【朝メシ】
ドトール(職場付近-1人)
【昼メシ】
小諸そば 掻き揚げそばもり冷・たまご付き(職場付近-1人)
【夜メシ】
ラーメン屋「青木亭」(埼玉・八潮-友人1人)
友人宅家飲み(茨城・つくば-友人3人)
【二十四節気 定気法】
第13「立秋(りっしゅう)」:8/7~8/22 → 第14「処暑(しょしょ)」:8/23~
【イベント】
人形町、スポーツセンター、末廣神社→職場付近デニーズ、友人宅家飲み
【所感】
■別に混んでもいいんだけど…
最近、早朝のプールが混み始めている。今日も例に漏れず、開場してから10分後には芋洗い状態になった。なので最初の10分が勝負。300メートルほど一気に回泳する。人が多くなれば、自分の進路が狭まり快適に泳げないから。まさに鬼の居ぬ間に洗濯の精神で逃げ切りたいところ。
誰もが目的意識を持って朝早くからプールに訪れている。その志を否定はしないし邪魔だとも思っていない。彼等は仲間、同志。よって寛容になれる、優しくなれる。偽らざる気持ちだ。その一方で、人が居なければもっと自由に泳げるのにな~という客観的自己利益の追求も常に持っている。どっちが本心というより、どっちも本心。
例えば、美味そうなランチ店を見つけたとする。店の前に大行列が出来ていたらゲンナリして入る気が失せるのではないか。そう言いながら、逆に店の中に客が一人も居ないのも入りづらい。それと同じだ。大混雑は避けたいが閑散すぎても不安になるのが人間。適度な混み具合が望ましいということだ。
その「適度」の範囲が人によって異なるから統一が取れないのであり、人によっては「混んでる」「空いてる」と判断基準もバラバラ。「混んでる」とより強く感じる者が他人を邪魔者と捉え軋轢が生じる。悪くするとそれが顕在化し喧嘩になる。
それを防ぐには仲間意識を持つのが手っ取り早い。コイツ等は同じ志を持った同志なんだ、だから僕にはコイツ等の気持ちが分かるし、コイツ等も僕の気持ちが分かってくれるはず。そんな意識の共有感が刺々しい雰囲気を緩和させる。つまり愛だ。好きな人には寛大になれる。守勢に過ぎるがそれしかあるまい。
そう思うことで、僕は混雑するプールを乗り切っているし、周囲に群がる他の客を暖かい目で見ている。そして、そういう視点で見れば、多くの人間が譲り合っているのが分かる。25メートル泳ぎ切ったらプールの端に立ち、向こうから泳いでくる人間がこちらに到達するまで待機しているとか。自分の進路前方に別の人間が泳いできたら、どちらともなく左右にずれてすれ違うとか。始めた頃は「自分のコースを頑として動かないで何て身勝手なヤツ等だ」と思っていたが、慣れてくると結構皆が気を遣って泳いでいるなと。思い込みとは恐ろしいな。現実が見えなくなる。「自分勝手なヤツばかりだ」と思い込んでしまうと全員が敵になってしまう。
プールという施設は、自由に勝手に簡単に設定できるランニングコースなどと違い、簡単には増やすことができない有限空間。新たにプールを1つ造るだけで、大掛かりな工事とコストが発生する。プールを見張る監視員も必要。本当に制限だらけだ。
しかし、だからこそ寛容の精神を持たねばならないし、ステージが制限だらけだからこそ利用者の自由度もまた制限されるのが道理だろう。一人一人がある程度のルールやマナーを持って臨まなければプールは立ち行かない。
というわけで、対向泳者と接触しそうな局面は今や滅多にないけれど、たまに自分の泳ぎばかりに集中しすぎて前方の相手に気付かないことがあるので気を付けたいところ。市民プールで大切なのは集中力の深化ではなくむしろ分散だと言える。
だが、初心者はえてして目の前のことで一杯一杯。意識を分散させて泳げというのも酷な話だ。よって、衝突や接触を避ける努力は、技術的にも精神的にも余裕のある中上級者がまずすべきだと思う。僕の場合、使っているコースは初心者向けフリーコースだが、泳力的には恐らく中・上級者の仲間入りをしているはずなので、それに相応しい動きをすべきだと再度意識するのだった。
よく見れば他の中上級者、というか慣れてる人達もそうしているし。慣れてくれば視野は広がるし、見えないものが見えるようになってくるはず、ということだろう。頼もしい限りである。ただ、1人だけ、スピードもパワーもある泳ぎをしていながら、避ける気配なくマグロのように一直線に突進するデカい兄ちゃんが居るけど。ぶつかったらタダでは済まなそう。怖いぜ…。
■惰性でやっても仕方ない
というわけで、最近続く混雑状況の中、最初の10分程度だけ回泳。混み始めてからは、タイミングを見計らって25メートルずつ泳いでいく。ただ泳ぐだけでは成長がないので、足を鍛えるためにクロールの手掻きはほどほどにバタ足だけで泳いだり、逆に両足を一切動かさないまま手の掻きだけでクロールしてみたり、いつもは顔を左に上げて息継ぎするところを敢えて苦手な右の息継ぎで頑張ってみたり、何かしらテーマを決めて残された時間を消化する。
特に息継ぎの向きについては、左右を変えるだけで一気に不自由さが増す。箸持ちと同じで、やり易い方に流れがちのため癖が付いてしまったのだろう。反対にした途端、上手く呼吸が出来ないし手の掻きも素人同然。別人のように泳げなくなる。裏を返せば、上級者には程遠いということだ。
野球などだと、スイッチヒッターになる必要はない。自分の得意な向きだけを伸ばしていくのがベストだと思う。だが水泳の場合は苦手部分を克服した方が、最終的に速度も持久力も全て向上する気がするな。片方に偏ると恐らく不利だ。左右のバランスが大切。左右で同じ動きが出来てこそ無駄な動きも少なく、泳力も伸び代が増えるのではないかと。
バタフライ、平泳ぎ、背泳などでは気付き辛いが、クロールの息継ぎをした瞬間、左右のアンバランスを顕著に思い知る。掻き方もぎこちなく、ともすれば沈みそう。自分の身体とは思えないぎこちなさ。左で出来ていたことが右で全く出来ないということは、パワーの伝え方、筋肉の使い方が間違っているということ。つまり欠点、苦手部分だ。大分上達したつもりだったのに、ある意味落ち込む。
だが考え方を変えれば、これは新たな課題の出現だ。上達するためにこれ以上何をすればいいのか分からない中、明確に改善すべき点を見出せた。これは幸運と言っていい。最ももどかしいのは下手になることではなく、やってもやっても上達しないこと、道が見えなくなること。停滞こそが目的意識を見失わせモチベーションを削り取る。だから欠点が浮き彫りになったことを、新たな道を見つけたと考え前向きに捉えるべきだろう。
今回の場合だと、右の息継ぎを左と同じくらい楽に綺麗にこなせるという新たな目標設定だ。既にクロールで1km泳げるようになった。多分2kmでも3kmでも行ける。速度も大分増した。ノンブレスでの25mも苦ではなくなってきた。今の自分の中で出来ることはあらかたクリアしたつもり。
だからこそ、「息継ぎの向きを変えて左右のバランスを均等にする」という目標は新たなステージなのであり、それをクリアした際には確実なレベルアップが約束されると信じる事が出来る。そう考えるだけでまた向上心が焚き付けられるのだ。
泳ぎ始めの頃はそんなこと考えもしなかったが、続けていると色んなものが見えてくるな。水泳は、楽しい…。
■眠気が飛ばない
というわけで、自分なりにハードに運動しているつもり。その証拠に着替えて外に出ると猛烈な睡魔に襲われる。途中寄った末廣神社の猫スエヒロも、奥の方でグッスリ寝落ちし反応ゼロだったことだし、僕も活動停止したいところ。通常は喫茶店の仮眠でそれを補っている。
しかし今日は、人形町駅前の馴染みの喫茶店が二つとも塞がっていたため仮眠が摂れず。已む無く職場付近のファミレスで休息を摂ったが、慣れた場所ではないため眠ることが出来なかった。「枕が変わると寝られない」と抜かす女子のような惰弱さだが、案外これが難しい。
そもそも、家やホテルなどの屋内と、電車や飛行機などの乗り物以外の空間で堂々と寝落出来るほど人間の心は図太くないのでは? それ以外の場所だと安全の確保が困難。あるいは他人の視線が多いため緊張感が高まり意識をシャットアウトできない。マックのように「居眠り禁止」と明言している店もあるし、明言せずとも店の雰囲気から睡眠を推奨しない空気が漂っていると肌で感じる。プレッシャーはより募る。
その点、喫茶店は案外居眠りしやすい環境にある。喫茶店のソファーや椅子は1人用であることも多いからだ。身体がすっぽりと収まるため、身を隠した気分になる。つまり目立たない。また、1人用だから場所を占有している後ろめたさがなく、周囲に気を遣わないで済む。あとは正面を向いたまま目を瞑るか、少し頭を落としてそのまま寝落ちすればOK。
1つだけ、テーブルに突っ伏して寝るのは、あからさまなので止めた方がいいだろう。というか殆どの店でNGだと思われる。座っている体勢で眠る。これが大前提であり、だから喫茶店の一人用ソファーはベストに近い。
対してファミレスは、お1人様用の机や椅子があまりない。4人用テーブルに1人座らされることもザラだ。本来なら快適すぎる空間だが、それだけに申し訳ない気がして睡眠に没入できない。しかもファミレスは店員が店内を定期的に巡回しているので、眠っているのを見つかったらどうしようという焦燥感も加わる。その点、喫茶店の店員は基本的にレジに張り付いており、客はほったらかし。人知れず眠りたい時には、その放置プレイが心地良い。
というわけで、激しい睡魔を抱えつつも仮眠が摂れないため、持参した小説を読んで過ごすしかなかった。ジュースが喫茶店と比べて遥かに安かったのがせめてもの救いだが、今は僅かなコストダウンよりも僅かな睡眠が欲しい。眠くて仕方ない。
■小説
ところで、小説は現在、内田康夫の浅見光彦シリーズ最後の事件と称される「遺譜」を読んでいるわけだが、最後と言いつつどうせ普通に浅見光彦本は今後も出続けるのだろう。内田のライフワークのようなものだからな。
それよりも、最近小説含め活字から大分離れていただけに、その億劫さを払拭するため馴染みのあるタイトルは打って付けだ。浅見シリーズは既に100タイトルを越えているか。その半分は読んだと思うが、キャラや物語構成に慣れているだけに、久々の文字もあまり抵抗感が無い。さすがにシリーズ最後に近いだけあって、浅見シリーズのかつてのキレというか若々しさが「違譜」の中でも健在とは言い難い部分もある。だがこの場合、求めているのは既にレトリックではなく、愛着の有無。惰性でも受け入れられるような、癒着にも似た緊張感のない関係だろう。文字から完全に離れてしまうくらいなら、なあなあでも復活のきっかけになればいいと思う。
内田康夫も既に80歳越え。ピーク時には1年で10タイトルとか20タイトルとか、鬼のような執筆をしていたとか。半ば狂気に囚われていたに違いないが、本人は充実していたに違いない。そんな鬼モードを体験をしてみたいものだ。きっと幸せな気分になれる。
■衰え
仕事後は、茨城の友人スーパーフェニックスの家で宅飲みすることになっている。今年の春頃、仲間内の飲み会でそんな話題が出た。大人にありがちな社交辞令的トピック、実現はまあしないだろうと踏んでいたが、意外と皆が乗り気で今回の実現に至ったという流れだ。少し意外だった。
しがらみの殆どなかった10年前に比べ、仲間内の多くが家庭を持ち、あるいは仕事に割く時間が増し、そもそも物理的距離が海を越えてしまったというケースも出てきた。結果、互いのスケジュールを調整できなくなっている。もはやコミュニティのメンバー全員が集まりうる機会といえば結婚式くらいしか思い付かない。一ヶ月ぶりだな、というのはまだマシ。3ヶ月ぶりとか、半年ぶりとか、オレ等って今年に入って会ったっけ? なんて会話もザラだ。住んでる場所は近いのに。事実、SNSやLINEなどネットですら会話していない面子も既に居る。
過去の蓄積された友誼や安心感があるゆえ交友関係が途切れることはまず無いだろうが、コミュニティとして既に形骸化しているのは確かだろう。皆がそれぞれの人生を歩み、その人生を守るために優先すべきものを全うするので精一杯といったところか。脆いものだな、と最近とみに思う。カタチに拘るわけではないが、一抹の寂しさは否めない。
とは言いつつも、そのカタチを維持するために自分自身が努力しているかと問われれば全くそうではなく、流れに任せていたのが現状。それどころか、むしろ自分が率先してフェードアウトしていた気もする。諸々の誘いを大分スルーしてきたし、SNSでの全体会話でもレスが甚だ遅かったり、とにかくレスポンスが悪くフットワークが重くなったという自覚。億劫になったのか。「ま、別にいっか」という見切りと、「いやここは反応すべきポイントだろ」という踏ん張りとの天秤が、見切りの方向へ大きく傾いたまま久しいといったところか。
何でもすぐに見切り、諦める。殆どの物に、人に、事に執着しなくなっている。だからと言って頭のキレが増しているわけでなく、エネルギーが漲っているわけでもない、ただ気が抜けたまま時間が過ぎているだけ。やり切ったという完全燃焼感か、別のものに興味が向いているのか、年を取ったのか。自分だけでなく、恐らく他の面子にも共通する現象のはず。
何事に対しても持続力が低下してきている。集中力も続かない。体力もない。鍛練しないので尚更減少していく。なのでフットワークも重くなる。決めてから動くまでの間隔が長くなってくる。あるいは決めないという選択肢を取る。現状維持の優先という。
また、大抵のことには驚かなくなっている。感動が薄まった証拠で、それはつまり感受性の衰え。頭が衰えると活動し続けるのが難しくなる。つまり走り続けることが出来ず、すぐに息切れする。休息に充てる時間が増えてくる。メリハリもなくなり、感情のブレ幅も縮小していく。間違いなく老いた。
守るものが出来た、生活スタイルやリズムが変化した、重きを置くべき対象がシフトした等々、全うかつ的確な理由があるけれど、実は根本的な理由はそこじゃなくて、ただ衰えた、老いたからというのが正しかろうな。
そんなところまで見れない、手が出せないというのではなく、昔は見えていた視野が狭まったため広範囲に見通せなくなったのであり、昔は出せていた手が縮んでしまったため手を伸ばしても届かなくなっている。だからその前に思考をシャットアウトして取捨選択という名の切り捨てを繰り返していく。とにかく全角度的にキャパシティが減っている。単にキャパシティを超えてしまうから対処できない。対処しないという選択を本能的にする癖が付く。とみにそう思うようになった。
さらに自分の場合、仲間内との家飲みや旅行等も散々やってきた感がある。ゆえに、そういったイベントになかなか食指が動かない。飽きた、燃え尽きた、気力が尽きた、どの言葉が相応しいか。そこそこの達成感に満ちているのは確かだ。取り立ててイベントを企画し続ける必要もないのではないか、と。
ただ、旅行などであれば現在進行形で今も旺盛に出かけている。同行者が嫁になっているだけの違いがあるのみで、まだまだ外への興味は尽きていない。ということは、やはり遠出が億劫になったのではなく、相手によって優先順位を付けているだけという話になる。有り体に言えば家族を優先させている、ということ。
当たり前じゃん? と即座に思うが、なぜ当たり前なのか、本当に当たり前なのか、その点を考える必要がある。考える前に常識だからと問題を片付けてしまうのは、その結論に至るまでの過程に思いを馳せないということで、本当の理由も分からないまま断言すること。つまり思考停止である。なので考えてみる。
まず家族の定義としてメジャーなのは血縁。つまり遺伝的に繋がる関係だ。子孫繁栄、すなわち種の絶滅を防ぐのが生物の根源的欲求であり義務であるならば、同じ遺伝子を持つ者同士はより仲間意識が強くなり結束も固くなるのが道理と見て間違いはない。親は自分の遺伝子を受け継ぐ子はまさに分身であり、それが母親であれば自分の胎内から生まれ出た子は我が肉体の分裂体であり半身。全力で守り、庇護し、愛しても不思議ではない。自分の後に託すため。自分自身の遺伝子を残すため。それがひいては自分の存在を、存在したという記憶の欠片を残すことになる。そんな切っても切り離せない血縁関係だからこそ優先順位は高まる。ありきたりだが、理屈としては正論すぎる正論だ。
だが血縁だけが家族じゃない。養子縁組を始めとする血縁外の繋がりを以ってして家族とする、という思想やシステムは昔から存在していたし、超えるハードルは多くとも現在その手法はより浸透し、寛容に受け止められつつある。そして、ある程度厳格な素行調査のお陰か、養子関係の家族は円満かつ良好な家族関係を築けるケースも多いという。種族は違うが捨て猫の里親募集もそれに類するのではなかろうか。
血縁ではない。しかし「家族」という名の下に作られた絆。同じ屋根の下に生活し、その生活において最も長く時間を共にしうる対象。優先順位が非常に高くなることに変わりはない。言い方は悪いが、時間を掛ければ誰だって懐くし愛情も湧くのが人間の心理だと思われる。
その器となるに最も手っ取り早く適切なものが「家族」。理性で、あるいは感情でこう思う。家族が第一優先、全ては家族のために、と…。最終的に死を看取るのは結局家族なのだから。生と死に直接関わるという点で、家族は他の繋がりと一線を引いている。よって、このキーワードの強力無比は揺るがない。隙がない。ということになるか。
それは分かるのだが、わざわざ強調して言うと何故か白々しく聴こえてしまう。だからあまり口にしたくはないというのが本音だ。それに、家族が最も崇高かつ至上だとするならば、その原理原則から外れた者は人間じゃないというのだろうか。家族が居ない者はどうすればいいのか。嫌い合い憎み合う血縁や家族だってある。世の中、全てが愛情と信頼に満ち溢れた家庭を築ける家族ばかりでもない。そういう人間は生きる資格すらないのか。
血縁ではなく、同じ地域に住む関係を大切にする地縁という見方も世の中にはある。武家社会などでは重要視された模様だ。また、会社を始めとする共同体や集団の縁を重んじんる社縁という縁に繋がりを求めるアプローチも存在する。結局、時代や世情によって異なるものだ。結局それは、オタやLGBTを虐げるのと同じで、マジョリティによるマイノリティへの強制なのではないか。そう思うのは飛躍しすぎだろうか。
それでも最後に帰るのは家族だから…。その家族を形成できなかった人間は、一体どう身を処する? 魂は救われないのか? そのキーワードだけじゃないけれど、だからあまり、分かりきったことを声高に叫ばない方がいいんだ。暗黙の了解を声を大にして言うと逆に白々しく聴こえる。
と言いつつも、かつて形成していたコミュニティ内の活動はほぼ終息しているのが現状だ。
一人身の頃は、誰もが似た趣味や同じような行動をしていたので話が尽きなかった。しかし今は、全く違う生活スタイルを各自がしているから共通の話題が少ない。有り体に言えば話が合わなくなってきている。
斯様なコミュニティでの触れ合いは一時的であり、いかに回数を重ねようと最終的には先細る。代わって、共有する時間が延々と蓄積していく家族間にコミュニケーションの場がシフトしていく。自然現象的に確か。ただ、家族間では通じない話題、深彫りできないテーマはやはり個人個人で持っているため、それが共有できるコミュニティへと一時的に駆け込む。
どちらがガス抜きなのか分からない。どちらも外せない。だけど、どちらかを外せと言われれば、恐らく多くがコミュニティになるのではないか。志は共に出来ても、死ぬ時は共に居られない立場だからだ。今の時代における傾向にすぎない。だが現代では今のところ家族中心の物の考え方が主軸だろう。
出られるだけ外に出て、多くの人間を知って、広げるだけ広げるのが恐らく理想の在り方。親元の庇護から離れた時期から十年か二十年か、人は世界を広げようとする。あまり居所を固定させて単体の器に精力を傾けすぎても視野が狭くなるからと。だが、時が経てば多くの人間がいずれそうなる。結局、必要最小限の器へと逆行する。これはどういうことだろう。還るべき場所が最初から決まっているかのようだ。
羽ばたく時間と、定められた還る場所。どちらが本編でどちらが外伝か、よく考えればこれもまた不明瞭だ。どこに向かって生きているのか、そしてどこに還るのか。考えても今の時点で答えは出なさそうだから、今はただ久しぶりの家飲みを楽しむことにする。
■忙しない動き
家飲みの参加者は、会場たる家を提供してくれる茨城の友人スーパーフェニックス(仮名)。長らく同じ足立区同盟で結託していたが、家庭を持ったのを機に埼玉の八潮へ居を移した公爵(仮名)。コミュニティの幹事役かつ、リアルでも千葉で手堅い生活をしているバイクマン(仮名)。そして、そのバイクマンと生き方も思考も真っ向から対立し破戒僧の烙印を押されている僕こと佐波。この4名で茨城のつくばで家飲みする。
集合の目安は夜10時前にTXつくば駅着だが、各自の行動に性格が表れているから面白い。地元人のスーパーフェニックスは、現地の仕事場でギリギリまで仕事をしながら待機する構え。時間を無駄にしたくない性格かつフットワークが軽い性格だ。
堅実派のバイクマンは、そもそも斯様な家飲みや旅行に参加せず、飲み会でも時間を区切ってスパッと帰宅するのを信条としていたが、どこかで方針転換をしたのだろう。そこそこ無茶をするようになった。だが時間に遅れることは絶対にないという几帳面さは相変わらずで、今回も恐らく会社を早引けしたのか定時で跳ねたのか、夕方5時~6時には既に秋葉原入りしていつでもTXに乗れる状態にしている。
割と無茶をしていた最若手の公爵も、子供が出来て日々忙しいのか、一度帰宅してシャワーを浴び、着替えてから出掛けるという周到さで挑む。一番若いのに「ここのところ夜の10時半には寝ちゃうんだよな、でもその分朝6時前には起きてるんだよ」などとジジイのような台詞を吐いたかと思えば、「最近めっきり酒が弱くなってねぇ、ビール一杯で眠くなっちゃうんだよ」などと、かつてコミュニティ内一、二を争う酒豪とは思えないほど日和ってしまった模様だ。
しかし反面、公爵は律儀な部分もあるし柔軟なので、今回も僕に「一緒にメシ食ってから行かない?」と持ちかける。僕も当然その誘いに乗った。
その僕は、職場を出て家に帰っていたのでは到底つくばに間に合わないので、私服や下着など着替えをバッグに詰め込んで家を出る。靴なども持っていかなくてはならないので荷物はかなりかさんだ。会社の鞄と、私服用カバンと、あとは靴や着替えが入っている紙袋という重装備。この時点で一番気合を入れているように見えなくもない。舞い上がっているというか。
しかし、腰は重いがやるとなれば全力で行くのが自分流。せめて動く時には動く癖を付けておかないと、フットワークや持久力がますます低下する恐怖心もあった。
ただ、計画的に無理なプランを立ててしまうのは悪い癖だと思う。持ってきた荷物を職場付近のコインロッカーに預け、仕事が終わると同時にそれを取り出し、アキバか北千住のトイレに駆け込んで私服に着替えた後、公爵の待つ八潮駅で合流する。そんなプランだったのだが、そもそも仕事がいつ終わるか分からないのだから前提として既に破綻していることに気付いたのは、会社を出た後だった。
それでもダッシュで動けば何とかなる。5分くらい時間が余る計算だ。しかしこのギリギリのプラン立てで何か事態が好転するのだろうか。アキバに降りて、トイレで着替えを済ませようとする。しかしトイレの個室が空いていなかった。その時点でもうアウト。トイレが満室である想定をしない点でも冷静さを欠いていた。結局、汗だくのスーツに身を包みながら、余分に二つ荷物を持って公爵の待つ八潮駅へ向かうという失態を演じた僕である。
■ラーメン屋
八潮駅で公爵と合流後、「青木亭」というラーメン屋に連れて行ってもらう。チャーシューが売りのラーメン屋のようだ。店舗のタイプとしてはカウンターオンリー。ほぼ満席に近いから人気があるのだろう。店の外に券売機があるという変り種である。
ラーメンは、とりあえず味噌ラーメンをオーダー。量は中にしたが、予想以上に大ボリュームだった。小でも十分かもしれない。スープはこってりと僕好みで、総じて旨いラーメンと言っていいだろう。「青木亭」、なかなか使えそうな店である。
あと、この「青木亭」は店のウリであるチャーシューを持ち帰り出来るのが人気の一つだそうだ。公爵も家飲みのツマミとしてチャーシューをオーダーしたというか、元々そのために「青木亭」を選んだようだ。しかしまあ、そのチャーシューがまた旨くて。どっしりとブロック状になった青木亭のチャーシュー。質感があり、見るからに旨みがギュッと凝縮されている。これは旨かった、ホントに。家に買って帰ってやりたいくらいである。
青木亭のチャーシュー。覚えておきたい。
(青木亭Webページ)
http://www.negi.co.jp/
■TXの営業努力
旨いラーメンで腹を満たした後、僕と公爵はTXに乗ってつくば駅へと向かう。TX車内は金曜週末夜とはいえ混雑の極みだ。いや、僕の知る限り、曜日に関係なく、朝も夜もTX車両はリーマンやOLでパンパンである。公爵も「TXっていつの間にかこんなに乗客が入るようになったんだな」と驚きを隠さない。僕も同じ気持ちだ。
かつてヨドバシAKIBAと示し合わせるように約10年前に開業したTX、つくばエクスプレス。オープン当時から爆発的な来客を欲しいままにしていたヨドバシとは対照的に、当時のTXは閑散一路。JRや東京メトロはもちろんのこと、都営大江戸、都営浅草など各私鉄の線路よりもさらに地下、最下層にまで潜らねばならないモグラ電車。千代田区のセントラルドグマだなどと揶揄されていた。乗客も殆どおらず、まるで大三新東京市のモノレールのごとき空疎な車両だったのを覚えている。いずれ廃業するんじゃないかと。
しかしそこから10年。茨城県民にとってJR常磐線が都内への唯一のルートだとすら言われたレッテルも過去のもの。都市開発の末、世界のアキバとなった秋葉原と、茨城一の学園都市・つくば市とを起点・終点とした関東大縦断作戦は功を奏し、沿線はなるべく地価が安く都内にも近い場所を求めた勤め人のベッドタウンとして活用され、結果、TXは時間帯に関係なくいつでも乗客満員御礼の優良鉄道へと進化を遂げたのである。これぞTXの営業努力の賜物、誘致活動の勝利と言えた。
■家飲みに準備するものとは
つくば駅に到着後、家主スーパーフェニックスのクルマで会場へ移動を開始する僕等メンバー。途中、コンビニに寄り買い物を始める。ロックアイスと各自ドリンク数本。酒はスーパーフェニックス宅に響17年を始めとする高級酒がストックしてあるのでそこまで買う必要がない。
だが、缶ビールくらいはあった方がいいだろう。僕はビールを5~6本カゴに入れていく。「ビールなんて飲まないんじゃね?」とバイクマンなどは言うが、まだ浅い。飲み始めてグダグダになってくれば必ずビールを欲する。そういう風に人間の身体は出来ている。僕には自信があった。
そして結果、そうなった。ビールは大人気だった。
また、少し甘いものをと氷結も一本だけ買っておく。バイクマンは「高い酒飲むのにそんなありきたりな酒買ってどうすんだよw」と呆れ顔だ。公爵等も同調する。だが、歴戦の飲み男たる僕には分かる。ウイスキーを飲んで、ビールを飲んで、塩辛いツマミを食って、甘いものが欲しくならないわけがない。味覚というのはバランスだ。辛いものばかり摂取すれば甘いものが欲しくなるのが道理。まして酒を飲んで舌はバカになるだろう。判断力も麻痺するだろう。そして我々は大人だ。ジュースでは物足りない。必ずチューハイやカクテルのような、甘い酒が必要になる。記憶を無くす前の夜神月のように自信がある。
そして、その通りになった。「氷結って美味ぇな」と誰もが目からウロコが落ちたとばかりに絶賛。そう、氷結は本来美味い。しかもそれを必要とする場でサッと出したらもうイチコロよ…。
他の者はいざ知らず、僕自身は今でも現在進行形で家飲みしている言わば現役戦士だ。家飲みの機微、酔っ払いが無意識に欲するものは把握しておる。無謀なようで計画性に富んだ買い物。この機転や計画性は若かりし頃に引けを取らないと自負している。
ツマミは、寄ったコンビニ以前に立ち寄った八潮のスーパーでツマミセットやブロックチョコ(これは欠かせない)や、その他スナック菓子を計6点ほど買っている。さらにコンビニで、ポテチ系や渇き物系、そしてカップ麵や揚げ物などをガンガンカゴに入れていく。特にスーパーフェニックスがタガの外れた子供のように、菓子やらペットボトルの飲料を計20個くらいは放り込んでいた。
結果、カゴ三つ分の買い物になった。バイクマンは「こんなに食えんのかよ!」とこの上なく呆れ果てていたし、僕もそう思う。金の無駄だろうと。
だが心情的にはそうじゃない。全部喰いきれない、飲みきれないことは分かってる。ただ買い込みたいのだ。カゴを山盛りにしたいのだ。これから始まる宴会のためテンションを高めたいのだ。ワクワクしたいのだ。
なぜなら、祭りだからである…。
祭りで細かく小銭を計算する人間はそう居ない。逆にそんなことをしたら楽しみが半減する。何も考えず、目の前にあるものを本能のまま買って、本能のまま喰う。終点など定めずに行けるところまで行く。ゴールすることに意味は殆どない。やることに意義がある。祭りとはそういうもの。
スーパーフェニックは、この家飲みを祭りと捉えていた。よって無意味な行動をするのである。して、なお楽しくて仕方ないのである。僕も、そう思う。無駄に買って、その殆どを消化できず、だけどまあいっか、と適当に問題を片付ける。
振り返れば、自分の家、他人の家、旅行先の旅館など場所を問わず、家飲みする前に買い込んだ食糧や飲料を全て消化できた記憶は殆どない。基本、残る。だが後悔した事もあまりない。なぜか。あの時も、その時も、そしてこの時も…僕はただ、祭りを楽しんでいただけだったのだ。
祭りの後は物悲しくて、祭りの最中は我を忘れるもので、祭りの前は…楽しい。
■質の高い酒とツマミ
そして始まる宴会。とりとめもない話をしつつ、サントリーウイスキー響の17年を中心に高い酒を煽る。量よりも質を求める傾向。そういう年齢。僕等は全く以って大人になった。
ツマミも公爵が調達してきた激旨チャーシューや生ハム、ビーフジャーキー、ドライフルーツなど高級路線で行く。通常のスナック菓子も当然旨いが、やはりこれも渋みのある大人ゆえか。これが大人になるということか。どれもこれも美味だった。
だが酒量や胃袋は減退しているので、当然のごとくツマミも酒も大量に残す。未だ現役の僕だけが、注がれるままにビールやウイスキーを喉に流し込み続ける光景を見ながら、自分の酒量が増えたのではなく他の皆が酒に弱くなったという事実に複雑な思いを抱く。相対的に僕が浮かび上がっただけの話だ。ホント、みんな酒が弱くなったよな。何か悲しいぜ…。
■大の大人4人でアニメ映画を鑑賞する
食や酒は大人だが、やってることは学生時代や若い頃と同じ。近況を少しだけ話した後は、元々の趣味であった漫画の話やゲーム、アニメの話で盛り上がる。基本的にそれで集まったコミュニティなのだから、いざとなればそこに行き着くのだろう。共通の話題といえばやはりそうなる。10年以上経っても、互いの呼吸や間の取り方は健在だ。強固な共有事項が依然として存在することが嬉しくもあった。
その内、ヱヴァンゲリヲン破のDVDを鑑賞することになった。スーパーフェニックスとバイクマンは今話題の「シン・ゴジラ」を観てきたようで、それがヱヴァっぽいともっぱら主張。その予習も兼ねて、スーパーフェニックス宅の60インチTVで2時間、僕等はヱヴァ破を観ながら深夜まで時間を過ごす。
皆、一度か二度観たはずだが内容を忘れてしまっているようだ。事あるごとに僕に質問してくる。僕は映画館で5回、DVDも合わせれば数十回はリピートしているので記憶の欠落は一切ない。惣流アスカがなぜ劇場版で式波なのか、とか、加持登場のシーンはBD版のみのカットだぜ、とか、水を得た魚のように説明して差し上げる僕に、他の三人は羨望のような、呆れ返ったような生暖かい視線を向ける。その視線が何よりの馳走です。
にしても、このヱヴァ破が初めて劇場で公開された2009年、バイクマンを除く僕と公爵とスーパーフェニックスの三名は、このつくばの地にあるYOUワールドで鑑賞している。当時、映画オフという名の下に、ジブリ映画やヱヴァを観つつ、そのまま公爵の家に泊まって家飲みしたりしていたものだ。
そこから7年後、やはりつくばのスーパーフェニックスの家でヱヴァ破を鑑賞しているという偶然、いや符合。アスカやレイの歯が浮くような恋愛コントに「あざとすぎるなw」と苦笑のツッコミを入れるスーパーフェニックスの言葉に、なるほど確かにそうだよなと改めて新鮮な観方が出来たり。だけどやはり、最後のゼルエル殲滅からレイ救出までの流れは何年経っても涙腺崩壊だな。
まこと、良い映画だった。
■世情を知ることと真理を知ることの違い
次にリオ五輪のニュースなどを観ながら分析合戦。バイクマンなどは「佐波さんはTVとかオリンピックには興味ないだろうけど、今世情では盛り上がってんのよ」と説明するが、僕こそ連日深夜までTVに釘付けのクチだったりするが、「まあそこそこ観てるよ」とだけ答えておいた。
仲間内の中では、僕はTVも観ず時事情報にも疎く、世間に興味のない仙人というイメージが昔からある。実際、昔はそうだった。本当に世の中の動きはどうでも良かった。自分の興味のあることだけに集中し、自分のすべきことを全うすれば、それで。
いつから変わったのだろう。週刊文春を読み始めてから世の中の出来事を少しずつ把握してきたという記憶はある。現実は、週刊文春に掲載されている記事の文章構成力の見事さに感心し、それを追う内に時事情報が後から付いてきたという感じだが。しかしその分、本来自分が興味を持って止まない分野に対する集中力が弱まったようにも感じている。意識が分散するというか、物事に対して突き詰めて結論を出すまで脳が持たない。純度が薄まった気がする。果たしてこれで良かったのか…。
ただ、大人になればなるほど、社会人として年月を重ねれば重ねるほど、時事情報と無縁ではいられない。いわゆるTVやネットのニュースに出てくるトピック。ある意味、それだけ抑えていれば大体の会話は成り立つとすら言える。それは自分のみならず、他の誰もがその流れの中に居るとすら思える。最も楽に入手でき、汎用性が高い分野だからだ。
共通項が多い、最大公約数的な情報源。そこから掬い取っていれば、差し障りなくコミュニケーションが取れるという、社会人としての最低生活保障を受けられるような安心感があるのではなかろうか。それは無難とも言い換えられる。
悪いとは思わないが、裏を返せば情報操作、印象操作はお手の物ということだ。多くの民衆がTVやネットニュースで情報収集をしているのならば、発信側としては意図的に一方通行の思想を流し続ければ民衆の意識を操作するのは可能。昔からどの国でも行われていたことであり、今現在も当然行われているはずの情報操作である。
現代はネットが発達し、一般国民誰もが360度の情報を得ることが可能だが、仮にニュースサイトを信じられず真逆の情報を入手したとしても、それが真実なのか確証もない。収集は可能だが、根本的にその情報の裏を取る術がないのは今も昔も変わらないのだ。
その点で、一億総ジャーナリストと言いながらも実は殆どが受身の姿勢。取材、調査能力は皆無に等しいということで、ジャーナリストではありえない。情報コレクター、そこまでである。「ソースは○○」と言ったところで、そのソース元が真実の情報を流しているかどうかの裏付けはどうするのか。結局そこまでが限界だ。
ウィキペディアで調べたところで、そのウィキペディアですら作為的に編集することも可能なわけで、編集者の意思が働いているわけで、それは受信者の心理誘導に他なるまい。マスメディアが疑わしいとて、利益を追求しない団体あるいは個人が発する情報が必ずしも正しいとも限らないのである。
個人個人で唯一真実に近い情報を伝えられるとすれば、それは自分自身の体験だけ。よってFacebookやツイッター、インスタ等のSNSによる、何の捻りもない日々の行動報告も、無意味なようであながち無意味でないかもしれない。ただ、そのSNS情報に思想が入り込んではダメだ。それはあくまで発する個人の感情的・個人的見解でしかなく、真相に沿った分析ではない可能性も高い。途端に疑わしくなってしまう。
だから最も信用出来るSNS情報としては、「今日は雨だった」「今日のランチは餃子の王将の味噌ラーメンです」「ディズニーシーに行ったよサイコー♪」「学芸会でウチの子が○○役で頑張ってまーすっ」「道端に猫がいるお、かわゆすかわゆす」などと言った、ありのまま目の前で起こったことを話すぜ的情報。最もつまらなく、最もレスに困る、最も陳腐な情報だ。
だがそれが限界。発信者、そして受信者の人と為りが分からない以上、陳腐なクオリティまでしか発信できないし信用もできない。陳腐だからこそ有効。陳腐だから多用され、多用されるから陳腐にもなる。ルパート・ケッセルリンクのこの名言を常に頭の片隅に留めておけば、情報に踊らされずに済むだろう。
しかし、それでも平気で嘘を吐く者だっている。話を盛る人間も。加工技術やCGが発達し過ぎたからこそ、物事を過大に見せることが可能。つまらなくとも等身大のまま、ありのままを発信できる人間は、ある意味心が強く芯のしっかりした人間なのではないかと思うようにもなった。
だが強い人間か否か判断する術は赤の他人には難しいので、相手の発する言葉遣いから行間を読み取り、人間性を計るしかないだろう。困難なようで、案外そうでもない。個々人の性格は話し言葉に、そして文章に滲み出るもの。それらを含めた読解力、反応力、表現力、すなわちリテラシーなのだ。
そのリテラシーから外れまいと意識している間は、多分人の道を外れない。責任がないゆえ裏付けを取る必要もなく、情報社会は一層無秩序。道を外れた領域も方々に散らばる世界。正常と異常の境目などもはや皆無に近く、境界線は曖昧の極みであるけれど、せめて異常に踏み込まぬよう。踏み込むにしても、覗くだけ。正常を保ちながら異常を覗く冷静さを保ちたいもの。その自制心もまたリテラシーと共にあるはずだった。
■YOUTUBE
オリンピックを語った後は、大画面でのYOUTUBE動画鑑賞会が始まる。何もない状態で個々人のトークだけで対話を繋げ継続させていく、つまり会話が尽きない状態にするのは案外難しいもので、何かしら共通の議題を提示した方が話は続き易い。
今回であればTVを垂れ流すという手法だ。自分から議題を提示せずとも勝手に降ってくるから、観ている者としてはそれに分析やツッコミを入れるだけでいい。つまり楽な作業。しかし沈黙を恐れるならばTVや映画、ゲームなど視覚に訴えかける映像媒体は有効と言わざるをえない。
僕等も若い頃はそんなものに頼らずとも延々と話が続いたのだが、これも大人になった証拠。己が道を歩む内に価値観が各自で大きくずれたというのは全員が自覚している。よって映像に頼るのである。
特にYOUTUBEともなればマニアックな映像がいくらでも収集できる。必然盛り上がりやすい。僕等はただ目の前に映った映像に対してツッコミを入れればいいのだから。無論、つまらないコメントを出しても余計に場が寒いだけだが、幸いウチのメンバーはツッコミ力のセンスに長けている。実際、次々に面白すぎるコメントが飛び出ていた。この夜は、どれだけ腹を抱えて笑ったか分からない。
そんな彼等のコメント力。よくそんな面白い言葉思い浮かぶな、といつも感心する。僕には出来ない感性、センス、リアクション能力だ。僕は苦手である。ゆえに僕は、喋るよりも書く方が好き。書いてばかりだからあまり発言しなくなったのか、元々発言しない性格だったのか、よく分からない。
とにかく、その手の面白コメントが苦手な僕としては、彼等の発する面白コメントに追従し、大仰にリアクションするのが仕事だ。自分の役割は心得ている。世の中は全く以ってバランスが取れている。誰もが歯車の中に組み込まれているのだと、強く感じた夜でもあった。
■それぞれの共通項
そのYOUTUBE動画の初っ端はアイマス動画。すなわち「アイドルマスター」だ。いきなりこれかと僕も噴いたが、案外全員が全員このゲームを経験しており、予想以上に盛り上がる。皆、普段すました顔しておきながら、各キャラの批評やカメラワークの分析、曲のリクエストなど現役顔負けの鑑賞会。僕も久々だったが、すんなりアイマス世界に溶け込めた。しかし今はここまでクオリティが高くなってんだな。驚いたよ。
ガス抜き的にこういうオタ部分もたまには持ってこなければなるまい。そのオタ部分は家庭では軽々しく出せないだろうし、出したところで共感されないだろうし。だからこそ、その共感を得られるオタ仲間の安心感と安定感。有事の際のオタ。と言える。
次に、8時だヨ!全員集合、オレたちひょうきん族、とんねるずのみなさんのおかげです、風雲たけし城など、80~90年代のコント、バラエティを延々と流す。
お笑いについて、面白い面白くないという規準は個人個人で異なり、それ以上に時代によって異なるだろう。これらYOUTUBEで流された動画は僕等が子供時代に見たもので、その刷り込みゆえか普通に面白いと思える動画が多い。シンプルな面白さというか。あまり捻りすぎていない。
それ以上に自由度が高すぎたというか、下品かつ放送禁止用語や映像も意に介さず、人権もなく、極めて無秩序で無法地帯というか。とにかく、好き勝手にやっている感があるな。倫理感の高まった現代なら間違いなく全てがたちまち放送禁止だろう。
まあ現代人の倫理感が高まったと明言もできないが。現代のやり方は、自主性に任せた規制でなく、強権をもって臭いものに蓋をする手法なので。実際、下品極まりない80~90年代のコント番組を観ていた僕等も、何だかんだと真っ当な大人になっていると一応思ってる。子供時代に教育上よくない媒体に接したからと言って、実際の成長にはあまり関係ないのかもな。
逆にある意味、汚いものを見ていた方が、思考が柔軟になって理性と自制心が育まれるかもしれないな。大人がそこまで心配するものでもない。などと思うわけである。ただ、暴走しうる情報は現代の方が遥かに氾濫しているのも確か。手綱を取るべきところは取らねばならぬが、今の大人は子供に甘すぎるから結果的に将来を悪くするかもしれないと、今一度考えても良いかもしれない。
とりあえずドリフなどのYOUTUBEは大変面白かった。志村けんや加藤茶のコンビは絶妙すぎるな、とも。子供はこういうので十分なのではないかとも思う。基本、笑いは純粋なもの、純粋な子供のために作るのがいい気がする。現代のように、大人にも耐えうる笑いという部分を気にするあまり、くどくなりすぎてもしょうがない。子供は単純というけど、そもそも大人だって大した事ないのだから、もっとシンプルに行ってもいいかもね。結局、今のTVには潔さが無い。だからスカッとしないのかもしれない。
■つまらない動画もある
その後、YOUTUBEでホラー映像というか、恐怖体験を再現映像付きで語る動画集を観ていたが、まあゴミのような動画であったな。名も知らぬ芸人が、さも本当に体験したかのように真剣な顔でインタビューを受け、真実のごとく作り話を一生懸命語る。茶番すぎて苦笑する。バラエティとはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが。
いやそうではない。バラエティなんてそんなもの、と言い切れる感性が既にリテラシーから外れている。壊れている。それを語る人間も、制作しようとする人間も、その制作に許可を与える人間も、それを受動し喜ぶ者も、喜ぶフリをする者も。既に正常ではない。つまり嘘が正義と公言し、嘘を容認しているようなもの。
こんな嘘を吐かずに最初からフィクションと断っておけばいいのに、あたかも真実のように話す。嘘だと分かっていて、わざわざ公共の電波で流す。茶番というか、頭がおかしくなったとしか言えないな。その積み重ねが現在の「TV=虚構」の図式を作り上げたことに気付かないのだろうか。
ともかく、この手の番組にだけは全く賛同できない。それを作るに至った異常性を考えるとまるで笑えない。まだ起きている最後の友人・スーパーフェニックスと「時間の無駄だったな」と頷き合ったのだった。
柔軟と無節操とは別物。TVはとにかく節操がない。
■大人には長すぎた夜
このつまらない恐怖体験動画を見終わった時、時計は既に朝の4時だった。宴会開始は10時過ぎからだけど、誰もが仕事してからの家飲みだ。単純な経過時間では計れない枠外の疲労が加算されているのは疑いない。僕もさすがに眠い。
眠った順序としては、毎日規則的な生活をしているバイクマンが深夜1時半頃にダウン。次いで、子供の世話で疲労が溜まっている公爵が2時半頃には落ちていた。そしてつまらないホラービデオを、不規則極まりない生活をしているスーパーフェニックスと、最近水泳のお陰で短眠に目覚め始めた修羅モードの僕で最後まで視聴。その直後、3時半頃にスーパーフェニックスがダウンする。
まあ皆、よく起きていた。疲れているだろうに。それだけ興奮していたということだろう。今日の家飲みが、眠気を一瞬忘れさせるほどに楽しい時間だったということだろう。それは家を提供したホストのスーパーフェニックスにとっても、参加した他3名にとっても喜ばしいこと。結論として、来てよかったと総括できた。
値落ちするまで30分を切った僕。暗い部屋に最後残った僕は、グラスに残ったウイスキー響17年の原液と溶けかけた氷とが混ざり合う、少し薄まった琥珀色の液体を飲み干した後、床に寝そべり静かに目を閉じたのだった。