【朝メシ】
おにぎらず、おにぎり、ミートボール(玉子入り)、唐揚げ ベルモント公園ピクニック(梅島-嫁)
【昼メシ】
喫茶店「六曜館」ドライカレー(御徒町-嫁)
【夜メシ】
サバ(締めサバ不可能→煮付け)、スズキ刺身、ほうぼう刺身、鯛刺身、鯛アラ汁 ベルモント公園オニギリ残り、プリングルズ、ビール、モンブラン(家-嫁)
【二十四節気 定気法】
第6「穀雨(こくう」:4/20~5/4 →第7「立夏(りっか)」5/5~
【イベント】
ベルモント公園ピクニック、上野公園(動物園行列、恐竜博70分待ち断念)、芸大美術館(アフガニスタン特別展示)、上野の森親子フェスタ、ブックフェスティバル、東叡山寛永寺不忍池弁天堂、他、
【所感】
■GW後半の予定
平日出勤を1日挟んでGW後半に突入。同時にカレンダー上の定義では今日は「憲法記念日」だ。そこから5月4日「みどりの日」、5日「こどもの日」と続く3連続鉄板祝日を俗に「GW後半」と称す。
とりあえずGW前半3日間は新潟の実家で温泉に入り、酒を飲み、ゆっくりと骨休めをした。よって後半はアクティブに動こうという気概に満ちる。
ただ、長距離遠征は計画していない。長期休暇は旅行や遠出に充て見聞を広めるのが慣わしだが、新潟実家に帰省したことにより、距離的欲求は満たしてしまった。実家が遠いと、ただの帰省でも旅行気分に捉われるものだから。
個人的にも旅行への意欲が現在相当薄れている。昨年冬にて47都道府県全てを周り終えたという一種の達成感を得てしまった。2週目に突入しようという気概になるまでしばらく時間が掛かりそうだ。
加えて熊本の大地震。今年前半のどこかで長崎か大分か熊本あたり、とりあえず大好物である九州エリアにもう一度出向くのも有りだと内心計画を立てていた矢先の災害だっただけに、出鼻を挫かれたというより意気消沈してしまった。今は動けないし、動くべきでもない局面。復興が軌道に乗ってから改めて出直すのがベターだと自己で判断を下すに至る。
そのような事情も手伝って、GW後半は宿泊および長距離遠征は控える方向で動く。かと言って家に篭るのもまた違う。長期の休日でしか出来ないことをするべきで、創作活動にでも没頭しない限りは一も二もなく外出がベターだ。成長というものは、自分一人で内なる小宇宙を深淵まで突き詰めるか、外で自分以外の事象を見聞きすることによる視野の拡大か、そのどちらかでしか得られないから。
とりわけGWという時期は、行楽が頭にちらつき集中力が停滞気味になりがちになるため、あまり考えず楽しめる外出の方が向いている。よって僕等は家を飛び出し外の世界に羽ばたかねばならないのである。
そんな様々な懸案事項を加味するなら、近場への外出が良いだろう。県をまたがない程度の距離で、かつ休日っぽく、さらにイベント性を帯びていれば言うことはない。
というわけで、GW後半初日は近場でかつ観光資源も豊かな上野公園を軸に行楽することに決定した。
■早朝ベルモント公園ピクニック
だがその前に、地元の公園でも少しのんびりしたい。上野公園はGWおよび「こどもの日」が重なることによる混雑が予想されるため、きっと人ゴミによるストレスを受ける。
その点、地元のベルモント公園であれば人はまばら。客達も必死で観光などせず、レジャーシートを敷いて弁当を食べたり散歩したり、子供とバドミントンで遊ぶ程度の緩やかさ。これぞ公園の姿と言うべき光景だ。
それでいてベルモント公園は芸術性の高い芝生エリアや見事な花々を栽培している意外と有能な公園。この場所でまず心身共にリラックスし、激戦区・上野公園へ出掛けるのがちょうど良いバランスだろう。
というわけで、僕等はまだ人があまり居ないであろう朝7時半頃には出発する。僕は連日の早朝スイミングによって既に朝5時起きが習慣化しているため朝が苦ではなくなった。嫁も弁当を作るために同じ時間帯に起床。朝一、いや早朝から行動を起こすことの何と力の漲ることか。「早起きは三文の徳」という格言はつくづく正しいと思う。
早朝のベルモント公園は、予想より人は多かったものの、期待通り平穏な空気が漂う。人が居ると言っても、公園の周りを散歩しているおばちゃんとか爺ちゃんとか、その類だ。僕等が最も見晴らしの良い木陰にレジャーシートを敷いて亀二と一緒に弁当をつまもうと、奇異の目で見られることもさほど無い。
本来公園とは、互いが干渉せず、各々が自分の世界で自分の時間を過ごす場所。その要素をベルモント公園は十二分に備えている。
加えて園内の花壇では四季折々の花々が育てられ、小規模ながらフラワーパークの様相を呈している。花は季節毎にこまめに変化するので見ている方も飽きない。その多彩な花々を育てる管理者は相当気を遣っていると分かるし、何より花に対する、自然に対する愛を感じる。
特にバラは秀逸だ。真紅の力強い花弁を咲かせる優良種アンクルウォルターを始め、ベルモント公園には数々のバラが栽培される、足立区でも指折りのバラの園だ。今はまだ咲き始めだが、それでも公園内で強烈な存在感を放つのが一目で分かる。
足立区の僻地に堂々と君臨する優秀な公園。それが足立区梅島が誇る観光資源、ベルモント公園にて、僕は嫁や亀二と共に文字通り穏やかで清涼な朝を過ごしたのだった。
■上野公園出発準備
午後からは場面変わって上野公園。喧騒必至の空気に押されぬよう、荒々しい雰囲気に負けぬよう気持ちを戦闘モードに切り替える。亀吾も買ってもらったばかりの鷹のネックレスを勇ましく装備。準備を万全に整えた僕等は、一路上野公園へと向かった。
■駅周辺から既に大混雑
上野駅に降り立った僕等だが、駅を出た瞬間、激しい人ごみに出くわす。駅、アメ横入口、UENO3153を結ぶスクランブル交差点一帯からして異常な過密状態だ。東京東武の一大繁華街・上野とて、こんな混雑は滅多にお目に掛かれない。GWという特別性と威力を思い知った気分だ。
■これぞ異常集客
しかし、本丸である上野公園の混沌ぶりは輪を掛けて酷い。ここまで無秩序かつ膨大な群集が大挙する光景を目の当たりにしたのは初めてかもしれない。
■上野動物園の実力を見た
まず、上野公園の代表的設備である上野動物園。全国圧倒的一位のパンダ保有数を誇る真の実力者・和歌山アドベンチャーワールドの宣伝の不味さを衝いて、さり気なく「パンダが見れる動物園」の代名詞としての地位を確立した上野動物園は、平日はそうでもないとは言え連日安定した客数を誇る全国有数の動物園である。
東京都が経営しているため、入場料も大人600円と破格の安さ。民間には出来ない手法で動物園業界のトップクラスに君臨し続けている。
その上野動物園を求めて殺到する客が、今日はかつて見たこと無いレベルだったということだ。券売所から続く行列は所定の場所だけでは収容できず、ヘビのようにウネウネと続き入口が遙か遠くに感じるほど。僕は今日ほど混んでいる上野公園を今まで見た事がない。
明後日のこどもの日を含むGW後半3日間。その主役は子供だろう。よって公園側も子供を想定したイベントで迎え撃つのが定石であり、動物園はその最たる存在と言えよう。つまり放っておいても大人気御礼なわけだが、それでも今日の行列は凄まじかった。
こんな日には絶対に動物園には行きたくないと思う。園内の主役であるパンダを見るだけで一体何時間掛かるのやら。我先にと群がる連中も、わざわざ最も混み合う今の時期に合わせずとも、平日とか通常の土日に来ればいいのに。パンダだって間近で見物できるのに。
いや、それが不可能だから今日を選んだ、選ぶしかなかった。そんな客も意外と多いのかもしれないな。他に休みが取れないとか、地方から出てきたとか、上野動物園を一期一会の重要イベントに据えている客達が。
それに、GWという子供向けのイベントが盛り沢山の時期に連れて来てこそ子供達も喜ぶし、思い出にも残るんじゃないだろうかという親心。分からなくはない。大人として、親として、外せないイベントであり遂行せねばならない義務なのだ、と。
それでも敢えて言おう。日をずらした方が良いと。いくら特別イベントが組まれ盛況だからとて、目的物を見れなければ終わりだ。人が多すぎると、見物中はもちろんのこと、メシ時ですらストレスを感じ続ける。
GWだから特別な感情が芽生えるのだ、GWに行くからこそ盛り上がるのだ、という側面は否定しないが、展示されている動物はGWであろうと平日であろうと常に一定。本質は何も変わらないのだ。それならば、「GWに行って盛り上がる世間の仲間入りをする」という見栄ではなく、「快適に悠々と見物する」という実利を取るのが恐らくは最も賢い選択。知恵ある大人というものだ。
子供の要望やメディアの煽りや世間の風潮に惑わされることなく、最もバランスの取れた選択をすることこそ、成熟した大人の本領発揮であり、親としての真の愛情の示し方。本質は常に一つであり、ブレもしない。知性溢れる大人ならば惑わされてはいけない。愛に溢れる親ならば本質への最短距離を見出し、子供達を導くべきだろう。
それに、わざわざ混雑する日を選ばずとも、小学生以下はいつだって入場無料なのだから。実際に入園料が発生するのは中学生からで、料金もたったの200円。その中学生にしても、都内在住あるいは在学であれば無料という気前の良さ。さらに65歳以上も300円という格安料金。
結局、一般料金600円を支払う層は、高校生と大学生のいわゆる「学生」、そして64歳までの成人男性および女性と至って限定的になる。
しかも、子供と言っても動物園に通いたがるのは中学生が最後ではなかろうか。高校生にもなれば、好んで動物園を選ぶ学生も減ってくると予想する。
そこから大学に進学して視野や思考が柔軟になれば、羞恥心も薄れ再び動物園という選択肢は浮上するだろう。デートなどにも活用できる。
そういう意味で、最も需要が高い幼稚園児や小学生は元々タダ。中学生は都内であれば無料だし、そうでなくとも200円というペットボトルジュースレベルの低料金。高校生は一般料金だけどあまり行かない。老人はタダみたいなもの。ますますチケット代を支払う客層が絞られる。
以上の図式を総括すれば、乳幼児、幼稚園児、小学生の子供を持つ親と、大学生以上の成人男女の夫婦やカップル、友人同士、あるいはソロの大人。以上の狭い範囲の人間達が、上野動物園のチケット代収入の大半を献上している事実が浮かび上がるのだった。
そんなので経営が立ち行くわけがない。だが現実は難なく回っている。不足分は都民の税金で賄われているからである。国立という名の強みを活かし、今後も上野動物園は民間動物園が経営難に喘ぐ中、日本でトップランクの集客力を悠々と維持していくだろう。その財政の一部を賄う都民としては、しつこいくらいに利用するのが賢い手とも言えた。
あと、最近知ったのだが、ただでさえ格安な上野動物園の入場料が無料になる日も存在するという。一つ目は動物園の開園日である3月20日。二つ目が5月4日の「みどりの日」。そして三つ目が10月1日「都民の日」だ。この3つの記念日は老若男女問わず入園料が無料という大盤振る舞いらしいが、どう考えても客が殺到するよな。
特に5月4日なんてまさしくGWの真っ只中。無料にせずとも大混雑が容易に予想できる。実際、GW中の5月3日である今日でこの異常な並びなのだ。しかも明日は5月4日、みどりの日、すなわち無料開園日ではないか。今日ですら収拾不可能な状態なのに、明日はさらにタダで入れますなんて、一体どうなってしまうんだ?
無料開園日。設定するのはいいが、GW期間は避けても別に支障ないというか、避けた方がいい気がする…。
■恐竜博もまたフィーバー
次に、僕等の本来の目的だった「恐竜博2016」を開催している国立科学博物館は70分待ちの行列。係員の誘導の下、遙か向こうにまで行列は伸びている。当然、入場制限も掛かけられちた。
「おいおい、よせよ」
開口一番それであり、方針もその時点で決まった。こんな現実を見せられて並ぶ気など起きるはずもない。「他の展示にしよっか」「然り然り」と、僕等は10秒程度で撤退の決断を下すに至った。暑い中はるばる出向いたけれど、そこまでして見学するつもりもない。それに恐竜博は6月までやっているのだから。
それにしてもこの行列は酷い。こどもの日が絡むGWだからこそ、恐竜博のような男のロマンや子供心をくすぐる催しは格好の餌だし、ゆえに最も人が集中すると誰でも予想できる。混雑が約束されている。しかし、まさかこれほどとは…。上野公園というブランドの強さを改めて知った次第である。
同展示の盛んなPR効果も大行列御礼現象に一役買ったのは間違いない。思い返してみれば、駅構内や電車の中など、ありとあらゆる場所で恐竜博は宣伝されていたし、テレビなどでも特集が組まれ集客を煽っていた。しかし、いくら煽ったところで混雑のためあぶれる客が出てしまうのなら宣伝も無意味、いやむしろ害悪ではなかろうか。特にテレビ特集は余計。
例えば、行列が出来るラーメン屋を大々的に宣伝すること。常時30分待ちだったのが、その宣伝によって2時間待ちなんてことになったら、食いたい客としては絶望的だ。ただ単に店の自己顕示欲と紹介した人間の「通ぶり」を誇示するだけのデモンストレーションに成り下がる。どうせ混み過ぎて食えないのだったら知らせない方がまだいい。叶わぬ夢を見させられる客が増殖するのは哀れだと思わないか。
元々人が集中する場所をさらに煽り立てた結果、更なる混乱が生じて入れないまま終わる客が続出する。幻の場所、幻の店としてブランド価値だけが高まり、実情が分からなくなってくる。よくあるパターンだ。キャパシティが決まっているのに、そのキャパ以上の客を呼び込むのはある意味、無責任と言わざるを得まいよ。
そんなことを考えながら、僕等は度を越した盛況を見せる恐竜博を後にする。同時に考える。美術館にしても博物館にしても、こういった展示会は、時間を掛けてゆっくりと、じっくりと観賞してこそ本領を発揮するし、客にもその価値が分かるというもの。しかし、実際にそういった観賞の仕方をしている客がどれだけ居るのだろう、と。
今回のような入場制限が掛かった状態では、まともに立ち止まるすら出来まい。係員の誘導により、あるいは後ろの客のプレッシャーに押される形で、流れ作業のようにただ先に進めさせられる。結果、説明パネルにじっくり目を通して理解を深める時間もなく、目ぼしい展示の写真だけ撮って、後に「その展示に行った」という既成事実をとりあえず作っただけで終わってしまうのが関の山だ。運営側が取るのは押し込み型の手法であり、客もとりあえずの収集欲を満足させることが先に立ってしまう。
考えてみれば、人気があるとされる展示施設の多くがこの「押し込み型」だ。美術館等だけではない、水族館や動物園も多くがそうだった。自分の時間をしっかり確保し納得いくまで滞留することが出来ない。深めることが難しい。経営を支えるための根本である集客数と、客の一人一人が納得しうる十分な余裕を与える誘導とは、両立しえないものかもしれないな。
■その他施設全てがキャパオーバー
恐竜博は諦めたものの、せっかく来たのだし何かしらの展示は見ておきたい。そう思い公園内を歩き回るが、同じことを考える人間も多いのだろう。普段それほど混雑していない国立西洋博物館も通常からは考えられない行列。さらに先日「黄金のアフガニスタン」を見物した東京国立博物館までもがチケット販売窓口前に作りすぎた団子のごとく密集していた。これは、無理だ。
皆、「上野公園の展示を見てきた」という確かな証が欲しいのだろう。どの美術館でも博物館でもいいから、とにかく振り上げた拳の下ろし先を見つけないことには収まりが付かないという気分か。GWという年中でもトップレベルの集客が見込める時期、普段影に隠れた脇役達すら借り出され、ここ上野公園はまさしく人間達の坩堝だった。
■上野の森 親子フェスタ2016
通常の建物ではなく、GW中の上野公園は野外の盛況ぶりも凄まじい。喧騒をよそに、まるで花見のように木々の下で寛ぐ者、宴会する連中。噴水の縁には、まるで苔が生えたかのごとくビッシリと人が群がっている。大道芸人達もこの時が絶好の機会とばかりに道行く人々を盛り上げる。
上野公園は博物館だけではない。外の景色も同等の魅力を有しているのだと。人は常時多いがその分敷地も広大なので、意外と落ち着いて散策できるのが上野公園の良いところでもある。
その中で、一際人間が群がる一画を見つけた。数十のテントが張られ、本を売っている。見たところ子供向けの絵本が殆どだが、日本中の殆どの絵本を集めたんじゃないかと思えるほど多彩なラインナップだったな。テントには有名無名の多くの出版社が名を連ねていた。
しかもその中には「ちびくろサンボ」とか、見方によってはかなり危険ゾーンな絵本も当たり前のように積んであったし、これは相当大々的かつ自由な本の祭典に違いないと思ったものだ。
このイベントは、「上野の森 親子フェスタ2016」あるいは「子どもブックフェスティバル」と呼ぶ模様。なるほど言われてみれば、確かにテント内には子供が沢山。絵本販売だけでなく、読み聞かせイベントなど参加型の催しもやっているようで、恐らく本が好きなのであろう家族連れで会場内はごった返していた。
大人である僕等の出る幕は特にないが、陳列された絵本や童話を眺めるだけで新鮮な気分になれたし、何より笑顔で本を手に取ってレジに並ぶ子供達を見ると嬉しくなる。活字離れが懸念される日本において、絵本や童話といえど、紙媒体の本という古風な文化に触れるためにわざわざ集まる子供とその親。本が好きに違いない。少なくとも嫌いな人間は来ないはずだから。本好きの僕等として、微笑ましくも嬉しい光景だった。
いずれこの子らも絵本を読まなくなる時期が来るだろうが、スマホやゲーム機だけでなく、本という世界を自分の中に残しながら育って欲しいものである。
■野外の高い食い物にもドラマはある
少し小腹が空くと同時に喉が渇く。目の前にちょうどアイスクリーム移動販売の車が停まっていたので、一口食ってみることにした。車の前にはニコニコした姉ちゃんと、穏やかな顔をした婆ちゃん。350円は割高に過ぎると分かっていたが、これも祭り料金だと納得しつつアイスを頼んだ。
僕等のオーダーを受けた婆ちゃんは、僕の懐に忍ばせている亀吾を目ざとく見つけ、「あらぁ、かわいいカメちゃんっ…」と婆ちゃん特有の慈愛に満ちた目で微笑んだ。しばらく考えもしなかったが、見知らぬ誰かに亀吾のことに触れられたのは久しぶり。亀吾もまた、長年連れ添ったウチの家族なのだ。それに気付いてくれてありがとう。婆さんに心の中で礼を言う。
行楽という環境下だからか、何か特別な感情か。350円のアイスクリームの冷たさと濃厚な味わいは、予想以上に身体の奥深まで染み渡ったような気がした。
■東京芸術大学大学美術館
かなり園内を歩き回った僕等だが、肝心の屋内展示物を一つも見学していない。流石に如何なものか。もうこの際何でもいいじゃんと開き直ったところ、大分離れた場所に東京藝術大学の美術館がひっそりと居を構えているのに気付いた。上野公園中心部から500メートル以上はゆうに離れているだろう。皆、面倒臭がってそこまで足を運ばないと踏んだ。よし、ここにしよう。見れればいい。
予想通り相当歩いた挙句、到着した東京芸大美術館。「バーミヤン大仏天井壁画」他、アフガニスタン関連の展示をしているようだ。しかも無料である。これは、喜んでいいのかどうなのか。金を払うほどの価値がないということなのか。いや、美術や歴史展示に無価値なものなんてないと信じる。
前回も東京国立美術館でアフガニスタン展を見たが、最近アフガニスタンづいているな。その甲斐あってか、昔は全く得体の知れなかったアフガニスタンという国のことがおぼろげながら見えてきた。
アフガニスタンは、単一の文化ではなく、紀元前から古今東西の文明や文化の影響を受け続けた、一種のごった煮のような歴史を持った国。それゆえ価値ある歴史的遺物に溢れ、鉱物資源にも富んでいた。しかしそれゆえ他国からの干渉を受け続け、支配者も頻繁に変わっていったという、形があるようで形がない国とも言えよう。
だがその歴史的見地からの重要性は計り知れず、現代の考古学者達の興味の的であるのがアフガニスタン。しかしタリバン、アルイカイダなど歴史的遺物に価値を見出さないテロリスト達によって多くの遺物が破壊され、損なわれてきた。
そんな古代から続く文明や歴史の証人でもあるアフガニスタンという国の歴史物をそれ以上喪失しないために、心あるアフガニスタン人達はテロリストの目に留まる前に多くの歴史物を隠匿し、他国もその活動をバックアップする。日本もまた、アフガニスタンの歴史を保存する活動に多大な援助を与えている。
その縁もあり、今回のバーミヤン壁画や、東京国立博物館の黄金のアフガニスタン展など、アフガニスタン関連の展示が、ここ上野公園を始めとする各施設で最近とみに活発化しているわけである。
今回の「バーミヤン大仏天井壁画」なども、無料とは言えなかなか気持ちの込められた展示だったと思える。目の前にある価値ある歴史物が今、現代人たる自分の目の前に変わらぬ姿で在る、というロマンはやはり人を惹き付けるものだ。どうせタダなんだから、行って損はない。僕等は500円玉を寄付して薄っぺらい冊子を貰ったがね。
■寄付の受け皿も色々
その寄付のさせ方がなかなか巧みだったので、つい500円玉を投げ入れてしまった。どういうことかというと、寄付金用の逆円錐型をしたデカい器具が目の前に置いてあるのだが、所定の位置に入れた500円玉が、逆円錐の外周から大きく円を描きながら少しずつ中心に近付いていき、最後は中心の穴にスコココーン!といい音を立てて吸い込まれていくという仕組みなのだ。その計算された円運動が見とれてしまうほどに美しいというか、いかにも幾何学に則った科学の結晶という感じがして、寄付しても惜しくないような気になれる。
今の時代、募金や寄付をするにもエンターテインメント性が求められるのかもしれない。とりあえず、今まで一番楽しい募金ではあった。
あと、東京芸大の構内も閑静な雰囲気で好ましい。ベンチや灰皿も設置されているので好きなように寛げるのだ。早速ベンチに座ってダラダラする僕等。近くのベンチにここの学生と思われる男女が座り談笑している。かなり緩い服装で、どこに遊びに行く~とか、彼氏が~とか、美味しい店が~とか、本業の芸術とはあまり関係ない話に華を咲かせている。
キャンパスライフ、そして青春を満喫してるって感じで何かイイネ。個人的には、彼等が煙草を吸っていたところにも好感。世間的には嫌悪されるが、それを跳ね除けてまで時代に逆行する若者、という点が。
(東京藝術大学 アフガニスタン特別企画展)
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2016/afghanistan/afghanistan_ja.htm
■炊き出し
意外に楽しめた東京芸大を去り、再び上野公園に戻る途中。公園の隅っこの茂みにて、100人規模の人間がパイプ椅子に座り、司会者の話を神妙な雰囲気で聞く集団達を僕等は気に掛けていた。芸大に向かう途中も、この集団は居て、どこか特殊な雰囲気を醸し出していたのだ。
どこが特殊かというと、殆どが年老いた人間。何かの趣味の集まりにしては仲間意識めいた一体感に欠ける。それに服装も地味というか、何か誰もが着の身着のままというか、余所行きの服装じゃなく、全く気を遣っていない様子。かつ、観衆は一言も発さないで、ただ壇上に立つ人間のマイクパフォーマンスを聴いているだけ。しかもあまり面白くなさそうな顔をしている。誰も聴いてないんじゃね? とまで思う。
さらに前に立つ人間が何をマイクで叫んでいるかというと、歌。浪曲か演歌か知らないが、とにかく歌を唄っている。しかしその歌がまた、下手なのだ。わざとか?と思うくらい、この上なく音痴。スマップの4~5倍音痴と言えばイメージが掴みやすいだろうが、とても何かのイベントで壇上に立つレベルじゃない。
ここまで下手なのだから当然、野外カラオケ大会であるはずがないし、仲間内の歌会披露にしては聴いてる方が哀れにすぎる。それでも聴衆達は、静かに大人しく、その下手な歌を聴いていたのだ。何でそんなに辛抱強く聴けるんだろうか。
ふと茂みに生える木々の下に立てかけられた看板が目に入る。キリスト教系の宗教集団の名前がそこには刻まれている。なるほど、これは教徒達の野外懇親会とか交流会、あるいは聖書朗読会とか、そういった集まりか。だから皆が静粛に聴き入っていたのか。わざわざ下手な歌を披露する意味は分からないが、まあそういうことなのだろう。敬虔な教徒であれば辛抱強さもまあ頷ける。みすぼらしい服装も、清廉の証ということに違いない、と。
と思っていたのが芸大に行く前。その芸大から戻る途中、その教徒集団を再び見かけたという流れだ。相変わらず目立たない茂みに潜む彼等は、先ほどと変わって皆が立ち、テーブルを並べ、バーベキューのような光景を繰り広げている。おお、朗読会が終わって遂に立食パーティに移行したわけか、なるほどなるほど。さぞ皆が和気藹々と話ながらパーティしているだろう…。
と思ってじっくり見たところ、まるで和気藹々としていない。皆、最初と変わらず無言なのだ。しかも近くの人間とお喋りしたりする者も居なさそう。何か全然楽しくなさそう。一体何だ? もっとよく注視する。すると無言の人々は、向かい合って立食などしておらず、一列に並んでいるように見えた。立食していると思われた人間は、何かオニギリみたいな食事が大量に入った特大ケースとか、大きな釜のような器具がある傍に立っている。その人間が、並ぶ者達に、食事を配っているように見える。というか、確かにメシを配っている。これは…。
まさか、炊き出しか? この集まりは、配給なのか? 人々の救済を旨とするキリスト教徒と、みすぼらしい身なりと、覇気のない表情で羊のように並ぶ老人達。そして配られる食料。ようやく合点が行った。これは恐らく、家もなく老いた貧しき人々に対する、神の使いたるキリスト教徒達による施しだ。
だからこそ、誰も望んでもいなさそうな下手な歌を我慢して聴いていたのであり、唄う側も「ちゃんと拝聴しないとメシを上げませんよ」と無言の圧力を背景に音痴な歌を目一杯疲労する。あれは歌ではなくやはり聖歌とか聖書の件の朗読だったのだろうか。事実は判明しないままだったが、果たしてこれでいいんだろうかという気も一方ではしていた。
施しを与えるのは崇高な行為だろうが、何も説法の強要を引き換え条件にしなくとも。しょせん強制。聴いた側は話の内容をこれっぽっちも覚えていないだろう。拝聴中、ずっと「オニギリ、オニギリ、オニギリ…」と頭の中で念じていたに違いないのだ。果たして感謝されているのかどうか。
いずれにせよ、ここまでプログラムがしっかりと構成された配給現場を僕は初めて見た。その一種の異様さは、今日の上野公園の記憶とセットで後々まで残ることだろう。
■東叡山寛永寺不忍池弁天堂
気付けばもう3時間近く上野公園に滞在している。当初の目的は達せられなかったが十分堪能した気もするし、そろそろ撤収準備をしてもいいだろう。最後に不忍池の蓮でも見物して帰るとするか…。
だが、不忍池を覆い尽くすほどの壮観な蓮の大群はその影すらなかった。どうやら蓮が開花するのは夏、7月~8月だった模様。不忍池ほど壮観な蓮の景色もないのだが、見ごろまで待つしかない。
と落胆していると、少し離れた場所にお堂が見えた。そういえば、あったな、あんな建物。不忍池の風景に溶け込みすぎて近付くという発想すらなかったが、この際だから一度参詣してみようか。
参った場所は、不忍池の弁天堂。正式には「東叡山 寛永寺 不忍池弁天堂」と呼ぶ。東叡山(ひがしえいざん)とは、京都(正確には滋賀)にある天台宗の総本山・比叡山延暦寺に対抗して付けた呼称。比叡山は基本的に「叡山」でも通じる。だから総本山たる西の叡山に対して東の叡山、すなわち東叡山。当時の幕府がそう命名した。より厳密に言えば、江戸時代初期の妖怪坊主と名高い天海が創立した寺院だ。
天海は、江戸幕府初代将軍・家康、二代将軍・秀忠、三代将軍・家という三代に亘り絶大な影響力を振るったとされる坊主。100歳以上生き、政治にも経済にも文化にも関心を示し続けた絶倫爺さんとも伝わる。
その天海の宗派も天台宗だったことから、総本山たる比叡山延暦寺のような寺を、何とか今の政権の中枢である江戸幕府周辺に再現したいと願った結果、寛永寺という寺が建てられ、山号を東叡山と呼んだ。概ねそんな流れらしい。
かつ、総本山への憧れがあったのか、東叡山たる寛永寺は、中心的お堂である根本中堂を始め、様々な建物が延暦寺に似せて造られているとか。寛永寺の多くの建物は戦火に消失したが、建て直されたものもあるし、現存するものも未だに残る。その寛永寺の全てを含めた歴史物が位置する場所が、ここ上野公園、および上野桜木と呼ばれる鶯谷駅付近を含めた広大な土地である。
今回参った弁天堂もまた東叡山寛永寺の建物の一つで弁財天(弁才天)を祀る。弁財天と言えば何となく金や商売を連想することもあり、「宝くじ当たりたい」と僕は祈っておいた。他、周辺にはフグの像など風変わりな石碑があったりと、味のある場所であった。
そんな上野公園の予想外に長かった探索。充実した。それと、外国人率が以前に比べてさらに高まっていたのも記憶に残る。爆買い、インバウンド市場、観光立国日本など、外国人の増加を表現する様々な言葉があるけれど、こうして実際に自分の目で確認すると、それが紛れもない事実だと痛感する。
元々、上野含めた東京の主要スポットは外国人がそこそこの比率で存在していたが、今は比にならない。もはやそんなレベルじゃない。「ここはホントに日本か?」と一瞬思ってしまうシーンが今やもう珍しくない。
■上野・御徒町の喫茶店レベル
上野公園散策を終えた僕等は、一休みするため喫茶店を探す。観光地でなくただの街並みとは言え、さすがGWだけあってか上野・御徒町の至るところがアメ横ばりに人で溢れている。空いてる喫茶店一つ探すのにも一苦労だ。まさしく居酒屋難民、喫茶店難民大輩出の時期である。
足を棒にして歩いた結果、「六曜館(ろくひかりかん)」という昭和風喫茶店を見つける。「嵐にしやがれ」他、TVや雑誌で何度も紹介されている有名店らしく、ロケにも使われたりするとか。あまりマスメディアで紹介されたことを前面に押し出しすぎた店は諸刃の剣でもあるのだが、こういった昔ながらの喫茶店はむしろ好みだし、座れるならどこでもいいという気持ちはあった。中に入る。一応ナポリタンが名物とされているが。
中はいかにもそれっぽい雰囲気。嫌いではない。しかし店員の態度が激しく気に入らなかった。
同店は、名物のナポリタン始め、エビピラフ、ドライカレー、ジャムトーストなどある意味少し斜め上の料理が置いてある。僕は実のところカレーライスが食いたかったし、嫁はそこまで腹が減ってないのでサンドイッチでも摘まみたいと思っていたのだが、いずれもメニューに載ってない。載ってないということは恐らく存在しないと予想は付いた。
だけど喫茶店の定番メニューとも言っていいカレーライスとサンドイッチ。もしかしたら公表してないだけで言えば作ってくれるかもしれないではないか。そんな期待を抱いても仕方なくはないか? 一応聞くだけ聞いてみようと考えたとしてもそこまで非難されないと思うのだが。
なので僕は、年季の入った多少不機嫌そうな中年女性のウエイトレスを呼んで聞いてみた。「すいませーんっ」と呼んでもなかなか気付いてもらえない時点で少しムカッと来たが。
「メニューに載ってないから多分ないとは思うんですけど、カレーライスとかは置いてない、ですよね?」
かなり遠慮がちに質問したつもりだ。
するとウエイトレスは、記者会見で記者達の声が聴こえないとでも言いたげにわざとらしく耳をそばだてるジェスチャーをする野々村元議員のような「ハァ?」という表情で顔を近付けてきて、「もう一度言ってください」とばかりに耳をわざとらしく近付けてくる。
僕が「えーと、カレーライスなんすけど…」と言い直すと、今度は5メートル以上向こうに掛けられた料理メニューの書いてある小さな小さなホワイトボードを、目を細めながら見るジェスチャーをして、「えーと、カレーライス、カレーライス…」と、一行一行じっくり確認するかのような動作で間を作った後、僕等に振り返り「カレーライスは、ないみたいですねぇ」と、明らかに小馬鹿にしたような返しをしてきた。
オメー、最初から知ってんだろうが、何わざわざ確認してるんだよ、しかもあんな遠くのメニュー表を。ちゃんと見て下さいよ、確認してから言って下さいよ、とでも言いたいのか。メニュー表に載ってないものがあるわけないでしょ、とでも言いたいのか。だったらその人を苛立たせる挙動なんかせずに最初からそう言え。
その、分かっていながら敢えて芝居掛かった動きで客の問い掛けを否定しようとする意思に満ちた対応に怒り浸透。ちなみにサンドイッチも念のため尋ねたが、やはりカレーライスの時と同じ無駄すぎる動きの後、「ありません」と答えやがった。何だこの苛立ちは。
さらに言うなら、そのメニューが書いてある小さなホワイトボードには、名物のナポリタンのところに「かなり時間がかかります」と但し書きが付け加えてある。名物と自分等で謳っておきながら、いざオーダーすると「時間が『かなり』かかります」などとチクリと釘を差しに来ている。まるで「作るのが面倒臭いのであんまり注文しないで下さい」とでも言いたげだ。どっちなんだよ。どうも客を舐めてる気がするな。
で、そのナポリタンの時間は一体具体的にどのくらい掛かるのかと問うたところ、「かなり、ですねえ」などと言う返答が返ってきたという顛末だ。ある意味予想通り。ジョークなのか知らないが、今の僕等は全く笑う気になれないな。
それでも腹が減ってたので僕はドライカレーをオーダー。嫁は気が進まなかったのかコーヒーのみ。ドライカレーはまあ結構美味かった。しかし特筆するほどでもない。どうあれ、この喫茶店に行くことは二度とないと思われた。
この六曜館だけでなく、御徒町付近の昭和風喫茶店のレベルはさほどでもない。北千住サンローゼや梅島シルビアの方が数倍クオリティが高いと言える。無論、クオリティの高い従業員が揃ってこその話だが。
やはり、今はもう居ない梅島シルビアの最高級ウエイトレス、黒髪ねーちゃんのレベルの高さは余りに際立っていた。
■角上魚類
そんな上野・御徒町巡りの後、帰途の途中で南千住へと僕等は立ち寄る。スーパー「ララテラス」内にある新潟発祥の鮮魚専門店「角上魚類」で生魚を調達するためだ。GW前半、新潟実家で生魚の捌き方に更なる磨きをかけた。包丁もよく切れる出刃をもらった。それを試したくてウズウズしていたのだ。
胸を躍らせながら入店したスーパー「ララテラス」。その中で角上のコーナーだけが異常な人だかり。まるで有名人が現れた時の野次馬のごとしだ。角上魚類が扱う魚は鮮度抜群でしかも安い。皆が知っているのだろう。事実、生魚で買うと、イオンで売っている半額以下で買えてしまう魚も多い。南千住は、魚好きにとって天国と言えよう。
その角上で、僕等はサバと鯛、あとスズキ、それにホウボウという刺身に出来るなんて知らなかった魚を購入した。他にもカワハギとか、のど黒なんてレア魚も大量に置いてあった。それら全部刺身に出来るという。しかもイメージより大分安いし。どんだけ角上って使えるの? 毎週通いたいくらいの楽しさであった。
■刺身の調理
帰宅後、さっそくそれらの魚を捌いていく。貰った出刃もさすが大変よく切れる。
まずサバは、刺身は無理なので締めサバに。だけど三枚下ろしにしている最中、身がボロボロとほぐれてしまい思うように行かない。包丁の切れ味は増しているはずだが、僕の腕が落ちたのか。
「鮮度の問題じゃないの?」と嫁が言う。そう言えば、角上に置いてあった魚の名札には全て「刺身用」とか「煮付け用」などと書いてあったが、このサバは「締めサバ用」ではなく「煮付け用」になっていた気がする。
確認のため新潟実家の義父に電話したところ、「あ~、身が崩れるのはダメダメ、締めサバにしたら腹壊すよ」と笑いながら答えてくる。危ないところだった。とりあえず僕の腕が落ちたのではないことに安堵し、すかさず僕等は煮付けに方向転換した。サバって、本当に痛むの早いんだな…。
ホウボウは、まるでハゼのような魚だ。扁平でなく、羊羹のように立体的な魚なので多少調理しにくい。まあ何とか基本に沿って捌いた。「魚の基本構造は全部同じ」という義父の格言が胸に染みる。淡白気味だが、キレのある味とも言えた。
スズキは、柵や切り身にした状態が鯛に非常に似ている。味もコリッとした食感とネットリした食感とが融合したような感じで、やはり鯛に近い。義父曰く、スズキもかなり難度の高い魚の模様。トゲが刺さる、包丁が滑る、等々。確かにアジやイナダに比べれば遙かに困難だったが、一応不恰好ながら調理は成功。
ちなみに、今回調理したスズキは20~30センチメートル程度の大きさだったが、角上には80センチメートルくらいのデカいスズキも売っていた。それで確か600~800円くらいだったか? あれだけ大きければ10人前くらい余裕で作れるんじゃないか。
スズキは出世魚であり、最大になると1メートル級と言われるが、それでこの値段とは、何というコスパの高い魚なのだろう。機会があれば80センチメートルのスズキを捌いてみたいものだが、それを収容できるだけのまな板も台所もないのが残念ではある。
そして鯛。義父に学んだことを思い出しつつ、柵まで完成。身の切り残しがまだ相当多く見られるが、手順としては大分手馴れてきた気がするが…。
とりあえず4つの魚を捌いた。一つ一つの工程を検証するのは難しく、実際に技術が上がったのかどうかも判断できない。それでも、それなりに苦労を要するであろう魚を4匹全て捌き切ったその持久力については自分でも評価したいところ。
いずれにしても、刺身作りは、楽しい。今後も新鮮かつ新しい魚を取り入れつつ研鑽していきたい所存であった。
■外に内に充実したGW
地元のベルモント公園ピクニック、人ごみ溢れる中行った、上野公園の大探索と街並み散歩。そして帰宅してからの刺身への取り組み。一日で出来るキャパシティをフルに使ったようなGW初日だ。非常に楽しかった。ただその一言である。
その反動で、明日は矮小な俗物へと転身するかもしれないが。
人気ブログランキングへ