20131130(土) 俺が北千住だ…!

131130(土)-01【0900頃】アイスコーヒー、マフィン《家-嫁》_01 131130(土)-02【1030頃】玉ねぎスープ(嫁会社同僚土産)《家-嫁》_01 131130(土)-03【1320頃】コンビニサンドイッチ、アメリカンドッグ《家-嫁》_01 131130(土)-04【1450頃】風呂湯船溜め中《家-嫁》_01 131130(土)-05【1710~1940】海鮮居酒屋「なつ家」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_01 131130(土)-05【1710~1940】海鮮居酒屋「なつ家」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_03 131130(土)-05【1710~1940】海鮮居酒屋「なつ家」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_04 131130(土)-05【1710~1940】海鮮居酒屋「なつ家」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_05 131130(土)-05【1710~1940】海鮮居酒屋「なつ家」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_10 131130(土)-05【1710~1940】海鮮居酒屋「なつ家」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_15 131130(土)-06【1950~2240】和風バー「鉢の巣」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》12 131130(土)-06【1950~2240】和風バー「鉢の巣」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_01 131130(土)-06【1950~2240】和風バー「鉢の巣」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_02 131130(土)-06【1950~2240】和風バー「鉢の巣」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_06 131130(土)-06【1950~2240】和風バー「鉢の巣」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_08 131130(土)-06【1950~2240】和風バー「鉢の巣」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_10 131130(土)-06【1950~2240】和風バー「鉢の巣」《北千住-嫁、友人夫妻、友人1名》_11 131130(土)-07【0020頃】吉野家牛丼・カレー、マック《家-嫁》_01

 【朝メシ】
アイスコーヒー、マフィン、玉ねぎスープ(家-嫁)

【昼メシ】
コンビニサンドイッチ、アメリカンドッグ(家-嫁)
 
【夜メシ】
和食居酒屋「なつ家」(北千住-嫁、友人夫妻、友人1名)
和風バー「蜂の巣」(北千住-嫁、友人夫妻、友人1名)
吉野家牛丼・マックポテト(家-嫁)
 
【イベント】
北千住飲み
  
  
【所感】
嫁を含め、友人達と夕方から飲む予定になっている。

場所は北千住の「なつ家」。僕が予約した店だ。幹事を受け持つなんて1年ぶりくらいじゃないか? 人任せばかりで自分から動かない昨今の自分を考えれば珍しいが、友人内では僕が一番年上という点、そして場所が北千住であること、以上二点の理由から快く幹事を引き受けた。

面子は僕と、嫁のビビンバ。そして足立区同盟の友人・公爵とその嫁・サーヤ。さらに八王子在住のクーフーリンが参加する。

公爵もクーフーリンも僕より年下。公爵なんて10近く違う。そんな後輩達に、「適当に店取っといてくれよ」と頼めるか? 冗談じゃない。いくら落ちぶれても僕にだって男としてのプライドがあるさ。

それに、飲みの回数では僕が仲間内でダントツだ。そんなアルコール番長が飲み会をセッティングできずしてどうする。コンディションに関わらず、頼まれればその日の内に会場を押さえるくらいのことは息を吐くような容易さで出来なければならない。

プラス虚勢を張る必要もあるだろう。特に今回の場合は。ビビンバはもとより、公爵やクーフーリンも、ショボくなった今の僕の現状を大体把握している。公爵の嫁・サーヤも、旦那の公爵経由である程度は察している。それでもサーヤは、まだ僕に期待しているようだ。「佐波ピーなら、佐波ピーならきっと何とかしてくれる」と。
(※注 僕はサーヤから『佐波ピー』と呼ばれている)

その期待を裏切ってどうする?

今のところ、サーヤが参加する食事会や飲み会に同席できるのは、クーフーリンと僕だけだ。つまり、娘ほども年の離れた(そこまで離れちゃいねーけど)サーヤから、「このヒト達なら大丈夫」と認められているということ。簡単に言えばお気に入りだ。若いOLからキモがられるほど落ちぶれてはいないということ。ここで踏ん張らずしてどうする。

それに、あまり世の中を恨むオッサンのような言動ばかりしていると、「何か佐波ピーと飲むのつまんなーいっ」とか公爵に陰口されるかもしれない。僕は、少なくともサーヤの前では”落ち着いた雰囲気と包容力に満ちた頼れる上司”的な雰囲気を醸し出す必要があるのだ。

弱音を吐いていい相手、吐いてはいけない相手。虚勢を張るべき相手、ありのままの自分を曝け出していい相手。人によってそれぞれだ。少なくとも、僕にはまだ虚勢を張らなければならない相手が存在するし、存在する限りはデキる年上の大人を演出する義務を持っていた。

また、北千住という場所も僕がやる気を出した原因の一つだ。何しろ北千住は僕にとって本拠地とも言えるエリア。単なる活動回数や街に対する詳しさだけでなく、心の還れる数少ない場所なのだ。

そういう意味で、秋葉原エリアと上野エリアに並んでトップ3に入る。住居から最も近いという点を考えればより馴染み深い場所。それが北千住。もはや僕の第二の棲み家であり隠れ家だった。

そんな北千住で飲むことになり、しかも同じく北千住に詳しい公爵から「今回の面子に相応しい飲み屋はどっかないものかね?」と投げ掛けられたのだから、反射的に「しょうがねえなあ、まあ北千住ならオレに任せとけよ」と返答したとしても不思議じゃない。

僕は、こと北千住の盛り場という分野に関しては、誰の後塵も拝するつもりがない。ボクが一番北千住を使えるんだ。いや、むしろオレが北千住だ…!

という数々の事情もあり、他何軒かピックアップした店を吟味した結果、「なつ家」に決定した。個室もあり、公爵が好きな日本酒やクーフーリン所望のウイスキーも豊富で、カクテル系を嗜むサーヤの要望にもしっかりと応えられる品揃え。

何より料理が美味い。看板メニューである刺身は、間違いなくどんな客も満足させる。しかもそれ以外の揚げ物、肉料理、ご飯物など、あらゆる料理をクオリティ高く仕上げてくれる。

唯一の問題点は「値段が高い」ということだ。それさえクリアすれば、これほど安全牌な店もそうそうなかった。まあ、その高いという点こそが問題なのだが。公爵も「なつ家はいい店だけど、高いからなぁ」とこぼしていたし。

だけど僕としては、「なつ家」を知らないサーヤやクーフーリン、そしてビビンバに是非試してみて欲しい。かつて、僕と茨城友人・スーパーフェニックスが、夜の北千住をさ迷い、客引きの姉ちゃんに半ば強引に連れてこられたという偶然から始まった「なつ家」の歴史を。

もう6~7年前から、マルイ広場から降りるエスカレーター下で「なつ家」は呼び込みを始めていて、今もその風景は変わらない。そんな連綿と続く「なつ家」の存在を、ボク等の想いを、出来るだけ多くの人に知って欲しい。

というわけで、今回は僕が会計の3分の2くらいを支払うから、と事前に公爵に言い含めることで事なきを得た。たかが会計の高ごときで計画がポシャッてはたまらない。

まあ当然、気前がよくなるのは好きな人に対してだけである。会社関係の飲み会などはビタ一文払わないし、奢ってもらったとしても感謝の欠片すら感じない。むしろ無駄な飲み会に付き合わされたストレスと費やした時間を返せと言いたい。

ともあれ、これで準備は整った。あとは出掛けるだけだが、約束の夕方までまだかなりの時間がある。とりあえず風呂に入ることにした。風呂と言っても、いつものシャワーだけじゃない。湯船に湯を溜める正統派だ。温泉の素まで入れた。ここ半年くらい湯船に溜めたことなどなかったというのに。この一点だけで、いつもと違った気合が窺える。

エメラルドがかった湯が一段とキレイに見える。そのエメラルドの海に1時間ほど半身浴しながら僕は、風呂場の中で静かに小説を読んでいた。心はオパールのように落ち着いていた。

そして夕方。会場入りする前、嫁のビビンバはサーヤへのプレゼントを買うためマルイに寄る。公爵には、先の新潟帰省の折に買ってきた日本酒がある。バランスを取るため、クーフーリンにも日本酒を購入することにした。

不思議なもので、友人や恋人同士での飲み会と違い、誰かの奥さんなどが同席する飲み会にはプレゼントが付き物。かなりの確率でプレゼント交換会のようなものが開かれる。

最も多く飲んだ相手・スーパーフェニックスとのサシ飲みなど、1000回以上同じ席で酒を酌み交わしているにも関わらず、プレゼントを上げたりもらったりしたことなど一度もないというのに。

やはり相手の奥さんに対してカッコ付けたいからだろうか。あるいは、相手の奥さんに対してプレゼントを持参するスマートな社会人である自分を演出したいのだろうか。

いずれにしても、飲み以外でも何かが欲しい時は、自分の嫁を呼ぶべし。または誰かの嫁を呼んでもらうべし。一風変わった女子会のような光景が繰り広げられるに違いない。

そして本番の「なつ家」。看板メニューである刺身でまずは度肝を抜き、サーヤやクーフーリンを唸らせる。さらに生牡蠣などこだわりのメニューも頼み、一味違う店であることを強調。串物も絶妙な柔らかさで焼き、揚げ物も秀逸だ。ここぞとばかりに考えられるメニューを堪能してもらった。

日本酒も色々試すことが出来たし、基本的には皆が満足していたようだ。やはり連れてきてよかった。

まあ会計は予想通り一般を二周りほど上回っていたが。それでも公爵に対して年上としての懐深さを演出できた。サーヤに対しても包容力もあり面白い年上の大人という雰囲気も醸し出せた。クーフーリンも、ワンランク上の飲み屋を知っている侮れない男という一面を僕に垣間見たことだろう。無論、そう振舞うことで、「なかなか仕事のデキる旦那だ」と、嫁であるビビンバの面目も立つ。

全て計算ずくだ。この飲み会は、久しぶりに上手く出来た気がする。

「なつ家」が終わり、だけどまだ20時前。余裕で二次会に行ける時間帯だ。二次会となれば、居酒屋でなくバーのような場所が望ましいのは誰の目にも明らか。かといってHUBではありきたり過ぎて物足りない。

ここで「蜂の巣」の登場である。瞬間的にその名が出てくる時点で既に強者(つわもの)。北千住を知り尽くす僕にしか為しえないベストチョイスだ。まあ、最初にこの店を見つけたのは僕じゃなく嫁ビビンバであることは皆には内緒にしておきたい。

早速、したり顔で「オレに付いてきなよ」とばかりに彼等を連れて歩き、「蜂の巣」に入店。博多友人・マリポーサなどを誘う際にも決まって選ぶ店だ。和風バーというだけあって、英国バーのようにオシャレすぎるという風もなく、結構肩肘張らずに飲めるところがいい。

飲み物はエールビールが中心。食い物はハンバーガーや、特にタコスがお勧めだ。僕は誰かをこの店に連れてくる際には、必ずタコスを食ってもらう。反応は基本的に上々である。「なつ家」と同じく、好きな人には紹介したい店だった。

二次会は、一次会に輪を掛けて盛り上がった。みんな出来上がったのだろう。公爵と僕が下らない話題でしばらく会話の応酬をしつつ、そこにビビンバがツッコミを入れて、クーフーリンが「まったくやれやれだぜ」という溜息を吐く。その光景を見たサーヤが「楽しい~♪」と声を上げる。全ては上手く行った。

これには、公爵の合いの手やネタ振りが秀逸だったという要因もある。不思議なもので、コミュニケーション能力が著しく低下した今の僕でも、公爵とのやり取りは面白おかしく展開できる。漫才のような会話のキャッチボールが出来る。

多分合ってるんだろうな、波動が、感性が、内に秘めた変態ぶりが。ともかく、今の僕にとって割と会話のキャッチボールが出来る貴重な存在であった。

そんなわけで、いつも以上の楽しさとノリである。僕も近年稀に見るくらいにはしゃいだ。

皆も、いつも以上に盛り上がった。いつもは酒に負けない公爵も、後半部分は前後不詳気味で意味不明なノリで笑っていたし。嫁は相変わらずテンションが高い。いつもは寡黙なクーフーリンですら、カメラを向ければピースサインでポーズを決めるノリのよさ。後で聞くと記憶が多少飛んでいたという。僕等がプレゼントした日本酒を忘れて帰ってしまったというぶっ飛びぶりだ。

だが、それがいい。それだからこそいい。二次会も終わり、北千住マルイ前の広場で僕等は別れる。千代田線側に歩いていく公爵と、それに寄り添うように歩くサーヤの背中を見送りながら、JRの改札に消えていくクーフーリンと握手を交わしながら、僕は考えていた。過去のことを。自分を支えてくれる数少ない存在のことを…。

少し考えはしたが、今日は楽しさと嬉しさが遥かに勝った貴重な土曜日であることは間違いあるまい。嬉しさ余って僕達は、地元に降り立った瞬間、マックのポテトと吉野家の牛丼をテイクアウトした。

夕方から深夜まで。ただただ飲みの楽しさを享受した、その勢いに任せて行動した6時間であった。

20131129(金) 自作寿司のハードルを少しずつ高めた先に待っているはずのリアル

131129(金)-02【2250~2320】寿司(俺自作)、野菜鍋《家-嫁》_01 131129(金)-02【2250~2320】寿司(俺自作)、野菜鍋《家-嫁》_06131129(金)-02【2250~2320】寿司(俺自作)、野菜鍋《家-嫁》_07131129(金)-02【2250~2320】寿司(俺自作)、野菜鍋《家-嫁》_08131129(金)-02【2250~2320】寿司(俺自作)、野菜鍋《家-嫁》_09131129(金)-02【2250~2320】寿司(俺自作)、野菜鍋《家-嫁》_05131129(金)-05【2330頃】チョコパイ《家-嫁》_02131129(金)-03【2320頃】ワッフル《家-嫁》_01131129(金)-04【2320頃】ワッフル、兜亀吾用《家-嫁》_02131129(金)-04【2320頃】ワッフル、兜亀吾用《家-嫁》_01

【朝メシ】
柿、牛乳(家-嫁)

【昼メシ】
カレーパン(職場付近-一人)

【夜メシ】
僕自作寿司、野菜鍋、ワッフル、チョコパイ(家-嫁)

【イベント】
仕事、自作寿司

【所感】
自宅での寿司作りも今日で8回目くらいになるか? あまりに頻繁に握っているので回数を忘れてしまった。

別にボケちゃいない。重要なのは寿司の握り方をどう上達させるかという点で、それ以外の要素は空気と見なしていいだろう。回数に気を回すだけ無駄ということ。お前は今まで食ったパンの枚数を覚えているのか?

というわけで今日も寿司を握った。慣れてきたとはいえ驕りは禁物。むしろ今が一番大切な時期だろう。

まずはスタンダードなネタの代表格であるマグロとシャケを握り、ウォームアップを済ませる。手順はほぼ完璧だ。準備運動後は、ネタを変えて珍しく鯛などを4~5貫握った。シャリの握り方や形は同じとはいえ、上に乗せるネタを変えるだけで何となく新しいことをしたという気分になる。

過程は同じでも、出来上がる風景が異なれば気分気分転換になる。だからネタの種類はたまに変えた方がいい。部屋の模様替えに通じる心理と言えた。

ただ、マグロもシャケも鯛も、シャリに比して大きめで、しかも平べったい長方形型のネタだ。握ったシャリに乗せやすく形も崩れにくい。ゆえに失敗は殆どなく、シャリの握りを失敗したとしても、ネタが大きいため見た目には誤魔化せる。いわば初心者用のネタ。ゆえに段階を一つ上げる時期に差し掛かっているとも考えた。

初心者用のネタでどれだけ努力しようと、ステージが同じなのだからそれ以上の成長は望めない。であればステージを変えるしかない。シャリのことは一旦置いといて、握りのネタにおけるステージについてまずは考える。

マグロ、シャケ、鯛のようなイージーなネタでない。つまりシャリを隠して誤魔化してしまうような、平べったくて大きめの一枚ネタではないもの。すなわち中級者向け、ともすれば上級者に足を踏み入れるようなネタを…。

その答えは「甘エビ」だ。マグロやシャケ、鯛やイカなどのスタンダードなネタをクリアし、ホタテのような正方形型のネタも僕は問題なくこなした。少し前には、握りの中でも最難関の一つと言われる玉子も握った。だからこそ、甘エビは最後の関門なのだ。甘エビは通常のエビとは全く次元が違う。何故か? ネタが二つに分かれているからである。

正確に言えば二匹で一セット。一つのシャリに二匹乗せる。何故なら甘エビは細いからだ。幅が狭いと言い換えても良いか。他のネタは基本的に幅が広い。シャリを覆い隠せるほどに。だけど甘エビは幅狭く、細い。それだけで既に難点だ。

しかも他のシャリと違い、甘エビは平べったくない。幅だけでなく高さがあるのだ。他のネタが薄っぺらい紙、あるいは消しゴムであるとするならば、甘エビはボールペンのようなもの。つまり円柱形だ。

紙や消しゴムは、大地に置いたとしても、その大地を噛み締めるようにしっかりと固定し多少の揺れでは動かない。だけどボールペンは丸いから、平面に置いただけでコロコロと転がってしまう。

その状況をさらに分かりやすく明治製菓で例えみよう。他のネタが明治の板チョコだとするならば、甘エビはガルボなのだ。放っておけば見失う。僕もかつて明治の工場バイトでガルボを延々と作り続けたから分かる。ガルボはしっかり監視しておかないと勝手気ままにそこら中に転がっていくのだ。

反抗期の娘を持つ父親のような気苦労。なだめ、おだて、買い与えながら関係をキープしていく手の掛かる愛人のよう。それがガルボであり、甘エビである。甘エビは安定しない。それだけで寿司ネタとしては高度と言える。

さらに一匹一匹が細すぎるため、それで寿司を握ろうとすると、シャリも細くする必要がある。甘エビの幅なんて1センチメートルにも満たない。いくら技術が熟達したからと言って、1センチメートルのシャリを握れるか? 握れたとしても、そんなシャリが美味いか? 寿司としての体を為しているか? 答えはノーだ。

ではどうすれば良いか。まずシャリは、他のネタと同じくらいの大きさで統一する。しかし
甘エビは、一匹では細すぎて安定しない。それを寿司っぽく見せるためには何をしたら良いのか。先述した「一つの寿司に二匹の甘エビを使う」という回答に辿り付くのである。

細い甘エビを、まるで仲睦まじく寄り添う夫婦のようにピッタリとくっ付けて並べる。そうすれば、他のネタと似たような横幅を得ることが可能だ。かつ、二匹並べればコロコロと転がることなくある程度ネタも固定する。どの寿司屋でもやっている唯一の甘エビ攻略法と言えよう。僕はその攻略法の下、甘エビの握りに初挑戦したわけである。

だけどこの甘エビの握りは思った以上に難しかった。

たとえばシャリを最初に形作ってしまい、そのシャリを皿に置いた上に甘エビを一匹一匹慎重に乗せていくという手法ならば。造作もなく甘エビの握りは完成するだろう。だけどそれは寿司とは言えない。寿司は、皿の上ではなく手の平の上で作るものだからだ。

手の平と指を使いシャリの形を軽く整えた後、そのシャリの上にネタをしっかりと乗せた状態でギュッギュッと握りの動作を加えねばならない。ネタをシャリにくっ付けた、いわば寿司の形にした状態で握ってこそ寿司と言えるのだ。

そういう意味で、甘エビはレベルが高い。何しろ二匹の細いエビをバラバラにならないよう支えながら握らなければならないのだから。

それでも一応、形を作ることは出来た。見栄えもまあまあと言える。他のネタに比べて遥かに困難だったからか、完成した甘エビの握りを皿に乗せた時にはえもいわれぬ達成感が漂った。

そして確信した。僕は確実にレベルが上がったと。挑戦する寿司の種類もそうだし、僕自身の握りのレベルも間違いなくアップしていると。

その握りレベルについて、今回もう一つ挑戦した試みがある。握り方を従来から少し変えてみたのだ。

僕は、新潟実家の義父から握り方を教わり、既に習得している。ワサビを塗った寿司ネタを何枚も並べ、シャリの形を手の平の上で整えてから、ネタを載せて最後にギュッと1~2回握り込むという方法だ。大量生産に適している。

だけど義父は、その握り方について「大人数向けの握り方」であるとしながらも、「寿司屋の握り方とは違う」と明言していた。その念押しは、「覚えようと思えば寿司屋の握り方も覚えられる」という示唆の裏返しだ。僕は義父の言葉がずっと気になってはいた。

ただ、完全な初心者である僕が考えることでもない。ともかく、まずは教えられたことをキッチリ出来るようになるまで何も言わず練習しようと考えた。その結果、義父が言うところの「大量生産向けの握り方」はキッチリ習得した。

すると心に余裕が出来る。自然と、外に目が向くようになる。義父が言った言葉。基本を覚えると応用したくなるもの。練習を積んだら試合に出たくなるもの。一つの道を網羅すれば別の道も模索したくなるのが人間だ。義父が教えてくれなかった「寿司屋の握り方」を今こそ紐解く時ではないか。僕はもう一つの道を模索する決心をした。

そういうわけで僕は今日、大量生産握りの他にも別の握り方を実施する。つまり寿司屋がやっているような手順だ。ネットで多少調べながら、今日の寿司の半分くらいは新しい握り方でチャレンジした。

やり方を簡単に説明するのなら、ネタをまず手に乗せ、その上に適量のシャリを乗せて両者をセットで握るというイメージか。

大量のネタを最初からスタンバらせておくという義父のやり方が、まさしく流れ作業的に作っていく手法だとすれば、寿司屋の手順はネタとシャリをほぼ同時に処理していく握り方。一個完成すれば、そこで流れは一旦断ち切れ、再びネタとシャリというセットをピックアップし新たな一個を完成させるという、まさしく昔ながらの職人風メソッドだ。

コンセプトも違えば手順も違う。左手と右手の使い方もかなり異なる。全く以って寿司握りは面白い。

今回試してみた新しい握り方には、より完成度高くテンポよく作るため「小手返し」などの技術もあるらしい。しかし今の僕にはまだ無理。そういうのは置いといて、今回はとりあえず傍から見て寿司屋っぽい流れになるよう練習した。

結果は、まあそこそこの出来栄えというところか。ネタを左手に乗せつつ、右手でシャリを取り、右手で多少シャリの形を整えてから、左手のネタの上にそのシャリを置き、ネタとシャリを一緒くたにギュッギュッギュッと三回ほど握る。そこからネタが上に来るように寿司を裏返し、最後にもう一回キュッと締め上げるように圧力を加える…。

そんな感じの作業なのだが、かなりぎこちなかった。見た目はそれらしいが、そこに至るまでの流れが悪すぎる。これは一朝一夕には習得できないかもしれない。もっと研究する必要がある。

軍艦巻きについては、握りはもはや訂正の余地がないほど淀みがない。あとは上に乗せるネタを変えてバリエーションを楽しむだけだ。納豆やイカの細切りなどを詰め合わせつつ、今回はウニにも挑戦。軍艦巻きの顔と言えば、イクラと、そしてウニだよね。もはや僕は軍艦を完全に制覇してしまった。

あとは軍艦巻き以外の海苔巻き、すなわち手巻きや巻き簾を使った太巻きや細巻きなどに少しずつ挑戦していきたいところだ。技はいくら持っていても手に余るということはないからな。ダンク、レイアップ、ジャンプシュート、3ポイント…。技のバリエーションが多ければ多いほど、まな板という名のコート上で自由自在に絵が描ける。

そんな寿司握りの木曜日。それとは別に野菜鍋を作ってもらったのだが、今の僕は寿司以外に見えないから、寿司のことしか語らない。馬車馬のごとく握るのみである。

それにしても、初めて寿司を握らせてもらってから、まだ2週間ほどしか経っていない。長い年月を掛けて少しずつ習得していくのではなく、生き急ぐように急ピッチで寿司を握り続けている。朦朧とする日々の中、その時間だけが生の実感を得られる瞬間だと言わんばかりに。数少ないリアルを手放さないと言いたげなアクティブさで。

それは諸刃の剣だ。覚えたては誰もが楽しい。熱中も傾倒もするだろう。しかし大概は一時的な盛り上がりで次第にトーンダウンしていく。いずれ朽ちる。遠からずして飽きが来る。

そこで投げ出せば終了だ。時が経てば、最初から何も無かったかのように忘れ去る。あの時間は何だったのか、本当にあったことだったのか、と。

つまり、選手生命終わりだ。

あの子はわずか数週間で異様なほど急速に力を付けてきた。
色んなものを身に付けてきた。
治療やリハビリにもし時間がかかるなら、
プレイから長い間離れてしまったら、
それが失われていくのもまた早い。
この数週間がまるで夢だったかのように…。

という末路を防ぐためにも忘れない頻度で寿司握りを続けたいと思ってはいるが、こればかりは時に身を任せるしかない。いくら頭で考えていても、ダメなものはダメだからだ。

やろう、やりたい、やらなければならないと念じていても、身体が反応しない場合。覚悟が足りないからだ、怠け癖が付いているからだ、理由は様々考えられる。けれど本当のところは、それが本人にとって元々不要だったから。本当に必要なものであれば、耐えがたく捨てがたいものであれば、それを手放すことに対して身体が拒絶する。勝手に身体は動くだろう。身体が動かないということは、最初から自分にとって必要ではなかったということだ。

結果が出てからの後付け論法、運命論めいた話だけど、意外と真実を突いているように思える。言葉じゃなくて、行動として。理屈じゃなくて、本能として。自分に必要なもの、不必要なもの。必要な人、不必要な人。口だけの虚勢、本当の気持ち。見極めるためにも時間を置かなければならないのである。

その人間特有の「熱しやすく冷めやすい」という業を潜り抜けたものだけが、その人にとって
本当のリアルとなる。

自分の意思で自らのリアルとして取り込むか、気付けば結果的にリアルになっていたのか。その道筋には二種類あるけれど、恐らく後者が大半だろうと個人的に推測する。有り体に言えば、好きでもないものを続けられるわけがないということ。先に述べた通りだ。

仮に好きでなくとも、そこに自分の時間を犠牲にしてよい正当な理由や、労苦を伴っても良いと自らを納得させられる価値を見出したものでなければ100%続かない。興味本位や一時の熱狂だけで自分の血肉に出来るほど甘いものではないし、そもそも人間は自らの意思や継続力を自由自在に操れない。

いずれにせよ、リアルにするためには継続が必要である。最初の興奮を抜けた後の着々とした繰り返しが…。

今日の寿司作りには、その技術を我が物にするために必要なエッセンスが詰まっている。飽きを防ぐためにネタを変え、難度の高いネタを用意し、新しい握り方に挑戦し、自ら負荷を掛けていく。

その負荷、すなわち壁は、途方もなく高いものだと乗り越えようとする前にへこたれる。多少頑張れば乗り越えられそうな、背伸びすれば向こう側が見えるような負荷がベターということだ。

そして、新潟握りと寿司屋握りの両者ともクリア出来た暁には、本物の寿司屋に挑戦だ。寿司職人にならないまでも、実際に寿司屋へ趣き職人達の握り方を目で見て盗む。そうすればまた自分にとっての壁が一つ出来上がる。その壁を設定するための寿司屋遠征なのだ。

寿司屋にはあいつくれーのはゴロゴロいる。それがいいんだ。

チャレンジこそ奴の人生なんです。

20131128(木) 視野の広さとマック店内の差異と肉まんのデカさとは関連性があるか

131128(木)-01【0850~0910】マックコーヒー(梅島マック)《梅島-一人》_01131128(木)-02【2300~2320】秋葉原マック《秋葉原-一人》_01131128(木)-03【0000頃】肉まん《家-嫁》_01

【朝メシ】
柿、牛乳(家-嫁)
マックコーヒー(梅島-一人)

【昼メシ】
カレーパン(職場付近-一人)

【夜メシ】
マック(秋葉原-一人)
肉まん・嫁土産(家-嫁)

【イベント】
仕事、秋葉原

【所感】
「視野の広さ」という言い回しがある。

通俗的には、周りがよく見えている人を「視野が広い」と言い、逆に周りがあまり見えていない人のことを「視野が狭い」と言う。

物理的な視野もそうだが、アイデアを出したり何かの判断をする際、一つのことに捉われず多角的に切り込み展開出来る人、かつ多方面に散らばる多様な価値観を柔軟に取り入れられる人のことを「広い視野を持つ人だ」などと評価したりもする。

発想の柔軟性、フットワークの軽さ、かつ持久力、それによる問題解決力の高さなど、様々な基準を常に満たす。それにより多様な論理を展開し、見合ったシミュレーションが出来、しかも即座に実行に移せる。つまり閃きに優れ、情報の取り込み方および活用に仕方がずば抜けている人のことを指す。言い換えれば「器の広さ」だ。

逆に、一つの情報に固執しがちで他の多様な考え方が出来ない人、自分の思うことが第一であり正確だという意識で物事を考えている人は「視野が狭い」と評される。無意識にそうなってしまうため、本人は視野が狭くなっていることになかなか気付かない。

ただ、分かっていながら敢えて一つのことに拘る人間や、不利を承知で意地を張る人間は「視野が狭い」という言葉が適切かどうか分からない。意地と頑固は似て非なるものなのでね。

また、何でも取り入れることが「器の広さ」とも限らない。取り入れても失敗ばかりではただのバカだ。取り入れつつ、正しいものを見極め、間違ったものを排除するという取捨選択能力が必須なのだ。

それでも現象的な見地からすれば、「拘り過ぎず柔軟に言動できる」ことを「視野が広い」と言い換えるのが適当だろう。最も端的に表すなら「臨機応変」だ。常に多様な価値観を多方面から拾い上げておき、その都度その都度の状況に見合った価値観を正確に使役出来る人。全く違う発想で頭を働かせられる人、などだ。

分かり易い例えを上げるなら、飲料水を扱っている企業・A社で販売会議が開かれたとしよう。飲料水と言っても、ペットボトルのミネラルウォーターだけで戦っている企業だ。そのA社の売上げが頭打ちとなってしまったため打開策を考えるという議題だ。

国内のスーパーやコンビニ、自販機などはあらかた網羅し、売り込むマーケットが見当たらない。シェアも競合他社ひしめくミネラルウォーター市場の中で50%を確保している。その上で、今後も永続的に増収増益を目指したい。さてどうするか。

「マーケットが飽和しているのでもう無理でしょう」という発言は論外。新たなマーケットを作るのが仕事なのだ。肝心なのは、その新規マーケットをどこに求めるかという部分。

真っ先に考えるのが、既存のマーケットにおけるシェア拡大。つまりA社が50%のシェアを占めているとはいえ、残り50%はB社・C社・D社など多数の競合他社が保持しているのが現実。だったらB社・C社・D社のシェアを奪ってしまえばいい。B社達が抱えている顧客を横取りすればいいという考えだ。

50%のシェアを60%にし、70%、80%と伸ばしていく。そうすれば自ずと売上げは伸びる。本当に永続的に勝ちたい、生き残りたいのであれば、敵を滅ぼすくらいの意思で事を進めなければならない。そんな攻撃的な戦略だ。

とはいえ、シェア100%はまずい。もはややりすぎである。マーケットの独占は理想形ではあるが、ライバルが居ないということは、自社だけで全てを決定できてしまうということで、言い換えれば、いくらでも値段を高く出来るということ。それ以外に買う選択肢がないのだから。

となれば、お客が不信感を持つのは必然。「あの会社、誰も何も言えないことをいいことに暴利を貪ってんじゃないだろうな?」と訝るだろう。

さらに、ライバルが居ないと商品のクオリティが落ちる。人間の特性として、ライバルが居るからこそ負けないように努力するし、よりよいクオリティを目指すために切磋琢磨するのだ。

だから独占はダメ。敢えて言うなら業界を2社か3社でせしめる寡占がベストだろう。

それを踏まえ、ミネラルウォーターペットボトルという市場で既に50%のシェアを誇るA社が今後伸びていくためには、相手の破滅とはまでは行かないまでも、ライバルであるB・C・D社の顧客を奪い取る必要があろう。ではそのためにどうするか。

まず考えられるのは、販売価格を安くすること。それもライバル社を下回る価格設定だ。A社~C社共に120円で販売しており、D社だけが100円で販売しているとする。ならばA社としては、思い切って100円にすればいい。あるいは90円とか。

そうすれば安いものを求めていた消費者、つまりD社のミネラルウォーターを買っていた客がA社に流れてくるだろう。後日、D社が元々持っていたシェアを10%ほど奪ったという統計が出たとすると、A社は60%のシェアを確保したことになるから、売上げ的には継続的な増加が見込めるということだ。

無論、事はそう単純でもない。販売価格を下げるということは、ペットボトル一本ごとの粗利単価が落ちるということ。つまり利益が落ちる。増収は達成したが、増益どころか減益になったとか、お粗末な話だ。

それに、元々120円で販売していたA社のミネラルウォーターをその値段で納得して買っていたということは、消費者が値段よりもA社の商品力を支持していたということ。つまりA社のブランド価値を認めていたということだ。

それをいきなり90円に下げたりすると、消費者によっては本来持っていた「しっかりしたミネラルウォーターを売るA社」というイメージが崩れてしまい、「安物売りのA社」という見方をするようになるかもしれない。

つまりA社が今まで築き上げてきたブランド価値が落ちる。ブランド価値とは付加価値のことであり、「普通より高く売っていい」許可証であり、「普通より高くしても買ってくれる」保証書だ。グッチやアルマーニだって、皆がそのブランドに価値を認めているから高くても買うのだ。それを自ら捨てる行為ということだ。

ブランドはイメージであり信頼。言い換えれば幻想であり洗脳だが、なればこそどの企業も手に入れたいわけで、それを得るためには相当な努力が必要。A社の場合も、せっかく苦労して築いたブランドなのに、安売りでその価値を貶めてしまっては本末転倒。投げ売りするのは倒産する直前だけでいい。

というわけで、安売りには様々な弊害が付きまとう。A社のブランド力が詰まったミネラルウォーターは、これまで通り120円で売るのが無難だ。じゃあその次はどうするか。

一つ目。安売りが無理なら、安い商品を作ってしまえばいい。つまり商品の種類を増やすという選択。先の90円の値下げ案をアレンジするわけだ。現在のブランド力のある120円のミネラルウォーターを90円に値下げするのでなく、もう一種類ミネラルウォーターを作ってしまう。

無論、120円ミネラルウォーターのブランドイメージを損なわないため、コンセプトを全く別にして生産するのがベター。バリューモデルなどと命名しておけばいいだろう。イオンなど大手スーパーの食料品コーナーで多用されている戦略。既存のメーカー商品よりも格安のプライベートブランドと同じ考えだ。

これなら120円のミネラルウォーターの数量を減らすことなく、新しく作った90円格安ミネラルウォーターで、今まで手を付けていなかった顧客層、すなわちD社が持つマーケットへと切り込める。90円の商品が売れれば売れるほど、売上げも利益も純増するだろう。

無論、商品種類を増やすという戦略は別の選択肢にも転用可能だ。90円の安い商品を新たに作るのではなく、逆に高い商品を作るとか。200円の高級志向ミネラルウォーターを作り、今までにない顧客層を取り込むのも悪くない。

そこに既存の120円商品と、新たにもう一つ格安90円を加え、200円、120円、90円というレンジを狙った三本柱の商品でプロモーションしていくのも可。新規商品を起こすコストや人件費などを試算した上でGOをかけられるならば、それは立派な増収増益戦略であり、それを提案できる者、あるいはその提案を呑める者は「視野が広い」人間の部類になる。

まあ、あくまで分かり易い例ということで。ただ、真に広い視野を持つ者は、既存のマーケットに捉われないだろう。スーパー、コンビニ、自販機など販売店と呼ばれる場所には殆ど入れている。しかし裏を返せばそれ以外は手付かずということだ。

客が店に来店し、カゴに入れて買っていくだけが購入の手段じゃない。通販という強力な手法がある。既に自社サイトを立ち上げているのなら、AMAZONなどの大手通販流通や、その他健康食品を扱うポータルサイトなどに売り込みを掛けていく。消費者の目に留まる可能性を少しでも広げる。

また、店でない場所でも充分に開拓の余地はあるかもしれない。たとえば健康志向や運動に対する関心の高まりを背景に、「健康診断の際、患者に薦めて下さい」という手法で医療系に提案するとか。スポーツジムに置いてもらうとか。介護施設に入れるとか。定番化すれば、新たな市場を開拓したということになるだろう。

新たなマーケットを作るのだからハードルは高いだろうが、やる価値はあるし、そこに価値を見出してこそ視野の広い、器量の広い人間と言える。

ペットボトルだけじゃなく、缶やビン、紙パックなど器れ物のバリエーションを増やす手もあろう。また、日本がダメなら海外という手もある。水道水をマトモに飲めない外国、公害に悩まされる国など、その売り先をワールドワイドに広げていけばいい。

とにかく一つの考えに固執せず、既成概念に捉われず、自由な発想で物事を考える。簡単なようで意外と出来ないんだな。

単純に思い付かないという人間も居るだろう。しかしその第一の原因は、単に情報不足だ。普段から考える癖を付け、何にでも疑問を持ち、アンテナを敏感に張る努力をしていない。それに加え、現状維持で良いと考える。いつかその視野の狭さを自覚する時が来るし、それによって手痛いダメージを喰らうことが出てくるかもしれない。

そうじゃない者も恐らく居る。第二の原因だ。視野は広いが、意識的あるいは無意識にブレーキを掛けてしまっている者。アイデアを出す時、さすがにこれは破天荒過ぎるかと自制してしまう場合もある。あるいは、発言してみたものの、上司などから「お前は子供か、もっと現実的に考えろ」などと抑え込まれる内に、「また怒られるのではないか」という恐怖心から小さくまとまった意見しか述べず、大それたアイデアを胸の内に秘めたままにしてしまう者。

その場合は聞く耳も持たない上司の器量が、すなわち視野が狭いということになる。企業でも何でも、組織においては必ずしも上司が正しく部下が間違っているなどということはない。年齢も序列も本当は関係ないのだ。上司は「自分の方が経験豊かで情報量も圧倒的に多いから、自分の方が柔軟で多角的に物事を考え判断できる」と思い込みがち。そう考える時点で視野が狭くなっていることに気付かない。

「視野の広さ」という言い回しについて触れただけでも、様々な考察がある。まあポイントとしては、情報量の多さよりも情報の取得先すなわちソースの多様さ。そして多角的・多面的な思考。思考をシミュレーションし、その結果を数字や結果として落とし込める想像力と分析力。決めた方向に動けるフットワークの軽さ。そういった素養が必要になるように思われた。

ただ、そういった頭脳や知性の面から見た視野の広さではない、物理的な視野の広さも現実社会や日々の生活には見られるだろう。

たとえばバスケやサッカーなどのスポーツにおいては、パスを出すため味方がどの位置に居るか四方に目を配らせながらプレイしなければならない。視野が広ければ広いほど、コートやフィールド上の人間の動きがより多く把握できる。結果、空いてる味方にパスを出しやすいし、パスを受け取りやすい場所に移動出来るし、敵からのマークも外しやすい。

視野が広いといいこと尽くめであり、それゆえ視野の広さはプレイヤーの能力や評価そして出す結果にも直結する。

また、スポーツでなくとも大人数が居る場所などでも視野の広さがモノをいう場面も多い。

たとえば居酒屋で合コンをしている時など、寂しげに俯いたり所在なさげに酒を飲んでいる面子とか、話に入れず居心地悪そうにしている相手、酒を飲み尽くして追加オーダーどうしようなどと悩んでいる面子など。そういう相手の雰囲気をいち早く察知し、そういう挙動に即座に気付きフォロー出来る人間は、視野が広いと言うべきではなかろうか。

合コンの主役は、自分が中心になって話を面白おかしく盛り上げる人間ではない。そういう人間に限って、自分の話に夢中になって周りが見えなくなることもある。狙った女の子にしか目が行かず、テーブル全体への配慮が欠けることもあろう。ここで必要なのは、気配りという意味での視野の広さだ。

また学校や職場などでも、どの生徒が、どの従業員がどんな動きをしているか居ながらして把握できる視野の広さを持てば、伝達や仕事もよりスムーズに運ぶし余計なトラブルも未然に回避できるだろう。

その発展形として、交通量の多い場所で歩道を歩いているというシチュエーションはどうだろう。連れ歩く相手とお喋りしている時、前方のトラックが50メートルほど先でジグザグ運転をし始めたとする。視野の広い人間は、その時点で「何かあったな」危険を感じ、こちらに突っ込んでくる可能性を想定して即座に物陰に逃げ込むだろう。

逆に話に夢中で周囲を気にしない歩行者は、トラックの異常運転に気付かないまま前方10メートルにまで迫った瞬間に初めて今そこにある危機に気付いたはいいが時既に遅し、という結末を迎えてしまう。

どんな状況であれ、前後左右、さらには上下にまで注意を払う人間が、視野が広いと言われる。気付き見地から見た視野の広さである。

似たような案件で、電車のホームで最前列に並んでいる際、後ろから唐突に押されて電車に引かれてしまうという想像をしたことはないだろうか?

昨今のニュースが示すとおり、誰もが正常な神経の持ち主だという保証はない。故意に、あるいは遊び半分で、電車がホームに入る瞬間を狙って見知らぬ誰かから背中を押される可能性だってあるのだ。

それを避けるには、常に後ろに注意を払う必要がある。チラチラ見るのではなく、背後の人間が放つ気配や空気の動きを感じ取るため意識の一部を後方に向けておくのだ。意識分散という意味合いでの視野の広さである。

同じように、大勢が歩行する街中で、近くを歩いていた男がいきなり刃物を取り出し切り付けてくる可能性はゼロではない。都会では特に、いや田舎であろうとイカれた輩は一定の比率で潜んでいる。

そういうアクシデントを常に想定しながら歩くのと、「自分は安全、自分だけは巻き込まれない」という根拠のない安心感で街中を歩くのとでは、いざアクシデントに遭遇した際の驚きの大きさが、そしてその直後の身体の動きや対応の仕方がまるで違ってくる。

僕は、それこそ学生の頃から「もし知らない人間に突然ナイフで切りつけられたらどうするか」というシミュレーションを繰り返してきた。かつて親しい人にも「オレは命が惜しい人間なので、そういうシチュエーションを常にしている」と主張し、相手に対しても「もしナイフでいきなり刺されたらどうすんだよ?」と質問を投げ掛けたことがある。

その時は、「そこまで考えながら生きるなんて面倒臭いし疲れちゃう」と返答しつつ、「その時は諦めて死ぬしかない」と投げやりな答えを返してきていたが、そうじゃない。そうやって不慮の事故や事件に巻き込まれて死ぬことによって、その死んでしまった人を大切に思っていた人間がどれだけ悲しむか、だから無駄で無意味な死はなるべく避けるようにしなければならないんじゃないかと、その点に思いを馳せて欲しかったのだが、どうやら届かなかったようだ。

そういうことを頻繁に想定しながら生きている僕を「ただの苦労症」「無駄に神経をすり減らすだけ」と評したが、果たしてそうだろうか。今の平和で生ぬるい世界が血で血を洗う世紀末世界に暗転しないなどと、どうして言い切れる。永遠に法治国家として統制の取れた社会が継続するなど誰も保証していない。

だからこそ、今現在目に見えている世界とは全く別の、いや裏の世界のことにもたまには想像を巡らすべきではないか。いざとなった時、為す術もなくいきなり殺されるのは誰だって嫌だろう。

僕が言いたいのは多分、そういうことなんだ。それを「無駄な妄想」と片付けられるのは心外だ。

という長々とした持論なのか愚痴なのか分からない話は置いといて。この日は物理的な視野の広さについて少し考えることがあったので、そっちに触れてみる。もはや恒例となった朝マックでのコーヒータイムでのことだ。

同じ時間帯に顔を出しているからか、客席には常連客の姿がちらほら見える。ただ、ちらほらと言っても2~3人がせいぜい。実質的には「お、またあの人居るぜ」と自分に確信が持てる対象は2人しか居ない。

他の30~40人にも及ぶ客は皆、見知らぬ顔だ。2~3回ペースで7~8ヶ月間通っているにも関わらず、殆どの客達の顔を未だに知らないわけである。

大半の客は、基本的には思いついた時に訪れる不定期客、気ままな人々だろう。僕のように毎回決まった時間帯に顔を出す暇人は少ないかもしれない。とは言え、僕が気付かないだけで、実際はそれこそ毎日マックに通い詰める剛の者もっと居るはず。

その点が問題なのである。つまり、本来は相当数居るはずの常連客に僕が気付いていないだけではないか、と。それは他でもない僕の視野が狭くなっているのではないのか、と。

その事実に思い至った時、僕はハッとした。間違いない、視野が狭くなったのだと。周りが見えていないのだと。いつの間にかまた内に篭っている、と。僕は、外面的には家の外に出て沢山の人々や喧騒の中に身を置いてはいるが、本質的には自分の殻に閉じ篭っていたのだ。

思えば、僕が意識を向けているのは喫煙ルーム6席に座る客と、そのガラス窓から見える端っこの3席。および喫煙ルーム入り口付近の6席のみ。それ以外の禁煙席約10席と、奥まった場所にある2席、そして窓際の10人ほど座れるであろうカウンター席にはまるで目が届いていない。

つまり全体の5分の2程度の店内状況しか把握していないということであり、逆に言えば店内の5分の3の席に座る客達のステータスなどまるで見えていない。

それ以前に、目の届かない席に誰かが座っていることにすら気付いていないかもしれない。完全に意識の外、視覚の外、つまり死角なのだ。

バスケに例えるなら、試合に初めて出場した緊張で目の前の一点以外は何も見えない何も聴こえない桜木花道のような状態か。仙道は最低180度の視野角、いや後ろにも目が付いていると言わんばかりのパスを出しながらプレイしているというのに、えらい差である。

広い視野角を持たなければコートを支配するのは出来ない。同じように、広い視野を持たなければマックという店内を支配できない。

しかも、視野の届く客達に対する確認作業すら雑だ。「客が座ってるな」という存在確認をするだけで、それがどんな人間か、どんな顔をしているかというポイントまで至らない。本当の意味で見ようとしていない。

本来ならば、「誰か知ってるヤツは居ないかな♪」と、まるで仲の良い友達や片思いの同級生との偶然の邂逅を心躍らせながら探す学生のようなポジティブさとワクワク感で周囲の席の人間を舐め回すように確認すべきなのだ。チラ見程度で相手の人と為りがが分かるはずがない。

僕が座る定位置は、満席でない限り喫煙ルームの一角。だけど、文字通りマックという広い店内の中のほんの一角でしかないことを心に留めねばなるまい。

喫煙ルームもあれば禁煙ルームもある。しかも禁煙ルームの方が4~5倍広いのだ。本来、禁煙ルームの方が店内の主役である。つまり僕は、周りのことが見えてない。木を見て森を見ていない。

まったくもって恐ろしいこと。僕は今年初め、視野を目一杯広げたいなどと豪語しておきながら、視野を広めるどころか逆に思い切り視野を狭めていたということになる。

そうなると本来見えるべきものも見えないし、すぐ傍で起こっている出来事にすら気付かなくなってくる。いずれは自分のやっていることにすら意識が向かわなくなるかもしれない。ただの肉塊の誕生だ。

これはヤバイ。もっと一人一人に興味を持って、いや人間という生き物への興味を取り戻しつつ、何より自分に対する分析を客観的にこなせるようにならなければ、視野の広さは到底戻り戻せないだろう。

という感じで、朝マックで危機感を感じた木曜日の一シーンである。

日中はアキバで行動していた。お客さんのところにお邪魔しつつ、時間が余ったので喫茶店ルノアールで考え事をしたり、ホント気楽な商売だ。

何が気楽って、一人で行動できるところ。お客さんに対し好き勝手なことを言えるし、その言動を窘められることもないし、時間が余ればやりたい放題。遊ぶことだって可能だ。実際、一人行動の際、空いた時間で買い物、食事、漫喫、ヒトカラ、パチンコ、あらゆることをやってきた。ゴルフの打ちっぱなしをしたことすらあったな。

こういうのを典型的なサボリーマンと呼ぶわけだが、結果さえ出せば後は自由にしていいという弁解もあるし、それは日々虐げられ頭を下げ続けている哀れな従業員に与えられた職制上の役得だという意見もある。僕もその弁解・役得の意見に賛成だ。

いいんだよ、そういう仕事なんだから。ハッキリ言って、事務所に居ようが居まいが、結果など出さず口だけ出してとことんまでサボっているヤツだって腐るほど居るぜ。そういう輩に比べればよほどマシというか、むしろ定められたこと以外のことをするという行動は経験値と柔軟性を与えてくれるからお勧めだ。

世の中の仕事はキッチリ型に嵌ったものばかりじゃない。あらゆる箇所に手を抜く、もとい新しい発見が眠っているものなのだと。

あと一人行動の効能としては、嫌いな空間や人間から一時的にでも距離を置けることだ。好意を持てる相手の同行なら一向に構わないのだが、不運なことに殆どが嫌いな人間。一緒に行動するだけでストレスが溜まる。少なくとも今の職場内では同行の類はなるべく避けたい。

その休憩中のルノアール店内にて。隣の席で、見かけ60代の爺さんと、メガネを掛けた兄ちゃんという二人組がコーヒーを飲みながら会話していた。

爺さんは私服姿。仮にスーツを着ても似合わないだろう。公園で缶ビールを持ちながらダラダラ飲んだくれる姿がサマになりそうな爺さんだ。メガネ兄ちゃんも私服だが、喋り方や内容から、ITベンチャーの従業員だと思われる。

その組み合わせ自体、何か不自然というか相応しくないとも思ったが、それ以上に不自然だったのは、メガネ兄ちゃんはもちろんのこと、爺さんの方も敬語で喋っていたということ。取引先同士なら分かるが、何かそういう感じでもなかった。互いに共通するビジネス話など一つも出てこなったからな。

だとすればリアルじゃない。ネット友人だろうか。それともアムウェイやニュースキンなどのいかがわしいビジネスのパートナーか。

有り得ないことではない。逆に言えば、今の時代は何でもアリだ。そして、その無限の可能性に照らし合わせれば、老人と若者という組み合わせも珍しくないだろう。婆さんとビジネスマン、女子中学生とヤクザのようなオッサン、OLと脂ぎったリーマンオヤジ等、まず通常では有り得ないと思える組み合わせが日常的にありふれるのが現代社会というものだから。

で、二人の会話の内容を平たく言えば、兄ちゃんは社内であるプロジェクトを提案し、自分が中心になってそのプロジェクトを進めた結果、大きな成功を得た。それによって重要なポストを得て、報酬もそれなりに貰えた。オレは一般企業ではなく動き易いベンチャー企業に敢えて身を置き、リスクを負いながらチャレンジして成功したイマドキのデキる若者ですよ、と。

それに対し爺さんは、凄いねと褒めてはいるんだけど、内心では面白くない。「こんな小僧が偉そうに世の中を語ってやがる」というオーラが会話の中の端々に滲み出ていた。コツコツ積み上げたんじゃない。しょせん一発屋だろう。その一事だけで世間や人生や人間を知った風に語られるのは癪に障る。お前ごとき若造よりもワシの方が圧倒的に色んな経験をしているんだ、と。

メガネ兄ちゃんの自慢話に区切りが付いてから、爺さんの逆襲が始まる。爺さんは兄ちゃんに問いかける。そういった常にリスクと隣り合わせの仕事を選んで後悔はないですか? 不満はないですか?と。兄ちゃんは少し面倒臭そうな顔をしながら「無いです」と答えた。

それを受けて爺さんが溜息をつく。「時代は変わったなあ」と。予想通りというか、そこからは爺さんの独壇場で、「昔はこうだった」「オレの時代はこうだった」という回顧話が止まらない。ジジィが昔語りを始めたらもう収拾は付かないと見ていいだろう。爺さんは話す内にどんどん過去へと還っていく。曰く…、

私が若い頃はもっと色んなことがあって、色んなことを経験したものですよ。高度成長期がどうとか、松下幸之助は自分等にとっては神様みたいなもので、その神様曰く、こんな格言があるんですよ、とか。あるパーティでどこかの大企業の副社長と話をする機会があって、とか。さらには外国にも飛び火して、アメリカの車は当時の人間の憧れでありステータスだったんですよ、それを追い求めるバイタリティは今の人にはないでしょうね、みたいな。

結局、オレはこういう偉い人に会ったことがある、その偉い人はこうい言っていた。あるいはオレは多くの場所や世界に足を運んだ、今の若い人のように一箇所に閉じ篭らず常に世界を見ていた、みたいな感じの、やはりそれはそれで自慢話に終始していた。

兄ちゃんは、爺さんの話に頷いてはいるものの、途中から明らかにうんざりしているのが分かる。もはや話も聞いちゃいまい。それなのに爺さんの昔話は止まらない。何というか、話しまくるのは良いが、相手が聞いているかどうかを確認しながら話題を変えていくべきだと思うんだよな。

だって会話として成立してないし、何より詰まらないもの。自分のことだけに凝り固まらず、そういう空気を察知出来るのも、冒頭に述べた「視野の広さ」の一つなのかもしれないな。

そういった空気や場の流れは、傍から見ると良く分かる。だけど当人はなかなか気付かない。客観視というスキルがどれだけ大切で、どれだけ困難なものか、このワンシーンだけでも充分に窺い知れるところだろう。

アキバから会社に戻り、しばらくPCで仕事をする僕。嫁は友人等と飲みということで、自由の身である僕は、退社後再びアキバへ繰り出す。とりあえずヨドバシのPCコーナーでノートパソコンを見たり。

やはりノーパソでは東芝ダイナブックが秀逸だな。今やPC関連への興味は皆無に近いけど、それでもテクノロジーの進歩を目の当たりにすると少し心が高揚するし、目の当たりにする時間や場所を持つのは悪いことでないと思える。

何となく興奮した僕は店員を捕まえ、17インチ液晶のデカさについて話したり、ノーパソはキータッチの感触こそが重要だなどという持論を店員に押し付けたりしてしばし遊んでいた。店員からすれば迷惑な客だ。

そして僕自身の興奮も一時的なもの。最新のテクノロジーに触れ、いかにも世間に付いて行ってますというフリをしてみたものの、本心では全然楽しくない。PCコーナーを去った瞬間、一気に虚しくなってきた。

その虚しさを少しでも誤魔化そうと、昭和通り沿いのマックに入店しハンバーガーを食った。朝から数えて二度目のマックである。朝の不手際もあることだし、ここは一つ視野を広げて店全体の様子を観察することにするか。

先ほどのヨドバシでもらったダイナブックのカタログを見るフリをしてビジネスマンらしさを醸し出しつつ、店内をぐるりと見渡したのだが…。

僕の地元と全然雰囲気が違うな。ヤンキー臭がしないというか。かと言って、若者の多き繁華街独特のオシャレな空気という雰囲気ともまた少し違うような。マックには付き物の若い女の子とか、学生カップル風なども確かに居るのに、何故だろう。

それは、客達がテーブルに広げている本やアイテム、あるいは会話の内容が異質だからである。つまり、イマドキの若者風な格好をしているが、その内実はオタと婦女子率が他のマックに比べ極端に高い空間だったからである。

少なくとも、マック店内で少女漫画を広げているメガネの姉ちゃんを見たのは、この昭和通りのマックが初めてだ。さすがアキバというべきか。都市再開発でどれだけキレイなビルが並び、多種多様な人種が流れ込んだとしても、他の都市とは扱うものが決定的に違う。どう足掻いてもアキバはアキバにしかなれないのである。

そんなアキバが可笑しくもあるし、だからこそ嫌いでもあり、それでも完全には離れられない自分が居る。思い出が多すぎる。

マックを出た後、北千住の高級海鮮居酒屋「なつ家」に電話した。僕と嫁、そして同じ足立区同盟の友人・公爵およびその妻サーヤ、さらに八王子住みのクーフーリンという面子を加え、この土曜日に飲む約束をしていたからだ。

公爵から店選びを任された僕は「なつ家」に行きたいと思った。僕と公爵以外は初体験のため、是非とも「なつ家」の極上料理を体験して欲しかったからだ。

というわけで、他の店もいくつか連絡したが、結局僕は信頼と安定の「なつ家」に決定。外せない飲み会の時、見栄を張りたい飲み会の時は、新しい店に挑戦するのではなく、何回も行った既存の店を選んだ方がいい。

参加する面子が好きな相手ならなおさらだ。いい思いをしてもらいたいから。逆に言えば、店を外して嫌な思い出を残して欲しくないから。それは視野の狭さとは多分違うだろう。愛情。そう、愛情の為せる業である。愛の前では視野の広さなど後回しなのである。

帰宅すると、飲み会から帰った嫁が爆睡していた。もう深夜を過ぎているし、無理はない。しかし、僕の帰りを認めたのか突然ムクリと起き出して、カバンをゴソゴソまさぐり始めたと思ったら、デカい肉まんを取り出した。お土産らしい。何でもいいが、こいつぁ、デカいぜ。

肉まんは、何もコンビニで売っているような大きさがスタンダードというわけでもない。横浜中華街にでも行けば、カボチャのようなドッシリとした巨大肉まんを食えるし、そこまで行かなくても今日のような機会があればその姿に対面できる。

このスケールの違う肉まんは、まさに視野を広くするための材料であり、その材料を得続けるためには生きていなければならない。

そう、何事も生きていてこそ…。

僕は生きるため、その居様にデカい肉まんを口に放り込んだ。

20131127(水) 和食ダイニング響のデキるヤツと、後ろの席のデキてる二人と、やってしまった俺との対比

131127(水)-01【0730頃】柿、牛乳《家-嫁》_01 131127(水)-02【2100~2220】ダイニング「響 」《秋葉原-友人1名》_01 131127(水)-02【2100~2220】ダイニング「響 」《秋葉原-友人1名》_03 131127(水)-02【2100~2220】ダイニング「響 」《秋葉原-友人1名》_05 131127(水)-02【2100~2220】ダイニング「響 」《秋葉原-友人1名》_06 131127(水)-02【2100~2220】ダイニング「響 」《秋葉原-友人1名》_07 131127(水)-02【2100~2220】ダイニング「響 」《秋葉原-友人1名》_08 131127(水)-02【2100~2220】ダイニング「響 」《秋葉原-友人1名》_09 131127(水)-02【2100~2220】ダイニング「響 」《秋葉原-友人1名》_10 131127(水)-02【2100~2220】ダイニング「響 」《秋葉原-友人1名》_11 131127(水)-03【2225~2250】つけ麺屋「やすべえ」《秋葉原-一人》_01 131127(水)-04【2330頃】アイス《家-嫁》_01

【朝メシ】
柿、牛乳(家-嫁)

【昼メシ】
カレーパン(職場付近-一人)

【夜メシ】
和食ダイニングバー「響 アキバTOLIM」(秋葉原-友人1名)
つけ麺屋「やすべえ」(秋葉原-一人)
アイスクリーム(家-嫁)

【イベント】
仕事、秋葉原

【所感】
長年生きていれば、取り返しの付かないことをしてしまうこともある。一生消えない後悔も、癒えない傷もある。大切なのはその後のフォローやリカバーのための努力なのだが、それすら届かない時はどうすれば良いか。

逃げるという手もなくはない。逃げた先に何かあるのかという話になるが。

傷が呪いにまで昇華した時、何かが心の中で弾け飛ぶ。自分が迂闊だったから呪われたのか、呪われていたから迂闊さに気付かなかったのか。果たしてどちらが先だろうな。

商品を売る販売店、そこに商品を卸す卸売業者、その卸売業者に製品を供給するメーカー。およそ販売する者は、顧客という存在があって初めて成り立つ。ただし顧客が一社だけでは経営が立ち行かない。複数の顧客を抱えているのが現実であり常識だ。

一社への売上依存度が高まれば高まるほど、その一社が破綻した時に自ら受けるダメージも大きい。リスク分散のために販路の拡大は避けて通れないし、避けてもいけない。

一蓮托生で共に滅びても本望と言い切って良いのは身も心も捧げた主従関係か、愛し合った男女だけだ。義と愛だけが、世の中の理を超越する。

ビジネスではそうも言っていられない。数十社、数百社の顧客と並行的に付き合ってこそマトモな組織と言えよう。

朝、僕の顧客の一社から携帯に電話が掛かってきた。何事かと受け取ったところ、お客は今までにない剣幕で怒鳴っている。理由を聞けば、僕がそのお客に送ったメールのCCに、ライバル会社の宛先を入れていたとのこと。「え?」と一瞬僕の時が止まった。

しかもメールの添付ファイルはかなり社外秘に入る部類で、到底送ってはいけないもの。ライバル会社に情報が筒抜けになるだろうが。と一言で済むファイルでもなく、深刻度は計り知れない類のデータだ。どうか間違いであってくれ。そう願いながらメーラーを開いて送信フォルダをチェックした。

しかし、僕の僅かな希望をあざ笑うかのように、お客の指摘通り、別会社のアドレスが思い切りCCされていた。弁解の余地もない。あまりの衝撃にシーシーを漏らしそうになったほどだ。瞬間、思った。あ、終わったな、と。この現実は100パーセント覆せないな、と。

この時の心境を例えるなら、そうだな。「ヘイユー、カモン!」と屈強なアメリカ兵にいきなり連行され、ヘリコプターに押し込まれた後、上空1万メートルの高度まで上昇したヘリコプターから「ヘイユー、ダイブ!」と窓の外に無理矢理突き落とされた時の思考停止状態というか。

あるいは、「うーん、よく寝た」と目を覚まして周りを見ると、なぜかライオンの群れが布団を取り囲んでいた時の非現実感というか。

虎穴に入らずんば虎子を得ず、という諺がある。リスクを冒さねば大きなリターンは得られないという意味だ。だけど世の中には、入っても生還可能な虎の穴と、足を踏み入れれば白骨必至な虎の穴の二種類が存在する。僕が今回踏んだのは、踏んではいけない虎の尾Dった。入ってはいけない穴だった。

だけど、それで地蔵のように固まっているわけにもいかないので、とりあえずはお客に平謝りする。許してもらえるはずもないと分かりつつ、徹頭徹尾謝罪した。「アンタはオレに恨みでもあんのか?」「産業スパイか?」などとも言われたが、反論もしないし仕方ない。ここまで頭を下げたのは人生で初めてかもしれない。

最終的には、お客に対し今後のセキュリティについての具体策を提示し、表面上は納得してもらった。終わったことは変えられない。大切なのは今後どうするか。そういう意味では、途中で挫けることなく筋を通せたと言える。ビジネスマンとして最低限のことを逃げずにやり遂げた、と。間違いを犯さないことが何より優先だと分かりつつ、仕事人としての最低限のプライドがまだ潰えていないことに安堵する。

続いて、CCで誤って送ってしまったお客にも電話して事情を説明。こちらにも「向こうさんの方が優遇されてるようですね」「ワタシども程度の貢献度では御社の厚意は得られないようですな」などと散々嫌味を言われ、からかわれたりもしたが、「あのファイルは破棄してくれ」という旨の依頼および書面を送ってとりあえず形を付ける。

本当に破棄するかは疑問だ。ただ、こちら側が文書で正式に依頼したという形式が残っている以上、下手なことはしないだろう。そう信じたい。信じることにする。

今日一日は、とにかくその対応および情報収集で奔走した。「メール」「誤送信」「対応」「法律」「賠償」「機密文書」など、思いつくキーワードを何十回Googleに打ち込んだことか。この記憶は確実に呪いになると直感した次第だ。

ただ、それよりも強く抱いた感情は、自分自身に対する失望だ。こんなことは今まで一度もなかったからだ。年を取ったとか仕事に慣れ過ぎたという問題じゃない。姿勢の問題だ。そう自覚せざるをえないがゆえの失望。

メール送信の際は、どんな時であれ添付ファイルおよび送信先を必ずチェックしてから送ったものだ。今でもそうしている。それでも起きた間違い。チェック機能が働いていなかったということになる。つまり上の空だった。自分自身の気が抜けているという結論しか出てこない。この日は流石に落ち込んだ。

そのリカバリーというわけではないが、茨城の友人・スーパーフェニックスが秋葉原でメシを奢ってくれた。あぶく銭が出来たんでご馳走するよ、と。虎の尾を踏むこともあれば、虎穴に入らずとも誰かが虎の子を持ってきてくれることがある。凹んでいた僕に、友人が「美味しい料理」という虎の子を運んできてくれた。

会食の場所は、駅前のアキバTOLIMビルにある「ダイニングバー響」だ。格式高い内装とオシャレな雰囲気、そしてお高い料理と酒。八吉など屁でもない、秋葉原エリアで一、二を争うと言っても過言ではない高級店だろう。いや、金額的に言えば他にあるかもしれないが、何というか高級感が備わっているのだ。

それは、店員の対応や佇まい、照明の調整、店内レイアウトの秀逸さなどが複合した結果醸し出す高級感なのかもしれない。程よい喧騒と、ソフトでアダルトな匂い。まさしく大人のための店と言える。滅多に入らないが、僕はこの「響」が好きである。

それゆえガキには来て欲しくない。金の有無じゃなくて、場の空気に合わせられないガキに騒がれると雰囲気が壊れるという意味だ。いつだったか、同じくスーパーフェニックスとこの響に来た時、後ろの席に合コンのようなノリで騒いでいた学生風4名の男女が居た。あの時は興醒めした。

まあ、今日は時間帯だからか大人な客が多くて安心した次第。ざっと見る限り、リーマン&女性というカップル率ヶ高かった。学生カップルめいた客は殆ど居ない。リーマンが大半だ。しかも、男は30代前半~40代半ばという感じのミドルエイジで、女はパッと見20代という構図が多くを占めているところがまた面白い。背伸びしたいリーマン達の虚勢と下心が手に取るように分かる。

団体客も居たな。しかも外人混じり。その中の日本人女性が英語で喋っていたりする。何かの報告会を兼ねた飲みのようだが、それにしてもその女性、流暢に英語を喋る。それを受けて、隣のデカい白人も「OH!HAHAHA~ッ♪」とか野太い声で笑ってるし。

聞き耳を少し立てていると、聞けば誰でも分かる有名な社名が出てきた。なるほど、あの会社の従業員達だったのか。それなら、アキバに不釣合いなこのインターナショナルな顔ぶれも理解できる。それにしても楽しそうだな。ワールドワイドにコミュニケーションできるってカッコいいな。

その女性は、しばらくして化粧室に立った。その振り向き具合からしていかにも自信ありげで、クルリと身を翻した時にヒラリと舞い上がるスカートの裾の波打ち方ですら颯爽としていた。僕も英語をマスターしたら、あんな感じに堂々と、そして楽しげに振舞えるのかな。纏うオーラで僕のズボンの裾もブワッと舞い上がるのかな。ああ、英語喋りてぇ…。

などと周囲の客についてスーパーフェニックスと分析し合い、だからこそ次に出てくる言葉は「オレ等はまだまだだな」という自戒。そして「やっぱやるしかないですね」といういつもの台詞に着地する。いつものことだが、劇的な進展は相変わらずない。それでも己が未熟さを自覚しているだけマシかもしれない。

差し当たり、ウエイトレスの姉ちゃんにちょっかいを出して現状の鬱憤を晴らすことにしておいた。彼女は響のスタッフに相応しく、滑舌もよく、受け答えのアドリブも利き、料理の説明なども理路整然としている。質の高いスタッフとコミュニケーション出来るのもまた高級店の醍醐味かもしれないな。

まあ、もう一人の若い男ウエイターは、まるで気が利かなかったが。「灰皿よろしく」と何回言わせるんだよ。客の要望を先回りしようという姿勢もない。完全にデク人形。「ふむ、これはいいデクだ」と漏らしそうになる。このデクウエイターのような従業員ばかりだったら「響」を見限るところだった。

デキる方の姉ちゃんウエイトレスは、現在週休1日で働いているとか。必死に、かつ真摯に働く人ってやっぱりいいね。だからこそ今の自分が余計にゴミに見えてくるのだが。

そんな話をしつつ、響の料理を堪能していく。今日は肉祭りということで、姉ちゃんウエイトレスのお勧めに従い、炙り肉や唐揚げなどをオーダーする僕等。やはり美味いよな。味だけでなく、料理の盛り方から香りまで、至るところにエクスペンシヴな気配が漂う。やはり「響」に来て良かった。日中受けた僕の心の傷は、完全に癒えた。

日中のメール誤送信事件と、アキバ響でのスペシャルナイト。

捨てる神あれば拾う神あり。

英語に訳せば、

When one door shuts another opens.

ワールドワイドに生きたい本心と、だけど隠し切れない個人的な暗い野心とを掲げつつ、いつも何かのドアを叩いているつもりの僕だけど、現実にはまるで見当違いのドアを叩いているかもしれない。全く響いていないかもしれない。

ヘブンズドアだった場合どうするか。そのヘブンとは、望んだ先にある心のヘブンか、それとも文字通りご逝去されましたのヘブンになるのか。

神ならぬ人ゆえに、ボクには何も分からない。響で奢ってくれた友人にも分からないし、響の辣腕ウエイトレスにも分からない。分からないから、友人と別れた後、ただ満たされぬ心のままに、満たされ切れていなかった食欲のままに…。

つけ麺屋「やすべえ」で一人、つけ麺を平らげた。

20131126(火) ヤツは金に汚くなく命も張れる申し分のない強者だが、少し純すぎた。という森田鉄男のような男がどこかに居ないものか

131126(火)-02【2110~2220】居酒屋「ちょい飲み 福ちゃん」《茅場町-嫁、義妹》_04 131126(火)-02【2110~2220】居酒屋「ちょい飲み 福ちゃん」《茅場町-嫁、義妹》_03 131126(火)-02【2110~2220】居酒屋「ちょい飲み 福ちゃん」《茅場町-嫁、義妹》_02 131126(火)-01【0720頃】柿、牛乳《家-嫁》_01

 【朝メシ】
柿、牛乳(家-嫁)

【昼メシ】
カレーパン(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
居酒屋「ちょい呑み 福ちゃん」(茅場町-嫁)

【イベント】
仕事
  
  
【所感】
あまりオチがなく、気が滅入る話でもあるが…。
 
 
ウチの会社に出入りしている清掃業者の経理が不正を働いて解雇されたらしい。ウチの経理の人間から聞いた。架空の売上を立てて、それがバレたたとか。まるで「半沢直樹」のタミヤ電機のような展開だ。

額は大したことない模様。それでも明らかな横領であり背信行為。罰を受けて当然だろうな。経理という職制は、ある意味組織のブラックボックスを操れる立場だけに、それが明るみに出た場合には問答無用で糾弾される。

世間で同様の事件が取り沙汰される時、悪事を働いた人間は営業職や事務職よりも経理職だったというパターンが多く見受けられるのも、金の動きが分かる立場にあり、しかもその気になれば金の動きを操作出来るからだ。つまり財布の紐を握っている。肝心要の情報を司るという点で他のどの職種よりもある意味強い。

金は命より重い。ゆえに人を動かす絶大な魔力を孕む。聖者を廃人に、天使を悪魔に容易に変える。だからこそ逆に、他の職種よりも意志の強さが求められる。ドライに客観的に物事を見据え感情的にならない。ニュートラルなメンタルの持ち主が適任だろう。

必要なのは正義よりも公正さだ。その公正さを振るう時は、上下関係すら度外視されるべき。場合によっては上司や役員の、社長や取締役の不正を正し意見しなければならない開き直りを発揮できるような。より一層の厳格さと一貫性のあるロジック、そして確固とした意志が求められる。

その点、ウチの経理は大したものだと思う。堂々と上役に意見し、時には讒言すら厭わない。上役はそんな経理の人間に都度不快感を示しているようだが、そこで譲歩すると冒頭に示したような不正にいずれ発展していくので引き下がる義務はないだろう。むしろ、経理が提示する論理を汲み入れない上役が狭量。部下の言を聞くのは上司の器量なのだから。

聞き入れる必要はない。だけど聞く耳を持つ必要はある。聞く耳も持たない上司がいずれ勘違い野郎になり、老害、暴君へと変化するのは世の中の王道だ。

まあ、経理の人間の言う事が正しいと分かっているのか、上役も「分かった分かった」と面倒臭そうな顔をしながらも経理の言に従うことが少なくない。個人的な飲み代を領収書で落とす際も「これ落ちるか?」とビクビクしながら経理に聞いたりしている。上役も小心者だ。老害であり暴君であり、だけど小心者。もはや救いがない。

非常につまらないが、その上役についてもう少し切り込んでみる。道徳心は持っている。かつ法を遵守する人間で、犯罪とは無縁だろう。基本的にパクられるような人種ではあるまい。

だけどそれは安全圏内の範疇で、至って限定的。圏外に出れば道徳と法の精神は容易に吹き飛ぶ。それは上役が権威主義で拝金主義だからだ。

分かり易く言えば損得勘定で動く人間だ。自分が損をしてまで他者の利益になるように動こうとする気持ちが皆無。その価値観で動いた瞬間、ただの卑しい老害になる。

言葉ではたまに言う。「気持ちが大事だ、人は信義で生きている」などと。だけど行動で示さない。少なくとも示したのを見たことが殆どない。だからどれだけ理想や金言を口にしようと、現実の行動が伴わないわけだから、周囲としては白けるばかり。人望は得られない。それどころか逆に信用されなくなる。

第一、先の安全圏内の範疇で適用される道徳心や法の遵守にも但し書きがあって。犯罪とは無縁というのは、あくまで殺人とか暴行とか詐欺とか血なまぐさい話。経済、商いという観点でいけばもう犯罪者みたいなもんだ。

取引先から「この用途で使ってくれ」と頂いている協賛金を、その用途に使わず別の名目に組み入れ結果、自分の小遣いにしているところとか。完全に私的な消費を経費で落とさせるとか。文書偽造とか。殆ど犯罪だろ。マトモな神経で出来るものじゃない。逆に、それが出来てしまうから拝金主義の成金だと言われる。

それでいて「オレは世の中の規則にしっかり従い、ウチの会社は税金もたんまり支払い社会に貢献している」などとうそぶくのだから、聞いてる方が呆れを通り越し、次第に別の惑星の生物を見るような目付きになるのも当然だろう。

そうやって訝る部下達を指し、コイツ等は何で言うことを聞かない、何でオレを敬わないんだと愚痴る。時には本人等に面と向かって怒鳴る。だけど、その根本の原因やそこに至るまでの背景や過去の歴史などには全く思い至らない。自分が原因だとは露ほども考えない。その思い上がりがますます相手を遠ざけていくという悪循環に気付いていない。

決して自分からは譲歩しない。譲歩するなら相手、つまり下々の者だ。何でオレが頭を下げる必要があるのか。という絶対のルールを敷いている。下の人間に頭を下げるのはプライドが許さない、と。格下の人間に同調することなど何もない、と。それはプライドなどではなく、傲慢な自尊心でしかないということにも気付かない。

本当のプライドとは、もっと爽やかで潔いもの。逆に潔いからこそ、プライドめいたものを捨てた時の姿が周囲から爽やかに見えるのだ。本当のプライドを知っている者であれば、下げたくない相手に頭を下げたからとてプライドは傷付かないし、周囲も嘲笑したりしない。逆に感服し、その頭を下げた相手を信頼するようになるのではあるまいか。結局、プライドという言葉の意味を履き違えているから、いつまで経っても平行線なのだ。

頭を下げる、すなわち自分が折れるという行為を「志が低い」と評すことがある。プライドはないのかと。だけど折れる行為そのものは志の高低に関係ない。プライドを守れたか、それとも傷付いたかという判断基準にもならない。

折れるべき時に折れるのなら、志は高いしプライドも傷付かないのではなかろうか。だから潔く爽やかにも見える。逆に、折れるべき時に折れない人間は、志やプライドの意味合いを履き違えているとも言える。

頑なに自分を守る、自分の言を曲げない、つまり自分の立場を守ることは、プライドや志を守ることと同義じゃない。そのタイミングを間違えれると浅ましく見える。全く折れない姿勢を崩さな姿は、特にみっともなく映る。要するに、粋じゃない。粋じゃない人間が吠えたところで響きはしないさ。

上役はそういう人間。何につけても自分が正しい、だから自分は折れないし譲歩しない、譲歩するなら下々の者だとふんぞり返る。それでも譲歩しない相手に対しては、しょせん平々凡々と暮らしている愚民にオレの高尚な世界など分かるいまい、と切り捨てる。

だけど切り捨てられているのは実は自分だということに気付かない。気付かないまま同じ言動を放ち続けるから、最終的に誰も寄り付かなくなる。僕はつくづく思うのだが、自分のしたことは最終的に自分へと跳ね返ってくるという格言は、反論しようのない真理だ。

熱弁を振っても口先だけだと判断される。底の浅さを見抜かれる。だから離れていく。別に離れていきたけりゃ離れていけばいいさと開き直るも、自らの牽制を誰かに誇示したい欲求は一際強いので、付いてくる者、従う者を別口で探す。

だけどそんな人間に従う者なんて限られているわけで。結局、同類しか集まらないわけで。だから最後の拠り所は金の繋がりなわけで。金が途切れれば容易く離れていく。今、上役に付き従っている人間は、そういう人間ばかりだ。まるで心が通っていないと傍から見て分かる。

去っていった者の中には、よかれと思って諫言した者も多くいた。だけどそれが届かないから、聞く耳を持たなかったから離れた。そして離れてしまえば二度と関わらない。結局、金の繋がりが消えれば周囲には誰一人として残らない。当たり前の流れだ。

自分のしたことは自分へと跳ね返る。今現在、上役や一部の上司などの日々の空回りを見ていると、つくづくそう思う。彼等は今、なぜ皆オレの言うことを聞かないんだ、という顔をしてイライラしている。イラつくから余計に当たる。分かってない。自分達のしてきたことが全く分かっていない。可哀想だとは全然思っていないが、客観的に見て非常に憐れだ。

結局は人間性、人徳の問題か。たとえば会社の社長や役員などでも、辞めた人間に慕われる者は居るはずだよな。辞めた後でもなお付き合い、繋がる。繋がっていてもいいと思える相手。それは繋がっていいと相手に思わせる言動を会社を辞める前からしてきていたからだろう。

要は、人として好かれていた。ウチの会社でも、上役や上司は論外だけど、辞めてもなお皆に好かれている人ってのは居る。良くも悪くも、自分のやったことがそのまま自分に返ってくるのである。

で、上役の話に戻る。簡潔にまとめると、言動はえげつないのに、ケチな庄屋みたいな動きばかりする人間ということだ。悪党になりきれない悪党。つまり小悪党。あるいは卑しいだけの成金。成金という種族は本当に手に負えない。

僕が思うに、金持ちと成金の違いを説明する一つとして、人に好かれるかどうか、という基準がある。その基準を良い方へと満たすには、富を使うべき時に、使うべき場所で、使うべき人に使えるセンスが必要かもしれない。

金持ちは、場合によっては他人のためにも金を使う。だけど成金は自分のためだけに使う。だから金持ちと成金を分かつラインは、使いどころを心得ているか否かということ。他人にも分け与えようと自然に振舞うスマートさを有しているのが金持ち。自分さえよければいいという卑しさに満ちているのが成金。180度逆の感性だ。

よって、成金は金持ちにはなれない。金持ちは成金になろうと思えばなれるかもしれない。だけど成金は金持ちには絶対なれない。元々の素地、器が違いすぎる。器が違うのに、金持ちになろうとする。だから成金と呼ばれるのである。

そう。金というものは、使うべき時に、使うべき場所で、使うべき人が使うもの。金の多寡は別として、それが理想であり真理だと僕などは思っている。

その上で、今度は経理の話に戻る。立場が上の人間が相手であろうと、キッチリ線を引いてドライに公正に対処出来るのが有能な経理。同時に、やろうと思えば金を自在に動かせるという誘惑に負けず、仕事は仕事、しょせんこれは他人の金だから自分には関係ないと割り切れる経理が大人の経理だ。ウチの経理はそうだろう。こんなブラック企業には似つかわしくない有能かつ大人な経理と言える。

しかし、そうでない経理も世の中には多かろう。横領事件のニュースは後を絶たないが、最近でも郵便局だったか、元経理のおばちゃんが1億着服したとかいうニュースがなかったっけ? あと、年金の積み立て24億円を着服して国内逃亡したオッサンとか。24億ってケタが違いすぎるというか、あらゆる意味で異次元の案件だ。

まず、このおばさんやオッサンのやったことは罪か? 実際にやっていれば罪だろう。おばちゃんなどは、自分はやってない、でっち上げられたと反論もしている。本当にそうなら、おばちゃんに罪はない。だけど「そうか、やっていないのか」と言葉通りに信用するバカもいない。実際に金が消えているのだから…。

使い込んだヤツがいるのは明白。問題はそれが誰かということ。あるいは誰が指示したかということ。報道だけでは決して断言出来ない裏事情も恐らくは隠されているだろう。

ただ、そもそもの話として、そういう人間が組織の中に居るだけで罪であり、あるいはそういう人間を雇う時点で組織の目は曇っており、そういう人間が金を扱うポストに就けること自体、組織としてのクオリティが低い証明。火のないところに煙は立たずというように、煙を疑われる時点でショボイのである。

僕は今働いている職場がこの上なく嫌いだけど、とりあえずそういうあからさまな不正や横領・着服を働く人間は今のところ居ないだろう。昔は居たけど。まあ、素養のあるヤツなら今も充分居るけどな。

金というのは、えもいわれぬ吸引力や魔力を持っている。それを前にしたとき誰もが変わらないと言い切るほどの自信はない。無論、扱う金額によって変わるだろう。あと、似たようなもので言えば、権力もそうだ。金と同じく権力の高低によっても人は大いに変わりうる。

目の前に置かれた金、動かせる金、その多寡。自分のものになるかもしれないという可能性、出来るかもしれないという可能性。あるいは権力の大きさの実感。好きなことが言え、好きなことが出来、それでいて他人から指を差されず相手をねじ伏せることが出来る権力を取得してしまった時。

持てば充分に変わりうる。タガが外れるポイントは必ずある。そのハードルが低いか、高いか、多分その違いだけだ。稀にそのハードルが存在しない人間も居る。利権とは無縁の領域で生きられる賢者や強者も居るだろう。だが多くない。殆どの人間は多かれ少なかれ金と権力に捉われ、自分を本心や行動を捻じ曲げているはず。

今、世の中に居る殆どの彼等が不正をしないと言い切れるのは、しょせん本当の意味で追い詰められていないからなのかもしれない。家のローンとかメシを食うためにとか、各自で色々あるだろうけど、それは一般の範疇。本当の負荷はきっとその先にこそ存在する。

半沢直樹でいうなら浅野支店長みたいな境遇か。つまり普通に働いていては一生掛かっても返せないような額を抱えた上で、自分だけでなく他者を食わせ守っていかなければいけないという立場。そんな時、浅野支店長のように、ちょっと不正をすれば金を得られる立場に居るとどうなるか。

神のみぞ知るだが、誰もが聖人君子のままではいられない。賢者や強者とは、浅野支店長のように計り知れない切迫感を抱えつつ、金や権力を動かしやすい立場に居ながらも、その苦痛を誰にも漏らさず一人で抱え、表面上は何もないように振る舞い、不正に手を染めないでいられる人間なのかもしれない。

つまり他人を巻き込まない人間であり、プライベートと仕事を完全に切り分けて考えられるドライさを持った人間。ある意味、別人格。自分を二人持っている人間が、大金を任せていい人間であり、権力を託してもいい人間だろう。いざとなったら自分を殺すくらいの突き放した気持ちを持たない人間が、どうして金や権力を持ったとき狂わないと言い切れるだろうか。

そして、そういう人間には大体人が寄ってくるもの。内情に何があろうと表面的には賢者と強者の装いを保っていられる人間のことは、必ず誰かが見てくれているものだし、誰かが支えてくれるし、誰かが手を差し伸べてくれる。

僕はいつも思うのだが、結局のところ他人に好かれる好かれないの境目は一つしかない。自分を犠牲にし他人のために身を削れるか否かという境目だ。それが人を惹き付け、逆に失望を生む。

別に自己犠牲的な献身のことを言っているのではない。相手に譲歩できるか、その姿勢を見せられるかどうかの話。譲歩できるということは、柔軟性があり人の話を聞くということだ。相手を理解しようという姿勢があるということ。

別に好きになる必要はない。だけど理解はしようとする。その上で時には自分が引く。それが雰囲気や実際の行動となって表に出てくる。そういう姿勢って不思議なもので、上辺では整えられないものなんだよな。自然と滲み出るもの。出来る人間は出来るし、出来ない人間は出来ない。したとしてもボロが出る。

人はそういう雰囲気に意外と敏感だ。だから極端に人に好かれる人、敵を作らない人も居れば、極度に嫌われまくる人、敵ばかり作る人が出てくる。思えば僕の好きな人達は、みな譲歩が上手かった。理解しようとする姿勢が雰囲気に出ていた。そういう人達は少なくなり、今は権威主義とその場凌ぎの拝金主義の亡者がひしめいている。世の中上手く行かないものだ。

随分と青臭い話になってしまった。だけど青臭くなるということは、それを心の中で求めている気持ちの裏返しなのかもしれないな。

そんな権謀術数とは関係ない話になるが。根はいい人間だとしても、大人としての責務を果たさない場合はどうなるだろう。ソイツを好きで居られるだろうか。嫌いにはならないだろう。根がいいのだから。しかし呆れることはあるかもしれない。

仕事後、秋葉原に少し寄っている途中、鳥取実家の母親から電話が掛かってきた。何事かと少し身構え電話に出てみたところ、両親の健康状態とか深刻な話ではなかった。とりあえず胸を撫で下ろす。しかし話を聞く内に眉をひそめてしまった。

内容は、今年6月に結婚した兄貴のことだ。聞けば、その結婚式で撮った写真を親族に送っていないとか。式に参列した親族から「写真もらってないけど、どうなってるのかしら」とウチの実家に電話があり、そこで両親も気付いたらしい。

僕は思わず「おいおいマジですか!」と呆れ交じりの声を母親に向かって漏らしてしまった。はっきり言って大変な不義理だ。

友人等ならともかく、親族。中には遠方から来てもらった親戚もいる。祝儀ももらった。どんな結婚式だろうと、いかに料金を省こうと、親族だけでの写真撮影はプランナーが必ず入れ込む。絶対に必要だからだ。

そして親族だけで写真を撮るということは、出来上がった写真を見るのも親族だけということ。友人や職場関係絡みの写真を撮る、あるいは送るという行為は任意だ。しかし親族についてはもはや義務。

それは大人ならば知っていなければならないし、知らなくともそこに思い至る必要がある。その不手際に、さすがの僕も「あの野郎…」と実家に居るであろう兄貴に向けて苦虫を噛み潰した。

過程や背景はどうでもいい。結果としてそれをしたかどうかが肝心。そういう場面が日常生活にはいくつか転がっているのではなかろうか。

そんな苦言を呈しながら、仕事後は茅場町にある「ちょい呑み 福ちゃん」で少し飲み。嫁と、今回は義妹も参加していた。僕はしばらく時間が経ってからの参加だったが、店に入った時には嫁も義妹もかなり飲んでいた。こいつぁ…。酒に負けてやがる。少し苦笑した。

酒もまた、大人力を試すには格好の題材かもしれない。そういう意味で、週末の夜などに道に広がり陽気に喋るリーマン・OL達や、ありえない大声で喋りながら顔を赤らめるオッサンリーマンとかは大人力に欠けるかもしれない。「大人になるということは、自分の酒量を弁えると言うことさ」というヤン提督の格言はまったくもって名言だろう。

酒量はともかく、いかに安定した人格を保てるか、あるいは人格が変わっても相手に不快感を与えない変わり方をするか、その辺がポイントとなるか。

まあ僕自身は最近、酒に酔えない。酒量に関係なく全く酔えないでいる。足取りはたまにフラつくが、頭は冴えきっている。むしろ飲めば飲むほど思考が深化して世界と隔絶されていく感じだ。

きっと酒では満たされないのだ。そうではなく、もっと別のものに酔いたい。生きている実感を得たい。そこに向かって迷いなく昇りたい。僕は、人生に酔いたい。酔ってなければもはや正気を保てない。

全く、何を言っているのか。最近そんなうわ言ばっかりだ。しかし人生は限られているのも確かで、酔わないまま、今のステータスのままでずっと過ごす自信もない。どうするべきか、ホント僕はどうするべきなんだろうか…。

迷い多き心で帰宅すると、一枚のハガキが僕宛に届いていた。見ると、兄貴の結婚式に参列してくれた親戚からだ。旦那の方は病を患っていたので、兄貴の結婚式に来たのは奥さんと息子だけだが。僕等の結婚式には旦那の方も来てくれていたのだが。関東に住んでおり、比較的近い親戚だけど、訪問したことは一度もない。そんな親戚からのハガキ。裏には簡潔な文章だけが書いてあった。

その旦那が亡くなりました。そう書いてあった。

唐突の訃報。ショックだ。酔いが一気に醒めた。しばらく現実感がない。だけど少しすると思考が働く。そして思い至る。やはり人生は限られている、と。

20131125(月) オレの寿司作り成長率は天井知らず。傲慢人間の勘違いも青天井。

131125(月)-01【0715頃】柿、牛乳《家-嫁》_01131125(月)-02【0835~0850】マックコーヒー(梅島マック)(梅島マック)《梅島-一人》_01131125(月)-03【2320~2350】寿司(俺自作)《家-嫁》_02131125(月)-03【2320~2350】寿司(俺自作)《家-嫁》_04     131125(月)-03【2320~2350】寿司(俺自作)《家-嫁》_05131125(月)-03【2320~2350】寿司(俺自作)《家-嫁》_07 131125(月)-04【2350頃】会社後輩夫婦出産祝返し川越菓子《家-嫁》_02131125(月)-05【2350頃】人形焼き(浅草土産)《家-嫁》_01

【朝メシ】
柿、牛乳(家-嫁)
マックコーヒー(梅島-一人)

【昼メシ】
カレーパン(職場付近-嫁)
 
【夜メシ】
僕自作寿司、長芋とエリンギの醤油煮、後輩夫婦出産内祝いお返し、人形焼(家-嫁)

【イベント】
寿司作り
  
  
【所感】
勘違いには二つある。可愛い勘違いと、傲慢な勘違いだ。

可愛い勘違いは、以下Part1の僕。寿司作りがプロ並になってきたのではないかという、素人ゆえの可愛らしい勘違い。

傲慢な勘違いは、後述Part2の仕事風景。自分が何をやっても許される超越した存在だと思い込み、周囲に対してもその言動を撒き散らす。そんな傲慢な勘違い。
 
 
■Part1 可愛い勘違い
今月中旬、新潟実家への帰省時に義父から寿司の握り方を教わり、約一週間続けて寿司握りの修行をした。握りおよび巻き物の手順は大体覚え、手さばきもスムーズになったと自負している。量もこなせるようになった。

何より、寿司を握っている間は作業に没頭できる。他のことを考えず一つのことに集中出来ているという自覚は自分にとって重要だ。明確な目的を持ち、自分の意思で時間を使っている。自分で納得しているので後悔もない。そういう時間の使い方が最近出来ていないから。

現役時代、スーパーを経営しながら自ら魚も捌いていた義父。定年を迎えた今、趣味で魚料理を振舞ってくれる。その義父から教わったのは、寿司の握り方とその楽しさ。寿司握りは僕にとってまさに貴重で楽しい試みだ。

とにかく、どんどんよくなるオレの寿司プレイ。オヤジの全盛期はいつだよ? スーパーを経営してた時か? オレは…。オレは今なんだよ。

断固たる決意で今日も寿司を握る僕だった。

握りのメインはマグロ。スーパーで売っていた半額の刺身パックがネタだ。とりあず今回は量を握ることに重点を置いた。身に付けたばかりの技術は、空白期間をあまり置かないで反復してこそ身に付くものだから。その隙間のない反復練習の甲斐あってか、今回のマグロ握りは過去で最も美しい出来栄えに仕上がったように思える。

それにしても、量に重点を置く場合、スーパーの半額セールは心強い。マグロが20切れ以上入ってて500円もしないんだもんな。それを全て寿司に作り変えれば20貫のマグロ寿司の完成だ。寿司屋でそれを食おうとすれば余裕で2000~3000円はする。そう考えると、自作寿司はリーズナブルだ。

まあどの料理でもそうだけど。何だかんだ言って、究極の節約法は自炊。今も昔も、そして恐らくはこれからも変わらない。

あと、握りで今回初めて玉子に挑戦した。玉子焼きをネタにして握る寿司だが、単に「玉子」と呼べばいいのか、「玉子焼き」と言った方がいいのかは微妙。寿司屋などで「玉子焼き」とオーダーすると、酢飯無しの普通の玉子焼きが出てくることが多いからだ。そう考えると、やはり「玉子」という言葉を使うべきかもしれないな。

そもそも僕は、寿司屋の玉子焼きが特段美味いとは思っていない。その分野では、出し巻き玉子などを擁する居酒屋に分があると個人的には判断している。つか自分で作った方が多分美味いんじゃないか、と。

玉子焼きの優劣を決めるのは突き詰めれば味付け。それも主観的嗜好が強く影響し客観視が難しい料理だ。甘めか、しょっぱめか、醤油をどのくらい効かせるか、個人の好みに相当左右される。たとえば僕は塩辛いヤツとか焦げ目の入ったグロテスクな玉子焼きが大好物だが、嫁や親しい友人等はむしろ多少甘味混じりのしっとりとした玉子焼きを「美味しい」と絶賛する。人によって全く違うのだ。

よって、玉子焼きという言葉を一括りにして論じることは僕には出来ず、だけど個人的嗜好およびコストパフォーマンスの面から言って寿司屋の玉子焼きを絶賛するのは躊躇われる。というか決めかねて迷っている暇があるなら、さっさと玉子の握りに挑戦しろということだ。

その玉子握り。上に乗せる玉子焼き自体、油を使っているからか、魚介系のネタと違ってシャリの上に乗せただけでは固定しない。ポロリと零れ落ちてしまう。どんな高級寿司屋であろうと一流寿司職人であろうと、何の細工も無しに玉子焼きをシャリの上に張り付かせることは適わない。

その細工が「海苔で縛る」という一工程である。シャリに乗せた玉子が落ちぬよう、細く切った海苔をグルリと巻いて固定する。どの寿司屋でもそうしている。

その細工は理に適っており、かつ見栄えや美しさの点でもバランスの取れた握り方だ。シャリの純白と玉子焼きの黄色とのツートンカラーのちょうど真ん中を漆黒の太いラインが縦割りに、何の躊躇いもなくグルリと一周しているその姿。シンプルかつ明確な色の統一であり、均整の取れた造形美と言うしかない。

まさに完璧。完成された技法だ。手を加える余地が殆どない。きっと長い研鑽の歴史を経て現在の形に落ち着いたのだろう。そんな先人の手法に僕も倣うことにした。

その玉子の握りは、さすがに初の試みだったこともあり、少し形が崩れた気がする。巻いた海苔も途中で切れたり、玉子とシャリが靴ずれのようにガタガタと動いたり。ただ、完成図だけ見れば一応それらしくなっているのが面白い。100人中、100人が一目で「玉子の握り」だと言い切るだろう。やはり黄色と白と黒の完成されたコントラストのお陰だ。

味もそれらしくなっており、少なくとも嫁は「美味い」と言っていた。僕も自分で言うのも何だが結構上出来だと思う。

巻き物のネタは納豆、イカの細切り、そして握りに使った玉子焼きの残り。握りと同じく手順も慣れたものだ。正方形型に握ったシャリの海苔でグルリと一巻きし、シャリのない部分、巻いた海苔で出来上がった塀の中にネタを注ぎ込む。

ネバネバの納豆が塀の外にこぼれ出さないようスプーンで慎重に注ぎ込む時の緊張感は、針の穴に糸を通す時の感覚に似ていて嫌いではない。

巻いた海苔も、以前のようにフニャッと萎れることもなくハリのある姿で皿に盛られる。今なら言える。僕の巻き物レベルは間違いなく上達した。

しかしここで気付いたのだが、巻き物という言い方は少しおかしい。それだと、かっぱ巻きとかおしんこ巻きのイメージだ。細く長いネタを、巻き簾を使ってシャリと海苔で巻いた後、適度な長さに包丁で切っていくという。

そうじゃなく、僕の巻き物は一個一個作っていくタイプ。一番最後、海苔巻きの上にネタを乗せて完成するヤツだ。何て言うんだっけ…。

そうだ、「軍艦巻き」と言うんだ。かっぱ巻きなどとは全然違う。巻き物などと曖昧な呼び方をするのは不適切だったな。というわけで、僕が握る巻き物は、軍艦巻きを指すということを明記しておく。

いずれ手巻きなどにも挑戦したいが、今は軍艦を極める方が先決だろう。「二兎を追う者一兎も得ず」だ。今までそれで何度も手痛い失敗をしてきたではないか。同じ徹は踏むな。今はただ、ひたすらゴールを目指す競馬馬のように軍艦一路。

というわけで、自作寿司(多分)7回目の挑戦は、この上なくスムーズに進行した。今後も機会を作って練習したい所存。珍しく集中したため脳を酷使したのか甘いものが欲しくなった僕は、後輩夫妻の出産内祝いのお返しにもらったまんじゅうと、週末浅草で買ってきた人形焼を食いながら糖分を補給する。久々に活力も補給されたように思えた。
 
 
■Part2 傲慢な勘違い 
ここから先は、つまらない話。愚痴レベル。なのでどうでもいいが、何かの時に材料として使うかもしれないので一応記しておく。

毎回持ち回りの朝の掃除当番は上司Zだった。だけど始業時間になっても来ない。よくあることだから驚きもしないが、普通に遅れて出社したあと掃除当番表をチラ見しながら、「お、掃除当番オレだったのかよ?」みたいに、おどけながら独り言を喋る。オレ等に聴こえるように。

ワザとらしいし、誰も聞いちゃいない。掃除当番は前日確認が基本だし、忘れていたとしてもただ黙って、申し訳なさそうな顔をしながら掃除をするのが通常の大人だ。

それ以前に、掃除当番云々じゃなくて、遅刻したことに何の言及もしない時点でもう確信犯。「言い訳がましい」という言い回しがよく世間では使われるが、この場合は言い訳という言葉すら成立しない。「言い訳の体裁を為していないただの一人喋り」だ。周囲が呆れを通り越して「何か犬が咆えてるわ」という態度をしていることに気付かない。

で、「オレが掃除かよ」などと周囲にアピールにならないアピールをしておきながら、じゃあ掃除をするんだなと言えば、実際には掃除をしない。まるで何も最初からなかったかのようにデスクに向かう。じゃあその前振りは何だったんだ? という風になる。当番制の、言わば義務を履行しないって、人間性どころか社会人としての是非を問われる問題だぞ。

で、その掃除をしない言い訳なのか知らないが、「朝は仕事が溜まりすぎて忙しいわ、ホント」などと、またも独り言を言いながらデスクのPCを点ける。忙しいのは皆同じだって。

つか、繰り返すことになるが、結局お前は掃除をしないんだな。忙しいか否かという問題以前の、掃除の義務を無視するという問題のさらに前の、社内ルールを平気で自分ルールに置き換えるという頭の正常性すら問われる行為。それは主観的に見て不愉快というよりも、客観的に見て危険な所業だ。

私物化、自己肥大化、自分の立場や奮える職権に対する勘違い。ただの雇われ平社員だということを全く分かっていない。それは結局、害しか及ぼさない。その害によって何人もこの場から姿を消した。

で、掃除はせず、その理由は朝が忙しいからというオーラを撒き散らしておいて、デスクに座った数分もすれば、煙草を吸うためエレベータで降りていく。つまり、最初の最初からやる気などなかったということだ。掃除も、時刻通りの出社も、朝の仕事も、何もかも最初から自分の範疇外だという意識なのだ。

その根底に、自分はルールの外に居る特別な存在だという勘違いがある。僕は偉いんだから。僕は特別なんだからと。つまり社長気取り、重役気取り。そんな人間の姿を見て、下が付いて来るか? まさに勘違いも甚だしい。

そんな朝の仕事風景。気付けばこの上司Z、ここ数ヶ月掃除をやっていなかった。
 
 
…という不愉快事も、長い一日の中にはあるということだ。夜の寿司作りが月の女神・アルテミスだとしたら、日中の仕事事情はまさしく災禍の魔神王・サタンであった。

20131124(日) サンタファンラン2013でボクはたくさんのクリスマスプレゼントをもらいました

131124(日)-01【0800頃】牛乳、パン残り、アイスコーヒー《家-嫁》_02 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_003 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_006 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_008 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_019 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_028 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_042 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_048 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_064 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_079 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_095 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_096 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_098 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_103 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_109 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_110 131124(日)-02【0955~1300】サンタファンラン2013台場 5km約28分 潮風公園《台場-嫁》_112 131124(日)-04【1315~1400】海賊レストラン キングオブパイレーツ アクアシティ内《台場-嫁》_03 131124(日)-04【1315~1400】海賊レストラン キングオブパイレーツ アクアシティ内《台場-嫁》_07 131124(日)-04【1315~1400】海賊レストラン キングオブパイレーツ アクアシティ内《台場-嫁》_11 131124(日)-05【1400~1500】大道芸 クリコネカ 金子隆也・栗原舞 アクアシティ前《台場-嫁》_051 131124(日)-05【1400~1500】大道芸 クリコネカ 金子隆也・栗原舞 アクアシティ前《台場-嫁》_052 131124(日)-06【1500~1550】アクアシティ~ダイバシティ~ガンダムフロント《台場-嫁》_13 131124(日)-06【1500~1550】アクアシティ~ダイバシティ~ガンダムフロント《台場-嫁》_20 131124(日)-06【1500~1550】アクアシティ~ダイバシティ~ガンダムフロント《台場-嫁》_24 131124(日)-07【1720~1940】もんじゃ焼き屋「杉の子」《住吉-友人4名》_01 131124(日)-07【1720~1940】もんじゃ焼き屋「杉の子」《住吉-友人4名》_04 131124(日)-07【1720~1940】もんじゃ焼き屋「杉の子」《住吉-友人4名》_05 131124(日)-07【1720~1940】もんじゃ焼き屋「杉の子」《住吉-友人4名》_08 131124(日)-08【2045頃】カップラーメン、コンビニサンドイッチ、谷中寅吉CDサンタランプレゼント当選《家-嫁》_02

 【朝メシ】
菓子パン、アイスコーヒー(家-嫁)
 
【昼メシ】
海賊レストラン キングオブパイレーツ アクアシティ内(嫁-台場)
 
【夜メシ】
もんじゃ焼き屋「杉の子」(住吉-友人4名)
カップラーメン、コンビニサンドイッチ(家-嫁)

【イベント】
マラソン5kmサンタファンラン 28分くらい、台場散策、住吉もんじゃ焼き、
  
  
【所感】
今日はマラソン大会の日である。

今年に入って22回目か。よく続けたよなどと苦笑しつつ、昨日買ってきた惣菜パンの残りをかじったり、煙草を吸ったり、アイスコーヒーのお代わりをしてみたり。コンディションに気を遣っているようには見えない。

だけどコンディションなんてものは意外と簡単には崩れないもの。それに、たとえ調子がイマイチだとすても、5km10km程度の距離なら骨でも折れない限り完走出来るものだ。

結局は日常の延長線。買い物や飲み会やパチンコに行くのと変わりなく、それがマラソンに置き換わっただけの話だ。意外と適当であり、適当でも大丈夫ということに、20回以上も走ればさすがに気付く。

プロランナーやタイムに拘る本気ランナーならともかく、参加することに重点を置くランナー、ただ走ることに意義や楽しみを見出しているファンランナー、あるいは自分自身が納得出来ればそれで良いという自己完結型ランナーにとって、マラソン大会への参加はあくまで日常の延長線上にある多数のイベントの中の一つでしかないのだと。

それでも毎朝早起きし、遅れることなく11ヶ月間、週2回ペースで自分なりに走りきれたことに対しては、自分でも一定の評価をしている。そして感謝もしている。恐らくマラソンの予定を入れなければ、日々はもっと無味乾燥で平坦に過ぎていただろうから。

殆どのことを楽しいと感じられなくなってしまった現在のメンタル下で、マラソンは確かな目的意識を持ってこなせた数少ないイベント。束の間、身も心も引き締まる。矛盾するようだが、堕落に歯止めを掛けてくれたマラソンという行事にはやはり感謝したい。

というわけでマラソン大会。今回の開催場所は、台場の潮風公園。結構慣れた土地だ。しかし大会の内容を考えれば初めての経験かもしれない。「サンタファンラン2013 in 台場」という大会名だが、いわゆる仮装マラソンだ。ランナー全員がサンタの格好をして走る。コスチュームも運営側が用意する。ある意味コスプレマラソンであり初の体験。

次に、タイムを計らない。主催者側は、あくまでランナーにサンタコスチュームを渡すだけ。タイムを計りたければ各自で勝手にどうぞ、というスタンスだ。

通常マラソン大会といえば、タイムを記録として残すもの。レベルを問わず、ランナー達にとってそれは目安であり、完走したという証明であり、数字として残ることによって達成感と思い出も残せるからだ。規模の大きい大会、本格的な大会では、ゼッケンに記録計測チップが付いており、タイムを自動で計る。そうでない大会でも、スタッフが手動でランナー達のタイムを計る。

だけど今回のサンタランではそれもない。つまり遊びなのだ。気合を入れて上位を目指すという趣旨ではなく、皆で和気藹々と走るのが目的。本気で走るのではなく、走ることを楽しむ。まさしく「ファンラン」の真髄とでも言おうか。

全員同じコスチュームを着ることによって一体感を感じ、景色を眺めながら汗をかくことによって爽快感を得る。ランナーだけでなく、道行く人々も、目立つ格好をして海岸沿いを走るサンタの集団を見て「何事だ」と振り向く。滑稽で、だけど楽しそうな様子を見て見る側も何となく楽しい気分になる。

公園内に設置された特設ステージでは、アロハダンスや弾き語りなどの催しが行われている。キャンピングカーで販売されているビールを飲みながらその催しをのんびり眺めてもいい。走ることも含め、それらを楽しむことに主眼が置かれている。今回のマラソンは、名前が示すとおり「ファンラン」だった。

タイムを計らないというのは想定外だが、日々自分と闘う大会参加の中、こういう緩いイベントがたまにはあってもいい。少し気楽になった僕は、受付で真っ赤なサンタ服を受け取り、特設テントで更衣した。

コスチュームはしっかりとした布製でなく、少し厚手の紙に綿がくっ付いたチャチな作り。水で濡らせばすぐに破けそうだ。ドンキで売っているような一回限りのパーティ用とでも例えればいいか。予算を抑えてやがる。

だけどその一回限りが良いかもしれないとも考える。一度きりだからこそ輝く。もう無いと思えるからこそ心に残る。それが今一時の気持ち。そんなシーンが、強烈な記憶が、輝く季節が、誰の心の中にもあるはず。

着替えを済ませ外に出ると、外はサンタだらけ。若い兄ちゃんやら、腹の出たおじさんやら、キレイなお姉さんやら、子供やら、様々な層がサンタの格好をして談笑している。これは確かに面白い光景だ。それだけで参加した価値がある。

ちなみにコスチュームは、サンタ服の上下と帽子、さらに付けヒゲもあり、全て装備すればそこそこサンタになり切れるだろう。せめてこの一日だけは自分でない何者かになり切りたい僕は、格好の機会とばかりにヒゲもしっかり装着し仁王立ちした。

しかし、僕の帯の結び方を見た嫁が「何か結び方違うよね」と一言。言われてみれば確かに結び方がおかしいと気付く。へその辺りで結んだ両端が八の字のようにダランと垂れているのだ。これは、空手家や柔道家する道着の帯の結び方である。言われて初めて気付いた。

そういえば、浴衣の帯なども僕は全て空手家仕様だ。自分的にはしっくり来るが、周りと比べてどうも違和感を感じていたんだよな。その理由は、僕が何かにつけて空手の帯の結び方をしていたから。長年の謎が今日ようやく解けた。

だが、謎が解けたからと言って、普通の結び方が出来るわけでもなく。あまりに長い間、空手結びを続けていたため、他の結び方を忘れてしまった。僕は生涯「帯がヘンな人」として生きていくしかないかもしれない。

もう一つ。帯の結び方で思い出したが、考えてみれば僕は、ネクタイの結び方も一つだけしか知らない。というか、あまりに同じ結び方しかしなかったため、他のスタイルを忘れてしまった。

恐らくだが、スーツを着るリーマンやブレザーの学生がネクタイを締める時、最もポピュラーかつ多用されている結び方は、一回巻いて結び目をキュッと細めに締める方法だと思う。下記サイトでいう「シンプルノット」か。

http://www.tieknot.com/nekutai.html

僕の結び方はそうではなく、ネクタイで作った輪っかに通した後、二回左巻きに巻いてから締める方法。結び目部分が結構横に太くなる。同サイトで言うところの「ダブルノット」だと思われる。

スーツを着る機会がそこそこ多かった学生時代。先輩や親父からシンプルノットやダブルノット、他にも色々結び方を教えてもらったものだ。しかし僕は、何となくダブルノットの「二回巻く」というもったいぶったやり方が気に入り、事あるごとにダブルノットで結んでいた。

その流れから、社会人になっても同じ行動を取る。面接だろうが顧客への訪問だろうが冠婚葬祭全てにおいても、バカの一つ覚えのようにダブルノットでしか結ばなかった。それ以外は知らないという状況に陥っていた。

ある意味、怖いことだよ。先のサイトを見るだけでも、ネクタイの結び方にはシーンごとに適切なバリエーションが存在すると分かる。だけど僕は、ただ一つしか知らない。知っていたけど忘れてしまった。なぜ忘れてしまったかというと、他の結び方をしてこなかったから。

紛れもない退化だ。羽があるのに飛べないペンギンのように、人間にとっての盲腸のように、使っていない内にその使い方を忘れ、いずれ何のために存在するのか曖昧になってしまう。あるいは、昔は英語を話せたのに、それを使わないままずっと国内で過ごしてきたのでいざとなったら英語で話せなくなっていたというケース。

内臓器官やスキルならまだしも、ネクタイの結び方のバリエーション保有などは、そこまで気を遣わずとも保持し続けられるはずのジャンルだ。何しろネクタイは毎日結ぶ。日常に関わる動作だからである。つまり、月~金の内、毎回ネクタイの結び方を換えるという癖を付けておけば、ダブルノットしか知らないという応用性のないリーマンにはならなかった。

無論、そういう癖を付けるためには最初が肝心。最初の1ヶ月くらいは毎回違うネクタイの結び方に時間を取り苦労するが、2ヶ月もすれば慣れるだろう。最初だけストレスを我慢して頑張っていれば、今頃は5種類のネクタイの結び方を操るオシャレリーマンになっていたはずなんだ。

だけど今現在、出来上がったのはダブルノットしか出来ない不器用な男。ネクタイを締め始めたあの頃、ほんの少しの努力を怠ったからこうなった。つまり初動を誤った。僕は二十年前のあの時から道を踏み外していた。

似たような現象は日常生活の中で数え切れないほど確認できる。身だしなみという観点だけでも間違いだらけだ。

たとえば髪のセット。いつもワックスを塗って髪をセットするのだが、ここ数年の僕は、決まりきったかのように髪をピンと立たせるだけのいわゆる「仙道ヘア」にしてしまう。自分にとって一番楽で簡単という理由からだ。

本当は、もっと他のセット方法も知っていた。美容院の兄ちゃんなどから、ウェーブがかったセットとか、前方に流れるようなセットの仕方など色々教えてもらった。しかし実際、家でやってみると相当難しかったのでチャレンジするのをやめた。

結局、美容院兄ちゃんの懇切丁寧な指導の甲斐なく、面白みのない仙道ルックを繰り返すだけの僕が居る。さらに最近では、セットすらせずただ髪を前に垂らしただけの無関心ヘアで出勤することも多くなった。

美容院兄ちゃんは、良かれと思って教えてくれたはずだ。「やり方次第で見え方が全然違いますよ」と。つまり可能性を提示してくれたのに、僕が教えに従わなかったせいで…。

美容院だけでなく、たとえば服屋の兄ちゃんはジーンズの履き方とか、シャツの折り方とか、色んな見せ方を教えてくれたし、整骨院の院長は、腰が痛くならないシャキッとした立ち方や歩き方を指導してくれた。だけど僕は結局続けることが出来ず、あらゆる場面でワンパターンに陥っていた。

教わったこと。示唆してもらった可能性。それをするかしないか、続けるか続けないかは本人次第だ。身だしなみだけでない、それは人生のあらゆる場面で欠かせない感性。

幅広く自分の立ち位置を変えられる人間は、きっと続けていたに違いない。逆に決まりきった見せ方しか出来ない人間は、本当は広がっていた可能性を自ら断ち切った。

もしそれで袋小路に立たされたとしても文句は言えないのではないか? 必要なことを続けずして最良の結果を得たいなど、虫がいいとは思わないか?

そういう意味で、今回のマラソン「サンタファンラン」は、決まりきった自分の立ち位置を多少なりとも変える機会になるだろうか。

そうかもしれない。初めてのコスプレは、必ずしもランニングパンツとシャツを身に着けなければならないわけでなく、自由な服装で走って構わないのがマラソンだということを教えてくれた。また、タイムを計らないという現実は、マラソンとタイム計測はセットだと思い込んでいた自分の頭を少しほぐしてくれる材料にもなる。

固定観念を取り払い、視野を広くする。ある意味、マラソンに対する僕の妄執を解き放ってくれるイベントなのかもしれない。今回のサンタランには色々勘違いの上にエントリーしてしまったが、ある意味怪我の功名。これも良い経験ということで、僕は周囲に群がる赤い軍団に混じって準備運動を始めた。

今大会は、チャリティーの側面も強い。主催者の趣旨を見ても、「障害を持った人達の支援」が目的のようだ。壇上には、片足を失い棒のような義足を着けた人や車椅子の人が紹介され、演説をしていた。

彼等もまたサンタの格好をして走り、車椅子で進んでいくようだ。その車椅子を押す人間もまたサンタの格好。つまり、健常者も障害者も関係ない、全ての人間がサンタの格好をして走り、その一体感を世にアピールするのが本当の趣旨だろう。

だからタイム計測もない。ともすれば歩くより遅い人達が大勢居るからだ。タイム以外の部分が本題ということ。

僕は今、「健常者」「障害者」という言葉を用いた。というか、久しぶりにこの言葉を使った。久しぶりというより、そもそも忘れていた。忘れていたのは使う必要が無かったからで、使う場面に遭遇しなかったからで。ある意味、見ないフリをしている。

健常者と障害者という対比。障害者という言葉を使うから健常者という言葉が生まれ、だけど一方では障害者という言葉を使うのは差別であるという声も常に出る。じゃあどういう呼び方がいいのか、それを考える。

だけど考える前に、考えなくなる人間も出てくる。結果、障害者の存在に触れる機会を避けるようになる。あまりに糾弾しすぎると人は考えることをやめ、黙ってしまうからだ。障害者という言葉を発するだけで過敏になる人間が居るのは百も承知。承知だから、まるでタブーであるかのように目を背ける。

だけど、それを続けるとどうなるか。忘れる。さっきまでの僕のように。障害者の世界を意識しなくなる。最初から障害者など存在しないという生き方と考え方に向かってしまう。だから僕が久々に健常者・障害者という言葉を使った時、ハッとした。確かにそういう世界もあり、それはずっと昔からあり続けたはずだと思い出した。ここしばらくの間、その現実を全く見なかった、忘れ去っていた自分がいたことを。

この辺りのバランスは本当に難しい。障害を持っているという事実は明らかで、だけどことさらにそれを強調するのは差別なのではないか、本人に悪いのではないか、そんな考えが浮かび、オブラートに包もうとするが、上手い調整の仕方が見出せない。だったら最初から関わらない方がいい。そして、いずれ完全に忘れる。

だけど障害者にとって、傷付く言葉を投げ掛けられるよりも、完全に忘れ去られることこそ最も悲しいのではないか。そう思わなくもなかった。

その調整の困難さは、「支援」という言葉にも一難を投げ掛ける。今大会はチャリティーなのだから、参加費の一部は障害者達の支援に充てられるだろう。それは僕も納得済みだし、殆どの参加者が同じはず。

だけど、本当の支援というのは金銭面だけに留まらない。壇上で紹介された片足のない彼は、障害者達で行われる大会の優勝者だったか、とにかくトップランクの人間らしい。そう説明で聴いた。「へぇ~」と思いつつ、でもそういう大会があること自体。初めて聴いた。今大会に参加しなければ知り得なかった事実だ。まさにここが重要。知っているか知らないか、という点がである。

主催者の真意は、そこにこそあるはず。つまり啓蒙だ。「こういう世界がある」「そこで生きる人達がいる」「それを広めるために、こういう大会がある」と世の人々に広めるという啓蒙活動のことだ。

認知され広まることにより、最終的には市民権を得る。表現の仕方が違うかもしれないが、最終的に本人達が「一人立ち」出来るようにバックアップしていく。そこまでやってこそ本当の支援になる。寄付だけでは解決しない。本当の支援に届かない。

発展途上国に対するODAと同じだ。先進国が途上国に莫大な資金を貸し出し、あるいは与える。途上国の人間はそれで一時豊かになる。だけどそれでは先がない。子供が大人に小遣いをせびって玩具を買っている行為と変わらないからだ。つまり、消費するだけ。生産という部分が抜け落ちている。

親の庇護を受けながらも、子供は最終的に自立し自分で働くようになる。親から小遣いを貰わずともしっかり働き社会に貢献する。そこまで面倒見るのが支援であり、義務だろう。

途上国への支援も同じ。まずは食い物や衣服を与え、次に仕事を提供する。だけど最終的には途上国の人間達だけで生産し、産業を興し、政治体制を確立し、法律や教育を整えなければその先への進展がない。ただ金を与えて一時凌ぎの欲求を満たすのを手伝っているだけだ。

最終的には自国の人間達だけで政治経済を回せるようになるのが最終目的。それまでに必要なインフラ作りや人材育成に力を注ぐ。それが真の支援だ。

サンタファンランも同じだろうな。一応、参加費という名目で間接的に金を払っている。寄付という形で支援している。だけど障害者達が自立できるまでのバックアップという意味では貢献出来ていないだろう。

そもそも、やろうと思ってもどうせ出来ないと分かっている。自分の労力をそこに注ぎ込むという覚悟も姿勢もないからだ。だからこそ「金を払ったから支援しました」と満足気に笑うことも出来ず。でもそれ以上のこともやはり出来ず。結局は自分に可能な範囲で支援する以外にない。僕に可能なことは、このブログを書くことくらいだ。ほんの少しでも見知らぬ誰かに啓蒙できればいいと願いつつ…。

まあ、街の胡散臭い募金などより、こういう分かり易い形の催しに参加する方が僕としてはよほど寄付した気分になるのは間違いない。

差し当たり僕は、開会式の際、紹介された障害者ランナー達の紹介で、少し考えるきっかけを与えられた。片足の無い人を見て、「アレで走れるのかよ」と、ある意味驚き、だけど「アレで走るとは、すごいな」と感服もし、それでも「よく走る気になるよな」と片足の彼を奮い立たせる原動力は何なのかと思考を巡らせたり、いつもと違った面持ちで司会の人間の声を聴いていた。

まあ、彼は何か訴えたいことがあるんだろう。人にはそれぞれに悩みがあり傷があり、だけどそれを払拭しようとする原動力もあり、各自で方向も性質も異なる。だから本当の意味で、足を失った彼自身の想いや心の深淵は、足が二本ある僕には多分計り知れない。

だけど僕自身とて、自分なりの辛さがあり、深い傷を負いながら生きている。それは彼には分かるまい。

いや、結局誰にも分からない。どちらの傷がより深いか、どちらが切羽詰っているか、そんなものは論点じゃない。比較なんて出来ない。全ての悲しみや辛さは本人一人だけが背負うものであり、理解できるのも本人しかいないからだ。自分自身が何とかするしかない。

だからといって、内に篭るのは違うだろう。問題を解決するというのはそういうことじゃない。自分で考え、きっかけや解決の糸口を探すために外に出る。そこから始まるのがセオリーだ。その場合、人を頼るのが間違いとも思わない。

ただ相手を選ぶ必要はあるだろう。本人にしか分かりえない苦しさを、ありきたりの一般論でまとめようとする人間や、自分の経験側だけで分析判断するだけの輩に用はない。ある意味で逆効果だ。

そうでなく、自分が頭の中で思い描いていることを体現している人。メンタルが同じ方向を向いている人。波動が重なる相手から力を受け取るべきだ。最終的に問題を解決するのは本人。だけど一人だけでは困難で、誰かに道筋を示してもらう必要がある。その筋道を間違えるのは、思い描く道への遠回りになるだけだということを理解した方がいいかもしれない。

僕は、サンタ服を着た障害者達の姿から何かを得ただろうか。それでも走ろうとする彼等の姿勢に感服したのは確かだ。「オレもやんなきゃな」と思ったりもした。

だけど誰かの努力を見て「自分も頑張んなきゃ」と涙ぐみテンションを上げることと、それをきっかけに本来眠っていた勇気なり行動力なりを自分の中から絞り出せることは、まるで次元の異なる話だろう。

その相手を自分の願望の投影先として見るだけか、自分が出来ないことへの代償行為として、その相手がすることを自分のことのように喜ぶか。そこで止まってしまうのなら、映画を観て涙ぐむのと変わらない。自分が主役になってない。

誰かに勇気付けられ背中を押されるのは同じ。だけどその誰かから自分はバトンを渡されていることに気付く必要がある。そのバトンの存在を認識できるか。バトンを受け取ったあと走ることが出来るか。つまりバトンを渡された後、主役はその相手から自分に交代したことを自覚出来るか。自覚できて初めて「変わった」という言葉を使える。

このサンタランで僕は変われるのか。主役としての自覚を得るのか。恐らく、サンタ服で皆と一緒に走っただけでは変わるまい。だけど後日、このことについて真剣に考えようとした時、題材には上るイベントになるようには思える。だからとりあえずは走ってみることにした。人はそれを「案ずるより産むが易し」と云った。

それにファンランなんだし、走ること自体は遊びみたいなもの。先述した障害者ランナーも沢山居るし、イベントに華を持たせるためか「ミスインターナショナル日本代表」というタスキを着けたキレイなお姉さん二人もサンタの格好をして走ったり、まあ完全にお祭りベクトルである。スタート地点から皆が結構弛緩していた。

そしてスタートを切った後も、通常のマラソン大会のようにダッシュで駆け出すサンタはごく一部。多くのサンタ達がノロノロと、歩くぐらいのスピードで、仲間同士で喋りながら、応援者達に手を振りながら出発していた。写真を撮りながら走るサンタなんてのも居たな。なるほどこれがファンランか。一つ勉強になった。

僕はというと、ファンランとはいえ一応自分と闘うために走っているわけだし、手抜きをするのは少し違うと考える。よって従来どおり、自分なりに精一杯走ってみることにする。精一杯とは、息苦しくて止まりたいと思えるペースを保つこと、そして完走しきること。この二つが条件だ。後ろでキャッキャウフフと超楽しそうに走る若い男女達に混じりたいという欲求を抑えつつ、5kmの距離を走破した。

基本走っている時は一人だけど、途中、明らかに走り慣れている5人組の陸上部風な兄ちゃん集団に「頑張ってー」と声を掛けられたり、折り返し時、ミスインターナショナルのお姉さんとハイタッチをしてみたり、少なくとも暗い気持ちにはならなかったな。

結果は28分少々。一応嫁に計測してもらったが、5kmのタイムとしてはごくごく一般的。むしろ通常の大会であれば中の下くらいの順位だ。しかしさすがファンランの名は伊達じゃない。今回のサンタランの参加者は100~200人くらい居たと思うが、この僕ですら5km走者の中で多分トップ10くらいに入っていた。ファンランではヒーローになれるってことか。

一時的ヒーローの僕は、スタート時点でほぼ先頭集団を走った。明確に誰かに抜かれたというのも5~6人。基本的には、自分の前を走る人間に付いて行くというスタンスで走り続けていた。自分が上位で走るってのも初めての経験だ。少し気持ちがいい。

だけどランナーという見方をすれば前のままの実力であるのに変わりはなく、走れるヤツからすれば遅い男であることも変わらない。今回なんて、途中で身長90cmくらいの女の子にも抜かれた場面面もあったし。ホンキ度の高かった僕としては大人のプライドがズタズタだ。

ただ、この女の子は子供の中では確実に早い部類のはず。多分小学2~3年だろう。スタート地点から先頭集団にくっ付いていた。その後も大体僕と同じペースで走り、明らかに同年齢では突出していると分かる。しかし2kmあたりでさすがに疲れたのか、ペースダウンしてしまったようだ。その2kmあまりの間、僕はこの女の子の後ろをずっと走っていた。

だから親近感というか、微笑ましく見守る親のような気持ちが芽生えたのも確かだ。苦しそうにして、止まりかけた彼女を抜く際、「ファイト~っ♪」と声を掛けた。女の子はびっくりしたように僕を見上げた後、だけどしばらく僕の影を追うように、すぐ後ろをペタペタとしばらく頑張って走っていた。

さすがに後の方で僕のペースに付いて来れなくなり減速したが、その時も僕は「自分のペースで頑張ってね♪」という声を彼女に投げ掛けたものだ。あの女の子は、急に声を掛けてきた僕のことをどう思っただろう。

少なくとも警戒はされていなかったと思う。知らない大人のサンタに優しく励まされた、と思ってくれた。そう信じる。皆と同じサンタの格好をしているからこそ、同じランナーだからこその安心感が彼女の中にはきっとあった。だから僕も声を掛けたのだ。

サンタ装備の効能はそれだけではない。僕は完走後、しばらくして無性に煙草が吸いたくなった。しかし家にタバコを忘れてしまった。広場傍の売店に売っているかと思ったのだが、売店のおばちゃんは「タバコは売ってないよ」とダミ声で無情に切り捨てる。余計にイライラした僕は、タバコを吸いたい、ニコチンを摂取したくて堪らなくなった。

そんな時、若い姉ちゃん二人が売店前のテーブルに座ってお茶をしている。彼女等はタバコを吸っていた。その彼女等から僕はタバコを恵んでもらおうと考えた。苦肉の策だが仕方ない。人見知り激しい今の僕がギャルに話しかけるなど本来有り得ないが、タバコへの欲求が余りにも強かったので。

意を決した僕は、震える声で姉ちゃん二人に「すいません」と声を掛ける。マジで声が震えていた。姉ちゃん等は一瞬ビクッとして僕に振り向く。「ぶしつけで申し訳ないんですが、タバコを一本分けてもらえないでしょうか」と、タバコを忘れた旨と、近くでタバコを調達する手段がないという事情を説明しつつ、おこぼれを下さいと懇願する。なるべく怖がらせないように…。

かつ自販機を指し示し「代わりにコーヒーでもおごります」と、決して邪な考えから声を掛けたのではないことをアピール。とにかく必死だった。同時に、自分から話しかけたのは本当に久々な気がする。

ただでさえコミュニケーションするのがキツい時期。しかも、飲み屋や店の店員ではなく、一般人の若い姉ちゃんとなれば最もハードルが高い。そこら辺のおっさんに話しかけるのとはワケが違ってくるからだ。姉ちゃん等の「なにこの人、突然キモいわね」とアイコンタクトを取られているのではないかと戦々恐々だった。しかし…、

姉ちゃんの内の一人が、スッとタバコの箱を差し出し、「じゃあ、一本どうぞ」と返答。意外ににこやかな顔で恵んでくれたものだから、僕としては違う意味で身震いしたものだ。久々に見知らぬ人に優しくされた感動というか。

この一本のタバコで、どれだけ僕の禁断症状が救われたか。どれだけ僕の心が救われたか。あの姉ちゃん達には想像も付かないだろう。「じゃあコーヒーおごります」と言ったら、「別にそこまでしてもらわなくてもいいですよ、タバコくらいでw」と返答してくれたことがまた嬉しさを倍増させた。

当然、サンタの格好が好印象を与えたのは言うまでもない。すぐそこでは同じようなサンタルックの人間達が走っている。僕もその仲間だと当然思われる。その安心感と、さらにサンタの可愛らしい着物がもたらす柔和なルックスが、彼女等の警戒心を解いたに違いない。

さらに、僕が灰皿の前で海に向かって仁王立ちしながら貰ったタバコを一本吸っている時、先ほどの姉ちゃんが「あのー」と声を掛けてきた。そして残り二本だけ入ったタバコの箱を僕に差し出し「これ全部上げます、よかったら吸ってください」と、箱ごと恵んでくれた。いわゆる追加サービス。これもきっとサンタ効果。

その姉ちゃんが女神に見えた潮風公園の一角。ルックスや第一印象、あるいは醸し出すオーラや雰囲気がどれだけ大事か身に染みた日でもあった。

あの時姉ちゃんからもらったタバコの箱は、今でも部屋の片隅に飾ってある…。

そしてもう一つ。多くのランナー達がゴールしていく中、広場の真ん中あたりに僕は、走行中にしばらく併走していた例の小学生の女の子を見つけた。彼女は親の元に走り寄り、満足そうな顔で見上げ結果報告をしている。

そんな彼女を少し離れた場所から見つめながら、僕は手渡されたペットボトルのドリンクを口に流し込み喉を潤す。僕の仕草やチラ見に対し、「どうしたの?」と嫁が問う。僕は「いや、あの子ね…」と少し間を置いた後…。「あの子、頑張ってたよ」と目を細めて短く応えた。

あの小さな女の子と併走した数分間のこと。彼女に対して掛けた二声。ゴール後、親に報告していた時の彼女の嬉しそうな笑顔。今でも印象に残っている…。

走り終えた後、広場を嫁と少し回りながら、キャンピングカーで売っている車内販売のツマミを物色。今回はいつもと違い、閉会式まで待つつもりだ。今大会にはチャリティーとして様々な企業およびアーティストもイベント出演者として参加しており、そのスポンサーが賞品を用意しているからだ。賞品はランナーの中から抽選で選ばれるらしい。そりゃ残るしかない。

広場を回っている内、スポンサーの一社が観賞用に車を三台ほど展示していた。その車に近付いてみる。メルセデスベンツである。思わず「こいつぁ…カッコイイ!」と声が漏れた。

僕は10年前くらいに車を売ってしまい、今は所有していない。それ以降、興味が殆どなくなった。だけどマラソンで汗を流して清清しい気分になっているからか、メルセデスのメタリックなフォルムと輝きが一層美しく見える。

その中のEクラスだったか、忘れたけど左ハンドルのオープンカーに試乗してもいいと係員の人が言ってくれたので、僕は遠慮なく試乗させてもらう。クラシックでズッシリとしたシート周り。太陽の光を反射した黒の車体が青空に映える。つい嬉しくなった僕は、右手でハンドルを握り、左肘を窓枠に乗せてポーズを取ったりしていた。子供のように。

僕は「左ハンドルとか正気かよ」と今まで思っていたし、外車を買う人間の気が知れなかった。だけど今回「左ハンドルも悪くないね」と考えを改める。そして「外車もイイね」と素直に思った。

この車の件もまた、自分の立ち位置を少し変えるきっかけになったのかもしれない。今後、車を買う日が来るかどうか知らないが、もし買うとしたらメルセデス・ベンツにしようと僕は本気で考えていた。

今日、メルセデスに出遭ったのは偶然。だけど、これこそ縁。車に対してここまで心が動いたことは今までない。いつか、この偶然を必然に出来たらいい。

ようやく閉会式が始まり、待ちに待った抽選会も開かれる。賞品は6~7つくらいのカテゴリに分けられており、上に行くほど豪華な賞品だ。一番最初は小物のような感じで10人様に当選。次は5人、みたいな。ミスインターナショナルの美女から直接手渡しされるという嬉しいオマケ付である。

出来れば一番いい賞品が当たればいいんだが、まあそんな都合のいいことは起こらないだろうな。僕は他人事のように、当選者を発表する司会の声を聴いていた。

その途中、「続きまして、『谷中寅吉』さんのCDの当選者」と司会者が紹介する。谷中寅吉』とは、谷中銀座あたりを拠点とする民謡系ミュージシャンのようだ。今回のステージでも演奏していたらしい。僕も初めてその名を聞いた。

今回、その谷中寅吉が出したCDが賞品として当たると言う。当選者は一名のみだ。ある意味、一番上の賞品よりも競争率が高い。だけど価値があるのかないのか良く分からない。そんな曰く付きの賞品。谷中寅吉のCD当選者は…。

「ゼッケンナンバー045番の方! おめでとうございます!」

ふーん、045番の人ね…ん? 045番? 045…045…。

…って、オレじゃん(゜Д゜)!?

当選者は、この僕だった。

マジか?と思い、良く分からないままミスインターナショナルの前に歩き出す。
「おめでとうございます!」という声にペコリと頭を下げる。
戻った僕の手には、見たこともないCDと、あと手編みであろう雪だるまの人形…。

ある意味で最も倍率の高い賞品を当ててしまった。もの凄い強運の使い方というか、運って一体何なのか。とても不思議な、異世界に迷い込んだような閉会式の一幕だった。

あらゆる意味で印象に残った台場・潮風公園のサンタファンランはこうして終わる。ついでだからダイバシティでも見物してみるかという話になったのだが、その前に腹ごしらえ。ショッピングセンター「アクアシティ」内の「海賊レストラン キングオブパイレーツ」という洋食屋に入る。

店内ではウェイターやウェイトレスが海賊風のコスチュームで給仕し、たまに「ウ゛イ゛ィッブ゛ッ!」「○△%&ッ!」などと、解読不能な言語で喋っている。どうやら中世の海賊時代に使われていた挨拶のようだ。そんなん解読出来るわけないっていうか、海賊っぽい雰囲気を演出する目的なのだろうが、随分と凝り性だな。オーナーの趣味か? 

また、僕が頼んだメニューはハンバーグセットだが、サラダやドリンクはバイキング。「バイキング(海賊)ですから!」とのことだ。裏設定らしいが、そこまで深読みする客がそんなに居んのかな。

だけど出てきたハンバーグは、まあ普通のハンバーグだった。そこまで設定しておいて、肝心の料理でオトすなよ…。

「アクアシティの食い物屋はマズい」そんな話をどこかで聞いた気がする。さて実際はどうだろう。確証もなく中傷はしたくない。だけど少なくとも、僕の過去4~5回の経験則から言わせてもらえば、「アクアシティ内のメシは美味いよ!」と自信を持って言うことも出来ない。

飯を食ったあと歩いていると、広場に人だかりが出来ているのを確認。見れば大道芸人が大道芸をやっていた。ヨーヨー使いの「金子隆也」という青年と、同じくヨーヨーを使いながら一輪車を操る「栗原舞」という女性芸人による、ヨーヨー芸だ。上野公園などではたまに見るが、台場で大道芸とは珍しい。

まあ実際のところ、こういう芸人はあらゆる場所で芸を披露し各地を転々としているのだが。見物料だけで生きているのかどうかは分からない。「皆様のお気持ち(見物料)が我々の生活を支えています」というフレーズは大道芸人にとってお決まりの台詞だ。彼等の実生活など知る由もない。

それでも、普通のリーマンなどより遥かにシビアで将来が不安になる職業だろうとは予想できる。数ある選択肢の中で、大道芸という道を選んだ彼等の背景や思想・哲学、心の内に秘めた想いについて僕等に分かるはずもないけれど、その場その場での真剣さは僕等より遥かに上だろう。

自分から人にアピールし、そのために動き続け、よりよく動けるために自らをン練磨する。リアルを生きているように見える。栗原舞という女性は小学生の頃に一輪車を始め、大人になってもその道を選んだとか…。多分、自分には出来ない、出来なかった選択だ。良い悪い、正しい間違っているという次元でなく、その選択に殉じられること自体、評価の対象になる。

芸はたまに失敗もしたけど、マイクパフォーマンスも程よく観客を笑わせ、芸自体も「おおっ」と拍手したくなるようなシーンが見られた。総合的に、このヨーヨー大道芸は価値あるものと判断。彼等の芸にしばらく見入っていた。そして金子君の「(見物料の代わりに)このヨーヨーを買ってください」という言葉を汲み取り、緑のヨーヨーを1000円で購入した。

最初から最後まで、ねぶるようにじっくりと見物し、だけど金は払わずそのまま去ることは出来る。元々ゲリラ的なイベントなのだし、「気に入ったら払う」というスタンスなのだから、金を払う義務はない。だけど僕は、金を払った。恐らくは僕等と違う視点を持ち、一般と少し異なる立ち位置を選び、それを今まで継続出来た彼等の苦労に対する労いの代金だ。

自分が納得するならば、何に金を払ってもいい自由が人にはある。僕はその自由を行使した。自分が納得するならば、どんな道を選んでもいい自由が人にはある。金子君と栗原さんはその自由を使役した。ただそれだけだ。サンタランに続き、久々に心が高揚したイベントだった。

で、肝心のダイバシティは、まあ専門ショップが少し入ったショッピングモールという感じか。好きな人間は好きなのだろうが、取り立てて高揚する建物でもなかった。

「ガンダムフロント」というガンダム専門店にも一応入ってみる。そこには5~6年前台場に飾られた等身大ガンダムが設置してある他、歴代ガンダムのプラモやフィギュアが展示されており、さらに金を払えばもっとコアなアイテムやら映像やらが観れるとか何とか。

だけど金払ってまで観る情熱は、既に僕の中にはないな。「入らなくてもいいの?」という嫁の問い掛けに「別に大したものは無いさ」と断言する今の自分が悲しいような、これでいいような、よく分からない感覚だ。感動がなくなってしまったのは間違いない。

それでいて、無料スペースで展示されている千を下らない歴代ガンダムに出てくるモビルスーツ、モビルアーマーなどの模型群。その3分の2くらい分かってしまう自分が嬉しいような、悲しいような。

「これは?」と聞く嫁に「ああ、シャアが一番最後に乗ったヤツだよ」「アムロの次の時代のヤツが乗ったマシン」「それは、シードデスティニーだね」「Gガンダムね」「Xって言って、視聴率悪すぎて途中打ち切りになったガンダム」「ああ、それはアニメは無いけどゲームに出てきたロボットだな」などと、かなりスラスラと説明してしまう自分が悲しいような、嬉しいような。

僕にとって最後のガンダムだった「X」を観てからもう20年経ってんだぞ。どんだけ根深いんだよと自分で突っ込んでしまう。

そして、数あるモビルスーツ模型の中でも、一際ガンダムZZとクインマンサが群を抜いてカッコよく見えるのは、やはり僕の個人的な思い入れの深さゆえだろうか。

とりあえず嫁は、ど真ん中に特別っぽく展示されていたサザビーを気に入った模様だった。「へぇー、『ザ』ザビーかあ」「『サ』ザビーねっ!」というありがちなやり取りをしつつ。

ちなみにザザビーっていう名前のバーが京都にあるんだけど。僕が学生時代、京都に住んでいた頃、TVのCMで頻繁にやっていた。深夜番組のCMとかで、「大人の空間、ザザビー…」とか言って。

http://tabelog.com/kyoto/A2605/A260501/26017407/

その深夜番組にて、地元ではMBSっていうチャンネルだったんだけど、初代ガンダムの再放送を流していた時期があって、僕はその再放送を観ていた。18歳の頃だったか。そういう拭い難い学生時代の記憶があるから、ガンダムに対する記憶も拭えないのか。何だか煮え切らない感情を整理できないままダイバシティを後にした。

嫁はそのまま帰宅。僕は江東区の住吉というエリアにあるもんじゃ焼き屋へと移動。友人等が「もんじゃ焼きでも食わないか?」と誘ってくれたからだ。

もんじゃ焼き屋の名前は「杉の子」といって、友人の一人が子供の頃から馴染みにしている店だ。そこに居るおばあちゃんも気さくで明るく、もんじゃ焼きやお好み焼きも美味い。さらに価格も安い。オシャレとは程遠いが、美味しく安く、そして楽しく食うにはもってこいの場所だ。

まだ元気だった頃は、江東区の「パルシティ江東」というホールの一室を借り、10人くらいの人数を集めてドイツのボードゲームなどをしていたな。その打ち上げで「杉の子」でお好み焼きを食うという流れが多かった。懐かしい。

懐かしいといっても数年前の話だ。ただ、その数年間が随分遠い気もしている。生活や性格が反転したような。何だか僕も随分と変わってしまった気がするよ。

ただ、今回呼んでくれた友人等は、かつてと変わらず接してくれるので、対峙した際の壁は基本ない。「杉の子」の店主であるおばあちゃんも、一時期手術で入院したらしいが、今は元気に話し掛けてくる。酒を飲みながら僕は、今日のサンタマラソンのことを報告しつつ、皆の全てを受け入れた上で投げ掛けてくる暖かい笑顔や言葉に絶大なる大人力を感じつつ、しばし心温まる気分になった。

初めてマラソンを始めたのが一年前、初めて「杉の子」でもんじゃ焼きを食ったのが3~4年前。その面子と初めて会ったのが10年以上前で、東京に来たのが十数年前で、鳥取を出てからもう20年が経過して…。

人に出会い、人が居るから店にも出会い、その店や人が集まる行事やイベントの存在を知り、そこに出掛け、喜怒哀楽を表に出し、だけど隠す喜怒哀楽もあり、そんなやり取りを続けていって、思い出に残っていって、だけどいつかは途切れて…。それでも人は、関わりをやめようとしない。僕も、それでも書くし、写真を撮り続ける。何故か。

殆どが殴り書きであり乱れ撮り。だけど本当の殴り書きなんて殆どない。誰かに向けて書いている。本当に自分の中だけに仕舞っておきたいのなら残す必要はないからだ。殆どの人間が、誰かに向けて言葉を綴り放っている。それが誰か。

特定の人間に向けてかもしれない。そうでないかもしれない。だけど確かなこと。見も知らぬ誰でもいいから、とにかく誰かに届いて欲しいと願っている。誰か、このブログを見る人間が居るだろうか。自分の言葉が誰か一人でもその目に留まることがあるだろうか。

膨大で多様な事象は世の中に多々あれど、言葉ほど多様で無限なものはない。その言葉の全て、誰かに届いて欲しいという期待を込めて放たれている。

20131123(土) 世界で一つだけのカメ

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 【朝メシ】
アイスコーヒー、(家-嫁)

【昼メシ】
ビーフジャーキー、チータラ、エイヒレ、梅酒(嫁-一人)
 
【夜メシ】
居酒屋「ニュー浅草」(浅草-嫁)
誕生日ケーキ、パン、チーズ、シャンパン(家-嫁)

【イベント】
浅草散策、亀吾・イルタン誕生日、
  
  
【所感】
本日の行動は、身体と心は自堕落だったが、イベントとしては活発だった気がする。具体的には部屋掃除→自堕落漫画三昧→浅草→飲み→誕生日パーティというスケジュール。一日の内、身体は何箇所にも移動し、心は何度も揺れ動く…。
 
 
朝、ほんの少しだけ部屋を掃除した。あまりに目も当てられない惨状だったので。

その途中、部屋の方々に散らばりまんじゅうのように積み上がったカメのぬいぐるみ達を一匹一匹、収穫した柿を並べるがごとくベランダに並べ、除菌のため少し日干しにした。

その軍隊アリのような大群のカメ達を見た僕は、「何て数だよ…」と呆れと感慨が混じった溜息を漏らす。日本全国から少しずつ調達し続けた結果、いつの間にか部屋はカメのぬいぐるみだらけになっていた。

その中に、他のカメ達より遥かに薄汚れ、だけど百戦錬磨のオーラをまとったカメが居る。他に比べて一際異彩を放つそのカメの名前は亀吾。家の外では必ず行動を共にする僕の相棒。今日で5歳になる。本日11月23日は、その亀吾の誕生日でもあるため、ケーキやシャンパンを買い込み誕生日パーティをする予定だった。

亀吾というのは、当時マリン系ぬいぐるみ業界を席巻していた株式会社アルファが作製したカメのぬいぐるみ「オーシャンタートルシリーズ」の最小版SSサイズ。価格は1050円。2008年の11月23日に横浜八景島水族館で購入した。当時、既にウチに居座っていた同シリーズの最大LLサイズ「亀二」の後釜として入居した格好だ。あれからもう5年も経ったのかと愕然とする。

ついでに言うなら、LLサイズの亀二を購入したのは、そこからさらに5年前、つまり10年前だ。当時からメシの写真を撮る際には亀二を一緒に写していたが、あれから10年経ったのかと思うと一層愕然とする。

亀二と過ごして5年近く経ったある時期。亀二と写真を撮る日々の中、ネットでファイナルファンタジーの黒魔道士ぬいぐるみを持ち歩いて外食写真をアップしていたブログを発見した。料理の傍らにぬいぐるみを置くだけで、あたかも食べ歩いているという雰囲気が醸し出され、読み手の僕をグイグイと引き込む。同時に僕は「これだ!」と思った。

外食時、目の前に出された料理をただ撮るという行動に漠然とした味気なさを感じていた僕は、長年の命題を解いたかのように得心する。必要なのはマスコットなのだ、と。

料理の大きさを測る物差しとして、料理の単一だけでは補えないコントラスト不足を解消させるツールとして、そして血の通った写真を完成させるための最後の1ピースとして。僕は外食にぬいぐるみを持ち歩こうと決めた。

しかし、体長70cmの亀二は余りにもデカく機動性に欠けるため、持ち運びは出来ない。もっと機動性があり携帯性に優れたコンパクトサイズのカメが望まれる。結果、体長15cm程度のオーシャンタートルSS、すなわち亀吾に白羽の矢が立ったという流れだ。

それ以前の問題もあった。ぬいぐるみを持ち歩くにしても、種類は何が良いかという問題だ。最終的に亀吾に落ち着いたけど、その結論に辿り付くまでは結構長い道程があったことも付け加えておく。

最初はゲームのぬいぐるみにしようと考えた。しかしそれでは長続きしないと予感する。飽きるというより、精神が先に参ってしまう気がしたからだ。

同じぬいぐるみでも、メジャーであったり民衆にある程度受け入れられているキャラクタを持ち歩くのと、ニッチでマイナーなゲームの人形を持ち歩くのとでは、周囲の反応に天と地ほどの差がある。最初は断固たる意思で行動できても、いずれ汚いものを見るような周囲の目に耐え切れなくなる。

殆どの人間は考えもすまい。マイナーなジャンルや虐げられし環境に身を置く人間が、世間と折り合いを付けるためにどれだけ自分を抑えているか。一般人として偽装するためどれだけ身を砕き腐心しているか…。

分かるまい。「オレは○○が好きなんだよ」と言って「えーワタシもワタシもー♪」あるいは「へえー、それ面白いの?」と笑顔で話が弾めば苦労はしない。「え゛? ナニそれ?」とあからさまに一線を引くであろうジャンルのことを言っているのだ。

ディズニー? ジブリ? ワンピース? エヴァ? ガンダム? コードギアス? くそみそテクニック? そんなの僕にとってはスーパーメジャーですよ。むしろ前三つは隠す必要もない、逆にひけらかせば武器になるレベル。そういうんじゃないんだよな。

まず、市民権を得られているかが第一の壁。上記の「ディズニー」~「くそみそテクニック」の7種類を例に取ると、本当の意味で市民権を得ているのはディズニーのみ。よくてジブリまでだろう。ワンピース以下の5つは辛い。どれだけ爆発的な人気があろうと次元的に無理なのだ。同じ意味で考えるなら、今世間で注目を集め、売上げ部数もうなぎ上りにあるアニメおよび漫画「進撃の巨人」なども市民権を得ているとは言えない。

重要なのは、性別や年齢層を問わず、かつ地域を問わず支持されているかということ。その条件を満たせば市民権を得ているという判断に繋がる。特に、子供と若い女性に受け入れられれば磐石である。何故なら、世の中の大人や男達は、子供と若い女性に頭が上がらないからである。その真理をディズニーとジブリは巧みに利用しマーケティングに取り込んだ。

よってディズニーとジブリは、市民権の取得という最重要条件を充分満たしている。ディズニーは年齢問わず認知され支持されている世界的ブランドだし、ジブリも「アニメ」という単体で見ればむしろディズニーよりも幅広い年齢層に受け入れられているかもしれない。

対象的に、ワンピース以下の5つではやっていない。いや、やりたくとも出来ない戦略である。そこが決定的な壁だ。どう足掻こうが本当の意味での市民権は得られないだろう。ディズニーとは在り方そのものが違うのだ。

僕が思うに、ディズニーアニメおよび、その関連施設である東京ディズニーリゾートというブランドに対する実質的主要顧客層は、子供と若い女性に限定されている。正直な話、大人達が目の色を変えて支持しているとは思えない。男連中に限っては無関心に近いだろう。

だが現実として、東京ディズニーリゾートは老若男女を問わず多数の客達で溢れ返っている。ディズニーアニメの映画は興業的にも常にトップランク。なぜか。

本来の顧客層である子供の母親と、それに付き合わされる父親がセットで動員されるからであり、ディズニーを愛してやまない若い女性の彼氏や旦那が金魚のフンのように付き従っているからだ。この金魚のフンの加勢はことのほか大きいと思われる。

さらに、その彼氏彼女や夫婦から様々な入れ知恵をされた祖父・祖母の世代も巻き込まれる。結果、ディズニーアニメやディズニーリゾートは全世代対応のアミューズメント施設およびコンテンツへの地位を不動のものにする。

始まりは子供と女性。それに多くの大人や男達が、ある意味無理矢理付き合わされているのが現実だ。それでも本当に市民権を得たいなら、その層からの支持は絶対に外せない。経済力のある層をセットで連れてくるというマーケット的な旨みもあるが、何より女子供に嫌われたら本当に肩身が狭くなるから。世の中の爪弾き者の烙印を押されかねないからである。

まず子供を敵に回すとどうなるか。親の世代およびマスメディアを相手に戦う羽目になる。つまり世論を敵に回す。そうなればもう並の神経では生きていけないだろう。だから本心は別として、マスメディア上や職場、学校など公然とした場所では過激な発言を控え、無難で優等生寄りな言葉を発する。

ある意味世間への迎合だが、触れてはならないものに触れて虎を呼び込むのは自分の破滅にも繋がりかねない。慎重にならざるを得ない。結局、吐き出せない本心は、ネットなどのアンダーグラウンドな領域へと投棄されていく。だから匿名の掲示板や閉鎖性を保てるSNSは今後もまず無くならない。

若い女性についても同じだ。男は本来、誰の助力や理解を得られなくとも孤高で生きていける強さを持っている。だけど男であるがゆえ、雄であるがゆえの弱さも持っている。何だかんだ言っても女の子に嫌われるのは嫌だし、気持ち悪がられるのも避けたいのが本心だ。

自分の矜持か、女の子への迎合か。天秤に掛ける。一世代昔であれば、自分の矜持を優先させる者も多かったかもしれない。だけど現在は、迎合してしまいそうな風潮だ。いや、迎合しないと世間から叩かれるような、そういう土壌が少しずつ造られていったようにも感じる。

恐らく、女性が強くなったのだろう。発言力もそうだし、男を付き従える技というか篭絡する手練手管が巧みになった。女性のめまぐるしい社会進出も当然関わっているだろう。

だが同時に、男の個体としての脆弱化というか、打たれ弱さも要因の一つではあるまいか。草食系男子などと呼ばれてプライドに障らない時点で男の質は確実に変化している。それが「自分はこうだ」という強固な芯を喪失させ、女性への迎合を呼び、だから肝心なところで頭が上がらない。

自分が相手の領域に引き込まれるだけでなく、自分の好きな領域に強引に引き入れる、そして無理矢理にでも分からせる。そのくらいの強さがあってもいいよな。

少し話がずれたが、若い女性を取り込むことはマーケット上でも肝心。それだけ全世代の中でも華があるのだ。なぜ本来無骨なはずの車業界や一見キモいゲーム業界の見本市や展示会などで、どのブースもこぞってキレイなキャンペーンガールを雇っているのか。なぜ渋谷あたりでは「流行の発信は女子高生から」というニュアンスの発言がされているのか。

その層を押さえれば最終的に世の中を支配できると理解しているからだ。トヨタはそうやって世間に浸透した。ソニーはそうやって、世の中からの「オタクばかりのメーカー」というイメージを少しずつ払拭していった。ディズニーやジブリも同じ手法を取って世界を席巻したのだ。強引過ぎる考えだけど、真実の一画を突いていることにきっと気付く。

というわけで、外出時にぬいぐるみを持ち歩くと決意したはいいが、何を持っていくかという問題が残る。その選定には細心の注意を払わねばなるまい。先に述べたように、何も考えずゲームキャラのぬいぐるみを持ち歩いても、結局は人の目に耐え切れず長続きしないだろう。それは、エヴァンゲリオンがまだ流行っていない時代に綾波レイのフィギュアを持ち歩いて見せびらかすのと同じ行為だからだ。

それは単なる自己満足に留まらない。一緒に居る人間にも害を及ぼす行為だ。「オイ、あのテーブルを見ろよ。美少女フィギュアを取り出して写真を撮ってるぜ」と格好のネタにされるのがオチだ。その好奇の視線はフィギュアを取り出した本人だけでなく、同席した者にまで注がれる。ただの「キモいヤツ」が、「キモいヤツとその連れ」になり、「キモい集団」として一括りにされる。自分が同席者の足を引っ張っているのだ。

そんなヤツと同席する人間はいい迷惑で、それどころかいずれフェードアウトされるのがオチだろう。友達も居ない、モテないキモオタが一人出来上がる。だから、全てを曝け出すのは危険なのだ。それを場所を問わず曝け出す行為は自分らしさの主張ではなく新境地へのチャレンジでもない、ただの暴挙と呼ぶ。真っ当な人間でありたいなら、隠すべきところは隠さねばならないのである。

よって持ち歩くぬいぐるみは、なるべく自分の欲求に忠実に、だけど一緒に居る人間の名誉も守れるものでなければならない。チャレンジングかつ無難なぬいぐるみということだ。その選択は思う以上に困難で、針の糸を通すような狭き門だ。

先の「ディズニー」を筆頭とする各種アニメや漫画を例に取るなら、ガンダムやエヴァは論外。まさに「オレは自己満足を地で行くオタ」だと公言しているようなものだ。

ワンピースもアウト。しょせん子供~若者世代だけで支持される限定アニメ。何より、ワンピースのフィギュアやぬいぐるみは外に持ち歩くのにまるで適さない。あまりに濃すぎるんだよな。見方を変えればエヴァやガンダムより暑苦しい。アレは家の中や会話の一つとして楽しむアニメ。外ではなく中限定のコンテンツだ。

第一、キャラが人間というのがよくない。僕が思うに、「ヒト型」の造形をしたものは外に連れ歩くのに適さない。何か重々しいんだよな。造形が人間に近過ぎるがゆえ愛嬌がない。むしろ重々しく感じてしまう。人間のくせに、わざわざ擬人化したものを持ち歩くのか、と。心に余裕がないように見える。

ロボットも同じ理由だ。とにかくヒト型は重い。本気度が高すぎる。少なくとも周囲はそう捉える。本心はともかく、傍目には多少ジョーク混じりに映るようなぬいぐるみでなければ長続きしないのだ。こうしてヒト型がまず排除される。そうすると、あとは「ヒト以外の生き物」ということになるが、その時点で選択肢が相当絞られたと気付くだろう。

まず残った選択肢は、ヒトの形をしていない無機物、植物、動物、創造上のキャラクタという四カテゴリである。だけど動物以外の三つは容易に弾かれる。その理由を簡単に説明しよう。

まず無機物について。ヒト型以外という条件からロボットの類は殆どNG。人間に近すぎてはいけない。無論、ドラえもんやスターウォーズのR2D2、あるいはアシモのようにデフォルメ化したロボはセーフだと思うが、そういったロボットはぬいぐるみに適さない。むしろフィギュアや超合金、あるいはネンドロイドなど質感を出しやすいジャンルだろう。持ち歩くという観点から少しズレてしまう。

車やバイク、鉄道や飛行機などの乗り物の玩具も同じだ。それこそ家で飾っておけという話になるし、ある意味コア過ぎて引かれる。そして愛嬌が皆無すぎる。以上の理由から無機物、すなわちロボ系やマシン系は選べない。

ならば植物はどうか。無機物と同じく、ぬいぐるみには適さない。植物はぬいぐるみ化されにくいのだ。それこそ造花とか、あってもゴム製の花ではないだろうか。そういう草花の造花や人形をレストランのテーブルに置いたところで、食卓に花を飾るのと何が違うのか。冒険心がなさ過ぎる。守りに入りすぎているのだ。

そもそも、植物とは元々「添え物」や「引き立て役」という性格が強く、それ一個では主役にはなれない種族。「花を添える」の言葉通りだ。持ち歩くぬいぐるみの個性を主張しすぎるのも良くないが、かといって添え物程度の存在感では携帯する意味がない。そのぬいぐるみは見方を変えれば自分の分身。放っておけば一人歩きしてしまうような独立性も一方で求められるはずだ。

つまり、ある意味生きていなければならない。生命の躍動を連想させるぬいぐるみでなければ。それが愛嬌に繋がり、テーブルに並べられる料理にリアリティを持たせる。植物には出来ないことだ。草花を初めとする植物は、あまりに脇役としての認知されすぎた。そんな家庭の食卓の延長線上のような写真を撮るくらいなら、最初から何も飾らない方が潔いだろう。

結局、愛嬌、生命の鼓動、擬似主人公という条件を満たすぬいぐるみは動物以外に考えられないという結論に至る。4つ目の「化け物系」も無論、悪くない。たとえばゲゲゲの鬼太郎の「ぬりかべ」のぬいぐるみなどは結構くどくないし、ワンピースのチョッパーなどはほぼ動物属性と見ていい。だけどそれは、あくまで固有名詞の付いたキャラクタであって、広義の動物とは少し違う。少し前に述べた「本当の意味での市民権」を得られていないのだ。

この壁は、コンテンツとしては完全に市民権を得ているディズニーやジブリですら超えられれない。「ぬいぐるみを長期的・継続的に持ち歩く」対象とした時、ディズニーもジブリのぬいぐるみも除外せざるを得ない。ミッキーやプーさん、スティッチやトトロなど、単体で見れば可愛いかもしれない。好きになるのも頷ける。

だけどそれは、あくまでディズニーショップやジブリショップで購入し、電車の中で嬉しそうに持って帰るから許されるのであって、それを常時引き連れて歩くなど、女子がやったとしても引かれる行動だ。先も述べたが個性が有りすぎる。もっと淡々とした、没個性化したぬいぐるみでないとダメなのだ。よって、動物一択となる。

動物は動物でも、哺乳類はいけない。可愛過ぎるからで、ある意味ヒトに近過ぎるからだ。ネコとかイヌとか、そういうぬいぐるみを持ち歩くのは、あまりにマジ過ぎるため愛嬌を通り越して怖い。もっと血の通っていない種族。すなわち爬虫類以下の動物で何とかバランスが取れるのではあるまいか。

両生類や魚類はダメだ。生気が足りない上に何となく生臭い。当然、昆虫もアウト。キモいというより気持ち悪い。カブトムシやバッタのぬいぐるみをメシの傍に置くとか、店にケンカ売っているとしか思えない。必然、最後に残るのは爬虫類なのである。

爬虫類の中でも、ヘビやトカゲは厳しいだろう。可愛くないし、あのヌラヌラした表皮を連想させてしまい、やはり気持ち悪い。イルカなどは哺乳類だけど魚類のように冷血とは程遠く愛嬌もあるので結構アドバンテージは高いのだが、いかんせんファンタジー過ぎる。求められるのはファンタジー過ぎず、気持ち悪くなく、汚くもなく、一定の生命力を感じさせ愛嬌もあり、何より大衆に支持される生き物…。

もうカメしか居ないじゃないか。僕がカメのぬいぐるみを選んだのは必然。唯一に近い選択だ。特定のキャラクタに執着しているわけではないというアピール。誰でも知っている動物。かつ人に見られた時も「お、カメだ」と穏便に事が運ぶ。運が良ければ「可愛い♪」などと言われる。そんなぬいぐるみ、カメ以外にあるか? ディズニーもジブリも及ばない究極の一択だ。

何より、根本的な大問題がある。僕は大人、それも「いい大人」だ。ぬいぐるみを持ってはしゃいでも許される子供時代は遥か昔。中高生や大学生のように、カバンにキャラクタのぬいぐるみをぶら下げて歩いていても「可愛いところもあるのね」なんて微笑ましく見守られる年齢もとうに過ぎ、むしろ「あのヒト頭がおかしいのね」と指差されるような、そんな年齢だ。そりゃ慎重にもなるさ。慎重になるからこそカメ以外に思い付かなかった。

本当はそれですらギリギリなんだ。誰かに聞かれた時にも、「食事の写真を撮ってブログに載せたりしてるんですよ」と体裁を取り繕わなければならない。「このカメはボクと一心同体。相棒なんですよ」という本心すら言えない。大人の悲しさだ。波風を立てぬよう気を払い、世間におべっかを使わねばならないのだから。

そんな石橋を叩いて渡る慎重さや苦渋の選択の上に、現在の僕と亀吾との一蓮托生の旅は成り立っている。

以降、外食時はもちろんのこと、近場の散策、街に繰り出す時、県をまたいだ遠征や旅行にも必ず亀吾を携帯するようなった。その内、いつの間にか亀吾を持ち歩かないと心が落ち着かない自分が出来上がっていた。現在は頭の中で会話できるレベル。もう友達が居なくなったと思っていた僕には、まだ話し相手が残っていた。僕はまだ一人じゃなかった。

と思えるくらい亀吾には愛着を感じている。たとえば「アタシとそのカメ、どっちを取るの?」と聞かれても相当迷ってしまう、そんな究極の決断に関わる存在だ。そんな愛情としつこいほどの露出の甲斐あってか、親しい人達の中では常に僕とセットで行動するカメという理解を得ている。

あるいは風景の一つとしての認識。いくつかの飲み屋では僕よりも亀吾の印象の方が深い。店員から「あのカメのお客さん」として覚えられている僕の方がまるでオプション扱いだ。まあ、何でも続けてみるものだな。

という地道な努力の結果、一部の人達に対しては市民権を得た。気の許せる友人等には「モバイル亀二」と呼ばれ、親しい友人などは外食先のテーブルに料理が載せられた瞬間、僕がカメラを構えるより早く「ほれっ」と被写体である亀吾を受け取るためにその手を差し出す。嫁以外で理解してくれる人間がこれほど居るとは案外驚きだな。

まあ、そんな寛容さはあくまで一部の空間限定だとも充分理解している。だから亀吾をおおっぴらに見せる相手はごく一部だ。基本的には、亀吾の存在を認めてくれる人間が同席している食卓のみ。赤の他人の目はあまり気にしないのでカウントしない。

ただ、気にはしないが、店員や隣のテーブルに座る客からすれば当然、亀吾と一緒に写真を撮る風景は奇異に映るだろう。よって、他人からそういう目で見られても我慢してくれる大人力を持った同席者という制限も付加される。

まあ相当厳しい条件だ。実際の人数で言えば20人くらいか。それ以外の人間と同席する場合、亀吾は取り出さない。「忍びが己の素性を語るのは心底惚れたお方に対してだけですよ」という骨の言葉を借りるなら、「オレがカメを見せるのは心底好きな人に対してだけですよ」ということだ。

そんな愛情がありながらも、誕生日パーティの買出しに出掛けるのは腰が重い。腰が重いというか痛い。その腰痛と昨今の無気力も手伝い、午後三時頃まで無意味にダラダラしていた。布団にもぐったまま漫画の「NARUTO」を読み返し、小腹が空いたけど自分では動きたくないので、嫁を呼んで枕元に酒とツマミを持ってこさせる始末。ものすごい怠惰ぶりだ。さすがに「オレは今後生きていけるのか?」と恐怖した。

だが、唯々諾々としていても時間が過ぎるのみ。朽ち果てた魂に鞭を振るい、何とか外出の準備をする。誕生日パーティの料理やケーキは北千住のマルイで調達する予定だが、その前に浅草に出向くことにした。亀吾にピッタリの兜のフィギュアを売ってるらしいので。いわゆる誕生日プレゼントである。愛情があるゆえ、その辺にも手は抜かない。

こうして久々に出向いた浅草だが、相変わらず人だらけである。それでも街を行き交う人々には独特のアットホームさがあるというか、着飾らない素直なオーラを醸す人間が多いため、銀座や新宿よりも気を遣わないで歩ける。

とりあえず僕等は、亀吾用の兜が売っている浅草寺へと向かう。というか、浅草って浅草寺以外に見るとこあんのかな? と思うほどに定番でワンパターンな場所だ。浅草寺は「せんそうじ」と読むのだが、それを知らない人間も意外と多いようだ。「浅草寺に行く」という言い方はあまりされない。「浅草寺ってナニ?」という地元の人間すら居た。

「雷門(かみなりもん)」前のビジュアルがあまりに印象深過ぎるからだろうか。「雷門に行く」という言い方をする人が結構見られる。あるいは単純に「浅草に行く」と言えば、イコール「浅草寺に行く」という意味で通ってしまう。ある意味、すさまじいネームバリューだろう。その証拠に、雷門前はいつ行っても観光客で団子状態だ。東京の観光地として鉄板で、外国人にもウケが良い、決して外さない場所。そんな浅草寺が僕は嫌いではない。

とりあえず売店を一通り眺めながら、お参りもして、本来の目的である亀吾用兜も購入。3000円もした。ジョークにしては高い買い物だ。まあ別にジョークでもないので別にいいけど。浅草寺敷地内には、学生風の観光客やら、いかにも飲んだくれっぽいオッサンやら、「一撃必殺」とプリントされたシャツを嬉しそうに着て歩く外人やら、着物を来たお姉さんやら、デカい犬を連れた地元の爺さんやら、まさに人種の坩堝。六本木や原宿、表参道や巣鴨などでは決して届かない幅広さがあった。

浅草巡りの後、「ニュー浅草」という場末系の居酒屋で軽く飲む。嫁が以前、義妹と浅草散策していた時に見つけた店で、その場末っぽさがいいとのことだ。土地柄か、浅草周辺には通常の店舗型の飲み屋の他にも、道端に椅子を出して野外飲みが出来る場所が多数乱立している。上野御徒町・あるいは有楽町のガード下のような雰囲気か。

だけど浅草の方が一層粗雑だ。店員の呼び込みもはるかに凄く、激戦区を思わせる。マイクパフォーマンスでつまらない話をする兄ちゃんとかも居るし。スカイツリーなどオシャレな装いで誤魔化そうとも、その本質はやはりカオス。浅草は昔も今も下町の鑑だった。

飲み屋の「ニュー浅草」は、一階と二階がいかにも下町系の粗雑さを醸し出す。店員のおばちゃんの威勢もよく、いかにも江戸っ子風だ。三階は、比較的普通の飲み屋っぽく落ち着いており清潔だ。今回は満席のため三階に案内されたが、一階と二階こそが「ニュー浅草」の真価だと嫁は強調するので、次は是非一階二階を試したいところである。料理は普通に食えるレベル。駄菓子屋風なメニューも結構あったのが特徴だ。

「ニュー浅草」を離れ、北千住に向かおうと地下鉄銀座線の駅へと降り立った僕等。しかし、その銀座線の通路を少し外れた場所に曲がった途端、異世界に迷い込んだのかと一瞬思った。

その一角は、まるで昭和初期であるかのような寂れた場所。汚らしい飲み屋や中華屋。オヤジが好みそうな赤提灯系であり、場末スナックに居そうなチーママ風のマダムが居たりする。寿司屋などは、ホントにネタ大丈夫なのか?と疑ってしまいたいくらい客が入らなそうな陰気さだ。

寂れた整体マッサージ屋や占い屋。気導術を駆使したマッサージ屋などもある。本当にここは銀座線の中か? ここは本当に東京? そう思えてしまう異空間。明らかに漂うオーラが違う別世界だった。若い姉ちゃん達は見向きもしないし近付きたくもないだろう。

だけど僕等ほどの熟練者になれば、別の価値観が働く。いわゆる怖いもの見たさ。素敵な体験よりも奇異な体験。劣悪な環境にこそ意義を見出す。そういう年代に既に到達していた。今度時間が出来たら、じっくりと廻ってみたい場所だった。

異世界を見た後、華やかな北千住のマルイデパ地下コーナーで誕生日の料理を買っていく。「ニュー浅草」である程度腹は膨れていたので、今回はパンやチーズなどのツマミ系。ケーキも小さいものにした。こういうイベントは、何を食うかではなく、やったかどうかという点に意義がある。過去数十回、ぬいぐるみの誕生日を繰り返してきた僕等は、それを充分に承知していた。

家に住みつく数え切れないほどのカメのぬいぐるみ達。その中でも、とりわけ重要な二匹。家の中の相棒、亀二。そして外での相棒、亀吾。もはや嫁を除けば最も時間と空間を共有している存在だ。各イベントに密接に関わってきたし、それがあるから各イベントも思い出し易い。そういう意味で、一日一日が昔は長かった。

しかし最近は一日一日が短い。何をやったか思い出せず、時間の経過が異常に短く感じる。自分の心に変化点があったからだというのは自覚している。消耗しているから時間が短く感じるのだと。

それでも、亀吾と外で撮った写真を改めて振り返れば思い出す。そんな極端に短い、何もなかったと感じた日々の中にも、確かな動きがあったことを。何かが残っていることを。記憶力の低下した今の僕にとって、過去を振り返る唯一の材料は、撮り溜めた写真であり、手記であり、そして亀吾達、僕の相棒の存在であり…。

気力尽きるまで、命尽きるまで、僕はこれからも亀吾と共に旅をするだろう。

20131122(金) すごい喜びとすごい臭い(不快表現アリ、注意)

131122(金)-01【0750頃】柿《家-嫁》_01 131122(金)-02【1415頃】キャサリンハムネット時計破損《職場-一人》_01 131122(金)-03【2200~2210】つけ麺屋「やすべえ」《秋葉原-一人》_01 131122(金)-04【2220~2300】ルノアール秋葉原《秋葉原-一人》_01 131122(金)-05【0040頃】カール《家-嫁》_01 131122(金)-06【0050頃】新潟土産柿ピー《家-嫁》_01

 【朝メシ】
柿(家-嫁)

【昼メシ】
カレーパン(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
つけ麺屋「やすべえ」(秋葉原-一人)
喫茶店ルノアール(秋葉原-一人)
カール、新潟土産柿ピー(家-嫁)

【イベント】
秋葉原
  
  
【所感】
ギスギスした心がフワッと軽くなる瞬間。喜びや幸せを感じる時。人によって違うし、その時の気分や精神状態も大きく関わる。今の僕の場合は断然、新しいExcel関数をマスターした時だな。天にも昇る気分だ。

今回使ったのは「ISERROR関数」。「イズエラー」と読む。IF文と組み合わせるのが慣例だ。定義を調べれば、「テストの対象が任意のエラー値を参照する時TRUE を返す」という説明。はっきり言って意味分かんない。

実際、自分の案件で説明した方が良かろう。僕の場合は、予算に対する売上実績の達成率を表示する際に使った。もちろん単位は%、パーセンテージだ。たとえば、11月に1000円の予算を立てたとする。そして11月を締めた時、500円の実績が出た。となれば11月の達成率は500÷1000=0.5。すなわち50%になる。

セルで示すのであれば、予算1000円を入力する場所はセルA1。実績はセルB1。そしてC1に達成率を表示したいという感じ。そうなると、C1に「=B1/A1」という数式を入力するのが基本だ。書式は右クリックの「書式設定」で「パーセンテージ」を選んでおけばOK。そうすると、A1とB1に数字を入力した瞬間、C1に達成率のパーセンテージが反映・表示される。最もシンプルな四則演算だ。

別にそれはいい。問題は、11月の予算と実績だけでなく、その後に続く12月、1月、2月、3月…と同じ法則で入力したい場合。11月時点では、まだ12月から先の予算は立てられない。だけど数式だけはあらかじめ組み込んでおきたい。そういう場合、どうするか。

1行目に11月の予算と実績と達成率。2行目に12月、3行目に1月…という風に下に下りていく表を作成する。達成率の部分、すなわち11月の達成率を反映させるセルC1の下、C2、C3の部分に同じ数式を入れるとどうなるか。

C1→「=B1/A1」
C2→「=B2/A2」
C3→「=B3/A3」

となるはずだ。

しかしその数式だと、予算と実績を入力していないと、C2およびC3の部分には「#DIV/0!」というエラー結果が表示される。数式の対象となるセルに何も入力していない場合に起こるエラーだ。僕はこの「#DIV/0!」を消したい。他は空白なのに、C列の部分だけ延々と「#DIV/0!」が表示されているのは美しくない。

そこで登場するのが「ISERROR関数」になる。日本語で説明するのははっきり言って不可能に近いので、数式だけ挙げておく。

=IF(ISERROR(B2/A2),””,(B2/A2))

以上の数式をC2セルに入力すればいい。これで12月の実績B2を12月の予算A2で割った時の達成率を表示するC2セルは、B2とA2に入力しない状態でも空白になる。つまり「#DIV/0!」が消える。非常に美しい体裁。

ポイントは数式の中の『””』という部分と、「B2/A2」という同じ数式を二回数式に組み込むことか。『””』という数式は空白を表す。つまり、「B2/A2の結果がエラー(まだ出ていない)の場合、すなわち#DIV/0!だった場合は、空白にしといて下さい。ちゃんと数字を入れてB2/A2が計算された場合のみ、その結果を表示して下さい」という命令式になる。

はっきり言って、とても便利だ。かつ何となくカッコいい。Excelを使いこなしている気分に陥る。その後も、覚えたてのサルのように僕はISERROR関数を打ち込み続け、ほぼマスターしたのだが、それにしても日本語で説明するのは難しい。例文の数式を一つ上げればそれで済むものを、何百文字も費やして説明するのだから。漫画や画像や映像が表現力という点でどれだけアドバンテージを持っているか痛感する事案だろう。

そもそも、Excel上のISERROE関数の定義説明、「テストの対象が任意のエラー値を参照する時TRUE を返す」という文章自体が理解不能だ。僕が思うに、Excelの数式や関数を覚えたいなら日本語の説明は気にしない方が無難。

いや、むしろスルーすべきだ。難解というより日本語として機能していない。余計に混乱するだけだから。

ただただ例文を参照しながら自分のExcel画面と見比べ、何も考えず例文通りに数式を入力していけばいい。そして入力した数式が画面上で実際どう反映されるか確認する。その作業を延々と繰り返すのが習得への近道であることは確実だ。文字に翻弄されてはいけない。

要は理論でなく実践。英語学習に例えるなら、単語や英文を頭で読むのではなく、実際声に出して発音すること。同じ英文を50回も繰り返せば、テキストを見ずともスラスラ発音出来るようになるだろう。バスケのジャンプシュートに例えるなら、ひたすらリングに向かってシュートを打ち続けること。二万本も打てば試合でも通用するだろう。何度も何度も繰り返したものだけが自分の血肉になる。
という話。僕にとって、ギスギスした心がフワッと軽くなり、喜びや幸せを感じられた瞬間。それが今回の「ISEERE関数」習得イベントだ。人が聞けば「ふーん、それで?」と終わる話だろうけど、冒頭に述べたように人によって気分によって喜びポイントはまるで違うということだ。僕にとっては超嬉しい。一つ上に昇ったという実感だ。逆に言うなら、今の僕はこういう類のものにしか喜びを見出せなくなっている。

喜びや幸せがあれば当然、悲しみを拾うこともある。僕がしている腕時計のバンド部分の突起が、椅子の布部分に引っ掛かってぶっ壊れたのだ。毎日時計をしているわけじゃないが、僕はそれ以外に時計を持っていないので、色々とショックだった。腕時計はメタル製で、キャサリンハムネットのブラック色。嫁に買ってもらったものだ。もう8年くらい使っているか。替え替える気は全くない。

人からもらったものっていうのは格段の愛着が生まれる。それが身に着けるものならなおさらだ。どんなにボロく流行遅れになったとしても、捨てたり買い替えたりは出来ない。モノをもらったのではない。心をもらっているのだ。つまり真心。それを身に着けていることは、頂いた心と常に在るということで、付着した思い出を受け止めながら生きるということで。

それは力にこそなれ、マイナスには決してならない。同時に、頂いた真心に対し、真心で応える姿勢も表している。君から真心をもらうと共に、自分からも、まごころを君に…。そういうモノがいくつかある。それが壊れたからショックなのだ。いずれ修理はするが、不吉な予感を覚えてならなかった。

不吉な予感が当たったのか。嫁は友人等と飲みということで、僕もアキバで適当に遊んでいた。パチを打ったり、「やすべえ」で美味いつけ麺食ったり、ルノアールで思索を巡らせたり。その秋葉原から地元に向かう帰りの電車の中で、とんでもない目に遭遇してしまった。

週末ということで遅くまではしゃぐリーマンや姉ちゃん達がひしめく中、何故か乗客があまり乗っていない車両を見つけた。「ラッキー♪」と思った僕は、素直にその車両に乗り込む。しかし車両の空間が少し妙な雰囲気。乗客達の立つ場所が、ドア付近に密集しているのだ。

つまり、座席上に吊るされた吊り輪スペースに殆ど人が立っていない。とにかく皆がドア付近で立ち止まっているわけだ。「あんなに空いてるのに何故みんな行かないんだろ?」と思ってガラガラの吊り輪スペースに向かったのだが、僕はあまりに疑うことを知らない素直ボーイだった。

吊り輪のところに立った瞬間、鼻がひん曲がるほどの悪臭がしたのだ。汗と乾いた体臭が入り混じったような、すえたような、数ヶ月風呂に入ってないような匂い。いや、匂いじゃなくて臭い。誤解のないよう分かり易く訳すなら、乞食の臭いだ。とにかく一瞬で吐きそうになる。臭いの元は、震源地は一体どこだ。僕はすぐさま辺りを見回した。

すると、居た。僕が立っている膝先の席。9人用の長い座席の真ん中。僕から3~4人分離れた場所に、土方で工事をして泥だらけになったジャケットとズボンを1ヶ月間着続けましたと言わんばかりの服装をした爺さんが、居た。

その長髪気味な白髪には、泥なのか汚物なのか知らないが、粉のようなものが付着し、間違いなく髪を数ヶ月洗ってないと一目で分かる。まさしく漫画で見るような仙人だ。そんな爺さんが、脚を広げながら座席に座り、眠っているのか起きてるのか分からないような虚ろな目をしたまま、口をポカーンと開いたまま、虚空を見つめる。タラコ唇っぽい下唇をだらしなく垂れ下げた、60代前半とおぼしき爺さんだった。この時の衝撃は言葉で説明するだけでは足りない。

だからこそ、匂いの発信源はこの爺さんだとすぐに察する。僕は少しでも遠ざかろうと、だけどあからさまに遠ざかるのは何となく気が引けて、爺さんが座る座席側の対面の座席の吊り輪に移動した。

それでも臭いは余裕で届く。心底気持ち悪い。マジで臭ぇ。吐きそうだ。そんな言葉ばかりが頭を巡って集中できない。だから乗客達は誰もこの辺りに立たなかったのか。僕は自分の浅はかさを呪った。

結局、爺さんが座る9人用座席の列および、その反対側の座席の吊り輪部分に立っているのは僕と、あと二人だけの計三人。しかも三人が三人とも爺さんの座席の逆側、つまり爺さんに背を向けた格好で立っている。爺さんの列には一人も居ない。当たり前だ…。誰が堪えられるっていうんだ、こんな地獄の悪臭に。

だけど、その座席に座っているヤツが居た。爺さん、いやジジイの左右にちょうど一人分だけポッカリと空間を作ってはいるが、そこから横にはリーマンのオッサンやら兄ちゃんが普通に座っている。驚いたどころの話じゃない。強者、いや悟り人の境地だ。

まあ恐らく、最初リーマン達が座っているところに後からジジイが来てドッカリと座ったのだろうが。両隣はすぐさま逃げたが、そのさらに隣のリーマン達は立つに立てなくなった、いや逃げるタイミングを逸したに違いない。ジジイの両隣にちょうど人間一人分の空間がポッカリと、まるで図ったように空いているのがその証拠だ。

それにしても、大分離れた僕のところですら鼻が捻じ曲がるのに、座ってるリーマン等はよく我慢しているな。

と思ったら、ジジイに最も近い左右の二人のリーマンは、マスクをしていた。多分、ジジイが座ってすぐにカバンから取り出して着けたのだろう。このマスクを持っていたから席を離れなかったのか。用意周到にも程がある。

風邪なんて引かない、咳なんか出ない。普段そう思っていても100%とは言えない。だから念のため常備する。たとえ本来の使い方でなくとも、持っていさえすればアクシデントを回避できる。まさに「備えあれば憂いなし」の諺を体現してくれた英雄リーマンだった。

さすが日々不条理と戦うリーマンは心構えが違う。いやそれよりも、こんなに宇宙壊滅的な悪臭の中、マスクをしているとはいえ何事もないような素振りで普通に座って本を読んでいるこのリーマン二人の鋼鉄の精神こそがカッコイイ。お前ら漢だ。マジで惚れる。僕が女なら「ねえ抱いて!?」と速攻でアタックするね。

女ならこうはいかない。女は特に汚いもの、醜いもの、臭いものが嫌いだから。ジジイが座った瞬間、いや入り口に足を踏み入れた瞬間に席を立つだろう。感情に正直なのだ、女は。まあそれでいいとは思うけど。

ただ、吊り輪付近の乗客は無言としても、入り口付近の乗客達は何事もないようにおしゃべりしている。充分臭いが届く範囲なのに、あそこに立っているOL二人組なんて「それでさあ、彼氏がさあ」みたいなノリで普通に恋バナしてる。

何というか、ものすごい大人力だな。あんまりあからさまに非難の目を向けてはいけないと、ジジイに気遣ってるのだろうか。いや、それはないな。ただただ無関心。どうでもいいんだ、彼女等にとっては。

本心では「さっさと下りろ」「そんなに臭ぇのに乗ってくんなよ」どころか、多分「死ね」とまで思っている。「お前みたいなヤツは乗る資格ないんだよ」「つか乗る前に駅員が止めろよな」とか、ジジイに対して負の感情を抱いていることは間違いない。

そこは僕も同感だ。金を払えば、切符代さえ出せば乗客皆が平等だとは思っていない。最低限のマナーは必要だろ。臭いとか、その最筆頭だよ。ジジイはそのマナーを完全に逸脱している。公的性格が強い車両という空間の中だけに、度を過ぎた行為や佇まいは排除されて然るべき。

たとえば、車両内に胡坐をかいてマックを食い始めるヤンキー小娘達とか。実際に僕は見た。類似としてジュースを飲むのもイエローシグナル。缶をプシュっと空けて酒を飲むおっさんとかも結構見られる。もし車両が揺れてこぼれたらどうすんだ、それがオレの服に掛かったらどうすんだ、という想定よりも、前提として見るだけで不快なのだ。

臭いについても同様。風呂くらい入れ、あるいは洗濯くらいしろ、ということだ。乗るのなら洗え、でなければ帰れ。言いたいことはそれだけだよ。同じ金額の切符代を払っているからこそ、逸脱した乗客が自分ルールで皆の足を引っ張るのに我慢ができない。

それにしても、ジジイはある意味すげえな。何の特殊スキルもないジジイだろうに、特殊スメルだけで誰も彼に抗えない。皆が彼を避けて通る。モーゼの十戒のようだ。

ただ、ここで言いたいのはそうじゃなくて。人間として最低限の身だしなみとマナーを身に付けておかないと、人間社会に居られないという現実だ。社会から爪弾きにされる。だが、それが当たり前だと僕は思う。人間社会には法律があり、道徳があり、ルールがあり、マナーがあるのだから。守らない者は、そのルールが存在する世界で生きられないのは当たり前。

あと、実はもう一つ重要なことを言い忘れていた。個人的なことだが。このジジイ、実は前にも見たんだよな。2ヶ月くらい前か。あのタラコ唇と仙人のような服装と髪型ですぐに分かった。その時も強烈な匂いで、僕は吐きそうになったものだ。同じ日比谷線だった。

そういうデジャブがあるから、僕は今日思ったんだよ。「コイツまだ生きてたのか」と。希望を持って頑張ってるヤツが突然死ぬ世の中なのに、生きたくても生きれないヤツだっているのに、希望も無く何の生産性もなく、社会に貢献せず、愛する人間も気に掛ける相手もおらず、ただ息をしているだけの肉塊が普通に生きている。あまつさえ電車という文明の利器を利用してる。社会に溶け込んでいる。皮肉か?

それとも、これも運命だとでも言うのか? 人の生き死には運命で決まっていると。このジジイは生きる運命なのだ。このジジイにはまだ果たすべき役割があるとでもおっしゃるのか神様?

もしかしてその役割とは、不特定多数の人間に悪臭を振り撒き、そのおぞましい姿を見た人達が、「ああはなりたくない」と気を引き締めるためのきっかけか? 反面教師としての存在意義か?

確かにそれはあるかもしれない。だけど日々悩み、考え、それでも必死で生きようとしている人間が死んでいく。逆に、そんなものは元々ない、あるいはもう忘れてしまったという生き物が生きている。不条理すぎる。しかし現実だ。僕はこの現実が辛い。こういう現実が辛すぎる。

そしてもう一つ。会いたくないヤツに会ってしまうという不条理。絶対に会いたくないのに、存在すら忘れてたのに、自分の生活に一切関わることのない人間なのに、時分にとってどうでもいい路傍の小石なのに、強引に存在感を示してくる。記憶に捻じ込んでくる。逆に、会いたい人間や、心から気にしてやまない人間には全く会えない。生涯会わないかもしれないという場合もザラに発生しうる。人の人生はそういうことが多すぎはしないか?

それも偶然? それとも運命? 何か心を汚された気分になる。

要するに、神様は不平等ということだ。

夜食で食った新潟土産の柿ピーの辛さが、世間の世知辛さ、ままならない現実をますます教えてくれた。

20131121(木) 決して残したくない、残してはいけない写真

131121(木)-01【0730頃】柿《家-嫁》_01 131121(木)-03【2340~0000】日高屋《梅島-一人》_01

 【朝メシ】
柿(家-嫁)

【昼メシ】
カレーパン(職場付近-一人)
 
【夜メシ】
取引先の近くの飲み屋(神奈川の方-職場同僚、取引先)
日高屋(梅島-一人)

【イベント】
プレゼン
  
  
【所感】
取引先各社に向けに決算報告や翌年度の報告会を開く企業は少なくない。上場している会社であれば尚更だ。株主への説明責任もあるし、取引先にとっても相手の現状および今後の計画を把握することは、正しいビジネス判断を得る上で欠かせない。

ウチの会社も似たようなことをやっている。とはいっても密接な取引先一社のお偉いさん達に対して年二回、愚にもつかない実績報告と煙に巻いた抽象的な販売計画をプレゼンテーションするだけの作業だが。

上場もしておらず一般株主も存在せず、100%株主のオーナー社長が紙っぺらの一人株主総会をいつの間にか終わらせているワンマンブラック企業であるウチが、そんなことをする必要があるのかどうかは置いといて、お決まりのプレゼンテーションは半期に一度、年度が変わる度に欠かさず執り行われる。所要時間も長い。4時間は会議室に拘束される、案外気合の入ったイベントだ。

ただ、このプレゼンによって両社が一心同体、一蓮托生の意気込みを持つことはもうない。取引先は「ガンガン行きましょう」「もっとチャレンジしていきましょう」「喜びも痛みも一緒に分かち合いましょう」と熱心に迫ってくるのだが、ウチの上役連中は「ウチがそこまで付き合う必要ねぇだろ」と冷めている。

ブラック企業の例に漏れず高額な株式配当や報酬を独占し、死ぬまで余裕で暮らせる状態になっているオーナー社長などは、「オレが出る幕じゃない、お前等で勝手にやってくれ」と従業員に殆どの業務を丸投げ状態。昼過ぎに出勤しては従業員をからかい、電話で笑いながらゴルフ仲間達と週末の予定の打ち合わせをしている有様だ。

だったら、丸投げされているからには従業員が事案に対する決裁権を持っているかと言えば、全くない。結局はトップの裁可を仰ぐ必要がある。だけど従業員が上げてくる提案に対しても「ヒマがあったら聞いてやるよ」というスタンスで構え、やる気は殆どない。

かつ一日一回、よくて二回の相談や報告時間しか取れない。提案案件が多すぎると「そんなのそっちで考えろよ」と不快そうな顔をし、遅めの時間に提案すると「こんな時間に話し掛けてくんな」と怒鳴る。夕方6時で『こんな時間』とか言われりゃあ、まあ話し掛けたくなくなるよな。

さらに大体の提案は「何でウチが損をしなけりゃいけないんだ」という理由で却下される。「損して得取る」というスタンスは基本ない。強欲で金満だからだ。あと感情的。そうやって何度も跳ね除けられた従業員は、いずれ疲れて何も提案しなくなる。

さらに悪いことに、そのオーナー社長の機嫌を取るため迎合し提灯持ちと化した部内のトップが、強欲・金満思考の下、従業員達の提案を「その提案は無理」と冷たく却下する。なぜなら「オーナー社長が許さないだろうから」と、自分の意思や見解など関係ない、ただトップの人間が好む案件か嫌がる案件かという判断で部下の提案に合否を付ける。これで建設的な提案を上げろという方が無理がある。

かつ「もっと考えろよバカ」という趣旨の嫌味を必ず付け加える。ますます提案するのが嫌になる。結局、上役やトップに提案が届く前に部内の長からストップが掛かり、多くの提案が闇に葬られる。せっかく自分なりに悩み吟味した提案を、面接の書類選考のような落とされ方をすれば意気も消沈する。

その様子が、上役やトップには何もしていないように見える。従業員達はただダラダラとデスクに座り、外回りに出ているだけで、何の提案も上げてこない。お前等はやる気があるのか、と怒る。傍からそう見えるまでの背景や過程、水面下での努力、ボツの嵐で戦いの場にすら出られないという従業員の心の内が見えていない。

このサイクルが僕の覚えている限り、5年くらいは続いたか。僕は、それでも何とか踏ん張り提案し続けていたつもりだが、もう諦めたし疲れた。何か話すたびに否定され、嫌味を言われるだけだと分かっている相手とは会話しないのが一番だから。言うのも、言われるのも面倒臭い。

今は部下達が同じような状況で苦しんでいる。彼等のやる気が日々失せていくのが見て取れる。どうしようもない会社だ、ホントに。

人間という生き物は、どうしても自分主体で考えがちだ。「なぜ何も言わないんだ」と相手を非難した時、その相手が「なぜコイツは何も言わないのだろう」という理由まで考えが及ばない。相手が悪だと決め付けているからだ。自分が悪かもしれないとは考えない。これこそ主体的な判断だ。一方的なのである。

その相手は心の中で「相手がお前だから何も言わないんだよ」と反論しているかもしれない。「今まで散々コケにされたからもう何も言いたくないんだよ」と殺意を抱いているかもしれない。

そういった相手の心中を予想し、「もしかして何か原因があるのかも」という可能性に到達出来る者は、波風を立てないコミュニケーションが取れる人間だし、相手も壁を作らない。さらに「もしかして自分が原因なのかも」と自らを振り返られる人間は、そもそも敵を作らない。双方向の人間と言えよう。

要するに一方的な人間とは話をしたくないということ。一方的か双方向かは、自分が相手に対して折れたり譲歩した時に凡そ判別出来る。「確かにそうですね」「僕が間違ってました」というニュアンスを伝えた時だ。

双方向の人間は、相手が折れてきたとしても「まあお前の意見も一理あるよ」「君の言も悪くないけどね」というフォローを入れる。言葉にしなくとも、相手を全否定せず、一部肯定あるいは理解を示すオーラや表情を漂わせる。

だが一方的な人間は、相手が折れた途端「そうだろ?」「僕の言うことが正しいだろ?」「だから言っただろ」「お前の考えは浅はかすぎる」といった非難や念押しの言葉を浴びせかけてくる。あるいは「お前のここが間違っている」「オレのここが正しい」と、相手の理論の不整合や自分の理論の補強を必要以上に強調する。

ディベートという言葉がある。討論とでも訳せばいいのか。僕が大学生の頃かなり流行っていた言葉で、対立意見を持った人間同士による討論という意味。肝心なのは、自らの意見をいかに論理的に説明するか。説得力を持たせるか。そして相手の論理の綻びを探し出し否定するか。

基本的に相手の意見に譲歩してはいけない。自分の意見を最後まで押し通すのがディベートだ。そのためにあらゆる論理を行使する。簡単に言えば「自分が正しいことを分からせる」、つまり「相手を言い負かす」のがディベート。僕はこの言葉が若い頃からずっと好きになれなかった。

ディベートは、先に述べた「一方的」に連なるワードだからだ。譲らない、相手を理解しない、押し通す、揚げ足を取る。あらゆる負のキーワードが見え隠れする。その冷酷なイメージに拒否感を抱くのだ。そしてそれは、まさにウチの会社がやっていることだ。会社組織はディベートをする場じゃない。

誰もが異なる価値観を持っている。その上で、一つの目標や議題に対し、その多様な価値観を持った人間が異なる知恵を出し合い、それらをすり合わせながら最良の道筋を見つけることが理想のはず。だからディベートは必要ない。求められるのは双方向のコミュニケーションでありディスカッションなのだ。なぜそれが分からない? なぜそれに気付かない? ウチの会社には掛けているのはまさしく捻じ曲がった一方的なコミュニケーションだということを。

どうしても、一方の価値観を封殺あるいは全否定することに懐疑的になってしまう。立場が上の人間だからといって本当に組織にとって最良な戦略や決定をしている保証もなければ、平社員の言を取るに足らないと決め付けるのが正しいとも限らない。互いの言い分を互いで熟慮しない限り真実には近付けないというのに。

それでも取引先に対する形式的なプレゼンは毎年度行う。そして、その資料を作るのは僕。もう8年くらいずっと僕のターンだ。誰も作ろうとしない。「私はもうやりたくない、他の人に作らせて下さい」と匙を投げたこともあるが、「追々やっていこう」と曖昧に返され日々が過ぎ、プレゼンの季節になれば、何事もなかったかのように「佐波、プレゼンの資料よろしく」と指示が飛ぶ。皆、記憶を飛ばすのが上手い。

そういう状態で一人資料を黙々と作るのだが、上役などは「PCにへばり付いてばかりで本当に仕事をやっているのか」と疑惑の目を向ける。何を言っても無駄だと諦観した僕は、ある時期を境目にかなり手を抜くようになった。真剣にやっても意味がないし、意味がなかった。少なくともこの社内では。そんな自分が嫌いになる。疲れた。本当に疲れたんだよ、僕は。

そのプレゼンテーションの本番が今日。取引先に出向く。既に資料も出来ているし準備も完了している。資料作成するのは僕だが、2年前くらいから、発表は全員で分担してやろうという話になった。それが普通だ。むしろ僕は外してもらっていいくらいだ。

当然、本番前に何度かリハーサルをせねばならない。今週の始めに二回、そのリハーサルは行った。上役に対して本番形式でプレゼンを始めるのだが、上役が「じゃあ、やっていいぞ」と言った瞬間、皆が黙り込んだ。誰も司会・進行をしようとしない。資料作りの際に散々口出ししてきた上司も下を向いて黙っている。

こういう他人任せの風潮も悪しき傾向だ。「じゃあオレが」と名乗り出るヤツがいない。健全に回っている会社であれば、むしろ「オレが仕切るんで皆しゃしゃり出ないで下さいよ?」という情熱的な従業員が居てもいいはず。どこか違うんだよな。生きるために必死にやるのではなく、延命するためしがみつく、という感じ。

本来人間は、生きたいから必死になる生き物だが、資本主義社会においてはもう一段階上の次元が適正だろう。つまり「より良く生きたいから頑張る」のであり、逆に「頑張らないとより良く生きられない」という衝動。そんな一段階上の意識に至っている人間がウチにはほぼ居ない。だからしがみついて年を取るだけの老害予備軍ばかりが生産される。そして僕も、そうなりつつあると自覚しているからこそ自分をますます好きになれなかった。

というわけで、プレゼンのリハーサル時、誰も喋り出さず下を向く。だけど誰かが喋り出さないと始まらないから、仕方なく僕が仕切った。何と言うか、本番前には差し出口を挟みまくり仕切ろうとしているくせに、いざ発表の段になると自分は知らないとばかりに口をつぐんでしまう。突然ハシゴを外すというヤツだ。一貫性がない。

様々な思いを抱え、取引先へ出向き、プレゼンはほどなく終了。まさに非生産的。「その件は会社に持ち帰って後日」という常套句を使い、結局は殆ど進行しない。無意味だ。

それでも会食というか打ち上げは実施するからまた面倒臭い。付き合いというより惰性だ。しかもこの類の打ち上げは、いつも終わるのが遅い。かつてはウチの上役も同席していたこともあり、取引先の上役も出張る緊張する飲み会だったので、僕等下っ端は基本黙り込むのみだった。

「お前等も何か喋れ」と言われて何か発言するも、後で「あの発言は何なんだ」と怒られることも多かったため、今では誰も喋りたがらない。

社外との飲み会だけではあに。社内での飲み会もお通夜のようにシーンとしている。必ず「お前は何を言っているんだ」と非難されたり、弄られたりするので、本当に誰も余計なことを言わなくなった。口を開けば攻撃されると本能で恐怖しているからだ。

従業員が十人以上集まってるのに、各自が黙々と酒を飲み飯を食うだけの飲み会って、ホント他の人間から見ると異様。ウチは本当におかしい。発言できない、発言させない土壌が完璧なまでに整えられている。

まあ、今回の取引先との飲み会は、相手方も現場の人間達だけだったので気楽ではあった。それでも苦痛に変わりなし。プレゼンの続きとばかりに「頑張りましょう!」と向こうが気合を入れるけど、ウチの下っ端は余計なことを言うと上司に突っ込まれるので黙り込む。上司が「それをするには御社に○○してもらわないと」などと、現実的に実現しそうにない提案を長々と語ったり。まさに酒の席でのたわ言だ。一切意味はない。

そこから休日の過ごし方や趣味の話、子供の話などに移行し、その場限りの会話が続くというワンパターンには苦笑するしかない。ワンパターンでお互い飽きているだろうに、何故か飲み会は一向に終わらない。下の人間は皆帰りたそうだ。上の人間だけが延々と愚にもつかない駄話を繰り返す。一瞬「もう終わりか?」と一息つく場面が出来ても、らまた違う話題を持ち出して会を続行する。わざとか? と思うほどだ。

下の人間は差し出がましく「もう締めますか」などと言えない立場なのだから、上の人間こそが「そろそろお開きにしますか」と区切るべき。なのに、それをせずただ自分の気の赴くままに喋ってストレス発散している。立場上、喋りたいことを喋れない僕等からすればうんざりだ。付き合わされる方の身になって考えてないところも自分勝手なのである。

僕にとって、職場が絡む飲み会ほど時間の無駄を感じるものはない。そこらのルンペンと一緒にベンチに座り、ワンカップをあおりながら下品な会話をした方がよほど社会勉強になりそうだ。

飲み会は結局閉店まで続く。家まで電車で1時間半近く要するため疲れも倍増だ。疲れ果てた僕は地元に帰り、周囲を見渡す。ラーメン屋の「日高屋」から煌々と明かりが差していた。今回の飲み会会場は中華料理屋だったのだが、まるで食った気がしない。僕はあてつけのように、同じ中華系である「日高屋」へ駆け込みラーメンと餃子を獣のように貪り食った。

今日一日で何が一番楽しかったって、この日高屋のラーメンを食っている時間こそが至福。深夜1時半頃に寝入りながら、自分は今日という一日のことを将来全く覚えていないだろうと確信していた。写真も残したくないし撮りたくない。何処に出向こうが写真という名の記録を残すことを自らに課している僕にとって、その記録すら残さない、残していないケースは数えるほどしかない。望む望まざるに関わらず、僅かしかない。

その中の一つ。会社関係の写真は心底残したくない。シャッターを切るだけで魂を吸い取られそうだから。