを馳せるあまり、中学生になってもずっと孤独なままという孤高な姿とか、その輪がラ=ズロと邂逅を果たして思わず抱きついた場面とか、もう14巻あたりからボロボロ涙流しちゃったよ。

最後は少女漫画のセオリーよろしくキャラを全員集合させて各々の顛末を語りたいがため、一気に詰め込みすぎて逆にクドくなってしまったが、それもファンサービスの一つと考えればアリだろう。

同作は「ぼく地球」メンバーの子供世代、つまり次世代編という位置付けにはなっているものの、実際は前作の主人公・小林輪と、その妻になった亜梨子が中心。そこに木蓮と紫苑を必要以上に登場させ、前作からの、そして前世からの決着を全て付け、今度こそ本当の大団円で終了させている。

特に輪の存在感と掘り下げ方はハンパなく、息子の蓮や未来路の娘であるカチコなんかは設定的には主人公クラスだけど、実際は輪の物語をトゥルーエンドで畳むためのパーツ、殆どオマケに近い。悩める輪の、真の心の解放とその過程を描いた物語が同作の真意であろう。

それを完成させるために必要な存在ガ、全ての支えである亜梨子と、ある意味元凶である紫苑と木蓮。誰もが納得するキャスティングだ。そこに前作では同じ異能者だけど外から見れる部外者でもある未来路を解説役として大いに露出させる。元々謎の多いキャラだったし、しかもイケメンなので読者的にもウェルカムだ。

反面、迅八や大介、春彦など、前作の核だったかつてのムーンドリーム仲間達の出番は殆どなくなり、存在感はほぼ皆無。無理もない。このキャラ達は前作「ぼく地球」で殆ど伏線を回収し尽しており、今さら出しても大して湧かない。年齢も前作で高校卒業間近だったので大して未来もない。本作では今どう生きているか、何をやっているか、その程度が描写されていれば十分なのである。結局、前作終了時にまだまだ発展途上の小学生であり、心に抱えた影や闇を十二分に残していた輪くらいしかキャラが立たないのである。

よって、本作の重要キャストは輪、ひいては紫苑に関わりの深いキャラに当然絞られていく。読者としてもその方が面白い。今さら迅八や玉蘭見せられたった面白くも何ともない。それよりは、ラ=ズロでありキャーであり、最長老やモードである。そういった前作で無念にも消えてしまった人々を絡ませることによって、輪や紫苑に圧し掛かる過去や前世への重苦しさを解放する。これが本作のテーマだ。

今さらラ=ズロを出すなんて余りにご都合主義的に過ぎると思いつつ、本心ではそうあって欲しかったはずの読者としては、やはり涙無しに見られないのである。「ボクを包む月の光」は、文句なく物語を完結させた「ぼく地球」に感動しながらも、心の中では儚く散ったキャラ達に無念の涙を流し、だからこそ今少しの救いを求めていたであろう読者達に向けた、いわばファンサービス的な作品。長年「ぼく地球」を愛し続けた読者への、日渡早紀からのプレゼントである。

だから「ボクを包む月の光」が完成度の面で「ぼく地球」に遙かに劣るとしても、「ぼく地球」のキャラを使い回しただけの劣化版だと言われたとしても、読む人間が読めば名作足りうる。少なくとも僕は、「ボクを包む月の光」を完読できてよかった。「ぼく地球」の物思いがしっかり払拭できた分、読まないより読んだ方が良い続編だ。黒歴史になってしまう続編より遙かに上等であった。
 
 
■キャプテン翼
ひとしきり涙を流した後、まだ時間が余っていたので適当にジャンプ漫画でも探索してみる。文字がそれほど多くなくてアッサリ読めそうなものは・・・。おお、「キャプテン翼」があるじゃないか。懐かしい。最終巻近くからエンディングでも確認するか。というわけで、残り時間はキャプ翼を延々と流し読みするが。

面白いじゃないか。現代のリアルを追及しすぎたシステマチックなサッカー漫画にはない自由さと独特の熱さがある。高橋陽一チックな古臭さがまたいい味を出している。いつの間にか明和小学校編などにまで遡ったりと、意外にものめり込む。やはりキャプ翼は一時代を築いたサッカー漫画の金字塔だと再確認した。サッカーブームに火をつけたのは、ファンタジスタやシュートや俺たちのフィールドでもなければJリーグでもない。キャプテン翼だったのだから。その日本サッカーへの貢献度は計り知れない。
 
 
■延長
そんな感じで予想外にキャプ翼にハマっている内に3時間パックの終りが近付いてくる。いつでも終われるが、キャプ翼を読もうと思えばいくらでも読めるのも確か。どうするか。

嫁を見ると、よく分からない少女漫画を読んでいる。西新井温泉の休憩室で見たタイトルの続きということだが、全25巻あるらしい。そして今の段階で6巻くらいまでしか進んでいない。何て読むのが遅いんだ。慣れてない分、漫画の読み方を分かってないな。

その嫁は、制限時間が近付いてくると、「もう帰る?」と明らかに「もっと読みたい延長してくれ」オーラで僕を見る。盛り上がっている途中で断絶するのは断腸の思いだというのは重々承知している僕は、とりあえず2時間ほど延長した。それでもこのペースではせいぜい10巻がいいところだろうな。

実際、延長2時間が過ぎた時点で、嫁はちょうど10巻を過ぎた辺りだった。目をウルウルさせて、まだまだ読みたそうな風情だが、これ以上の延長はコスト的にも効率が悪い。残念だが今日はここで打ち切りとする。いつか、その続きを読める日も来よう。終わらない物語はないのだから。

僕も、時間一杯までキャプ翼のワールドユース編やらライジングサンなど続編も読みながら、ワールドユース編最後のページをパタリと畳む。そのページに描かれた、余りにも有名な翼とあねごの結婚式の全員集合写真。後にネットのネタとして多用される選手達が肩を組んだ15頭身画像すら及びもつかない最大30頭身くらいありそうな高杉そして次藤の等身伝説は、ここから始まったのである。
 
 
■刺身と鍋
情報補完の観点では有意義だったような、大人の休日としては堕落で不毛な時間帯だったような、思考能力が低下し、かつ腹が減った今の状態では判断が難しい。だが「ボクを包む月の光」で長年の伏線が回収できたことを考えれば、やはり得るものは大きかった。

腹が減ったので、イオンで買ったキムチ鍋の素を使ってキムチ鍋を今日は食べる。ついでに前菜として、刺身も用意。アジを下ろす余力が無かったのと、他の安価な柵がなかったことで、結構高級なバチマグロ中トロの柵を買ってしまった。前菜と言っていいのかどうか。それでもさすが中トロ、まさしくとろける美味しさだった。十分メインを張れる。

さらにそのイオンの店頭に並んでいた衣類の特売セールにて、亀二のために3Lのカーディガンを土産に買う。人間があまり着れないビッグサイズとはいえ、2000円ちょっとだ。シャレにしては高い買い物だが、亀二が暖かそうにしているのを見ると幸せな気分になる。自分等の服などそっちのけで、ぬいぐるみのための洋服購入に日々勤しんでいる僕等だった。

キムチ鍋もまた暖かい。沸騰するスープに唐辛子の辛さが混ざり合い、この上ない幸せ。僕は鍋料理の中で何が一番好物かというと、キムチ鍋が最も大好物である。恐らく同じような意見を持つ人間も多かろう。身体の温かさと、細胞の活性化と、美味しさと、刺激と、そして幸せを運んでくれるキムチ鍋。これからも僕は、キムチを愛す…。
 
 
■時の経過は矢のごとしで
こうして終わった日曜日。英語の勉強をしても、パンを焼いても、刺身を切っても、漫画を読んでも、テレビを観ても、時間の進みは変わらない。自分の貴重な時間を費やしているのである。もう、2月も半ばである。


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20160213(土) 北斗のマンとモンベルの熊

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【朝メシ】
アイスコーヒー、ロッテ北斗のマンチョコ、セブンイレブンケーキ(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作ナン、グリーンカレー、レッドカレー、嫁自作バレンタインショコラ(家-嫁)
 
【夜メシ】
アジ三枚下ろし刺身、鯛柵刺身、ポテトサラダ、スコーン(家-嫁)
 
【イベント】
おさるのジョージ、ひつうじのショーン、西新井温泉、パサージオ(モンベル キャンピングトートバッグL、ガンメタル、オレンジブラウン物色)、アジ三枚下ろし、アド街ック天国~上野広小路~
  
  
【所感】
■おさるのジョージが目覚まし代わり
8時30頃、枕上でまだ夢心地な僕の耳に、隣のリビングから「さあ行こうジョージといっしょにっ!?」と、まるで唄い手の岩崎良美が視聴者に問い掛けるがごとく『おさるのジョージ』のOPテーマが流れ込み始める。もうそんな時間か。しかしそう思いつつも、悪い、眠くてジョージと一緒に行けないそうにないわ。身体が動かない。もっと寝たいと大脳が否定する。もうこのままサルのようになりたい、と。別に見なくても大丈夫だろ、と。

しかし人間であるからには、いずれは起きなければならないのも知っている。生存するために、いや死なないために必要な義務なんだ、と。どうせ起きるなら、この「おさるのジョージ」にタイミングを合わせる形でさっさと覚醒してしまった方ガ自分のため。逆に、ここを逃すと止め処なく予定が後ろに倒れていきかねない。

そのグッドタイミングとバッドエンドとを別つ狭間の時間帯がまさに今なのだ。チャンスは今しかない。よし、そうと決まれば起きるぞ。いくぞ、いくぞ~。撃つぞ、撃つぞ、撃つぞぉぉ~っ…。

硬直中の身体を意志の力で無理矢理動かすため気合と共に各細胞もスタンバイ。OPテーマが少し進み「しらないこと~っ、たくさんあるよね~っ♪」というフレーズに差し掛かるあたりのタイミングで、僕も「「あるよね~ッ!」」と力一杯ハモりると同時に、腕立て伏せするように両腕で反動を付け、一気にビクンッとバネのように布団から飛び起きる。

そして寝室を立ち上がった僕は、既にTVに釘付けの嫁が猫のように背を丸めながら座る隣のリビングへと、「ふしぎなこと~、いっぱいあるよね~っ♪」という岩崎良美のリズムに合わせるように腰をクイックイッと振りながら前足を交互に出し、満を持してリビングルームに登場するのだ。

「おはようっ♪」

こうして、毎週土曜朝恒例の『おさるのジョージ』および『ひつじのショーン』視聴会が始まる。幼稚園児より張り切って観るのがオトナ流である。
 
 
■セブンプレミアム
朝メシというか、ちょっとしたオヤツに昨日セブンイレブンで購入したケーキを食べた。生クリームをたっぷり使った、というかスポンジ2、生クリーム8のほぼ純正生クリームケーキというしつこいほどの生クリームぶりだが、それがまた良い。ハッキリ言って美味すぎる。かぶりついた瞬間、真っ白で蕩けるような生クリームが唇の周りをベットリと覆い、だけどまだまだ残る生クリームの丘は底が見えない。舌を突き入れても尚その奥に届くことなく、フワリとした甘美な感覚が舌に纏わりつく。そんな前も後ろも上も下も生クリームな状態。生クリーム尽くし。

確かセブンプレミアムブランドだったはずだが、この生クリームケーキに限らず、例えばスライスチーズとかブロックチョコなんかにしても、セブンイレブンのオリジナル商品はクオリティが遙かに高いよな。他の大手コンビニの追随を全く許さないレベル。下手をすればナショナルメーカーに比肩するか、アイテムによっては上回るのではないかとすら思える水準の高さだ。

そんなレベルの高い商品を定期的に輩出しているセブンアンドアイホールディングスは、やはりイオングループと小売業のトップ争いを繰り広げるだけの力があった。ナショナルブランドに比べ安くて質も悪い、というイメージを払拭しつつあるセブンプレミアムという名のプライベートブランド。その高い品質に応じて今後も売れに売れていくだろう。製造を委託されたメーカーは嬉しいやら悲しいやら…。

セブンに頼りすぎ、その販売力に拠り掛かり続けていると、セブンに見捨てられたら生きていけないという弱みを盾に取られ、ますます顎で使われ無茶難題を要求される可能性だけは常に頭の片隅に置いた方が良いだろう。米アップルの委託生産比率が高すぎて、一社掛かり切りの状態のリスクを分散するためシャープを買収に意欲を示した台湾の鴻海のよ
 
 
■北斗のマンチョコ
それと同時に、ビックリマンチョコのようなウエハースチョコがテーブルにポンと置かれる。パッケージには「北斗のマンチョコ」と書いてある。どうやらビックリマンチョコの北斗の拳バージョンのようだ。ケンシロウやシンがまるでビックリマンのごとくデフォルメ化されている。そしてビックリマンと同じく、キャラシールが同梱されていた。こんなものが発売されていたとは。ロッテは相変わらず同じようなことをやってるな、と苦笑する。

シールは全部で24種類存在するらしいが、コンプリートしたい子供がいるのかどうか。いや、そもそも北斗の拳の時点で子供向けではないわけで。ビックリマンチョコに熱狂した世代が現在ちょうどいい大人になっている事実を考えれば、むしろその大人達のマニア心に訴えかけた商品であることは疑いない。

ロッテは他にもキャプテン翼や初音ミク、パズドラ、ももクロなど、どうみても少年少女向けでないコンテンツとビックリマンをコラボさせた菓子ばかり発売していたようだし。小遣いの少ない子供よりも、菓子程度では財布の痛みをまったく感じない大人達のついで買いや大人買いを狙った戦略へと転換しているのが分かる。結局、金を落とすのは大人なのだと、ロッテはよく分かっている。

まあ、それでも熱心にシール集めするほどの希少性があるかと言えば疑わしいが。今回、僕が出したシールは「シン」。どう見てもザコである。持っていてもしょうがないと感じる。もう1つは「スーパー原哲夫」という、北斗の拳の作者本人をデフォルメ化させたシールだが、背景も特別性のあるピカピカシール。ビックリマンでいうところのスーパーゼウス的位置付けだとすぐに分かる。だがファンタジー世界の物語に関係ないリアル作者など子供にとってはお呼びじゃなかろう。この辺りの遊び心から考えても完全に大人向けである。

いずれにしても雑。シールの裏面には、ビックリマンシリーズ御馴染みの裏面説明文のような文章で煽りを入れているが、「南斗六星殉星の宿命背負う孤鷲拳の伝承者はケンシロウに七つの傷を刻み恋慕うユリアを強奪し暴力組織KINGを興すのだ!!」と、ハッキリいって解読し辛い文章。というより文章が下手すぎて読む気が起こらない。完成度はあまり高くない商品とも言える。

その文体はワザとかもしれない。ビックリマンチョコの裏面説明もファンタジー用語満載の意味不明説明文だったことから、雰囲気を似せるため敢えて分かりにくく書いているのかもしれない。だからと言って、そこまで雰囲気を似せなくとも。どうせ買うのは大人なんだから、大人向けのしっかりした説明文に仕上げた方がコレクター心を多少は刺激するんじゃないだろうか。

先述のキャプテン翼他、ビックリマンは十数種類のコンテンツとコラボしている。つまり一つの一つの商品が長く続いていないということ。元祖ビックリマンのようにロングセラーにはなりえないということだ。つまり期間限定的な位置付けで、マックの季節バーガーのようなもので、それは即ち使い捨て。その使い捨てデザインをフォーマット化し、姿形を少しずつアレンジさせて、累計として数を売って行く。これがロッテの戦略だろう。北斗のマンもその使い捨ての駒の中の一つ。

だからこそ、コレクターの対象にはならない。一時的なネタとしてブログやSNSに載せられて終了である。ただ、チョコウエハースは相変わらず美味いので、おやつとしての菓子を求めるならば買う価値は十二分にあった。
 
 
■ビックリマンチョコとは
それにしても、ロッテの戦略の源流となった往年のビックリマンチョコとシールに纏わる数々の逸話がレジェンド化して久しい。今回の北斗のマンに限らず、それがポケモンだろうと妖怪ウォッチだろうと、あんな異常事態は二度と起こらない。コンテンツの人気や売上げ規模でなく、仁義なき争いの火種という点でビックリマンシールは悪魔のアイテムだったのだ。

ビックリマン全盛期の爆発力や子供達の熱中度、それは狂気と言い換えてもいい逸話。平等や公平の思想、他人への遠慮などの教育が浸透していなかったあの時代だからこそ成り立った現象だ。自分の心に正直な、欲望剥き出しの昭和40~50年代の無法時代だからこそ…。

レアシールやアイテムの偏りをなくし、なるべく大勢の子供達にレア気分を味合わせてあげるべきだなどという公平思想は上辺の綺麗事に過ぎないと、他ならぬ子供達が本能で分かってた。レアシールは入手しにくいからレアたりえるのであり、スーパーゼウスやヘッドロココが頻出したら意味がないと。友達に自慢できないと。優越感を感じられないと。

友達の上に立つのが正義でありヒーローの条件であるのは、昔も今も変わらない。その証拠に、なるべく公平にと謳いながらも、結局ポケモンや妖怪ウォッチでもゲームという電子世界の中でレアキャラはしっかりと存在し、それが欲しくてたまらないから子供達は身をやつす。かつてファミコンのドラクエやFFで、死神の盾やオメガの勲章を得るために死に物狂いになっていた当時の少年達と何も違わない。大人だって、クルマでもバッグでも酒でも、ビンテージやレアという響きに弱い。出来ることなら手に入れたい。羨望の的で見られたい。

そもそもレアでなければ誰も欲しいと思わないのだ。欲しいと思うからには誰かに見せたいと心の中で思う。相手が気付くのを待っている。そのためにさり気なくアピールしたりもする。そうでなければ買う甲斐などない。

心の底から汎用品でいい、むしろそれが最高なのだと言い切る人間であれば、300円のガンタンクでも十分。部屋に飾って誰にも漏らすことなく、部屋の中ただ一人で見入り、この上ない恍惚感を得られるはずだ。しかし実際はそうはならない。ガンタンクよりもガンダムが、それよりもフルアーマーZZが、可能であればデンドロビウム80分の1スケールを買いたいはずだ。差をつけるために。

世代に関係なく、レア物やビンテージ物は他を圧倒する力を持つわけで、関係ないと言葉で言いつつも、裏では必死に入手工作への糸口を探るのが人間。その本能はDNAに飢え付けられている。別に何でもいいじゃないかと言いながらも、いざ買いにいくとなるとなるべく高い有名ブランドのランドセルを買ってあげようとする親の心理のようなものだろう。見栄を張りたい、張らせたい。これである。

よって、その欲望を隠さず、また歯止めをかける存在も少なかったビックリマンシール時代には、ありとあらゆる手でレアシールを入手しようとする子供達が増殖し、それを逆手に取って偽物を売り付ける業者も続出する。

シールだけを取り出してチョコウエハースを食わずに捨てるという子供達のモラルハザードの件はあまりにも有名だが、それはあくまで副産物的な事象だったと当時の少年達は身に染みて分っている。彼等はただただレアシールが欲しかったのだ。差を見せ付けたかったのだ。持てはやされ、崇めたてられ、服従させたかっただけである。

だから売り手としても、レアと言ったらとことんレア。レアシール同梱確率を緩めるなんて情けを掛けるなど当時のロッテに有り得るはずもなく、子供達も多分別にそれでよかった。

だがそれではいけないと誰が言ったのか知らないが、先のチョコウエハース大量廃棄事件やレアシールを巡る犯罪まがいの世界に業を煮やした公正取引委員会(だったか?)の指導によって、ロッテはレアシールが出る確率を相当高めざるをえなくなった。結構簡単にレアシールが手に入るようになった。だがその途端、ブームは一気に下火になってしまった。つまり子供達はレアシールが欲しかったんじゃなくて、他の子供等では奇跡でも起こらない限り簡単には手に入れられないレアシールが欲しかったのだ。

レアじゃないレアシールなど、結局誰も見向きもしないのだという真実をありありと証明した逸話であった。

その逸話の分析ゆえか、たとえば数年前、親戚の家に遊びにいった時、ポケモン系の何とかコインだったかカードだったか、子供達の中で随分流行った玩具があったのだが、そこでもレアなモンスターが結局は存在していて、そこの子供もえらい勢いで欲しがっていたものだ。少年達はそのレアモンスターのコインやらカードを何とか手にしたいと親に泣きつき、実際に持っている友達を超羨ましがっていたのを覚えている。やはり、昔も今も変わらない。レアは社会に必要な必要悪ということである。
 
 
■ナンを作る
昼飯には、嫁は日本一簡単に家で作れるちぎりパンで余った薄力粉等を使ってナンを作る。そこにレトルトのタイカレーを添えて食う。インド料理まで手を出し始めた嫁のパン作りも日本を離れ、遂に海の外へと進出していく。やり始めたら止まるところを知らない。人間の潜在能力の一端を垣間見た気分だった。
 
 
■引越しの挨拶
午後、呼び鈴が鳴ったので玄関口に出てみると、同じマンションの二階に住む住人さんだった。2年ほど前に引っ越してきて夫婦揃って挨拶に来た律儀な人等で、僕等も好感的に思っていた。そこから子供が二人生まれ、その子供も人懐っこい。他人同士、殺伐とした関係性が常識な昨今、貴重な存在と言えよう。

その家族が、この度引っ越しするという。嫁さんの実家である横浜に移るとのことだ。子供も生まれ、実家で二世帯住宅という流れだと予想するが、やはり一抹の寂しさはあるな。実際、顔を会わせることも殆どなく、朝や休日など鉢合わせた時に挨拶して軽く話す程度。基本的に赤の他人だ。それでも縁あって同じ空間に住んでいたという事実は確かで、その事実だけで十分親近感の根拠となる。

出会う人の、その殆どはいつか去っていくもの。分かっていても侘しさは残る。その家族は今日、退出の挨拶の粗品といって入ってきた時と同じく律儀に手土産を手渡してくれた。中身は雅な布巾。定番だが、知っている人から貰った品という事実が付加価値になるのも知っている。

恐らく今後二度と会うことの無いだろうその家族、それゆえにこの布巾だけが彼等と一瞬でも交わったことがあるという拠り所だ。僕等はその布巾を大切に使わせてもらおうと思い、この希薄ながらも義理と筋の通ったあの家族のことを今後も忘れないだろう。
 
 
■温泉とモンベル
その後はいつも通り西新井温泉で4~5時間ほど休息。帰り際、ショッピングセンターのパサージオ内にある100円ショップで少し買い物をする。アリオとイオンに大きく離され寂れきったパサージオでも、なぜかこの100円ショップはいつも人が多い。それだけでやっていけるとも思えないが。

そのついでに、同ビルにあるアウトドア専門ショップ「モンベル」も久々に物色。特大サイズのカメのぬいぐるみ亀二を持ち運び出来るバッグはないものかと5~6年くらいからこのモンベルを定期的に物色していたのだが、今回遂にその要望に適いそうなバッグを発見した。商品名は「キャンピングトートバッグL」となっており、ガンメタルとオレンジブラウンの2色がある。圧倒的に大きい。苦節遂に夢が叶う時が来るのか。激しく要チェックである。

それにしても、モンベルは大したもの。店舗が目まぐるしく入れ替わるパサージオにて、食品関係を除けば開業当時から未だ残っている店はモンベルくらいなものじゃないだろうか。それだけ安定した顧客が居るということであり、ブランド力が優れているということ。入口前に立っているデカいクマのぬいぐるみに握手した後、僕等はパサージオを後にする。このクマも、ずっと前からここに居る。ある意味、長年の友人、心の支えであった。

地下の家電量販店ノジマにも入ってみたが、予想の5~6倍はだだっ広いフロアの割に、客はいない。これはノジマの販売力やニーズの問題も皆無ではないが、何より立地が悪い。フロアに下りるだけで結構な労力を要する店だ。土曜日なのに下りエスカレーターを閉鎖してるって、節電のためという以前にヤバイだろ。
 
 
■最後はアジで締める
夜メシはアジの刺身。毎度の三枚下ろしからの僕の包丁捌きによる匠芸だ。捌き方や切り方を日々研究するのはもちろんとして、盛り付けも毎度なるべく違うように心掛ける。今回は花をイメージして。オプションとして、鯛の柵も購入し切って盛った。毎度思うが、鯛は脂がすごい。僕の名刀・緑川がギトギトになる。柵ではなく本物の丸ごと一匹から捌くと一体どうなるのだろう。いつか鯛のお頭付き姿造りを自分の力だけで作ってみたい。

そんなささやかな野望を胸に、土曜日を恙無く終わらせる僕だった。


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20160211(金) アツい「ど・みそ」鍋を食った後は、サムい大空で一人バイオハザードを演じる

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【朝メシ】
無し(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
みそ鍋ダイニング「ど・みそ」 新年会《八丁堀-嫁、職場同僚》
 
【イベント】
仕事系新年会、散歩
  
  
【所感】
■ど・みその実力は保証付き
有志のみで会社関係の新年会を本日行った。年が明けて1ヶ月半経った随分と遅い新年会だが、まあ大人にとって時期など大して関係なくて、飲む口実を探したり、行きたい店が出来たなどの即物的かつ俗物的な動機で動く適当な生き物だ。

しかも行き先は、既にその実力が保証されている「ど・みそ」のみそ鍋。一度食ったことのある僕等が絶対の自信を持って職場の人間に紹介したという流れにだった。まるで、明らかに西単騎待ちの国士気配を漂わす対面がワクワクしながらフリコミ待ちをしている局面で、既に西が河に3牌捨てられているどころか残り1牌を自分が抱えているという純カラ状態を知っている自分に内心ほくそ笑みながら、余裕の表情で無関係の6索を捨てるような安心感である。

「ど・みそ」は美味い。約束されたアガリと保障された平和。2-5-8三面待ち平和ツモアガリ待ったなしである。
 
そして予想通り、参加者の誰もが美味い美味いと絶賛していた。付け出しも、おかずも、みそ鍋も、(ラーメン専門なんだから当然)締めのラーメンも、全てにおいて皆が舌鼓を打つ。やはり成功。かつ飲み放題もプラス1800円で追加し、ビールを、ハイボールを、聞いたこともないカクテルを、浴びるように飲む。久しぶりに「飲んで食った」と言える会社関係の飲み会だった。

■遠大な散歩
酔いが回った帰宅後、僕は酔い覚ましも兼ねてジャージに着替え散歩に出かける。深夜1時前には出発し、4時まで殆ど歩いていた。朝6時まで歩こうと最初決めていたが、さすがに寒くて、途中で身体も手足の末端も冷える。大寒が過ぎたというのに、ますます厳しさを増す2月の冬を舐めていたと自覚した。せめてダウンジャケットでも着こんで来ればよかったと。

それでも、得るものはあった。何より精神がピリピリと研ぎ澄まされた感覚になっただろう。この深夜散歩では、梅島陸橋から四号線を草加方面に北上しつつ、六月あたりで竹ノ塚方面に曲がり、見知らぬ道をとにかく歩いていく。かつてのジョギングで見慣れた景色もあれば、まるで人通りのない歩道の地下通路を歩いた時などは、いつヤンキーや通り魔に襲われてもおかしくない恐怖感と、それがゆえに無理矢理引き起こされてくる眠っていた防衛本能と闘争本能、すなわち生存本能も身体全体で実感していた。

コンビニなどには、深夜2時や3時でも客が居る。スエットのヤンキー風兄ちゃんも居れば、普通にOL風の小柄な姉ちゃんなども居る。こんな都会で、こんな人気の居ないエリアで、かなり危ないシチュエーションだと思うのだが、姉ちゃんは自覚しているのだろうか。

西新井大師にも行ってみた。当然人っ子一人姿は見えず、大師様の門の前は厳重に封鎖されている。しかしそのバリケードの向こうに大師様が一応見える。僕は誰もいない大師門前で一礼し、手を合わせる。その時、酔っ払った風なおっちゃんが現れ、僕を訝しげな目付きで睨んだ。まさか僕が居るなんて思わなかったのだろう。それはこちらも同じだ。昼間なら100%蹴散らせるだろう棒ッ切れのようなおっちゃんの存在が、無人と闇というスパスを加えるだけで悪魔じみた獣になる。これが、闇のもたらす恐怖だ。心臓が飛び出そうだった。

だがその西新井大師前には交番があり、お巡りさんも常駐している。彼は僕の姿を見ると、何でこんな時間にジャージ着て歩いてるんだ?という顔を一瞬したが、いかにもウォーキングっぽいジャージ姿だから逆に危険はないと判断したのだろう。さっさと視線をデスクに戻す。そんな連れない警官でも、そこに在るか無いかで獣達の抑止力になるのだと、これが犯罪率の激減へ貢献しているのだと、僕は名も知らぬ大師前交番のお巡りさんに心の中で敬礼するのだった。

道路には車が一定数走り、その道路を工事する作業員や、交通整理をする警備員が寒い中働いている。僕等にとっては寝る時間帯も、彼等にとっては仕事の時間、つまりメインの時間だ。夜には夜の顔があり、それは何もエロスやバイオレンスなど暗い一面ではなく、こうして糧を得るために真面目に仕事に従事するという意味での顔もある。僕もかつては警備員や工場バイトで深夜逆転の生活を送っていた。

それを思い出しつつ、どこにでも居場所というものはあるのかもしれないと、少し気が軽くなった思いに捉われた。今の世界に固執しすぎる必要はないと、別の世界は無限に存在するのだと。あとはそこに飛び込む勇気であり、思い切りであり、ある意味達観であり、それはつまり何処に居ても、何をしても、結局は自分次第だという真理がそこにあるだけなのだと…。

そこから西新井駅へ向かう。西口横の細い飲み屋横丁には、こんな時間でもまだ営業している飲み屋があり、しかもそこでかなり多くの客が飲んでいる。今まで歩いてきた中で、一番の眠らない街がここにあった。彼等もまた、独自の時間を生き、楽しんでいる。

西口の階段を上がり、改札前を通りすぎて反対側の東口へと至る。タバコを吸うためだが、さすがにこちらは人が殆どいない。居ても困るが。

無論、たまに人影は見える。ヤンキー風の兄ちゃんが一人、ラリったような足取りで向こうに歩いていく。学生二人組が、容器に話しながら階段を上っていく。見るからに酔っ払った足取りの姉ちゃんがフラフラと歩きながら階段を降りてくる。その道沿いには、ワンボックスカーが数台、ハザードランプを点滅させながら止まっていたりする。もう3時過ぎてんのに、ホント危機意識が薄いというか、夜は、都会とはもっと怖い場所だと僕は思っている。

その証拠に、僕が喫煙所に座りタバコを吸っている時、外国人二人のカップルが椅子に座って陽気に喋っていた。足元に多分缶チューハイか何かを置いて、ほんとにマシンガントークのテンション高い喋りをしていたが、まさかヤクじゃないだろうな、などと一瞬疑ってしまうほどのラテン系陽気さだ。眠くないのかな、寒くないのかな、つかオレはこんなとこに座っていて安全なのかな、など。

そんなことを考えている内に、駅から背の高い男がこちらに歩いてくる。トッポイメガネ兄ちゃん風だと僕には見え、だからいざとなったらこの兄ちゃんに助けを求めるかなどと考えていると、先ほどの二人の外人カップルが、そのトッポイ兄ちゃんにいきなり放しかけるではないか。しかも、英語であった。

「Where are you from?」と聴こえた。「アンタドコカラキタノ?」とそう言った。たまにやってる英語リスニングの成果がこんな時に発揮されるなんて。その問いに対し、トッポイ兄ちゃんはスリランカだと言った。「オー、スリランカ!!」と二人は驚き、「オレはカナダだよ♪ 英語教師をやって生活してるんだ、アンタは?」などと、初めて会ったであろうにまるでツレのように陽気にこの外人3人は放し始めたのだ。碇シンジのように縮こまる僕そっちのけで。

・ ・・・ここ、日本だよな?

そう思ったのは事実。そして外国人のフレンドリーさも再度確認。一応、真面目というかお互いちゃんと職を持った同士っぽかったけど、途中で何度か聴こえた「Japaneseがどうとかどうとか」という言葉がとても気になる。日本人が、何だって? 超、気になる。

そんな彼等も、ひとしきり会話した後、去っていく。この場所はいよいよ僕一人になった。さすがに帰るか。ここは寒すぎる。陽気な彼等が帰宅したことが、僕の帰宅のサインなんだ。きっとそうだ。さあ、もう帰ろう、我が家へ、暖かい我が家へ…。

帰宅した瞬間、モアッと暖気が僕を襲う。やっぱり家は暖かい。天国のようだ。対してこの2月の外は地獄のよう。

それでも、得るものが多かった。この深夜の散歩は、僕に取ってもう一つの価値観を産む土壌に、いや眠っていた価値観を再び呼び起こすきっかけになりうるだろう。

それは僕が本来求めていたはずの、修羅の門のはずだった。


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20160211(木祝) 自作チョココロネと包丁研ぎとイワシ刺身を我が身のものとした建国記念日

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【朝メシ】
自作ソーセージパン、自作チョココロネ、自作クリームコロネ、アイスコーヒー(家-嫁)
 
【昼メシ】
チューハイ(家-嫁)
 
【夜メシ】
イワシ5匹三枚下ろし自作刺身、ハッシュドビーフ(家-嫁)
 
【イベント】
チョココロネ作り、西新井イオン、スペシャリスト
  
  
【所感】
■建国記念日とは何なのか
木曜だけど祝日。建国記念日という国家で制定された公式な祝日が国民の頭上に舞い降りる。個人的には、天皇誕生日や正月三が日の時のように皇居で一般参賀が催され、天皇皇后両陛下の尊顔を遠目より拝謁しながら旗の一つでも振りたいところだが、調べたところそんなイベントは予定されていない模様。代わりに、丸の内のイチョウ並木通りで大学生や小学生などのパレードが開催されるようだが、少し違うんだよな。そういったパレードも無論見れば楽しいのだけど。

建国記念日は、いわば政府によって定められた祝日だ。であれば、敗戦後の皇室は国政に一切関わりを持たずという取り決めを鑑みた時、建国記念日に皇室主導の催しを行うのは筋が違うし、ある意味危険という考えも成り立つ。しかしまあ、普通に国民達が今生きている日本という国が出来上がった記念として、皇室も政府も関係なく、一国民として喜び合えばいいんじゃないのかね、と思わなくもない。目くじら立てるような事案でもない。

そうは言っても、噛み付く存在が多数いるのも知っている。TVでちょろっと見たが、賛成派と反対派とが、それぞれ別の場所で講演をしているシーンが映っていた。

その放送の中で賛成派は、建国記念の日を国家最大の記念日と位置付けるのは常識であり、どの国でもそうしている、日本だけが遠慮するのはおかしいことだ、と主張する。逆に反対派は、戦争という大罪を犯した国が建国記念を喜ぶという考え方は憲法9条の遵守と平和国家の理念を脅かすものであるから、今後も戦争反対を訴えていきたい、と力説する。

僕はどちらかと問われれば賛成派だが、どっちもどっちだと思う。

まず賛成派の言う、どの国でも建国記念日を一年で最大の祝い事としているという根拠は一体どこにあるのか。本当に調べたのか、各国にヒアリングしてアンケートを取ったのか。アメリカだと、キリスト教の感謝祭の方が盛り上がったりするなんてことはないか。イスラム国の支配する無法地帯シリアの国民も建国記念日が最も喜ばしいと思っているのか。中国は日本に対する戦勝記念日をことさら声高に祝っているようにも見えるが。ともかく、大した論拠もなく言い切るのが逆に胡散臭い。

反対派も反対派で、建国記念日を祝う行為がどうして戦争を推奨し平和を脅かすことになるのか、その説明がスッポリと抜けている。結局個人的な考えを、考えにすらなっていない決め付け論理を、ただ感情的に喋っているだけ。そもそも論点がずれている。何か国家行事があれば、戦争反対、憲法9条の危機だとオウムのように主張する様は、一言で表すらなら思考停止であり、ただのヒステリー。こちらもまた胡散臭いというか、きっと何も考えず条件反射的に言ってるだけなんだろうなと思うと、賛成派よりも遙かに得体の知れない存在である。

いずれにしても、自分の主張だけを一方的にスピーカートークする場からは何も生まれないし、相手にも届かない。ただの騒音である。せっかくの祝日にそんな騒音を聞く意味を見出せない僕等は、家でマッタリと過ごすのが一番平和であると最終的に悟ったのだった。
 
 
■自作パンの進化の先
同時に、自分の中の何かを磨くことに時間を充てていい。と言っても、いきなりそんな高尚なジャンルに挑んでも息切れして一日で終わってしまう。普段ジョギングしない人間がフルマラソンに挑むようなものだ。ここは普段継続しているジャンルの延長線上にある技能を鍛えるのがベストと言えた。

というわけで、嫁は自作パンの作成に取り掛かる。毎度の「日本一簡単に家で焼けるちぎりパン」で得た感覚とレシピとを応用し、ソーセージパン、チョココロネ、クリームコロネを焼いたわけだが。

これは次元が一つ上がったことを意味する。なぜなら、今まで使っていたちぎりパン用の金型を使わなかったのだから。つまり自分でこねて形を作った。チョコやクリームも自分で自作した。これはもはや普通のパンである。パン屋で売っているパンと同じパンを家で作るという段階に、遂に踏み込んだのである。

人は続けていれば必ず成長すると言うが、嫁は今日、文字通りパンを一から創造する術を身に付けた。エボリューション(進化)からレボリューション(革命)へと跳ね上がった、ネオソサエティの使徒。少し膨らみが足りなかったものの、完成したソーセージパンやチョココロネは、既製品と比べても遜色ない味わいだった。
 
 
■包丁研ぎもまた微成長
それに対し、僕は久しぶりに包丁を研いでみた。大体のコツは掴んでいるつもりが、刀工になれるレベルでないのも重々自覚している。それでも家庭用包丁のちょっとした錆や軽い刃こぼれくらいなら修復できそうな感触は掴めてきたし、最低でも切れ味の落ちた刃を元に戻すまでは大丈夫。何だかんだ言って、これまで累計10時間以上は研いできた気がするし、やはり慣れれば成長するものだ。ある意味、僕だけの芸だった。

その芸を持ってして、家にある5本の包丁を全部研いでいく。切れ味の優れた順から緑川、姫鶴一文字、ナマクラ、苦内、ドラゴン殺しと研磨。切れ味が戻ったのは当然として、前回よりもカマイタチ的な鋭利さが増したと実感した。そういう研ぎ方が出来た、気がする。ホント、打ち込む対象を問わず上達するのを目の当たりにするのは悪くないものである。
 
 
■日常的に刺身
その研ぎに研いだ包丁を使い、今日も刺身を作る。主食としては、二日前に作った大好物のハッシュドビーフが控えているので夜メシのクオリティ自体何の心配もないが、その前のちょっとしたツマミとして刺身を切る程度ならメインに何の支障も来たさない。そして僕は、いつも前菜のつもりで魚を捌き刺身を作っていた。

贅沢に思えるが、実は贅沢でもない。アジレベルの魚であれば、丸ごと一尾から作る刺身はスーパーの惣菜ポテトサラダを買うよりも安くつくのが現実。贅沢をしていないのに前菜として新鮮な刺身を食えるという点がこの上ない贅沢なのである。その舞台を用意するための包丁技術であり、そのために僕は包丁を握った。目的と手段が逆だったのである。

というわけで、西新井のイオン鮮魚コーナーに向かう僕等。今回の西新井遠征は、風呂でも買い物でも飲みでも何でもない、正真正銘刺身用の魚を買うためだけである。遂にイキのいい魚を調達するために遠方まで繰り出すようになってしまったか。そのひたむきさが嬉しくもあり、その開き直りぶりに苦笑もしてしまう。
 
 
■本当はサバLOVEだったけど
今回は、いつもの獲物であるアジや類似のイワシではなく、サバを買いたいと思っていた。新たな魚に挑戦したいと思い始めていたし、それならアジよりも大物がいい。刺身は作れないがシメサバにすれば美味しいと、嫁も言っていたし、新潟実家の師匠である義父に聞いたところ、「サバは冬が旬だよ伊之児クン!」と、財宝を発見した海賊のように電話口で奇声を上げていたし、もうシメサバしかないとその気になったわけだ。

義父からも手順を聞いたし、Youtubeでシメサバを作る動画も1回通しで観た。もう僕はヤル気満々になっていた。今までアジを十数回三枚下ろしにしてきた経験もあってか、初めて見たサバの下ろし方もすんなり頭に入ってくる。「あんま変わんないんだな」と、伝聞でなく体感的に理解できる。基本が分かるからこそ吸収できる技があり、以前は見えなかったコツや共通点もすんなり頭に入る。素晴らしい。僕はもうサバしか頭に入らない。

のに、イオンにはサバが売っていなかった。いや置いてはいるのだが、全部下ろされた後。丸ごと一匹のサバが見当たらない。これは肩透かし。一気にトーンダウンする。しかし、何かを切りたい情熱が醒めたわけじゃないから。僕と魚の関係は決して冷え切っていない から。代わりにイワシをカゴに入れる僕だった。
 
 
■イワシの刺身も完全マスター
持ち帰った5匹のイワシ。それを全て三枚に下ろし、刺身にする。前菜にしては随分なボリュームだが、コスパは高いし練習にもなるということで、僕は昼間研いだ包丁を用いて一匹一匹丁寧に、淡々と進めていく。イワシは脆すぎる魚なので力を込めすぎないようにという前回の教訓を糧に、リラックスして、だが正確に、僕はイワシを三枚に下ろす。

結果、自分でも大満足できるほどにイワシを調理できた。ついでに盛り付けもかなり秀逸。プロには遙か及ばないけど、美しいと自画自賛してしまう。

少しアジを捌いて「オレは天才だ」と自惚れていた一ヶ月前の僕。ただのピエロであったアミバ。それが地道な継続的修練によって今、本当の天才トキの領域へと開花を始める。心技体を兼ね揃えた、今までで最も華麗な技をもってして生まれ出でたイワシの刺身を美味しく頂きながら、次こそはシメサバを作りたいと、その後は華麗にカレイを下ろしてみたいと、新たな野望が後から後から滲み出る。
 
 
■打ち立てた日
建国記念の日。嫁は新たなパン作りのステージへ、僕は包丁と刺身の次なる段階へと移る。建国記念日に相応しく、新しい何かを打ち建てた気になれた祝日のことだった。


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20160210(水) 久々にじっくり観察したアキバの街の過去現在

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【朝メシ】
無し(家-嫁)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
サッポロ一番みそラーメン、豆腐、焼酎、スコーン、その他スナック菓子(家-一人)
納豆、アメリカンドッグ(家-嫁)
 
【イベント】
仕事、秋葉原徘徊
  
  
【所感】
■知識は最低限のスタートライン
昨日、新規の取引先メーカーの人間が来社し、僕等はそのメーカーの人間から製品説明を受けていた。セールスおよびアフターサポートに必要な製品知識を深めるための勉強会という趣旨だ。

しかし、いざ話を聞いてみるとなかなか頭に入ってこない。その場は理解したつもりでも、後で思い返してみると多くが記憶から抜けてしまっている。よって分かり易く他人に説明するのも現段階では難しい。

インプットとアウトプットとでは全くの別物。本を読んでいる間は分かった気になっていても、それを口に出して説明しようとすると思い通りにならないのと同じパターンだ。

無論、そこから何度か復習すれば恐らく知識として定着するのだろうが、実はそこまでの熱意もなかったりする。

その点、今回説明してくれた取引先の人間は流石と言わざるをえない。50ページに亘る自作資料を用意し、その内容を殆ど空で言っていた。喋り方も強弱をつけ表情豊かに、起伏に富んでいる。それでいて途中で言葉が詰まる場面も全く見られず、まさにマシンガントークという形容が相応しい。

つまり聴いてて楽しかったということ。1時間半ほどみっちり講義を受けていたのに途中で全く眠くならなかったのがその証拠だ。この類の説明会は睡魔が襲ってくることが多い。

どうやらこの人は職を10回ほど転々としているらしいが、そのどれもが大手企業だった。その手馴れた喋りを聴くに、相当場数を踏んできていると容易に推測できる。単に転職するのではなく、文字通りステップアップのために職を変えたのだろう。

さらに、その説明能力を買われてか、業界のカンファレンスなどでも講師として招かれることも多々あるという。こういう人間もホントに居るんだなと、久しぶりに世界の広さを知った次第だった。同時に、自分の矮小さ、視野の狭さも浮き彫りになった。みみっちいことやってんな、と。

それにしても、その人は本当によく喋った。古舘伊知郎のように延々と、手早く、しかし順序立てて効率的に、分かり易く。インプットもアウトプットも完璧ということだ。

だが、そうでない者にとっては脳への負担は計り知れない。話は面白かったのだが、彼の濁流のような情報量とスピードに僕は正直頭がオーバーヒート気味で、恐らく全体の3割も理解できていなかった。

頭の回転が相当に鈍っているとその時つくづく実感したし、何より物事に対する意欲や向上心が欠落していると自覚する。全身の細胞レベルで反応速度が危険水域に入っていると。自分は怠惰でぬるい生活をしてきたんだな、と。受けた刺激は計り知れず、それゆえ受けたショックも大きい、と言ったところか。少なくとも楽しいと思えたことくらいは吸収してアウトプットできるようになりたいものである。

知識が全てとは思わないが、消費者にとっては自分が購入あるいは購入を検討する商品に対して詳しい人間の方が信頼に足るし、安心感を抱くのが当然。逆に、知識のない人間は頼りなく見えるし信用できない。これも自然の心理だ。人柄や当たりの良さ、トーク術など様々な要因を語る前に、根拠を示せるだけの知識という名の地盤がある。

その属性に対し、しょせんは知識を詰め込んだだけの頭でっかち、知識より知恵こそが大事なのだ、などと評する人間も居る。しかしそれは、あくまで最低限の知識すなわち基礎が備わっているという前提をクリアしている人間だけが言ってよい批評だ。

知識とは基礎。それを装備しないまま知恵と機転だけで場を乗り切ることを是とする論調は、突き詰めれば根拠のない口八丁で曖昧にすることあり、相手のことを考えずその場凌ぎのハッタリをかます軽薄な人間であり、売れればそれでOKという売りっ放しのスタンスを推奨する危険に繋がる。

応用は言うまでもなく、その前提たる基礎をしっかり押さえた人間の言葉にはずっしりとした説得力が滲み出るもの。聴く側にとっても安心かつ信頼に値する。だが基礎を押さえていない人間の言葉は、どれだけ鮮やかかつウィットに富んだ表現をしても、どこか軽くて薄っぺらいのだ。聴く側がそう感じてしまう。

両者の溝は決して埋まらない次元の壁のようなもの。質と次元が根本的に異なるのだと覚えておくべきだろう。その辺りのニュアンスの違いは、実際に聴けば分かってしまうのである。基礎を押さえていない人間は常にメッキが剝がれる危険と隣り合わせだが、基礎を押さえている者のメッキは剝がれない以前にメッキの存在そのものが無いのである。
 
 
■秋葉原でリハビリ
そんな出来事が昨日あったので、もう少し頭の回転力と知識に対する執着心を取り戻すべきだと考え始める。根本的なところで、内に篭りすぎなメンタルを軌道修正させるため、もう少し外部の情報に意識を向けるべきだと今一度猛省したのは確かだ。最近とみに自分の殻に閉じ篭りすぎだと自覚しているし、このまま行くと危険なことになるとも予想できていた。

日中、仕事で秋葉原に出かけた僕は、とりあえずもっと街並みや情景を確認しながら歩いてみようと考えた。

1000回と足を踏み入れている秋葉原という土地だけど、自分が用のある場所以外の風景は殆ど視界に入らないし、当然意識にも残らないもの。それは人として自然の成り行きだとしても、その用がある場所ですらマトモに頭に入ってこない現在の感受性の致命的欠損を修復するには、見慣れた土地や馴染んだ場所から入るのが最初の一歩だろう。まずは可能な範囲からというのがリハビリの基本。

それを続けていく内に、どこかの段階で突如頭がクリアになるという流れが物語の定番だ。風通しが急によくなるような、長年こびり付いていた耳垢が剝がれ落ちるような、そんな感覚は唐突に訪れる。その突然の視界チェンジも継続していることが必須条件ではあるが。

見慣れた秋葉原にて僕は、仕事の合間合間に時間を見つけ、通常とは関連性の薄いスポットを意識的に注視しつつ、敢えて興味の湧かない店について思考を巡らしながら街を歩いていた。

すると、秋葉原という街がいかに昔と比べて変わったか、トレンドの変遷ぶりがよく分かる。全体像としての変化はある程度理解していたつもりでも、個別で見れば現在の自分の感性では全く付いていけない街並みだ。

ゆえに理解もできないと直感する。慣れ親しんだ街と思い込んでいた秋葉原。いつ足を踏み入れても基本的には溶け込めると確信していたアキバも、見るベクトルや観察するスポットをちょっと変えれば別世界に切り替わり、自分の居場所はどこにも存在しないと錯覚するほど。つくづく、世の中の事象というものは個人の見方、考え方、捉え方で180度どうとでも変化するのだと痛感した。
 
 
■アキバの範囲とは
そもそも「秋葉原」という名称は一体どこからどこまでの範囲に適用されるのか。普段は殆ど考えないが、感覚に基いた自分なりのエリアは大体定まっている。ざっくり言うなら、東の昭和通り、北の蔵前橋通り、西の昌平橋通り、南の外堀通りの東西南北四つの通りに囲まれた区画が僕にとっての秋葉原である。そして一般的な通年としても大体この範囲が電気街としての「アキバ」であるようだ。

この辺の感覚は、やはりある程度足を運ばなければピンと来ないかもしれない。だが街なんてのは案外そんなもの。明確な境界線はないようなもので、エリア区分も結構曖昧だ。僕だって、例えば銀座を歩いていたつもりが、いつの間にか有楽町や新橋になっていたなんてことはしょっちゅうだし、腐るほど通った上野、御徒町、湯島だってその境界線を正確に説明できない。そもそも、地元である梅島がどのポイントで隣町の西新井に切り替わるすら分からないのだ。その点、四方を大通りで囲まれたアキバの方がまだ人に優しい。

というわけで、アキバエリアの一応の定義は、東の昭和通り、北の蔵前橋通り、西の昌平橋通り、南の外堀通りに囲まれた限定エリアだと仮定する。住所的には外神田がそれに該当するだろう。秋葉原という住所もあるが、台東区に属したほんの小さな一画に過ぎず、世に言われる秋葉原とは、基本的に外神田エリアであることは押さえておきたいところだ。

まあ言葉だけでは説明しても意味が分かりにくいもの。僕としては下記サイトが有能だ。シンプルかつポイントをよく押さえている。

http://www.wdic.org/w/GEO/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F
 
 
■多少詳細な東西南北
そのアキバ区画もう少し具体的に示すなら、昭和通りすなわちJR秋葉原駅昭和通口を仮に出発点として、降りてすぐの昭和通りが東の縁。今やアキバの実質的シンボルとなった巨艦ヨドバシカメラが面した分かり易い境界線だ。一応、その向かいのUFJ銀行やパチンコ屋サイバー、ココイチなどが面した部分までアキバに含む。

そこからさらに東に、すなわち奥に入ったいわゆる神田佐久間町の飲み屋エリアはアキバに含まない。厳密には秋葉原として問題ないようだが、自分にとっては「アキバ」とは明確に区分けされている。あの辺りはアキバじゃなくて神田。そのまんま神田佐久間町である。

そして反対側の西の一辺である昌平橋通り。東端の昭和通りから西に向かって、すなわち体感的にはヨドバシカメラや秋葉原駅からどんどん離れていく格好で歩いていくと、順々にまずヨドバシ正面入口が面した通りが視界に入る。補助319号線という名称らしいが、ヨドバシの客や、ダイビル・UDX方面へと向かう客、あるいはJR秋葉原中央改札口にたむろする人間達で常時賑わっている。

そしてJR線の高架下をくぐっていくと、そのダイビルやUDXが横目に見えるだろう。この時の高架下道路を神田明神通りと呼ぶ。あるいはJR秋葉原駅中央改札口横に隣接したアキバトリム下の歩行者通路をくぐっていっても良い。その場合は、アトレやヤマダ電機LABIが並ぶJR秋葉原駅電気街口へと出る。ヨドバシ側からこの電気街方面へ向かう時、多くの人間がこのアキバトリム歩行者通路か、あるいはUDX横の高架下道路を通ることになるだろう。
 
 
■中央通りの重要性
その先に見える大通りが、電気街のメインストリートともいえる中央通りである。常に歩行者が絶えない南北を貫く幹線道路で、名実共にアキバに欠かせない電気街ストリート。

そもそも電気街と呼ばれる街は、その代名詞ともいえる斜線の広い幹線道路を大動脈として成り立つのが慣習だ。大阪日本橋の電気街「でんでんタウン」でいう堺筋のようなもの。アキバも、この中央通りが一応まだ盛んだから一定の威厳を保てているのだ。

しかし、それもいつまで続くか。今や秋葉原の顔はヨドバシカメラに移行した感がある。そのヨドバシを中心とした、ダイビル・UDXツインタワーなど、いわゆる都市再開発組の新興勢力にて形成される新しいフィールド、アキバのカタチ。その新しいカタチの提示に伴って、人の流れや客層に大きな変化が生じたのは誰もが知る通りだ。
ジャンク屋、アニメ、ゲーム、同人、メイド、地下アイドル等のサブカルコンテンツは相変わらず中央通り以西にビッシリと敷き詰められ、消えても消えても竹の子のようにまた生えてくる。だが逆に言えば、そのサブカルコンテンツに用がない客達はヨドバシカメラとその周辺だけで事足りるということで、そのサブカル不要客の比率が、かつて「オタク御用達の街」と呼ばれた時代に比べて遙かに上昇していることも忘れてはならない。

中央通り以西のサブカル店はアキバになくてはならない存在だが、ヨドバシを始めとする所謂一般客層向けの店もまた、現在のアキバには決して欠かせないのだ。そして単一の販売力や集客力で見ればヨドバシを凌ぐ存在はアキバのどこにも存在しないのである。

ライトユーザーの増加と、そのライトユーザーに圧倒的支持を受けるヨドバシの秋葉原の街に対する貢献度と影響力の大きさを考えた時、どちらが主でどちらが従か、どちらがメインでどちらがオマケか、いずれ逆転する時が訪れるかもしれない。訪れないにしても、両者は同じ街でありながら、全く相容れない表と裏のエリアとして人種ごと分断されるかもしれない。新宿というあらゆる消費を貪る膨大な一般客が歩く中、ひっそりと暗部の道を往くゲイタウン新宿2丁目や風俗街歌舞伎町裏通りのように。

本来、ヨドバシのような総合デパート的な施設がなくともアキバは成り立っていた。数え切れないほどの家電店、PCショップ、オタショップが並び、客を分け合う。その合間に多少の飲食店が点在し、客達は雑なメシを食って、後は家に帰って自分達の世界に延々と浸る。あくまでエレクトロニクスとサブカルが柱だった時代の話だ。

しかし今や、ヨドバシ無しではまず立ち行かない。家電もPCもスマホも、飲食も、書籍も、何でも揃うヨドバシが、駅を利用する客達の足を中央通り側に向かわせるのを食い止める。その圧倒的な品揃えとポイントを利用したお得感、そして質のいい接客等で顧客はヨドバシで十分イケると判断し、中央通りの大型家電店やソフト店からの足が遠のいていく。

中央通りの顔だったヤマギワや石丸電気、ラオックス、サトームセンなどは木っ端のごとく駆逐され、ソフマップも精彩を欠き、何とか存在感を放つのはツクモくらいなもの。未だ生き残っているオノデンなどもはや飾りで、未だ潰れていないのが不思議なくらいだ。

ともかく家電というカテゴリにおいては、完全なるヨドバシ独走。他の全ての家電店が束になってもまるで歯が立たないだろう。子供の相撲イベントで琴奨菊に5~6人で一斉に飛び掛ってみたがビクともせず、買い物袋のようにヒョイッと持ち上げられる小学生達のようなものだ。彼等は、中国人爆買い客や、ヨドバシから炙れた一般客を拾うので精一杯である。

まあ、石丸電気なども随分と前から陰りが見えていたし、ビックグループ傘下に入ったあと新しく出来たソフマップの家電フロアやPCフロアの店員の接客レベルなどもゴミだしな。客が来なくても仕方ない。

ちょうど今日、ソフマップでPC系外付けレコーダーの在り処を聞きたくて、しゃがみながら作業してた店員に「すいません」と質問した時なんて、その店員作業しながら僕を面倒臭そうに見上げ、「ああ、ウチではそういうレコーダー系は扱ってませんね」と、いかにも早く追い払いたげな顔で言い放ちやがったし。さっさと潰れろよ、と思った。

家電店以外のジャンルを見ても、ニューノーマルの道を歩み始めたアキバには、過剰なほどの飲食店や飲み屋、スイーツ屋が乱立し、次第に電気街から繁華街への移行を進めていた。今までは近付き難かった女性客にとっても十分に利用できる余地が見出される。コンビにも多数現れ、カラオケチェーンも進出し、通常の娯楽や消費もカバーできるようになり、服飾などアキバのコンセプトからは想定できない業態も自由に進出。つまりサブカルに頼らずとも消費者が集まる仕組みが既に出来上がっていた。

一般人向けのヨドバシだからこそ、そのサブカルまでには手を出せない。せいぜい大人向けDVDや18禁ゲームまでだ。それがサブカル店にとっての活路でもあるし、サブカルを求める者達にとっての逃げ道。その逃げ道に次々と集結した本来のオタ達の巣窟として中央通り以西のフィールドが形勢されていくのであり、それがアキバの従来の顔である。だが時代の変化によって、それが裏の顔だと呼ばれる日が来るかもしれないということだ。

抑えが効かない分、中央通り以西は醜悪なまでに欲望剥き出しに変化していく。一般人はますます近付きたくなくなる。あまりに逸脱すると、いずれ切り離される。切り離された孤島を他所に、秋葉原はヨドバシを中心として表舞台を歩いていく。だからその分岐点たる中央通りという大動脈の趨勢が重要なのだ。

そういえば、かつての大阪日本橋「でんでんタウン」も、メインストリート堺筋沿いにびっしりと乱立する電気店を中心とした栄えた街だった。しかし難波方面のなんさん通りが発達し、千日前に黒船ビックカメラが建てられ、その他家電量販店が主要地に出店し始めた頃から人の流れは少しずつ変わっていった。日本橋をメインとした馴染みのお客ですら、ヤマダ電機やミドリ電化の名を引き合いに出し、向こうの方が安いから何とか負けてくれよと平気で言うようになってきた。

そして全く違うキタエリアにある梅田に破壊神ヨドバシカメラが建造された時、1つの時代が終わったと言っていいだろう。ヨドバシの余波は凄まじく、遙か遠方からその影響力を行使して日本橋に間接的に、だが甚大なるダメージを与えていた。その後、日本橋で牽制を誇った各家電店の力は衰え、一世を風位下PCパーツブームも沈静化していき、ゲームも泣かず飛ばず。その代わりに、本来オマケであるはずの「とらのあな」などの同人誌ショップを中心としたアンダーグラウンド的なサブカル店やコンビニや飲食店など電気街の核を為せない店舗がメインストリートに進出してきたが、そうなった時点で既に終わっているのである。

こうして、かつては大阪人らしいダイナミックなボリュームと威勢のいい張り声で、アキバそして名古屋大須と共に日本三大電気街として名を馳せていた大阪日本橋電気街「でんでんタウン」は、今や闇のアンダーグラウンダー達が単価の低い商品をちまちまと買い物し、風俗まがいのメイドやアイドル店に小金を落とすだけの、貧相な下町タウンへと成り下がった。文字通り、同人レベルの街となったのである。

その凋落がメインストリート堺筋の崩壊をきっかけに始まったのだとしたら、アキバも決して他人事では居られまい。名古屋の大須電気街にしても、今や元気なのはツクモくらいなもので殆ど電気街として機能していないが、元々大須地区はファッションや飲食を中心とした広大なアーケード型商店街の性格がメインだったので、大須エリア的にはそれほどダメージはない。

アキバもそうかもしれない。家電やサブカルが廃れても、正直ヨドバシと飲食店があればやっていけるんじゃないかと思えるくらいだから。しかしその形態では既に電気街を名乗れないのである。ただの繁華街に過ぎないのである。

街が廃れるにしても、二つの種類がある。客自体が来なくなり、商業地として成り立たなくなるパターン。そしてもう一つが、客は来るけど本来その街が持っていた強みや看板が廃れるパターンだ。大阪日本橋でんでんタウンは前者、名古屋大須は後者と考えた時、アキバの集客力自体がそうそう衰えるとも思えない。であれば、アキバがアキバでなくなる可能性の、後者なのかも…。
 
 
■話は戻って南北の各道路
大分話が逸れたが、ヨドバシ前の補助319号線からUDX横の高架下道路である神田明神通りをくぐったら、メインストリートたる中央通りに差し掛かるということ。

その直前にも小道がある。UDX正面入口の目の前であり、あとはソフマップビルの裏手でありドンキホーテビルのパチンコ屋アイランドの裏手入口、あと神田食堂やじゃんぱら等も小道に連なる。その小道には「アキバ田代通り」というれっきとした名前が付けられている。これは僕も初耳であり、驚きだ。このドンキ裏の小道もなかなか侮れないのは確かだからな。

そしてようやく中央通りに至り、さらに西に進めば、ソフマップリユース館の裏口やバイモア、牛丼サンボなどが並ぶ細道が確認できる。

さらにもう一本奥に入ると、まんだらけやドスパラパーツ、キッチンジローなどがある通り。ここにも名前が存在するようだが、もう面倒臭いので割愛するとしても、そこから一本筋の通った細道は見られず、そのまま最後の昌平橋通りへと差し掛かる。ネコカフェやラーメン屋などが面するが、特段目立った店はない大通りだ。

以上がアキバの南北を走る道の概要。東の昭和通りから西の昌平橋通りまで、である。
 
 
■東西を走る道
東と西の境界線は整った。次は北と南だが、北の境目は蔵前橋通り。東京メトロ銀座線の末広町出口、UFJ銀行、若松通商などが面している。北の境目だが、方角的には東西を走る道路という表現になる。

この蔵前橋通りを境にしてさらに北側へ、すなわち分かり易く言うなら中央通りを御徒町・上野方面に向かおうとした時点で、そこはもうアキバを外れていると言える。

その蔵前橋通りから南側に進んでいくと、いずれ南端の外堀通りへと行き着く。厳密に外堀通りとして良いのか実は分からない。地図にも載っていないし、ここだけは自信がない。一応、僕ビジュアルによる便宜上区画分けしておくが。

蔵前橋通りから外堀通りに向かって歩いていくと、これも分かり易く中央通り沿いに記すなら、UFJ銀行や若松通商ビルから出発し、途中でリバティ、ツクモex、ドンキホーテ、ソフマップ本館と著名な建物が次々視界に映る。そのソフマップ本館やイベントスペース・ベルサール秋葉原などの見える交差点を左右に折れると、そこは先述した神田明神通りなのだが、右左折せずに直進、さらに南へ進む。

この中央通りと神田明神通りの交差点から目に見えて通行客が増殖するのも特徴だが、そのまま歩くとゲーセンのクラブセガ、洋服のアオキビル、パセラなどを道沿いに眺めることができる。

そしてほどなくしてJR秋葉原駅電気街口が近付き、そのまま進めばビッグアップルや万世橋警察署のあるポイントへと突き当たる。そこがすなわちアキバの南端。僕的に言う外堀通りであった。

だが恐らくアキバ通を自任する者達は、この外堀通りからもう少し外れたエリアもアキバとみなしている。つまり万世橋を渡った肉の万世ビルだけはアキバに含めるべきだと。いや決して外せないランドマークなのだと。そう強行に主張するに違いない。僕も個人的にはまあ、そう思う。エリアを少し外れていても、肉の万世だけは別格だと。
 
 
■それがアキバ
というわけで、いわゆる「アキバ」のエリアを特定してみた。そこで行動する人間達にとっては「ここまでがアキバ」という直感的な線引きがあり、それはかなり親和性のある共通認識として定義されるだろう。

無論、各々の嗜好や行動範囲によってそのエリアは狭まったり逆に広がったりする。それでも「ここからここまでだ」と説明されれば、「ああ、確かにそんな感じだね」と凡その理解や納得を得られるのではなかろうか。

そんな「アキバ」のほんの一部だが、そのありのままの今を僕は今日垣間見た。驚きを昔と比較しつつ、それを懐かしみつつ。本当に、日々変わっていく。
 
 
■芳林公園の喫煙所
アキバ区画内の昌平橋通り、その東側の裏手に芳林(ほうりん)公園という公園がある。すぐ傍には昌平小学校があり、確か幼稚園も併設されている。すなわち「子供」である。オタとオトナの遊び場であるアキバという汚らしい区画に最も似つかわしくないキーワードだが、それがドス黒い街アキバの最後の良心とも言える。

ちなみに、この芳林公園はアニメ「ラブライブ!」の舞台の1つとしても知られているようだ。いわゆる聖地。「ラブライブ!」は観たことないが、「アイマス」と似たようなものだろうと僕的には見なしている。だがファンに言わせると「全然違ぇよバカ!」らしく、「ラブライブ!」ファンと「アイマス」ファンは、どちらも同じようなものだと言われることに激しい拒否感を覚え、ゆえにお互い憎み合う不倶戴天の敵同士らしいので、軽々しく口にしない方が無難かと思われる。

まあラブライブ!ファンが聖地巡礼に訪れる時点で到底子供云々なんて言える次元じゃないのは確か。元々、小学校があった場所に欲望まみれの電気街が進出してきたのか、千代田区が何かの間違いで異空間アキバに小学校を建ててしまったのか。ただ、それでも無垢な子供達を気遣ってか、この一画は意外と閑静で良心の欠片が多少見られた。

その静けさも手伝って、芳林公園は子供達の遊び場だけでなく、喧騒を逃れたいアキバ族達の隠れた憩いの場としても利用される。正直言って汚い公園だが、つい足が出向くのである。疲れたリーマンがベンチに座り、ホームレスがうろつき、何よりアキバエリアには珍しい喫煙スペースを併設しているのも大きなポイント。僕もアキバを歩く際には、この静かな場所でタバコを一本吸い、すぐ向かいにあるアーミーグッズショップから流れてくるもの悲しいメロディを聴いてアンニュイな気持ちになるのが定番コースだった。

しかし、今日いつものようにタバコを吸おうと出向いたところ、喫煙スペースだった場所が工事中の仕切りで囲まれ撤去されていた。厳密には移転がどうこうと書いてあるが、昨今ますます激しくなる喫煙者への追い風、すぐ近くで過ごす小学生や幼稚園児への悪影響の回避、全体の街としてのクリーン化、様々な事情を鑑みればこのまま撤去されて二度と復活しないだろう。

喧騒から逃れたい連中のある意味憩いの場だったのに、何気に酷い仕打ち。荒くれ共を追い出して、真に明るく健全な街を作るつもりかもしれないが、それはどだい無理な話というもの、こんな欲望に忠実なドス黒い街もそうはない。その闇の深さに比べれば、タバコの方がよっぽど健全なファクターだ。
 
 
■夜の神田明神
締め出された気分に陥った僕は、気分を落ち着けるために、未だ残る憩いの場の1つである神田明神へ向かった。アキバ区画から外れてはいるが、住所は外神田だし、名実共に万人の知る霊的スポット。ファンタジーでロマンチックなアキバ族の感性にはある意味合致する。この場所だけは、外部との喧騒から真に遮断された神域なのだ。

というか、夜の神田明神は初めて。普段の数倍増しで近付き難い厳かさと神妙さに溢れている。参拝者も十数人と少ないが、それだけに訪れる人間の表情からは観光気分とは一味違った真剣味を感じ取れる。

こんな夜の時間帯に、身震いするほど寒いのに、手水舎でしっかり手を洗い、賽銭を投げて二礼二拍手一礼するような連中なのだ。きっと人には言えない悩みが、叶えたい強い願いをその心に抱えているはず。それを誰にも言えず、最後の頼みの綱として神にすがろうと訪れているのが、今目の前に居る彼等なのだ。

そんな彼等の必死な参拝する姿をどうして笑うことが出来よう。僕だってそうなのだ。真剣そのものなのだ、僕も、彼等も。何かを叶えたくて、何かを変えたくて、文字通り祈るような心で今、神田明神の前に立っているのだ。

僕とほぼ同時に、二人の若いカップルが参拝をしていた。賽銭入れるの?5円でいい?別に1円で十分っしょ!などとあまり敬虔でない会話をしているが、いざ拝殿の前に立つと神妙になり、ぎこちないなりにも一生懸命神様にお祈りしている。無頼を装っても、その姿は間違いなく迷える子羊である。ワイの目はごまかされへん。同志よ。

あと1つ。参拝客の中に一人、フワフワの真っ白な毛皮のコートとスカート、そしてベレー帽のような帽子に身を包んだ、全身真っ白な若い姉ちゃんがいた。ボアボアのスカートからスラリと伸びる脚がまた魅力的で、厚めの服装越しにも均整の取れたプロポーションだと分かる、黒髪ロングの美人系の姉ちゃんだ。大阪道頓堀あたりを歩けば30秒に1回はナンパされるレベルと言っていい。何でこんなオタ臭い街に棲息しているのか疑問と言えば疑問だが。

その理由は纏う雰囲気にあると予想される。快活で華やかという雰囲気は彼女からはあまり感じられない。非常に大人しそうな、引っ込み思案っぽいオーラが漂っているのだ。女としてはかなり高い水準で完成しているのに、その陰のオーラとアキバっぽい不思議ちゃん系の身なりとプラマイゼロになっている感じか。女の部分をあまり活かしきれていない、ある意味残念でもったいない姉ちゃん。

彼女は、そんな不思議ちゃんである自分を変えたいのだろうか。それとも今のままで全然よくて、今日は別の願いがあってここに来たのか。それとも神社巡りなどパワースポット好きな神秘系オタ腐女子なだけだろうか。そのスタイルを変えるつもりはなさそうだ。思惑は分からない。

ただ、少なくともその仕草や手順は完全に神社の礼に則ったものだった。参拝の前後の作法から、終始一貫流れは淀みなく、いかにも堂に入った、それでいて肩肘張らない自然体な一連の動作だったのである。神社の娘か?と思ったほどに神々しい振る舞いで参拝している。正直僕は、彼女の容姿よりもその神義に則ったスムーズな動作と仕草にこそ目を奪われていた。こういう姉ちゃんも居るんだな、と。夜に来た甲斐があったというもの。

狙ったわけじゃないが、その姉ちゃんは参拝タイミングが僕と大体一緒だった。嬉しいというより、あまりにスマートに所作をこなす姉ちゃんと比べた時、自分の作法はまるで完成度が低いもののように感じられ、むしろみっともなくて恥ずかしい気分。最後、入口の随神殿をそのまま素通りしようとする僕の少し離れた場所で、姉ちゃんは、拝殿側に向き直って立ち止まり、拝殿に向かって綺麗な一礼をしてから外に出る。この違い。神社の基本を押さえている者とそうでない者の違い、神社に対する姿勢の違いを痛感し、恥ずかしくなった僕は姉ちゃんの顔を到底見れなくて早足に神田明神を後にした。

ちなみに、この神田明神も「ラブライブ!」の聖地の1つらしい。どこまでも出没するこの「ラブライブ!」というアニメ。美人で可愛くスタイルもよく、仕草がキャピキャピしながらも大人びたオーラも見せ、女らしさを兼ね揃えながらも純粋で一途、という、完璧いいとこ取りを恐らくは登場人物に施しているだろうと思われるが、その理想的を超えた理想形態をぶち込みすぎた美少女キャラの乱立が、ファンに悪影響を与えている部分もあるだろう。

あの綺麗な神田明神の姉ちゃんも、その辺りの美少女キャラをリスペクトしたがゆえの服装であり佇まいなのかもしれないが、それが本来のアキバの在り方とは分かっているが、二次元が好きな僕としても、三次元および四次元に生きる一個の人間として見た時、寛容しかねる部分もやはり感じていた。
 
 
■宇宙アイドル「リトル☆コスモ」
神田明神での参拝を終え、坂を降りながら神田明神通りと昌平橋通りの交差点に差し掛かる。たちまちギラついたネオンと毒々しいオーラに包まれ、静粛な気分が一気にピンク色になる。その交差点、かつてマニア向け自作PCパーツショップとしてディープな名を轟かせていた高速電脳のビルに、「宇宙アイドル リトル☆コスモ」という看板が掲げられていた。

宇宙アイドル…。リトル☆コスモ…。ここ5~6年、アキバをまじまじと見ることのなかった僕は、次元の違うネーミングセンスに到底頭が付いて行けない。看板にアニメの美少女絵が描かれている辺り、アニメショップだろうか、それとも地下アイドルの一種か。またはアイドルと称したコンパニオンがいやらしい接客を仕掛けてくるのか。こんな狭いビルで…。

調べてみると、メイドカフェのアイドル版のような店だった。

(リトル☆コスモ)
http://akihabara.tokyo-style.jp/shop/littlecosmo

しかし、宇宙人であるアイドルがアキバに不時着し、客であるアナタはそのアイドルを育て上げて、等々のその設定が既に謎だらけの宇宙。僕も昔はサブカル大好きだったし、今でもそっち方面への柔軟性も高いと自負しているが、何といえばいいんだろう。ファンタジーはファンタジーのみで完結させるべきだといつも思っている。そこにファン達はひと時の非現実感と情熱をぶつけ、限られた内的空間のみでそれを楽しむものだと。

ゆえにファンタジーの設定をリアルの三次元に当てはめて、それでリアルなマネーを目に見える形で毟り取る、という手法は既にファンタジーとリアルの境界線を無視したルール違反だと思うのだ。基本的に夢と現実は切り離されていなければならない。ごっちゃにするなという意味ではなく、夢を楽しむ時は現実との境界線を明確に心の中に刻みながら、かつ現実の風景や他人に影響を及ぼさないという自制心が求められるべき。

ついさっきまで現実に生きていた僕が、この「リトル☆コスモ」の在り方に自我を保てなくなるほどの衝撃を受けてしまった。つまり「リトル☆コスモ」は現実の僕に大ダメージを与えたことになる。これはもう少し考えろよ、と思った。説明が難しいが、感覚的な部分でこの店はアウトなのである。業態のランクとか趣味趣向の貴賎や序列を論じているのではなく、楽しみ方として一線を踏み外していると直感したのである。

これなら、潰れてしまった高速電脳の方が遙かにアキバらしい独自性だったいえる。それはプライドと言い換えてもいい。確かに高速電脳には一種の矜持みたいなものが見え隠れしていた。ゆえにコアな支持層が存在したのだが、その高速電脳も時代の波に押されて倒産。最終的に顧客には迷惑を掛けず畳んだようだが、債権を回収できなかった卸業者達にとっては痛い思い出の一つだろう。僕も債権者としてその現場に立ち会ったのだから。

その高速電脳を始め、T-ZONE、クレバリーやブレス、コムサテライトなど、アキバのコアな部分を支えていたPCパーツショップと呼ばれる店は軒並み消えた。ほぼ全ての消滅に僕自身も関わってきた。その後、誰もが知る通り、ヨドバシを中心とした表舞台と、ますます特化を見せるサブカル群による二極化が進むのである。

高速電脳についての懐かしいブログを見つけたので、それを紹介して「リトル☆コスモ」の件は終わりとしたい。

http://storys.jp/story/359
 
 
■AKIBAドラッグ&カフェから感じる文化の在り方
神田明神通りを中央通側へ歩いていく途中、左手に目立ちすぎるピンクの看板が視界に飛び込んできた。「AKIBAドラッグ&カフェ」と銘打っているが、今まで全く気付かなかった。名前からして薬局とカフェが併設しているのだろうか。あとピンク色という狙い済ました看板から、多少アダルトかつオタなカフェなのだろう。そこまでは推測できた。

しかし、現実に中を見てみると想定以上に衝撃を受ける。カフェと呼ばれる店内には、フワフワのチビリュックを背負って多少メイド寄りな格好をした姉ちゃん等が歩き回り、給仕をしている。宇宙アイドルならともかくメイドであればアキバを歩く度に道端で見かけるからすっかり耐性も出来上がっていると思いきや、まだまだ脆弱のようだった。想定通りなんだけど、細胞がまだ付いて行けない。頭がクラッとした。

やはり、踏み超えてしまっているように感じるのだ。それをやるやらない、そこに行く行かないじゃなくて、アンダーグラウンドってものはもっと目立たずに密かにやるべきものなんだ。表に出てくると明らかに異質であり忌避される。それでも堂々と出てくる、その境界線の無さが僕は嫌なのだと、その時分かった。

無論、そういう需要を堂々と出していい街はアキバくらいなものだから、ここに集結せざるを得ないと思うのだが。これらメイドカフェやマイナーアイドルがアキバの文化なのだとも言われるが。僕からすれば、これは文化じゃない。文化というものは、誰かが煽るものでもなく、無理な宣伝をすることもなく、自然発生的に定着し、淡々と脈々と受け継がれていくもの。メイドやアイドル系は、淡々としていない。

かつ事情をあまり知らない外部の人間がそう見なすだけでは成り立たず、内部に居る人間もそう思わなければならない。内部の人間が文化だと言い張るのではなく、それを外部に向けて堂々と誇れるものでなければならない。何も知らない外国人やほんの一部の日本人を相手にしている間は到底文化ではないだろう。

これは文化に名を借りた亜流であり外伝。文化だと言い張り続け背伸びしている状態を脱せない。一定の地位を認められていると思っていても、実はまるで認められていないケースは往々にしてある。アニメやゲームは既にアキバの文化になった。だがメイドや地下アイドルは永遠になれない。少なくとも僕は確信している。

アニメのDVDを買い、ゲームを家に持ち帰り、家で黙々と楽しみ、それを同じ趣味を持った同志達を共有し、次第にリアルな関係を築き、リアルな飲み屋などで趣味のアニメ話などをしながら、互いのリアル生活圏へと少しずつ踏み込んでいき、人間と人間との関係性を築き、同じ魂を持った者同士だからこそ深い部分での結束は固くなる。これが僕の考えるサブカル文化から得られる最大の果実だ。

その発端として、ショップにひっそりと陳列しているDVDコーナーを粛々と物色していく。この粛々と陳列するというラインまでが僕の定義する文化の水準であり、自然発生的に起こる文化の核心である。

製作者の姿見えぬアニメDVDを買いに行って静々と盛り上がるのはいいが、メイドや地下アイドルの在り方には賛同できないのだ。どう見ても低クオリティに暴利を掛け合わせたコンパニオン達が街行く金蔓な男達を、純粋とは縁遠い猫撫で声で絡め取ろうとする光景に、僕は矜持とか品性をまるで感じられない。よって文化にはなり得ないのである。
 
 
■油そば「春日亭」
神田明神通りを歩きながら中央通りに差し掛かる一歩手前の通り。まんだらけや、少し前までドスパラパーツ館があった小道だ。ベルサール秋葉原の裏手でもあるこの小道は、意外と人通りが多く、アキバの中でもそれなりに重要な存在感を放った一画だ。ドラクエローソンもある。

しかし、それでもかつてのT-ZONEや俺コンハウスなどのPC自作ショップが隆盛だった時代に比べれば、客足は遠のいた気がする。この小道は今やパーツ色は殆ど見られず、飲食店とバラエティグッズ屋、エロDVD屋、そして小ぶりの中古PC店やアウトレット店がメインの、いわばジャンク通りと化していた。

一言で言えば魅力がない。この通りには何でも屋「あきばおー」もあるが、そのあきばおーが一番マトモに見えるくらいだからな。そう考えると、あきばおーは昔の雰囲気を引継ぎつつ今現在も存続している数少ないアキバの顔の一つかもしれない。

そのあきばおーの隣、すなわち神田明神通り沿いに、「春日亭」という油そば屋が出来ている。気付けばいつの間にかそこにあった、という感じだ。そして今回その存在に気付いたのは、店舗内容よりもその看板。デカい看板にウエイトレスの格好をした美少女の萌え絵が描いてあったからだ。萌え絵で客の注目を引くという手法はアキバでは常套手段だが、それゆえに珍しくもない。しかしラーメン屋という本来のアキバ文化の外にある業態で萌え絵を使用するのなら、逆に特異性が出てくるだろう。しかも現在流行の可愛い絵ではなく、多少リアル風な劇画的なタッチも織り交ぜた絵。その現実ではあり得ないナイスバディのウエイトレス萌えっ娘が、こちらを向いて「油ビーム!」とかやってるわけだから、興味がない人間でもふと意識を向けてしまうだろう。その油ビーム!は全く脈絡も意味もない。しかし大切なのはインパクト。そのインパクトをこの看板は十分に有している。まずは第一印象が大事なのだと分かる。

それに、そもそも春日亭は、ラーメン激戦区西池袋を発祥とした油そば店。そこから都市部を中心に現在8店舗を構えている。この辺、つけ麵屋「やすべえ」に通じるものを感じるが、アキバ店もその中の一つに過ぎないということ。元々実力は折り紙付きなのである。僕は食ったことないけど、実際外に立て掛けられたメニューの写真を見ても相当旨そうだし、何より客がかなり入っているのが良い証拠。不味い店に客は入らない。

だから多分、間違いのない店だと思う。その客引きのきっかけが萌え絵の看板にあるかどうかは知る由じゃないが、本来実力のある春日亭という油そば屋が、集客力の見込めるアキバという街で黒字経営していくために取った答えの一つがこの看板なのだろう。アキバの空気に溶け込むべく萌え絵を採用した柔軟性は十分評価に値する。

どうやら他の春日亭ではこんな色っぽい二次元のウエイトレス絵なんてないようだし、アキバ店独自の発想である。それを見るためだけにアキバ店に訪れる客も居るかもしれない。これはかなり上手な手法であった。萌え絵を抜きにしても、いつかここで食ってみたい。そう思わせるきっかけが萌え絵だったのだとすれば、それこそ店の思う壺なわけだが。
 
 
■他、諸々の新参店
その他、僕の全く知らない、いつの間にかそこに在った店がアキバには縦横無尽に乱舞している。まさに別世界だ。

「でかっ!最強肉」云々という目立つ煽りを入れた外装が目立つ、「1ポンドのステーキ ハンバーグ タケル」という店。いかにもボリュームのある肉屋という感じだ。

「トゥッカーノ グリル&バー」という店も、「肉MEAT」などといかにも肉々しい内容の看板。

その上に「Cafe&Bar B-cat」という、バーとは謳っているが写真に映るコンパニオンの怪しい格好と目付きは、どう見てもキャバクラをさらにいかがわしくさせた店。外食店に隠れた、アキバ族達のリアルなエロスを掘り起こそうというカオスな様相だ。

肉屋のタケルの奥には、「TWIN BOX」というライブ会場のような、クラブのような外観をした建物が見られる。通常考えればクラブなのだろうが、アキバでそんなものが流行るはずない。やはり地下アイドル達のライブ会場のようだ。

その「TWIN BOX」の入口前に、かなりの行列が出来ている光景を見て、僕は時代の流れを感じた。若者達が待ち遠しげに並んでいるのだ。男だけでなく女もいる。見かけ普通の男女がである。地下アイドルのライブを鑑賞するために。ホントに変わったと思う。

だが、ガラは悪くなったかもしれない。今や路上喫煙ご法度の場所で、彼等彼女等はまるで昼間のようにダベり、隅の自販機の周りに群がって堂々とタバコを吸っている。その場所はかつて、僕がPC系のお客の商談に行く前に携帯灰皿片手に、密かにタバコを吸っていた、いわば禁域のような場所だったはず。それが今やウザガキの巣窟である。

ドンキ前のAKB劇場待ちの行列で食べカスを道に投げ捨てタバコを吸っていた連中を見た時も感じたことだが、マナーが悪くなったというより、自分等以外に人は居ないとばかりの無秩序さに、何も考えていないそのお気楽な顔にこそ空恐ろしさを感じた。

そりゃ、かつてのアキバを愛していた古参の人間が近付きたくないわけだ。一言で言うと、賑わってはいるが全体的に薄っぺらくなったように思う。肉々しさと欲望を隠さない無秩序さは昔以上だった。

しかし、これこそが時代の流れ、世代の違いか。10年ちょっとでここまで変わるという。
 
 
■未だ残る店
その中でも、10年前と変わらず残る店も多数見られる。飲食店に限れば、牛丼サンボや神田食堂は当然のこととして、定食屋のキッチンジロー、カレー屋のラホール、九州らぁめんじゃんがら等はまだ存続していた。キッチンジローは微妙だが、どれもかつて「こいつぁ美味え!」と絶賛したはずの、当時のお気に入り店だ。恐らく今食っても美味しいと感じるはず。安定した人気で存続してきた真の古株、また会えたね。

だが、かつてのように絶対的な店ではなくなったのも事実。アキバには、他にも美味いと言える店があるし、今のお気に入りは「やすべえ」であるように最上位に位置する店も全く異なっている。つまり、それほどクオリティの高い店がこの10年で出現してきた証拠で、それ以上にライバル店の少なかったかつてのアキバの数十倍、もしかすると数百倍もの店が出店し続けたという絶対数の大きさに起因する部分も大きいだろう。それほどにアキバは飲食店が乱立する街と化していた。

その長年に亘る飲食店同士の凌ぎ合いのため、キッチンジローやラホールなども今やアキバに数ある飲食店の一つに過ぎない。今、僕は、10年前は常時行列だったじゃんがらの入口を見ている。外には誰も並んでいない。当時を考えればあり得ないこと。だが、この光景こそが客達の選択肢が増え、それぞれがそれぞれのお気に入り店に分散していた証明で、それが時代の流れということなんだ。
 
 
■土産
と、新時代のアキバ巡りをしている内に、気づけば19時半になっている。そろそろ会社に戻らなければならない。昭和通り沿いにある高架下の隔離された喫煙者達の穴蔵でタバコ一本吹かしてから戻るとしよう。にしてもこの高架下の喫煙所。皆が追いやられるように集まり、無言でタバコを吸う光景。この差別的隔離がまた心地よい。

ていうかあんまり仕事しなかったな。ま、いいや、戻ろう…。

と思って会社に連絡すると、直帰で構わないと言われた。今さらラッキーという喜びもないけれど、せっかくだし土産でも買って帰ろうとヨドバシ前に立ち並ぶスイーツ店を物色する。クレープ屋がずっと気になっているけど今回もやはり恥ずかしいので買えず。結局、ビアードパパに収まった。

少し守りに入りすぎだと苦笑しつつ、ビアードパパのクオリティは群を抜いているのも確か。今回はバレンタインデーにちなんで「生チョコシュー」という期間限定商品が売っていたので、それを一つ購入。もう1つ、僕のお気に入りパリブレストをその手に携え、折詰をぶら下げる波平のように電車に乗った僕。その蕩けるような甘さで僕のささくれだったソウルを包み込んでくれないか…。
 
 
■休み前の水曜日
そういや今日は水曜日。サンデーを読んでいなかった、コンビニに寄んなきゃ。マギを読まなきゃ。見ればマガジンもある。明日木曜が建国記念日で祝日のためか、木曜発売のヤンジャンやモーニング、チャンピオンまでコンビニの本棚に出揃っている。さっさと帰りたいのに、余計な時間を取らせてくれる。立ち読みの時間は、10分、15分、20分と、予想以上に長時間に亘ってしまった。

オレはなぜこんなムダな動きを。何でオレはアリババのようにカッコよくなれないのか。浅ましくマンガを立ち読みしてるからじゃないか? という自問自答を頭の中に追い払う。
 
 
■ジャンクフード
今日の夜メシは自前で僕一人。嫁は会社の人間と飲み会しているようだ。ほんの30分だけと誘われつつ、長丁場になってしまっているらしい。まさによくあるパターン。ちょっとだけ、ちょっとだけだからと言いながら「もうちょっと、もうちょっとだけ」と言葉には出さねど全身で帰るのを阻止し、ワケのわからない展開に引きずり込みながら最後まで持って行くのは誘う側の常套手段。

最初から何時何十分まで、と決めておけばこのようなズルズルとした展開にはならないが、予め「いついつには帰ります」と宣言するのも感じが悪く、誘われた側としても勇気がいること。その心理を計算した上での無意識的な引き止め作戦なわけである。

というわけで、嫁が遅くなるだろうことは既に予想済みだったことから、予め好きにメシを食おうと思っていた。しかしアジを捌くほどのテンションではないし、ココイチなどが目の前にあるが店に寄るほど弾けたいわけじゃない。マックのテイクアウトもどこか違う。

結果、サッポロ一番みそらーめんを柱としたジャンクフードに落ち着いた。柿ピーなどのつまみやスナック菓子も多数テーブルに配置し、少しだけ健康ぶってパックの絹豆腐なども用意する。そのパックのままの絹豆腐に醤油をダイレクトに垂らすというカイジ仕様も欠かせないだろう。ジャンクマンとしては。

たった一日嫁が作らないだけで、一瞬にして本来の姿に戻る。これが自分の本性なのだと、オレは心の底からジャンク野郎なんだと思い知る。今日、自分達の天下とばかりにアキバの街を歩いていた若造等と大差ない。人の性格は、人は、そんな簡単に変わるものではないのだと…。

神田明神で数分間だけ見かけたあの天使姉ちゃんの、神性をまとった立ち振る舞いが、スラリと伸びた手足の先が、ジャンクフードを漁るオレの瞼にほんの一瞬蘇る…。当たり前だが、これは結構目立つ。

リーマンや姉ちゃん達。彼等は何を祈る。僕は。汚らしいに近い部分に


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