【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルトミルミル
【昼メシ】(職場付近-一人)
コンビニカレーパン
【夜お茶】(東京・北千住-一人)
喫茶店「サンローゼ」
(アイスティー)
【夜メシ】(家-嫁)
トマトソーススパゲッティ、コーンポタージュ、キムチ豆腐、コールスローサラダ
【イベント】
無し
【所感】
給料日なのだが別段心が躍るわけでもなく、淡々とした時間を過ごす。「金は命より重い」という利根川センセイの格言はまさしく真実だと身に染みて分かっているし、それなくして人は生きていけないのが現実なのに、心は浮かない、魂は揺れない。自然、キーボードをタッチする指も動かない。
2月に入ってからの数週間、随分と腑抜けな感じが続いている。そうしている間にも日々は当たり前のように過ぎていく。とにかく先に進まなければ意味がない。と毎日のように心の中で念じるのだが、なかなかイメージに追い付けず、気が逸るばかり。結局、先に進んでいるのは時間だけというオチだったりする。
前を向くってどういう意味だ? 先に進むってどういうことだ? 今あるものを、昔あったものを振り返らないことが前を向くということか? 以前とは違う環境に身を置けば、違う道を歩めば先に進んだことになるのか? 最近、それをよく考える。
物理的にはそう見えるかもしれない。だが、肝心の心が前を向かなければ、ただのポーズに過ぎないのではないか? 心を前向きにした上で何か感触の残るものを得て、それに対して自分で納得出来ない限り、ただの逃げじゃないのか? ただ過去を切り捨てるだけの前進は、ただ面倒だから考えない方がいいという安易な道ではないのか? それは自分の視野を狭めるだけの行為じゃないのか? 今年が始まってもう2ヶ月が経過しているのだが、どうなんだ?
2013年という新年を迎えてから1~2週間は心身共に最高潮だったと思われる。そこを超えた辺りから少し翳りが見え始めたから、テンションを維持するために2月の始めに博多遠征をした。それは成功だった。しかし、旅先で熟考したがゆえに磨耗した部分も大いにあったのも確か。厳しい現実に直面させられたというべきか。日常では気付き得ない空虚の本質、出所がそこで思い切り浮き彫りにされた。浮き彫りにされたことによって、嫌が応でも心が抉り続けられる。それを抑え込むためにも、その磨耗に負けない、それを塗り潰すだけの切磋が必要だからと自分を奮起させる。磨耗に押し潰されるか、跳ね返すか。負けるか、否か。その二律背反の揺れの中で2月は生きてきた気がする。
そして結果、負けた気がする。プレシャーに押し潰され気味だったというか押し潰されていたと自分で分かる。マラソン大会の練習のためのジョギングを怠ったり、会社に遅刻したり、帰宅してから力無く寝てしまったり、後ろ向きな発言が多かったり。とにかくダークサイドな言動が目立った。これは去年の夏頃から冬にかけての無気力脱力症候群と同じルートだ。それを抜け出そうと今年は奮起したのだが、2月はどうやら難しかったようだ。
ただ、このまま行くと全く同じなので、修正は必要だろう。心構えも必要だが、物理的なきっかけを何か構築する必要性も感じる。それが何なのか、僕にはまだ確定出来ないけれど、3月も同じ状態に陥ってしまうと修正が効かなくなる。元々、やるかやらないか、進むか倒れるかという二者択一で今年は臨むと決めたはず。それだからには、今さら後には退けないということで、今一度ふんどしを締め直したいという流れである。
無くしてしまったものを取り戻すのは難しい。尽きてしまったものを再び同じ位置に持って来るのも難しい。壊れたものは直らない。なってしまったものは仕方ない。結局、別のベクトルから足りないものを補充していくしかない。ずっと前から分かっていることだし、人はそのようにしてエネルギーの行く先を都度修正し、それによって痛みを和らげ、自らの人間としての全体量を保ち続けるもの。誰だってそんなもんだろ? 質もベクトルも同じではない、だけどエネルギーの絶対容量は基本的に不変。であるからには、量的部分を頼みに、自らを形作り続けることは可能なはず、だよな。
というわけで、居ても立ってもいられなくなった僕は、終業時間を迎えてから残業もそこそこに、「ちょっと頭が痛いので」と断りを入れて逃げるように会社を後にした。風邪でも頭痛でも何でもない優良が付くほどの健康体なのだが。ただ、完全な嘘は言っていない。一日色々と考えすぎたからか、知恵熱よろしく頭が痛くなってきた気が実際するのだ。それに加え、終業後に同僚達が和気藹々と会話をしているのだが、その会話が今の自分にはどうにも生ぬるく感じてしまい、余計に気が散り殺気立ってしまう。こりゃ今日はここに居ても益が無い。そう判断し、それを解消するには何処かに一人篭ってPCを弄るのが妥当だと考えた。それが唯一の癒しであると。周囲に流され迎合する柔軟さは人並みに持っているはず。合わせる時は合わせるべきと頭では理解してもいる。それでも、直感的にどうにもならない時があった。
早々に会社を退散した僕は、北千住に降り立ち、東口を出てすぐのパチンコ屋の2階にある喫茶店「サンローゼ」に飛び込む。何年か前に開拓した、紅茶が美味い隠れた名店だ。店内は広いし、席数も多いし、かなり寛げる空間だと太鼓判を押せるレベル。北千住には、ドトールとか駅ナカ「at EASE」などの狭い喫茶店しかなく、梅島の「シルビア」のような快適空間など存在しないと思っていたが、よく考えればこの「サンローゼ」があったじゃないか。今さら思い出した。確か当時はDSでドラクエ9をプレイしていた記憶があるな。何故、僕はこの店の存在を忘れていたのだろうか。一人で黙々と作業をするに、ここまで打って付けの喫茶店は無いというのに。
現在進行形や近未来的スタンスで居ると、過去のことをどうしても奥に押しやりがちになる。過去を忘れるのが楽な生き方であると承知している。今を生きることが何より重要だということも理解している。だけど、今が過去よりも優れているとは必ずしも限らない。頑なに過去を振り返らず、今や未来ばかりを見据えるあまり、その時確かに見たはずの優れた店や商品や景色を、触れ合ったはずの素晴らしい人を、楽しい記憶や重宝すべき感性や貴重な経験ごと記憶から抜け落としてしまうのはまさしく本末転倒だろう。
過去を生きた上に現在の自分が居る。現在も未来も、過去の積み重ねの上に存在する。その積み重ねは言わば軌跡であり、その巡り合いは見方によっては奇跡だ。その軌跡や奇跡を次々と抹消してどうするのか。残すべきものは残しておき、思い出すべきものは思い出し続けるのが良い。そうしておくだけの価値を持ったものが必ずがあるはずで、逆に全く無いとなると、何のために生きてきたのか、何のために生きているのか、何のためにこれから生きるのか分からない。愛すべき日々にレクイエムを捧げるのは死ぬ直前だけでいい。全て消し去るにはまだ早い。「サンローゼ」もまた、僕が覚えておくべき喫茶店であった。
その「サンローゼ」にて、だだっ広い喫煙席の一角に僕はどっしりと腰掛け、アイスティーを注文する。そしてPCメガネを掛けて、ノートPCを手馴れた手つきでオープンし、スマートにキーボードを叩き続ける僕である。その僕が座る喫煙フロアは、全部で15~6席のテーブルが設置されている。いずれも一人用でなく3~4人用だ。それと同じようなフロアが店内に4つほどあるのだから、この「サンローゼ」がいかに広いか分かるだろう。だから僕が4人席に悪びれず陣取ってPCを弄りながらモバイルリーマンの属性を解放していたとしても全然余裕。誰も僕を咎めない。
加えてストレスも少ない。他の客も、互いに適度な距離を保って座っているからだ。井戸端会議的に喋りまくっているおばちゃん4人集団も、僕からテーブル2つ分離れた場所で話しているから気にならない。中堅リーマン二人の熱い商談も、僕の右後ろ3メートル先でのことだから雑音にならない。僕と同じく一人でモバイル戦士しているメガネのリーマン兄ちゃんも、僕からテーブル一つ分空けているから全然問題ない。
まあ当然だ。別に混雑で席を詰めなければならない状況ではない。各自が自由に席を選べる状況だ。そこでわざわざ他人の隣を選んで座るメリットなど存在しない。なぜなら、人は誰しも排他的な空間すなわちATフィールドを持つ生き物で、そのATフィールドを他人に侵害されると不快感を抱くように出来ているからだ。そのATフィールドに近付きすぎず、多少の距離感を保っていれば、自分も他人もストレスをあまり感じない。
逆に言えば、そこは限界ラインでもある。限界ラインを超えると、すなわち自分のすぐ真隣に他人が座ると、瞬く間にストレスを感じる。神経質だとかそういう話でなく、人はそういう風に出来ている。なので、好き好んで見知らぬ他人の隣に座るヤツがもし居るとすれば、ソイツは単なる物好き、いや変態である。
そもそも「真隣」という席配置は、極めて限定された者だけに与えられる特権。家族か、恋人か、親友にしか許されない指定席なのだ。あとは特例として2パターンくらい。一つ目はパチンコ店などに多く見られるが、両隣に他の客が座っているけど、自分としては「ここなら絶対出る」と信じているのなら、両隣に人が居ようが堂々と座っていい。もう一つはお洒落なバーなどにおいて、気に入った姉ちゃんが居たのでナンパしたくてたまらないという果敢な勇者マンが居るのなら、彼等にも真隣の特権を与えてもいいだろう。真隣の席に座る資格を得られるのは、絶対的な親密度を持った人間、あるいは揺るがない信念を持った勇者だけだ。それ以外はゴミ。一つ空けて座るのが常識であり礼儀だ。僕だってそうしてる。殆どの人間がそうしてる。
たとえば男子トイレで用を足す時を想定すると分かり易いだろう。小用便器がA、B、C、D、Eという感じで5つ設置されていたとする。絵文字で表すなら、(□□□□□)という5つの便器の並びだ。もしそのトイレに自分が入った時、既にAを誰かが使っていたらどうするか。図的に言えば(■□□□□)という状況下で、他の人間はどういう行動を取るかということだ。
人間心理的には、Aから一番離れた場所にあるEを使うか、あるいは1つ分だけ間を空けてCの便器に立つのが最も多いパターンではなかろう。図で表せば(■□□□■)、あるいは(■□■□□)という立ち位置だ。ちなみに僕の理想としてはCだと思う。つまり(■□■□□)の図式だ。これであれば、自分の後にもう一人入ってきても、ソイツは一番端っこのEを使用できるからだ。Eという最もストレスの少ない端席をリザーブしておいてあげるのだ。そのような配置を取れば、3人がトイレに入っても、誰一人として隣同士ぶつかることがなくストレスを感じない。まさに自分だけでなく後の人のことも考えた戦略的に優れた配置と言えよう。つまり気遣いから来るポインティングである。相手に対する気遣いであり、自分に対する気遣いであり・・・。
逆に言えば、一番最初に入ったヤツの立ち位置こそが重要。最初にA(■□□□□)とかC(□□■□□)とかE(□□□□■)に立つのなら、ソイツは気遣いのある人間だ。逆に、初っ端からB(□■□□□)とかD(□□□■□)に立つヤツは何も考えていない愚か者だ。そんなことされたら、次に入ってくるヤツが迷惑。必然的に(□■□■□)しか残されていないという目も当てられない状況。いきなり選択肢が一つしか残されていないという戦略的失敗例なのだ。トイレを利用する時だけでなく、ココイチのカウンター席に座る時なども、自分が座る位置には充分注意されたい。
というわけで、僕は広々とした喫茶店「サンローゼ」で、近場に誰も居ないというナイス環境の下、ストレス少なく作業をしていたわけだが、座ってから40~50分後、40代前半リーマンと、その部下なのか彼女なのか愛人なのか微妙な感じの20代後半女性という一組のペアが入店してきた。彼等は僕が居る喫煙フロアに歩を向けたかと思うと、ツカツカと僕の方へ歩み寄り、何と僕の真後ろのテーブルに「よっこいしょ!」と腰掛けやがったのだ。15個もあるテーブル席の中、4席くらいしか埋まっていないのに、わざわざ僕の真隣へと座ったのだ。「よっこいしょ」じゃねーよ! こんなに席が空いてるのに、なにオレの真後ろを狙い撃ちしてんだよ。如意棒のごとく怒りゲージが天を突き抜けた瞬間だった。
分からない、全く意味が分からない。その行動に、僕は敵意というよりも殺意を覚える。悪いことにそのリーマンがまたよく喋るわけで。女のようにマシンガントークをするリーマンのおっさんってどうなのよ? しかも、「オレは仕事でこういう大業を成し遂げた」とか、「オレの部下にこういうことをやらせて社長から直々にお褒めの言葉をもらった」とか、「どう? オレってスゲーだろ」的な武勇伝自分語りタイプのリーマンだったというダブルショック。彼女は完全に聞き役に徹している。その彼女、頷いているけどすごいつまんなそうだ。しかもリーマンは、店員に向かって「コーヒーどんな種類があんの?」とか、上から目線の物言いをするタイプでもあった。トリプルショックだ。よく彼女はこんなリーマンと一緒に居るよな。面白いのかな。何か弱味でも握られてんのか? 金で囲われてんのか? 蓼食う虫も好き好きということだろうか。
ともかく、その血気盛んな「オレは勇者」オーラをムンムンとさせるリーマンのお陰で気が散ったのは否めない。こういう状況、僕は過去に一度経験したことがある。確か秋葉原のラーメン屋「康竜」だったかな。店内には僕一人しか居なくて、そのカウンター席で僕は昼メシを黙々と食べていたのだけど、怪しい目つきをした男が入ってきて、カウンター席は10以上空いているにも関わらず、ヤツは僕のすぐ隣にドカリと座ったという、そんな記憶だ。
あの時も異常なほどに不快感を抱いたが、今日も似たような心境である。何というか、店内がガラリとして席もたんまり空いているのに、わざわざ他人のすぐ隣に来るような輩は、殺されても文句は言えない。人の機微をまったく察しない愚図なのか、単に嫌がらせをしたいのか、自分の存在を誰かに主張したいのか、根本的に滅茶苦茶寂しい人間なのか。いずれにしても、許し難い人種であることには疑いがない。
僕は今日、喫茶店「サンローゼ」で過ごした二時間半の間、一心不乱にノートパソコンを弄った。状況はどうあれ、それは非常に充実した時間だった。しかし同時に、僕の真後ろの席に座り、彼女の前で一生懸命虚勢を張っていた自称・勇者リーマンのことも、しばらく忘れられそうにない。僕がここで確信したのは、等身大とかけ離れるほど自分を大きく見せようとする男は傍から見るとカッコ悪いという再確認である。その実例を拝めたわけだから、ある意味貴重な体験だったかもしれない。
帰宅後、夜メシにトマトソーススパゲッティを食った。最初「頭痛は大丈夫か?」と心配した嫁は、予定していたスパゲッティを取りやめ「おかゆにするか? 買ってきたぺヤング焼きそばくらいにしとくか?」という二択を提案してきたが、僕のここに至るまでの事情や経緯を説明した途端、安心した模様。その安堵は、僕の容態が悪いわけではないと判明したことによるものか。それとも、わざわざ買って用意したスパゲッティとコーンスープとコールスローサラダとキムチ豆腐を無駄にせずに済んだことに胸をなで下ろしたという意味の安堵か。まあ両方だろうが、特に後者の思いは強かろう。気合を入れてメシのお膳立てをしていたのに、僕の体調のせいで全部無駄になったらとしたら、そりゃ発狂するわな。健康体で良かった。
そう、僕の身体でおかしいところは何もない。むしろ同年代で僕ほど戦闘力と熱気を備えた健康体リーマンもそうは見当たるまい。強いておかしいところを挙げるなら、せいぜい頭くらいなものか。最近、自分でも思わなくはないが、頭の中のどこかのネジを一本だけ置き忘れてきたようだ。会社の雰囲気に耐えきれないからと、仮病を使って仕事を早引けするリーマンは、まるでキレる中学生のよう。しかもその挙句、大人しく帰宅して休むわけでもなく、ライブとか飲みとかパチンコとか彼女とのデートとかに行くでもなく、ただ喫茶店に一人籠もってノートパソコンの液晶を見ながら一人の世界に没入すること。しかもそれにエクスタシーを感じ、恍惚に打ち震えるという倒錯行動。そういうリーマンってどうなのよ。何というか、着実に社会不適合者の道を歩みつつあるな。
だが、今はそれがいい。後々どう影響するかは置いておくにしても、狂気の沙汰ほど面白いという感じ方を人間は確かに持っている。でなければ、たとえば金曜の夜にクラブで狂ったように踊りまくるリーマンやOLの説明がつかない。彼等もまた、たまに訪れる狂気を欲している。日常が正気であるがゆえに。
人は、人生の何百分の一かを狂気の時間に充てている。ずっとそこに居れば文字通り気が狂ってしまうが、正気の時間しか存在しない状態もまた退屈で狂い死ぬからだ。束の間でもいいから違う場所、違う精神的領域に身を投じることで、日々のバランスを取っているのが多分、現実だろう。
日常の狭間という言い方。つまりスイッチが入るタイミング。その時、本来潜在的に持っている狂気が顔を出す。普段は隠れているだけ、いや隠しているだけだ。きっかけさえ与えれば、きっかけに巡り合いさえすれば、容易に仮面は剥がれるだろう。正気と狂気との間に境界線など殆ど無く、調律は取れているようで実は取れていない。
たとえば今日のメシにしても、その内容はイタリア料理のスパゲッティと、和韓混合のキムチ豆腐と、アメリカチックなコーンスープという、冷静に考えれば国籍的にちぐはぐな混合料理なのだ。もちろん普通に美味いのだが、神の視点から見下ろすと、調律が取れているようで取れていない。僕の場合は、その調律を崩すきっかけがノートパソコンを開くという行為であり、狂気へ突入する媒体が電子の世界だったというだけの話。人とはそういうものだ。
須らく人は心の中に狂気を宿している。だから実のところ、誰しも正常ではない。そのことに僕は既に気付いている。気付いている僕は、今日の喫茶店「サンローゼ」のテンションそのままに、食後ノートパソコンを開き、深夜2時頃まで再び一人の世界に没頭した。