20160824(水) 何たる香港、何たる放蕩、しかし唯一の宝刀

160824(水)-01【0640~0800】人形町、浜町緑道(喫煙コーナーペットボトル放置しまくり、エリア外でタバコ吸いまくり)、スポーツセンター(外人おっちゃん復帰)、末廣神社(スエヒロ)→鍵当番職場直行《人形町-1人》_01 160824(水)-01【0640~0800】人形町、浜町緑道(喫煙コーナーペットボトル放置しまくり、エリア外でタバコ吸いまくり)、スポーツセンター(外人おっちゃん復帰)、末廣神社(スエヒロ)→鍵当番職場直行《人形町-1人》_03 160824(水)-01【0640~0800】人形町、浜町緑道(喫煙コーナーペットボトル放置しまくり、エリア外でタバコ吸いまくり)、スポーツセンター(外人おっちゃん復帰)、末廣神社(スエヒロ)→鍵当番職場直行《人形町-1人》_04 160824(水)-01【0640~0800】人形町、浜町緑道(喫煙コーナーペットボトル放置しまくり、エリア外でタバコ吸いまくり)、スポーツセンター(外人おっちゃん復帰)、末廣神社(スエヒロ)→鍵当番職場直行《人形町-1人》_05 160824(水)-01【0640~0800】人形町、浜町緑道(喫煙コーナーペットボトル放置しまくり、エリア外でタバコ吸いまくり)、スポーツセンター(外人おっちゃん復帰)、末廣神社(スエヒロ)→鍵当番職場直行《人形町-1人》_06 160824(水)-01【0640~0800】人形町、浜町緑道(喫煙コーナーペットボトル放置しまくり、エリア外でタバコ吸いまくり)、スポーツセンター(外人おっちゃん復帰)、末廣神社(スエヒロ)→鍵当番職場直行《人形町-1人》_08 160824(水)-02【1500頃】香港料理屋「福盈門(フクエイモン) 鶴見本店 」《神奈川・鶴見-1人》_01 160824(水)-02【1500頃】香港料理屋「福盈門(フクエイモン) 鶴見本店 」《神奈川・鶴見-1人》_03 160824(水)-03【2030~2200】パチスロ偽物語 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_02 160824(水)-03【2030~2200】パチスロ偽物語 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_03 160824(水)-03【2030~2200】パチスロ偽物語 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_04 160824(水)-03【2030~2200】パチスロ偽物語 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_05 160824(水)-05【2340頃】刺身(アジ、マグロ、鯛)、新潟ナス、ピーマンのキムチ炒め《家-嫁》_01 160824(水)-05【2340頃】刺身(アジ、マグロ、鯛)、新潟ナス、ピーマンのキムチ炒め《家-嫁》_02 160824(水)-05【2340頃】刺身(アジ、マグロ、鯛)、新潟ナス、ピーマンのキムチ炒め《家-嫁》_04 160824(水)-07【0100頃】南国白くまアイス《家-嫁》_01

【朝メシ】
エクセルシオール(人形町-1人)
 
【昼メシ】
香港料理屋「福盈門(フクエイモン) 鶴見本店 」(神奈川・鶴見-1人)
 
【夜メシ】
刺身(アジ、マグロ、鯛)、新潟ナス、ピーマンのキムチ炒め、南国しろくまアイス(家-嫁) 
 
【二十四節気 定気法】
第14「処暑(しょしょ)」:8/23~9/6 → 第15「白露(はくろ)」:9/7~
 
【イベント】
人形町、スポーツセンター、末廣神社、エクセルシオール、鶴見、刺身
  
  
【所感】
■猛烈な暑さは続く
夏の最終段階「処暑」に突入したものの、まだまだ猛暑な日々。家を出てプールの更衣室に入るまでのたかが40~50分でTシャツもワイシャツもグッショリ濡れ濡れ。既に使い物にならない。Tシャツとワイシャツの替えを用意しているほどだ。それに着替えても、結局は職場に入った時には水浴びしてきたが如し。どんだけ濡れ体質なの?

とにかく夏場は不快感極まりない。スーツを汗で濡らしたまま動くのが気持ち悪いのだ。

タバコを吸うため寄った浜町緑道の喫煙コーナーの惨状が、その不快感をさらに煽る。備え付けのデカい灰皿の周辺には、飲みかけのペットボトルが散乱。そこらの人間達がゴミを放置しまくっているという証拠だ。少し歩けばゴミ箱だって、自販機の傍にも空き缶・ペットボトル入れは置いてあるのに、そこまで行くのが面倒臭いからと、公園の目立たぬ場所に廃棄する。

さらに浜町緑道のベンチ周りにはタバコの吸い殻が山と落ちている。それこそすぐそこに灰皿があるのに、わざわざ喫煙エリア外でタバコを吹かすという、とんでもない無精者がわんさか出没しているということになる。無精者の上に無法者。こんな綺麗な緑を備えた場所なのに景観が台無しだ。

外国人は、日本人の律儀さや規則正しさ、我慢強さなどを高く評価しているが、それはあくまで一部の人間。妹なんてそんないいもんじゃないぞ? と神原に言った阿良々木暦の台詞を借りるなら、日本人なんてそんないいもんじゃないぞ? である。過大評価がちと過ぎる。

とにかく、目の前に散乱したペットボトルや地べたに投げ捨てられたタバコの吸殻を見るだけで溜め息が漏れた。

また片付けなくては。
ああ…。

その苛立ちを収めるべく、末廣神社の猫スエヒロに会いに行った。スエヒロは相変わらず奥でぐでたまのように寝ていたが、僕の姿を確認するとムクリと起き上がり、ゆっくりゆっくり歩を進めて近付いてくる。何だかんだとオレのことが好きなんだな。気を良くした僕は、すぐ目の前まで迫ったスエヒロに微笑みかけながら「よう、スエ♪」と挨拶。

しかし何が気に入らなかったのか、スエヒロは前脚を少し前に出した体勢でいきなり爪を立ててきた。そしてシャーッと声にならない声でこちらを威嚇している、ように見えるが。その威嚇ポーズすら全然怖くない。おもちゃのようでむしろ微笑ましい。でも何かが気に入らないのは確か。オレ、何かしたか?

分からないまま、とりあえず威嚇ポーズを取るスエヒロの首筋を撫でてみる。するとスエヒロはいつもの通りゴロゴロと喉を鳴らして恍惚の表情。なーう、なーう、No―w、と甘えた声でもっと撫でろとせがむ。何だ、結局気持ちいいんじゃん? 一体どっちなの?

分からないまま、先ほどまでの僕との逢瀬が無かったかのようにスエヒロは、本殿前にゆっくりと歩いていく。そしてそのまま床に寝そべり、二度とこちらを振り向く事はなかった。僕への興味は一切なくなったようだ。

猫という生き物はつくづく気まぐれ。しかし癒されたので善しとしたい。
 
 
■香港料理
日中も引き続き汗だくの猛暑が続く中、横浜・鶴見に仕事で出掛ける。1人になれる解放感。時間配分を自分の意思で決定できる喜び。拘束されない自由は社会から阻害される自由と背中合わせだと知りつつも、一人歩きが止まらない。まあこの世から排除されたら次は地獄の鬼どもに傾くのみ。仕事案件は1つだけだったので、残り時間は気ままに過ごす。

とは言え、この極暑下で街を歩くほど好奇心旺盛でもない。近代と下町が融合した猥雑タウン鶴見を探索したい気持ちなど既になく、考えるのはこのサウナ状態からの避難。止め処なく垂れ落ちる汗をふんだんに吸い込んだスーツやワイシャツの冷却と乾燥。つまりクーラーの効いた部屋で休憩したい。それしか頭に無い。

かつ、腹も空いていた。夏場は発汗などの新陳代謝が高まるから空腹になりやすいのだろうか。しかし、冬場は冬場で寒さに耐える発熱エネルギーを生産するのでやはり腹は減る。激しい温度差は思考も鈍らせるし、人間とは全く以って燃費が悪い生き物だ。夏も冬も、いつでも消耗。消耗こそが人生の本質だ。

だが、消耗時のリカバーを怠りすぎるのも危険。回復が追いつかず沈黙しかねない。今やメジャーワードとなった熱中症も沈黙の一形態。決して無理をしてはいけない。無理は続かないのだ。厳しい環境に耐えられていると自分では思っていても、どこまでも続きはしない。どこかで糸が切れる。突然、プツッと。そして一度糸が切れれば一気に崩落し容易に元には戻らない。それが人間の身体であり心の当たり前であることを頭に留めておいた方が良いだろう。

僕も照り付け干上がるアスファルトの道をこれ以上歩くのは危険と考える。涼み、食い、飲んで休むべきだと。この異常環境を打破するためには、身体を冷却しつつエネルギーを充填し、脳を目覚めさせねばならない。それを満たす場所は、広々としつつクーラーの効いた料理店が妥当。メシ処を探すことにした。

しかし地理の不慣れな鶴見では適当な店が見付からない。どこも同じに見えるし、どこに入っても満足は得られないような不毛な感覚だ。何故こんなに似通った景色なのか。多少の猥雑さが融合した鶴見とて、街とはそんなものなのかもしれない。もう何処でもいいや。逃げ込めれば何でもいい。ゆったり座れれば何処でもいい。駅近くにいかにも空いてそうな中華料理店を見つけた僕は、逃げ込むようにそこへ乱入した。

入った店の名称は「福盈門(フクエイモン)」。香港料理屋と書いてあった。香港料理は北京料理や四川料理などの中国料理とは別物とされる。僕には違いが分からないが、ローストダック(皮だけの北京ダックだけでなく肉までしっかり料理)、香港風おかゆ、香港風焼きそば(しょうゆで炒める)など、独特な調理の仕方があるのだとか。

いつか試してみたいが、ランチを喰うつもりなので今回の自分には関係ないということで、坦々麵の半チャーハンセットをオーダーした。なかなかのボリューム、かつ安価。店員の姉ちゃんの対応も結構柔らかでテキパキしている。もっと「いあっしゃいあせーっ…」とか適当にあしらわれるかと思ったが。店内も広く、人も少ない。クーラーも効いている。思い通り。しかも「こちらへどうぞ~」と4人席に案内された。中国マフィアの要人の気分だ。

ただ、案内されたテーブルが、誰も居ない奥の方とかでなく、4人席テーブルに座る関西系のイントネーションで喋るおっちゃんとおばちゃんのすぐ隣というのが残念だが。わざわざ人のいる所に案内しなくても…。

しかし店側からすれば、一所に固めた方がオーダーを取るにしても、メニューを運ぶにしても無駄がない。業界用語で言うなら動線の効率化。要はあちこち行くのが面倒臭いということ。仕方のないことだと納得はしている。隣のおっちゃん、おばちゃんも関西人オーラを出してる割には意外と静かに喋っていたのでストレスも殆どない。

安心してジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める。ついでにワイシャツの袖も捲る。そしてタバコに火をつけて、神宮寺三郎のごとき渋みのある表情で白の煙を天井目掛けてくゆらせる…。これがやりたかったのだ。

故あって冬でも夏でも仕事中はスーツのジャケットもネクタイも完全装備で一切外さないと決めている僕にとって、知ってる人間に見付かる可能性ほぼゼロの場所における休憩タイムは至福の時。目一杯寛がせてもらうことにする。寛ぎすぎて予定の帰社時間より遅くなってしまったけど気にしない。外で羽を伸ばすことがトータル的な見地で重要。夕方遅くという中途半端な時間にオフィスに戻りデスクに座ったところで、PCでYahoo!知恵袋を見るのが関の山だ。

割り切ったお陰で随分と寛げた。坦々麵セットもまあ、普通においしく食えた。ただし声に出すほどではない。標準の中華料理店という感じだ。いや香港料理屋だったか。少なくとも入って嫌な気分はしないと思う。ビジネス街に乱立する中華料理屋とか、粗雑で不味い店も結構ある現実を考えれば、この「福盈門」は結構安心して入れる良店だと思えた。

隣のおっちゃんおばちゃんカップルを見ると、おっちゃんは料理に対する批評をせず、それについては口を閉ざしている。あまりおきに召さなかったか? それを見たからか、おばちゃんの方が「おいしいよねえ、うん、おいしいわ~」と、必要以上に場を盛り上げる。おっちゃん及び自分自身に言い聞かせるように呟いている。いや、そこまでじゃないから。と聞き耳を立てていた僕などは思ったり。ただ、おっちゃんの無感動もまた正解ではなかろう。入って何ら問題ない店。それが僕の結露だ。かなり満足できた。

それ以上に満足できたのが、ウエイトレスの姉ちゃん。対応が意外としっかりしているのは先述した通りだが、入店して座った直後の気も利いた対応が意外と僕を感動させたことは明記しておかねばなるまい。

大体の店ではオーダーを尋ねる前に、まず箸とお冷を出す。同店では冷たいお茶だ。そのお茶がグラスでなく、ビールを注ぐようなジョッキに波々と注がれて出てきたから僕としては意外性抜群。氷も沢山入ってキンキンだ。そのスケールの大きさに「おっ!? 何これ!?」とウェイトレス姉ちゃんを仰ぎ見る。

それに対する姉ちゃんのリアクション。「外は暑いでしょうから特製です!これを飲んで涼んで下さい!」と嬉しげに言う。このテンション、そして気遣い。見れば僕だけでなく、店内の全ての客にジョッキウーロン茶を振舞っていた。さぁーて今週もお疲れの皆さんに、サービスサービスぅ!と言わんばかりに。

まるで仕事終わりの飲み屋のノリ。だが、暑さでバテたしおれたテンションには、そんなアツいノリこそが何よりの馳走です。

そんなささやかな気遣い。だけどなかなか凡人には出来ない気遣い、さりげなさ。思わず胸がドクンッと盛り上がる。フラリとと入った香港料理屋「福盈門」は、大変満足できる店だった。小一時間そこで寛いだ僕は、汗も引いてパワーも充填。ウェイトレス姉ちゃんを呼び付け会計を済ます。姉ちゃんは、また来てくださいねと嬉しげな笑顔で僕を送り出す。さーて来週も、サービスしちゃうわよん♪ とね。

数時間の鶴見遠征。十二分な息抜きとなった。
 
 
■スロ
会社に戻って適当に残務をこなしつつ、Yahooニュースを見た後、アキバに繰り出しパチスロ偽物語。香港料理食って力が漲っている。レバーを叩く左手に、ボタンをプッシュする右親指に力が入る。狙え! まだだ! まだだ! よしっ! おめでとぉ~っ♪ 夜10時まで白熱した時間を過ごしても尚、エネルギッシュが止まらない。暑い日だったが、アツい日でもある。

しかし考えてみると、今日は殆どが外でのソロ活動だった気もする。しかもやりたいことやってただけという。会社にも家にも殆どいない闇の者。学生以上の放蕩息子、いや放蕩リーマンである。この点はさすがに反省しきり。でも明日になればきっと何事も無かったかのように再び闇へと繰り出すだろう。日々、何度も訪れる変換チャンス。だけど今のところ、変換しないまま萌エ尽キタ。
 
 
■刺身のチカラ
その埋め合わせも兼ねて、夜メシは刺身を披露。マグロと鯛の定番かつ最強コンビを柳包丁で鋭く素早く切り刻む。丸ごとアジも一匹捌いた。随分と久しぶりだが身体は覚えているもので、ものの数分も経たぬ内に皿の上には適量に切り落とされたアジの刺身が盛り付けられていた。

覚えた技などは定期的かつ短期のサイクルで復習しないと腕が錆びるものだけど、それが身体の深い部分にまで染み付いた技術であれば、復習のスパンが長期になっても殆ど衰えない。アジの刺身造りについては、遂にその域まで達したのだろうか。

スロを打つ時の指のこなし、刺身を造る時の手に握る包丁さばき。どちらも精巧かつスピーディ、ブレがない。一定以上のランクに達したと言える。どちらが自分のためになるのか。世のため人のためになるのか。どちらがより高尚か。序列が決まっているわけではないが、使った時間に対する成果としては、言うまでもないような気がする。

いずれにせよ、トータルで見れば今のところ自分はまだ偽物の域を出ない。
 
 
■キムチのチカラ
その他、新潟実家からもらったナスやピーマンを使ったキムチ炒めが献立にあったが、これが我を忘れるほどに旨かった。厳密にはキムチは炒めてない。コチュジャンや豆板醤などスパイスの効いた調味料で野菜を激しく炒めた後、さらなる辛味を上乗せする一品として、キムチを加工せずそのまま載せるという調理法だ。

その上乗せがよかった。辛さを前面に押し出した調味料をベースに、アツアツに野菜を炒め付ける。その上に、ひんやりとしたキムチが加わる。まるで焼け焦げたトーストにバターを塗った時のように、熱気と冷気が融合していき混ざり合う。まさに辛さの倍倍チャンス。

だが単純な倍付けではなく。熱された辛さと冷たい辛さの融合は意外と深いコクをかもし出し、舌をヒリつかせることなくグイグイと喉に入る。辛さ倍増のはずなのに、「旨い辛さ」なのだ。これこそ真の旨みへの変換チャンス大成功。さっすがキムチちゃんだぜ! まるでジュースを飲むかのように、汁まで全部飲み干してしまったのであった。

大変アツく、そして美味しい夜メシでした。
 
 
■諸々熱く、諸々クズで
そんな水曜日。放蕩の限りを尽くし、だけど家に帰れば唯一の武器、刺身を捌くために研いだ宝刀を抜いて斬り付ける。クズだがアツい、夏の一コマだった。


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20160823(火) 処暑の日に諸所の事情で朝から夜まで焼肉の鉄板のように熱くなっていた

160823(火)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ似の若い猫が拝殿内に、オリジナルは外で睡眠)、エクセルシオール(無言愛想なし店員)《人形町-1人》_01 160823(火)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ似の若い猫が拝殿内に、オリジナルは外で睡眠)、エクセルシオール(無言愛想なし店員)《人形町-1人》_05 160823(火)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ似の若い猫が拝殿内に、オリジナルは外で睡眠)、エクセルシオール(無言愛想なし店員)《人形町-1人》_06 160823(火)-02【1945~2045】焼肉屋「炎」(接客悪い、日本人いない)《上野-友人1人》_01 160823(火)-02【1945~2045】焼肉屋「炎」(接客悪い、日本人いない)《上野-友人1人》_03 160823(火)-02【1945~2045】焼肉屋「炎」(接客悪い、日本人いない)《上野-友人1人》_05 160823(火)-03【2140頃】わかめカップラーメン、上野パンダパン、にんじんジュース「赤い魔法」、シュークリーム DVD「Free!」《家-嫁》_01 160823(火)-03【2140頃】わかめカップラーメン、上野パンダパン、にんじんジュース「赤い魔法」、シュークリーム DVD「Free!」《家-嫁》_04 160823(火)-03【2140頃】わかめカップラーメン、上野パンダパン、にんじんジュース「赤い魔法」、シュークリーム DVD「Free!」《家-嫁》_06 160823(火)-03【2140頃】わかめカップラーメン、上野パンダパン、にんじんジュース「赤い魔法」、シュークリーム DVD「Free!」《家-嫁》_07

【朝メシ】
エクセルシオール(人形町-1人)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-1人)
 
【夜メシ】
焼肉屋「炎」(上野-友人1人)
わかめカップラーメン、上野パンダパン、にんじんジュース「赤い魔法」、シュークリーム(家-嫁) 
 
【二十四節気 定気法】
第14「処暑(しょしょ)」:8/23~9/6 → 第15「白露(はくろ)」:9/7~
 
【イベント】
人形町、スポーツセンター、末廣神社、エクセルシオール、レンタルDVD「「Free!」1巻視聴
  
  
【所感】
■処暑(しょしょ)
「秋の気配が漂い始める時期」といわれる二十四節気の第13「立秋」も終わり、次なるステージ第14「処暑(しょしょ)」へと今日から突入する。「暑さがピークを過ぎて後退し始める頃」という定義らしいが、字面からイメージするならさしずめ「暑さの処分セール」といったところか。暑さー暑さは要りませんかー、残りあと少しですよー、これが最後ですよー」と。要らねえよそんなもん、間に合ってるからさっさと片付けてくんな」と言いたいところ。だがその割には、いざ気温が下がり冷え込んできたらきたで「もう少し温かい方がいい」などと自分勝手を抜かすから始末に負えない。

いずれにせよ、本当に今年の夏は汗の出方が尋常じゃない。「立秋」などという場違いな言葉を間に入れること自体が不愉快だと思えるくらいに。だがそのうだるような暑さも後もう少しで終わる。その時期も大体決まっている。毎年ほぼ同じ時期だ。大きなズレはない。9月の中頃からは、言葉通り秋らしくなっていくのだろう。

夏至が過ぎ、暑さが本格化する「小暑(しょうしょ)」と、気温が上昇し続ける「大暑(たいしょ)」の大小コンビはまさに極暑、地獄の始まり。そこから立秋に入っても暑さは衰えるどころかさらに勢いを増す始末。太陽は人々を無慈悲に照り付け、息が詰まるほどの熱風と湿気が容赦なくおんどれらを襲う。この小暑、大暑、立秋の三ステージこそが一年における暑さのトップ。本当の地獄だ。

そして今日より迎える「処暑(しょしょ)」という区切り。暑い日々は変わるまいが、体感的にピークは過ぎ去ったと思われる。一昨日の日曜日を境にガラリと何かが変わっている気がする。間違いなく暑さの処分セール。夏の終わりを予感させるこの僅かな変化が今後何をもたらすのか。

秋の足音はもうそこまで来ている。
 
 
■プールの面子は巡る
しかし今この時点ではまだまだ暑い。早朝プールに行く前で既にTシャツもワイシャツも汗でぐっしょり。プールから上がり少し温度を下げたシャワーで身体の火照りを沈めても、着替えて外に出た瞬間、額から、手の甲から露のような汗が吹き出始める。まさに蒸し風呂。ずっとプールで生活したい。

そのプールに通う面子も様々。僕が水泳を開始したGW前あたりから既に居た古参メンバーのおっちゃん等数人は、僕と同じく未だ変わらず顔を出している。そのおっちゃん等同士の会話が、ぎこちなかった当初よりずっと砕けた感じでスムーズに運んでいるのを傍目で覗う度に、時間の偉大さを知る。あんなに余所余所しかったのに、今では長年の連れ同士のよう。間が持たないからと最初に諦めていれば、今の彼等の仲良しぶりはなかった。水泳もコミュニケーションも、めげることなく弛みなく続ければ、いつか花開く時もある、ということだ。

初期面子以外にも、時間と共に少しずつ知った顔が増えてくる。僕のロッカーの二つ隣で黙々と着替える爺さんは、いつも誰よりも先に並ぶ。岡田真澄似の外人のおっちゃんとは、英語で話さないものの挨拶程度はする仲だ。夏場は暑そうにウチワを仰ぎながら強そうなオーラを放っている。帽子を被ったおっちゃんは、僕に初めて話し掛けてきてくれた貴重な人だが、僕がその翌日から積極的に話し掛ける努力をしなかったため、親密になることはできなかった。それでも最初と最後の挨拶程度はする間柄ではある。「お先ッス」「お疲れ~いってらっしゃい」という、そんな短いやり取りでも心が和らぐものである。

その中で、外人のおっちゃんが2週間以上前から唐突に姿を見せなくなった。職場の長期夏休みに突入したのか、それとも根本的に日本での仕事を終えて本国に帰ってしまったのか。今では最も言葉を交わしている相手だけに結構寂しかったりするのだが。

今日、いつものおうにプールの改札機の前に並ぼうと入口に入ると、外人のおっちゃんが普通に立っていた。何事もなかったかのようにいつもの格好で、いつものようにウチワを仰いでいた。僕は思わず「おおっ!? おはようございます」とおっちゃんに挨拶する。思わず声が出た。そんな僕の声に対しおっちゃんは、気負うことなく「オハヨウゴザイマス」と、いつも通り巻き舌のイントネーションで挨拶を返した。

ほんの3ヶ月程度の交流。それでも居なくなれば寂しくて、再開できれば素直に嬉しく懐かしい。特定の誰かとコミュニティを作ることは出来なかったけど、見知った顔が溢れ返るこの浜町公園の室内プールが僕は好きだった。
 
 
■猫の世代も巡る
プール後、定期ルートに従って末廣神社を参拝。神社に居付く猫・スエヒロが居ないかもついでに確かめる。いや、今となってはスエヒロに会うのがメインで参拝がついで。4ヶ月間足繁く通ったお陰か、スエヒロもある程度僕に懐いた。と思う。少なくとも個体認識はされているはず。

スエヒロは本殿正面の床に寝そべっていることが多い。最近では暑いのか老齢だからか、本殿の奥に設置されたスエヒロ専用寝床あたりでぐったりしているケースが増えてきた。元々、神社の猫でなく近所の半飼い猫なのだが、頻繁に神社に出入りするので情が湧いた神主一家が専用の寝床を作ってあげたというエピソードだ。心温まる話ではないか。いかにスエヒロが愛されているか分かるというもの。

スエヒロが老齢だと思ったのは、何かにつけて動きが緩慢。機敏さの欠片も見られないから。境内を移動する時、地面に張り付くようにいつも歩いている。高い塀の上に登っているところも、ジャンプしている姿藻見た事がない。とにかく鈍い動きだ。これは老人以外の何者でもない。

さらに、黒と白の綺麗なツートンカラーの黒の部分には、白髪ならぬ白毛が結構目立っている。本来、真っ黒な模様の中に白が混じるはずないのだ。一部が白髪化したからに他ならない。

そんな数ヶ月間に亘る観察結果として、スエヒロはかなりの高齢だと判断した。

だがそんなスエヒロも、奥の寝床を僕が遠目で眺めながら小声で声を掛けたりすると、「何だ、また来たのか」とばかりにムクリと起き上がり、僕の方までノソノソと歩いてくる。そして僕の目の前に立ち止まり、しばらくこちらをじっと睨んだ後、首を差し出してくる。「撫でて撫でて~♪」とせがんでいるのか、「撫でたいんだろ、好きにせよ」と上から目線なのか分からないが、僕としては律儀で殊勝なこの猫の首筋を目一杯撫でてやることが唯一の選択肢、スエヒロはニャーッ、ニャーッ、と消え入りそうな鳴き声で気持ち良さそうに目を閉じる。この瞬間は僕にとっても至福だ。

しかし1~2分ほど撫でていると、マンネリ化した前戯に飽きてしまうのかスエヒロは、そのまま本殿正面まで歩を進めるか、あるいは踵を返して寝床に戻ってしまう。猫はホントに気ままでツンデエレな動物だと思い知る。

それでも、数分間は僕の相手をしてくれるのだ。だからスエヒロの挙動は僕にとっていちいち愛らしく、胸をキュンと刺激する。神社参拝の後でスエヒロとのひと時を過ごせるか、寂しく境内を立ち去るか。毎朝の分岐点だ。

今日、そのスエヒロの姿は見えなかった。本殿前に寝そべっていれば鳥居をくぐった瞬間分かるのだが今朝はもぬけの殻だ。賽銭箱のすぐ先に猫が鎮座しているといないとでは、こうもレイアウト的な締まりが違うのかと。もはやスエヒロは、末廣神社になくてはならない神の使いだ。胸に寂しさを秘めながら、目の前の賽銭箱に1円玉を投げ入れる。手を合わせ、目を閉じ、神に祈った。

スエヒロ、きみがいなくて神社ががらんとしちゃったよ…。
でも、すぐ慣れると思うから…心配するなよ、スエヒロ…。

ふと、本殿の正面に目をやる。ガラス張りの戸の向こう、即ち部屋の奥には格式高そうな日本酒の瓶などが並べられている。恐らく神に捧げるお供え物なのだろう、ここが神社なのだと改めて身が引き締まる思いだ。これからも敬虔に末廣神社を詣でる所存。スエヒロはいなくても、見えざる何者かがきっと僕のことを見ている。今、誰もいないこの境内でも、誰かに見られているような、そんな気がするのだ。その見えざる何者かに敬意を払うように、本殿の奥にもう一度視線をやった。

すると目が合った、猫と…。
本殿の中には猫がいた。ガラス戸にへばり付くようにその猫は、僕をジーッと見詰めている。いや、むしろ睨んでる? 何者かに見られていると思ったら、猫にずっと見られていたのだ。そりゃ視線も感じる。
しかし何でこんなところに猫が?

いや待て、それよりも…。
中にいるこの猫の模様。背中側が黒で、腹側が白。
これってもしかして…。

「スエヒロッ!?」

中の猫は、まさしくスエヒロと全く同じ模様だった。
だが、

「何でいきなり家の中に居んの?」
意味が分からない。
思わず戸棚の向こうの猫に話しかけてしまう。
猫は答えない。じっと僕を見詰めるのみ。

僕も見詰め返す。
ん? 待て。この猫、スエヒロと何かが違うような…。

そうか、首輪か。
中の猫は首輪をしていた。
スエヒロは当然首輪などしていない自由気ままな猫だ。

さらによく観察すれば、スエヒロと随分違う部分が見受けられる。

まず毛並みが綺麗過ぎる。この猫の毛並みは毎日誰かにブラッシングされているとしか思えない整い方だ。つまり万年家に居るということ。いつも外をほっつき歩いているスエヒロがこんな上品な毛並みであるはずがない。事実、当のスエヒロは寝床などで、人の手を借りず自分自身の舌で一心不乱に毛繕いしてたりするのだ。この猫は断じてスエヒロじゃない。

さらにこの猫は、顔付きがキリッとしすぎている。気が強そうなシャープと、一方で育ちが良さそうな顔立ち。温室育ちのボンボンだと予測できる。スエヒロの顔は逆にフニャッとした顔立ち。争い事を好まなそうな平和な表情である。この猫とは正反対。

その顔立ちの中でも、細かに異なる部分は沢山だ。

まず眉毛。この猫の眉はキリッとしているが、スエヒロは麻呂眉。神社に入り浸りすぎて本当に神の使いになったんじゃないかというくらい見事な麻呂眉なのだ。こんな眉をした猫はそういない。

あとは鼻と口の造型か。この猫は少し尖ったような、戦闘的な鼻と口をしている。対してスエヒロの鼻と口周りは、まんじゅうのような形。絵文字でいえば「ω」である。

 ∧ ∧ 
(´・ω・`)

まんまこれ。
ここまで「ω」な猫は世の中にそうそういない。

それら顔の造型が、この猫とスエヒロとではあまりにも異なるのだ。ここまで神社が似合う猫は滅多に居ない。むしろ神がスエヒロを神社仕様に改造したんじゃないかと思えるほどだ。

一番異なるのが目付き。厳密に言えば瞳か。スエヒロは、多分左目に病気を患っている。白内障か何かか、少し濁っているのだ。そんなスエヒロが可哀想で、だけどそんなスエヒロだから可愛くて仕方ないのだが、、この中に居る猫の瞳は眼光鋭く健康そのもの。獲物を狙う両の瞳である。その瞳に見詰められて僕は身震いした。

何よりも、中の猫は若々しすぎる。筋肉に張りがあり、姿勢もよく、まさに若者の体躯。10メートル歩いたら疲れて休んでしまいそうな弱々しいスエヒロの身体つきとは似ても似つかない。

これら数多くの比較検証の結果、神社の中で僕を睨み付ける猫はスエヒロと別人、いや別猫だと断定した。

それにしても、毛並み模様はスエヒロそのもの。石仮面を被ったストレイツォのように若返ったわけでもあるまいに…。ちょっと奥を覗いてみるか。スエヒロが寝てるかもしれない…。

そこにスエヒロは、居た。奥にあるいつもの専用寝床に引き篭もり、いつものゆるい顔で、じっとこちらを見ていた。まさにスエヒロ。本物のスエヒロだ。中に居る猫は全く別の猫だったんだ。

それにしても、毛並みが同じというのは偶然にしては出来すぎだ。どうなっているのか。ちょうど、神主の奥さんであろう女性が境内に出てきたので、僕は思い切って聞いてみた。

「あの中の猫は何ですか?」
まず本殿内の猫について尋ねる。すると奥さんは「ウチで飼ってる猫なんです~」と普通に返答。ま、それしかないよな。

続いて外に居る猫、すなわちスエヒロを絡めて質問。
「いや、よく本殿前に寝そべってるあの猫が中に入っちゃったのかなとビックリしました」と言った。
奥さんは、「あっちの猫ちゃんはウチの猫ちゃんじゃなくて、ご近所さんで飼ってる猫ちゃんなんですよ~。神社にもよく遊びに来るんです~。」と答える。その辺の事情は僕も既に知っている。問題は、神社で買っている中の猫とスエヒロとの関係だ。

しかし奥さんはそれ以上語ろうとはしない。もう少しストレートに「外に居る猫の子供か何かですか?」と聞いておけばよかったか。今さら改めて問い質すわけにもいかず、結局スエヒロと中の猫の血縁関係は判明しないままだった。

しかし、血縁関係だと仮定すればスエヒロの挙動にも筋が通る。スエヒロが朝、本殿前に寝そべるのは、別にそこで昼寝したいからじゃない。奥でもスエヒロはよく寝ている。

また本殿前によく座っているのは、別に参拝者達を見守っていたわけじゃない。スエヒロほど達観している猫が、毎日数十、数百と訪れる俗な人間達に興味を持つだろうか。持たないと思う。

興味の対象はそこじゃない。本殿の外ではなく、中。すなわち神主家の飼い猫に会いたいから、最もその猫に近付ける場所であろう本殿前に足繁く足を運んだのではないか。そう考えれば全て理屈が通るのだ。スエヒロの数々の謎行動にも合点が行くのだ。スエヒロはただ、神社の中に居る猫に会うためだけに、本殿前でじっと待っていたのではないかと。雨の日も、雪の日も、蒸し返す猛暑の中でも。老骨に鞭打って。

泣けてくる…。

中に居る猫は、スエヒロの子供、もしくは孫なのではないか。なぜ二匹が別々の場所に引き離されたのか。スエヒロの飼い主の家で生まれた子供が神社に里子に出されたのか。あるいは、若かりし日のスエヒロが近所のメス猫に産ませた非嫡出子か。認知できないから、せめて遠目で姿を確認したかったのか。どう想像しても、全く無関係とは思えない。何かしらの血縁関係をひしひしと感じる。

スエヒロの子供というより、スエヒロの老い方と中の猫の若々しさから考えれば、恐らく孫かもしれない。とりあえず僕は、中の猫を「スエヒロ孫」と仮に名付けることにした。裏付けは取れていないが、最大の謎が解けた気分である。

過去4ヶ月間の観察で分からなかった疑問が、たった1日で一気に解ける。物事を多角的に見なければ真実に近付けない、少なくとも真実に辿り着くための思考バリエーションを増やすことが出来ない、という教訓を思い知らされる典型例だったと言える。

見ないのではなく、見ようとしないことによる欠落。僕は3ヶ月以上も末廣神社に通い続けているのに、本殿の中まで見ようという発想がなかった。スエヒロだけを盲目的に見ていた。ただ可愛がりたいだけで、スエヒロの不可思議な行動に疑問を持ち、その意図を理解しようとする努力をしていなかったのだ。これからは、血縁関係や歴史背景にも留意しながら末廣神社を参拝したい。

謎がある程度解けたスッキリ感を旨に、神社の奥さんに挨拶して末廣神社を後にする。最後、奥さんが僕に掛けた言葉。「(ウロウロする猫ちゃん達のせいで)お騒がせすいません~」と申し訳なさそうに彼女は頭を下げる。

だがそんな事はない。むしろスエヒロが居るから、猫がウロウロしているからこそ、僕はここ末廣神社に毎日通っている。他の参拝者にも、スエヒロを微笑ましく見守っているヤツが幾人か居るのを僕は知ってるんだ。邪魔だなど、とんでもない。我々参拝者のアイドル。文字通りお猫様。神の御使いだ。

「とんでもない。猫ちゃんのお陰でいつも心癒されてますよっ♪」

僕は爽やかな笑顔を奥さんに向けた後、踵を返して末廣神社に背を向けた。スエヒロが居る限り、僕にとって決して外さない人形町の鉄板ルート。オレのゴールデンルート上に末廣神社は立っている。
 
 
■喫茶店店員も巡る
参拝後、駅前の喫茶店でジュースを飲みながら仮眠を摂ることが多い。毎日の睡眠不足を補うのと、真夏なので涼む目的もある。水泳で疲労した上、高温で茹だった身体を休めるには、涼しい部屋で冷たいドリンクを飲むのが一番だ。その際、商品を差し出すレジ店員の対応がナイスであれば、さらに心が回復する。

だが、そうでない店員ともたまに遭遇するから困り物だ。テンションが一気に落ちる。今日はまさにテンションがた落ちの朝だった。

その店員、並ぶ僕に「いらっしゃいませ」と声を掛けるまでは普通だが、僕が希望メニューを伝えても復唱しない。そういう店員は何もここの喫茶店に限った事じゃなく、コンビニなどでも結構見掛けるが、モチベーション低めな朝にこれをやられると本当に萎える。

僕の定番はグレープフルーツジュースかブラッドオレンジジュースだが。たとえば「グレープフルーツジュースのLサイズ」と伝えても、この店員は無言のまま。僕の方を見ずにレジを見詰めたままレジ入力していく。本当にオーダーが通っているのか心配になる。しかも、せめて「はい…はい…」と、相槌くらい打ってくれれば少なくとも自分の声が聴こえていると確認出来るのに、その相槌すら皆無。打っても響かないどころか、馬鹿にされている気分になるのだ。この店員にはかなり苛立ちを覚える。

釣りを渡す時も、手渡しでなく、受け皿に無造作に投げつけるように釣り銭を入れて僕に返してくる。手渡しないという店の教育方針にしても、あまりに愛の欠片も感じられない返し方。怒ってんのか? と疑うばかりだ。怒りたいのはこっちだよと。

そんな状態だから、オーダーを間違えることも実際にあった。1週間前かもっと前なのか忘れたが、僕が「グレープフルーツの、L(価格:550円)」と言った後、この店員は相変わらず無言で、こちらを見ようともせず、不機嫌そうなツラでレジ打ちしていた。それだけで僕は気分が悪くなるというのに、さらにレジ上に表示された金額は「450円」だったのである。さすがにプチンと来たな、その時は。

僕が頼んだLサイズは550円。450円というのはSサイズだ。どうやったらLをSに聞き間違えるのか。いや問題はそこじゃなくて、「Sですね?」と復唱してくれれば僕も「いや、SじゃなくてLですよ」とすぐさま訂正出来、何のトラブルも起きないのに、まるで僕と顔を合わせたくない、声も聴きたくない、いちいち繰り返さなくても分かるわよ、とでも言いたげな澄ました顔で、レジを打っていくのだ。

その結果がこれである。Lサイズと言ったのに、平気でSサイズの値段を表示してくるのである。「450円です」と、当たり前のように抜かしたわけである。

その時、僕は「Sじゃなくて…Lねッッ…!」と、外人のごとき巻き舌を使って「エェロゥ!!ね!!」と、かなりの怒気を含めてこの店員にぶつけたはずだ。それを聴いた店員は、予想通りというか、まるで僕が理不尽に怒鳴り散らしていい迷惑だと言わんばかりの不機嫌顔でLサイズに打ち直した。理不尽を感じてんのはこっちだよと。

そもそも、この店員には初めて応対を受けた時から嫌悪感を抱いていたのだ。一番最初、それまで見た事ない店員がレジに立った。その時は「新顔か」と普通にレジに向かった。やや顔はむくんでいるが、化粧をしっかりとして真面目そうな店員。それが第一印象だ。僕はまずTカードを差し出す。その店ではTカードを提示すればポイントが溜まると知ってから毎回提示しているわけだが、それを受け取った時、「カードをお預かりします」という一言が無かったな、よく考えれば。兆候はあったわけだ。

それはまだいい。問題はその後だ。僕が差し出したTカードをその店員は機会にピッと通したのだが、どうやら読み取らない。そんなことはこの喫茶店で一度も無かったのだが、店員は番号直接入力なども試みて、全てダメだと悟ったのか、「カードが壊れてるようですね」などと、しれっと僕に言い放ったのだ。これ以上無駄なことをさせないでよ、と言わんばかりに僕を睨みながら。

壊れてるわけねーだろ!
瞬間、そう思った。お前のやり方がおかしいだけだろ、と。そう断定したのには理由がある。

まず大前提として、今まで何十回も同店でTカードを提示してエラーになったことは一度もない。カードだって去年再発行したばかりで結構新しい。つい近日まで一発で読み取っていたものが、前兆もなく今日突然クラッシュする方がおかしい。

そもそもこのTカードは、銀行のキャッシュカードも併用している。このTポイント付きキャッシュカードで僕は、ATMなどで頻繁に引き出している。その時でも一度としてエラーになったことはない。感度良好なのだ。

これはどう考えても店員のやり方が間違ってる。第一この店員、最初読み取れなかった時から10回くらい色々試行錯誤していた。試行錯誤するような事案じゃないのだ本来。それをいつまでもダラダラとやっているということは、処理の仕方を間違っているか、そもそも知らないか、機械が壊れているか。いずれにせよ何でオレがジト目で見られなきゃならないんだ、って話だ。

結局Tカードは使えず、ポイントなしでその日はジュースを受け取ったわけだが、その時から僕はこの店員に不信感と嫌悪感を抱いていたのだ。その積み重ねが爆発し、先のLとSの聴き間違い事件に発展したのだ。

そして今日、またもその店員に当たってしまう。当然僕は、初っ端から不機嫌だ。店員もいつも通り愛想もなく声もなく、イライラする空気が立ちこめる。ホントこのアマ、何で接客業やってんだよ。この店員がレジに立っている時はそのレジに並ばない。あるいは店自体に入らない。僕は今日、そう決めた。せっかく水泳で爽快な汗を流し、猫のスエヒロに心癒されてきたのに、こんな一人のアマのせいでそれを台無しにする事もない。何でこんな店員がいつまでも居るのか、居られるのか。さっさと居なくなれよ…。心底思った。

逆に、良い店員さんは結構すぐ居なくなってしまう。コンビニなどはそれが顕著だが、この喫茶店でも1ヶ月前くらいまで愛想も笑顔も応対もベリーグッドな店員姉ちゃんが居た。

その姉ちゃんは少し小柄で痩せ型。だけど女性らしい柔らかさと瑞々しさ、明るさと気遣いが備わっていた。多分大学生か、でなくとも20代前半だったろうか。後ろで髪を結っており、多少ポニーテール風の彼女は、並んでいる僕に「こちらへどうぞ♪」とよく通る、しかしトーンを押さえた耳通りの良い声で呼び出してくれる。聞き漏らす事がなく、不快感もない。

レジ前に立って、Tカードを差し出せば、「カードをお預かりします♪」とにこやかな顔で恭しく受け取り、サッと素早く機械に通し、「カードお返しします♪」とテンポよく僕に受け渡す。僕がオーダーを言うと、その弾むような若々しい声で都度復唱してくれるので間違える心配も一切ない。「うむ♪ うむ♪ そのとおりです♪」と安心して彼女のガイダンスを聴いていられる。

釣りの受け渡しも金額までハッキリ述べて、僕に手渡しした。そう、確か彼女は普通に手渡ししてくれていた。こんな愛らしく明るい子に、手の温度を直接感じながら受け取る釣り銭。イケメンだろうとブサメンだろうと彼女はきっと分け隔てしない。まさに天使。男ならずとも凍った心が氷解すること必至。客は彼女の前に並びたくなるだろう。

そんな彼女だから、きっと客にも人気があったはず。交際の申し出を受けたことも多かったに違いない。中には結婚してくださいと果敢にアタックした男だって居るかも。よく分かる。彼女は別に派手な容姿じゃなかった。だけどそれを補って余りある内からの魅力に溢れていたのだ。彼女になったら全力で守るだろうし、嫁になったら身命を賭して幸せにしたくなる。そう思える女性だ。彼女には間違いなくいい男が現れる。彼女のような素敵な女子を放っておくはずがない。引く手数多だ。

そんな彼女の姿を今は見ない。辞めてしまったのだろうか。ただの短期バイトだったのか。引く手数多過ぎて他のところに移ってしまったのか。少なくとも僕にとって、この喫茶店の中では彼女が圧倒的に突出していた。彼女の接客を受けた僕がどれだけ幸せな気分になったか。

その代わりとでも言わんばかりに今、ムスッとした劣化アマ店員が僕の前に立ちはだかる。あの可愛らしい姉ちゃん店員は、突出しすぎているがゆえに浮いていたのだろうか。こんなゴミ店員が来る時点で店のレベルも知れているというもの。彼女には相応しくない。無論、僕にもこの店員は相応しくない。だから僕は、この店員が居る時は最大限距離を置くと決めたのである。

結局、相手次第。相対する人間次第でこちらの対応も反応も変わるのだ。この喫茶店にかつて勤めていた可愛い姉ちゃん店員だからこそ、僕は全ての感情が好意的に働く。何としてでも幸せになって欲しいと思う。550円のジュースに1000円払っても惜しくない。逆に今勤めているアマ店員だからこそ、全ての感情がドス黒く反転する。何としてでも不幸のどん底に落ちて欲しいと切望する。

自分の中にある天使と悪魔。それは相手の出した天使と悪魔の度合いによって右にも左にも振り切れる。つまり、自分が怒られたからと言って何でも相手のせいだとは思わないことだ。いつでも怒ってるように見える人間だって、相手が違えば菩薩のように対応を変えたりするもの。見ている世界が、基準とする土俵が、持っている意識のレベルが違うということだろう。その領域に自分が到達していないから攻撃を食らう。という可能性も常に頭の片隅に置いておくべきである。

一方的な善はなく、悪一色に染まる者もない。それが人間というものではないか。
 
 
■職場でも溜め息が出る応対
とはいえ、つっけんどんな態度や無気力な応対をする人間は世に多い。今日も職場で取引先に電話をしたところ、担当者がいないからと電話を受け取った男が絵に書いたような無気力対応だったので、またも精神にダメージを負った。立場的に言えば、僕の方が客であり、相手は少なくとも丁寧な言葉遣いと誠意ある言い回しで僕に応対しなければならないはずだが。

その男の対応は、「はあ、おりませんが」「さあ~…担当の人間じゃないと分かんないですね~…」「担当者がどこに居るかは分かりません」とか、つっけんどんどころか喧嘩売ってんじゃねーの?と思うくらいに素人レベルの受け答え。怒りで電話を切りたくなる。

この企業は、かつてはイケイケで順風満帆だったが、無駄な過剰投資と、マーケットの声に耳を傾けず自分等が常に正しいというバブル的上から目線な姿勢のため、今では万年赤字だ。従業員も明らかに質が低下している。その一例が、今回の電話対応。お客に対し、いや人に対してする対応じゃない。大人のする対応じゃない。その程度のことが既に出来ない。そりゃ赤字も当然だわな。僕は溜め息を吐いた。

過去の栄光はしょせん過去のもの。そもそもその過去の栄光は現在の人間が築いたものではないわけで、現在の人間は現在の行動によってのみ評価されるもの。それを分からないまま悪戯に時を過ごせばいずれ木っ端のように吹き飛び歴史の藻屑と消えるだろう。
 
 
■夜もまた苛立ちを隠せない
仕事後、友人と上野で焼肉を食ったのだが、ここでもまた店員に腹を立てていた。今日は怒ってばっかりだ。しかし、猫とか応対のいい店員姉ちゃんなどレベルの高い癒し系天使の存在を知っているだけに、それを汚す悪魔達を必要以上に憎悪してしまうのだ。コイツ等は掛け値なしの汚物。クズだ。

焼肉屋は、マルイデパートすぐ隣の「炎(ほのお)」を選ぶ。僕等は『ほのお』でなく『えん』と呼んでいるが、本当はこの店には来たくなかった。5~6年前、初めて入った時は店員も明るく肉も美味しく、それでいて安い店だとお気に入り認定していたのに、いつからか唐突に肉が不味くなったのだ。店員も日本人が1人も居なくなっている。ぶっきらぼうに応対され、なのに肉の室も落ちていて、行く理由を大分前に失っていた。だが、他に適当な肉屋がなかったため、仕方なく「炎」で済ます。

が、思った通り、不快な思いをした。

「炎」には1階と2階席がある。2階に通すのが面倒なのだろう、往々にして1階席に詰め込もうとされる、今日もそうだった。まあ1階席が2テーブルほど空いていたので気持ちは分かるが、しかしその空いている2席というのが曲者だ。

1席は予約テーブル。そしてもい1席はL字型テーブルで、ほぼカウンターテーブルに近い席である。必然、隣同士に座るしかなくなる。その隣同士Lテーブルを、店員は「こちらにどうぞー!」と当たり前のように勧めるわけだ。間違ってはいない。いないが…。

「何で焼肉屋で男二人が隣同士密着しないといかんのよ」

友人が苦笑しながら言ったこの言葉が全てだ。バーや居酒屋カウンターならともかく、なぜ燃え上がる鉄板の上で肉汁飛び散り、文字通り血湧き肉踊る焼肉屋で、男同士ピッタリと寄り添うように肉を喰わなきゃならんのか。願い下げだ。しかも設置された椅子と椅子の距離がモロ近いし、完全に恋人専用の椅子配置。バカにしてんのか!? そんな気持ちだった。

僕等はその旨伝え、テーブル席がいいと店員に返す。が、店員は恋人専用カウンター席を再度勧めるばかりだ。話聴いてないのかよ。仕方ないので別の店員を呼びつけ行った。するとその別の店員も、1階のテーブル席は予約されているので「あちらへドウゾ!」と、悪びれもせず恋人用カウンター席を指差した。話が通じねぇっ!

いい加減帰ろうかと思ったが、他の店もないので今度は直接「2階のテーブル席には行けないの!?」と問い質す。店員は、かなりのしかめっ面をした後、「二階へドゾー…」と投げ遣り気味に行った。何だその嫌そうな顔は…。いちいちムカつくぜ。

ただまあ、最初からそう聞けば良かったのだ。機微など到底分かりそうもない相手には、要望をストレートに伝えるべし。イエスかノーか、それだけを突き付ければよい。イエスならそのままスルーするし、ノーならいちゃもん付けて食い下がるか、「こんな店二度と来ねーよ!」と捨て台詞を吐いて出て行くべし。

クレーマーじゃない。客というものは、店員の言動が限度を超えた時、鬼になるもの。ただ押し込んで詰め込んで飲み食いさせればそれでいい。まるで養豚場のブタのような扱いで。「炎」の店員の対応はまさにそれであり、この点が「炎」が昔に比べて格段に劣化した理由である。ほんとバカにしてる。

しかも二階に行ったら行ったで、店員姉ちゃんを呼ぶ付けると「あ~い…」と、超やる気のない顔でテーブルに近付いてきたり。ウイスキーを飲みたくなったので「ウイスキーのロックとかって出来ます?」と聞いたら、「ウイスキーのロックはできないです」とぶっきらぼうに返答してきたり。「できないって断言されたよ!」と友人も苦々しい顔で吐き捨てた。さらに「じゃあハイボールはできる?」と妥協すると、「ハイボールあります」と、普通に答えた。まるで決まった返答しかプログラムされてない機会と会話しているようだった。

そんなイライラが募って僕等も正常な判断能力を失ったのだろう。友人がオーダーを頼もうと、トイレ近くの姉ちゃんに「すいませーん、すいませーん!」と声を掛ける。あ、いや、ちょっと待て、その姉ちゃん、多分普通に客じゃね? 僕が指摘する前に、姉ちゃんは「わたし、店員じゃないですよっ」と、能面顔で返されたのであった。

踏んだり蹴ったりの焼肉であった。昔の「炎」のクオリティを知っているだけに、余計に怒りが湧いてくる。なぜこうも変わってしまったのかと。まとめサイトなどを開くと「上野の焼肉屋20選」などと銘打って、その中に『炎』が堂々とランクインしてたりするのだが、「いつの情報だよ」と突っ込みたくなるわけだ。お前本当に店に行ったのかよ、とすら思う。だからまとめサイトはそこまで信用していない。という

「二度と『炎』には行かないようにしましょう」

頷き合い、握手して解散する僕等だった。
 
 
■黒すぎた火曜日
というわけで、朝も昼も、夜もずっと怒っていた。年を取れば取るほどに怒りっぽくなるという俗説は真実なのだろうか。

いや、そうではない。「年を取れば取るほど」ではなく、「知れば知るほど」と言った方が正しい。世界を知らない子供時代に見えるものは、綺麗なものが多い。そのように大人がシャットアウトしているのだ。閲覧制限をかけているのだ。しかし自分が大人になり、制限が解ける。全てが開示される。綺麗なものばかりじゃない、むしろ汚いものの方が目立つ。精神は磨耗し廃れていくだろう。

しかし、全てが汚いわけじゃなく、その中にも子供時代と同じく綺麗なものもやはり存在し続けていて…。今回であれば、神社の猫とか喫茶店の可愛い姉ちゃん店員とか、そのような類だ。混交玉石。優れた玉と、悪しき石。楽あれば苦あり。それが世界の本質なのだと考えを改める。それはすなわち「知る」ということだ。

大人になるということは年を取るということで、年を取ることは世界を知ること、現実を知ること、だけどその中でも守り続けたい自分の正義が、失いたくない自分の姿勢や生き方といったものも芽生え、確立されていく。矜持とか、愛でる気持ち、慈しみたい気持ち、愛したい気持ち、その対象、すなわち守りたい存在が。それは自分自身が「綺麗だ」と感じているものだ。神社の猫であり、神社の可愛い店員姉ちゃんも該当するだろう。

だからこそ、それらが壊されたらどうなるか。壊されないにしても、汚された気分になる。ならば、それを守りたい者としては、どのように反応するか。反撃するのである。汚そうとする者を攻撃するのである。要するに怒るのである。

よって、僕が喫茶店のダメ店員に切れそうになったのも、ショボイ電話対応をする男に苛立ちを隠せないのも、焼肉屋の店員に殆どキレていたのも、年を取って怒りっぽくなったのではなく、現実を知ったからこその怒りと判断して良いのではないだろうか。オレは老いてない。クズは消えるべきなんだ。

愛する度合いが深いほど、怒りに転じた時のパワーも凄まじい。怒りは愛の裏返し。とは良く言ったもの。末廣神社の猫スエヒロと、かつて喫茶店に勤めていた可愛い店員姉ちゃんを愛すればこそ、正反対に位置する汚物が許せなくて鬼になる。十分道理は通ると思うが、どうか。

焼肉屋「炎」のテーブルに置かれた燃え盛る鉄板のように、心の中がヒートアップした火曜日だった。


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20160822(月) 台風9号の影響軽微なれど、遥か彼方から間接的に攻撃をしてきたなり

160822(月)-01【0640~0840】人形町、台風で雨模様、スポーツセンター(激空き 35分泳ぎっ放し)、喫茶店混雑のため職場付近のファミレス《人形町-1人》_01 160822(月)-01【0640~0840】人形町、台風で雨模様、スポーツセンター(激空き 35分泳ぎっ放し)、喫茶店混雑のため職場付近のファミレス《人形町-1人》_03 160822(月)-01【0640~0840】人形町、台風で雨模様、スポーツセンター(激空き 35分泳ぎっ放し)、喫茶店混雑のため職場付近のファミレス《人形町-1人》_04 160822(月)-02【2000~2140】居酒屋かまどか 上野店 台風倒木により電車ダイヤ乱れのため時間潰し《上野-嫁》_01 160822(月)-02【2000~2140】居酒屋かまどか 上野店 台風倒木により電車ダイヤ乱れのため時間潰し《上野-嫁》_03 160822(月)-02【2000~2140】居酒屋かまどか 上野店 台風倒木により電車ダイヤ乱れのため時間潰し《上野-嫁》_04 160822(月)-02【2000~2140】居酒屋かまどか 上野店 台風倒木により電車ダイヤ乱れのため時間潰し《上野-嫁》_05 160822(月)-02【2000~2140】居酒屋かまどか 上野店 台風倒木により電車ダイヤ乱れのため時間潰し《上野-嫁》_06 160822(月)-02【2000~2140】居酒屋かまどか 上野店 台風倒木により電車ダイヤ乱れのため時間潰し《上野-嫁》_08 160822(月)-02【2000~2140】居酒屋かまどか 上野店 台風倒木により電車ダイヤ乱れのため時間潰し《上野-嫁》_10

【朝メシ】
デニーズ オレンジジュース(職場付近-1人)
 
【昼メシ】
「お好み処 一番」 親子丼、焼き鳥、キリン生ビール一番搾り(清瀬-嫁)
 
【夜メシ】
居酒屋かまどか 上野店(上野-嫁)
 
【二十四節気 定気法】
第13「立秋(りっしゅう)」:8/7~8/22 → 第14「処暑(しょしょ)」:8/23~
 
【イベント】
人形町、台風で雨模様、スポーツセンター、喫茶店混雑のため職場付近のファミレス、台風9号、電車ダイヤ乱れ、上野
  
  
【所感】
■外は閑散
先週、台風9、10、11号がトリプルで発生するという珍現象が話題となった。

まず土曜日、台風11号が先手を切って上陸。東北や北海道は相当難儀したようだが、関東地方もかなり雨に晒された。しかしその攻撃も土曜1日だけで大方終了。11号の猛威は去った。他の2つの台風と合体して規格外の進攻を仕掛けることはもうないだろう。ちくしょーちくしょー、完全体に、完全体にさえなればー!

だが台風トリオの内、9号と10号は未だ健在。機を見て日本に上陸せんと滞留中。本日、早速9号が日本列島に上陸するといわれていた。休日ならまだしも、多くの仕事人が活動する平日だけに、先だって接近・消滅した11号以上に、人々は今回の9号を警戒したのだろう。朝、早朝水泳に向かう電車内は、通常の平日に比べかなり空いていた。

雨は確かに降っている。しかし暴風雨というレベルではない。それでもいつ攻撃が激化するか分からない。体勢を見極めるまでは慎重に、様子を見ながら行動するのが無難。無理をして無駄な負担を被るよりは、何もせず多少の無為を貪る方が良いのだと。社会人も楽じゃない。

その影響は、毎朝通うプールが入る中央区立総合スポーツセンターの入口前にも顕著に現れている。いつもは開館の7時前には数十名の入場達が待ちきれないとばかりに列を成しているのに、今日は十数名しか姿が見えない。掛け値なしに少ないのだ。どのくらいかというと、僕が通い始めた4月中旬頃から今日までの約4ヶ月間において最も少ない人数だと一目で判断が付くほど。

どれだけキツい雨の日だろうと、まるで意に介せず彼等は並んでいた。コイツ等ホント物好きだよなと苦笑するほど、天候に左右されない者達だったのに、なぜ今日に限って外出を控えたのか。同じくらいの豪雨は過去何度もあっただろ。「オイオイ今さらだろ」と、これこそ苦笑ものだった。

その分、プールは広々と使えたけどな。毎日あれだけ混み合っているプールが、今日は泳ぎ放題だ。回遊専用のレーンは各コース1~2名しかいない。いつも芋洗い状態の歩行コースも田舎の山道を歩くがごとし閑散ぶり。僕の使っている3コース分のフリースペースも、最初僕の他に1人しかいなかった。ほぼ毎日、僕の隣でゆっくり泳いでるお婆ちゃんも今日ばかりは姿が見えない。今日の台風はよっぽどだと皆判断したんだな。つかそれほどか?

ともあれ、せっかく激空きのプールなのだから、ここぞとばかりに伸び伸び泳ぐ。1コースをほぼ占有。避けなくてもいい。ターンをしても誰かにぶつかる心配もない。まさに泳ぎ放題だ。気を良くした僕は、普段の30分リミットを超過して35分ほど延々とクロールをし続けたのだった。1.3kmは泳ぎ続けただろうか。ほぼ疲れもない。伸び伸び泳ぐってホントいいな。

明日からはまた普通に水泳客でごった返すだろう。まさしく束の間の逢瀬。鬼の居ぬ間の水泳。
 
 
■内は混雑
台風で人間界は警戒態勢なので、外を歩く者はそれほど居ない。それは動物界も同じで、毎日立ち寄る末廣神社に居候している猫のスエヒロも姿は見えなかった。いくら紳使とはいえ猫。水は嫌いに違いない。

その割に建物の中は混んでいた。水泳終了から出社前までの休憩所として、また仮眠場所として重宝している喫茶店エクセルシオールはリーマンやOLで満席。こんな日は一度もなかったが、外を出歩かないんじゃなかったのかよ。いや、台風と分かってはいるが会社に遅刻するわけにもいかず、であれば早めに家を出ておこう、喫茶店に退避しながら嵐が過ぎ去るのを待とう、という輩が続出したのだ、きっと。常連(w)の僕としては甚だ邪魔だな。ペースを乱された気分だ。

仕方ないので、エクセルシオールの向かいにあるカフェ・ド・クリエに向かったのだが、こちらもほぼ満席。レジ前には随分な行列が出来ている。駅前立地の割にはいつもあまり人が入っていないのに、こういう時はやはり避難所として皆から重宝されるということか。あぶれた者はあぶれた店に。あぶれ者同士がペアを組む。その上で全体を見渡すと意外にバランスが取れていることに気付く、というケースは世の中に多そうだ。個々の意思を超越した、なかなかに意味深長な世界の法則である。
 
 
■その場所はパターン化していないか?
結局、人形町では退避する場所を確保できなかったため、職場の最寄り駅まで向かい、付近のファミレスで時間を潰すことになった。あまり早い時間から職場界隈をうろつきたくないが、他に行くところがないので仕方ない。適当な場所が思い浮かばないのだ。職場というフィールドにおいて自分の発想力がいかに乏しいか、いかに灰色の生活をしているかが容易に覗える。

そのエリアに通じているなら、身の置き場などいくらでも候補を挙げられるはず。自分が楽しんでいれば、暇潰しの場所など何箇所でも見付かる。それが見付からないということは、普段から楽しんでおらず、幅広く行動しておらず、興味を持つこともなく、周囲に目を光らせることも、耳を澄ませることも、根を張り巡らすこともしていない証拠。充実した生活をしていない証明だ。興味があれば、色んな場所を見て、情報を聞いて、思いを馳せるはずなのだ。

まるで興味を持っていない、つまり詰まらないと思っているから、今回のように時間を潰したい時、どこに行けば良いか戸惑い彷徨う。結果、ファミレスというありきたりで誰もが考え付きそうな場所に落ち着く。れくらいしか思い付かないのだ。発想が貧困化し、行動が固定化しているのだ。人生の中で最も多くの時間を割いているはずの仕事が充実してない、職場に興味が持てない、そのエリア内で行動する気が起きないのは、人間として不幸なことだ。

だがプライベートとて同じ落とし穴に嵌まる可能性もある。例えば、家でやることがないので街に繰り出したはいいが、何処で時間を潰していいかなかなか決められず途方に暮れてしまうケース。街にはそれこそ溢れんばかりの施設が乱立しているのに、自分の中で納得できないものがあるのか最終的にワンパターンになりがちだ。

分かり易く言うなら、打つ必要も無いのにパチンコ屋にフラフラと入って夜まで無為に過ごす男とか、全く気分じゃないのにデパートのアパレルショップをほっつき歩いた後、やっぱりやることがないのでそのまま電車で帰ってしまう女子とか、何しに来たんだよという輩もきっと多かろう。目的無き放浪。その目的を探すのが目的。だからなかなか決断できないし、何とか決定したとしても結果としてヌルい選択をする羽目になる。

同じ3時間を使うにしても、カラオケ屋でヒトカラするか、漫喫で漫画読む火、博物館でも観てみるか、諸々有意義な選択肢があると心の中で気付いているくせに、居心地のよいパチ屋に気付けば入っているのだ。このワンパターンを繰り返していると、他の場所に近付くこと自体が苦手になってくる。それは居場所を失っていくということだ。

自分が足を運ぶ場所、すなわち自分の居場所。普段から幅広く行動しストックしておかなければ、いざという時、身体がそちらに向わない。だからフットワークはなるべく軽く、選択肢はなるべく多く保持しておきたいものだ。選択の結果それしかなかったというのは大抵嘘。考えるのが面倒なので妥協しているだけに過ぎない。

今回の僕のファミレスにしても、腰を落ち着ける場所を他に思い付かなかったがゆえの、いわば逃避。職場付近に乱立するカフェには普段殆ど入らないので何となく敬遠してしまう。頻繁に顔を出している場所と言えば、立ち食いソバ屋かコンビニか公園程度。雨の日に時間を潰すにはどこも相応しくない。十数年も同じエリアで働きながら、この程度の動きしか出来ないのである。これを不幸と言わずして何と言うのか。
 
 
■その他の不都合と意外な発見
次善の策、いや唯一の選択だったファミレスだが、睡眠には不適なのが玉に瑕。水泳すると日中眠くなるので仮眠を摂らねばならない。人形町のカフェやベンチではそうしていた。

しかし今回入ったファミレスは、ソファや周囲の視線などカフェとは環境に大きな違いがあり気が散って寝付けないのが現状だ。誰も見ていないのは分かっているけど周りの目が気になる。店員が自分を咎めているような気がする。眠いのに目を閉じても雑念ばかりが頭を過ぎる。

夜遊びした若造ギャルヤンキー集団などがたむろするファミレスなどであればむしろ放置プレイ、無法地帯、やりたい放題なのだけど、同じ早朝でも周囲に座るのはスーツをピシッと着こなしたリーマンやOLが殆どなので、同じリーマンとして体裁を気にせずにはおれない。この辺り、不思議な心理だ。同じ規格、類似の空間でも、その空間を共有する周囲の人間の種類によって自分の行動も制限を受ける。方向性が定まっていく。人間もやはり動物。個体で動いているようでその実、多くのシーンで群体行動をちらつかす。

結局、誰も放っていないのに、自分に向けて放たれていると思いこんでいる他人からのプレッシャーのお陰で一睡も出来ず。そのまま職場に向かうことになった。必然的に日中は激しい睡魔に襲われる。ほんの10~20分でも、その10~20分の処し方で1日全体のクオリティに多大な影響が出るのだから、仮眠がいかに大切か、ひいては睡眠の重要性を思い知る。そして、そのミッションを完遂出来るか出来ないかは、身を置く場所に掛かっているということも…。

というわけで、睡眠が摂り辛いためファミレスは避けたいのだが、専門の喫茶店よりコストを抑えられる点はかなりのアドバンテージだろう。水泳のような有酸素運動をすると、水分は当然として糖分が圧倒的に欲しくなる。だからコーヒーや紅茶などではまるで満たされない。ジュース一択だ。喫茶店ならいくつかのジュースが用意されている。

しかし今回のファミレスはドリンクバーもなく、選択肢は今回頼んだオレンジジュースと、もう一品あったかもしれないというバリエーションの乏しさ。ドリンクバーを設置していない時点で如何ともしがたい。

しかし出されたジュースはよく冷えており濃厚な味わい。ワイシャツも身体も汗まみれな状態だけに、その果汁が激しく身体の中に染み渡る。美味い、美味すぎる、と思った。

何より優れた点は、そのジュースが喫茶店の半額程度で提供されるというコスパの高さだろう。これだけの安価で自由かつ美味しい時間を持てるのだから。店内の居心地の悪さを考慮に入れなければ、ファミレスは休憩場所として強力無比な場所なのだと再確認した。

それでも好んで入ることはあまりない。ファミレスは周囲の客も煩くてガラが悪いというイメージを持っているからだ。それも実際のところ気のせいなのだが。少なくともビジネス街のファミレスならば、大声で騒ぎ立てるヤンキーやギャルやママ友や子供も殆どいないはずだし、ファミレスという選択肢は案外ありなのかもしれないな。

人が集まる場所というものは複雑な心理状況が働くものである。
 
 
■台風の影響は夜に
結局、早朝の関東では台風の影響も殆ど感じられず、そのまま日中も終了。夜になっても外の気配は平穏無事で、台風9号とは何だったのか?状態で1日を終えようとしている。

かのように見えた。

異変は仕事が終わって電車に乗ろうとした時に発覚する。日比谷線が台風の影響で『大幅』に遅延していると、アナウンスおよび電光掲示板で客に知らせていたのだ。しかも「朝に起こった倒木により」と説明している。確かせんげん台だったか。倒木? 別に大した台風じゃなかったじゃなかったぞ?

だがそれは、あくまで自分の居住エリアおよび勤務エリアに限った事で、別の場所で状況であるはずがない。埼玉北東部などは存外なダメージを受けていた模様。恐らくこの位置からは想像もできないほど激しい暴風雨がせんげん台を襲い、木をなぎ倒したのだと思われる。

基本的に、アクシデントやハプニングといった出来事は、現地で直接体験することは殆どない。知らぬ場所で発生し、知らぬ間に終わっているのが大半だ。当事者以外は、後で伝聞によってそれを知るのみ。

その当事者意識の欠如が「帰るのメチャ遅くなるじゃん」「電車もホームも激混みサイアク」という不平不満のハードルを下げる最大要因であり、「いい迷惑だよホント」という言われなき責任転嫁発言の温床となる。

対岸の火事なんだけど間接的に自分にも影響が及んでいるので完全に無関係ではいられない。しかし対岸の火事が発生する際、自分は何も関わっていないのだから責任意識はない。反面、自分は何も関われないという傍観的立場を取らされたことに対する疎外感や、物事が勝手に進んでしまったことに対する腹立ちは存在する。そうして溜まった鬱憤を、直接関わった者にぶつける。現地に居たというだけでも鬱憤を晴らす対象になりうるのが人間心境のややこしいところだ。

だから僕も、誰にともなく「何で木が倒れるんだよっ」とつい愚痴ってしまったし、「しょうがねーなホント」と苛立っていた。この『誰にともなく』という言葉が曲者だ。いい人そうで、実は何も決めたくない、何も背負いたくない風見鶏気質。それは核のない人間とも言える。

誰か特定の対象を攻撃しないのは、寛大にも見えるし優しさとも取れる。しかし同時に、ターゲットを定ないことで対象が無限化していく分、無意味に事を大きくなる。責任の所在をぼかすことで、自分が悪者になることを避ける。対象を不鮮明にすることで、放った言葉も不透明化していく。因果関係がうやむやになれば、発した言葉自体いつでも無かったことにできる。そうなるように伏線を張る。悪者から優等生に戻るための保険、逃げ道を用意しながら声を上げているわけだ。これをズルいと言わずして何と言おうか。

世の中には、口にしない方が平和裏に事を進められる場が数え切れないほど存在する。「黙して語らず」は智者の知恵だ。しかし主語や目的語を曖昧にして述語だけを撒き散らすのは沈黙に類する行為だろうか。智者と言えるのか。それは本能に任せてわめき散らすだけの愚者の遠吠えではないのか。

何かを口にする際は、まず対象を定めるべき。それによって発言者に責任が生まれ、言葉を疎かにしなくなる。考えるという作用が働く。単なる呟きが、意思を伴った発言へと昇華する。智者と愚者を分かつのは、思考と意思を仲介させているかどうか。つまり他者の気持を汲み取る技量。他者の環境をリアルに再現し心まで同化できる想像力。それによって、自身・他者問わず幸せになれる範囲も度合いも計り知れないほどに違ってくる。

だから僕も、遥か遠きせんげん台駅の線路で起きた倒木事故を他人事とは思わず、その影響でダイヤに大幅乱れが発生していても、黙して語らず。「混んでても帰る」か、「再開するまで時間を潰す」か、その選択肢に集中する事にする。大切なのは、これから。起こったことより、それに対してどうするかという未来思考。「まったくいい迷惑だぜ」などと文句を言っても始まらない。
 
 
■街の飲み屋は意外と閑散
なので電車の大幅ダイヤ乱れを受けた僕は、愚痴をこぼさず今後の対処法を画策する。当該電車たる日比谷線は、倒木のため進行もスローペース。駅ごとに時間調整のため停車する上体。しかも、その先の東武伊勢崎線上の駅に乗り入れず、連結ポイントである北千住駅で停まってしまう。伊勢崎線の駅で降りたければ北千住から快速に乗れば何とかなるが、SNS情報を見る限りホームは溢れんばかりの人でごった返しているようだ。すぐに乗り換え出来る状況でもなさそう。とりあえず北千住まで行くという選択肢は採らない方が良いと判断した。

よしんば北千住まで行ったとしても、同じように電車にあぶれた乗客達で駅内および駅周辺は溢れているはず。通常運行するまで近隣の喫茶店や飲み屋で時間を潰すことが予想される。こういう場合は誰もが同じことを考えるものだ。飲み屋で寛ぎながら時間が過ぎるのを待つという手が最善ではないことは、5年前の東日本大震災で味わった。入りたくとも入れないのだ。

職場付近で待つのも同じだろう。ビジネス街だけにリーマン、OLだらけ。およそ休憩できそうな場所は既に他の人間が押さえているはず。一気に最後まで行く、動かずに座して待つ、いずれも正解とは言えない。

ならば、その折衷案を選ぶのが良いと思われる。つまり電車には乗り込むが、最後まで行かず途中で降りる。飲み屋で時間を潰すけど、混んでいそうな場所には行かない。進行と待機という一見相反しそうな両条件をどちらもカバーする賢策だ。見方を変えれば、どっち付かずの女々しい提案でもある。だが、それしかない。

その策を用いた場合、日比谷線沿線を見ていくと茅場町や人形町などビジネス色の強い街は避けたい。難民と化した大勢のリーマン達がそのまま飲み屋に雪崩れ込むと想定できるからだ。小伝馬町はそもそも居酒屋が少ない。

秋葉原駅からはビジネス色も薄れるが、JR山手線、京浜東北線、総武線と繋がる連絡駅なので、仕事帰りのビジネスパーソンが大挙するのは目に見えている。かつ、つくばエクスプレスの起点・終点でもある。茨城の方は東京と違って台風の影響をモロに受けているようだから、都内に働きに出てきているであろう彼等はそのままアキバに滞留すると思われる。ますます混雑する。

仲御徒町駅および上野駅は、ビジネスマンもそうだが普通の飲み客も多いだろう。店も沢山ある。しかも、今回の台風の影響を受けた路線とそれほど連絡もしていない。途中下車して退避するには打ってつけの駅と言える。仲御徒町駅はJR御徒町駅を起点とした中心部と多少離れた場所に位置するので、選ぶなら上野駅だろう。

入谷駅、三ノ輪駅は歓楽街として機能していないので行く意味がない。南千住も同様だ。北千住は先述したように帰宅難民で溢れているだろうから論外。

以上、どちらかというと消去法によって上野駅での途中下車が決まった。平日の上野駅は、とんでもなく喧しいようで意外とそうでもなかったりする。基本、混むのは金曜夜と土曜だ。他は普通。不忍池付近の仲町通りも以前の活気は見られない。汚い、もとい昔ながらの店も多いため、オシャレ女子やカッコつけ男子が寄り付きづらいという点も競争率を下げる要因だ。平日は意外と狙いどころなのである、上野は。

雨が降っているが、ほとんど上がりかけ。台風の影も殆ど見られない状況の中、嫁と待ち合わせた僕は、マルイデパートから御徒町側に通る細道をブラブラと彷徨った。和食、洋食、寿司屋、焼き鳥、焼きとん、イタリアン、バー、各種居酒屋、何でもある。まさに選り取り見取りだ。しかし同時に「どうしてもここに入りたい」と思える超優良店が殆ど存在しないのも上野。最終的に飲めればよかろうなのだから、インスピレーションで決めればいい。
 
 
■呼び込みも契機の1つ
結局、僕等は大した選択もせず、マルイ裏手あたりに店を構える居酒屋「かまどか」に入店。決め手は、呼び込みの姉ちゃんが明るい笑顔だったこと。説明などもしっかりとした口調でしてくれたこと。さらに一度は「ちょっと考えますわ」とその場を離脱しようとする僕等に対し嫌味な顔1つ見せず、「はい~っ、他のお店さんも色々探してください~。いつでもお待ちしてます~♪」と、実に爽やかに送り出してくれた大人の対応が気に入ったからだ。

凡人であればこういう場合、「ち、こんだけ説明したのに入らねぇのかよ」という態度がどこかしらに出てしまうもの。顔や言葉の端には出さないものの、オーラがほんの少し滲み出てしまうものだ。しかしこの呼び込みの姉ちゃんはそのオーラすらおくびにも出さず、ニコニコと僕等のリアクションを見守っていた。

その姉ちゃんの潔さと大人力と、何より言葉遣いや身のこなしから分かる根本的な有能さに敬意を表し、彼女が勧める「かまどか」に入店した次第である。特に嫁などは姉ちゃんのことを大絶賛で、居酒屋の養分となるのも厭わない勢い。

つくづく人って大事だよな。店であれば、スタッフのクオリティのことを指す。店舗の売上げどころか命運なで左右しかねない要素だということに店舗運営者側は今一度思いを馳せねばならない。来店した客の相手をするのは厨房の兄ちゃんでもオーナーでもない。ウェイター、ウェイトレスが客と直接対面するのだ。疎かには出来ないし、してはいけない。

いずれにしても、道の呼び込みにこうもすんなり従ったのは久しぶりだ。普段はもっと警戒心と猜疑心を働かせながら呼び込みに耳を傾けるのだが。

こういった街中には、○○円で飲み放題と言いながら料理を一人三品頼まなければならないとか、自分の名前を出せば20%$オフにすると言いながら会計時に確認するとバリバリの定価だったりとか、後付けのアクシデントが絶えない。とりあえず客を入れればこっちのものとばかりに平気で嘘を吐く客引きも昔はかなり見られた。今はどうか知らないが、さも今だけ特別大サービスっぽく煽っておきながら、メニューに普通に書いてあったり、珍しくも何もないこともしばしば。それだったら最初から大口を叩かず、メニュー記載の定番セールについて偽りなく客に知らせた方がいい。何事も伝え方だろう。

その伝え方が「かまどか」の客引き姉ちゃんは巧みだった。実際のサービス内容が自分の満足いくかどうかは別の話。「ここなら別に入ってもいいかな」という突入契機があり、そう思わせる受け答えをしていた秀逸な店員姉ちゃんがここに居た。それだけのことである。
 
 
■悪くなかった「かまどか」
「かまどか」は、焼き鳥や鶏唐揚、チキン南蛮など、鳥料理に力を入れている店だが、それ以上に釜飯が有名のようだ。サラダなどもしっかり作られている。ドリンク飲み放題のメニューも充実している。価格もそこまで高くない。あまりメニュー通り頼んでいくと、気付けば激しく鳥かぶりになっているという危険性はあるが、バランスよくオーダーしていけば平均以上の店と言えよう。

以前、この上野店および秋葉原店に入った事はあるが、その時はあまり良い店だとは思っていなかった。入る店がない時の緊急避難的立ち位置に違いないと。望んで出向く店でもあるまいと。実際、今もそうかもしれない。

だが持っている実力値は高いので、一度宴会場選びの際の選択肢の1つに入れてみるのもアリかもしれない。店内ほ程よく薄暗くムードよく、料理もなかなか美味く、酒も安い。呼び込みの姉ちゃんが示す通り、店員の対応も悪くない。今日のように、雨のため通りに人があまり歩いておらず、各店舗も閑散気味という状況下で落ち着いて観察したからこそ判明する事実もあった。

昔は「かまどか」なのか「かまど屋」なのか「かこいや」なのか混同してしまうレベルだったことを考えれば飛躍的な評価UP。飲み食いに集中しすぎても大切なものを見失う。会話に集中しすぎるのも、閉鎖空間が織り成す独特の雰囲気や時間の流れを感じ取り辛い。何事もバランス配分とキッチリした区切とが必要だ。

初めて「かまどか」に訪れてから5~6年後、ようやく「かまどか」を他の店と区別して認識できるようになったのである。明らかに自分の中で優先順位が上がったということ。気になる存在になったということ。最初はそこらの通行人だったのに、気になり始めると彼の一挙一動に視線が行ってしまう、一挙手一投足に意識が向かってしまう。そんな雨上がりのような恋と同じだ。最初は他人だったのにいずれ掛け替えのない存在になる。長い時を経て、僕等はようやく分かり合えたのかもしれない。僕等はまた「かまどか」に行っていいのかもしれない。ありがとう。

「かまどか」で時間を潰した後、店を出れば、雨は既に上がっていて…。台風の影は、上野の街から完全に消え去っていた。
 
 
■台風セカンド終了
トリプル台風の内、9号が消えた。11号ももはや過去の記憶だ。残る台風10号も、いずれ接近し、猛威を振るった後、何事も無かったかのように日本から、そして人々の記憶から消え去るのだろうか。多少の傷跡と爪跡だけを残して…。


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20160821(日) あの日見渡した「清瀬ひまわりフェスティバル」の景色に愛を込めて

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【朝メシ】
コンビニサンドイッチ、アメリカンドッグ(家-嫁)
 
【昼メシ】
「お好み処 一番」 親子丼、焼き鳥、キリン生ビール一番搾り(清瀬-嫁)
 
【夜メシ】
枝豆、茄子とミョウガの塩揉み、新潟生トマト、生パプリカ、柿ピー、スコーン(家-嫁)
 
【二十四節気 定気法】
第13「立秋(りっしゅう)」:8/7~8/22 → 第14「処暑(しょしょ)」:8/23~
 
【イベント】
新潟実家荷物(カボチャ、ほおずき)、清瀬ひまわりフェスティバル、西新井温泉
  
  
【所感】
■ひまわりは義務
本日は、ひまわりを見物の予定を立てている。直前まで行き場所を決めあぐねていたが、10万本のひまわりを擁する清瀬市の「清瀬ひまわりフェスティバル」で最終確定。立川の昭和記念公園も捨てがたかったものの、純粋にひまわりだけに特化していそうな点や、市を上げてバックアップする姿勢を評価して清瀬に決めた。

(清瀬ひまわりフェスティバル)
http://www.city.kiyose.lg.jp/s004/040/010/060/020/20160629095849.html

この手のイベント毎は、ネットで検索すれば所謂「まとめサイト」が何種類も出てくるので選択肢が絞りやすく決断もしやすい。全く便利な時代になった。
 
 
■まとめサイトの罠
しかし、あくまで個人レベルの「まとめサイト」を脱しないことも忘れるべきではないだろう。メジャーな場所やツボは押さえているが、それは調べれば誰でも分かる程度の情報量だと思っておいた方がいい。まさしく初心者向けのガイドでありチュートリアル、言葉通りの「まとめサイト」であることを。

掲載者も、紹介している場所に全て出向いたわけでもあるまい。ネットで情報を拾いながら広く浅くまとめた、といったところだろう。現地に赴き自分の目と耳で確かめた情報と、他から切り取った情報を切り貼りしたものとでは大きな差がある。前者は躍動感がある。記号的情報だけでなく情緒的情報も滲み出る。つまり感動が伝わる。対して後者は淡々としており何処か冷めた感じだ。内から湧き上がる情動を読み取れない。密度というか熱度に大きな開きが出来るのだ。その違いは何となく分かるもの。

たとえば、自分が自信を持って熟知するエリアのグルメ情報。「まとめサイト」では物足りないと思うだろうし、「どう考えてもここはないでしょ?」とか、逆に「何でここが載ってないの?」とか、現地の生の情報から少し距離がある事実を思い知るに違いない。僕個人だと、北千住グルメの「まとめサイト」などはそれに該当。あ、ネット情報を拾って繋ぎ合わせたな。と感じる部分も多数だ。

また、たとえば自分が大好きな漫画の「まとめサイト」でも似たような感覚に襲わるだろう。知り尽くしているファンであれば、「それはあまりに当たり前すぎるだろ」とか、「人から又聞きしただけじゃね?」などと、その漫画に対する情熱を勘繰られてしまう。下手をすれば「ホントに読んでんのか?」とすら疑われかねない。

スラムダンクで分かりやすく例えるなら、「あきらめたらそこで試合終了ですよ」「バスケがしたいです」が上位1,2位だと、うそつけ「まるで成長していない」と「なぜオレはあんなムダな時間を」だろ、と、その何処かから拾ってきたかのような上辺っぷりにイライラするような心境か。

実際のところ、「諦めたら試合終了」も「バスケがしたい」も、誰もが認める名言には違いなく、誰もが知る台詞だ。そこに反論はない。ただそれは、連載されていた20年近くも前からずっと読者達の間で挨拶代わりに使われ続けた結果、その積み重ねによってあたかも至宝のような扱いになってしまったという流れだ。

さらに注目すべき点は、「諦めたら試合終了」、「バスケがしたい」共に物語の前半部分、それもかなり序盤で登場した台詞だ。もっと言えば、三井がバスケに復帰する狭間にピンポイントで集中している。その最初の衝撃が忘れられず、人々は延々と語り継いでいく。刷り込みのごとく。

対して僕が推す「成長していない」および「あんなムダな時間」は物語の中盤、あるいは後半の試合中に出た名台詞だ。この自虐とユーモア両者を兼ね揃えた台詞こそ、人間の確信を突いた至上の名言と言えるはずだが、まとめサイトのトップを飾ることが出来ない。出番が後半ゆえに、最初に刷り込まれた「諦めたら試合終了」、「バスケがしたい」の陰に隠れてしまったからだ。最強の実力を持ちながら遂に日の目を見ることなく終わった無冠の帝王の悲哀がここにある。生まれてくるのが遅すぎたのだ。

つまり、真の実力値はどうあれ、最初に出てきた方が偉いということ。レールを敷く者と、敷かれたレールを走る者との差。名曲をどれだけアレンジしたところでオリジナルには届かないということだ。

戦争を体験した老人から団塊世代へ、さらにその息子へ、さらに平成生まれへと語り継ぐ。実際に戦争の真相を知るのは第一世代だけなのに、あたかも前世代が戦争を知った気分になる。気付けばそれが既定のルールとなっている。

スラムダンクの台詞集もそれに準ずる。現代の発達したネット社会ならば尚更。拡散が拡散を呼び、ネズミ講ばりに皆に浸透するだろう。検索上位に出てくるまとめサイトの内容が第一ソースとなり、気付けば類似のまとめサイトばかりで情報網が占拠される。たとえ真実を記したソースがあったとしても、誰が検索順位1万番目のサイトをクリックするだろう。まとめサイトが世の常識として定着するにそれほど時間も掛かるまい。ウィキペディアの席巻もそれに類する現象である。

なので、あまり「まとめサイト」を過信しすぎないよう。手軽だからといってそこだけに焦点を当てるのは危険だ。情報の真偽は複数ソースが基本。さらに言うなら肯定と否定の両側面から覗かなければ真相に辿り着けない。

とは言え、そこまで蜜に調べる余裕もない僕は、今回のひまわり観賞についてまとめサイトに結局は頼った。手軽なので。その手軽さこそが罠だというのに。まあ、結果的には大満足に終わったので別に文句はない。まとめサイトは全能ではない、しかし悪じゃない。TPOに応じて使いこなせということだ。
 
 
■ひまわりは義務
ひまわりを観るという決断は既に為されている。必ずやり遂げる。なぜなら今年は季節毎に咲く花を楽しむ「花観賞の年」と位置付けているからだ。そのテーマの下、桜の開花から現在までメジャーな花を大方網羅しながら迎えた夏。夏の代表花と言えばひまわりをおいて他になく、そんな夏の代名詞を討ち漏らすなどあってはならないことである。

花の命は短い。無限にほとばしる太陽光を一身に浴びたがごときエネルギッシュなひまわりとて例外ではない。急がねば。何事にも期限があるから。今年に限り、花観賞は行楽というよりもはや義務だと捉えたい。義務感だろうと何だろうと、目的があるのは悪くない。むしろハリがあって良いではないか。
 
 
■運も重要
命短きひまわりの寿命は大体2週間程度か。見頃は地域にもよるが、僕の住むエリアでは8月中旬~9月上旬とされる。よって先延ばしにするのは得策ではなく、開花と同時に出掛けるくらいの性急さが求められるのではなかろうか。

ただ本人が望んだとしても、その望み通りに事が運ぶとは限らない。他者の都合、環境的問題、政治的障壁等、自分以外の外部要因で目的を断念せざるを得ないこともあろう。今回の場合、天候という要素がそれに当たる。昨日から猛威を振るう台風11号、それに続く9号、10号の進行状況は、否が応にも予定の成否に関わってくるだろう。雨と風は行楽の大敵とも言うべき存在。事実、昨日は台風の影響で花観賞どころではなかったはず。

その台風の余波は本日にまで持ち越すとか持ち越さないとか、天気予報では報じられていたような。いずれにしても不鮮明。こればかりは祈るしかない。ひまわり観賞を事の他楽しみにしている亀のぬいぐるみ達と共に、せめて雨が降らないことを願った。

その願いが通じたのか、本日の天候は見事なまでの晴天となった。三位一体の台風トリオは一体何処に? 外出を願う人々の執念が台風を押し返したのか。亀達の無垢な想いが天に通じたのか。台風は完全体になる前にいずこかへ消え去った。ちくしょーちくしょー、完全体に、完全体にさえなればー!

いずれにしても、蓋を開けてみれば絶好のひまわり日和。直前まで先が見えない状態だったことを考えれば運が良かった。そう、これを運と呼ぶならそうなのだろう。今はこの運に乗じて、むしろ運命と捉えて躊躇なく動くのみ。
 
 
■朝メシは重要
ひまわり観賞に天候的な支障なし。それはいいのだが、決めて直ぐに出掛けられるわけでもない。まず朝メシが必要だ。たかが朝メシと侮るべからず。快晴だからこそ夏場の猛暑が加速するのは疑いなく、立っているだけで体力が奪われるのは必定。エナジードレインの恐怖を知らぬ者はただの命知らず。いずれ痛い目を見るだろう。

というわけで、体力を保つためのエネルギー確保は欠かせない。夏場の行楽で朝メシを抜く愚を避けるため、コンビニで買ったサンドイッチなどを頬張った。

一緒に買ってきたセブンプレミアムのアイスコーヒー無糖が意外と美味い。今まで散々世話になってきたナショナルメーカー達をドライに切り捨てて、自社ブランドばかりで固め利益の独占を図るセブンアンドアイホールディングスの節操の無さは気に入らないが、クオリティが高くなっているのは否定できない。

釈然としない思いを抱えながらも、僕の大好物であるセブンのアメリカンドッグは今日も安定的に美味いので逆らえないのがもどかしい。セブンが最強だぞ、と。絶対王者だぞ、と言い聞かせながらやってました。調子に乗るな小僧。
 
 
■初動が遅れる原因諸々
メシは食ったが、まだ出発できない。新潟実家が野菜を送ってくれたらしく、それが本日午前中に届くのだ。それを受け取ってからの出発が妥当と言える。人間は基本、自分自身の利益を最優先するべき。それは人の自然な姿だ。しかし一方で、人の好意は自分を曲げてでも受け取るべき。それは人の道だ。しかも荷物の中身は日が持たない生鮮野菜。ひまわり以上に先延ばしが出来ない。よって、荷を受け取るまでは座して山のフドウである。

ただ、午前中到着予定と言っても、その範囲は9時~12時と幅広い。出来れば早めに到着して欲しいが、今までの統計から考えると10時~11時半になる確率が高い。場合によって殆ど昼前。そうなれば相当のビハインドだ。しかし焦っても事態は変わらないため、荷物到着を一日千秋の思いで待つのみである。ボーッと座るだけというのも間抜けだし、TVでリオ五輪でも鑑賞しながら。

TVを点けると、陸上トラック競技の最終種目、陸上1600mリレー(400m×4)をちょうど中継していた。女子、男子共に。何という幸運。400mリレー(100m×4)もアツいが、ラストを飾る1600mリレーも負けないくらい盛り上がる。スター揃いで華やかなこの1600mリレーこそ、僕等の2週間に亘るリオ五輪観戦の幕を閉じるに相応しい出し物だと言い切れた。ええいジャマイカチームはいい! アリソンを映せ、アリソン・フェリックスの戦いぶりを。

と、興奮する最中、ドアのチャイムが鳴り響く。ええい誰だこんな時に、せっかくいいところなのに…。宅配便でーすっ! え!? もう来たの!? それは待ち望んで居た新潟実家からの荷物。だが時計はまだ9時半だ。いつになるか分からないと不安視していたブツは、配達可能時間のほぼ初っ端に届いてしまった。想定外だ。

通常なら喜ぶべき事態。予定を前倒しできる。しかし僕等はリオ五輪を観初めてしまった。一度燃え上がった炎を消すのが難しいことはオトナならば誰もが知るところ。メリハリがあるようで、ない。キビキビ動けない大人の悪い癖だ。結局、1600mリレーどころか、トラック内でやっていた槍投げなど色々な種目まで視聴してしまい、時間が大いに超過するに至る。

そこからシャワーを浴びたり、新潟実家の野菜分析をしたり。結局、家を出発したのは11時過ぎ。随分とスタートが後ろに倒れたが、得るものも多かったのでよしとする。

新潟荷物に入っていたホオズキが放つ赤々しさは、腰の重くなった僕等の心に火を点けてくれた。また、贈り物の野菜の中に入っていたパプリカ3賢者の1つ、緑のパプリカの瑞々しさは、僕のドルオーラが否が応でも刺激する。

さあ出発の時。全てはこれからだ。
 
 
■清瀬市
今回参加する「清瀬ひまわりフェスティバル」は、名の通り清瀬市のイベント。清瀬市は西東京・多摩地区に属する。多摩と言ってもその面積は広大で、23区の位置する東京中央部および東部を合わせてもまだ多摩の方が広いという遠大さ。僻地のようなイメージがあるが、人口も400万人を超える。東京都の3分の1は多摩エリアに住んでいる計算になるから驚きだ。

さらに、その多摩にも色々な定義があるらしく、狭義では東京の「三多摩」と呼称される区分。北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡の3エリアで構成される。東多摩郡もかつては存在していたが、23区に昇格したので「三多摩」には含まれない模様。なぜそうなったのかは知らないが、そこに至るまでどれだけの衝突があったのか。闇は深そうだ。奥多摩という呼び名もよく耳にするが、位置付けがどうなっているのかは知らない。俗称なのだろうか。

驚くべきは、その「三多摩」がカバーする市町村の膨大さ。記述するのが面倒なのでウィキペディアからコピペするが、東京都の武蔵村山・東大和・東村山・清瀬・東久留米・西東京・小平・昭島・立川・国立・国分寺・小金井・府中・武蔵野・三鷹・調布・狛江市、八王子・町田・日野・多摩・稲城市、青梅・福生・羽村・あきる野市がその対象となる。つまり東京23区と小笠原諸島などの島部分を除く全ての地方自治体が「三多摩」の一言でまとめられているということ。「東京都にあるのは23区と多摩と、その他の島です」と言っているようなもの。さすがにやりすぎじゃね? と素直に思ったものだ。

まあこの「三多摩」という言葉自体、ほぼ形骸化しているようだが。それでも立川や八王子まで多摩の仲間だったとは。そりゃ人口も多くなる。

広義では、神奈川県の川崎市の一部、相模原市の一部まで範囲を広めたエリアを多摩と呼ぶらしい。正確に記すなら「広域多摩地域」という呼び名。さらに三多摩との区別をより明確にするため、「TAMA(タマ)」という愛称も用意されている。何か可愛いな。

なぜ、わざわざ川崎市などもタマちゃんの仲間入りさせたのか、その理由はよく分からない。が、内田康夫の浅見光彦シリーズ「遺譜」を読んだばかりの僕としては、なかなか馴染みがある定義付けだ。同作では「川崎市多摩区登戸」という住所が何度も出てきた。さすが旅好きの内田康夫は物を知ってるな、と関心しきりであった。

そのタマちゃんの中にある清瀬市に、僕等は向かったのである。西東京自体殆ど行かない僕等としては、まさしく未開の地。いやそれでは語弊があるので未踏の地としておきたい。西の人間からすれば、ほぼ最東端の足立区など東東京こそ未開の地で未踏の地なのだろうが。これだけ距離が離れているのだから、そりゃあ仲良くなれるはずもないな。
 
 
■清瀬という町
乗りなれない西武池袋線で清瀬駅に到着した僕等は、降り立った清瀬の街をざっと見渡す。高層な建築物は殆ど見られず、人の行き来も大して忙しなくない。食事や買い物は適度に出来る程度。どぎつい遊び場はあまり無さそう。総じてのんびりとした感じの地方都市、いや街という感じか。住むにはストレスが少なそうである。

あと気になったのが、駅ナカのポスターなどで「ライオン」というパチンコ屋が随分と宣伝されていたこと。地元にしか分からない勢力図でもあるのだろうか。にしては、「ライオン」よりも、その近くにある「Aim」というパチンコ屋の方が圧倒的に大きくてキレイで客も入っているように見えるが。そもそも僕は最初「銀座ライオン」かと思った。やはり闇の深そう。
 
 
■ひまわりフェスティバル
気を取り直して現地に向かう僕等だが、「清瀬ひまわりフェスティバル」会場は、地元の農家が所有する農地。農地の所有者がひまわりを育て、それを期間限定で観賞用に一般市民に開放するという仕組みだ。従って入場料は無料。ただしそのひまわりは最終的に売り物になるため、客達はあまりベタベタ触らない方がいいだろう。その辺は客としての節度を保ちたい。

また、無償で美しいひまわりを観させてくれるのだから、その代わり売店などで何か購入してあげるのが望ましい。売店といってもかき氷とかジュースとか小規模なものだが。農業の盛んな清瀬に相応しく、野菜販売も行っているのでそっちでもありだろう。何より、ひまわりの切り花も売っている。一本100円という破格の値段だ。買って損はない。いずれにせよ、無料にしてくれているお礼として。この辺はギブアンドテイクで行きたい。僕等は土産品の中でもかなり高額な部類に属する「にんじん100%ジュース「赤い魔法」という販売物を購入した。

移動手段は、クルマかバス。バスの場合、路線バスか、臨時で用意されたシャトルバスを使う。シャトルバスは無料だが、当然乗客は多いので状況に応じて使い分ければいいだろう。路線バスも大した額じゃない。快晴だけに気温もべらぼうに高く汗だく必至。暑い中、窮屈な思いをすることもない。僕等は行きはシャトルバス、帰りは路線バスを使用した。個人的には路線バスの方がエアコンも効いているし快適だ。

あと、会場にはトイレがないので駅なりで事前に済ませておいた方が無難。仮説トイレが一応設けられているものの、多分使う気にはあまりならないと思われる。
 
 
■美しすぎた青空のひまわり
こうして訪れた「清瀬ひまわりフェスティバル」。会場に近付いた瞬間、肥料の匂いがする。鳥取の農作地帯で育った僕としては、懐かしい匂いだ。この辺りは田園地帯と言ってよく自然豊か。ひまわりだけでなく、野菜なども豊富に栽培されている。不便だけど、この際、本来の自然の光景を瞼に焼き付けておくのが良い。

そしてメインであるひまわりは…美しかった。10万本のひまわりが為す、鮮やかな黄色としっかりとした緑のコントラスト。抜けるような青空を背景としたひまわり群は、観ているだけで涙が出そうだ。

敷地も予想以上に広く、遥か向こうにまで立ち並ぶひまわりの群れを高台から見渡せば、何か世界を突っ切ったような感覚に襲われる。さらに、遠目でしか見物できないと思っていた敷地も、実は縦横に何本も迷路のように道が敷かれており、近接に鮮やかなひまわりを覗き込むことも出来る。天に向かって伸びる数百、数千のひまわり達に左右を囲まれながら歩く時間は、夢の世界に迷い込んだかのようだ。

遠くから眺めるも良し、息が掛かるほど近付きその香りを全身で感じるも良し。「キレイだ」と、「すごい」と、そんな陳腐な言葉しか出てこない。掛け値なしに素晴らしいものを目の当たりにした時、人は言葉を失うのである。感動的なこの光景を是非他の誰かにも知って欲しい。そう思える清瀬ひまわりフェスティバルの桃源郷であった。
 
 
■他人がいてこそのフェスティバル
そんなわけで、景色としては最高だった。いいものを見た、と言えよう。時間を割く甲斐がある。

だがその美しいひまわりも、観てくれる人が居なければ意味がない。そういう意味で、無料で各地から客を募ろうとする試みは評価できる。ベストと言えるかもしれない。人が多ければ、それだけ存在を知ってもらえる。何より人が多ければそれだけ沢山のドラマが、出会いが生まれうるから。

行きのバス待ちの時、客の中に女子中生か女子高生かの二人組がいた。腕などは日焼けしており、洒落てない感じ生のままの立ち振る舞いが逆に好感だ。直接話してはいないが、バス待ちの列でちょうどすぐ後ろだったので印象に残っている。印象に残っているからこそ、会場でたまたまその二人組を見かけた時は、何とはない同志感を抱いたものだ。

また、会場を回っている時、多分大学生だろう、一組のカップルのツーショット写真を撮影してあげた機会があった。彼女の方はほっそりとした感じで、笑顔も柔和。いかにも清楚系美人のお嬢様という雰囲気だ。彼氏もそれに見合って優しそうな感じを受ける。第一印象から好きになれそうな若者達である。

喋り方が、言葉遣いが優しい。目が優しい。渋谷や池袋にたむろするゴミ溜め風ヤンキーと同じ人間とはとても思えない。なぜこうも違うのか。そこに自然があるからで、美しい花が咲くからで、それを愛でる優しさを持っているからだ。僕が喜んで撮影係を引き受けたのは言うまでもない。

その直後、そのカップルは僕等二人の写真も「よかったらどうですか?」と撮ってくれた。このお決まりの返しが、出来るようで凡人にはなかなか出来ないのだ。僕と、嫁と、亀のぬいぐるみ亀吾と、今回新たに連れてきた亀六とで写した写真は、若く優しいあのカップルに晴れ亘る空の下、撮ってもらったこの時の風景は、写真だけでなく後々まで僕等の脳裏に残り続けることだろう。

重要なのは、そこに至るまでのやり取り。見知らぬ他人に声を掛け、ひと時の交流を行う。人が集まる観光地は、こういったちょっとした出会いや触れ合いこそが醍醐味なのだ。観光名所がどうだ、料理がどうだ、それも当然あるけれど、何より思い出に残るのは人でしょう。誰と行き、誰と出会い、誰と触れ合ったか。自分以外の誰かが居るから、人は旅をし続けるのだと僕は信じている。

帰り際、駅前のメシ屋で食った親子丼もかなり美味かったし食事としても満足だ。店員が最初に出すはずの箸やお茶を僕等のテーブルに置くのを忘れ、ずっと放置されていたのに多少の苛立ちはあったが。「すいませーん、そこにあるお茶って、セルフで入れればいいんスかね?」と、嫌味っぽく店員に声を掛けた僕は意地が悪いだろうか。美しい花を観て、美しい人に会った直後なので、その程度の粗相でも汚らしく見えてしまったのだ許して欲しい。

それ以外は、何の文句も付けようのない、素晴らしい1日であった。
 
 
■初動の重要性
ひまわりを観賞した後、地元に戻ってたっぷり掻いた汗を西新井温泉で流し、帰宅後は新潟の野菜をつまみながら、今日の「ひまわりフェスティバル」を振り返る。まさに悔いなし。嫁も申し訳ないくらい大喜びしていた。無論、僕も。そして連れていった亀のぬいぐるみ達の瞳も、いつになくキラキラと輝いているように僕には見える。

僕は自分自身がひまわりを観たかったというより、観せたかったのだとそこで改めて気付く。自分のためは人のため、人のためはすなわち自分のため。だけどやはり誰かのために、誰かの笑顔を自らの内に秘め…。

楽しかったひまわり観賞。群体としてのひまわりを見学したのは、考えてみれば人生始めて。毎年、今日のような大規模なひまわりを見るのかどうかは分からない。庭に咲く、一本のひまわりでも、きっと鮮やかで美しいはずだから。それでも今日の景色は忘れられないものになるだろう。

何年後か、何十年後か、遠い未来のこと。
黄と緑で彩られたひまわりの花を見る度に、決まって私は、2016年の清瀬市に広がったひまわりの景色と、そのひまわりに手をかざしながら微笑んでいた、在りし日の嫁と、亀のぬいぐるみ達の幸せそうな瞳の輝きを思い出すのかもしれない。

20160820(土) 夢のシン・ゴジラを鑑賞後後、現実世界の刺身で真の始まり

160820(土)-01【0830頃】友人宅家飲み 起床後《茨城・つくば-友人3人》_01 160820(土)-01【0830頃】友人宅家飲み 起床後《茨城・つくば-友人3人》_02 160820(土)-01【0830頃】友人宅家飲み 起床後《茨城・つくば-友人3人》_03 160820(土)-01【0830頃】友人宅家飲み 起床後《茨城・つくば-友人3人》_05 160820(土)-02【1000頃】映画「シン・ゴジラ」鑑賞 つくばYOUワールド内シネプレックスつくば《茨城・つくば-友人3人》_01 160820(土)-02【1000頃】映画「シン・ゴジラ」鑑賞 つくばYOUワールド内シネプレックスつくば《茨城・つくば-友人3人》_06 160820(土)-03【1900頃】枝豆(新潟実家送り物)、刺身(インドマグロ赤身半額、鯛、カツオたたき半額、スルメイカ)《家-嫁》_03 160820(土)-03【1900頃】枝豆(新潟実家送り物)、刺身(インドマグロ赤身半額、鯛、カツオたたき半額、スルメイカ)《家-嫁》_05 160820(土)-03【1900頃】枝豆(新潟実家送り物)、刺身(インドマグロ赤身半額、鯛、カツオたたき半額、スルメイカ)《家-嫁》_06 160820(土)-03【1900頃】枝豆(新潟実家送り物)、刺身(インドマグロ赤身半額、鯛、カツオたたき半額、スルメイカ)《家-嫁》_07

【朝メシ】
ツマミ残り 友人宅(茨城・つくば-友人3人)
 
【昼メシ】
無し(茨城・つくば-友人3人)
 
【夜メシ】
枝豆(新潟実家送り物)、刺身(インドマグロ赤身半額、鯛、カツオたたき半額、スルメイカ)、寿司(家-嫁)
 
【二十四節気 定気法】
第13「立秋(りっしゅう)」:8/7~8/22 → 第14「処暑(しょしょ)」:8/23~
 
【イベント】
友人宅、映画「シン・ゴジラ」鑑賞(シネプレックスつくば)、刺身
  
  
【所感】
■ほぼ徹夜
昨日、仕事着のまま茨城の友人宅へ直行し家飲みを敢行。意外と長丁場で飲み食いし、1人また1人と脱落しつつ、最後残った俺も朝4時には撃沈。久しぶりの半徹夜とあって瞼が重くて仕方ない。

それでも8時頃には起きた。そして一度目が覚めてしまえばある程度意識も覚醒するのが人間。日頃続けている早朝水泳のサイクルが覚醒力の助けになっているのは間違いないだろう。

だが他の面子も、言うほど睡眠を摂っていないだろうに、意外とスパッと目を覚ます。着替えを済ませ、テキパキとゴミを片付けていく。二度寝する者は1人もおらず、脱落者ゼロで起き抜け時間を駆け抜けた。みんな朝が早いというか、淡々としているというか。大人なんだな、という感想を俺は持った。

別に早起きが得意なのではない。自らが定めた時間に目を覚ます、というルーチンを守れる自制心が身に付いている。好き嫌いに関係なく、義務的な計画を遵守する理性が備わっているという点、それを先延ばしにせず一発で決めるという部分で大人なのだ。セルフコントロールが出来ている、といって良い。

あと、他人の家ゆえの遠慮という隠れた要素も早起きと無関係ではない。自分の家であれば二度寝する可能性はあるし、二度寝しても構わないと思っているだろう。だが他人の家だから心に一線を引く。相手からすれば大した迷惑にならないが、本人としては迷惑を掛けるべきでないという意識が働く。無意識に自制し遠慮する。だからスパッと起きる。いささか水臭い気もするが、そんなドライさもまた大人の嗜みかもしれない。飼い慣らされているとも言う。

ホント、皆が淡々と、そそくさと動いている。命令もされないのに各々が働く。まるで「さぁ一仕事終えたし帰るか」と言わんばかりの背中。コンピュータ制御されたロボットのようなでちょっと笑えた。笑いの意味を悟られないよう、他の3人に「みんな朝が強いよなー」と含み笑いを投げ掛けながら、俺は彼等に倣うように散らばった空き缶をゴミ袋に投げ入れた。
 
 
■計画変更は当たり前
着替えや片付けも済んで、だだっ広い部屋でしばし寛ぐ俺等。本日は守谷にあるアサビビール工場へ工場見学へ向かう予定だ。こういった酒の工場に俺等は目がない。アサヒは個人的に初めてなので期待感もひとしおだ。この日のために、友人の公爵は遥か前から予約を入れていた。

だが、外は雨が降っている。それもただの雨でなく、台風、暴風雨。報道によれば台風11号とのこと。窓の外ではゴウゴウと風が鳴り、矢のような雨がつくばの一軒家を撃ち付ける。何ともタイミングの悪い。一気に外出する気が失せる。

さらに悪いのは、現在接近中の台風11号で終わりではなく、次があること。11号とは全く別の台風が二つ既に迫っているのだ。9号と10号だったか。11号が消滅・逃亡した途端、次は9号、続いて10号という感じで日本へ攻め入って来られるようだ。まさにトリプル台風。休憩無しで100人組手やらされるようなもの。三つ同時に攻撃されたらパーフェクトで終わりだったろうけど。

実際のところ、どうするか。このまま何もしないか、台風が完全体になる前に撤退するか…。
 
 
セル「ちくしょーちくしょー! 完全体に…… 完全体にさえなればー!」
ベジータ「はーっはっはっは!」
トランクス「凄い…… これなら、勝てる!」
セル「ちくしょーちくしょー! 完全体に…… 完全体にさえなればー!」
クリリン「すげぇや…… こ、これならセルにも勝てるんじゃないのか!?」
セル「ちくしょーちくしょー! 完全体に…… 完全体にさえなればー!」
ベジータ「はーっはっはっは!」
 
PM7:15
 
(ここでCM) ←主に「はごろもフーズ」
 
セル「ちくしょーちくしょー! 完全体に…… 完全体にさえなればー!」
ベジータ「……おい、お前の言う完全体とやらは、そんなにすごいのか?」
セル「そうだ、完全体にさえなればお前などに……」
ベジータ「ほう、本当に強くなるんだな?」
セル「そうだ、完全体にさえなればお前などに……」
ベジータ「…………」
セル「ちくしょーちくしょー! 完全体に……完全体にさえなればー!」
トランクス「……いったい何を話してるんだ?」
セル「ちくしょーちくしょー! 完全体に……完全体にさえなればー!」
ベジータ「おい、なってみろよ。完全体に」
セル「なんだと!?」
ナレーション「いったい、どうなってしまうのか!?」
 
つづく
 
 
という感じで無意味な会話を交わしながら時間をしばらく引き延ばした後、俺等は今後の行動を決定した。
 
 
■本日の予定
まず1つ。
「ビール工場見学は、やめましょう!」
「賛成!」
「サンセイ!」
「台風だしな!」
「(動くのタルいしな)」
「(面倒臭ぇしな!」」

まあ、これが本心だろう。ともかく満場一致でビール工場見学は取り止めとなる。

二つ目、その代案。
「シン・ゴジラ観に行きますか!」
「いいね!」
「あ~、そういう手もなくはないね」
「…マジで行くの?」
上二人は、既に「シン・ゴジラ」を一度鑑賞済みで、面白い映画だと太鼓判を押す二人。下二人はまだ観た事がなく、庵野だけにまた奇抜なゴジラを作ったんじゃないかと半信半疑の二人だ。俺は下二人に属する。

既に視聴した二人は、口を揃えて「面白かった」と振り返る。あまり考えず純粋なエンターテインメントとして楽めること。まんまヱヴァのノリであること。ゆえに面白い。という寸法だ。昨日、2時間も掛けてヱヴァ破の劇場版を半強制的に観させたのは、この布石だったと今では思う。

俺としては、「シン・ゴジラ」というタイトルだけで「庵野ナニやってんだ」の世界だが。ヱヴァ序・破・Qと来て最終話は「シン・エヴァンゲリオン」だと宣伝したのが既に3年前のこと。そこから「そろそろやります、ボクが出します」といよいよ新作ロードショー風味を匂わせながら、傍らでパチンコ、パチスロのモデルチェンジだけは怠りなく、コンビニを始めとする様々なショップや施設ではレイやカオルが商品とコラボする。そしてみるみる時間は経過して…。

何をしてるんだと思った矢先、「シン・エヴァ」でなく「シン・ゴジラ」である。庵野は公開につけ開口一番「ヱヴァファンの皆さんスイマセン」と頭を下げたそうだが、ホントだよ、まったくスイマセンだよ庵野のヤロウ。

というのが俺の偽らざる心情だ。

しかし庵野もヱヴァ次回作を作るため、映画会社の従業員を食わせるために資金を集めなければならないだろうし、「シン・ゴジラ」もその手段の1つと捉えれば同情心も湧くかもしれない。「ヱヴァ」を引き延ばしたい気持ちもあるだろうし。何しろ「ヱヴァ」を終わらせてしまうと、後の作品がない。同じようなロングセラーのコンテンツをもう一度庵野が作れるとも思えない。ドラゴンボールのように、本編が終わっても延々とグッズで稼ぎ出す商法がヱヴァに適用できるか未知数だし。

ヱヴァが完結してしまうと、庵野はそれっきり沈黙してしまう気がする。再起動せず、神話になってしまうような、そんな危険性がまだまだ庵野には付きまとう。

そう考えれば、既に知名度的に申し分ないゴジラをアレンジするという選択は、英断であるとも取れた。

で、結局俺等は「シン・ゴジラ」を、温泉施設「つくばYOUわーるど」」や、クライミングスペースが複合した映画館「シネプレックスつくば」で鑑賞する運びとなったわけだが。
 
 
■シン・ゴジラ
既に観た二人の言う通り、面白かったな。100点満点なら90点くらい付けて良い出来。ホント予想外に面白かった。

映像技術的に秀逸で、ゴジラの威圧感や恐怖、オーラ、凶暴性なども見事に表現していると思う。テンポもかなり悪くない。エヴァっぽい、というか庵野っぽい暴走が節々に見られたが、それは今に始まった事ではないし、庵野は一度自分の世界に入り込んでしまうとテンションがどんどん高まって、誰も付いて来れない恥ずかしい展開と歯の浮く台詞と狂気の映像手法で観客を煙に巻くのはいつもの通り。今さら驚くことではない。友人が言ったように、あまり考えずエンターテインメントとして観るのが最も適切かと思われる。

あと特筆すべきは、出演した俳優達の演技力か。皆、総じて縁起が上手かった。緊張感もあり、緩急も付けたやり取りはなかなか見所だろう。

で、総じて言えば、まんまヱヴァだな。ヱヴァ破の実写版。加えて言うなら、ヱヴァQと同時上映された「巨神兵東京に現る」のゴジラ版か。もう1つ、これは細かい部分だが、一般市民達をフラッシュバックさせるように映し出す手法は黒歴史と名高い昔の「エヴァ劇場版」の要素を踏襲している。この辺、さすが庵野は安定して気が狂っていると一種の安心感を得るだろう。

総括としては、以下三つだ。総括というか、思わず出た呟きというか…。

①ホント庵野はこういうの好きだよな。

②確かに庵野がゴジラ作ったらこうなるわ。

③どうみてもヱヴァンテリヲンです。

本当にありがとうございました…。

でも、「面白いか否か」という点ではイエスだし、「お勧め出来るか否か」という問いにも「出来る」と答える。低迷する日本の特撮映画界に久々に現れた巨星。そう言っても過言ではないかもしれない。

何だかんだ腐しているが、やっぱ庵野は異才であった。
 
 
■1日の後半は即座にシャットアウト
覚えている活動内容は、正直ここまで。結局、トリプル台風による今後の不安定さから、早めに解散することになった。

帰りのTXの道中、同乗した友人バイクマンが、鞄の中からおもむろにASUSのタブレットを取り出し、大量に買い込んだデジタルマンガを「まあこれでも読んで時間を潰せよ」と差し出してきた挙動に、「IT強者のオレを差し置いてタブレットでマンガとは生意気な」などと思ったり。

しかし読ませてもらった漫画「山と食欲と私」という、可愛いOLが山ガールよろしく独りで山に登り、淡々と飯を食うという、いかにも狙ってるとしか思えないマンガはなかなか面白かった。俺は特にマンガやアニメの趣味においてバイクマンと殆ど合わないのだが、たまにこういう見事な選定をしてくるから捨て置けない。

(山と食欲と私)
http://www.kurage-bunch.com/manga/yamashoku/

帰宅してからは、家を空けて申し訳ないという思いから、スーパーで刺身柵やスルメイカを買い込み豪勢な刺身盛りを作ってみる。スルメイカに関しては、嫁も「いつの間に捌いたの?」と驚くほどのスピードで完成させてしまったようで、俺自身気付かないが本当に魚介類の調理に慣れたのだなと再認識する次第。

あくまで生魚限定だが。対使徒専用人型兵器たるヱヴァンゲリオンと同じで汎用性は低い。それでも他の食材に幅広く手を出す道でなく、唯一の武器をさらに磨く事で世界の果てを見ようと決めた俺は、今日もまた所有するプログレッシブナイフを研ぎ澄ませるのだった。

後は、寝た。「ちょっと休憩するわ」と布団に寝転がったまま、遂に朝まで起きなかった模様。夜の9時過ぎには既に沈黙していたようだ。やはり昨日の家飲み徹夜が効いたのだろう。

だが、楽しかったことに間違いはない。今回の茨城友人宅飲みのように、たまにはそんな無秩序で自由な時間が持ちたいとも思った。

あと、茨城の正式な読み方が「いばらき」なのに、全国的には殆ど「いばらぎ」で認識されてしまっているという不遇は、恐らく茨城の「城」という字に起因するだろうなどとも考えたかもしれない。

東京都の稲城市(いなぎし)。宮城県(みやぎけん)。戦艦・赤城(あかぎ)」。それから近いところでは葛城ミサト(カツラギ ミサト)など。「城」が付くとどうしても「ぎ」と読みたくなってしまう。刷り込まれた本能のようなものなのだ。さらに大阪に「茨木市」という地名があるが、大阪で過ごした俺としては「いばらき」と言えばそっちだし、どう考えても「茨木」の方が「き」でしょうよ、となるのは仕方ないのではないか。

だから、不遇なのだ。今後も恐らく茨城県は、「いばらぎけん」として語り継がれる…。
 
 
■ひまわりのように
ということを思いつつ、寝まくった土曜日。明日日曜は清瀬市にひまわりを観に行く予定。だが台風は気になる。どうか晴れて欲しい。ぽかぽかしてほしい。微笑むシンジに頬を赤らめ可愛らしく微笑む綾波レイちゃんのように、晴れやかで透き通った天気にどうか、なって欲しいと、思う…。

僕の夢はどこ? それは現実の続き。
僕の現実はどこ? それは夢の終わり。

夢の中に登場するひまわりのようなレイちゃんの笑顔も良いし、現実の野原に咲き誇るひまわりの花もまた良い。

夢も、現実も、どちらも捨てがたく、捨てる必要もない。
継ぎ目はない。どちらも繋がっている。

よい、全てはこれでよい。
 
 
おやすみ…

20160819(金) 気の置けない友人等との久しぶりの家飲みは響17年ほどの価値があった

160819(金)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター(フリーに歩行、指導水泳)、末廣神社(スエヒロ睡眠) → 職場付近デニーズ(喫茶店全塞がりのため 仮眠摂らず)《人形町-1人》_02 160819(金)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター(フリーに歩行、指導水泳)、末廣神社(スエヒロ睡眠) → 職場付近デニーズ(喫茶店全塞がりのため 仮眠摂らず)《人形町-1人》_03 160819(金)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター(フリーに歩行、指導水泳)、末廣神社(スエヒロ睡眠) → 職場付近デニーズ(喫茶店全塞がりのため 仮眠摂らず)《人形町-1人》_04 160819(金)-02【0850頃】職場内亀吾《職場-1人》_01 160819(金)-03【1500頃】小諸そば 掻き揚げ冷もり玉子付き《職場付近-1人》_01 160819(金)-04【2030頃】ラーメン屋「青木亭」《埼玉・八潮-友人1人》_01 160819(金)-04【2030頃】ラーメン屋「青木亭」《埼玉・八潮-友人1人》_02 160819(金)-05【2200~0400】友人宅家飲み(響17年、ツマミ他) オリンピック、ヱヴァ破DVD鑑賞、YOUTUBE(ドリフ、ひょうきん族、怖い話等)《茨城・つくば-友人3人》_01 160819(金)-05【2200~0400】友人宅家飲み(響17年、ツマミ他) オリンピック、ヱヴァ破DVD鑑賞、YOUTUBE(ドリフ、ひょうきん族、怖い話等)《茨城・つくば-友人3人》_04 160819(金)-05【2200~0400】友人宅家飲み(響17年、ツマミ他) オリンピック、ヱヴァ破DVD鑑賞、YOUTUBE(ドリフ、ひょうきん族、怖い話等)《茨城・つくば-友人3人》_05 160819(金)-05【2200~0400】友人宅家飲み(響17年、ツマミ他) オリンピック、ヱヴァ破DVD鑑賞、YOUTUBE(ドリフ、ひょうきん族、怖い話等)《茨城・つくば-友人3人》_06 160819(金)-05【2200~0400】友人宅家飲み(響17年、ツマミ他) オリンピック、ヱヴァ破DVD鑑賞、YOUTUBE(ドリフ、ひょうきん族、怖い話等)《茨城・つくば-友人3人》_08 160819(金)-05【2200~0400】友人宅家飲み(響17年、ツマミ他) オリンピック、ヱヴァ破DVD鑑賞、YOUTUBE(ドリフ、ひょうきん族、怖い話等)《茨城・つくば-友人3人》_09 160819(金)-05【2200~0400】友人宅家飲み(響17年、ツマミ他) オリンピック、ヱヴァ破DVD鑑賞、YOUTUBE(ドリフ、ひょうきん族、怖い話等)《茨城・つくば-友人3人》_11

【朝メシ】
ドトール(職場付近-1人)
 
【昼メシ】
小諸そば 掻き揚げそばもり冷・たまご付き(職場付近-1人)
 
【夜メシ】
ラーメン屋「青木亭」(埼玉・八潮-友人1人)
友人宅家飲み(茨城・つくば-友人3人)
 
【二十四節気 定気法】
第13「立秋(りっしゅう)」:8/7~8/22 → 第14「処暑(しょしょ)」:8/23~
 
【イベント】
人形町、スポーツセンター、末廣神社→職場付近デニーズ、友人宅家飲み
  
  
【所感】
■別に混んでもいいんだけど…
最近、早朝のプールが混み始めている。今日も例に漏れず、開場してから10分後には芋洗い状態になった。なので最初の10分が勝負。300メートルほど一気に回泳する。人が多くなれば、自分の進路が狭まり快適に泳げないから。まさに鬼の居ぬ間に洗濯の精神で逃げ切りたいところ。

誰もが目的意識を持って朝早くからプールに訪れている。その志を否定はしないし邪魔だとも思っていない。彼等は仲間、同志。よって寛容になれる、優しくなれる。偽らざる気持ちだ。その一方で、人が居なければもっと自由に泳げるのにな~という客観的自己利益の追求も常に持っている。どっちが本心というより、どっちも本心。

例えば、美味そうなランチ店を見つけたとする。店の前に大行列が出来ていたらゲンナリして入る気が失せるのではないか。そう言いながら、逆に店の中に客が一人も居ないのも入りづらい。それと同じだ。大混雑は避けたいが閑散すぎても不安になるのが人間。適度な混み具合が望ましいということだ。

その「適度」の範囲が人によって異なるから統一が取れないのであり、人によっては「混んでる」「空いてる」と判断基準もバラバラ。「混んでる」とより強く感じる者が他人を邪魔者と捉え軋轢が生じる。悪くするとそれが顕在化し喧嘩になる。

それを防ぐには仲間意識を持つのが手っ取り早い。コイツ等は同じ志を持った同志なんだ、だから僕にはコイツ等の気持ちが分かるし、コイツ等も僕の気持ちが分かってくれるはず。そんな意識の共有感が刺々しい雰囲気を緩和させる。つまり愛だ。好きな人には寛大になれる。守勢に過ぎるがそれしかあるまい。

そう思うことで、僕は混雑するプールを乗り切っているし、周囲に群がる他の客を暖かい目で見ている。そして、そういう視点で見れば、多くの人間が譲り合っているのが分かる。25メートル泳ぎ切ったらプールの端に立ち、向こうから泳いでくる人間がこちらに到達するまで待機しているとか。自分の進路前方に別の人間が泳いできたら、どちらともなく左右にずれてすれ違うとか。始めた頃は「自分のコースを頑として動かないで何て身勝手なヤツ等だ」と思っていたが、慣れてくると結構皆が気を遣って泳いでいるなと。思い込みとは恐ろしいな。現実が見えなくなる。「自分勝手なヤツばかりだ」と思い込んでしまうと全員が敵になってしまう。

プールという施設は、自由に勝手に簡単に設定できるランニングコースなどと違い、簡単には増やすことができない有限空間。新たにプールを1つ造るだけで、大掛かりな工事とコストが発生する。プールを見張る監視員も必要。本当に制限だらけだ。

しかし、だからこそ寛容の精神を持たねばならないし、ステージが制限だらけだからこそ利用者の自由度もまた制限されるのが道理だろう。一人一人がある程度のルールやマナーを持って臨まなければプールは立ち行かない。

というわけで、対向泳者と接触しそうな局面は今や滅多にないけれど、たまに自分の泳ぎばかりに集中しすぎて前方の相手に気付かないことがあるので気を付けたいところ。市民プールで大切なのは集中力の深化ではなくむしろ分散だと言える。

だが、初心者はえてして目の前のことで一杯一杯。意識を分散させて泳げというのも酷な話だ。よって、衝突や接触を避ける努力は、技術的にも精神的にも余裕のある中上級者がまずすべきだと思う。僕の場合、使っているコースは初心者向けフリーコースだが、泳力的には恐らく中・上級者の仲間入りをしているはずなので、それに相応しい動きをすべきだと再度意識するのだった。

よく見れば他の中上級者、というか慣れてる人達もそうしているし。慣れてくれば視野は広がるし、見えないものが見えるようになってくるはず、ということだろう。頼もしい限りである。ただ、1人だけ、スピードもパワーもある泳ぎをしていながら、避ける気配なくマグロのように一直線に突進するデカい兄ちゃんが居るけど。ぶつかったらタダでは済まなそう。怖いぜ…。
 
 
■惰性でやっても仕方ない
というわけで、最近続く混雑状況の中、最初の10分程度だけ回泳。混み始めてからは、タイミングを見計らって25メートルずつ泳いでいく。ただ泳ぐだけでは成長がないので、足を鍛えるためにクロールの手掻きはほどほどにバタ足だけで泳いだり、逆に両足を一切動かさないまま手の掻きだけでクロールしてみたり、いつもは顔を左に上げて息継ぎするところを敢えて苦手な右の息継ぎで頑張ってみたり、何かしらテーマを決めて残された時間を消化する。

特に息継ぎの向きについては、左右を変えるだけで一気に不自由さが増す。箸持ちと同じで、やり易い方に流れがちのため癖が付いてしまったのだろう。反対にした途端、上手く呼吸が出来ないし手の掻きも素人同然。別人のように泳げなくなる。裏を返せば、上級者には程遠いということだ。

野球などだと、スイッチヒッターになる必要はない。自分の得意な向きだけを伸ばしていくのがベストだと思う。だが水泳の場合は苦手部分を克服した方が、最終的に速度も持久力も全て向上する気がするな。片方に偏ると恐らく不利だ。左右のバランスが大切。左右で同じ動きが出来てこそ無駄な動きも少なく、泳力も伸び代が増えるのではないかと。

バタフライ、平泳ぎ、背泳などでは気付き辛いが、クロールの息継ぎをした瞬間、左右のアンバランスを顕著に思い知る。掻き方もぎこちなく、ともすれば沈みそう。自分の身体とは思えないぎこちなさ。左で出来ていたことが右で全く出来ないということは、パワーの伝え方、筋肉の使い方が間違っているということ。つまり欠点、苦手部分だ。大分上達したつもりだったのに、ある意味落ち込む。

だが考え方を変えれば、これは新たな課題の出現だ。上達するためにこれ以上何をすればいいのか分からない中、明確に改善すべき点を見出せた。これは幸運と言っていい。最ももどかしいのは下手になることではなく、やってもやっても上達しないこと、道が見えなくなること。停滞こそが目的意識を見失わせモチベーションを削り取る。だから欠点が浮き彫りになったことを、新たな道を見つけたと考え前向きに捉えるべきだろう。

今回の場合だと、右の息継ぎを左と同じくらい楽に綺麗にこなせるという新たな目標設定だ。既にクロールで1km泳げるようになった。多分2kmでも3kmでも行ける。速度も大分増した。ノンブレスでの25mも苦ではなくなってきた。今の自分の中で出来ることはあらかたクリアしたつもり。

だからこそ、「息継ぎの向きを変えて左右のバランスを均等にする」という目標は新たなステージなのであり、それをクリアした際には確実なレベルアップが約束されると信じる事が出来る。そう考えるだけでまた向上心が焚き付けられるのだ。

泳ぎ始めの頃はそんなこと考えもしなかったが、続けていると色んなものが見えてくるな。水泳は、楽しい…。
 
 
■眠気が飛ばない
というわけで、自分なりにハードに運動しているつもり。その証拠に着替えて外に出ると猛烈な睡魔に襲われる。途中寄った末廣神社の猫スエヒロも、奥の方でグッスリ寝落ちし反応ゼロだったことだし、僕も活動停止したいところ。通常は喫茶店の仮眠でそれを補っている。

しかし今日は、人形町駅前の馴染みの喫茶店が二つとも塞がっていたため仮眠が摂れず。已む無く職場付近のファミレスで休息を摂ったが、慣れた場所ではないため眠ることが出来なかった。「枕が変わると寝られない」と抜かす女子のような惰弱さだが、案外これが難しい。

そもそも、家やホテルなどの屋内と、電車や飛行機などの乗り物以外の空間で堂々と寝落出来るほど人間の心は図太くないのでは? それ以外の場所だと安全の確保が困難。あるいは他人の視線が多いため緊張感が高まり意識をシャットアウトできない。マックのように「居眠り禁止」と明言している店もあるし、明言せずとも店の雰囲気から睡眠を推奨しない空気が漂っていると肌で感じる。プレッシャーはより募る。

その点、喫茶店は案外居眠りしやすい環境にある。喫茶店のソファーや椅子は1人用であることも多いからだ。身体がすっぽりと収まるため、身を隠した気分になる。つまり目立たない。また、1人用だから場所を占有している後ろめたさがなく、周囲に気を遣わないで済む。あとは正面を向いたまま目を瞑るか、少し頭を落としてそのまま寝落ちすればOK。

1つだけ、テーブルに突っ伏して寝るのは、あからさまなので止めた方がいいだろう。というか殆どの店でNGだと思われる。座っている体勢で眠る。これが大前提であり、だから喫茶店の一人用ソファーはベストに近い。

対してファミレスは、お1人様用の机や椅子があまりない。4人用テーブルに1人座らされることもザラだ。本来なら快適すぎる空間だが、それだけに申し訳ない気がして睡眠に没入できない。しかもファミレスは店員が店内を定期的に巡回しているので、眠っているのを見つかったらどうしようという焦燥感も加わる。その点、喫茶店の店員は基本的にレジに張り付いており、客はほったらかし。人知れず眠りたい時には、その放置プレイが心地良い。

というわけで、激しい睡魔を抱えつつも仮眠が摂れないため、持参した小説を読んで過ごすしかなかった。ジュースが喫茶店と比べて遥かに安かったのがせめてもの救いだが、今は僅かなコストダウンよりも僅かな睡眠が欲しい。眠くて仕方ない。
 
 
■小説
ところで、小説は現在、内田康夫の浅見光彦シリーズ最後の事件と称される「遺譜」を読んでいるわけだが、最後と言いつつどうせ普通に浅見光彦本は今後も出続けるのだろう。内田のライフワークのようなものだからな。

それよりも、最近小説含め活字から大分離れていただけに、その億劫さを払拭するため馴染みのあるタイトルは打って付けだ。浅見シリーズは既に100タイトルを越えているか。その半分は読んだと思うが、キャラや物語構成に慣れているだけに、久々の文字もあまり抵抗感が無い。さすがにシリーズ最後に近いだけあって、浅見シリーズのかつてのキレというか若々しさが「違譜」の中でも健在とは言い難い部分もある。だがこの場合、求めているのは既にレトリックではなく、愛着の有無。惰性でも受け入れられるような、癒着にも似た緊張感のない関係だろう。文字から完全に離れてしまうくらいなら、なあなあでも復活のきっかけになればいいと思う。

内田康夫も既に80歳越え。ピーク時には1年で10タイトルとか20タイトルとか、鬼のような執筆をしていたとか。半ば狂気に囚われていたに違いないが、本人は充実していたに違いない。そんな鬼モードを体験をしてみたいものだ。きっと幸せな気分になれる。
 
 
■衰え
仕事後は、茨城の友人スーパーフェニックスの家で宅飲みすることになっている。今年の春頃、仲間内の飲み会でそんな話題が出た。大人にありがちな社交辞令的トピック、実現はまあしないだろうと踏んでいたが、意外と皆が乗り気で今回の実現に至ったという流れだ。少し意外だった。

しがらみの殆どなかった10年前に比べ、仲間内の多くが家庭を持ち、あるいは仕事に割く時間が増し、そもそも物理的距離が海を越えてしまったというケースも出てきた。結果、互いのスケジュールを調整できなくなっている。もはやコミュニティのメンバー全員が集まりうる機会といえば結婚式くらいしか思い付かない。一ヶ月ぶりだな、というのはまだマシ。3ヶ月ぶりとか、半年ぶりとか、オレ等って今年に入って会ったっけ? なんて会話もザラだ。住んでる場所は近いのに。事実、SNSやLINEなどネットですら会話していない面子も既に居る。

過去の蓄積された友誼や安心感があるゆえ交友関係が途切れることはまず無いだろうが、コミュニティとして既に形骸化しているのは確かだろう。皆がそれぞれの人生を歩み、その人生を守るために優先すべきものを全うするので精一杯といったところか。脆いものだな、と最近とみに思う。カタチに拘るわけではないが、一抹の寂しさは否めない。

とは言いつつも、そのカタチを維持するために自分自身が努力しているかと問われれば全くそうではなく、流れに任せていたのが現状。それどころか、むしろ自分が率先してフェードアウトしていた気もする。諸々の誘いを大分スルーしてきたし、SNSでの全体会話でもレスが甚だ遅かったり、とにかくレスポンスが悪くフットワークが重くなったという自覚。億劫になったのか。「ま、別にいっか」という見切りと、「いやここは反応すべきポイントだろ」という踏ん張りとの天秤が、見切りの方向へ大きく傾いたまま久しいといったところか。

何でもすぐに見切り、諦める。殆どの物に、人に、事に執着しなくなっている。だからと言って頭のキレが増しているわけでなく、エネルギーが漲っているわけでもない、ただ気が抜けたまま時間が過ぎているだけ。やり切ったという完全燃焼感か、別のものに興味が向いているのか、年を取ったのか。自分だけでなく、恐らく他の面子にも共通する現象のはず。

何事に対しても持続力が低下してきている。集中力も続かない。体力もない。鍛練しないので尚更減少していく。なのでフットワークも重くなる。決めてから動くまでの間隔が長くなってくる。あるいは決めないという選択肢を取る。現状維持の優先という。

また、大抵のことには驚かなくなっている。感動が薄まった証拠で、それはつまり感受性の衰え。頭が衰えると活動し続けるのが難しくなる。つまり走り続けることが出来ず、すぐに息切れする。休息に充てる時間が増えてくる。メリハリもなくなり、感情のブレ幅も縮小していく。間違いなく老いた。

守るものが出来た、生活スタイルやリズムが変化した、重きを置くべき対象がシフトした等々、全うかつ的確な理由があるけれど、実は根本的な理由はそこじゃなくて、ただ衰えた、老いたからというのが正しかろうな。

そんなところまで見れない、手が出せないというのではなく、昔は見えていた視野が狭まったため広範囲に見通せなくなったのであり、昔は出せていた手が縮んでしまったため手を伸ばしても届かなくなっている。だからその前に思考をシャットアウトして取捨選択という名の切り捨てを繰り返していく。とにかく全角度的にキャパシティが減っている。単にキャパシティを超えてしまうから対処できない。対処しないという選択を本能的にする癖が付く。とみにそう思うようになった。

さらに自分の場合、仲間内との家飲みや旅行等も散々やってきた感がある。ゆえに、そういったイベントになかなか食指が動かない。飽きた、燃え尽きた、気力が尽きた、どの言葉が相応しいか。そこそこの達成感に満ちているのは確かだ。取り立ててイベントを企画し続ける必要もないのではないか、と。

ただ、旅行などであれば現在進行形で今も旺盛に出かけている。同行者が嫁になっているだけの違いがあるのみで、まだまだ外への興味は尽きていない。ということは、やはり遠出が億劫になったのではなく、相手によって優先順位を付けているだけという話になる。有り体に言えば家族を優先させている、ということ。

当たり前じゃん? と即座に思うが、なぜ当たり前なのか、本当に当たり前なのか、その点を考える必要がある。考える前に常識だからと問題を片付けてしまうのは、その結論に至るまでの過程に思いを馳せないということで、本当の理由も分からないまま断言すること。つまり思考停止である。なので考えてみる。

まず家族の定義としてメジャーなのは血縁。つまり遺伝的に繋がる関係だ。子孫繁栄、すなわち種の絶滅を防ぐのが生物の根源的欲求であり義務であるならば、同じ遺伝子を持つ者同士はより仲間意識が強くなり結束も固くなるのが道理と見て間違いはない。親は自分の遺伝子を受け継ぐ子はまさに分身であり、それが母親であれば自分の胎内から生まれ出た子は我が肉体の分裂体であり半身。全力で守り、庇護し、愛しても不思議ではない。自分の後に託すため。自分自身の遺伝子を残すため。それがひいては自分の存在を、存在したという記憶の欠片を残すことになる。そんな切っても切り離せない血縁関係だからこそ優先順位は高まる。ありきたりだが、理屈としては正論すぎる正論だ。

だが血縁だけが家族じゃない。養子縁組を始めとする血縁外の繋がりを以ってして家族とする、という思想やシステムは昔から存在していたし、超えるハードルは多くとも現在その手法はより浸透し、寛容に受け止められつつある。そして、ある程度厳格な素行調査のお陰か、養子関係の家族は円満かつ良好な家族関係を築けるケースも多いという。種族は違うが捨て猫の里親募集もそれに類するのではなかろうか。

血縁ではない。しかし「家族」という名の下に作られた絆。同じ屋根の下に生活し、その生活において最も長く時間を共にしうる対象。優先順位が非常に高くなることに変わりはない。言い方は悪いが、時間を掛ければ誰だって懐くし愛情も湧くのが人間の心理だと思われる。

その器となるに最も手っ取り早く適切なものが「家族」。理性で、あるいは感情でこう思う。家族が第一優先、全ては家族のために、と…。最終的に死を看取るのは結局家族なのだから。生と死に直接関わるという点で、家族は他の繋がりと一線を引いている。よって、このキーワードの強力無比は揺るがない。隙がない。ということになるか。

それは分かるのだが、わざわざ強調して言うと何故か白々しく聴こえてしまう。だからあまり口にしたくはないというのが本音だ。それに、家族が最も崇高かつ至上だとするならば、その原理原則から外れた者は人間じゃないというのだろうか。家族が居ない者はどうすればいいのか。嫌い合い憎み合う血縁や家族だってある。世の中、全てが愛情と信頼に満ち溢れた家庭を築ける家族ばかりでもない。そういう人間は生きる資格すらないのか。

血縁ではなく、同じ地域に住む関係を大切にする地縁という見方も世の中にはある。武家社会などでは重要視された模様だ。また、会社を始めとする共同体や集団の縁を重んじんる社縁という縁に繋がりを求めるアプローチも存在する。結局、時代や世情によって異なるものだ。結局それは、オタやLGBTを虐げるのと同じで、マジョリティによるマイノリティへの強制なのではないか。そう思うのは飛躍しすぎだろうか。

それでも最後に帰るのは家族だから…。その家族を形成できなかった人間は、一体どう身を処する? 魂は救われないのか? そのキーワードだけじゃないけれど、だからあまり、分かりきったことを声高に叫ばない方がいいんだ。暗黙の了解を声を大にして言うと逆に白々しく聴こえる。

と言いつつも、かつて形成していたコミュニティ内の活動はほぼ終息しているのが現状だ。
一人身の頃は、誰もが似た趣味や同じような行動をしていたので話が尽きなかった。しかし今は、全く違う生活スタイルを各自がしているから共通の話題が少ない。有り体に言えば話が合わなくなってきている。

斯様なコミュニティでの触れ合いは一時的であり、いかに回数を重ねようと最終的には先細る。代わって、共有する時間が延々と蓄積していく家族間にコミュニケーションの場がシフトしていく。自然現象的に確か。ただ、家族間では通じない話題、深彫りできないテーマはやはり個人個人で持っているため、それが共有できるコミュニティへと一時的に駆け込む。

どちらがガス抜きなのか分からない。どちらも外せない。だけど、どちらかを外せと言われれば、恐らく多くがコミュニティになるのではないか。志は共に出来ても、死ぬ時は共に居られない立場だからだ。今の時代における傾向にすぎない。だが現代では今のところ家族中心の物の考え方が主軸だろう。

出られるだけ外に出て、多くの人間を知って、広げるだけ広げるのが恐らく理想の在り方。親元の庇護から離れた時期から十年か二十年か、人は世界を広げようとする。あまり居所を固定させて単体の器に精力を傾けすぎても視野が狭くなるからと。だが、時が経てば多くの人間がいずれそうなる。結局、必要最小限の器へと逆行する。これはどういうことだろう。還るべき場所が最初から決まっているかのようだ。

羽ばたく時間と、定められた還る場所。どちらが本編でどちらが外伝か、よく考えればこれもまた不明瞭だ。どこに向かって生きているのか、そしてどこに還るのか。考えても今の時点で答えは出なさそうだから、今はただ久しぶりの家飲みを楽しむことにする。
 
 
■忙しない動き
家飲みの参加者は、会場たる家を提供してくれる茨城の友人スーパーフェニックス(仮名)。長らく同じ足立区同盟で結託していたが、家庭を持ったのを機に埼玉の八潮へ居を移した公爵(仮名)。コミュニティの幹事役かつ、リアルでも千葉で手堅い生活をしているバイクマン(仮名)。そして、そのバイクマンと生き方も思考も真っ向から対立し破戒僧の烙印を押されている僕こと佐波。この4名で茨城のつくばで家飲みする。

集合の目安は夜10時前にTXつくば駅着だが、各自の行動に性格が表れているから面白い。地元人のスーパーフェニックスは、現地の仕事場でギリギリまで仕事をしながら待機する構え。時間を無駄にしたくない性格かつフットワークが軽い性格だ。

堅実派のバイクマンは、そもそも斯様な家飲みや旅行に参加せず、飲み会でも時間を区切ってスパッと帰宅するのを信条としていたが、どこかで方針転換をしたのだろう。そこそこ無茶をするようになった。だが時間に遅れることは絶対にないという几帳面さは相変わらずで、今回も恐らく会社を早引けしたのか定時で跳ねたのか、夕方5時~6時には既に秋葉原入りしていつでもTXに乗れる状態にしている。

割と無茶をしていた最若手の公爵も、子供が出来て日々忙しいのか、一度帰宅してシャワーを浴び、着替えてから出掛けるという周到さで挑む。一番若いのに「ここのところ夜の10時半には寝ちゃうんだよな、でもその分朝6時前には起きてるんだよ」などとジジイのような台詞を吐いたかと思えば、「最近めっきり酒が弱くなってねぇ、ビール一杯で眠くなっちゃうんだよ」などと、かつてコミュニティ内一、二を争う酒豪とは思えないほど日和ってしまった模様だ。

しかし反面、公爵は律儀な部分もあるし柔軟なので、今回も僕に「一緒にメシ食ってから行かない?」と持ちかける。僕も当然その誘いに乗った。

その僕は、職場を出て家に帰っていたのでは到底つくばに間に合わないので、私服や下着など着替えをバッグに詰め込んで家を出る。靴なども持っていかなくてはならないので荷物はかなりかさんだ。会社の鞄と、私服用カバンと、あとは靴や着替えが入っている紙袋という重装備。この時点で一番気合を入れているように見えなくもない。舞い上がっているというか。

しかし、腰は重いがやるとなれば全力で行くのが自分流。せめて動く時には動く癖を付けておかないと、フットワークや持久力がますます低下する恐怖心もあった。

ただ、計画的に無理なプランを立ててしまうのは悪い癖だと思う。持ってきた荷物を職場付近のコインロッカーに預け、仕事が終わると同時にそれを取り出し、アキバか北千住のトイレに駆け込んで私服に着替えた後、公爵の待つ八潮駅で合流する。そんなプランだったのだが、そもそも仕事がいつ終わるか分からないのだから前提として既に破綻していることに気付いたのは、会社を出た後だった。

それでもダッシュで動けば何とかなる。5分くらい時間が余る計算だ。しかしこのギリギリのプラン立てで何か事態が好転するのだろうか。アキバに降りて、トイレで着替えを済ませようとする。しかしトイレの個室が空いていなかった。その時点でもうアウト。トイレが満室である想定をしない点でも冷静さを欠いていた。結局、汗だくのスーツに身を包みながら、余分に二つ荷物を持って公爵の待つ八潮駅へ向かうという失態を演じた僕である。
 
 
■ラーメン屋
八潮駅で公爵と合流後、「青木亭」というラーメン屋に連れて行ってもらう。チャーシューが売りのラーメン屋のようだ。店舗のタイプとしてはカウンターオンリー。ほぼ満席に近いから人気があるのだろう。店の外に券売機があるという変り種である。

ラーメンは、とりあえず味噌ラーメンをオーダー。量は中にしたが、予想以上に大ボリュームだった。小でも十分かもしれない。スープはこってりと僕好みで、総じて旨いラーメンと言っていいだろう。「青木亭」、なかなか使えそうな店である。

あと、この「青木亭」は店のウリであるチャーシューを持ち帰り出来るのが人気の一つだそうだ。公爵も家飲みのツマミとしてチャーシューをオーダーしたというか、元々そのために「青木亭」を選んだようだ。しかしまあ、そのチャーシューがまた旨くて。どっしりとブロック状になった青木亭のチャーシュー。質感があり、見るからに旨みがギュッと凝縮されている。これは旨かった、ホントに。家に買って帰ってやりたいくらいである。

青木亭のチャーシュー。覚えておきたい。

(青木亭Webページ)
http://www.negi.co.jp/
 
 
■TXの営業努力
旨いラーメンで腹を満たした後、僕と公爵はTXに乗ってつくば駅へと向かう。TX車内は金曜週末夜とはいえ混雑の極みだ。いや、僕の知る限り、曜日に関係なく、朝も夜もTX車両はリーマンやOLでパンパンである。公爵も「TXっていつの間にかこんなに乗客が入るようになったんだな」と驚きを隠さない。僕も同じ気持ちだ。

かつてヨドバシAKIBAと示し合わせるように約10年前に開業したTX、つくばエクスプレス。オープン当時から爆発的な来客を欲しいままにしていたヨドバシとは対照的に、当時のTXは閑散一路。JRや東京メトロはもちろんのこと、都営大江戸、都営浅草など各私鉄の線路よりもさらに地下、最下層にまで潜らねばならないモグラ電車。千代田区のセントラルドグマだなどと揶揄されていた。乗客も殆どおらず、まるで大三新東京市のモノレールのごとき空疎な車両だったのを覚えている。いずれ廃業するんじゃないかと。

しかしそこから10年。茨城県民にとってJR常磐線が都内への唯一のルートだとすら言われたレッテルも過去のもの。都市開発の末、世界のアキバとなった秋葉原と、茨城一の学園都市・つくば市とを起点・終点とした関東大縦断作戦は功を奏し、沿線はなるべく地価が安く都内にも近い場所を求めた勤め人のベッドタウンとして活用され、結果、TXは時間帯に関係なくいつでも乗客満員御礼の優良鉄道へと進化を遂げたのである。これぞTXの営業努力の賜物、誘致活動の勝利と言えた。
 
 
■家飲みに準備するものとは
つくば駅に到着後、家主スーパーフェニックスのクルマで会場へ移動を開始する僕等メンバー。途中、コンビニに寄り買い物を始める。ロックアイスと各自ドリンク数本。酒はスーパーフェニックス宅に響17年を始めとする高級酒がストックしてあるのでそこまで買う必要がない。

だが、缶ビールくらいはあった方がいいだろう。僕はビールを5~6本カゴに入れていく。「ビールなんて飲まないんじゃね?」とバイクマンなどは言うが、まだ浅い。飲み始めてグダグダになってくれば必ずビールを欲する。そういう風に人間の身体は出来ている。僕には自信があった。

そして結果、そうなった。ビールは大人気だった。

また、少し甘いものをと氷結も一本だけ買っておく。バイクマンは「高い酒飲むのにそんなありきたりな酒買ってどうすんだよw」と呆れ顔だ。公爵等も同調する。だが、歴戦の飲み男たる僕には分かる。ウイスキーを飲んで、ビールを飲んで、塩辛いツマミを食って、甘いものが欲しくならないわけがない。味覚というのはバランスだ。辛いものばかり摂取すれば甘いものが欲しくなるのが道理。まして酒を飲んで舌はバカになるだろう。判断力も麻痺するだろう。そして我々は大人だ。ジュースでは物足りない。必ずチューハイやカクテルのような、甘い酒が必要になる。記憶を無くす前の夜神月のように自信がある。

そして、その通りになった。「氷結って美味ぇな」と誰もが目からウロコが落ちたとばかりに絶賛。そう、氷結は本来美味い。しかもそれを必要とする場でサッと出したらもうイチコロよ…。

他の者はいざ知らず、僕自身は今でも現在進行形で家飲みしている言わば現役戦士だ。家飲みの機微、酔っ払いが無意識に欲するものは把握しておる。無謀なようで計画性に富んだ買い物。この機転や計画性は若かりし頃に引けを取らないと自負している。

ツマミは、寄ったコンビニ以前に立ち寄った八潮のスーパーでツマミセットやブロックチョコ(これは欠かせない)や、その他スナック菓子を計6点ほど買っている。さらにコンビニで、ポテチ系や渇き物系、そしてカップ麵や揚げ物などをガンガンカゴに入れていく。特にスーパーフェニックスがタガの外れた子供のように、菓子やらペットボトルの飲料を計20個くらいは放り込んでいた。

結果、カゴ三つ分の買い物になった。バイクマンは「こんなに食えんのかよ!」とこの上なく呆れ果てていたし、僕もそう思う。金の無駄だろうと。

だが心情的にはそうじゃない。全部喰いきれない、飲みきれないことは分かってる。ただ買い込みたいのだ。カゴを山盛りにしたいのだ。これから始まる宴会のためテンションを高めたいのだ。ワクワクしたいのだ。

なぜなら、祭りだからである…。

祭りで細かく小銭を計算する人間はそう居ない。逆にそんなことをしたら楽しみが半減する。何も考えず、目の前にあるものを本能のまま買って、本能のまま喰う。終点など定めずに行けるところまで行く。ゴールすることに意味は殆どない。やることに意義がある。祭りとはそういうもの。

スーパーフェニックは、この家飲みを祭りと捉えていた。よって無意味な行動をするのである。して、なお楽しくて仕方ないのである。僕も、そう思う。無駄に買って、その殆どを消化できず、だけどまあいっか、と適当に問題を片付ける。

振り返れば、自分の家、他人の家、旅行先の旅館など場所を問わず、家飲みする前に買い込んだ食糧や飲料を全て消化できた記憶は殆どない。基本、残る。だが後悔した事もあまりない。なぜか。あの時も、その時も、そしてこの時も…僕はただ、祭りを楽しんでいただけだったのだ。

祭りの後は物悲しくて、祭りの最中は我を忘れるもので、祭りの前は…楽しい。
 
 
■質の高い酒とツマミ
そして始まる宴会。とりとめもない話をしつつ、サントリーウイスキー響の17年を中心に高い酒を煽る。量よりも質を求める傾向。そういう年齢。僕等は全く以って大人になった。

ツマミも公爵が調達してきた激旨チャーシューや生ハム、ビーフジャーキー、ドライフルーツなど高級路線で行く。通常のスナック菓子も当然旨いが、やはりこれも渋みのある大人ゆえか。これが大人になるということか。どれもこれも美味だった。

だが酒量や胃袋は減退しているので、当然のごとくツマミも酒も大量に残す。未だ現役の僕だけが、注がれるままにビールやウイスキーを喉に流し込み続ける光景を見ながら、自分の酒量が増えたのではなく他の皆が酒に弱くなったという事実に複雑な思いを抱く。相対的に僕が浮かび上がっただけの話だ。ホント、みんな酒が弱くなったよな。何か悲しいぜ…。
 
 
■大の大人4人でアニメ映画を鑑賞する
食や酒は大人だが、やってることは学生時代や若い頃と同じ。近況を少しだけ話した後は、元々の趣味であった漫画の話やゲーム、アニメの話で盛り上がる。基本的にそれで集まったコミュニティなのだから、いざとなればそこに行き着くのだろう。共通の話題といえばやはりそうなる。10年以上経っても、互いの呼吸や間の取り方は健在だ。強固な共有事項が依然として存在することが嬉しくもあった。

その内、ヱヴァンゲリヲン破のDVDを鑑賞することになった。スーパーフェニックスとバイクマンは今話題の「シン・ゴジラ」を観てきたようで、それがヱヴァっぽいともっぱら主張。その予習も兼ねて、スーパーフェニックス宅の60インチTVで2時間、僕等はヱヴァ破を観ながら深夜まで時間を過ごす。

皆、一度か二度観たはずだが内容を忘れてしまっているようだ。事あるごとに僕に質問してくる。僕は映画館で5回、DVDも合わせれば数十回はリピートしているので記憶の欠落は一切ない。惣流アスカがなぜ劇場版で式波なのか、とか、加持登場のシーンはBD版のみのカットだぜ、とか、水を得た魚のように説明して差し上げる僕に、他の三人は羨望のような、呆れ返ったような生暖かい視線を向ける。その視線が何よりの馳走です。

にしても、このヱヴァ破が初めて劇場で公開された2009年、バイクマンを除く僕と公爵とスーパーフェニックスの三名は、このつくばの地にあるYOUワールドで鑑賞している。当時、映画オフという名の下に、ジブリ映画やヱヴァを観つつ、そのまま公爵の家に泊まって家飲みしたりしていたものだ。

そこから7年後、やはりつくばのスーパーフェニックスの家でヱヴァ破を鑑賞しているという偶然、いや符合。アスカやレイの歯が浮くような恋愛コントに「あざとすぎるなw」と苦笑のツッコミを入れるスーパーフェニックスの言葉に、なるほど確かにそうだよなと改めて新鮮な観方が出来たり。だけどやはり、最後のゼルエル殲滅からレイ救出までの流れは何年経っても涙腺崩壊だな。

まこと、良い映画だった。
 
 
■世情を知ることと真理を知ることの違い
次にリオ五輪のニュースなどを観ながら分析合戦。バイクマンなどは「佐波さんはTVとかオリンピックには興味ないだろうけど、今世情では盛り上がってんのよ」と説明するが、僕こそ連日深夜までTVに釘付けのクチだったりするが、「まあそこそこ観てるよ」とだけ答えておいた。

仲間内の中では、僕はTVも観ず時事情報にも疎く、世間に興味のない仙人というイメージが昔からある。実際、昔はそうだった。本当に世の中の動きはどうでも良かった。自分の興味のあることだけに集中し、自分のすべきことを全うすれば、それで。

いつから変わったのだろう。週刊文春を読み始めてから世の中の出来事を少しずつ把握してきたという記憶はある。現実は、週刊文春に掲載されている記事の文章構成力の見事さに感心し、それを追う内に時事情報が後から付いてきたという感じだが。しかしその分、本来自分が興味を持って止まない分野に対する集中力が弱まったようにも感じている。意識が分散するというか、物事に対して突き詰めて結論を出すまで脳が持たない。純度が薄まった気がする。果たしてこれで良かったのか…。

ただ、大人になればなるほど、社会人として年月を重ねれば重ねるほど、時事情報と無縁ではいられない。いわゆるTVやネットのニュースに出てくるトピック。ある意味、それだけ抑えていれば大体の会話は成り立つとすら言える。それは自分のみならず、他の誰もがその流れの中に居るとすら思える。最も楽に入手でき、汎用性が高い分野だからだ。

共通項が多い、最大公約数的な情報源。そこから掬い取っていれば、差し障りなくコミュニケーションが取れるという、社会人としての最低生活保障を受けられるような安心感があるのではなかろうか。それは無難とも言い換えられる。

悪いとは思わないが、裏を返せば情報操作、印象操作はお手の物ということだ。多くの民衆がTVやネットニュースで情報収集をしているのならば、発信側としては意図的に一方通行の思想を流し続ければ民衆の意識を操作するのは可能。昔からどの国でも行われていたことであり、今現在も当然行われているはずの情報操作である。

現代はネットが発達し、一般国民誰もが360度の情報を得ることが可能だが、仮にニュースサイトを信じられず真逆の情報を入手したとしても、それが真実なのか確証もない。収集は可能だが、根本的にその情報の裏を取る術がないのは今も昔も変わらないのだ。

その点で、一億総ジャーナリストと言いながらも実は殆どが受身の姿勢。取材、調査能力は皆無に等しいということで、ジャーナリストではありえない。情報コレクター、そこまでである。「ソースは○○」と言ったところで、そのソース元が真実の情報を流しているかどうかの裏付けはどうするのか。結局そこまでが限界だ。

ウィキペディアで調べたところで、そのウィキペディアですら作為的に編集することも可能なわけで、編集者の意思が働いているわけで、それは受信者の心理誘導に他なるまい。マスメディアが疑わしいとて、利益を追求しない団体あるいは個人が発する情報が必ずしも正しいとも限らないのである。

個人個人で唯一真実に近い情報を伝えられるとすれば、それは自分自身の体験だけ。よってFacebookやツイッター、インスタ等のSNSによる、何の捻りもない日々の行動報告も、無意味なようであながち無意味でないかもしれない。ただ、そのSNS情報に思想が入り込んではダメだ。それはあくまで発する個人の感情的・個人的見解でしかなく、真相に沿った分析ではない可能性も高い。途端に疑わしくなってしまう。

だから最も信用出来るSNS情報としては、「今日は雨だった」「今日のランチは餃子の王将の味噌ラーメンです」「ディズニーシーに行ったよサイコー♪」「学芸会でウチの子が○○役で頑張ってまーすっ」「道端に猫がいるお、かわゆすかわゆす」などと言った、ありのまま目の前で起こったことを話すぜ的情報。最もつまらなく、最もレスに困る、最も陳腐な情報だ。

だがそれが限界。発信者、そして受信者の人と為りが分からない以上、陳腐なクオリティまでしか発信できないし信用もできない。陳腐だからこそ有効。陳腐だから多用され、多用されるから陳腐にもなる。ルパート・ケッセルリンクのこの名言を常に頭の片隅に留めておけば、情報に踊らされずに済むだろう。

しかし、それでも平気で嘘を吐く者だっている。話を盛る人間も。加工技術やCGが発達し過ぎたからこそ、物事を過大に見せることが可能。つまらなくとも等身大のまま、ありのままを発信できる人間は、ある意味心が強く芯のしっかりした人間なのではないかと思うようにもなった。

だが強い人間か否か判断する術は赤の他人には難しいので、相手の発する言葉遣いから行間を読み取り、人間性を計るしかないだろう。困難なようで、案外そうでもない。個々人の性格は話し言葉に、そして文章に滲み出るもの。それらを含めた読解力、反応力、表現力、すなわちリテラシーなのだ。

そのリテラシーから外れまいと意識している間は、多分人の道を外れない。責任がないゆえ裏付けを取る必要もなく、情報社会は一層無秩序。道を外れた領域も方々に散らばる世界。正常と異常の境目などもはや皆無に近く、境界線は曖昧の極みであるけれど、せめて異常に踏み込まぬよう。踏み込むにしても、覗くだけ。正常を保ちながら異常を覗く冷静さを保ちたいもの。その自制心もまたリテラシーと共にあるはずだった。
 
 
■YOUTUBE
オリンピックを語った後は、大画面でのYOUTUBE動画鑑賞会が始まる。何もない状態で個々人のトークだけで対話を繋げ継続させていく、つまり会話が尽きない状態にするのは案外難しいもので、何かしら共通の議題を提示した方が話は続き易い。

今回であればTVを垂れ流すという手法だ。自分から議題を提示せずとも勝手に降ってくるから、観ている者としてはそれに分析やツッコミを入れるだけでいい。つまり楽な作業。しかし沈黙を恐れるならばTVや映画、ゲームなど視覚に訴えかける映像媒体は有効と言わざるをえない。

僕等も若い頃はそんなものに頼らずとも延々と話が続いたのだが、これも大人になった証拠。己が道を歩む内に価値観が各自で大きくずれたというのは全員が自覚している。よって映像に頼るのである。

特にYOUTUBEともなればマニアックな映像がいくらでも収集できる。必然盛り上がりやすい。僕等はただ目の前に映った映像に対してツッコミを入れればいいのだから。無論、つまらないコメントを出しても余計に場が寒いだけだが、幸いウチのメンバーはツッコミ力のセンスに長けている。実際、次々に面白すぎるコメントが飛び出ていた。この夜は、どれだけ腹を抱えて笑ったか分からない。

そんな彼等のコメント力。よくそんな面白い言葉思い浮かぶな、といつも感心する。僕には出来ない感性、センス、リアクション能力だ。僕は苦手である。ゆえに僕は、喋るよりも書く方が好き。書いてばかりだからあまり発言しなくなったのか、元々発言しない性格だったのか、よく分からない。

とにかく、その手の面白コメントが苦手な僕としては、彼等の発する面白コメントに追従し、大仰にリアクションするのが仕事だ。自分の役割は心得ている。世の中は全く以ってバランスが取れている。誰もが歯車の中に組み込まれているのだと、強く感じた夜でもあった。
 
 
■それぞれの共通項
そのYOUTUBE動画の初っ端はアイマス動画。すなわち「アイドルマスター」だ。いきなりこれかと僕も噴いたが、案外全員が全員このゲームを経験しており、予想以上に盛り上がる。皆、普段すました顔しておきながら、各キャラの批評やカメラワークの分析、曲のリクエストなど現役顔負けの鑑賞会。僕も久々だったが、すんなりアイマス世界に溶け込めた。しかし今はここまでクオリティが高くなってんだな。驚いたよ。

ガス抜き的にこういうオタ部分もたまには持ってこなければなるまい。そのオタ部分は家庭では軽々しく出せないだろうし、出したところで共感されないだろうし。だからこそ、その共感を得られるオタ仲間の安心感と安定感。有事の際のオタ。と言える。
 
 
次に、8時だヨ!全員集合、オレたちひょうきん族、とんねるずのみなさんのおかげです、風雲たけし城など、80~90年代のコント、バラエティを延々と流す。

お笑いについて、面白い面白くないという規準は個人個人で異なり、それ以上に時代によって異なるだろう。これらYOUTUBEで流された動画は僕等が子供時代に見たもので、その刷り込みゆえか普通に面白いと思える動画が多い。シンプルな面白さというか。あまり捻りすぎていない。

それ以上に自由度が高すぎたというか、下品かつ放送禁止用語や映像も意に介さず、人権もなく、極めて無秩序で無法地帯というか。とにかく、好き勝手にやっている感があるな。倫理感の高まった現代なら間違いなく全てがたちまち放送禁止だろう。

まあ現代人の倫理感が高まったと明言もできないが。現代のやり方は、自主性に任せた規制でなく、強権をもって臭いものに蓋をする手法なので。実際、下品極まりない80~90年代のコント番組を観ていた僕等も、何だかんだと真っ当な大人になっていると一応思ってる。子供時代に教育上よくない媒体に接したからと言って、実際の成長にはあまり関係ないのかもな。

逆にある意味、汚いものを見ていた方が、思考が柔軟になって理性と自制心が育まれるかもしれないな。大人がそこまで心配するものでもない。などと思うわけである。ただ、暴走しうる情報は現代の方が遥かに氾濫しているのも確か。手綱を取るべきところは取らねばならぬが、今の大人は子供に甘すぎるから結果的に将来を悪くするかもしれないと、今一度考えても良いかもしれない。

とりあえずドリフなどのYOUTUBEは大変面白かった。志村けんや加藤茶のコンビは絶妙すぎるな、とも。子供はこういうので十分なのではないかとも思う。基本、笑いは純粋なもの、純粋な子供のために作るのがいい気がする。現代のように、大人にも耐えうる笑いという部分を気にするあまり、くどくなりすぎてもしょうがない。子供は単純というけど、そもそも大人だって大した事ないのだから、もっとシンプルに行ってもいいかもね。結局、今のTVには潔さが無い。だからスカッとしないのかもしれない。
 
 
■つまらない動画もある
その後、YOUTUBEでホラー映像というか、恐怖体験を再現映像付きで語る動画集を観ていたが、まあゴミのような動画であったな。名も知らぬ芸人が、さも本当に体験したかのように真剣な顔でインタビューを受け、真実のごとく作り話を一生懸命語る。茶番すぎて苦笑する。バラエティとはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが。

いやそうではない。バラエティなんてそんなもの、と言い切れる感性が既にリテラシーから外れている。壊れている。それを語る人間も、制作しようとする人間も、その制作に許可を与える人間も、それを受動し喜ぶ者も、喜ぶフリをする者も。既に正常ではない。つまり嘘が正義と公言し、嘘を容認しているようなもの。

こんな嘘を吐かずに最初からフィクションと断っておけばいいのに、あたかも真実のように話す。嘘だと分かっていて、わざわざ公共の電波で流す。茶番というか、頭がおかしくなったとしか言えないな。その積み重ねが現在の「TV=虚構」の図式を作り上げたことに気付かないのだろうか。

ともかく、この手の番組にだけは全く賛同できない。それを作るに至った異常性を考えるとまるで笑えない。まだ起きている最後の友人・スーパーフェニックスと「時間の無駄だったな」と頷き合ったのだった。

柔軟と無節操とは別物。TVはとにかく節操がない。
 
 
■大人には長すぎた夜
このつまらない恐怖体験動画を見終わった時、時計は既に朝の4時だった。宴会開始は10時過ぎからだけど、誰もが仕事してからの家飲みだ。単純な経過時間では計れない枠外の疲労が加算されているのは疑いない。僕もさすがに眠い。

眠った順序としては、毎日規則的な生活をしているバイクマンが深夜1時半頃にダウン。次いで、子供の世話で疲労が溜まっている公爵が2時半頃には落ちていた。そしてつまらないホラービデオを、不規則極まりない生活をしているスーパーフェニックスと、最近水泳のお陰で短眠に目覚め始めた修羅モードの僕で最後まで視聴。その直後、3時半頃にスーパーフェニックスがダウンする。

まあ皆、よく起きていた。疲れているだろうに。それだけ興奮していたということだろう。今日の家飲みが、眠気を一瞬忘れさせるほどに楽しい時間だったということだろう。それは家を提供したホストのスーパーフェニックスにとっても、参加した他3名にとっても喜ばしいこと。結論として、来てよかったと総括できた。

値落ちするまで30分を切った僕。暗い部屋に最後残った僕は、グラスに残ったウイスキー響17年の原液と溶けかけた氷とが混ざり合う、少し薄まった琥珀色の液体を飲み干した後、床に寝そべり静かに目を閉じたのだった。

20160818(木) 刺身と体力は現役で、腰と土産物は賞味期限ギリギリで…

160818(木)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ寝床から寄ってきて短時間で戻る)、エクセルシオール《人形町-1人》_01 160818(木)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ寝床から寄ってきて短時間で戻る)、エクセルシオール《人形町-1人》_02 160818(木)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ寝床から寄ってきて短時間で戻る)、エクセルシオール《人形町-1人》_04 160818(木)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ寝床から寄ってきて短時間で戻る)、エクセルシオール《人形町-1人》_05 160818(木)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ寝床から寄ってきて短時間で戻る)、エクセルシオール《人形町-1人》_06 160818(木)-03【2200頃】ビビン麵(ピリ辛・キムチ入り)、刺身(亀有Beans キハダマグロ半額、ブリ半額、カツオ半額でも元が高い、鯛)《家-嫁_01 160818(木)-03【2200頃】ビビン麵(ピリ辛・キムチ入り)、刺身(亀有Beans キハダマグロ半額、ブリ半額、カツオ半額でも元が高い、鯛)《家-嫁_02 160818(木)-03【2200頃】ビビン麵(ピリ辛・キムチ入り)、刺身(亀有Beans キハダマグロ半額、ブリ半額、カツオ半額でも元が高い、鯛)《家-嫁_03 160818(木)-05【2320頃】金箔入り羊かん 上野公園アフガニスタン展「黄金のアフガニスタン」土産 賞味期限切れ《家-嫁》_01 160818(木)-05【2320頃】金箔入り羊かん 上野公園アフガニスタン展「黄金のアフガニスタン」土産 賞味期限切れ《家-嫁》_03

【朝メシ】
エクセルシオール(人形町-1人)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-1人)
 
【夜メシ】
ビビン麵(ピリ辛・キムチ入り)、刺身(亀有Beans キハダマグロ半額、ブリ半額、カツオ半額、鯛)、金箔入り羊かん 上野公園アフガニスタン展「黄金のアフガニスタン」土産 賞味期限切れ(家-嫁)
 
【二十四節気 定気法】
第13「立秋(りっしゅう)」:8/7~8/22 → 第14「処暑(しょしょ)」:8/23~
 
【イベント】
人形町、スポーツセンター、末廣神社、エクセルシオール
  
  
【所感】
■短眠化
早朝水泳は完全にルーチン化した。そのための朝5時起床も苦ではなくなってきた。当然睡眠時間は過去に比べ遥かに削られているが、水泳後に寄る喫茶店で仮眠を摂ることによってある程度の埋め合わせは出来つつある。

せいぜい15分~20分程度の仮眠でも頭の重さはかなり解消されるもの。夜は3~4時間しか寝ず、不足分は超短時間の仮眠で補うというのが数十年以上前から変わらない短眠の骨子だが、実感としてそれが理解できるようになってきたかもしれない。

仮眠の有無は、その後続く丸1日の活動内容に大きく影響する。眠いままだと一日中眠いままで、思考も出来ない状態が長時間続く。それを避けるには、十分な時間寝るか、短眠法を会得するしかない。だが十分な時間があれば最初からそうしている。それができない、したくない状況だからこそ、睡眠を改善する以外にないわけだ。

そう考えれば、たった数瞬の睡眠など安いものだろう。最近ではその仮眠も短縮化の傾向にある。20分ほど寝入ったかと思い時計を見ると、まだ5分しか経っていなかったという状況も発生し始めた。頭の冴え方、回復度は体感的に同じなのだが、睡眠の質が上がったということだろうか。

より短く、より深い睡眠。純度の高い眠り。今まで求めて得られなかった短眠法に最も近付けている実感だ。それは素直に嬉しいこと。しかし、そのためには負荷を掛け続けねばならない。結局のところ何事も慣れであり、厳密に言えば超回復を伴う反復行動でしか質は高まらないのだと再認識させられる。

その点だけは若返ったのか。頭は冴えてきたのか。成長したのか。果たして。十分な成果を得たと確信し、かつ長時間費やしたと思ったが、実際は短時間しか経過していなかった。そう感じられるようになれた日には成長したという自負を持てるだろう。
 
 
■リーマンの脳は確実に老化
ところで、泳いだ後見渡した浜町公園には、スマホを持ってポケモンGOのスワイプ運動をするリーマンのおっさん等が相当数見られた。なんだかなー。若い人間がその挙動をしていたのならまだ溶け込んだと思うが、いい年したおっさんがその挙動をしていたのにはとてつもない違和感を抱いた。

基本的に、何かに熱中するに年齢は関係ないと思う。そもそも「いい年して」という表現自体が根拠のない歌謡曲のようなもの。相手を理路整然と諭す確信が持てず、その手間も掛けたくないが、絶対に相手を屈服させたいという欲求だけは人一倍持っている面倒臭がりない人間が使う常套句のようなものだと考えている。

よって、そういった言葉を吐きながら、実はあまり考えていない。ただただ、どこかで聞いたような言葉を口にして優位に立ったと思い込んでいるだけ。まるで古来からの慣習であるかのような錯覚を相手に抱かせ、労力なく黙らせるのが目的だ。

よって俺は「いい年して」という言葉が嫌いだし、その言葉を臆面もなく言い放つ人間も浅はかだと思っている。むしろ「いい年してそんな陳腐な言い回ししかできないのか」と溜め息が出る。自分の頭で考えたことを、自分の言葉で伝えようとするのが正確な大人というものだ。それが出来ていれば、別にどんな趣味を持っていても構わない。ひっそりとやればいい。

そう。目の前にいるリーマンのおっさん等は、ポケGOをひっそりとやっていないから、ここまでの違和感を持ってしまうのだ、きっと。その姿に大人的な洗練さは微塵も見られず、むしろ浅はかさを感じてしまう。つまり、心底面白くてスワイプしているのではなく、好きでやっているのではなく、皆がやっているからやっている。簡単に言えば情報に踊らされている。その動きに情熱や意志といったものを感じないわけだ、リーマンのおっさん等からは。オーラがない。というか消えている。ありありと分かる。

他にやる事がないのかと。自分から能動的に何かを得ようという気概はもう亡くなったのかと。残された時間は、とりあえず埋めるためにあるのであって、成長するために使おうという発想すら尽きたのだろうか。

まるで居場所なくさまようゾンビのようだった。目が輝いてない。よって本心からじゃない。そういう結論。少なくとも俺の目にはそうとしか映らない。俺はポケモンGOは絶対にインストールしない。そう誓った朝でもある。面白いつまらないではなく、善い悪いではなく、残された時間を何でもいいから埋めようとする癖が付いてしまう。そんな危機感をありありと抱いた。
 
 
■猫は純粋に老化
毎度のごとく立ち寄った末廣神社では、猫のスエヒロが神前ではなく奥の寝所でグッスリ寝ている。とりあえず小さな声で呼んでみた。するとスエヒロはヒョコッと起き上がり、俺の方に近付いてくる。眠いのに、餌もないのに、俺に会うためだけに近付いてきてくれた。少なくとも俺はそう解釈した。何て可愛いヤツなんだ。そう思ってスエヒロの喉あたりをゴロゴロと撫でていた。

だがそこから1分ほど経って、俺がふと目を離した瞬間、スエヒロはいきなり回れ右をしたかと思うと、まるで俺のことなど見えていないかのように元の寝床へノソノソと戻っていってしまった。とりあえず義理は果たした、眠いんだからもう行くね、とでも言わんばかりの挙動に俺は( ゚д゚)ポカーンとした顔で見送るしかなかった。

猫ってホント気まま。だけど義理でも何でも、俺の声だけに反応してくれたのは嬉しい。自分にとって特別すぎる猫である。
 
 
■腰は心底悪化
退社後は亀有で鍼治療に向かったわけだが、夏休みを挟んで随分と悪化していた。だが、ささうが何度も診てもらっている主治医の先生。的確に痛みを軽減してくれた。しかし、それでも数時間すると、軽度ながらも痛みが再発してくるというスパンの短さは異常だと先生は懸念しているのも確かだ。この点、かなり心配であり、俺も衰えたなと自嘲する。
 
 
■刺身は豊富
その帰りに寄った亀有駅内ショップ「Beans」には、刺身の柵が大量に陳列されている。半額のものも多数。一昨日、昨日と不遇だっただけにそのフラストレーションを一気に爆発させる。包丁捌きにも自然、力が篭る。結果、見事すぎる刺身盛り合わせがテーブル上に出現した。

刺身はやはり美味い。刺身に飽きなど永遠に来ないという確信めいた想いがあった。
 
 
■冷蔵庫に放置された洋菓子は飽きの証拠か
だが、夜食で喰った羊羹はいただけなかった。春頃、上野公園で開催されてたアフガニスタン展「黄金のアフガニスタン」で金箔入り羊羮を土産に買って大いに喜んでいたのだが、そこから存在をしばらく忘れてしまい今に至る。ふと冷蔵庫を開けてパッケージを見れば、賞味期限が過ぎていたという有様だ。

何でこう熱し易く冷め易いのかと。当時はあんなに盛り上がったのに。買って満足という人種なのかと。ぬらりと黒光りする羊羮を食いながら、ふと自問自答した夜だった。ところで俺の羊羮の賞味期限はどうなんだ?と…。

20160817(水) 久しぶりに喰う刺身と再仕込み醤油はプラチナぱないの!

160817(水)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ部屋で睡眠中の模様)、エクセルシオール(隣のおっさん指と組んだ足先でリズム取るのが鬱陶しい)《人形町-1人》_02 160817(水)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ部屋で睡眠中の模様)、エクセルシオール(隣のおっさん指と組んだ足先でリズム取るのが鬱陶しい)《人形町-1人》_03 160817(水)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ部屋で睡眠中の模様)、エクセルシオール(隣のおっさん指と組んだ足先でリズム取るのが鬱陶しい)《人形町-1人》_04 160817(水)-02【2030~2240】パチスロ偽物語(BIGほぼ30~40G以内13連後、閉店20分前和解ノ儀110語、最後まよいBIG消化で取りきれず終了) 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_001 160817(水)-02【2030~2240】パチスロ偽物語(BIGほぼ30~40G以内13連後、閉店20分前和解ノ儀110語、最後まよいBIG消化で取りきれず終了) 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_005 160817(水)-02【2030~2240】パチスロ偽物語(BIGほぼ30~40G以内13連後、閉店20分前和解ノ儀110語、最後まよいBIG消化で取りきれず終了) 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_010 160817(水)-02【2030~2240】パチスロ偽物語(BIGほぼ30~40G以内13連後、閉店20分前和解ノ儀110語、最後まよいBIG消化で取りきれず終了) 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_014 160817(水)-02【2030~2240】パチスロ偽物語(BIGほぼ30~40G以内13連後、閉店20分前和解ノ儀110語、最後まよいBIG消化で取りきれず終了) 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_017 160817(水)-02【2030~2240】パチスロ偽物語(BIGほぼ30~40G以内13連後、閉店20分前和解ノ儀110語、最後まよいBIG消化で取りきれず終了) 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_018 160817(水)-02【2030~2240】パチスロ偽物語(BIGほぼ30~40G以内13連後、閉店20分前和解ノ儀110語、最後まよいBIG消化で取りきれず終了) 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_021 160817(水)-02【2030~2240】パチスロ偽物語(BIGほぼ30~40G以内13連後、閉店20分前和解ノ儀110語、最後まよいBIG消化で取りきれず終了) 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_023 160817(水)-02【2030~2240】パチスロ偽物語(BIGほぼ30~40G以内13連後、閉店20分前和解ノ儀110語、最後まよいBIG消化で取りきれず終了) 秋葉原サイバー《秋葉原-1人》_028 160817(水)-03【2330頃】マーブルチョコ、鳥取土産(いぎす、らっきょ、梅酒、タイピン)、鳥取岩美土産さいしこみ醤油,《家-嫁》_001 160817(水)-03【2330頃】マーブルチョコ、鳥取土産(いぎす、らっきょ、梅酒、タイピン)、鳥取岩美土産さいしこみ醤油,《家-嫁》_002 160817(水)-03【2330頃】マーブルチョコ、鳥取土産(いぎす、らっきょ、梅酒、タイピン)、鳥取岩美土産さいしこみ醤油,《家-嫁》_003 160817(水)-03【2330頃】マーブルチョコ、鳥取土産(いぎす、らっきょ、梅酒、タイピン)、鳥取岩美土産さいしこみ醤油,《家-嫁》_005 160817(水)-03【2330頃】マーブルチョコ、鳥取土産(いぎす、らっきょ、梅酒、タイピン)、鳥取岩美土産さいしこみ醤油,《家-嫁》_007 160817(水)-03【2330頃】マーブルチョコ、鳥取土産(いぎす、らっきょ、梅酒、タイピン)、鳥取岩美土産さいしこみ醤油,《家-嫁》_009 160817(水)-03【2330頃】マーブルチョコ、鳥取土産(いぎす、らっきょ、梅酒、タイピン)、鳥取岩美土産さいしこみ醤油,《家-嫁》_013 160817(水)-03【2330頃】マーブルチョコ、鳥取土産(いぎす、らっきょ、梅酒、タイピン)、鳥取岩美土産さいしこみ醤油,《家-嫁》_014 160817(水)-04【0000頃】刺身(鯛、サーモン 岩美さいしこみ醤油)、鳥取ジャガイモスライスサラダ、鈴廣かまぼこ(職場同僚土産)《家-嫁》_01 160817(水)-04【0000頃】刺身(鯛、サーモン 岩美さいしこみ醤油)、鳥取ジャガイモスライスサラダ、鈴廣かまぼこ(職場同僚土産)《家-嫁》_02 160817(水)-04【0000頃】刺身(鯛、サーモン 岩美さいしこみ醤油)、鳥取ジャガイモスライスサラダ、鈴廣かまぼこ(職場同僚土産)《家-嫁》_03 160817(水)-04【0000頃】刺身(鯛、サーモン 岩美さいしこみ醤油)、鳥取ジャガイモスライスサラダ、鈴廣かまぼこ(職場同僚土産)《家-嫁》_04

【朝メシ】
エクセルシオール(人形町-1人)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-1人)
 
【夜メシ】
刺身(鯛、サーモン 岩美さいしこみ醤油)、鳥取ジャガイモスライスサラダ、鈴廣かまぼこ(職場同僚土産)(家-嫁)
 
【二十四節気 定気法】
第13「立秋(りっしゅう)」:8/7~8/22 → 第14「処暑(しょしょ)」:8/23~
 
【イベント】
人形町、スポーツセンター、末廣神社、エクセルシオール、パチスロ偽物語(秋葉原サイバー)
  
  
【所感】
■刺身がなかった
昨日の夜メシはハッシュドビーフであり、何の文句もなく大変美味しく頂いたわけだが、献立に関していえば、望んでそうなったわけではない。単体の戦力としては殆ど最高値であるハッシュドビーフ様に大変失礼な話ではあるが、要するにそんな気分じゃなかったということ。本当は刺身を喰いたかった、喰うつもりだった。スーパーで柵でも買って。バチマグロのような、あまり脂身のないサッパリしたネタが理想だ、と舌なめずりしていたのが昨日のことだ。

しかし、その刺身が無かった。いつも大量に並べてあるスーパーに赴いたところ、赤身も無ェ、カツオも無ェ、トロとサーモンも殆ど無ェ、ホタテも無ェ、アジも無ェ、お店の棚はスーカスカ。

という状態だった。夜の帰りが遅い俺ではなく、努めて早めにスーパーに寄った嫁がそう言うのだから、いかに貧弱な在庫状況だったのか窺い知れる、ただ、これは売り切れたというより入荷しなかった疑いが強い。台風のせいで。

今週明けから台風7号が接近するとしきりに報道されていた。その影響か昨日は久々に雨が降っていたし、何より台風は海を荒れ模様にする。だから漁に出ない、出られない。時化(シケ)のため魚が獲れず、よって店頭にも並ばない。まあこの理由でほぼ間違いあるまい。

数少ない在庫有り商品であるトロとサーモンはどちらも脂っぽいので避けた。脂っぽい魚ではなく、サッパリした魚が食いたかったからだ。ここしばらくこってりした食事が多かった。特に夏休み、実家諸々で過ごした5日間、生魚を全く口にしていない。殆ど肉系か炭水化物だったこともあり、生魚に飢えていたのだろう。

握り寿司は一度食ったが、寿司と刺身は全く別物。寿司の代わりは刺身で十分務まるけど、逆に刺身の代わりに寿司はなれない。よって、休み明けの昨日は、狂おしいほどに刺身を求めていた。

しかし、たった5日間で禁断症状が出始めるとはある意味ヤバイ。魚無しでやっていけるか自身が無い。昔は肉に喜びを感じていたのに。体質や嗜好などというものに信念や一貫性など本来殆どない。半年程度の反復でそれは180度変わりうる。そんな現実を理解した。つまり、人を洗脳するのは簡単ということ。
 
 
■台風、来たる!?
これが昨日の夜メシの真相。刺身を喰いたかったけど喰えなかった無念を、まだ見ぬ台風7号にぶつけた日のことだ。だがその嘆きを嘲笑うように、台風7号はその翌日、北日本および我々の住む関東地方に直撃するという。

各TV放送局では、まるで人造人間17号18号が襲来する日を絶望の眼差しでカウントダウンするヤムチャ達のような悲壮感で「最大限の注意をもって皆さん落ち着いて行動して下さい!」と視聴者に向けて終日叫び通して。ウチの職場でも、「翌日は台風が直撃するようだから、正午頃までに出社すればいい、決して無理をしないように」と仰々しく社内通達していた。

TV各社が指し示した「翌日」が、つまり今日、8月17日水曜日なのである。朝から身構えねばならない。心して台風7号を迎え撃たねばならない。最悪、一度も欠かしていない早朝プールを休むことになるか?

これからが本当の地獄だ…。
 
 
■台風、来たらず
しかし蓋を開けてみれば、早朝から爽やかな天気。人形町浜町公園から見上げた空は通常以上に青々とした、まさしく快晴だ。というか、どうみても台風一過の空模様である。台風はいつの間にか過ぎ去った。その存在にすら気付かせないままに…。東北や北関東ではかなりの猛威を振るったようだが、少なくとも東京23区では予想と真逆。正午出勤どころか、いつも以上に早い到着だった。
 
 
■プール上でのマナーとルール
肩透かしを食らった分、水泳をフルパワーでこなしたつもり。しかし実際は人が多すぎて最初の10分程度で回泳を止めざるを得なかった。フリーコースなので文句は言えないが、リオ五輪の水泳選手の活躍を境に一気に人が増えた気がする。単に季節的な増員かもしれないが、フリーコースで歩行する利用者も現れたり、指導したりと、なかなかに無法地帯だ。

いや無法ではない。フリーコースで歩行しても良いと書いてあるし。しかし暗黙のルールというか利用者の共通心理というか、歩行専用のレーンが用意されているのだからそっちでやったらいいじゃん?と思うのも仕方のないこと。ルールか、マナーか、それらを複合した自発的な気遣いか、プールで泳ぐということはマラソンのように単純には行かない。
 
 
■睡眠の夏
それでもなるべく負荷を掛けて泳いだつもりなので、疲労はしている。何より眠い。全スポーツの中で最もカロリーを消費すると言われるだけあって、最近では喫茶店で仮眠を摂らねば日中に響く状態だ。さっさと喫茶店で寝るとしよう。途中寄った末廣神社でも、住み着き猫のスエヒロが奥の寝床でグッスリと眠る。こちらの呼び掛けにもまるで反応しない熟睡ぶりだ。猛烈な気温に悩まされる夏は消耗が激しい。ゆえに睡魔も猛烈に襲い掛かる。お休み…。
 
 
■刺身を確保して安心
夜は刺身となった。台風は海中を掻き乱し、海底に埋もれる栄養素を穿り出すため魚が群がりやすい。だから時化の後は大漁だと俗に言われる。実際のところ台風7号は昨日接近してきたばかりなので時化が明けたわけではないだろうが、とにかく刺身の柵は調達できた。

と言っても、昨日に引き続きラインナップは貧弱。鯛とサーモンしか置いてなかったらしく殆ど全滅だ。それでも昨日刺身にありつけなかった無念さから、あるものなら何でも良いと嫁がその2種類を購入。俺もそれで良いと思う。

今はネタの種類を論じられる立場にない。そんな各論ではなく、「刺身を喰う」という総論に着眼して物を考えるべき時。激烈に喉が渇いている時は、水分が摂れるなら何でもよくて、寂しくて仕方がない時は手近に男がいれば誰でもいいはず。三ツ矢サイダーがいいとか、イケメンじゃなきゃイヤとか、そんな銘柄指定をしている場合じゃないだろう。

切羽詰っているのである。刺身が喰えれば鯛だろうがサーモンだろうがブリだろうが、何でも良かったのである。渇望こそが最大の調味料。飢えこそが、それに対する果てなき憧れこそが、目的を達成した時の満足感を頂点にまで高める。つまり欲望こそが獲物をオイシクいただく秘訣だ。
 
 
■岩美町のさいしこみ
渇望という二次的調味料に加え、今回は物理的調味料においても援護射撃が入る。刺身を浸ける醤油だ。先日実家帰省の際に赴いた鳥取の岩美町特産の「さいしこみ醤油」である。「さいしこみ醤油」は、甘味ととろ味があり、味も深く濃厚だ。刺身に最も適した醤油と言われる。特にイカとの相性は抜群だ。しかも岩美町は、イカの名産地。プロ達が研究し尽くした上で作られた醤油とあって、俄然期待も高まる。

実際、その岩美町のさいしこみ醤油で食った刺身は旨かった。濃厚で舌に纏わりつくような快感と充足感を得られた。他に選択肢のないたった二品の刺身だけど、お預けを食らった枯渇感と魔法の醤油のお陰で大変有意義な刺身タイムを迎えることができたのである。待った甲斐があったというもの。やはり刺身は最高だ。

ちなみに、さいしこみ醤油は「再仕込み醤油」と書く。大体はなぜか平仮名で販売しているが、下手をすると「妻子込み」という意味深長な言葉になりかねないし、なるべく漢字で表記した方が個人的にはベターだと思う。

認知度を高めてこそ、きちんと理解してもらってこそ、愛されてこそ最大のパフォーマンスを発揮できる。

再仕込みの意味は、その名の通り「再度醤油で仕込む」「二度仕込む」という意味合いなのだが、説明は難しいので下記サイトを参照されたい。醤油の事がよく分かる秀逸なサイトだ。

(醤油、味噌 沼屋本店)
http://www.numaya.co.jp/syoyu/syoyu~kind.html
 
 
■偽物語との俺物語
そういえば、退社した後アキバに寄って偽物語を打ってきた。刺身をゲットしたと嫁からメッセージが入り、わざわざ自分がスーパーに出向く必要がなくなったため時間を気にする必要がなくなった。台風も既に去った。しかも刺身と同じで夏休みは帰省していたため火憐・月火のJC姉妹ともご無沙汰だ。渇望があればこそ高まる。愛されてこそ最大のパフォーマンスを発揮できる。再仕込み醤油と同じ理論。迷わず俺は打っていた。

そして愛されている俺は、容易く大勝利する。最後20分前で和解ノ儀110語が入ってしまったのはある意味やり切れないが、そんなことは今まで何度もある。とにかく勝つことが先決なのだ。ギャンブルなど負けるのが基本。だが、それをかい潜り薄い確率を引き当てる機種が、その期間が、局地的に出現することも稀にある。偽物語はまさしくそれだった。

恐らく生涯最高。遥か昔に発売した前作・化物語にシマを奪われる体たらくなマイナー機種だが、俺には合っていたようだ。それを相性と言うならばそうだし、運命と言えばそうかもしれない。

だがそれゆえに、勝てる時期は偽物語が撤去されるまでの期間限定だともほぼ分かっている。その間だけは止め処なく与えられる愛。しかし時間の限られた愛。ゆえに俺は、稼動半年程度で殆ど撤去されてしまい、今はたった2台しか設置されていない不人気機種・偽物語にそれでも座り続けるし、無くなれば他のホールに向かうまで。他の機種には浮気しない。せいぜい化物語までだ。行動で示してこそ純愛を全う出来、結果も付いてくると信じて…。オカルトでもいい。思い込みでもいい。とにかく勝利すればいい。

CRマクロスフロンティアと、そしてパチスロ偽物語。この2機種は、数百に上る機種の海を渡り歩いた自分の歴史の中でレジェンドになることが確実視されている。i-podには4年前に終わったマクロスフロンティアの曲が未だ現役で入っている。偽物語の主題歌もそれと同じ道を辿るだろう。

下品で粗野で卑しくて、人間の理性が通用しないカオス空間。パチ屋などはまさしくその筆頭だ。汚らわしい、醜い、本当に嫌な場所だと毎度思っている。そんな掃き溜めの中、それでも人のままでありたいのだとすれば、拠り所を見つけるしかない。荒廃した大地に咲く一輪の花、荒れ狂う海風に揺れる一輪の花、すなわちキュアブロッサムでありキュアマリンの存在を。

その存在が、偽物語における阿良々木火憐であり、阿良々木月火なのだと、ファイヤーシスターズなのだと、要するに俺はそれが言いたかったわけである。凡そのことは愛が解決する…。

ぱないの!
 
 
■土産もまた愛情だけど
そういえば今日、鳥取帰省の際に送りつけた実家土産が届いた。鳥取の名産「いぎす」であり、実家で漬けたらっきょであり、梅酒。他にも今は引退済みの親父がリーマン時代に使わず仕舞っておいた高級タイピンとか、色々だ。惜し気もなく俺等にくれる。これこそ無償の愛情だろう。

だが見方を変えれば、まるで備品整理のようで、身辺整理をするかのようで。プラチナ嬉しいのに、プラチナ切なくなった日でもあった。

いつも虚勢ばかりで嘘ばかり。偽物な自分だけど。せめて1つでも間に合えば。偽りさえも本当になれば…。俺のマシュマロジャスティスも報われる。

20160816(火) 夏休み明けの虚しさはあれど、これはハッシュドビーフよのォォォ!

160816(火)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター(泳ぎ方がしっくり来ない)、末廣神社、エクセルシオール《人形町-1人》_01 160816(火)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター(泳ぎ方がしっくり来ない)、末廣神社、エクセルシオール《人形町-1人》_02 160816(火)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター(泳ぎ方がしっくり来ない)、末廣神社、エクセルシオール《人形町-1人》_03 160816(火)-02【2100頃】嫁職場同僚土産《家-嫁》_01 160816(火)-03【2130頃】ハッシュドビーフ、豆腐ブロッコリーサラダ(職場同僚長野安曇野土産「胡麻くるみわさびドレッシング」使用)、なめこ豆腐味噌汁《家-嫁》_01 160816(火)-03【2130頃】ハッシュドビーフ、豆腐ブロッコリーサラダ(職場同僚長野安曇野土産「胡麻くるみわさびドレッシング」使用)、なめこ豆腐味噌汁《家-嫁》_02 160816(火)-03【2130頃】ハッシュドビーフ、豆腐ブロッコリーサラダ(職場同僚長野安曇野土産「胡麻くるみわさびドレッシング」使用)、なめこ豆腐味噌汁《家-嫁》_03 160816(火)-04【2220頃】王子動物園バウム(神戸土産)《家-嫁》_03 160816(火)-04【2220頃】王子動物園バウム(神戸土産)《家-嫁》_04 160816(火)-04【2220頃】王子動物園バウム(神戸土産)《家-嫁》_05 160816(火)-04【2220頃】王子動物園バウム(神戸土産)《家-嫁》_06 160816(火)-04【2220頃】王子動物園バウム(神戸土産)《家-嫁》_09

【朝メシ】
エクセルシオール(人形町-1人)
 
【昼メシ】
自作オニギリ(職場付近-1人)
 
【夜メシ】
ハッシュドビーフ、豆腐ブロッコリーサラダ(職場同僚 長野安曇野白馬村土産「胡麻くるみわさびドレッシング」使用)、なめこ豆腐味噌汁、王子動物園バウム(家-嫁)
 
【二十四節気 定気法】
第13「立秋(りっしゅう)」:8/7~8/22 → 第14「処暑(しょしょ)」:8/23~
 
【イベント】
人形町、スポーツセンター、末廣神社、エクセルシオール
  
  
【所感】
■休みボケ
夏休み明けの平日初日。休暇が明けた人間達の一定数が、この段階で「休みボケ」と呼ばれる無気力感や非現実感に捉われ欝になる。制約だらけの日常と、憚りなく自らを解放できる非日常との落差に付いていけないのが原因であることは言うまでもない。

その落差は、季節の変わり目で風邪を引くといった生易しい例えで済む話ではなく、日中は気温50℃に達しながら夜になると氷点下を突き抜けると言われる砂漠の過酷な気温変化に類する現象と言った方が適切だ。あるいは、海で泳いでいた魚が網や釣竿で捕まり地表に投げ出されるようなもの。さぞ痛かろう、辛かろう。人間とは残酷だ。いや、生態系というものが成り立ち存続していること自体、既に残酷なのかもしれない。

そんな残酷かつ急激な変化に誰もが即座に対応出来るはずもない。振り落とされ、跳ね飛ばされ、悪くすれば死に至る。単に精神がタフかデリケートかという問題だけでは計れない、ちょっとしたタイミングのズレでも十分に起こりうる。歯車は、いつでも、どこでも狂いうるものだから。

子供の自殺が最も増加するのは長期休暇後だという統計もある。学校生活が苦痛だったのだろうか。長すぎる非日常に浸る余り、日常が苦痛になってしまったのか。いずれにしても痛ましい限りだが、大人とて子供の延長線上にある存在。だから長い休みの直後は気を付けねばならない。環境のチェンジに対応するため、自らのギアを速やかにチェンジせねば冥府を彷徨うことになりかねない。

長期休暇と平日との狭間に生じるチェンジ…。誰にも気を遣わず、誰もが自分に傅き、何もかもが思い通りな快楽的況から、一転して誰もに気を遣い、自分以外の誰かに傅き、そのために自らを圧することを強いられる苦痛の環境への突如たるチェンジ。しかも快楽期間は人生全体で見ればごく短期で、苦痛の時間の方が圧倒的に長いという予感、感触、現実と抱き合わせでその門は開かれている。

まさに登竜門だが、両者の激しい温度差と急変性はチェンジと言うには生ぬるく、もはやワープの領域。別世界へのワープ。異次元のワープである。日銀・黒田の異次元金融緩和を受け乱高下する株式市・為替市場しかり、双子座の黄金聖闘士が繰り出すアナザーディメンションで派手に飛ばされる青銅聖闘士しかり、異次元ヤプールの超獣製造能力に苦しむウルトラマンAやTACしかり、異次元の攻撃には犠牲が付き物。周囲に大きな被害を撒き散らし、場合によっては自分自身に降りかかる。行けー!行けー!ブラックピジョーン!

そんな異次元攻撃に戸惑い、動揺し、プレッシャーを感じ、順応するまでには長短問わず必ず時間を必要とする。だから順応する前に心折れた場合、極端な選択をしてしまうことだってあり得るのだ。

休暇中に起きることの殆どは楽しい出来事なのが世の相場。また、そうなるように予め自分自身で仕向けている。いわば予定調和、計画通りの楽しい思い出期間。アジェンダに沿った夢の時間と言える。休暇中の出来事は文字通り夢のようだ。

しかし夢ゆえにいつまでも離れたくないと潜在意識で願望する。だけど現実はそれを許さない。だから順応するため忘れるしかない。まさしく夢幻のごとく、記憶から消し去るのだ。どれだけ直近の楽しい出来事も、過ぎ去ってしまえば瞬時に忘却の彼方。それは人間が持つ忘却の性質ではなく、むしろ故意ではなかろうか。

楽しい記憶を思い出すことが精神の安定に繋がるのは確か。だが同時に胸が苦しいのも確か。100%に近い楽しみを得られる時間など滅多に無いのが普通だからだ。当時と同じ喜びや充足感を得たいのであれば、同じ水準の楽しみを今ここで再現すればいい。しかしすぐに再現できるような代物ではない。そんなものは滅多に訪れない。だから「宝物」なのだ。

その宝物を毎日心の中でリフレインさせるのは、届かないものに手を伸ばし続けるがごとき行為だ。それは苦行でしかない。いつでも再現できれば問題ない。再現できないから苦しむ。ならば封印しておいた方が精神衛生上真っ当。思い出さないこと、つまり忘れることだ。それでこそ、日常を過不足なく過ごせる。不健康で不健全な妄執からも自由でいられる。

そうして心の奥底に仕舞い続けている内に、本当に綺麗サッパリ記憶から欠落する。当時の感動や鮮烈な体験など無かったかのように振舞うようになるだろう。それでいい。いや基本的にはそれしかないのだ。余暇期間が、夢の時間が終わってすぐに待ち構える現実に淡々と対応していくためには。

平常運転への切り替えの重要性。この切り替えに成功するか否かがスムーズなステージ移行の肝となる。無論、切り替えスピードの速さは人それぞれだが、殆どの人間はどこかの段階で平常運転に戻れるだろう。だからこそ失敗した時が悲惨。先述した被害へと発展していく。

だが、忘れてしまうのも虚しい。時間と金を、すなわち自分の命を削って得た体験が完全に無かったことになるのは悲しい。写真を撮るのは、それを忘れまいとするせめてもの抵抗か。当時のことを書き留めるのは、忘却という人間の特性に抗おうとする精一杯のレジスタンスか。

夢の時間が過ぎ去るのは切ない。だけど平坦な日常だけでは息が詰まる。バランス。バランスが重要だ。奥底ではなく、いつでも心の傍に。その充実感を別の場所で、別の領域でいつでも再現できるよう自らを変えていく。それが最善のはず。だからこそ、最善を追求するため、今は苦しくとも…、

夢の時間ヲ終わラセルな…!

待ってくれ! うおおおおー!
待ってくれ! うおおおおー!
待ってくれ! うおおおおー!

ペチョッ…。

力及ばず倒れ込む。俺の5日間のハッピータイムはこうして終わりを告げたのだった。
 
 
■実は無感なだけ
ただ、虚しくも休暇が終わったとはいえ、死に至るほどの絶望感はない。以前は長期休暇の最終日の夜は極度にブルーになり、休暇の翌日は出勤の電車に乗ったまま見知らぬ場所にまで逃避しようかなどと考えもしたのだが、あくまで平静、平坦だ。

しかし、心のスイッチを即座に切り替えられたわけではない。オンとオフの境目なく何事にも柔軟に対応出来るタフさを身に付けたのでもない。何も考えないだけ。能動性を排除し、ただ機械のように受動的に、目の前にある事象に対応する。そんな自覚が確かにある。

いや、対応ではなく対処という表現の方が相応しい。已む無く対処しているのだから、何かしらの事象が自分の身に降りかからなければ、恐らく何もしないまま突っ立っているだけだろう。食って、寝て、息をする木偶人形と化すだろう。対処とはそういう意味だ。

いや、対処という言葉でもまだ言い過ぎ。ただ見て、ただ聞いて、ただやる。来たものに対して反応し、伝達し、反射するという反復運動を繰り返すだけの肉の塊と言った方が良いだろう。目標をセンターに入れてスイッチ、目標をセンターに入れてスイッチ、まさにこれだ。自分から何もアクションを起こそうとせず、関わろうとせず、来たらとりあえず迎撃だけはしておく。ただし追撃はしない。そういえば俺のスマホはここ1年ほど鳴らない電話だ。無理もない。得ようとする努力をしていないのだから。よくよく振り返れば、俺はとうにシンジを超えていた。

つまり無感だ。物事に都度反応していれば身が持たないし心も磨り減る一方。それを避けるための唯一の方法は無感になることだけなんだ。とは神代ユウの言。彼もまたシンジに類する人物。コミュ症感情を遮断し、目の前の事象を淡々とやり過ごすことで救いを得る道を選ぶ。死を選ぶという究極の逃避に次ぐ次善の策の下、部屋にただ引き篭もる。

一点だけ違う点があるとすれば、無感の逃避によって生じた大いなる空白を埋めるため、部屋の中でひたすらシャドーボクシングに勤しんだこと。部屋の中で独り何百回も、何千回も、ただ拳を振り続けた。そこで1つの変化が生まれる。シャドーボクシングというただ1つのことに集中する過程で、彼の心は無感から無心へと変化していったのだ。無心は集中力となり、やがてプロをも唸らせる格闘技術へと実を成していく。恐るべき能力は、逃避行動から開花しようとしていたッ…!

感情を欠落させる無感は、同時に充実感を欠落させる。何だかんだと理由を付けても、人間は時間を持て余すことに我慢できない生き物。無意識に時間を埋める対象を探すようになる。シンジやユウのように内気なコミュ症とくれば、その充実を外に向けることは困難。自然、発散されぬエネルギーは内に向かうしかない。シンジはエヴァの操縦練度を向上させることで充実感を刺激させ、ユウは格闘技術を磨くことで飢えを満たした。幸い、両者共にすることが他に見当たらなかったため、全エネルギーを一点に打ち込むことが出来た。

結果、碇シンジはその方面でのエキスパートと目され、しかるのち少年は神話になった。神代ユウはキックボクシング全日本チャンプにも引けを取らないほどの格闘能力を身に付けながらも野に下り、かつていじめられっ子だった自分と同じ境遇の少年に「君は変わる、変われる」との名言を真っ直ぐな瞳で放ち、夜の街に颯爽と消えていった。

二人とも、弛まぬ努力と集中力で功を成し遂げたのである。
 
 
彼の地を去る時、人は聖地を胸に宿す。
時に忘却の彼方。
しかし誰もが持つ聖地。
そこに―あなたはいた。
確かにあなたはそこにいた。
 
 
と、無気力人間、コミュ症、燃え尽き症候群、絶望の狭間に居る者達にとって、何とも励まされる話ではないか。無論、それを達成するには常人を遥かに凌ぐ継続力と集中力が必要なのは言うまでもないが、それさえこなせばきっとコミュ症の自分をいつか好きになれる。
 
 
■水泳に打ち込む理由
それに比するべきか否かは別として、俺も4月から始めた早朝水泳は今も欠かさず継続している。会社の休日とプール施設の休館日を除けば、文字通り1日も漏らすことなく5時起床の7時開始を鉄の意志で敢行中。いや、実際は鉄の意志というほどでもない。自分の中では大した負担と感じておらず、むしろメシを食うレベルのライフワークだ。

なぜなら、この早朝水泳は逃避行動から出た選択肢だからだ。表面上では腰痛対策と謳っているものの、事実は別。確かに最初は腰に効くと信じやっていた。だが途中でこの僅かな水泳時間が自分に予想以上の精神的安定をもたらしていると感じ始めた。全ての喧騒を完全にシャットアウトし、無感で、しかもストレスなく時間を埋められる場所だと気付いたからだ。そう感じているから心よりも身体が勝手に動く。前日大量に酒を飲んでも、風邪でも、3時間睡眠だろうと未だかつて遅刻したことはない。

楽しみたい、行きたい、それよりも先に、逃避したい。その一心の為せる業だろう。純粋な鉄の意志には及ばないが、これもまた鉄の意志。自分は逃げる、毎朝必ずその場に逃げ込むんだという黒き鉄の意志ではなかろうか。動機があまりに黒すぎて黒光りしそうだ。

距離も楽々泳げるようになり、泳ぐスピードも向上した。成長を十二分に感じ取れている。だがそれは単に続けていたからで、継続がもたらす当然の帰結。才能はあまり関係ない。基本的に誰でも続ければ向上する。続けないから成長しないわけで、自分の可能性を感じ取る前に終わってしまうのだ。余計なことを考えず無感で動けばその心配もない。まさしく恐るべき能力が逃避行動から開花した例と言える。

また、プールでは顔見知りと挨拶くらいはするようになった。しかし会話までは発展しない。それはコミュ症というよりも、根本的にはコミュニケーションを取る事に積極的でないからだ。つまり興味が失せているから。それはまさしく無感の産物。

それが自分にとって本当に良いことなのか。断言したくはない。断言してしまえば自分が社会のつまはじき者だと宣言しているようで怖いのだ。無感だが言霊の威力は信じている。言い切りたくはない。

だからこそ、そんなありとあらゆる物思いや渦巻く感情を一時的にでも遮断したいから、俺は今日も早朝水泳に向かう。独り水に浮いているこの時間が何より愛しい。この30分間に1日の全てを懸ける2016年の夏であった。
 
 
■帰省土産
職場では、従業員達が各自夏休み中に出掛けた場所から買ってきた土産を渡し合い、さながらプレゼント交換会の様相を呈している。観光先の土産話や武勇伝と共に手渡される土産品。幾つになっても人は誰かにプレゼントを上げたい性分のようだ。それが善意や好意からか、義理からなのか。しかしコミュニケーションを円滑化させる一手段には違いない。

俺はその輪に加わらない。研究者のように正面の液晶モニタに意識を一点集中させ、2ちゃんのリオ五輪スレを黙々と見る。男子卓球・水谷の銅獲得の瞬間にラケットを放り投げガッツポーズするデモンストレーションに芝居がかった計算高さを感じながら、同じ意見のレスを見つけると「よしよし、いいぞ」と暗い嫉妬を放ちながら独りニヤリとほくそ笑む。

土産話なんて本当は腐るほどあるけど、今回の旅がどれだけ波乱万丈でエキサイティングだったか壇上に立って語りたいという本音も持っているけど、傍目には「俺の夏休みは報告する事などなにもありませんよ、灰色でしたよ」とばかりの冷静顔で2ちゃんに熱中することが、俺のせめてもの強がり。ここ数年能動的に動く意欲がまるで湧かないから、聞かれても口を開くのが面倒だからと地蔵を決め込むことでクールを装うのが心の救い。

面倒臭いだけなんだ本当に。物語を順序立てて説明する、その筋書きを考えようとするだけで脳が重くなる。誰かの言葉に対してリプライする時、「そうなんだ」「さすがですね」じゃそこで対話が止まってしまうのは悪いからと、気の利いた返答を考えようとするけれど、対話を繋げる前段階にすら行かない。

ゆえに…、俺は誰からも土産をもらえない。与えないがゆえに、与えられることもない。無感とは、権利や恩恵の放棄に繋がることだと重々承知しながらも、今後もプレゼントを買うことは滅多な事ではないだろうと確信する俺だった。

反面、嫁は色んな人間から土産をもらったようだ。嫁はいつも誰かに何かを与えているし、ギブアンドテイクの法則から至極自然。また、打ったら響くので相手としては土産話もし易いだろう。無感の帝王たる俺に出来ることは、その嫁がもらった土産のおこぼれに与ることくらいであった。
 
 
■白馬の土産
そのもらってきた土産の中に、「胡麻くるみわさびドレッシング」というドレッシングがあった。長ったらしい名前だが、名の通り胡麻とくるみとわさびを混ぜ合わせており、複雑すぎて味のイメージが掴めない。長野県の白馬(はくば)を旅行した同僚が買ってきたもので、安曇野(あずみの)産のようだ。

長野の白馬と言えば、登山やスキーで有名。特に夏は避暑地として重宝される名所だ。正式には富山、岐阜、長野に跨る飛騨山脈、通称・北アルプスの麓に広がる「白馬村(はくばむら)」のことを指し、略して「白馬」となる。また、その白馬村から見上げる北アルプスを構成する数多の山々の1つである「白馬岳(しろうまだけ)」から名前を取って白馬村とした、とも伝えられる。

そして安曇野は、その白馬村から50kmほど離れた場所にある自然と田園に恵まれた土地。この安曇野にも全国から多くの観光客が訪れる。特産の1つ似わさびがあり、これが今回頂戴したドレッシングに使用されていると見ていいだろう。安曇野のわさびは、北アルプスの雪解け水を利用した安曇野の地形や気候でしか作れない特別なわさびらしい。同ドレッシングを発売した安曇野の自信の程が伺えるというもの。

豆知識として、安曇野は漫画「あずみ」の主人公・あずみの生まれ故郷だと推測される場所でもある。仲間を殆ど失って失意のあずみが、自分の故郷かもしれない土地の話を聞き、最後の気力を振り絞って安曇野へと歩いていく水戸黄門的締め括りで、物語は「完」となるわけだ。

まさしく豆知識の域を出ないが、剣の達人を超えた達人となったあずみの動きを視覚だけで読者にありありと分からせる、作者・小山ゆうの動的描画能力は数ある漫画の中でも群を抜いているだろう。「あずみ」以上に「スピーディな動き」を漫画という平面絵に落とし込めたタイトルを他に知らない。

もう1つ豆知識としては、先述した「白馬村(はくばむら)」と「白馬岳(しろうまだけ)」について。なぜ「はくば」「しろうま」と読み方が違うのか。なぜ読み方を変える必要があるのか。歴史的には「しろうま」が有力だが、歴史の積み重ねの末、読みやすい「はくば」で統一されつつある模様。だから「白馬岳」を「はくばだけ」と呼んで何ら問題ないというか、むしろ一般的なのである。わざわざ「しろうま」だと訂正する輩は、既に形骸化した歴史を穿り返して悦に入る、揚げ足取りの頑固者だと揶揄されるのが現代のセオリーということだ。しかしながらその一方で、山を愛する登山者にとっては、歴史と由緒ある「白馬岳」が「はくばだけ」と安易に統一されることに異を唱え、「白馬岳は『しろうまだけ』だろ!」と強力なレジスタンスを繰り広げている。結局、地元にとって大切な顧客である登山者達の意見も尊重する形で、現代の「はくば」統一戦線というデファクトスタンダード的慣習を基本ラインとしつつも、一方では「白馬村(はくばむら)」「白馬岳(しろうまだけ)」と明確に線を引くというダブルスタンダードを採用するしかなかい白馬村の面々なのであった。

まあ俺は実際、「はくばむら」にも「しろうまだけ」にも行った事がないから知らんけど、「しろうまだけ」という名前を誰かから聞いたことは一度もない。せいぜいTVでやってる本格焼酎「ひむかのしろうま」のCMくらいだ。

ん? しろうま? しろうま? くろうま? そうだ、「ひむかのくろうま」だった。韻の踏み方が似ているからと事実を捻じ曲げては馬鹿になる。どうみても鹿なのに馬だと押し切る古代中国・秦の佞臣達と同じ。物事はなるべく正確に、事実に沿って言った方が良い。
 
 
■馬鹿の始まり
にしても、その秦における問答が「馬鹿」の語源になったのは余りにも有名だ。内容としては、歴史上初めて中国統一を果たした秦の始皇帝が死亡した後を継いだ二代目皇帝・胡亥(こがい)の時代。始皇帝時代からの重臣だった宦官・趙高(ちょうこう)は、胡亥の時代になるとますますその権力を増し、逆らえる者は既に居なかった。ちなみに二代目皇帝・胡亥が無能。趙高にいいように使われる存在でしかない。

元々、二代目皇帝は始皇帝の遺言によって、長男である扶蘇(ふそ)に決まっていた。扶蘇は無能な弟・胡亥と違って有能かつ人望も抜群なため周囲から大いに期待されていたのだが、あることで元来怒りっぽい父・始皇帝を激怒させてしまい、地方に飛ばされる。だが始皇帝も、左遷させたものの国を任せられるのは有能な扶蘇しかいないと内心では分かっており、最終的には呼び戻すつもりでいた。

しかし始皇帝は地方巡業の途中で病死してしまう。長男である扶蘇に直接伝えられれば問題なかったのだが、対面できないため遺書として「扶蘇を次の皇帝にする」旨を書き留め、重臣である趙高達に手渡し逝ってしまう。趙高も始皇帝には忠実だったが、自分のしたいようにするには温厚かつ聡明で曲がったことが嫌いな長男の扶蘇が皇帝になるのは具合が悪い。

そこで槍玉に上がったのが無能な胡亥であり、彼を二代目皇帝に仕立て上げて操り人形にしてしまおうと目論んだ。幸い、始皇帝の遺書の内容を知る者はごく僅か。隠し通せると踏んだ趙高は、「扶蘇に後を託す」という本来の遺書を破り捨て、「胡亥を皇帝にする」という捏造文書を作成する。さらに、この際邪魔者の扶蘇を消してしまおうと、「謀反の疑いがあるため自害せよ」との一文も遺書に付け加えておいた。

果たして、真面目で義を重んじる有能な扶蘇は、その遺書が偽造文書だと薄々気付きながらも、甘んじて命令に従い自害して果てる。こうして趙高の目論見通り、無能な胡亥が二代目皇帝に擁立された。

しかし、胡亥は無能な上、趙高に政治を任せきりだったため現実が分からない。趙高も趙高で好き放題やってきたため民心は離れ、謀反の芽が様々な場所から芽生え始める。さすがに国が滅びては元も子もないと思った趙高は、人々の不満を回避するため皇帝・胡亥に全ての罪をなすりつけ処刑してしまおうとクーデターの準備をする。

しかし、臣下の中には反対する者も多いかもしれない。自分に逆らえる人間など皆無なのは分かっているが、いざとなれば皇帝に味方する臣下も出てくるかもしれない。そういう輩は邪魔だ。自分の思い通りに出来るイエスマンだけいればいい。その反骨の士とイエスマンとを見極める場として趙高は、皇帝・胡亥や臣下達の前で馬と鹿の話を持ち出した。曰く、

趙高「あの壁に掛りし絵は何か?」
群臣「・・・!」
趙高「馬じゃの・・・?」
胡亥「何を言っておる、鹿ではないか?」
趙高「馬よのォォォォォォ!!??」
群臣「う、馬にございます…!」
胡亥「な!?」
趙高「ではこれにて失礼します」

※2ちゃんより抜粋。元ネタ「赤龍王」

絵に描かれたどうみても鹿の絵を馬だと言い張り、その事実を曲げてでも自分の言いなりになるイエスマンを確認したという話。転じて、事実を曲げて押し通す輩。つまり馬鹿。

だがこの儀式の効果は高く、趙高の目論見通り殆どの臣下が自分に従った。かつ、「何を言うか! どうみても鹿ではないか! 好き放題言いおって!」と事実を有りのままに述べた者達を排除するのも趙高は忘れない。自分に反対する臣下達を悉く処刑した趙高は安心してクーデターを遂行し、二代目皇帝・胡亥に全ての罪を着せた上で処刑した。という顛末である。

無理を押し通せば、いつかどこかで反動が来るという良い見本。本人のみならず、それに追随した者もまた。二代目皇帝・胡亥を殺したはいいが、趙高は既に人民や周囲の諸侯達に追い詰められていた。もはや修復不可能なほどに。自分とその周囲を強引に押さえ込んでも、外の人間が許さないということだ。「天が見ている」とはそういうことなのだろう。

そうした顛末を時間軸で辿った後世の人々はこう評すのだ。「馬鹿」であると。何を以って誤った判断というのかその基準は無限だが、あまりに人の道に背く道だけは避けた方が良さそうだ。

結局、秦において権勢を独占したかにみえた趙高も、殺害した二代目皇帝・胡亥の後釜として擁立した三代目・子嬰(しえい)の恨みを買って一族悉く殺されてしまう。自分のやったことが最終的に自分自身に帰ってきたという結末は、まさしく教訓めいた逸話と言える。

そうして新たに王に着任した聡明な三代目・子嬰(しえい)率いる秦国は、ようやくマトモな政治になるだろうと一時盛り上がったが時既に遅し。各地で起こり続ける反乱はもはや止められず、中でも勢力を拡大させていた項羽と劉邦によって遂に滅亡。三代目・子嬰は項羽によって殺され、秦国はここに潰えた。

秦国は始皇帝の遥か前から続いており、500年以上も国を守っていた。その連綿と続く歴史の中で始皇帝が遂に悲願の中国全土統一を果たしたが、その始皇帝即位からたった40年余りで滅亡したのである。スピード出世には危険が付き物。上だけを見るから足元を疎かになる。始皇帝の強引過ぎる統治で生じた軋轢は既に破滅の足音として忍び寄り、暴走した趙高がその引き金を引いたのである。趙高が「馬鹿」の代名詞であり、国を滅ぼした悪臣として中国人からも忌み嫌われている理由がよく分かるというもの。

秦国が滅んだ後は、劉邦が楚の項羽を破り天下統一。400年続く漢を建国したのは周知の通り。しかしその漢も時の流れと共に腐敗化・弱体化し滅亡。日本人に最も人気があるとされる魏・呉・蜀の三国志時代へと歴史が引き継がれるのであった。
 
 
■そういやドレッシングの話だった
その三国志時代から約1800年後の2016年現在。長野県の白馬土産「胡麻くるみわさびドレッシング」の封印が解かれる。豆腐とブロッコリーのサラダに惜し気もなくそれを掛けて口に運んだ。

正直、もの凄く美味かった。名の通り、胡麻とくるみとわさびの味がしっかりとするのだ。苦いような、甘ったるいような、それでいてピリッと舌が痺れるような、とにかく諸々の味覚が絶妙にコラボしている。敢えて言うなら、わさびの味が最も前面に押し出されていただろうか。それでも美味い。その配合比率は見事としか言いようが無い。特に豆腐にマッチする、その白き柔肌に絶妙に染み込む。

結論としては、白馬の「胡麻くるみわさびドレッシング」。これは掛け値なしにお勧めできるドレッシング。見事であった。
 
 
■ハッシュドビーフよのォォォ…!
秀逸ドレッシングに度肝を抜かれはしたが、主食はハッシュドビーフ。掛け値なしに俺の大好物で、掛け値なしに美味いと思うが、どうか。カレーライスとどちらが好きか、恐らく誰にも甲乙付けがたい。人気の度合いではなく、どちらが美味いかという話だ。人気の有無でソートしてしまうと国民食カレーライスに勝てるわけがない。ハッシュドビーフだけでなく、殆どの料理がだ。

よって、味で勝負するのである。その時の気分、体調、身体に足りてない栄養素など都度の条件で食いたいものや美味いものが変わるのは分かってる。しかしそんな局地的な解釈とは別の、環境に左右されない絶対的価値観あってもいいはずだ。二位じゃダメだ。トップを獲らなければ。始皇帝の秦も滅び、項羽の楚も潰え、結局残ったのは劉邦の漢ただ一国だった。気概の問題。二位に甘んじる者は天下を取れない。

ハッシュドビーフも、見かけがカレーライスに似ているなどというレッテルに甘んじていないで、絶対的な味わい、すなわち美味しさによってそのレッテルを跳ね返すのがよろしい。ハッシュドビーフは美味い。カレーライスよりも美味い。場合によっては…。断言しきれないそのハードルを超える何か1つ。最後のピースが欲しい。そうすればハッシュドビーフもきっと国民食になれる日が来る。

それにしてもハッシュドビーフは本当にカレーライスに似ているな。だけど俺はそんな圧力には屈しない。カレーライスの圧倒的光に負けることはない。
 
 
趙高「このライスに茶色の液体を掛けた料理は何か?」
群臣「・・・!」
趙高「カレーライスじゃの・・・?」
胡亥「何を言っておる、ハッシュドビーフではないか?」
趙高「カレーライスよのォォォォォォ!!??」
群臣「か、カレーライスにございます…!」
胡亥「な!?」
趙高「ではこれにて失礼します」
 
 
そんな日和見には、ならない…。

ではこれにて失礼します。

20160803(水) 消えた新横浜と飲み屋に代わって入った猫とプールが核となる

160803(水)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ)、エクセルシオール《人形町-1人》_01 160803(水)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ)、エクセルシオール《人形町-1人》_02 160803(水)-01【0640~0840】人形町、スポーツセンター、末廣神社(スエヒロ)、エクセルシオール《人形町-1人》_03 160803(水)-02【1230~1520】新横浜 アリーナ方面、駅前、長崎ちゃんぽん、キリンシティ(キュービックプラザ内)《新横浜-職場同僚1人》_002 160803(水)-02【1230~1520】新横浜 アリーナ方面、駅前、長崎ちゃんぽん、キリンシティ(キュービックプラザ内)《新横浜-職場同僚1人》_004 160803(水)-02【1230~1520】新横浜 アリーナ方面、駅前、長崎ちゃんぽん、キリンシティ(キュービックプラザ内)《新横浜-職場同僚1人》_006 160803(水)-02【1230~1520】新横浜 アリーナ方面、駅前、長崎ちゃんぽん、キリンシティ(キュービックプラザ内)《新横浜-職場同僚1人》_010 160803(水)-02【1230~1520】新横浜 アリーナ方面、駅前、長崎ちゃんぽん、キリンシティ(キュービックプラザ内)《新横浜-職場同僚1人》_011 160803(水)-02【1230~1520】新横浜 アリーナ方面、駅前、長崎ちゃんぽん、キリンシティ(キュービックプラザ内)《新横浜-職場同僚1人》_012 160803(水)-02【1230~1520】新横浜 アリーナ方面、駅前、長崎ちゃんぽん、キリンシティ(キュービックプラザ内)《新横浜-職場同僚1人》_014 160803(水)-02【1230~1520】新横浜 アリーナ方面、駅前、長崎ちゃんぽん、キリンシティ(キュービックプラザ内)《新横浜-職場同僚1人》_015 160803(水)-03【2030~2200】デニーズ 冷やし中華、生ビール 嫁、職場同僚待ち)職場付近-1人》_01 160803(水)-03【2030~2200】デニーズ 冷やし中華、生ビール 嫁、職場同僚待ち)職場付近-1人》_02 160803(水)-04【2210~2240】ちょい呑み福ちゃん (1人1品必ずオーダー必要、ずっと前から決まっていたとぬかす)《茅場町-嫁、職場同僚》_01 160803(水)-04【2210~2240】ちょい呑み福ちゃん (1人1品必ずオーダー必要、ずっと前から決まっていたとぬかす)《茅場町-嫁、職場同僚》_02 160803(水)-05【2250頃】茅場町駅構内 歩きスマホ禁止強化張り紙《茅場町-嫁》_01

【朝メシ】
エクセルシオール ブラッドオレンジL(人形町-1人)
 
【昼メシ】
リンガーハット キュービックプラザ内(長崎皿うどん)(新横浜-職場同僚)
キリンシティ キュービックプラザ内(アイスコーヒー)(新横浜-職場同僚)
 
【夜メシ】
デニーズ(冷やし中華、生ビール)(職場付近-1人)
ちょい呑み福ちゃん(茅場町-嫁、職場同僚)

【二十四節気 定気法】
第12「大暑(たいしょ)」:7/22~8/6 → 第13「立秋(りっしゅう)」:8/7~
 
【イベント】
浜町公園プール、末廣神社、新横浜、飲み
  
  
【所感】
■大会に出たいが出れない
出勤前の早朝プールも丸4ヶ月に差し掛かる勢い。遠泳においては大した疲れなく1km以上の長距離を泳げるし、短距離でも100mを全力に近い速度で泳げるようになっている。

ただ、スピードはどのくらいのレベルなのか分からない。俺はあくまで初心者ゾーンの人間。1km泳げるのだから上級者レーンにステージチェンジしても十分通じるはずだが、その上級者レーンの人間は皆フォームもキレイでスピードも超早い。ように少なくとも俺には見えるからだ。自分が入ると足手まといにならないか。嫌な顔をされないか。そんな不安が払拭できない。

自分は長く、かつ速く泳げる人間だという自信が持てれば踏ん切りも付くのだが、そのためにはまず実際にタイムを計ってみなければならない。しかしそんな機会は少なくとも今通っている市民プールに居る限り得られまい。マラソンと同じく大会に出る必要がある。

そんな要望を叶えるために、水泳業界には「マスターズ」という大会が用意されている。日本マスターズ水泳協会という団体が開催する大会で、参加資格を持つのも一般人だ。逆に言えばオリンピックや各種メジャー大会に出るような選手はマスターズには参加できない。あくまで水泳を愛好する一般人のための舞台。市民マラソンと同じく、水泳業界にも受け皿は用意されている。大会は一年中どこかで開催されているので、その気になれば誰でも気軽に参加できる。そのマスターズに参加すればいいのだ。

自由形つまりクロールだと、一般成人男性の場合、50mで30秒切ればまあ速い部類に入るらしい。計った事はないが、体感的にはまあ、飛び込みアリという前提ならば30秒は切れる気がする。それを確かめるためにもマスターズへの参加が急務。

だが一つだけ面倒臭いハードルがある。マスターズに参加するには、どこかのチームに所属することが絶対条件ということだ。一派的には、真っ当なスポーツクラブであれば水泳用のチームをほぼ必ず持っているため、その仲間に入れてもらうという手順を踏むのがマスターズ参加へのセオリーだとのこと。

しかし俺の通う中央区立スポーツセンターは厳密に言えばジムではないので。もしかすると水泳チームが普通にあるかもしれないが、恥ずかしくて聞けない。小心者の俺はその点で前に進めず、未だ朝のプールで1人黙々と泳ぐだけの毎日だ。庭で毎夜素振りをしているが誰も見ていない状況。バッティングセンターで快音を響かせるが、仲間がいないので試合に出られない。それと同じ状況か。

レベルは低くないはず。だけど実戦で戦ったことがないので断言はできない。結局、自分の実力が分からないまま時は過ぎ、それでも庭の木の下でバットをひたすら振り続ける。その頬にうっすらと光るものを流しながら…。空を切る音だけが増していき、だけど決してボールを弾く快音は聴こえない日々。結局、一度もその打力を試すことのないまま気付けば老人になっていた。

まさに生殺し。鍛えているのに試す場所がないから、見せる相手我いないから、やればやるほど空虚。俺もヤバいな。このまま独り善がりに泳いでいるだけでは先に進めない。競わないと。大会に出ないと。誰かこのシャイな俺を誘ってくんねーかな。ていうか、係員に聞けばいいだけの話だろ…。

そんな悩みを持ちつつも、7時に入場し、きっかり7時半に終了という早朝水泳のサイクルは変わらない。プールの混雑状況に応じて泳ぎ方を変え、最後は息継ぎなしで25m泳ぎ切ってがらザッパーンと勢いよくプールから上がるパターンが定着している。

さすがに平日は毎日欠かさず通っているだけに、伸び率は恐らく他の客達よりも高いはず。泳力は全盛期だった高校時代をまず超えただろう。短時間でも毎日積み重ねればここまで成長できるのだと新たな自分を得た気持ちになっていた。英会話でも同じことが出来ればどれだけ素晴らしいことか。ていうか、英語やれよ…。

そんなことをしている間にも、いつの間にか今年も3分の2に差し掛かっている。年初に諸々決意した事柄はあるけれど、進捗は芳しくない。というより殆ど進んでいないか、激しく後退しているものすらある。何のために生きてきたのか、何をしたかったのか、生涯続けるべき天命だと言い聞かせていたライフワークの存在すら忘れつつある。

そこだけは崩してはならないという部分。それを無くすと自分が自分でなくなってしまいそうな核ともいえる存在。今一度整理する必要があるだろう。いや整理せねばならない。せっかくどうにもならない痛みが軽減し始めたのに、これでは自分で自分を嫌いになるばかり。

抱えていて苦しいだけなら忘れた方がいい。忘れられないなら忘れるまで待つしかない。だけど、どれだけ待っても忘れられないのなら運命であり天命。そう心得て苦しみの中、前に進む以外、道は残されていないはずである。寿命が尽きるのが先か、精神が磨り減りおかしくなるか、いずれにしても苦痛とセット。その前に到達するのが理想であり、魂の救済となる。だから結局やるしかない。

という精神論めいたことを言ってみたが、多くの人間が何かしら抱えているものがあるだろうから、その各々の中の何かに置き換えれば大体ニュアンスは分かるだろう。たとえそれが思い込みや錯覚だとしても、何も考えない日々は味気ないものであり、何も続かない人生は退屈だろうから。
 
 
■水泳はどこまで続くか
そんなわけでなかなか思い通りに持続できない各ミッションだが、GW前から始めたプール通いだけは根気よく、真面目すぎるほど真面目に毎日継続している。今年に入って最大の変化であり、自分に自信を持てる唯一のルーチンだ。だから逆に、このプール通いをやめると自分の中で何かが終わりそうで怖い。軌道に乗ったサイクルを断ち切ってしまうと、人生を好転させる糸もプツリと切れてしまいそうな。

実際は錯覚に過ぎない。1つのことをやめたところで大局的には何も終わらないし、大筋では何も変わらない。だけど、その思い込みこそが人を成長させるのであり、変わっていると思えるからこそ本来耐えられないはずの負荷にも耐えていけるのも確か。殆どの事象やシステムは人間の脳が作り出す幻想。しかし、その幻想の強さが自分を高め、周囲を巻き込み、世界を前に進めていく。逆に、それがなければ成り立たない。人の世界は幻想から始まり、その発展も衰退も突き詰めれば個人個人の心模様に係っている。俺もまた、水泳が自分のためになると信じているから、日々掛かる心身両面へのプレッシャーに圧されながらも毎朝5時に起きている。いや、起きることが出来ている。
 
 
■猫はどこまで生きるか
水泳後に立ち寄る「末廣神社」も、毎日お参りすれば新しい世界が見えるのではないかと思い込んでいるから、雨の日も疲労困憊の状態でも1日と欠かさず参拝を続けている。

その甲斐あってか、たまに拝殿前で寝ている住み着き猫・スエヒロと仲良くなれたかもしれない。スエヒロは元々が飼い猫だけに人間を怖がらないが、俺が近寄ると「ニャ~」「ウァ~」とか細い声で鳴く。顎あたりを撫でてやると、気持ち良さそうに目を閉じて、たまに「ニャー…」と甘えた声を出す。

まあ神前に居る猫様を触ろうとする発想自体、他の参拝者はあまり持たないかもしれない。畏れ多いというか。ここ数ヶ月を振り返っても、スエヒロに触っていた参拝者は居なかったし、少なくとも拝殿の正面に寝ている時は近付こうとすらしなかった。だからこそ、そのルールを破る俺という個人はスエヒロにとって特殊であり、識別しやすい存在だったに違いない。競争率が高そうな美人は、皆が最初から諦めてしまうので逆に結構オトしやすいという俗説に通じる法則と言える。無法天に通ず。その心意気も時には必要ということだ。

加えて言うなら、俺は毎朝、黒いスーツを上下とも着用し、水泳で掻いた汗を吸い取るためのタオルを首に巻きつけ、カバンを肩に斜め掛けにするという決まりきった格好で一貫している。かつ、その格好のまま鳥居の前で一礼し、手水舎で手を清めた後、賽銭箱に金を投げ入れて二礼二拍手一礼するという一連の行動も判を押すがごとく毎日徹底させている。いくら猫が忘れやすい動物とて、毎日全く同じフォルムで登場し、同じ動き以外一切しないリーマンはさぞ覚えやすかったに違いない。

かといって、奥の寝床に浸入するほどぶしつけじゃない。睡眠の邪魔はしない。あくまで神前で寝ている時に限る。そして触って嫌がる反応を見せれば手を引っ込めさっさと退散する。美人以上に猫は気まぐれだから。それが紳士というもの。まあ、拒否られたことは滅多にないけどね。

そういうわけで、多分スエヒロは俺に甘えている。俺は、毎日参拝してくる数多の人間達の中でも特別に好かれている。猫という生き物は、少なくとも好きな人間、警戒していない人間にしかニャーと鳴かない。と、いくつかの猫の鳴き声研究サイトで見た。俺のことが好きだからスエヒロは可愛い鳴き声を出すのだ。

それに、スエヒロが奥の寝床に引っ込んでいるところを俺が控え目に呼ぶと、ムクリと起き上がりゆっくり俺の方に歩み寄ってくる、なんてこともあった。猫が最も大好きな昼寝を中断してまでわざわざ接近してくるなど、よっぽどその相手が好きでなければ出来ない行動だ。好きな男の姿を発見した瞬間、あからさまなほど嬉しそうな顔で小走りに駆け寄ってくる恋愛脳女子のように抑えられない衝動なのだ、きっと。飼い猫でもない余所の猫が自ら近付いてくる光景なんて滅多にあるまい。

こうして足繁く通った甲斐あって、俺は末廣神社に住み着く猫・スエヒロと友達になれた。本音を言うと、この一事だけでも早起きした甲斐があったと思っている。仮に水泳を辞め、神社に赴く理由がなくなったとしても、ストイックに泳いだ日々と、人形町の街並や景色、浜町公園の自然の移ろい、そしてスエヒロとの暖かな触れ合いは心の中に長く残り続けるだろう。

人生で最もアツくなれること、心揺さぶられる瞬間、それは結局のところ出会いだ。見知らぬ物や場所や味や環境の出会い、新たな価値観との出会い、何より人との出会い。人にとってそれ以上の至極は、ない。

何も相手は人間に限ったことではない。俺等は10年以上前に買った亀のぬいぐるみ・亀二達を人間以上に愛しているし、地元の養老乃瀧周辺をうろつく野良猫・ヨウロウの一挙一動に心を躍らせ冷や冷やする。人形町の末廣神社でふと出会った黒白模様の猫、スエヒロもまた、俺にとって愛すべき相手であり、これからも忘れられない存在に恐らくなる。

スエヒロも随分前から神社に住み着いていた猫のようだから決して若くない。機敏さの欠片もない動きを見れば、むしろかなり老齢だろう。順当に行けば、スエヒロの方が俺より遙かに先に居なくなる。見知った近所の猫や犬が突然いなくなったこと、飼い主から死んだと聴かされたことは数知れない。その度に寂しく悲しい気持ちになってきた。

スエヒロも、いずれ姿を消すだろう。別れはきっと、それほど遠くない。それを考えるのは辛いことだ。ならばいっそのこと、その前に俺自身がこの場所から姿を消すか。そう決めずとも、何らかの理由で水泳そのものを辞めてしまうかもしれない。そうなれば自然消滅するのみ。

通い続けるにしても、末廣神社に立ち寄らなければいいだけの話。素通りするだけで、一本道をずらすだけで、何も見ないで済む。最初から無かったのと同じことになる。

だが、それでいいのか? 素通りできるのか? スエヒロがまだ生きていると分かっているのに。単に嫌なものを見たくないだけじゃないのか?

そもそも忘れられるのか? 忘れる必要のあるものか? 将来きっと悲しいからと、今の幸福を手放し身構えてしまうのは利口なのか? 無かったことにできるのか? こちらに歩み寄ってくるスエヒロの期待感に満ちた表情を、スエヒロを撫でた時のフサフサした感触を、そのか細く甘えたような鳴き声を、喉を撫でた時の恍惚とした表情を、この指に伝わったスエヒロの温もりを、小さくも確かに脈打つ命の証を…。

人は誰もが死ぬ。それがいつなのか誰にも読めない。いつまで生きられるか分からない。だからこそ、その限られた生の中で訪れた出会いは、特に心の揺れを伴った良い出会いは、忘れる必要が全くない。むしろ覚え続けていてこそ幸せ。自分だけでなく、恐らく相手も…。そう思える出会いが、人生で一体どれだけあるのか。

俺は水泳を続ける限り、末廣神社を必ず訪問する。最初はスエヒロに会うためだけに通っていたが、仮にスエヒロの姿が見えなくなっても素通りはしないことに決めた。スエヒロとの日々が詰まった空間なのだ、そこは。今日は会えたという嬉しさも、今日は居なかったという寂しさも、いずれ訪れる別れの悲しさも、全て詰まっているからこそ世界は完成するし物語は完結する。一方から覗いたところで見えるものは限られているから。

スエヒロとの物語は始まったばかり。フィナーレはまだまだ先かもしれないし、逆にとんでもなく近いかもしれない。どちらが先に離脱するのかも分からない。ただ言えることは、スエヒロと会えなくなっても、俺個人の今後の物語にスエヒロは欠かせないキャストとなったという確信。この想いが報われる日が果たして来るのか。そうじゃない。スエヒロに会えた時点でもう報われている。

末廣神社でスエヒロに会えた。その一点のみで、水泳を始めて良かったと俺は断言できるのである。
 
 
■花はすぐに移り変わる
副次的に、街中や野に咲く花の種類、その変遷をしっかり確認することによって季節の移り変わりを肌で実感するという目標も今のところ網羅できていそう。桜から始まり、チーリップ、ツツジ、芝桜、バラ、紫陽花、花菖蒲、etc…。目まぐるしく変化する日々の中、その変わり目、ポイントを見分けるのに花の存在は大いに役立つ。

そしてその花々の多くが、いつも泳いでいる中央区立総合スポーツセンターの建っている浜町公園内でも確認出来ていた。人形町の一区画という狭いポイントだけでも、居ながらにして季節の移ろいを実感できるのだ。

草花などの自然物に必要以上に意識が向くのは、身体が疲れ心が荒んでいる証拠。自然はあくまで自然にそこにあるのだし、綺麗な花々は元々綺麗なままでそこに咲く。それを綺麗だと陶酔してしまう時点で既に道理にそぐわない思考回路になっており、不自然な生き方をしている。自然が愛おしく見えるのは、それ以外が愛おしくないという心の裏返し。

など諸々の論説もあるが、ふと立ち止まって綺麗だと言える感受性が不要だとも思わないし、捨てる必要もないだろう。人によって見方も見えるものも違って当然。賛同されるされないではなく、その感じ方に自分の心が素直に寄り添えているのなら、手に入れたその見方に沿って生きるもよしではなかろうか。自然と、自然を愛でる自分の感性を冒涜することだけは避けられたい。
 
 
■新横浜の中途半端さ
日中、仕事で新横浜に向かった。いつもは1人だが、今回は職場の同僚を引き連れている。担当変更のためだ。この地に居を構えるお客さんの担当を長らく俺が請け負っていたが、この度別の同僚に変更することになった。7~8年は受け持っていたか。前任者が退職する際、面倒なお客なのでと皆が嫌がり俺が半ば押し付けられたと記憶している。今日はその引継ぎのために来た。

このお客に特段世話になったとはあまり思っていない。むしろ面倒臭いことが多かった。しかし、担当していた時期が相当長かったこともあり、一種の喪失感が去来する。清濁合わせた感慨とでも言おうか。一体何度JR新横浜駅の改札を通ったか分からない。

何より新横浜という場所にもう来られないのが寂しい。もちろん行こうと思えば何時でも行けるが、多分ビジネス以外で新横浜に用はないので。行きたいと思わせる魅力がない。

新横浜駅を一言で表すなら、新幹線の玄関口。または横浜やみなとみらいに行きたい人間が途中で乗り換えるためのターミナル。明確な存在意義と安定した集客が見込めるスポットは、横浜アリーナか日産スタジアムくらいなもので、そこに行く用事でもなければほぼ人々の意識に留まらないまま素通りされるだろう。

楽しすぎる大阪に対して新大阪には何もないように、新横浜は横浜に比べて微妙すぎる場所だ。ビジネス色が強いというか、無機質というか、整理され小奇麗に整頓された区画やビルも、言ってしまえばコンセプトも情熱もない都市開発の失敗例とも取れる。人通りは多いが、街中はあくまでビジネスパーソン主体なので人間味に欠ける。

縦横にはデカい幹線道路が通り、果てまで続くが、それはクルマを優先させたマシン都市の様相をより一層強める。駅前の道路の上に造られたオシャレで仰々しい立体遊歩道も、裏を返せば「街」を形成するキーである歩行者達達の行動を無駄に制限しているだけとも取れるし、実際歩行者は動き辛くなるので無機質さに拍車が掛かる。

オシャレな飲食店街や洗練されたホテルもそれなりに密集しているが、使うのはそこに努めているリーマンであり、外部からの出張者。アリーナに用がある外の人間が、帰り際の打ち上げや時間潰しに使う場所。あるいは横浜やみなとみらいに行きたい遠方客が、横浜やみなとみらいのホテルが取れなかったから仕方なく周辺のホテルに泊まるしかないという、止むを得ない選択肢がすなわち新横浜という場所である。

一説によれば、アリーナや日産スタジアムの他にラーメン博物館なんてスポットもあるらしいが、そんなの他にも沢山あるから。それなら横浜のラーメン食った方がいいから。わざわざ新横浜のラーメン博物館に行く理由を見出せない。

結局、一般客は動きやすい駅ビル内で少し徘徊するだけ。消費する一般客が散らばらなければ情報も発信されず、文化が形成されない。だから新横浜はいつまで経っても時代遅れの都市開発の落とし子の烙印を消せないまま、時代に取り残された冴えない新幹線駅というレッテルから抜け出せない。街としての広さも、厚みも、深みも全くない。薄っぺらいがゆえに魅力もない。

別に新横浜が嫌いとかそういうのではないが、いくら土地が余っていても横浜やみなとみらいのような魅力的な観光地とは到底同じ土俵に立てないわけで、そもそも観光地化しようとすること自体おこがましい。

PRの仕方が間違っているのだ。神奈川県には人が呼べる都市や街が他に腐るほどあるのだから、そこに行きたい人のための一時的な停泊地として、あるいはそれら都市の近くに住みたい人々用のベッドタウンとしてのみ宣伝すれば良い。あとは企業誘致を今後も精力的にやる。器だけは掃いて捨てるほどあるのだから。新横浜にはテナントが全く埋まらずガラガラ状態のオフィスビルが沢山だ。
 
 
■新横浜の思い出は1人遊びが主体
そんな多数の事情により、新横浜には今後赴くことがないだろうと予想する俺。だから溜めてきた思い出の全ては、あくまで仕事の合間に作った隙間的な記憶しかない。よって愛着など抱くはずもない。

ただ、その合間に行った暇潰し時間は決して悪くなく、意外と楽しかった思い出ばかり。グルメ風に歩き回ったこともあったし、ハンバーガー屋で何時間もノーパソを持ち込んで書き物したり、本に読み耽ったり。スロも打ったし、ゲーセンでも遊んだ。決してサボっているわけではない。時間が余ったからそうしただけ。時間が余るように予め時間を設定しておいた、とも言うが。

中でも一番お気に入りだった行動が、駅前のすぐ近くにあるビル9Fのコートダジュールでのヒトカラ。一体何度コートダジュールに入り浸ったか知れない。リーマンはもちろん一般客も殆どいないカラオケの一室で、タバコを咥えたままで立ち上がりマクロスFの「ノーザンクロス」を絶叫する幸せと言ったらない。時間が来たら、何事も無かったかのように「ふう、終わった」と仕事をやり終えた男の顔で会社に戻るわけである。

この余暇時間があったから新横浜に行くのは結構楽しみだった。逆にそれがなければ行く価値ゼロと言っていいが、ともかく本日を以って俺は自分の持っていたこの地の顧客を同僚に受け渡し、7年に亘る新横浜徘徊記にピリオドを打った。

その最終章にて食った新横浜最後のメシは、新横浜駅の駅ビル「キュービックプラザ」内の飲食ストリートに店を構える「リンガーハット」の長崎皿うどん。リンガーハットは初めて入ったかもしれないが、本場長崎の味がしてなかなか美味しかった。長崎発祥の店だから当然なのかもしれないが。

その後、同ビル内で一服するため入った「キリンシティ」。キリンシティはビールだけでなく、昼はコーヒーなどもやっていて、かつタバコも吸えると記憶している。その旨を店の前で同僚に説明していると、ちょうど店頭で整頓していたおばちゃん店員が「はいコーヒー扱ってますよぉ♪」と話に割って入ってきたため、その流れで入店した店だ。なかなか地獄耳というか、デキるおばちゃんであった。

そして何度も歩いた色気ゼロの道。もう来れないと思うと特別性を帯びるのか、俺は駆り立てられるようにカメラを取り出し、歩いてきた道や道沿いの建物など、今までただの背景でしかなかったオブジェクトをファインダーに収め始める。新横浜の写真なんて撮ったことなかったのに。撮るほどのものじゃないから。だけどこれが最後になるのなら…。

そんな旅行者のような気分だったのだろう、きっと。感傷的に過ぎるが、写真という形あるものに残すことによって、安心感のような感情もみるみる芽生えてきた。新横浜のことを振り返りたくなったらこの写真を見ればいいか、すぐさま割り切ったわけだ。恐らく振り返ることもない気がするが。

それが俺にとっての新横浜の全て。やはり大した執着はないと再確認した次第。新横浜は、この最後のデジカメ撮影によって名実ともに一介の記号と化したのである。

何事も、このくらいドライに淡々と進められれば余計な気苦労をしなくて済むのだが…。気を取られてしまう対象はまだまだ多く、愛着を抱かずにはおれないものも沢山残っている。優先順位の問題。まあそれが自然だろう。
 
 
■遂に消える飲み屋
だが、長年愛顧した対象でも容赦なく切ることだってある。例えば、俺等が長きに亘って愛した茅場町の居酒屋「ちょい呑み 福ちゃん」などは、今日を以って二度と来店しない。その可能性が濃厚となった。

料理が小さくなったこと、写真と実物が違う、店内のモチベーションが低くなった、オーダーしてから来るのが遅いなど理由は多数挙げられるが、パフォーマンスは挽回できないほどにガタ落ちした。その発端となる理由が、元気も愛想も良く、気も利いてサービス精神旺盛な店長が居なくなったことであるのは、俺等だけでなく他の常連客殆どの共通認識だろう。

それでも新店長になってからパタリと行かなくなったのではなく、俺等は2回も我慢した。他の常連も、恐らく同じように猶予期間を取ったと思う。だが、それでも行く価値なしと判断、いや断定したのが今日の夜のこと。新体制になってから3回目の来店だ。俺等もとことん甘ちゃんだよな、ホント。
 
 
■ファミレスの若造達
今日、嫁と職場同僚と飲む事になった。二人は他の飲み会に参加しており、その後に俺を加えて軽く飲もうという話だった。その間、俺はデニーズで生ビールを飲みながら、森博嗣の「すべてがFになる」を1人熟読していたのだが、居酒屋と違って夜にファミレスはかなり寂しい気持ちになるな。

さらに近くのテーブル席では、野心に溢れているが視野の狭そうな若者三人組が、上海に何年暮らした、アメリカのビジネスはこうだった、ギリシャのビジネスパートナーは時間にルーズで、などとテンション高く話しつつ。中国ビジネスについて話をこねくり回しながら、結局同じ話題を繰り返しているだけで結局結論が出ない政治家答弁のような会話をしていて、その声がかなり若者言葉かつトーンがデカかったので随分と気が散った。

かなり高額かつ壮大なプロジェクトを手掛けてる風なことを周りに聴こえるように喋って居るが、そういう人間はもっと高級店を会合の場所にするはずで、ファミレスにはあまり居ないと思うので、若気の至りがさせる虚勢系だと思われる。つか声がでか過ぎるんだよな。これもファミレスで大人の男女が出すトーンじゃない。

こういう連中は基本、自分勝手なのだとプロファイリングでもう知っている。その1例として、彼等はいきなり店員を呼び付け「ちょっと寒いからエアコンの温度上げてくれない?」などと命じていた。

オイオイ俺は涼しくて快適なんだよ、勝手に温度上げるなよ、汗が出るだろ。と俺は内心思ったわけだが、店員も店員で「ハイかしこまりました」じゃねーだろ、店が温度を決めてますのでと説明して断れよ、などとも思ったわけだが。他の客に断りもなく、自分達の体感温度だけで全体を決めたわけだ。それを何とも思わないメンタリティということだ。

通常は、しない。暑かろうが寒かろうが、店が決めた温度がルールなのだから、それに従うだろう。逆に、客1人1人の要望をいちいち聞いていてはやっていられないし、他の客に不公平感を与えるだけだ。触らないのが一番良い。でなければ納得出来る理由を他の客に提示する必要があるだろう。そこまでは店のむしろ義務。

俺等が通う西新井温泉。その女湯にて、サウナ備え付けのテレビのチャンネルが気に入らないからと、スタッフを呼び付けて換えさせる婆さんが1人居る。と嫁から聞いている。男湯にはそんな人間1人としていない。女湯とて同様だ。他の客全員との調整という過程をすっ飛ばして結果だけを押し付ける傲慢さを、社会で生きる人間は通常あまり持ち合わせない。だからこの婆さんは特殊なのである。

同じように、ファミレスのエアコン温度を唐突に変えさせることで発生しうる諸問題を先読みできない時点で、その三人組は視野が狭い若造なのである。いちいちワールドワイドな武勇伝を“デカい”声で語らなくていい。逆にみっともなく見える。

その若者三人組も、ようやく席を立った。「やっと帰ってくれるのか」と心から安堵したものだ。と思ったら、入れ違いで入ってきた中年3人組が同じようにやかましいから困る。中でも髪を金髪気味に染めて化粧もケバケバしいおばちゃんが、「あんたヤニ吸いすぎなんだよ超ウゼェー」とか、「このアイスデカくない!? ゲロすごくね!?」と、ギャル語のようなヤンキー語のような、とにかく超汚い言葉遣いで相手の男二人に畳み掛ける。

女って、環境によってこんなに変わってしまうんだね。価値観は人それぞれで否定する気もないが、俺だったら金もらっても付き合いたくない部類の女だ。

極め付けとして、ケバいおばちゃんは、「グッチの財布が~!」「ヴィトンのバッグが~っ!」と、今までの1.5倍増しのトーンで話し始めた。出た、どのブランド名を並べ立て、そのブランド物の何を持っているか挙げ連ねていく発言。典型的な持ち物によって承認欲求を満たそうとするタイプの人間。だがそれゆえに話が深彫りされない。これは持ってる、ここに行ったことがある。事実の報告のみ。だから話はそこで途切れるし、相手の心にも届かない。ただ本人は、それが自分を補強するパーツだと信じているので、一層声高になる。傍から見れば鬱陶しいだけなのに…。

大人しかいないはずのビジネス街のファミレスにて、思ったように落ち着いて本が読めない俺であった。気付けばファミレスに入ってから2時間近く経っていた、
 
 
■もうこの店には行かないと
というファミレスの一件は前振り。その後、ようやく一次会が終わった嫁達と合流した俺は、「ちょい呑み 福ちゃん」に寄って軽く飲み食いすることにした。その同僚も、安くて美味くて愛想のいい「福ちゃん」時代は知っている。だが今の「福ちゃん」の現実は知らない。見てもらう方が早いと判断したのだが。

結局、殆ど注文することなく店を出た。飲んだのは各自ハイボール一杯とツマミ三品。それも内一品は渋々オーダーしたものだ。俺もファミレスで食ったし、他二人も一次会でたらふく飲み食いしたため、酒一杯とツマミ一品か二品で退散するつもりでいた。

しかし二品目を頼んだ時、スタッフが「もう一品頼んで欲しいんですけど」的なことを言ってくる。「何で?」と俺等は当然聞き返す。当然の反応だ。それに対するスタッフの返答は、「最初はお一人様一品必ずオーダーして頂くシステムになっております」と来た。「え!?」と俺は思わず叫ぶ。7年間、累計50~60回通って初めて耳にしたからだ。

そのシステムは、最低の元は取ろうとする居酒屋ではよくある話。最初から分かっているなら客も納得済みだ。しかし俺等は知らなかった。というかそんなこと言われるなんて1パーセントも想定していない。経験上、そんなシステムは無かったはずで、言われた事も無かったからだ。無論、前の店長の時代のことである。しかし俺等にとって福ちゃんとは、前の店長が居た時代の事を指す。

だから嫁は思わず聞き返した。「いつからそう決まったの!?」と。その顔はかなりキレ気味だった。気持ちはよく分かる。さらにスタッフのリアクションが悪い方向に秀逸で、少し間を置いた後、「オープンした最初からずっとです」などと答えたものだから火に油。「は? 最初から? そんなのあったかな~」と、小声ながらも嫁は「アンタ数ヶ月前に来たばっかじゃん。何その場凌ぎ的に勝手に決めてんの」という顔をしていた。俺もやはり「あれ? そうだったっけな…」と疑りの声で同調する。

こっちは7年前から数え切れるほど通ってるんだから、流れはスタッフよりむしろ熟知してるつもり。そういう客を前にして、何ですぐバレるような嘘を吐くかな。苦しい売上げの中、少しでも注文を確保しようと咄嗟に閃いた機転のつもりか知らないけど、そういう姿勢が常連客を呆れさせたんじゃないのか? とも思う。

結局、「そう決まっております」という根拠なきスタッフのゴリ押しで、俺等は頼みたくもない最後の一品をオーダーする。その瞬間にテンションはトーンダウンし、この店に来るおとは二度とないだろうと確信したわけだ。同席した同僚も、「話には聞いていたけど、ここまで変わっちゃったんだね…」と、溜め息を漏らしていた。

それでいて、俺のハイボールが無くなりかけた時、先ほどのスタッフが目ざとく駆け寄り「お代わりはご必要ですか?」と来た。これ以上注文する気は一切ない俺は、「いや、まだいいです」と、なるべく紳士的に答えた。その際の同僚の「こういう時だけは素早く動くのね…」という溜め息混じりの呟きが、今でも忘れられない。

そんな空間に長時間居たくない俺等は、ハイボールとツマミを平らげると、さっさと店を出る。店内には客があまり居ない。かつてであれば、満席でも全然不思議じゃなかった「福ちゃん」の店内が、まるで場末の個人店のような低迷ぶりだ。理由は何か。分かっている。

隣の餃子屋を覗き見る。かつては「福ちゃん」に客を取られ、ガラガラのことが多かった餃子屋だ。その餃子屋が今、溢れんばかりの満席である。「福ちゃん」と立場を逆転させたような。「福ちゃん」の客がそのまま流れてきたような、皮肉的な光景だ。理由は何か。分かっている。俺等も餃子屋の方に入りたかった。そんな顔で頷き合っていた。
 
 
■続くか否か
飲んだ後、電車を待つ間のこと。茅場町駅内の柱に「歩きスマホは遠慮して下さい」という張り紙がデカデカとしてある。つい最近まで無かった張り紙。当然、ポケモンGOの普及を受けてのことだろう。元々歩きスマホやめろという声は遥か昔から上がっていたことで、だけど現実にはなかなか修正されない。

だがここにきてポケモンGOが大躍進し、歩きスマホという半分諦めかけていた話題が再燃した。トラブルも多発している。この状況を利用して、歩きスマホ=悪だという主張を一気に活性化させたい。そんな思いも少なからずあるのだろう。非難されている間であれば、それを追い風にして存分に相手を叩く事が出来る。炎上の反対側に居れば一応正義となるからな。

だが時が経てばそのアツい論争も皆に忘れ去られるだろうから、ヘイトスピーチも今が旬。その発端となったポケモンGOブームもいずれは沈静化し、飽きてしまった者、まったりとした緩いユーザーが続出し、最終的には程よい数に落ち着くだろう。世の中とは案外バランスが取れているものだ。

全世界のマップを対象としたポケモンGOが空前の爆発力を示す傍らで、俺のマップから新横浜と「ちょい呑み 福ちゃん」という長く付き合った存在がごっそりと消滅した。かなりの範囲、無視できない割合と言える。

だがそれと入れ替わるように、水泳をするための人形町と、そこにある末廣神社に住み着く猫・スエヒロが新たなマップに入り込む。ここ数ヶ月はむしろこの人形町と主軸として動いている感じだ。失ったものを十二分に補填できる存在感の大きさと言えるだろう。

大筋でのマップは大修正を迫る必要があるけれど、そこから派生する小道のマップはそれでいい。今はプールで泳ぐ時間が、スエヒロと交流する朝が、とても大切に思えるのだ。