20130228(木) 北千住の快適喫茶店「サンローゼ」は引きこもり増産工場

130228(木)-02【1940~2130】PC作業(喫茶店「サンローゼ」)《東京・北千住-一人》_01 130228(木)-03【2215頃】ひなまつりチョコ(うさこさん)《家-嫁》_01 130228(木)-04【2220~2245】トマトソーススパゲッティ、コーンスープ、キムチ豆腐、コールスローサラダ《家-嫁》_01 130228(木)-05【2245頃】コーラ《家-嫁》_01

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルトミルミル

【昼メシ】(職場付近-一人)
コンビニカレーパン

【夜お茶】(東京・北千住-一人)
喫茶店「サンローゼ」
(アイスティー)

【夜メシ】(家-嫁)
トマトソーススパゲッティ、コーンポタージュ、キムチ豆腐、コールスローサラダ

【イベント】
無し

【所感】
給料日なのだが別段心が躍るわけでもなく、淡々とした時間を過ごす。「金は命より重い」という利根川センセイの格言はまさしく真実だと身に染みて分かっているし、それなくして人は生きていけないのが現実なのに、心は浮かない、魂は揺れない。自然、キーボードをタッチする指も動かない。

2月に入ってからの数週間、随分と腑抜けな感じが続いている。そうしている間にも日々は当たり前のように過ぎていく。とにかく先に進まなければ意味がない。と毎日のように心の中で念じるのだが、なかなかイメージに追い付けず、気が逸るばかり。結局、先に進んでいるのは時間だけというオチだったりする。

前を向くってどういう意味だ? 先に進むってどういうことだ? 今あるものを、昔あったものを振り返らないことが前を向くということか? 以前とは違う環境に身を置けば、違う道を歩めば先に進んだことになるのか? 最近、それをよく考える。

物理的にはそう見えるかもしれない。だが、肝心の心が前を向かなければ、ただのポーズに過ぎないのではないか? 心を前向きにした上で何か感触の残るものを得て、それに対して自分で納得出来ない限り、ただの逃げじゃないのか? ただ過去を切り捨てるだけの前進は、ただ面倒だから考えない方がいいという安易な道ではないのか? それは自分の視野を狭めるだけの行為じゃないのか? 今年が始まってもう2ヶ月が経過しているのだが、どうなんだ?

2013年という新年を迎えてから1~2週間は心身共に最高潮だったと思われる。そこを超えた辺りから少し翳りが見え始めたから、テンションを維持するために2月の始めに博多遠征をした。それは成功だった。しかし、旅先で熟考したがゆえに磨耗した部分も大いにあったのも確か。厳しい現実に直面させられたというべきか。日常では気付き得ない空虚の本質、出所がそこで思い切り浮き彫りにされた。浮き彫りにされたことによって、嫌が応でも心が抉り続けられる。それを抑え込むためにも、その磨耗に負けない、それを塗り潰すだけの切磋が必要だからと自分を奮起させる。磨耗に押し潰されるか、跳ね返すか。負けるか、否か。その二律背反の揺れの中で2月は生きてきた気がする。

そして結果、負けた気がする。プレシャーに押し潰され気味だったというか押し潰されていたと自分で分かる。マラソン大会の練習のためのジョギングを怠ったり、会社に遅刻したり、帰宅してから力無く寝てしまったり、後ろ向きな発言が多かったり。とにかくダークサイドな言動が目立った。これは去年の夏頃から冬にかけての無気力脱力症候群と同じルートだ。それを抜け出そうと今年は奮起したのだが、2月はどうやら難しかったようだ。

ただ、このまま行くと全く同じなので、修正は必要だろう。心構えも必要だが、物理的なきっかけを何か構築する必要性も感じる。それが何なのか、僕にはまだ確定出来ないけれど、3月も同じ状態に陥ってしまうと修正が効かなくなる。元々、やるかやらないか、進むか倒れるかという二者択一で今年は臨むと決めたはず。それだからには、今さら後には退けないということで、今一度ふんどしを締め直したいという流れである。

無くしてしまったものを取り戻すのは難しい。尽きてしまったものを再び同じ位置に持って来るのも難しい。壊れたものは直らない。なってしまったものは仕方ない。結局、別のベクトルから足りないものを補充していくしかない。ずっと前から分かっていることだし、人はそのようにしてエネルギーの行く先を都度修正し、それによって痛みを和らげ、自らの人間としての全体量を保ち続けるもの。誰だってそんなもんだろ? 質もベクトルも同じではない、だけどエネルギーの絶対容量は基本的に不変。であるからには、量的部分を頼みに、自らを形作り続けることは可能なはず、だよな。

というわけで、居ても立ってもいられなくなった僕は、終業時間を迎えてから残業もそこそこに、「ちょっと頭が痛いので」と断りを入れて逃げるように会社を後にした。風邪でも頭痛でも何でもない優良が付くほどの健康体なのだが。ただ、完全な嘘は言っていない。一日色々と考えすぎたからか、知恵熱よろしく頭が痛くなってきた気が実際するのだ。それに加え、終業後に同僚達が和気藹々と会話をしているのだが、その会話が今の自分にはどうにも生ぬるく感じてしまい、余計に気が散り殺気立ってしまう。こりゃ今日はここに居ても益が無い。そう判断し、それを解消するには何処かに一人篭ってPCを弄るのが妥当だと考えた。それが唯一の癒しであると。周囲に流され迎合する柔軟さは人並みに持っているはず。合わせる時は合わせるべきと頭では理解してもいる。それでも、直感的にどうにもならない時があった。

早々に会社を退散した僕は、北千住に降り立ち、東口を出てすぐのパチンコ屋の2階にある喫茶店「サンローゼ」に飛び込む。何年か前に開拓した、紅茶が美味い隠れた名店だ。店内は広いし、席数も多いし、かなり寛げる空間だと太鼓判を押せるレベル。北千住には、ドトールとか駅ナカ「at EASE」などの狭い喫茶店しかなく、梅島の「シルビア」のような快適空間など存在しないと思っていたが、よく考えればこの「サンローゼ」があったじゃないか。今さら思い出した。確か当時はDSでドラクエ9をプレイしていた記憶があるな。何故、僕はこの店の存在を忘れていたのだろうか。一人で黙々と作業をするに、ここまで打って付けの喫茶店は無いというのに。

現在進行形や近未来的スタンスで居ると、過去のことをどうしても奥に押しやりがちになる。過去を忘れるのが楽な生き方であると承知している。今を生きることが何より重要だということも理解している。だけど、今が過去よりも優れているとは必ずしも限らない。頑なに過去を振り返らず、今や未来ばかりを見据えるあまり、その時確かに見たはずの優れた店や商品や景色を、触れ合ったはずの素晴らしい人を、楽しい記憶や重宝すべき感性や貴重な経験ごと記憶から抜け落としてしまうのはまさしく本末転倒だろう。

過去を生きた上に現在の自分が居る。現在も未来も、過去の積み重ねの上に存在する。その積み重ねは言わば軌跡であり、その巡り合いは見方によっては奇跡だ。その軌跡や奇跡を次々と抹消してどうするのか。残すべきものは残しておき、思い出すべきものは思い出し続けるのが良い。そうしておくだけの価値を持ったものが必ずがあるはずで、逆に全く無いとなると、何のために生きてきたのか、何のために生きているのか、何のためにこれから生きるのか分からない。愛すべき日々にレクイエムを捧げるのは死ぬ直前だけでいい。全て消し去るにはまだ早い。「サンローゼ」もまた、僕が覚えておくべき喫茶店であった。

その「サンローゼ」にて、だだっ広い喫煙席の一角に僕はどっしりと腰掛け、アイスティーを注文する。そしてPCメガネを掛けて、ノートPCを手馴れた手つきでオープンし、スマートにキーボードを叩き続ける僕である。その僕が座る喫煙フロアは、全部で15~6席のテーブルが設置されている。いずれも一人用でなく3~4人用だ。それと同じようなフロアが店内に4つほどあるのだから、この「サンローゼ」がいかに広いか分かるだろう。だから僕が4人席に悪びれず陣取ってPCを弄りながらモバイルリーマンの属性を解放していたとしても全然余裕。誰も僕を咎めない。

加えてストレスも少ない。他の客も、互いに適度な距離を保って座っているからだ。井戸端会議的に喋りまくっているおばちゃん4人集団も、僕からテーブル2つ分離れた場所で話しているから気にならない。中堅リーマン二人の熱い商談も、僕の右後ろ3メートル先でのことだから雑音にならない。僕と同じく一人でモバイル戦士しているメガネのリーマン兄ちゃんも、僕からテーブル一つ分空けているから全然問題ない。

まあ当然だ。別に混雑で席を詰めなければならない状況ではない。各自が自由に席を選べる状況だ。そこでわざわざ他人の隣を選んで座るメリットなど存在しない。なぜなら、人は誰しも排他的な空間すなわちATフィールドを持つ生き物で、そのATフィールドを他人に侵害されると不快感を抱くように出来ているからだ。そのATフィールドに近付きすぎず、多少の距離感を保っていれば、自分も他人もストレスをあまり感じない。

逆に言えば、そこは限界ラインでもある。限界ラインを超えると、すなわち自分のすぐ真隣に他人が座ると、瞬く間にストレスを感じる。神経質だとかそういう話でなく、人はそういう風に出来ている。なので、好き好んで見知らぬ他人の隣に座るヤツがもし居るとすれば、ソイツは単なる物好き、いや変態である。

そもそも「真隣」という席配置は、極めて限定された者だけに与えられる特権。家族か、恋人か、親友にしか許されない指定席なのだ。あとは特例として2パターンくらい。一つ目はパチンコ店などに多く見られるが、両隣に他の客が座っているけど、自分としては「ここなら絶対出る」と信じているのなら、両隣に人が居ようが堂々と座っていい。もう一つはお洒落なバーなどにおいて、気に入った姉ちゃんが居たのでナンパしたくてたまらないという果敢な勇者マンが居るのなら、彼等にも真隣の特権を与えてもいいだろう。真隣の席に座る資格を得られるのは、絶対的な親密度を持った人間、あるいは揺るがない信念を持った勇者だけだ。それ以外はゴミ。一つ空けて座るのが常識であり礼儀だ。僕だってそうしてる。殆どの人間がそうしてる。

たとえば男子トイレで用を足す時を想定すると分かり易いだろう。小用便器がA、B、C、D、Eという感じで5つ設置されていたとする。絵文字で表すなら、(□□□□□)という5つの便器の並びだ。もしそのトイレに自分が入った時、既にAを誰かが使っていたらどうするか。図的に言えば(■□□□□)という状況下で、他の人間はどういう行動を取るかということだ。

人間心理的には、Aから一番離れた場所にあるEを使うか、あるいは1つ分だけ間を空けてCの便器に立つのが最も多いパターンではなかろう。図で表せば(■□□□■)、あるいは(■□■□□)という立ち位置だ。ちなみに僕の理想としてはCだと思う。つまり(■□■□□)の図式だ。これであれば、自分の後にもう一人入ってきても、ソイツは一番端っこのEを使用できるからだ。Eという最もストレスの少ない端席をリザーブしておいてあげるのだ。そのような配置を取れば、3人がトイレに入っても、誰一人として隣同士ぶつかることがなくストレスを感じない。まさに自分だけでなく後の人のことも考えた戦略的に優れた配置と言えよう。つまり気遣いから来るポインティングである。相手に対する気遣いであり、自分に対する気遣いであり・・・。

逆に言えば、一番最初に入ったヤツの立ち位置こそが重要。最初にA(■□□□□)とかC(□□■□□)とかE(□□□□■)に立つのなら、ソイツは気遣いのある人間だ。逆に、初っ端からB(□■□□□)とかD(□□□■□)に立つヤツは何も考えていない愚か者だ。そんなことされたら、次に入ってくるヤツが迷惑。必然的に(□■□■□)しか残されていないという目も当てられない状況。いきなり選択肢が一つしか残されていないという戦略的失敗例なのだ。トイレを利用する時だけでなく、ココイチのカウンター席に座る時なども、自分が座る位置には充分注意されたい。

というわけで、僕は広々とした喫茶店「サンローゼ」で、近場に誰も居ないというナイス環境の下、ストレス少なく作業をしていたわけだが、座ってから40~50分後、40代前半リーマンと、その部下なのか彼女なのか愛人なのか微妙な感じの20代後半女性という一組のペアが入店してきた。彼等は僕が居る喫煙フロアに歩を向けたかと思うと、ツカツカと僕の方へ歩み寄り、何と僕の真後ろのテーブルに「よっこいしょ!」と腰掛けやがったのだ。15個もあるテーブル席の中、4席くらいしか埋まっていないのに、わざわざ僕の真隣へと座ったのだ。「よっこいしょ」じゃねーよ! こんなに席が空いてるのに、なにオレの真後ろを狙い撃ちしてんだよ。如意棒のごとく怒りゲージが天を突き抜けた瞬間だった。

分からない、全く意味が分からない。その行動に、僕は敵意というよりも殺意を覚える。悪いことにそのリーマンがまたよく喋るわけで。女のようにマシンガントークをするリーマンのおっさんってどうなのよ? しかも、「オレは仕事でこういう大業を成し遂げた」とか、「オレの部下にこういうことをやらせて社長から直々にお褒めの言葉をもらった」とか、「どう? オレってスゲーだろ」的な武勇伝自分語りタイプのリーマンだったというダブルショック。彼女は完全に聞き役に徹している。その彼女、頷いているけどすごいつまんなそうだ。しかもリーマンは、店員に向かって「コーヒーどんな種類があんの?」とか、上から目線の物言いをするタイプでもあった。トリプルショックだ。よく彼女はこんなリーマンと一緒に居るよな。面白いのかな。何か弱味でも握られてんのか? 金で囲われてんのか? 蓼食う虫も好き好きということだろうか。

ともかく、その血気盛んな「オレは勇者」オーラをムンムンとさせるリーマンのお陰で気が散ったのは否めない。こういう状況、僕は過去に一度経験したことがある。確か秋葉原のラーメン屋「康竜」だったかな。店内には僕一人しか居なくて、そのカウンター席で僕は昼メシを黙々と食べていたのだけど、怪しい目つきをした男が入ってきて、カウンター席は10以上空いているにも関わらず、ヤツは僕のすぐ隣にドカリと座ったという、そんな記憶だ。

あの時も異常なほどに不快感を抱いたが、今日も似たような心境である。何というか、店内がガラリとして席もたんまり空いているのに、わざわざ他人のすぐ隣に来るような輩は、殺されても文句は言えない。人の機微をまったく察しない愚図なのか、単に嫌がらせをしたいのか、自分の存在を誰かに主張したいのか、根本的に滅茶苦茶寂しい人間なのか。いずれにしても、許し難い人種であることには疑いがない。

僕は今日、喫茶店「サンローゼ」で過ごした二時間半の間、一心不乱にノートパソコンを弄った。状況はどうあれ、それは非常に充実した時間だった。しかし同時に、僕の真後ろの席に座り、彼女の前で一生懸命虚勢を張っていた自称・勇者リーマンのことも、しばらく忘れられそうにない。僕がここで確信したのは、等身大とかけ離れるほど自分を大きく見せようとする男は傍から見るとカッコ悪いという再確認である。その実例を拝めたわけだから、ある意味貴重な体験だったかもしれない。

帰宅後、夜メシにトマトソーススパゲッティを食った。最初「頭痛は大丈夫か?」と心配した嫁は、予定していたスパゲッティを取りやめ「おかゆにするか? 買ってきたぺヤング焼きそばくらいにしとくか?」という二択を提案してきたが、僕のここに至るまでの事情や経緯を説明した途端、安心した模様。その安堵は、僕の容態が悪いわけではないと判明したことによるものか。それとも、わざわざ買って用意したスパゲッティとコーンスープとコールスローサラダとキムチ豆腐を無駄にせずに済んだことに胸をなで下ろしたという意味の安堵か。まあ両方だろうが、特に後者の思いは強かろう。気合を入れてメシのお膳立てをしていたのに、僕の体調のせいで全部無駄になったらとしたら、そりゃ発狂するわな。健康体で良かった。

そう、僕の身体でおかしいところは何もない。むしろ同年代で僕ほど戦闘力と熱気を備えた健康体リーマンもそうは見当たるまい。強いておかしいところを挙げるなら、せいぜい頭くらいなものか。最近、自分でも思わなくはないが、頭の中のどこかのネジを一本だけ置き忘れてきたようだ。会社の雰囲気に耐えきれないからと、仮病を使って仕事を早引けするリーマンは、まるでキレる中学生のよう。しかもその挙句、大人しく帰宅して休むわけでもなく、ライブとか飲みとかパチンコとか彼女とのデートとかに行くでもなく、ただ喫茶店に一人籠もってノートパソコンの液晶を見ながら一人の世界に没入すること。しかもそれにエクスタシーを感じ、恍惚に打ち震えるという倒錯行動。そういうリーマンってどうなのよ。何というか、着実に社会不適合者の道を歩みつつあるな。

だが、今はそれがいい。後々どう影響するかは置いておくにしても、狂気の沙汰ほど面白いという感じ方を人間は確かに持っている。でなければ、たとえば金曜の夜にクラブで狂ったように踊りまくるリーマンやOLの説明がつかない。彼等もまた、たまに訪れる狂気を欲している。日常が正気であるがゆえに。

人は、人生の何百分の一かを狂気の時間に充てている。ずっとそこに居れば文字通り気が狂ってしまうが、正気の時間しか存在しない状態もまた退屈で狂い死ぬからだ。束の間でもいいから違う場所、違う精神的領域に身を投じることで、日々のバランスを取っているのが多分、現実だろう。

日常の狭間という言い方。つまりスイッチが入るタイミング。その時、本来潜在的に持っている狂気が顔を出す。普段は隠れているだけ、いや隠しているだけだ。きっかけさえ与えれば、きっかけに巡り合いさえすれば、容易に仮面は剥がれるだろう。正気と狂気との間に境界線など殆ど無く、調律は取れているようで実は取れていない。

たとえば今日のメシにしても、その内容はイタリア料理のスパゲッティと、和韓混合のキムチ豆腐と、アメリカチックなコーンスープという、冷静に考えれば国籍的にちぐはぐな混合料理なのだ。もちろん普通に美味いのだが、神の視点から見下ろすと、調律が取れているようで取れていない。僕の場合は、その調律を崩すきっかけがノートパソコンを開くという行為であり、狂気へ突入する媒体が電子の世界だったというだけの話。人とはそういうものだ。

須らく人は心の中に狂気を宿している。だから実のところ、誰しも正常ではない。そのことに僕は既に気付いている。気付いている僕は、今日の喫茶店「サンローゼ」のテンションそのままに、食後ノートパソコンを開き、深夜2時頃まで再び一人の世界に没頭した。


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20130227(水) 宝くじの位置する領域と餃子鍋の位置する領域との違い

130227(水)-03【2220~2245】餃子鍋《家-嫁》_01 130227(水)-04【2245頃】柿ピー《家-嫁》_01 130227(水)-05【2255頃】ポテチ《家-嫁》_02

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルトジョア

【昼メシ】(職場付近-一人)
喫茶店「エル」
(ミックスサンド、アイスティー)

【夜メシ】(家-嫁)
餃子鍋、柿ピー、ポテチ

【イベント】
無し
 
 
【所感】
電車の窓上広告を見るに、サッカーくじのBIGがそろそろ発売開始になる模様だ。「マッチョになって帰ってきたよ」という”BIGマンの笑顔”と、「確か隕石で・・・とんだ茶番ですよー」という”ボヤいてばかっりマン”が何ともバカらしくて印象的な広告だ。そのB級風な広告がやけにツボに入って、心の中で一人ずっと笑っていた。

BIGの当選金額は最高6億円。宝くじとしては最高に近い金額だけど、常時やっているわけではない。毎日休みなく売買が行われている株式投資や、毎週発売を一年中繰り返すミニロト、ロト6などと違い、BIGはJリーグの開催期間に合わせての発売となる。いわば不定期だ。コンスタントに投資する対象としては向いていないと言える。その分、一等が最高6億なのだから、一撃で人生が逆転するという点ではロマンがある。まあ、宝くじを投資と言っている時点で失笑ものだがね。

宝くじなんてのはギャンブルだ。いやギャンブルですらない。一等が当たる確率など、針の穴を通す確率という以前に確率論という土俵にすら乗っからない無謀事。宝くじの一等を当てるということは、針の穴にゾウの鼻を通すがごとし。つまり不可能事への挑戦だ。それを可能にするには奇跡を起こすしかない。

宝くじとは、地道なスキル習得や弛まぬ努力も全く関係ない次元にあるもの。純粋な運だけの世界。神の気まぐれによって、ごく限られた人間に唐突なる奇跡の審判が下される瞬間をただじっと待ち続ける受け身のゲームでしかない。よって、宝くじを買うという行為は投資でも何でもなく、ギャンブルにすらならず、ただ紙クズを買うようなもの。ドブに金を捨てるのと同じだ。日本全国何百万、何千万人という人間が、毎日のように金をドブに捨てている。

それでも買ってしまうのは、神の気まぐれが自分に降りかからないという可能性もまたゼロではないから。僕が欠かさず買っているロト6ですら、毎週誰かが一等を当てているのが現実だ。まあ、仮にそれが宝くじ協会側の意図的当選者操作だったり、自作自演だったり、やらせだったりしたら、絶望する以外にないけどな。宝くじに対する世界観が根底から覆されるというより、それこそ世界の何も信じられなくなる。

ただ、疑わしいと思っても、宝くじ協会が「我々は公明正大に抽選を行っています」と言われれば唯々諾々と従う以外に消費者としては対応の取りようがない。彼等の陰謀を暴く手立てもなければ、彼等の自作自演の裏を取る術も無いのだから。結局、彼等の公正性および潔白を証明するためには、自分が一等を当てるか、あるいは身近な人間が当てるか、百歩譲って誰か知っている有名人あたりが当てるかという、その三通りしかないわけである。

有名人が当てると言っても、ネタのために平気で作り話をするお笑い芸人とか、人生の切り売りと日常生活の誇張でしか話題を作れない無能な芸能人とか、腹黒いおっさんとか、そういう生半可な人間では信用できない。マスメディアに登場するような人間は、嘘をつくことに慣れ過ぎているからだ。

だからもっと誠実な、たとえば王貞治監督のような、そういう人が「私、宝くじ一等当たりましたよ」などと言われれば僕も信用してしまうかもしれない。同じ監督でも、読売の色が強すぎる長嶋さんとか、黒い噂の絶えない星野仙一などとは格も信頼度も違う。王さんが言うことなら僕は信用出来る。

ただ、たとえ性格が誠実で人間性が透明でも、権力や影響力を持ってしまえば、望む望まないに関わらず言動の抑制を受けることもあるだろう。様々なタイプの人間が付きまとい、ゆえに様々な業界から申し出やお願いをされることもあるかもしれない。何だかんだと多くのしがらみが付いて回る。その中で、自説を曲げざるをえないことも出てくるだろう。

たとえば王監督がロト6が当たったとしても、それはもしかするとソフトバンクの孫社長の意向かもしれない。「宣伝のためにそう言って下さい」と言われれば、他ならぬ孫氏の頼みだから王さんも無下にはできない。そして仮に、王さんが実際ロト6を買って、それが当たったとしても、孫さんがその王さんの番号を控え、宝くじ協会に「この番号を一等にしてくれ」と手回しをした結果、出来レース的に一等が王さんに回される可能性も無きにしも非ずだ。事情を知らない王さんは「当たりました」と彼自身にとっては偽りない言葉で語ったとしても、裏事情を鑑みれば当たった内には入るまい。ただ王さんがピエロになったという許しがたい茶番だけが残る。よって、有名人が当たったとしても僕は100%信用することはできない。

次に、身近な知人が当たればどうか。それは信用に値するだろう。もちろん知人と言っても、付き合いの浅い顔見知りとかでは話にならない。ましてや、「友達の友達が当たった」とか、そういうのは論外。殆どおとぎ話だ。付き合いの非常に深い、その付き合いの中で信用に値すると判断を下せる友人が当てたのなら、それはかなり信用が置けるのではなかろうか。決して100%にはならないが。

そういえば高校時代だったか。僕は昔、友人から「オレの友達が言ってたんだけどさ。そいつの友達の親戚の主婦が宝くじ一等6000万当てたみたいだぜ、いいよなあ」と僕に話したことがある(当時の一等は6000万)。僕は「マジで! 一生遊んで暮らせるじゃん! 羨ましすぎる」などと友人の話に迎合したものの、腹の中では「下らねえヨタ話持ってくるんじゃねーよこのバカ!」と興冷めしていた。

興冷めするのも当然。仲の良い友人であるお前か、あるいはお前のオヤジかオフクロあたりが当てたってんなら分かるよ。驚きもする。実際当たりくじを見せてもらえれば一発で本当って分かるもんな。だけどお前自身じゃなくて、お前の友達の、さらに友達の、その親戚だと? 尾ヒレ付きまくってんじゃねーか。等身離れすぎじゃねーか。僕んとこに話が辿り着く頃にはお前、白が黒に変わってるくらいの距離感だよソレは。バケツリレーしたとき、火元の人間の手に渡った時にはバケツの水がこぼれて一滴も無くなっているっていう状況だよソレは。だから、そんな遠回りに巡ってきた幸運話など全く信用できない。お前の友達の友達の親戚の主婦が宝くじ一等当てたという話を僕が又聞きしたという状況は、言ってみれば新聞を読むのと同じレベルだ。コラムの「ちょっといい話」を読んで「ほうほうイイネ」と感心してる読者と同じ立ち位置でしかないんだよ。まったく、下らない情報持ってくんじゃねーよ。

というわけで、そんな親等数の離れた者に「宝くじ一等当たりました」と言われたところで信用に値しない。せめて当たりくじ、あるいは当選証明書を見せなければ、信用するしないという以前に土俵にすら立てない。仮に見せられたとしても、元々どこの馬の骨とも分からぬ存在なのだ。そいつが真実を語る人間か、嘘を吐くのを恥と思う真摯な人間か、その人間についての情報を持っていないのだから判断が出来ない。もし虚言癖のある人間であれば、当選通知を偽造することだってあり得るからだ。馬の骨を信用しろと言われても無理な話だ。

それでも信用して欲しいと言うのならば、馬の骨は僕に対し、当選通知と一緒に預金通帳も差し出す必要があるだろう。そこに「宝くじ当選金」という文字と共に、ゼロが8ケタ9ケタもある金額が唐突に残高が印字されていたら、さすがに僕もそれ以上疑うことはしない。僕の疑惑は、当選通知および預金通帳という動かしがたい証拠によって外堀を完全に埋め尽くされ、天守閣をも攻略されてしまったのだ。そこまでしてくれたなら、僕は素直に証拠を提出してくれたその馬の骨の当選者に心からおめでとうと言える。知らない人間からの信用を得るというのはそれほどに難しく、自らを全てさらけ出す覚悟で臨まねばダメなのである。

ただ、見も知らぬ人間に対し、オレは大金を持っているという事実を露わにするヤツが居るだろうか。隠したがるのが普通ではないだろうか。大金を持っているという要素はこの世で最も妬みの対象になり得る要素だからだ。自分が金を持っているなど知られたら何を思われるか、何を言われるか分からない。いや、何をされるか分からない。たかられるかもしれないし、騙されるかもしれない。悪くすれば襲われる可能性すらある。何しろ見ず知らずの他人なのだ。大金を持つ自分を刺して金を奪うくらいはやってのけるかもしれない。そんな不信感と恐怖を募らせた結果、防衛本能が働き隠蔽という手段をとる。無論、一人一人を見れば、互いに根は良い人間かもしれない。しかし交流が無い限りは得体の知れない他人でしかない。お互いによく知らないから、関わっていないからこそ生じる不信感である。

仮に見知った間柄であろうとも、金が絡めば人は変わる。変わらざるを得ない。自分が変わるかもしれないし、相手が豹変することだってあり得る。だからなるべく黙っておくのが無難。ほんの一瞬の功名心で余計な火種を呼び寄せることはない。そのように考えれば、親等が近い者がくじを当てたとしても公表はしないかもしれない。いや出来ない。なまじ縁が深いだけに、親族こそが最も自分にたかってくる相手になり得るからだ。

無論、自分の旦那や嫁くらいになら言ってもよい。逆に言わなければ不自然だからだ。その親あたりにも告白してもよいかもしれない。親族の中でも親だけはドロドロとした関係になり辛いと思えるからだ。しかし、その一方でも考えてしまう。人の口には蓋が出来ないという世の常について。もし配偶者や親という最低限の人間にしか教えなかったとしても、どこからか別の親戚などに情報が漏れてしまえば意味がないのである。ウチのオヤジは口が堅いから、ウチの娘はそんなことを言いふらす子じゃないから、などと互いでは信頼していても、ほんの一瞬の気の緩み、万が一という可能性もある。万が一を考えれば軽軽には公表に踏み切れないのだ。信頼するしないという次元ではない。無用な誤解を招く可能性があるのなら、余計な波紋を広げる可能性があるのなら、それは事前に潰しておくのが一番幸せということだ。火の無いところに煙は立たぬというではないか。わざわざ危ない橋を渡ることはない。

それでも人は、何故か重大な隠し事であっても誰かに喋ってしまいがちな生き物。誰にも告白することなく自分の中だけで秘匿し続け、墓まで持っていくという人間は殆ど居ないのではないだろうか。自分ただ一人だけの心の中に収めておくことが最終的には出来ない。実名で公表せずとも、匿名で誰かに告白する場合もある。結局のところ、人は誰かに言わずには居られない生き物なのだろう。なぜなら、誰も知らないということは存在しないのと一緒だからだ。それは自分自身が存在しないのとほぼ同義だからだ。知られないまま生きていくなどあまりに空虚で寂しいではないか。知られないまま終わってしまうなんて、あまりに報われなさすぎるではないか。そういう心理が万人に働いているように思われる。誰かに自分を知ってもらってこそ人は生きていけるのだから。

「人の口に戸は立てられぬ」という諺は、人の悪性を非難しているというよりも、むしろ人としての当たり前を諦観している諺ではないだろうか。隠したい、でも本当は言いたい。でも隠さねばならない。いい加減、楽になりたい。そんな葛藤。ストレスばかりが募る。それならいっそのこと・・・。まあよくあることだ。今際の際、病院のベッドで遺言めいた告白を唐突にし始める心理なども、それに該当するのではなかろうか。そういう他に言いたくなる心理を加味しても、宝くじ一等当選のことはなるべく狭い範囲に留めるべき。その基本スタンスはほぼ万人に共通するだろう。よって、親族等が当たったとしても、自分がそれを確かめる機会は訪れないかもしれない。

であれば、後はもう自分が当たる以外に道は無い。自分自身が宝くじ一等を当てたのなら、自分自身が神の気まぐれに選ばれたのなら、もう宝くじに不正がないとほぼ100%信じることが出来る。体験主義という言葉があるが、自分自身の体験以上に公明正大な証拠など、この世に存在しないのである。だから自分が当たったのなら、誰が何と言おうと僕は信じるだろう。そんな感じで、宝くじ協会の黒い疑惑を一気に晴らす簡単な方法がすぐここにあるのに、宝くじ協会はなにを逡巡しているのか。見えざる神とやらは何をもたついているのか。宝くじが純粋に運の産物であると証明するために、国民の誰にでもその運が降り掛かりうると証明するために、他でもないこの僕が身を以って証明してやろう。その準備はとっくに出来ている。だからさっさと僕に宝くじ一等当たってくんないッ・・・!?

夜メシは、いわゆる「餃子鍋」。白菜やキノコ類など鍋の具材に加え、鍋の中には溢れんばかりの餃子が放り込まれている。その餃子の山をほじくり返さなければ、下に埋もれている数々の具材が全く視認できない点は圧巻だ。まさに餃子の、餃子による、餃子のための鍋と言える。

ただ、その餃子鍋の圧倒的主役たる餃子だが、餃子を入れた後に鍋で何十分も煮込むという手法ではなく、他の具材が煮え立った頃を見計らって直前に放り込む手法をとっているらしい。そうしなければ、餃子の一番美味しい形状とされるキュッとした身の締まりが損なわれるから。長時間煮込んでいると、皮がふやけて締まりのない小麦粉の皮に成り果てるから。とのことだ。ステーキで言えば、表面をサッと焼いて終わる”レア”の焼き方みたいまものか。餃子を最初から煮込むのではなく、サッと入れて、ジワジワと煮込まれるのを見計らって口に運ぶことが、餃子の皮の身の締まりを、そして餃子肉の程よい硬さとジューシーさとを約束するのだとしたら、餃子鍋も奥が深い。

ただ、餃子はステーキのレアとは違い、中の挽き肉の塊に充分火が通ってなければ全然美味くない料理。むしろ生煮で食ってしまったら身体を壊しかねない。そんなリスクのある食材でありながら、投入するのは遅く、だけど食うのは早くという、タイミングや間合いのキレを求められるという、意外と難関食材でもあった。

ただ、宝くじの一等を当てることに比べたら、餃子鍋の餃子の煮込み具合を見極めるなど赤子の手を捻るより容易。感覚で何となく分かるものだ。つまり、人の手で、人の舌で充分に到達できる領域、センス。神の領域に存在する宝くじとの決定的な違いがここにあった。

人は人の上に人を作らず、人の下にも人を作らず。それは人間社会での言葉・・・。神は宝くじ一等を上の人に選ばせず、下の人にも選ばせず。それは、身分や上下関係に関係なく宝くじ一等が誰かの下に降り立つという超常的な神域性を表した言葉・・・。餃子鍋は餃子の上に他の具材を乗せず、餃子の下に無数の具材を隠す。それは、餃子鍋を一言で言い表した言葉だ・・・。

神と人間と餃子鍋という三つの世界。それぞれの世界に、それぞれの不文律がある。


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20130226(火) オフィスビルの別会社の人達を人間観察し、喫茶店エルで自分観察しつつ、ココイチで炭素考察をする

130226(火)-02【2215~2235】ココイチ(ソーセージ5辛・チーズ)、水菜の塩ゴマドレッシング和えサラダ《家-嫁》_01 130226(火)-02【2215~2235】ココイチ(ソーセージ5辛・チーズ)、水菜の塩ゴマドレッシング和えサラダ《家-嫁》_02 130226(火)-03【2235頃】柿ピー(嫁金沢土産輪島塗り)《家-嫁》_01 130226(火)-03【2235頃】柿ピー(嫁金沢土産輪島塗り)《家-嫁》_02

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルト

【昼メシ】(職場付近-一人)
喫茶店「エル」
(ミックスサンド、アイスティー)

【夜メシ】(家-嫁)
ココイチカレー(ソーセージ5辛・チーズトッピング)、水菜の塩ゴマドレッシング和えサラダ、柿ピー

【イベント】
無し
 
 
【所感】
事務所が入っているオフィスビル。不動産系企業や服飾系企業、あるいは物販系企業とか財団法人とか、色々な法人がテナントに入っている。そんな他社に属する人達と、ロビーですれ違い、エレベーターで一緒になり、喫煙所で顔を合わせる内に、僕の中では大体の面子が把握出来るようになっていた。

当然、各々に対する好感度によって、また向こうのフランクさやフレンドリーさの度合いによって、親密度も千差万別。普通に世間話をする間柄、声を出して挨拶を交わす相手、会釈程度の関係、無言で交流の欠片もない空気達、色々だ。

ただ、僕自身は好き嫌いに関係なく誰に対しても挨拶まではするようにしている。相手も一応社会人だし、無視まではされない。それでも、僕が挨拶しても不機嫌そうに顔を一瞥させた挙句「ああ、どうも」的な感じでハトのようにアゴをクイッと前に突き出す仕草を見せて終わる人間も居るけど。

交流の無い他人とは言え、対峙した時のちょっとした反応だけでも、各々の人と為りがある程度推測できるものだ。要するに、人によって大きく異なるということ。こんな狭いビルの中だけでも人間の多様性が充分すぎるほど観察できた。

そんな他社の人間達。僕と雑談を交わす間柄の人間は4人居る。50代のおっちゃんと、20代半ばの兄ちゃん、そして30代半ばの姉ちゃん、あと50代のおばちゃんだ。この4人は基本、気さくで明るい。だから僕もストレスが無い。元々の性格がそうなのだろうと分かる。

続いて、雑談は交わさないまでも声に出して挨拶する人間は6~7人居る。中でも良く顔を合わすのは3人。内2人はリーマンで、主に喫煙所で顔を合わす。もう1人は、すれ違いでたまに会う程度のリーマンだ。

喫煙所の2人は、最初はムッスリとしていて「何か愛想の無い人だな」と思っていた。だが僕の方から何度も声を出して挨拶する内に、互いに笑顔で挨拶するようになった。挨拶とは偉大だと僕は再度確認する。

もう1人のよくすれ違う40代リーマンは、背が高く髪型はリーゼントの40代と思しきリーマン。最初は同じく無言だったが、会釈から始まり、挨拶を交わすようになり、普通に笑顔のやり取りくらいはするようになった。最初、愛想が全く無いと思っていたその40代リーマンは、実はただ冷静な落ち着きを持った大人であり、紳士的でスマートな雰囲気を持った人だと分かった。彼と挨拶する関係にならなければ、恐らく彼の魅力に気付かないままだったろう。先入観というものがいかに信頼に値しないか、そして人を少しでも深く見ることの重要性を知った。

ただ、それも二人の内いずれかが歩み寄りを見せて初めて始まることだ。歩み寄るためには話し掛けること、声を掛けること、その手始めに挨拶から入ること。基本であるが、それが出来ていない、しようとしない輩も案外多い。互いに組織に属した社会人。騙されたり陥れられたりすることなんて無かろうに、何をそうも怯えるのか。自分から壁を作ってどうするのかと。

ただ、この状況は今の僕にも当てはまる。少し前ならいざ知らず、今の僕は思い切り壁を作っている。心にバリアーを張り、拒絶から入るようなスタンスだ。メンタルがそちらに傾いているのだと自覚しているが、本当は意味ないんだよな、そんなことしていても。こればっかりは本人の心次第なので、僕自身がそういう思考に向かなければ難しいだろう。た

もちろん、以前の明るく爽やかな自分に早く戻りたいという心境は確実にある。ただ一方で、内にこもり、自らのやるべきことを追及するため、自分の中での拘りを守るため、他は徹底的に排除すべきだという潜在的な欲求も存在する。どちらも自分の中の強い想い。今は後者が勝っている、圧倒的に。だから以前のように自然に笑えないし、物事にあまり興味が持てないし、周囲に心を傾けるという思考に持っていけない。誰も幸せにしないと分かっているのに、頑ななまでに心身がアストロン。自分でも思うが、ホント非生産的だよなぁ。

オフィスビルの話に戻ってみる。僕が話をする人や挨拶をする人は、愛想がよくて元々が好感の持てる性格だというのは既に述べた。ならば逆に、挨拶しない人、愛想のない人は性格が悪いということだろうか。彼等の懐まで踏み込んだわけではないので断言はしたくないが、表層的にでも愛想良く出来ない人間は、やはり性格が良いとは言えないのではなかろうか。そこまで心の余裕が無いのか、自分のことしか考えていないのか、と。

ウチの社内にも居る。他のフロアの人達に無関心かつシカト気味に相対している人間が。社内とか取引先には愛想がいいのに。結局、利害関係で全てを判断しているからそうなる。自分に利がある人間には愛想良く、利がないと判断すれば取り合う必要性を感じない。ドライというより冷酷だよな。

それは、本当の信頼関係を築けない人間。裏切り裏切られる関係にしか行き着かない。そんな気がする。上手く行っている内は良いが、肝心なところで痛い目を見る。利害を見て切ったり捨てたりしてるから、相手からも利害のみで切って捨てられる。そこには温もりがあるまい。別の会社の人間だろうと、別に自分に利益をもたらしてくれなくとも、挨拶くらい別にしてもいいんじゃないの?

と、最近まさしくそんな状況に陥っている僕が思う。逆に、そんな状況に陥っているからこそ、その危険性を肌で感じるわけだ。お人好しの好青年だった昨年までの自分だと、この危険性に多分気付けなかっただろう。想像は出来たが実感として得られなかったに違いない。想像しただけでは足りない。その状況に実際身を置いてこそ分かる哲学が確かにある。

天国に身を置けば天国的な思考しか持てない。地獄に身を置けば地獄の苦しみしか分からない。どちらも不完全だ。両者を行き来して、両者の感性を兼ね揃えた場所に、神と悪魔との中間点たるヒトとしての真実が浮かび上がるのかもしれない。ロウでもカオスでもなくニュートラルこそ最強だとする説の根拠はそこだ。陰と陽、一方だけでは絶対に分からない境地が確かに存在する。

あと、愛想が良いと僕が感じている人達は、大体同じ会社に属しているのも特徴的だ。僕等のオフィスビルに入っている他の会社について、仮にA社~F社までがあるとしよう。僕が最も愛想がいいと感じる人達は、大抵A社の人である。別に話はしなくとも、A社の人間は総じて雰囲気や物腰が敵を作らないオーラで満ちている。きっと会社の教育が良いのだろう。

B社もなかなか良い。先述した50代おっちゃんと40代の紳士リーマンはいずれもB社だ。

そのB社の隣に事務所を構えているC社は、終わっている。横柄な、まるで天下りのようなジジィばかりで、こちらの挨拶にも何も返さず、エレベーターに乗ろうと駆け込んできたところを「開」ボタンを押して待っていてあげてるのに、礼の一つもしやがらない。僕はお前の部下じゃねーぞと、2秒間くらいだがジジィ共を滅殺したくなった。

D、E、F社も大したこと無い。可も無く不可も無くだが、どちらかというと愛想は感じられない。つまりD、E、Fは烏合の衆だ。

そんな感じで彼等と長い間交流してきた経験から、重要視するのはA社とB社のみで良いという結論に至る。C~F社については、言っても無駄だろうと見切っている。僕も一応、最低限の礼儀は示したのだから、その触りの部分で拒否されたのなら、これ以上踏み込む必要性も無い。

ただ、素敵なA社でも、愛想良くないのがたまに紛れていたりもするから面白い。何十人も居る愛想のいい人達の中でただ一人だけ。挨拶は返さない、エレベーターの中でも平気で携帯で電話するなど、周囲のことを考えないおっちゃんが居る。いや、むしろエレベーターに乗るタイミングをわざわざ見計らって携帯で喋り始める勢いだ。何かを訴えたいのだろうか。「ワシは携帯で四六時中電話しないと間に合わないくらい忙しいぜ」とアピールしたいのか。「ワシは友達多いねんで」と誇示したいのか。

こういうのはたまに見かける。電車の中とかホームとか、温泉旅館の休憩所とか、敢えてそこを選んで周囲に聴こえるように長電話を始める人間が。声のトーンは総じて高い。周囲からすればただウザいだけなのに、不思議よのう。

そういえば、全体的にダメなF社にも、一人だけ挨拶をするおばちゃんが居たな。普通に挨拶するだけだが、あの陰気臭い会社の人間にしては非常に礼儀がなっているおばちゃんだ。トンビがタカを産んだというヤツだろう。世の中には、「こんな場所に何でアンタみたいな人が居るの?」という人間をたまに見かける。それは良い意味でも悪い意味でも使われるのだが。それが意味するのはどこか? ゴミ溜めの中で一人だけ輝くダイヤモンドか、宝石箱の中で一人だけくすんでいるゴミクズか。出来れば前者でありたいものだ。

その判断は全て他人がすること。自分で「オレはダイヤモンド」と言ったところで、人から見ればただの炭の塊かもしれない。構成原子は同じ炭素でも、配列によって、磨き方によって、人は炭にもダイヤモンドにも人はなる。配列はすなわち道の設定、磨き方はすなわち自らを研鑽するということ。さて、お前はただの炭なのか、それとも永遠の輝きを放つダイヤモンドなのか・・・。

昼。英語教材を読みながらメシを食う。ファミレスも少し飽きたし、ドトールも頻繁に行くところじゃないし。馴染みの「喫茶店エル」という昭和風喫茶店を思い出し、そこへ入った。馴染みと言っても、今年2回目くらいだが。

1~2年前くらいまでは頻繁に通っていた。僕がいつもの「オムライス」をオーダーすると、「ケチャップはいつものように大盛りでいいですか?」と返されるくらいの顔見知りにはなった。隠れ家的で非常に気に入っていたのだが、最近はどうもね、何となく心理的に。塞ぎ込みがちな時に馴染みの店に行っても、従来と違う自分を晒して相手を戸惑わせるだけならば、近寄らない方がいいという考え方だ。

それでも今日は久々に入った。するといつもの爺ちゃんが「いつもありがとうございます」と、全然いつもじゃないけど言われた客は喜びそうな社交辞令を投げ掛けてくれる。オムライスは腹に重いので「サンドイッチってあります?」と問うたら、「ハイハイありますよ、ミックスサンドでいいですか?」と愛想良く答えてくれる。「飲み物は?」と聞かれて「アイスティー」と答えたが、耳が元々遠いので「アイスコーヒーですね?」と当たり前のように間違える。もう何でもいいです。

そんな感じで、給仕の爺ちゃんも、マスターの爺ちゃんも、初めて入った5年くらい前と全く変わっていない。ずっと居たバイトの中国人の姉ちゃんは、辞めたのか知らないがもう居ないけど。対応の穏やかさ、どこか放置プレイ気味のゆるい店内の雰囲気は前と全く同じだった。変わったのは僕の方。僕だけが変わった。確実に1~2年前と何かが違う。この「喫茶店エル」に入って寛いだ気分になる感性は変わっていないけど、何かが足りないと、肝心なパズルのピースが嵌ってないと分かる。

自分が自分であるために必要な最後の一ピース。いや、それが無ければ自分が自分として始まらないという点では、最初の一ピースなのかもしれない。英語教材を読むことによって少しでも埋められるのか。それは半年後くらいに分かるだろう。今はただ、マスター手作りの美味しいミックスサンドを黙々と頬張りながら、テキストの英語を読み、頭の中でシャドウイングするのみ。

夜メシはココイチのカレー。嫁は仕事が遅かったので、メシを作る暇が無いということで、僕がテイクアウトした。僕はソーセージカレーの5辛でチーズトッピング。嫁は3辛のほうれん草カレーハーフサイズ。ココイチの店頭で出されるテイクアウトメニューも10年前と大きく変わらない。確固たる定番が、客達に愛される定番がCoCo壱番屋に根付いている。

じゃあ僕の中の定番とは? 人それぞれの定番とは? ちゃんと根付いているか? 胸を張れるものが何か、あるか? 

あるはずだ。自分の中の定番は確かに存在する。だけどそれを形にできているのか。ココイチカレーのように脈々と根付いているのか。答えを探り当てるような心境で、僕はソーセージカレーにトッピングされた揚げソーセージの切り込みの部分を探り当て、スプーンをグサリと突き入れた。ソーセージは見事に真っ二つに割れた。

この感触。この、真っ二つに割るという思い切りの良さが重要なのだろう。つまり”割り切る”というアクションでありスピリッツ。心が割れてしまう前に、居合いの達人のように迷いを真っ二つに割る。真っ二つに割るために必要なのは、前足の踏み込み。それこそが、前に進むために踏み入れるべき足運びであり境地ではないかと。

ココイチから持ち帰ったプラスチックの容器の中、カレールーに溺れるように丸い先端を主張する4本のソーセージがあった。その中でも特に目立つのは、僕のスプーン攻撃によって真っ二つに割れたソーセージ。割れたソーセージの切り口、その面影を、僕は覚えておくことにした。


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20130225(月) サボりーマンがアキバで感じる世の中の仕組みと、コロッケと唐揚げと豆腐グラタンで紐解く英雄伝説

130225(月)-02【1120~1140】味噌つけ麺辛味MAX(やすべえ秋葉原店)《家-嫁》_01 130225(月)-03【1145~1240】ルノアール秋葉原《家-嫁》_01 130225(月)-04【2225~1145~1240】新潟実家コロッケ、鶏の唐揚げ、豆腐グラタン《家-嫁》_01 130225(月)-04【2225~1145~1240】新潟実家コロッケ、鶏の唐揚げ、豆腐グラタン《家-嫁》_02 130225(月)-04【2225~1145~1240】新潟実家コロッケ、鶏の唐揚げ、豆腐グラタン《家-嫁》_03

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルトジョア

【昼メシ】(東京・秋葉原-一人)
つけ麺屋「やすべえ 秋葉原店」
(味噌つけ麺 辛味MAX)

【夜メシ】(家-嫁)
新潟実家コロッケ、鶏の唐揚げ、豆腐グラタン」

【イベント】
秋葉原
 
 
【所感】
朝、仕事で秋葉原へ向かう。最近このパターンが定常化している。

実際に仕事をするのは30分程度。会社に申請している外出時間は2時間半なので、仕事後に2時間の余剰が出来る計算だ。それを自分の時間に充てるというパターン。だが、僕の中では既に予定調和である。最初の30分以降は仕事しない。する気が一ミリグラムもない。

まあ社会に虐げられ、組織という垣根から出られない子羊には、たまの放牧の時間が欠かせない。戦士には休息が必要だ。予定した仕事はキッチリ完遂しているし文句は無いだろ。そうやって、いつも自分を正当化することにしている。

そう、仕事が早めに終わったとて、申請した以上、その2時間半は僕の時間。たまに訪れる束の間の秋葉原一人旅は僕にとって神聖不可侵。誰にも邪魔はさせない。僕を止める者は誰も居らず、気付くヤツすら一人も居まい。そうだ、ボクはボクでしかない。ボクは居たい、アキバに居たい。ボクはアキバに居ていいんだ・・・! 真性の確信犯がここに一人居る。

その行動パターンもいつも通り。前回のアキバ活動をなぞるようなパターンだ。それでも多少のアレンジを加えているが。いや、アレンジを加えたというより、結果的に加わったという言い方が正しい。自分の行動は同じでも、その都度の外部要因によって事態は意図せぬ方向に進むもの。世界とは、自分の思惑と外部事象とが組み合わさって初めて出来上がる。しかも、その中での自分の思惑はちっぽけなもので、世界に何の影響力も与えないことが多い。通り魔的に人を襲うとか、そういう犯罪めいたことをしない限り、人一人は非力なモブに過ぎないことが、僕はこの秋葉原の2時間だけでも分かった。説明すると以下のようになる。

まず僕は、つけ麺屋の「やすべえ」で昼食を摂った。前回と違い入店したのが11時半頃だったため席は満席。向かいのカレー屋などは昼時だろうとスカスカの歯抜けだというのに、開店から30分で満席とはさすが人気店「やすべえ」は違う。結局、僕は席に着くまで5分ほど待った。

開店直後に入っていれば前回同様すぐ座れたはずだが、それをしなかったのは僕のミス。だけど開店から30分遅く入ったのは、結局のところ僕の意思だ。本心ではすぐに座って食いたいけど、そのためには、開店を今か今かと待ち望む他の客達に先んじなければならない。この『開店は11時から』という絶対規則および『他の客の存在』こそが、すなわち僕の力だけではどうにも出来ない外部的要因ということである。

「もっと早くつけ麺を食いたい」と叫んだところで、店側が「開店は11時」と決めているのだから、それに従うしかない。また、やすべえの席は20席ほどあるが、それが他の客で埋まってしまったのなら、僕は指を咥えながら空くまで待つしかない。僕は単独行動の一人身。対して他の客は、ニ十数名からなる「つけ麺好き」な群集。生き馬の目を抜く俊敏さで、「やすべえ」のガラス扉に掛けられた札が『準備中』から『営業中』に裏返しにされる瞬間を虎視眈々と待っている猛者達である。

そんな猛者達を僕は一人で相手しなくてはならないのだから、数の論理で分が悪い。結局、「やすべえ」という空間への影響力という観点から見れば、僕という一個人よりも、他の気合の入った客達の方が圧倒的に有している。そもそも、それ以前に「やすべえ」という店舗自体が客を寄せ付けない権力を持つ。つけ麺を食いたい客の「つけ麺」を自由自在に操れるのだから。つまり客は店側に心臓を握られている。「やすべえ」本体こそがピラミッドの頂点なのは間違いない。

そんなパワーバランスの下、僕は11時開店という店のルールに従いつつ、少し初期動作が遅れて開店30分後に向かったのだが、開店直後から素早く入店したであろう他の客達に席を占有されていた。僕の意図が外部的要因によって捻じ曲げられた瞬間。世界の圧力に屈服した瞬間である。

僕の意思で動かせたのは、せいぜい好物の「味噌つけ麺」のボタンを間違えずキチンと押せたことと、つけ麺の麺を平らげた後、無料オプションのスープ割りを頼む際、「スープ割りくれ!」と絶対強者である店員に対して居丈高な態度でオーダー出来たことくらいだ。店員の意のままに操られるだけでは客としてのプライドが許さない。一応、僕も金を払っている客だ。最低限の抵抗はした。僕という一人の客、他の数十人の客、そして店員。三者間における存在感のぶつかり合いがここにある。

つけ麺の後は、アトレのトイレを借りてから本屋を物色。漫画の最新刊は無い。目ぼしい小説も無い。前回はあった。ここが今回と前回との相違点だ。何か買いたいのは僕の意思。だけど肝心の新刊などが置いてないのだから手を出せない。それは出版社という大きな力を持った存在が書籍の発売日を操作・調整出来るからだ。これもまた、個人の意志ではどうにも出来ない外部要因と言える。

アトレの後は、いつもの喫茶店「ルノアール」に潜り、ノートPCを開いて自分の世界へ没入。この時間が一番心が安らぐ。僕は完全に引きこもり体質になったと自覚せざるをえない。こんなんで社会とのコミュニケーションが取れるのかとたまに不安になる。

だが今のところはそれでいい。アイスティーだけで600円と暴利を貪られるルノアールだけど、快適空間の確保という点では一級品。今はコストパフォーマンスよりも時間を惜しむべき局面であろう。僕はそう決意し、アイスティーを頼んだ。するとウエイトレスの姉ちゃんが、「レモンにしますか? ミルクにしますか? それともストレート?」と、首を右に20度ほど傾けながら、にこやかに問い掛けた。

いつも思うが、この微妙に首を傾ける仕草っていうのは殆どの女性店員がやってるな。しかも記憶する限り、みんな首を右側に傾けている。逆に言えば、首を左に傾ける女性は多分殆ど居ないということ。右に傾けたら心臓が無防備になるだろうに。護身のためにも左向きに傾けが方がいいんじゃないのか? この疑問点の解はどこにあるのか。

右利きの人間が多いから、首も右に傾くのか。人とは体質的に、右に重心が傾くものなのか。人体で一番重い部位は頭だろ? となると、左脳より右脳の方が重いから右に傾くのか。人は須らく右脳の方が重いということか。右脳はイメージを司り、左脳は言語を司る。ということは、つまり人間は妄想ばかりしているから右脳が発達して重くなり、言語の駆使や論理思考を面倒臭がるから左脳が軽くなり、結果、右側に傾くのか。つまり、人類は堕落した妄想野郎だから、首を右に傾けるということだろうか。

まあ考えすぎかもしれない。多分、女性が自分を可愛く見せるための基本動作と言ったところだろう。女は自分をいかに高く売り付けるかに執心し、そのために自分磨きを怠らない生き物だからな。まあ、首を全く動かさず垂直90度で固定したままで「レモンにしますか?」などと言われても、ロボットみたいで逆に気持ち悪いけどな。

結論としては、首を右斜め下に傾げながら微笑む仕草は女としての本能。ボディランゲージの一環という解だ。いかにロボット技術が発達しようと、人間ほど駆動部分が多く、表情の多彩な生き物は居ない。効果は抜群である。

ただ、よくよく思い出してみれば、男だって同じような仕草をやってるぞ。やはり男女を問わず、それは人間の本能に違いない。だけど男がそれをやると何かナヨナヨした感じになるというか、はっきり言ってキモい。もっと他の仕草は無いのか。男は無駄な動きをせず、ただ黙ってその瞳によって訴えるべきだ。つまり眼力だ。

眼力と言えば、女子は上目遣いという仕草も得意だな。というか、悪戯をした子供が肩を縮こまらせながら小動物のように見上げる感じのあの上目遣いは必殺技のような位置付けだろう。まさに最終兵器だ。

力なく見上げることで非力さと従順さを示し、相手を(見かけ上は)上位に立たせる。迷い猫のように怯え(たフリをして)、身体を(演技っぽく)奮わせ、相手からの(無償の)庇護を得る。それによって(まんまと)誘導された相手。自分はエサが欲しいと(自分で言うとガツガツしているように見られるから、あくまで待ちの姿勢を崩すことなく)無言の波動を相手に送る。相手はその無言の訴えによって勝手に色々なエサを想像し、存分に与えてくれるという寸法だ。上目遣いだけで労せずして相手を誘導し、意のままに操る。これこそ女にしか出来ない能力。眼力の魔力だ。要するに、おねだりのポーズ。まったく、見え透いているのう、媚びているのう。だが、抗えない魔力があるからこそ最終兵器なのである。

ちなみに男がそれをやると、キモいどころか殴りたくなるので気を付けるべし。ただの変態である。かと言って、目をカッと見開きながら男らしく相手を見つめる仕草を取っても、やはり気味が悪い。まったく男とは損な生き物よのう。

そんなことを考えながら、僕は姉ちゃんの「レモンにしますか? ミルクにしますか? それともストレート?」という問いに対し、「ミルクでよろしく」とニヒルに応えた。三択というのが面倒臭いが、ストレートだと何となく損をした気分になるので、ミルクをオプショナルさせてみた。もらえるものはもらっておけ。これが世の中の処世術だ。

そういえば以前、同じルノアールにて、アイスコーヒーを頼んだ時、「水出しにしますか? ドリップにしますか?」と聞かれたことがあった。僕は不意を衝かれたように固まったものだ。なぜなら、よく聴き取れなかったから。この歳にして早くもリスニング能力に難有りか? と思った。

とりあえず「え? 何ですって?」と聞き直してみた。するとやはり「水出しにしますか? ドリップにしますか?」と聴こえる。リスニング能力に欠陥は無かったことに安堵はした。だがそれゆえに、うろたえる。何故なら、その言葉の意味が分からなかったからだ。後日調べたら、コーヒーの淹れ方だったのだが、当時は知らなかったので、僕は大いに焦燥した。

まったく、コーヒーはコーヒーだろと。何でいちいち淹れ方まで問うてくるんだと。そんくらい一般常識でしょとでも言うのか? コーヒーの知識がないヤツは人間じゃないとあざ笑うつもりか? 僕はただアイスコーヒーが飲みたいだけのサボリーマンなのに、そんな僕の無知を焙り出すつもりか? 僕を焙煎するのか?

くそう、バカにしやがって。やってやんよ。「水出し」の方が何か日本語的で言い易そうだから、「水出しで頼む」って言ってやんよ。

「あ~、じゃあ、水ゴニョゴニョで・・・」
「はい? 何です? 水出し、ですか?」
「あ、そうですそうです、それでヨロシク」

何かどもっちゃったよ。つか自分が知らない単語ってハッキリと口に出すのを躊躇うというか、すごく言い辛い。やっぱ自信が無いからだろう。ホントに発音は合ってるのか? 僕の記憶は正しいのか? 間違えて恥をかいたらどうしよう。指摘されたらどうしよう。そんな自分の知識への疑惑が発音にブレーキを掛ける。

やはり、うろ覚えでは意味がない。自分に確固として身に付いた知識だからこそ、外に出すことが出来るということだ。インプットしたものを全てアウトプットできるわけではないということだ。アウトプットしたいなら、インプットも確実に行えという教訓を、僕はルノアール秋葉原店のウエイトレス姉ちゃんの能面のような笑顔によって知った。

こうして激動のアキバ二時間トリップを終え、会社に戻る僕。他に特筆することは無い。仕事以外の時間、いや日常生活すらも超越した束の間の精神的離脱現象が今の僕の宝。その瞬間こそが、僕が今一番僕でいられる時間なのだから。

夜メシは、新潟から送られてきたコロッケと鶏の唐揚げ。そして豆腐グラタンだった。

新潟のコロッケは、昔スーパーで総菜を作っていたプロフェッショナルたる新潟の義父母が下ごしらえをしているため、揚げ方さえ間違えなければ誰が調理しても美味い。正直、売れるレベルだ。まあ実際、売ってたんだけど。とにかく、スーパーで売ってるコロッケよりも遥かに美味で、しかもジャガイモメインだからもたれることもなく、いくらでも食える。

一個100円で売れば、一大ビジネスが築けるのだがなぁ。本人達は隠居しておりその気は全く無いようなので残念なことだ。実力と野心とはセットではないということ。中央官僚よりも在野の書生の方が世の中を制覇できる実力を持っているという実例である。

鶏の唐揚げは、嫁が下ごしらえをした模様。記憶する限りでは、昔は味付けも揚げ方も下の上くらいだった。そこから何十回も試行錯誤を重ねた結果、今目の前に置かれた鶏の唐揚げ。美味いね。上の下くらいまでレベルアップしたと僕の舌は判断した。つまり、これもまた店に出せるレベルに到達したということだ。

そういえば、ウチの近所には唐揚げを売りにしている弁当屋があり、僕は1年前くらいにそれを買って食った。だが、イマイチだった。マズくはないが、堂々と金を取っていいレベルなのかと。その弁当屋も今は成長しているかもしれない。ただ、当時の唐揚げの味付けを振り返ると、食い物に金を払う意味、その価値というものについて考えてしまう部分もあった。今の嫁が揚げる唐揚げの方が金を出すに値するんじゃないかと。

嫁に限らず、世の中の主婦達、あるいは家庭の料理を日々作る女性達は、誰もが店に出していいレベルの料理を作っているように何となく感じる。この辺りは到底男の及ぶ領域ではない。素直に尊敬する次第だ。

豆腐グラタンは、数週間前に初めて嫁がそれを作り、僕が絶賛したメニュー。気を良くした嫁が今回アレンジを加え再挑戦した。明太子か何かを入れたとか。確かに以前に増して、コクが出たような気がする。豆腐グラタンは、今後も期待できるメニューである。

この夜メシを、ワールドチックに簡潔に表すならこうなる。新潟コロッケは、約束された勝利の剣。つまり、アーサー王伝説におけるエクスカリバーだ。鶏の唐揚げは、地道な積み重ねによって得た上方修正の結晶。つまり、長きの低迷の末、スティーブ・ジョブズによって飛躍的に業績を伸長させたアップルだ。豆腐グラタンは、いきなり高い完成度だけど未だアレンジと改良の余地も多く残されたフロンティア料理。つまり、アメリア西海岸、カリフォルニアのゴールドラッシュだ。

ここから読み取れるのは、英雄の在り方だ。つまり、最初から最強の存在である新潟コロッケ。少しずつ着実に成長して一人前になった努力タイプの鶏の唐揚げ。センスに溢れ、伸び代がまだまだ期待できる新進気鋭の天才、豆腐グラタン。誰が一番強いのか、強くなるのか、誰が一番人々からの賞賛を受けるのか。最終的に、英雄に相応しいのは誰か・・・。

分かっているのは、それぞれが英雄の称号を受ける資格があるということ。そして、英雄への道程はそれぞれに違うことを意味する。非常にためになる話であり、同時に身につまされる話ではないか。


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20130224(日) 雀荘で麻雀の思い出を想起し、鍛冶屋文蔵で今までの飲み会を振り返る、ある意味集大成

130224(日)-02【1000~1630】麻雀(上野雀荘)《東京・上野-友人4名》_01 130224(日)-03【1700~2030】飲み会(鍛冶屋文蔵 御徒町店)《東京・御徒町-友人9名》_01 130224(日)-03【1700~2030】飲み会(鍛冶屋文蔵 御徒町店)《東京・御徒町-友人9名》_02 130224(日)-03【1700~2030】飲み会(鍛冶屋文蔵 御徒町店)《東京・御徒町-友人9名》_06 130224(日)-03【1700~2030】飲み会(鍛冶屋文蔵 御徒町店)《東京・御徒町-友人9名》_08 130224(日)-04【2100~2200】飲み会二次会(居酒屋「土風炉」)《東京・神田佐久間町-友人2名》_02

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルト

【昼メシ】(東京・上野-友人4名)
上野雀荘
(ジュース、ミスドドーナツ)

【夜メシ】(東京・御徒町-友人10名)
居酒屋「鍛冶屋文蔵 御徒町店」

【夜メシ二次会】(東京・神田佐久間町-友人2名)
居酒屋「土風炉」

【イベント】
麻雀、飲み会
 
 
【所感】
10名ほどの友人達と飲みの予定。仲間内で就職が決まった人間が居り、その就職祝いという名目だ。参加者は関東圏が殆どだが、諸事情あって長野の友人も駆けつける。特に呼んだわけではないけど。

いずれにしても参加人数は最近の中では最大級。ここまで大人数での飲みは昨年の忘年会が直近だが、僕はその忘年会には参加していないので個人的には相当久しぶりだ。既に10年近くの友人が殆どなので、基本気を遣う必要は無いし、話題も合うはずだし、相対的には最もストレスの少ない飲み会であることに間違いはない。ただ、それでも僕はこの一日中、いつもと違うことを考えていた。主に時の流れと、それに伴う環境の変化、心境の変化について。

飲み会の前、朝から0次会として麻雀が予定されていた。場所は上野の雀荘で、打てる者だけで。僕も麻雀は打てるので当然、面子に入っている。麻雀は嫌いじゃない。むしろ好きな部類だ。転職で初めて東京に訪れてから彼等に雀荘での打ち方を教えてもらい、以来10年余り、累計で数百回は打ってきた。その8割は負けだろう。僕は別に強くないので。というか他の面子が強すぎるので。一時は僕も本気で勉強したのだが、センスがなかったのだろう。盲牌もマスター出来ず、辛うじて点数計算の符計算まで覚えたところで頭打ち。遊びで牌をつまむことは出来るが真剣勝負は出来ない。それが僕の麻雀のレベルだ。

だが別にそれでも構わなかった。単純に楽しかったから。画面上のゲームで独り打つのではなく、リアルに対面して卓を囲むこと。談笑交じりで先の局の分析や批判をしながら、たまに日常や趣味の話をして、カレーを食い、ダラダラと打つ。心許せる仲間だから尚更楽しかった。宝石のような思い出、というヤツである。

その麻雀も今は下火で、殆ど打っていない。昔打っていた人間は方々へ飛び散り、あるいは麻雀自体のプライオリティが低くなり、最高で3卓囲んだこともあった麻雀面子は、今では奇跡的に1卓立つ程度。僕もまた、その流れに沿うように麻雀から離れていく。

麻雀に関連する思い出は、楽しいものが殆どだった。今でも思い出せる様々な闘牌、その時のやり取り、数え切れないほどにある。だけど、その累積する楽しい思い出に匹敵するほど痛い思い出もある。そこで大切な何かを失った気がする。

その流れも絡んで麻雀を遠ざかるようになって時が経ち、今日、久しぶりに打った麻雀。面子は変わらず、十年来の友。各々の雀力も、打ち筋の特徴も、会話の内容も、昔から大きくはブレてない。だけど、この風景が遠い気がするのは何故か。

僕はこの日、大きく負けた。依然として存在する実力の差と、だけど勝負に集中できなかった面もあり、上の空の部分もあり。この日、来ていない友人と電話でそのあらましを話してみたが、色々と事情を分かっているその友人は「さもありなん」と僕に応えるのみ。要は価値観が変わったのだと自分の中で納得することにした。

楽しい思い出は沢山ある。それは既に起きたことだから、今後一切変わらない。その時、一緒に居た仲間達への親愛も変わることがない。だけど価値観だけは、いつまでも同じでは有り得ない。それは僕だけでなく、僕の関わった人々全てに言えることだ。今日に限っても、集まらない麻雀の面子という現象が既にそれを証明している。

去った者も居る。続いている者も居る。だけど各々に時間だけは平等に流れている。その中で価値観というものは変わっていく。変わってしまえば前と同じ考えは出来ない。共有出来る部分も少なくなる。結果、共有していた過去も思い出し辛くなる。だけどそれを忘れるのは悲しい。だから僕は、東京に来てから殆どの日について雑記を残している。その時感じた感情は、その時でしか再現出来ないからだ。その感情を抱けなくなった時に、形式上でもその感情をなぞらえることが出来、その時の心情を振り返ることが出来るからだ。場合によっては、その時と同じ気持ちを取り戻すことが出来ることもある。出来ないこともあるかもしれないけど、少なくとも「あの時はこういう心境だったのか」と振り返り、確認することが出来る。その「振り返り」の拠り所こそ、僕が文字で書き残すことの重要性を信じている所以だ。あの時と同じものを今書けと言われても出来ない。だけどあの時に書いていれば、今も一瞬だけだけど気持ちを同化させることが出来る。失った感性を文字を追うことによって短期的にでも拾える。そのトレースはある意味、重要で貴重だ。

全てを書き残せる人間は殆ど居ない。わざわざそんなことをする気力も無いし、そこに労力を費やす意味も希薄だからだ。だけど微かでも残せていた場合、誰かにとってそれは有用になるだろう。その役割は、気力がある人間がやれば良いことで、気力がある限りはやるべきもの。誰にでも持って生まれた役割がある。色んな人と共有した思い出を残そうとする気力が、僕には少なくとも人並以上にあった。それによって、確かに存在した楽しい記憶を、関わった人間に多少なりとも残せるし、ある程度残せていた。それが恐らく僕の役割だった。一緒に楽しみ、一緒に過ごした時間を、僅かでも残しておきたい。それは、僕が文字を重視しそれを書いている拠り所でもある。とりあえず、十数人の小さなコミュニティにおける過去数百回における麻雀の記憶の何十分の一かは残した。そこで改めて知る。楽しい時間が確かに存在していたことを。

麻雀後は、御徒町の「鍛冶屋文蔵」で打ち上げ。もはやいつもの場所だ。そこそこ美味く、リーズナブル。最近はそんなスタンスになりつつあり、それを実行するには鍛冶屋文蔵あたりがちょうど良い。一年か二年くらい前までは、高級居酒屋を開拓し続けることが僕等のステータス、という感じで活発的だったのだが、それも沈静化したようだ。「八吉」や「響」に頻繁に通っていた数年前が、僕等の最盛期だったということだろうか。いわゆる頭打ちというヤツ。今までの円高基調は何だったのかと言わんばかりにアベノミクスで一気に円安へ振れ、だけど永久に円安へ向かうと思われた矢先、ニューヨーク時間で突如また円高へとナイアガラした最近の為替変動のように。

あの狂乱は何だったのか。加減を知ったのだろうか。この辺りが落としどころであると、長きに亘る飲み屋開拓でその境地へたどり着いたのか。それとも、飲み会というイベントそのものに対する向上心や執着心が薄れたのか。浮つくのはもうそろそろこの辺にしとこうぜ、と。いずれにしても、生活における飲みのプライオリティが数段下がったことには変わりない。他にやることが出来、他にしたいことが出来、自らの時間と金とを使う先が変化していった末の、鍛冶屋文蔵での定例会が今現在のステータスということだ。

その定例会の頻度も今後ますます落ちていくだろう。どこか寂しい気もするが、人の優先すべき事柄は時と共に変化するのだから仕方のないこと。何より僕自身が最もその変化を実感している。やり尽くした、飽きてきた、疲れてきた。言い方は色々ある。どれも当てはまるだろうし、だけどどれも真実ではない。それでも現実として、その頻度は今後高まることはあるまい。

それに元々、ここに関わる仲間達は僕が束ねてきた。リーダーでもないし仕切ってもいないけど、象徴的立場として僕が最初に居て、周辺に少しずつ集まってきたような集団だ。ある意味、僕は中核の存在だった。だから出来るだけその集まりには顔を出すようにしたし、常に何かしらの活動はしていると仲間内には伝えて続けたのだが、それも終息が近付きつつあるようだ。

それで仲間が四散するということはない。今まで共有してきた思い出の数は膨大なほどに積み上げられ、もはや幼馴染以上の繋がりはあると思っている。そこで培ってきた友情が消えることは今後も無いだろう。ただ、歩く道が違うというだけで。今後は全体で集まることが減り、その中で小さいグループごとに分かれて活動していくという図式になると思われる。僕も時々、どこかのグループに入りながら、ちまちまと活動していくのではなかろうか。

だけど、本質的な自分の役割である中核としての立ち位置は今後取らないだろう。道が大きく変わってしまったから。中核の立ち位置に居るべき僕自身が核であることを放棄しつつあるのだから、あとは自然な流れで縮小・分散化していくに違いない。それが悲しいとか辛いというのではない。目の前に起こる現実と自分の感情とを都度受け入れ、その流れに従うのみである。今年の心構えとして既にそう決めているので、根本的な姿勢は変わっていない。後戻り出来るという年でもない。行けるところまで行くのみである。

今まで色々あった。あり過ぎた。その思い出は多すぎて、楽しいことが殆どで、東京に来てからの交流は殆ど彼等との時間が中心だった。よって、それが完全に記憶から消え去ることはない。少なくとも、その記録は十分に取った。先の麻雀と同じで、記録を取って残しておくことが僕の役割であり、彼等が集うきっかけとなった立場だった者の責任でもある。身を寄せた集団の中での自分の立ち位置と存在意義はやはりそこにあったのだと、今はそう確信できる。

潰えたものは戻らなく、代替が利くという次元でもない。それでも今まで自分が笑って生きてこられたのは彼等のお蔭であると自覚しているから、感謝の念が無くなることもない。僕は僕のやり方で、その恩を返せたらいいと思う。

僕にとってはある意味で切ない気持ちになった飲み会の後、長野の友人と、就職が決まった友人とで二次会をした。長野の友人はビジネスの話を中心に。就職した友人は、そのビジネス話に血気盛んに食いつき、ある意味で白熱した二次会の様相を呈していた。僕はただ話を聞くのみ。思ったのは、僕も案外付き合いがいいよなという苦笑。そしてもう一つ。長野の友人と就職した友人とは10歳も年が離れているのに普通に友人の立場で話せている。そんな人の妙についてだ。

職場ではこうはいかない。同じ趣味で繋がり、利害関係も上下関係もない環境だから為せる、対等な関係とでも言うのか。遠慮が少ないので互いのポテンシャルをより発揮できる人間関係は、僕の理想とする関係でもある。僕が今まで職場よりもこちらを優先してきたのは、ただ気持ち良くて楽しかっただけではなく、誰一人の例外もなく自分をさらけ出せる環境だったからだろう。ただの友人というほど馴れ合いではなく、だけどケンカもせず、驚くほどすんなり互いを出し合えていた、僕にとっては貴重な関係だった。

誰にでも得意なものを持っていて、哲学を持っている。少なくとも人一人が人生の中で獲得し練り上げてきたものだ。だから、それぞれに必ず敬意を示せる部分があるはず。だけど上下関係の厳しい組織だと、それを出せず、せっかくの叡智が埋没してしまう。個々の潜在能力をフルで発揮するのが組織を最も活性化させる手法なのに、その潜在能力が様々なしがらみのためにセーブされ、あるいは殺される。それは矛盾であり損失であり、悲しいことだ。だが、そのしがらみが無い場であれば、隠れていたものは遺憾なく発揮されるだろう。その、各人が遠慮することなく自らを出せる環境がこの上なく好きだったし、そういう相手が居るだけで幸せだった。この二次会で僕は、そんな今までの恵まれた環境についてふと思いを馳せていた。

そんな感じで本日日曜は、気心の知れた友人達の会話に混ざりながら、今までの思い出を振り返っていた。その一日は長いようにも思えたし、一瞬だったようにも感じた。楽しいようでもあったし、浮遊感で現実味が無かったようにも感じられた。ある意味、通過点。ある意味、集大成。結論としては説明の難しい、不思議な一日だった。


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20130223(土)  映画「テッド」から浮かび上がる娯楽性と、心の隙間を埋める真実と、青森料理屋「ごっつり」とカラオケのデンモク

130223(土)-04【1045~1200】竹内のみそまんじゅう(嫁金沢旅行土産)《家-嫁》_ 130223(土)-06【1430~1510】メンチカツカレー(喫茶店「シルビア」《東京・梅島-嫁》_01 130223(土)-08【1545~1630】亀有散策《東京・亀有-嫁》_02 130223(土)-08【1545~1630】亀有散策《東京・亀有-嫁》_04  130223(土)-09【1650~1815】映画「テッド字幕版」鑑賞(ムービックス亀有 アリオ亀有内)《東京・亀有-嫁》_01 130223(土)-11【1945~2100】ごっつり店内(炭火焼「ごっつり」)《東京・北千住-嫁》_01 130223(土)-11【1945~2100】魚の塩焼き(炭火焼「ごっつり」)《東京・北千住-嫁》_01 130223(土)-13【1945~2100】ほっけ焼き(炭火焼「ごっつり」)《東京・北千住-嫁》_01 130223(土)-16【2120~2250】カラオケ(北千住カラオケ館)《東京・北千住-嫁》_02

 【朝メシ】(家-嫁)
竹内のみそまんじゅう、残波(連れ土産)、ポテチ

【昼メシ】(東京・梅島-嫁)
喫茶店「シルビア」
(瓶ビール、メンチカツカレー、アイスコーヒー)

【夜メシ】(東京・北千住-嫁)
青森居酒屋「ごっつり」
(鮮魚の焼き、串、お造り、カクテキ、塩昆布キャベツ)

【イベント】
映画「テッド字幕版」(亀有アリオ内)、カラオケ(北千住カラオケ館)
 
 
【所感】
映画を観ることになった。テディベアのぬいぐるみが人間と暮らすアメリカ映画「テッド」だ。ぬいぐるみと会話して生活するという設定は僕が8年前から先取りしていたのに、やられてしまったな。

そんな悔しさもあるが、アイデアなんてのは結構被るもので、自分が考えているものは、他の誰も考えているもの。そのアイデアを具現化するのが難しいのだ。よって、発想者より実現者の方が圧倒的に偉大。考える人間よりも行動する人間の方が圧倒的に少ないから偉いのである。

アイデアや発想というものは、頭の中で考えている限りはただの妄想。具体化して初めて現実になる。だから「テッド」についても、その実現力に敬意を表したいところだ。

それでも、これだけは言っておきたい。クマよりカメの方が圧倒的に可愛いよ!?

そんな「テッド」。上映され始めてから3~4週間ほど経過しているからか、やっている映画館が大分少なくなってきた。元々、吹替版はNGで字幕版に限るという制限付きなので、なおさら該当する映画館を探すのは難しくなる。検索の結果、西新井と亀有の二つに絞られた。

西新井は複合ショッピングモール「アリオ」内にある[TOHOシネマズ]。家からは一番近いのだが、上映時間が20時からという、レイトショーにも似た扱い。ちょっと遅すぎる。対する亀有は、同じく「アリオ」内の「ムービックス亀有」という映画館でやっているらしい。こちらは17時前から上映する。亀有には昨年の夏に行って以来だし、ここはひとつ、映画を観つつ、久々の亀有観光を楽しむとするか。行き先は亀有に決定した。

映画館は決まった、ただ、先々週に日比谷界隈で「テッド」を観るため映画館に飛び込みで向かった時、どこも完売だったという事態に陥っている。その教訓から、あらかじめネット予約をした方がいいという判断に至り、その「ムービックス亀有」のウェブサイトを開いた。

しかし手順に従って予約をしていくと、席の指定が出来ないことに気付く。いや、席の指定は出来るのだが、「A-5とA-6」という感じでピンポイントに選べない。「前方ブロック」「中央ブロック」「後方左ブロック」という感じで、何十席かが固まったブロック単位での予約が限界だった。このシステムには驚きを隠せないな。

今どきのネット席予約と言えば、座席指定が当たり前。映画館もそうだし、飛行機だってそうだ。JRですら2人席と3人席の指定までは出来る。それなのにムービックス亀有と来たら、ブロック単位などと悠長なおためごかしを・・・。まあ、ムービックス亀有の会員登録をすれば、ピンポイントで席指定出来るようではあるけど。

恐らくこの場所で映画を観ることなど今回きりだろう。次がないと分かり切っているのに、わざわざ会費500円を払い、自分の名前や住所などを入力する手間を掛ける必然性はない。それならブロック単位で席を振り分けられた方がマシである。

ネットで知り合った浅い関係の人間とはハンドルネームでやり取りするのが常識。行きずりの相手には名乗らないのが当たり前。自分の個人情報を所構わずひけらかすことは、自分を安売りする行為に等しい。自分をもっと大切にしようぜ?

映画の予約をして安心したところで、一息つく。ノートPCを開きつつ、連れに貰った沖縄泡盛の「残波」をチビチビと飲んでいたところ、宅急便が来た。荷物の中身は嫁が社員旅行先で配送してきた「竹内のみそまんじゅう」だった。嫁曰く、バスで移動中、窓の外から見える電信柱の全てにその「竹内のみそまんじゅう」という看板が貼り付けられているほど金沢では名物だそうだ。ありがたくそれを食ってみる。

うむ、普通に美味いな。少しコクのある温泉まんじゅうと言った感じだ。逆に言えば、温泉まんじゅうとさほど差異があるとは思えないが、土産なんて殆どそんなものだ。その土地でしか売っていない銘柄だからこそ有り難味が生じて、味わいを特別なものにする。

別に土産に限ったことじゃない。全国限定500本生産のオリジナルデコスマホなら20万円でも買うだろうし、一般的に見れば平凡な子供でも親にとっては非凡なスーパーチャイルドに見えるだろうし、好きな人が作った味噌汁なら五つ星レストランのフルコースよりも圧倒的に美味いだろう。価値を高めるスパイスは、希少価値という言葉、そして愛、つまり思い込みだ。それが世界で一つだけの花。

そんなことを考えながら14時頃、家を出発。院長に腰を揉んでもらってから、僕等にとって世界で一つだけの喫茶店である「シルビア」でメシを食った。オキニの黒髪ねーちゃんは今回も居ない模様だ。最近、見ないな。正直、シルビアでメシを食う意義が半減する。僕にとって黒髪ねーちゃんは、世界で一人だけのウエイトレスだからな。他は有象無象だ。代わりに来た茶髪ねーちゃんに内心毒づきながら、オーダーしたメンチカツカレーを貪りビールで喉を潤した。茶髪ねーちゃんには全く罪はないのに、僕も狭量な男よ。

でも僕が全部悪いというわけでもない。よく聞く話ではないか。何も知りもしないくせに、一方的に相手を批判するという光景は。その性分は、ある意味で人間の性なのだ。

たとえば、ただ歩いているだけなのに、すれ違ったギャルに「アイツ何かキモくない」と陰口を叩かれるオタとか。別に好きでキモメンやってんじゃねーんだよ、お前に僕の何が分かるんだよ、と言いたいよな。

あと、たとえば会社の同期で一緒に仕事をしてるリーマンを指して「あの人って生理的に受け付けないのよね」などと言うOLとか。生理的とか言われちゃったらもう解決の糸口がねーだろと叫びたいよな。

あと、たとえば大学の合コンで、普通に飲んでいる男子学生を見て「あの人、何かヤダ」と身も蓋もないない言葉を放つ女子大生とか。“何か”って説明にもなってねーよ、お前はまず人間の言葉覚えてから喋れよと言いたいよな。

結局、世の中は見られる側でなく、見る側の思考と主張で成り立っている。つまり対象物を見ている自分自身の意見こそが全て。自分が世界の中心だから、肯定されるべきなのも自分。見ている私こそが全てを許される神。という思い込みが、人には少なからずあるだろう。

だから僕も、茶髪ねーちゃんが積み上げてきた今までの辛く切なくも甘酸っぱい物語のことなど一切念頭に置くことをせず、ただ感覚的に「茶髪ねーちゃんって何かヤダ」などど平気で言えるのだ。それは、僕の世界の中では、僕こそが世の中全てを超越的立場で俯瞰出来る神の位置に居ると思っているからだ。ただ見て、ただ思ったことを言う。それが許される身分だと、潜在意識で自分を肯定している。

だけどそれは、立場を置き換えれば全く逆のことが言えるわけで。攻守が逆転すれば、先ほどの評価がそのままオウム返しされる可能性もあるということだ。つまり、見る側の人間が一転して見られる側に立たされた時に起こる逆転現象。先の事例でたとえるなら、

たとえば「アイツ何かキモくない?」と自分目線でキモメンオタを批評したギャルは、同時にキモメンから「あのギャル、何かブスじゃね?」と点数を付けられているかもしれない。

たとえば、同僚リーマンについて「生理的に受け付けないのよね」と断じたOLは、同じ時、そのリーマンから「アイツって見てるだけでムカつく顔しているよね」と言われているかもしれない。

そしてたとえば、合コンの男子学生を「あの人、何かヤダ」と攻撃した女子大生は、男子学生から見れば「あの女って何か嫌だよね」という一発終了宣言を下される対象かもしれない。

女達からすれば「アンタに言われたくないわよ」と反論したいところだが、それはそのまま男達の「お前に言われたくねーよ」という叫びと同質。どちらの言い分がより真実に近いかなどは分からない。各々が各々で真実だと思うことを口にしているからだ。見方を変えるだけで、立場を変えるだけで容易に反転する。自分本位の意見というのは根拠に乏しい一方通行の言葉でしかないことがよく分かる。

結局、人は相手のことなど何一つ分かっていない。そして別に分かろうともしない。それでいて自分の価値観だけで他者を判断・評価する生き物だ。そこに歩み寄りは無い。つまり、人はとことん自分勝手だということ。どちらもお互い様ということだ。

それでも自分は経験値が高く多角的な考えが出来る人間だと、世の中を広く見渡し俯瞰できる神の視点を持っていると自分自身では信じ込んでいる。だけど現実はそうではなく、常に多くの立場とそれに連動する数だけの視点が存在し、入り乱れている。

誰が誰を見ているのか。自分が他人を見ているのか、他人が自分を見ているのか。どの視点が真実か。全ては曖昧。だけどその全てが恐らく真実で、全てが融合している。そんなあやふやで、しかしその人にとってはたった一つの世界。その結び目にある、視点。

その世界を端的に言い表す良い言葉がある。曰く、

「世界を見ているボクがいる・・・」
「世界を見ているボクのことを見ているボクがいる・・・」

それはこう続く、

「ボクは今、見ている」
「ボクは今、見られている」
「キミは今、見ている」
「キミは今、きっと誰かに、見つめられている」

まあ、ゲームの中の言葉だ。「EVER17」というタイトル。分野を問わず、今のところ僕の中では最高峰に近い名作なので、気に入っている。ゲームとて、世の中の真相を突いたものは数多くある。この作品の存在を知れたというだけでも、ゲーオタだった意味がある。

というあやふやな世界観について思いを馳せた後、映画鑑賞のため亀有へと向かった。

駅を降り、まず最初に駅近くにある菓子屋で柿ピーと飴玉を買った。普通の昔ながらの駄菓子屋風。以前に亀有に来た時にも寄った店なのだが、その時対応してくれた店員は、70~80歳は超えているであろう、背の小さなおばあちゃん。割烹着を着て、白いエプロンを付けた、いかにも「おばあちゃんのぽたぽた焼き」そのもののおばあちゃんだった。

そのおばあちゃんは、その時、「あらお二人とも若いわねぇ、美男美女でお似合いですこと」などと言ってたっけ。別に若くもないし美男美女でもないと思うが。まあ見ようによってはそうかもしれないけどな。などと自尊心をくすぐられれながら、反面「多分どの客にも同じこと言ってんだろうな」と思ったりもしていた。

その記憶があったから、今回も寄ってみたわけだ。まだあのおばあちゃんは生きているのだろうか。

すると、居た。あの時と変わらない姿のままで、頼りない足取りで、「いらっしゃい・・・」と力ない声で、だけど嬉しそうな笑顔で、おばあちゃんは僕等を出迎えてくれた。その笑顔はしわがれていたけど、それが何となく安堵を呼ぶ。変わらないな、と。そして次に「まだ生きてたんだね」と。

笑い話ではない。おばあちゃんはもう歳だ。先は長くないことは分かり切っている。そんなヨボヨボなのだから、本来なら娘なり息子なりが店番をしてもよさそうなのだが、それも無い。ということは、子供はどこか別の場所に住居を構えて別居しているのか、それとも天涯孤独なおばあちゃんなのか。だから、ただの行きずりの客である僕等にもこんなに嬉しそうに話すのか。誰でも良いのかもしれない。おばあちゃんのその優しさは、寂しさから来るものなのかもしれない。

そう思うと涙が出てくる気分だ。おばあちゃんはきっと、柿ピーと飴玉の売り上げ金300円を稼いだのが嬉しいのではあるまい。誰かと話せることが純粋に嬉しかったのだろう。だから今回も笑顔で対応していたのだろう。だからおばあちゃんから「お若いわね。新婚さん? スタイルもよくて、お似合いね」と、前回と似たようなセリフを投げ掛けられたとしても、「前と同じこと言ってるぜ」などとは多少は思ったけど思いはしない。僕等のこの束の間の訪問が、2分間のやり取りが、あのおばあちゃんの余生を少しでも豊かにしたのなら、僕等がこの店に来た意味は充分にあったはずである。

次にまた会えるかどうか分からないけど、おばあちゃんよ、せめて余生は静かで安らかに、少しでも幸せに。僕は、人生で二回しか会っていないこのおばあちゃんの命の灯が少しでも長く灯るよう、あの儚いおばあちゃんの優しい笑顔が最後まで崩れないよう、心から願った。その時、すぐ隣にあるネットカフェから篠原涼子を3倍上質にしたような颯爽とした美人が出てきた。しかしそんな刹那的な感情よりも、今はただおばあちゃんの幸せを祈った僕である。

人に対する想いの深さは会った回数に比例しない。年月の長さも関係ない。ただ感性でピンと来る。天啓のように閃く。細胞が反応する。それはもう原始的な直観だ。深層に刻まれ、魂に触れるようなものだろう。

人生の終盤で関わった人間が幼馴染の存在を遥かに凌駕する。半生を掛けて培った価値観が、短期的に交流した人間によって劇的に変化する。二度と会えなくとも抱いた親愛の情は変わらない。たった一回会っただけなのにその存在が生涯忘れられない。そんなケースは充分に在り得ること。

論理では説明できない感覚。何かを見抜いたような、境地に達したような魂の響き。年月も頻度も容易に飛び越える。それを運命と言う。見えざる神の手による運命は、きっと誰にでも訪れる。僕は、あの亀有の古びた菓子屋で同じことを言っていたあの小ちゃなおばあちゃんのことを生涯忘れないだろう。

その後は、アリオに向かう途中にあるカメの石像の写真を撮ってみたり、香取神社でお参りしながらアリオに到着。入り口前には宝くじ屋があり、ヤンキー風の兄ちゃん二人が「当たったらどうするよオイ」などと嬉しそうにジャンボ宝くじを買っていたけど、以前ここでくじを結構買ったけどかすりもしなかった経験者の僕等としては、「あそこのくじ屋は当たらないよね」と冷静にツッコミを入れる以外にない。残念だったなヤンキー兄ちゃん。そのくじは、きっと、ゴミクズに・・・なるよ?

店内に入り、H&Mやらよく分からない服屋やらを冷やかしつつ、映画館へと向かった僕等は本日のメインイベントである「テッド」の鑑賞へと移行する。館内は老若男女問わずカップルばっかりだ。しかしR15指定ということなのでお子様は居ないから、うるさくなくて結構なことかもしれない。まあ、右隣の席には、CM中「これ原作見たよ、なかなか描写がどうとかこうとか」などと、隣の彼女に向かってひっきりなしに文学的説明を施す結構お喋りな兄ちゃんが居たりもするが。キミ、結構クドいね。彼女に嫌われない?

そして左隣には、二人組が殆どの映画館の中、一人で堂々と羅将のように腕を組んでドッカと席に座るおっちゃんが居たりもするが。おっちゃん、相当強者だね。肩身狭くない? 別に狭くない。映画は二人で観るのがスタンダードなどとは誰も決めてない。一人で観ていいんだよ。楽しむために映画館に来てるんだから、本人が楽しけりゃそれでいいんだよ。そこに人数は関係ない。ディズニーだって一人で来るヤツが居るだろ? スプラッシュマウンテンに一人で乗り込む猛者は普通に居るだろ? それのどこがいけないというんだ。むしろ可愛い、微笑ましい。全力で応援したくなる。

まったく、今の世の中は、買い物にしてもレジャー施設にしてもクイズ番組の特賞で貰える旅行券にしても、ペアとか複数人とか、前提であるかのように連呼する。もはや習わしであり規則であり正義であるみたいな風潮が漂っていて困る。それを煽るように主催者側も「ペア」をやけに誇張するし。集団催眠にでも掛かってるのか?

別に一人でもいいじゃない。どうせ「ペアが全て」と述べ奉るお前等だって、四六時中一緒に居るわけじゃないんだろ? 一人になりたい時だってあるくせに、まったくキレイごとを言いおってからに。ロンリーウルフは時として最高。僕は、映画館で物怖じすることなく一人、愛と友情の物語「テッド」を食い入るように観ていたあの左隣のおっちゃんを、心から応援しています。幸あれ。おっちゃんに大いに幸あれ・・・。

肝心の「テッド」は、なかなか面白かったな。コメディと、ロマンスと、エロスと、友情と、あと色んな意味で”愛”というテーマを取り入れたアメリカらしい映画だ。笑いがあり、泣きがあり、だけど終わればパッと忘れて深いところまでは追及しない。エンターテインメントの模範とも言える。

そのエンターテインメント性こそが映画の本分だ。決して深く切り込むことはしない。時間的にも出来ないし、求められてもいないだろうし。そういうのは小説にでも任せておけばいい。映画は、ビジュアルとサウンドを武器に観衆の視覚と聴覚に訴え、その場の臨場感と勢いをもってして客を一時だけ楽しませるもの。それでいいと思う。ちなみに一緒に観ていた嫁は、そのビジュアルとサウンドによって大いに号泣していた。

一応、この「テッド」に一応点数を付けるなら、10点満点で7~8点と言ったところか。あくまで個人的評価だけど。まあ、評価なんてものは各人でバラバラなのだから、好きに言いたいことを言えばいいと思う。僕もその評価に対する詳細な根拠は特に示さない。詳細に分析・批評して作品に点数を付けるのは僕の得意技だったし、昔はよくやっていたものだが、今はそんな時間も無いし、そんな気もないし。主観的に「点数は○点」と言い切るか、あるいは漠然とした言葉で終わらせるのがちょうどいいのだ。「超面白い」「面白い」「まあまあ面白い」「普通」「あまり面白くない」「面白くない」「全然面白くない」といった感じで。この7段階評価があれば、言いたいことはそこそこ伝わるだろう。

あとこの評点は、久々に映画を観たという新鮮さで加点されている部分もあるだろうから、後で実際冷静に評価し作品自体に点数を付ければ5~6点あたりに下方修正されるかもしれない。観た当時は感動したけど、後で観たら凡作だったというのは良くある話だからだ。映画に限らず、世界設定も話の展開もオチも、あらゆるパターンが出尽くし、類似作品が秒単位で氾濫する今の世の中、後々も名作であり続ける作品はごく限られるということだ。

娯楽作品とは、作り提供する側にとっては日々の食い扶持を稼ぐための使い捨ての駒。また、それを受け取り楽しむ側にとっても、日々の退屈な時間を一時的に埋めるための使い捨てのパズルのピース。それが今の世の中の現実だ。あくまで、一時的に・・・。

この世には娯楽が溢れており、時間潰しには事欠かない。それなのに心の底からは満たされない。不思議なパラドックスだが、実際そうなんだよな。選択肢が増えれば増えるほど、手を広げれば広げるほどに、一つ一つを突き詰める余裕がなくなり、固執していられなくなる。すると意識は分散し、それぞれへの印象も薄まる。結果、何も残らず、心が埋まらない。埋めようとして別のものへ手を伸ばすが、やはり同じ結果になる。その繰り返しの中、何とか空白を埋めようと、満たそうと、埋められるものを、満たされるものを探す。だけどなかなか探し当てられない。よって不思議なパラドックスだと言う。

結局のところ、真に心を埋めるのは、幅広さでもなく物量でもない。より狭く、より深く、よりピンポイントなものかもしれない。つまり、限られたものに対して固執すること。時間を忘れて集中すること。身を削って追求すること。身を焦がすほど深く愛すること。それが唯一、心の充足を可能にするのかもしれない。つまり、無くなれば自分が自分でなくなるような、そう思える対象だ。それは至って限定的なものである。

それは同時に盲目的でもある。その自分の心を埋めるに足る限定された対象が、本当にそうであるのか真実は分からない。だけど自分自身がそうだと信じている限りはやはり真実のままで、逆に信じ込むことが気力の維持に繋がることもあるのならば、信じる以外にない。だから盲目的と言う。

ゆえに排他的でもある。限られたものに集中するということは、他のものの排除と表裏一体だ。他のものに無関心になる、他のものが目に入らなくなる、他のものを犠牲にしていいと思えてしまう。それは排他以外の何物でもない。ある事象への熱中的な傾倒は強力な排他性を生み出すための温床だ。一度そうなると、なかなか元には戻れなくなる。ゆえに排他的と言う。

以上のように、とても限定的であり、盲目的であり、排他的な対象を見出すことが、埋まらなかった心の隙間を埋める。それは”自分の道”を見つけることであり、”真実”の発見とも言えるかもしれない。当然、自分の中だけでの真実だ。他の誰とも共有できない。だけど、その孤立性に押し潰されないほどの存在だからこそ、逆に真実だることの証明とも言えるかもしれない。

それを見つけた時、人は劇的に変わる。自分の道を見つけた時、他の道の全ては寄り道でしかなかったと思うようになる。自分の中の真実を見つけた時、人生における殆どの事象は退屈しのぎに過ぎなかったと振り返ってみて気付く。そういうものを見つけられた人は幸せだろう。それさえあれば、心の空白に悩まされることがないのだから。それは理想を手に入れるということ。

しかし、場合によっては不幸かもしれない。理想だからこそ現実的には手に入らない場合も充分にありうるからだ。見つけるのと手に入れるのは別物。空白を埋めるものを見つけることと、実際に埋まることは、まったく違う次元にあるものだ。手に入れられない場合、常に苦しみを伴うという、そんな面倒臭い話。考えると神経が磨り減るだけだから、本当はあまり考えない方がいい。けど自然と浮かんでしまうのであれば、やはり考えるしかない。起こる現象と、降りかかる現実と、自分の中にある真実と。それらの整合性を高めていくことが、その人の道であるとしか言えない。

映画を観た後は、北千住に寄って青森居酒屋の「ごっつり」という店で多少飲んだ。東北の魚介料理を柱にした居酒屋で、焼き物や串物、お造りなどクオリティはなかなか高かったように思える。同店は北千住駅の西口を背に大通りを歩き、サンロード商店街を左に曲がって少しした所にある。元々、秋田料理屋の「まさき」や魚専門店「さかなさま」に行こうとしたのだが満席で、代替として偶然見つけた店だったのだけど、どうやら当たりのようだった。サンロード商店街は経験則上、右側も左側も満足できる店が多い。安定感と信頼感に富んだ、まさしく足立区随一の歓楽通りだった。

その後、北千住カラ館にてカラオケを少し楽しむ。土曜の夜だけあって待ち時間は20分。基本、平日のヒトカラが多い僕で、土曜の夜のカラオケは久しぶりだから実感が湧かなかったが、やはり休日はどこも活気に溢れている。皆が羽を伸ばしたいのだろう。束の間の充足を得たいのだろう。時間を埋めたいのだろう。それが終わった後、祭りの後のような空虚感が襲うと分かっていても、今はただ限られた時間を、許された享楽を楽しむ。それを繰り返す。本当に心が埋まるものを見つけられるその日まで。

人間とは悲しい生き物であるな。次々と歌を入力し、その都度過去の履歴が次々と上書きされていくカラオケ屋のデンモクのようだ。


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20130222(金)  電話での駆け引きは人同士の駆け引きに繋がるという機微と、シチューとコーンスープがセットで出てくる意味深を探る

130222(金)-02【2230~2300】シチュー、コーンポタージュ、水菜と海苔の胡麻醤油サラダ《家-嫁》_01 130222(金)-03【2310頃】じゃがりこ《家-嫁》_01

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルト

【昼メシ】(職場付近-一人)
コンビニカレーパン

【夜メシ】(家-嫁)
シチュー、コーンスープ、水菜と海苔の胡麻醤油サラダ、じゃがりこ

【イベント】
無し
 
 
【所感】
金曜だけど何も無い。金曜なのに、特に何かをする気も起きない。飲み屋にでも寄ってはしゃぐのも、スロでも打って憂さ晴らしするのも、どこか気が進まない。この10年間の外遊や狂乱は一体何だったのか。まるで何十年も昔のことのようだ。「花金」という言葉はもはや過去の遺物となった。

狂乱の宴が終わったのならば、次に訪れるのは静寂。騒ぐ気が起こらないならら、家で淡々と読書するかPCでも弄った方がいいだろう。方々に飛び散っていた溢れ返るエネルギーは一本の細い剣へと凝縮し、精神世界という名の鞘に収まり沈黙を保つ。その剣が名刀へと昇華するのはいつなのか。湿った弾薬が命を吹き返し、引き金が引かれる契機を、撃鉄が落ちるその時を、号砲が鳴る瞬間を、今はじっと待っている。

地元駅をフラフラしていると、携帯の着信音が鳴った。誰かと思い液晶画面を見てみると、長野に住んでいる友人だった。もう知り合って10年以上になるが、彼と話すと話が長くなる。今はコンビニでためになりそうな雑誌の物色をしている最中。後にしてくれ。僕は一旦シカトする。しかしその後、連続で何度も電話が掛かってくる。そんなに急用なのかよ。どうせ大した用事じゃないんだろ、オレは知ってるぜ?

あまり続けざまに電話を寄越すのは、時に相手の苛立ちを呼び寄せ、度を過ぎれば煙たがられる要因ともなる。F5連打するネット住民のせいでサーバーが落ちてしまった時に類似した苛立ちだ。いくら知った仲、心が通じている仲だと信じていても、間の取り方は慎重に。「急いては事を仕損じるる」ということだ。

要するに、いくら知った仲であろうとも、あまり馴れ馴れしくし過ぎれば疎まれ、あまりしつこ過ぎても嫌われる。磁石のN極とN極を力技で強引にくっ付けることは出来る。だけど手を離した途端、先ほどの密着が嘘だったと言わんばかりの大反発を見せる。それと同じこと。時には押し、時には引く、そんな駆け引きの妙を大切に。「強いては事を仕損じる」ということだ。

かと言って、自分の意思を胸に秘めたまま、はっきり伝えないでいるのも考え物だろう。言わずとも分かっているはず、心はきっと通じている。そんなものは単なる思い込み、まやかし。以心伝心、阿吽の呼吸、ニュータイプ、それは達人の領域に入って初めて出来ること。何だかんだ言って、誰しも大切なことや言うべきことはハッキリと伝えている。黙して語らずが美徳だったのは江戸時代の侍ボーイまでだ。自分の脳内だけで都合よく解釈するだけのシャイボーイは、現代においては駆逐されるのみ。誰も付いてこなくなり、後に残るは孤独という名の二文字だけだ。なので最低限の主張は怠らないよう。「シャイでは事を仕損じる」ということだ。

で、結局、家に帰ってからその友人と電話をしたのだが、新しいビジネスの話とか、休日に予定している飲み会に参加したいのに幹事から断られたという不満などを思う存分、僕にぶつけてきた。まあビジネスは僕も望むところだし、資金を持っているのはその友人なのだから、むしろウェルカムなんだけど、収益を上げるためのビジネスモデルを早急に提出せよと言われても、まだそんな具体的に考えたわけでもないし。

予定している飲み会に関しても、彼の目的はそのビジネスの話をしたいという主旨で、だけど僕等の目的は、今度就職が決まった友人を祝うという主旨で、全く正反対。だから控えたほうがいいよ、とやんわりなだめたのだが。いずれにしても随分と性急だな。彼は長野の山奥に引っ込んで隠遁生活のような日々を過ごしているので、何かやりたくてウズウズしているのだろう。

その気持ちは分かる。人の体内に溜まったエネルギーというものは、基本的に霧散しない。どんなジャンルであれ、注入先を見つけるまで溜まり続けるものだ。そのエネルギーを投下したいのだと。誰しも同じ。僕も同じだ。そんなことを友人と電話で話していた。

というか、いつの間にか1時間半も経っているじゃないか。今夜は好物のホワイトシチューだというのに、何てタイミングの悪い。というか、話の長い相手だと理解していながらメシ前に電話をしようと決めた僕にも責はあるが。そもそも、電話は友人から掛けたんだっけ、それとも僕から発信したのか? だとすれば通話料えらいことになってないか? そりゃ場合によっては僕が電話代を負担しても構わない。だけど当然相手による。少なくとも、この友人は「通話料もったいないからそっちから掛けて」と余裕で言っていい相手だ。発信元は一体どっちだったんだ? 気になる・・・。ホワイトシチューがテーブルの上で少しずつ冷めていく様を指を咥えて眺めながら、「いまどんくらい冷めちゃったんだろ・・・」と気が気でないのと同じくらい気になる。ホワイトシチューと一緒にテーブルに置いてあるコーンスープを見つけ、「シチューとコーンスープって属性としては殆ど同じなのに、なぜ一緒の食卓に並んでるんだろう?」という、同種同列のメニュー構成の意図がどこにあるのか気になって仕方ないのと同じくらいに気になるぜ。

再来月の携帯料金請求書で、それが分かる。真実は、時だけが知っている。


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20130221(木)  新鮮なドトールでのひと時と、妥協のテキサスマックバーガーから、価値観の推移と過去の記憶を振り返る

130221(木)-02【2220~2240】マック持ち帰り(テキサスバーガー、てりやきマックバーガー)《家-嫁》_01 130221(木)-02【2220~2240】マック持ち帰り(テキサスバーガー、てりやきマックバーガー)《家-嫁》_04

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルト

【昼メシ】(職場付近-一人)
ドトール
(アイスティー)

【夜メシ】(家-嫁)
マック持ち帰り
(テキサスバーガー、てりやきマックバーガー)

【イベント】
無し
 
 
【所感】
昼、ドトールに入ってみた。10年ほど今のエリアで仕事をしているが、ここのドトールに入るのは初めてだ。最近、ファミレスの頻度も高まってきている。反比例するように、コンビニパンを食いながら突っ立っているだけの独り昼メシが減少していく。

独りで居ることに耐え切れなくなったのか? 人は基本的に独りだが、決して独りでは居られない。時に煩わしいと思っても、本質的には必ず他者の温もりを求めるものだ。だけど僕としては、その温もりは別の場所で求めればいいわけで、昼休憩くらいは独りで居たいと常々考えている。よほどの相手でなければ、昼休憩は独りが一番。孤独最高。基本的に内に篭りがちでロンリーウルフ志向の僕として、そのスタンスは以前と全く変わらない。

ならばコンビニパンに飽きたのか? 飽きという精神作用は必ず訪れる。誰であろうと、何であろうと、生涯同じものを変わらず愛し続けることや、同じことを継続するなど人間には不可能だ。どんな聖人だろうと無理。ただ一つの真実を貫き続けられるほど人は強くない。また、人の脳は変化や刺激や新しいものを常に求めるよう出来ている。よって必ず飽きは訪れる。

原因はマンネリだったり、価値観が変わったり、色々だろう。数十年間、己の核だと信じていたものが、ふとしたトリガーで崩れ去るなどという事例はザラだ。人の心は不変でない。それが人の普遍性。しかし今回の場合、コンビニパンに飽きたわけではないと思われる。何故なら、もうとっくの昔に飽きているから。腹を満たせれば良い、食えれば良い、そのための手段として、ずっと前から惰性的にコンビニパンを買っている。もうとっくにコンビニパンという物体には飽き飽きしているのである。

では、風景に飽きたのか? オフィスビルの裏路地に立ちすくみ、あるいは公園のベンチに座り、20~30秒でコンビニパンを平らげるという機械的なまでに変わらない自分の動きに、その際自分が身を置く決まりきった立ち位置に、そこから見渡すいつもと同じ風景に飽きたのだろうか。多少はあるだろう。先述した飽きの法則を考えれば、同じ景色を見続けるのはかったるいだけ。心が揺れなくなってくる。感受性が乏しくなってくる。7~8年間続けていたのだから無理もない。

それもあり、僕は昨年の3~5月あたり、休憩時間を目一杯使って通常の行動エリア外をひたすら歩くという普段と違った行動を試みたことがある。毎日違う方向へ、歩けるところまで。あの時は確かに楽しかった。本来なら東京駅までが行動圏の限界点だったが、それを越え歩いて銀座まで行ったり、日本橋の店を見たり、時には水天宮あたりで道に迷って会社に戻るのが遅れたり。景色をたまに写真に収め、それを報告したり。見える景色が都度新鮮で、毎日の昼休憩が充実していた。気分が清々しかったのは確かだった。

しかし、その規格外の行動も数ヶ月で終わる。休憩時間があまり取れなくなったというのと、何となく無意味な気がしてきたからだ。新しい景色を見て心が刺激されたと思っても、細胞が著しく活性化したわけでもなく、その証拠に何か自分に劇的変化が訪れたわけでもない。つまり、散歩ではその根本は何も変わらなかったという結論。ただ現象として目に映る景色を見ていただけに過ぎない。

その景色ですら、最終的には記憶に留まらない。昨日見たはずの景色なのに。翌日には忘れ去っている。人間が当たり前に持っている”忘却”という精神作用が、刺激だらけで楽しいはずの昼休憩散歩時間にすら当たり前のように適用されてしまう。上辺だけで本質が変わらないことに無情を感じていた。つまり偽りの刺激だった。そう気付いた途端、遠くまで散歩する意義を失ってしまった。だから今では、再び近場による立ちんぼコンビニパンかじりに戻ったのだが、景色に飽きているという点では散歩も直立不動も同じであり、だけどそれは当たり前のことだから、論じる争点でもない。

ならば要するに、疲弊したのか? 同じ挙動を続けることに、変わらぬ日常に。戦い疲れ、心が消耗してしまったのだろうか。人は、一定のものを好きで居続けることが不可能で、同じように動き立ち振る舞い続けることもまた不可能。いつかは疲れる。それは間違いない。その時、立ち止まりたいという欲求が首をもたげてくる。どこか一所に落ち着きたいと思うようになってくる。長旅の末、安住の地に行き着く旅人のような心境だ。それもまた人間の性。

つまり僕は、歩くのをやめたいのか? 立ち続けることに疲れたのか? いや、歩くまいが座り込もうが元々疲れている。今さら疲れたとか言うのは変な話である。ただ、コンビニパンをかじって立ち尽くしたり、ベンチに座ってスマホを弄りながら時間を潰すことにストレスを感じてきているのは確か。ただ時間を潰すのではなく、時間を有効に使いたいと急速に思い始めた。ボーっと景色を眺めていてもダメ。コンビニで立ち読みをしても全く心に響かない。スマホを弄ってもまるで満たされない。何をやってもしっくり来ない。その、目の粗いザルに砂をどれだけ入れても全てザザザと滑り落ちてしまうがごとき虚無感こそが病巣だ。

ならば勉強でもした方がいいんじゃね? と突然、閃きのような打開策が頭に突然浮かぶ。だって娯楽が楽しくないんだから、真逆に位置する勉強なら逆に楽しく思えるんじゃないか、と。人の興味や情熱というものは、その時の精神状態によって娯楽か自己啓発かのどちらかに偏っているものだ。どれだけ絶望していている人間でも、何もかもゼロということは基本有り得ない。そうなれば後は死ぬ以外にないからだ。

死なない以上、死ねない以上は、琴線に触れる領域がどこかにあるはず。それに気付かない、見つけられないだけの話だ。何十億もの生きた細胞と、神から授かった無限の頭脳を全く使わずにいられるほど人間は無機質には絶対なれないはず。ゆえに、元あった興味の対象が失われたとしても、同質量の情熱というエネルギーは残るはずである。そのエネルギーは、単体では具体性を持たない、命令式の無い記号のようなもの。命令式を書き加えれば、具体性を持たせれば、すなわちエネルギーの向かい先を探し当てれば化学反応を起こすはずである。今はそれを見つけられず眠っているだけ。そう考えた時、今の自分のエネルギーの行き先は娯楽ベクトルでは無いだろう。その数値はゼロに近い。逆に考えるなら、自己啓発のベクトルに針が思い切り振れていると予想できる。恐らく、自分が納得出来、そして集中できるのはそちらのベクトルだと僕は判断した。それが唯一の打開策であり、救済策でもあるように思えた。

という流れで、エネルギーの行く先を考えた時、英語の勉強のことが頭に閃いた。しばらく停滞どころか完全にストップしていたこのカテゴリへと意識を向けるべきだと。僕は朝、死蔵していたテキストを取り出して少し熟読してみる。すると結構面白かった。やはり今の自分は勉強することによって心が満たされる精神状態のようだ。ならば昼メシを有効活用しない手はない。どこかで落ち着いて昼メシを食いながら、少しでも長く勉強するのが最善の策だ。という指針が出来上がったがゆえの、今日のドトールなのである。

ファミレスもいい。だけどメシを食うことがメインじゃないから、室内で座れる場所ならどこでもいい。行ったことのないドトールだろうと、勉強できればOKだった。僕はアイスティーをオーダーし、ドトール特有の窮屈な机に座って、ただ英語のテキストを読みながら、頭の中で例文をシャドウイングしていた。何か超キモチいいというか、新鮮である。風景の新鮮さなど、しょせんは一時的なもの。心の小宇宙を新しい叡智で満たし続けることこそが、本当の刺激であり新鮮さなのだろう。僕は初めて入ったドトール店内で、恐らく今年に入って初めて感じる本当に充実した昼休憩を過ごした。

コンビニパンより随分と高くつくが、得られるものを考えれば些細なこと。金を取るか、充実した時間を取るか。金が無ければ何も出来ない。だけど金があっても満たされる保証は無い。永遠に満たされないかもしれない。どちらがより幸せなのか、より不幸なのか。意外と答えは簡単である。

同じようにドトール店内には、肩と肩がぶつかり合うような狭い席にも関わらずたくさんの客が居た。相手と雑談したり、ノートPCを開いたり、独りで本を読んだり、スマホを弄ったり。皆が楽しそうに、あるいは気だるそうに、だけど少なくとも自分だけの時間を過ごしていた。この『自分だけの時間』こそが恐らく掛け替えのないものに違いない。それを得られる場所の一つとして喫茶店も存在する。まさしく喫茶店の本分、存在意義である。結論的に、今の自分にとっては、この「独りじゃないけど独り」というステータスを保てるドトールが、そして「自分だけの時間」の埋め方として納得出来る数十分の英語の勉強が、何よりも貴重に思えた。

貴重な昼メシを体験してから6~7時間後。夜メシ。嫁は女子会とやらに行っていたため何も食えません状態。会場は「かに道楽」だったとか。カニねぇ~、美味かったカニ? 僕は僕で、ココイチにするかマックにするかで迷ったが、ココイチ比率が高めの最近の行動をイーブンに戻すため、「まっ、食うか」とむしろ投げやりにマックを選択した。本来はマックには行きたくない。だってロクなメニュー無いし。テキサスバーガーがまだ終了してないし。

期間限定バーガーというのは、いつからいつまでと期間を区切って実施するのが本来の姿。しかしマックの場合、厳密な期間は設けず、作った在庫が尽きるまで続けるという話も聞いた。それが本当か否かは僕には分からないが、2週間で終了してしまう期間限定バーガーが数多く観られた過去の記憶を考えれば、期間限定バーガーには総量があり、それを売り切るまで終わらないという説も信憑性を増してくるではないか。

何故なら、確か2~3週間前くらいから始めたと記憶しているテキサスバーガーは、まだまだ余裕で継続するオーラを醸し出しているからだ。僕が今立っているマックのレジ受付フロアの壁に貼ってある大仰なポスターで、あるいはレジ前から前方を見上げた先の電子看板に、おどろおどろしいテキサスバーガーの写真画像がしつこいくらい大々的にぶち上げてある。「まだまだ在庫はありまっせ」と言わんばかりの様相だ。こんなの長くやったって売れないだろうに・・・。人気があると踏んで総量を多く作ったのか。あるいは人気が無くて売れ残ってるのか。テキサスバーガーはまあ、後者だろう。少なくともマックハンバーガーに関して、僕の舌はナマクラじゃない。少なくともここ6~7年は全種類のバーガーを制覇しているヘビーマッカーなのだから。そんな僕だから、ダメなものはダメだという嗅覚が働く。ピーンと来る。テキサスバーガーは落第点であると、僕の血潮がそう叫ぶ。

というわけで、テキサスバーガーは人気が無い。僕的には間違いない。だけどそのテキサスバーガーをなぜか買ってしまうのだから、僕も甘ちゃんだよな。非情になれないというか、コレクター心をくすぐられるというか。予想通り、家に持ち帰ってテキサスバーガーを食っても琴線に全く触れなかった。むしろ、同時に買ったてりやきマックバーガーのてりやきソースこそが僕の欲情をかき立てた。

テキサスバーガーが不味いとは言わない。大好きだという人間を非難するつもりもない。人生色々、好みも色々ということは承知している。だけど全体的にはきっと人気が無いとやはり断じる。評価は色々、味と人気は別物。

転じて夜メシの過ごし方も色々。そして昼休憩の過ごし方も色々。今日ですら、ほんの30~40分のドトールの一件だけで心が大きく湧いた。7~8年間培ってきた昼休憩の過ごし方についての固定観念が崩されるほどに。価値観や世界観など容易く変わることは、最初の方で述べたとおりだ。強烈な思い込みから来るものであろうと、ふとしたことで反転する。それが嬉しい悲しいと言うのではなく、それが人間の自然ということ。自分自身であろうと、他者であろうと。そう受け止める以外にない。

そんな様々な”色々”が、今日一日の昼休憩とマックに費やした合計1時間の間に僕の心の中に濁流のように去来する。触発されるように、過去数ヶ月行った昼散歩の時の景色や、その時思ったこと、その時話した思い出なども同時に蘇り、心の中は何とも説明の付かない複雑なテイストで一時染まった。何とも説明の付かないテキサスバーガーの微妙な味付けのように。

その感情に僕は少し戸惑い、ため息を吐いた。テキサスバーガーの微妙さに思わず吐いたため息のように。


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20130220(水)  遅刻して飲む非現実なマックコーヒーと、現実のハッシュドビーフが合体すれば超キモチイイ

130220(水)-02【0945~1010】ホットコーヒー(マクドナルド梅島店)遅刻前《東京・梅島-一人》_02 130220(水)-04【2305~2340】ハッシュドビーフ、豚キムチ炒め《家-嫁》_01 130220(水)-04【2305~2340】ハッシュドビーフ、豚キムチ炒め《家-嫁》_02

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルトミルミル

【朝お茶】(東京・梅島-一人)
マクドナルド店内
(ホットコーヒー)

【昼メシ】(職場付近-一人)
デニーズ
(コブ料理長の具だくさんサラダ)

【夜メシ】(家-嫁)
ハッシュドビーフ、豚キムチ炒め

【イベント】
無し
 
 
【所感】
昨日に続いて遅刻。僕は一体何やってんだ?と、色々な面に対して考えてしまうことも最近ではよくある。とりあえず一時間ほど遅れる旨は伝えたので、頭を空っぽにする意味で、10時前あたりから地元のマックに入ってコーヒーをゆっくりと飲んでいた。

店内には、僕と同じようにスーツを着たリーマンが黄昏れていたり、暇そうな主婦がポテトを食っていたり、学生っぽい兄ちゃんがニンテンドーDSを黙々とプレイしていたり、若い姉ちゃんが英語か何かのテキストを開いて勉強していたり、若いメタボ君がチーズバーガーを嬉しそうに頬張っていたり。僕が通常マックに入る時間帯、すなわち平日の夜と休日の昼ではない時間帯に今、僕は居る。それはいつもの風景と全然違っていた。

ギャルのおしゃべり場と化した意地汚さや喧騒もなく、血気盛んな学生や若年リーマン達がボリューム満点のバーガーを一心不乱に貪る静かなる傭兵の食事風景でもない。日常の活動時間を少し外れた、世間が動き始めるほんの手前の、一瞬の空白時間が為し得る独特の静寂と空気の流れがそこにあった。

それは一瞬の空隙。束の間だけ隔絶された世界。こんな世界もあるのだなと、僕はある意味で目からウロコが落ちた気分だ。

各々に各々の生活サイクルがあり、活動時間があり、休眠時間がある。しかし、そのどれにも属さない隙間がどこかに必ず潜んでいる。それはある意味異質だけれども、神聖で不可侵な瞬間であるようにも思えた。

「早起きは三文の徳」と人は言う。「遅刻は半分の得」と僕は言う。どちらも正しい。変わらないまま流れゆくサイクルを崩さなければ見えてこない空隙が、、その人にとってもう半分の世界が確かに存在している。誰もが持っている並行世界は、自らが保っている平面世界を少しずらさなければ見えてこない。気付きとは、いつだって日常を少し外れた場所にある。

仕事後、ハッシュドビーフを食った。僕の調子が悪いことに対する嫁なりの労いだろう。ありがたいことだ。ハッシュドビーフは僕の好物。これは僕の揺るがない現実であり、平面世界での出来事だ。存分にこの現実を享受したいところ。少なくとも僕は、ハッシュドビーフについて一度も不信感や不満感を抱いたことは無い。だから今後も揺るがないし、現実を現実だと認識するキーアイテムに今後もなるだろう。

揺らぐものがあるとすれば、それは僕の並行世界の領域だ。並行世界に短期的にトリップするのではなく、並行世界を大いにトラベルしながら、それを自分の平面世界へと近付けていき、最後は三身合体する。それが僕の人生のジャーニー。

何を言っているのか自分でも意味が分からないが、ありのまま目の前で起こったことを話したらこうなった。マックコーヒーの芳醇たるほろ苦さと、ハッシュドビーフの濃厚なる美味しさと、そして僕の薄氷のごとき並行世界と、それらの融合と・・・。創世のアクエリオン風に言うなら「あなたと合体したい」といったところだ。いずれはアポロとシルビィの無限パンチで777確変確定、キュイキュイキュイーンッ・・・! キモチイイーーーッ・・・!


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20130219(火)  パターン化するファミレスでのやり取りと、パターン化する飲み屋のオヤジの常套句と、パターン化しつつある飲み屋での俺の姿勢

130219(火)-03【2010~2300】ポテトフライ、チョリソー(焼きとん屋「紅とん 茅場町」)《東京・茅場町-嫁、職場同僚2名》_01 130219(火)-03【2010~2300】ポテトフライ、チョリソー、串焼とんとろ等(焼きとん屋「紅とん 茅場町」)《東京・茅場町-嫁、職場同僚2名》_01 130219(火)-04【2010~2300】焼きオニギリ(焼きとん屋「紅とん 茅場町」)《東京・茅場町-嫁、職場同僚2名》_01 130219(火)-06【2010~2300】新作ホワイトガルボ、ルマンド《家-嫁》_01

 【朝メシ】(家-嫁)
ヤクルトジョア

【昼メシ】(職場付近-一人)
デニーズ
(コブ料理長の具だくさんサラダ)

【夜メシ】(東京・茅場町-嫁、職場同僚2名)
やきとん屋「紅とん」 http://www.via-hd.co.jp/o-giya/business/beni_ton.php
(ポテトフライ、串、豚トロ、焼きオニギリ等)

【夜食】(家-嫁)
新作ホワイトガルボ、ルマンド

【イベント】
職場系飲み
 
 
【所感】
朝。遅刻した。起きようにも起きれなかった。何となく身体が重い。同時に心も重い。出社するのが億劫である。病と言えば病。1時間半ほど余計に眠り、その後悠々と会社に向かった僕は、既に投げやりな風体。今のぬるま湯に何となく適合出来ないと思う反面、出社すれば反射的に仕事をテキパキとしてしまう悲しい社畜精神。劇的変化はいつ訪れるのか、少し焦燥感を抱いてはいた。

昼メシ。最近、コンビニカレーパンな日々を抜け出しつつある。代替するのはファミレスか喫茶店。ファミレスの場合はデニーズ一択。一応デニーズの他にも、ロイヤルホストとジョナサンが、距離にしてデニーズから100m圏内にあるけれど、そこに到達するには大きな交差点を一つ越えなければならない。つまり、向こう側に渡る時、信号待ちの可能性が生じる。信号待ちの時間なんて数分程度だけど、その数分が相当高いハードルだ。心理的に足を止めてしまう。また、その数分を犠牲にしてまでロイホやジョナに行く理由もない。別に彼等の情熱的なファンでもないし、そこに特別なメニューがあるわけでもないし。僕はただ食えればいい。ならば信号待ちというストレスを抱えてまで交差点を渡る必要は無いのである。ということで、ファミレス行くならいつだってデニーズ。店のドアを開け、レジ側を左に曲がった喫煙席の左奥から二番目のテーブルがボクの定位置。

そのデニーズで食うのはサラダ一拓。何かとのセットではなくサラダを単品で頼む。ここ5~6年ほど、昼はコンビニパン一個程度で済ませてきた。そのお陰で昼に量が食えない身体になってしまった。これは幸か不幸か。とりあえずメタボにはなっていない。働き始めてから特に病気もしていない。財布の負担にもそれほどならない。そう考えれば幸かもしれない。確かなのは、平日の昼メシは僕にとってそれほど重要ではないということ。大根おろしの上に乗っかっているカイワレ大根くらいの位置付けということだ。

しかし、一概にサラダと言っても、オーダー対象は三種類存在する。「季節野菜のサラダ」「シャキシャキごぼうとお豆のサラダ」「コブ料理長の具だくさんサラダ」の三つだ。全て380円。一見安く見えるが、サラダ単品だけの値段と考えればリーズナブルなのかどうか微妙に悩むところだ。

そもそも、これらのサラダにはネーミングセンスをあまり感じられない。”お豆”って言い方、むしろブサキモくない?とか、コブ料理長って誰だよ?とか思ってしまうわけだ。まあそうは言っても、僕が三つのサラダの中で一番頼んでるのは、その意味不明な名称を持ったコブ料理長サラダだけどね。不可解ゆえに気に掛かる。ミステリアスゆえに憧れる。それは人間の特性の一つ「怖いもの見たさ」である。

ただ面倒臭いのは、サラダが三種類なら、ドレッシングも三種類あるということ。「野菜ドレッシング」と「ガーリックドレッシング」と、そして「コブドレッシング」の三つだ。また『コブ』かよと苦笑したくなる。君らの推しメンはコブですかと。まあとにかく面倒臭い。たかだか380円のサラダに「ドレッシングはいかが致しますか?」とかしこまられても、「じゃあコブドレッシングで」としか言えないよ。ステーキ屋の「焼き方はいかが致しますか?」「ミディアムレアで」「塩の加減は?」「サッと掛ける程度で」「ソースはどちらを?」「和風ソースでよろしく頼むよ」みたいなブルジョワ的雰囲気がどうしても出てこないんだよな。

まあ「コブサラダよろしく」「ドレッシングはいかが・・」「コブドレッシングで」と、ウエイターの質問に被せるようにまくし立てる僕もどうかと思うけどな。だって、いつも同じやり取りだから面倒臭いし。ウエイターだってもはや顔見知りなんだから、僕がどう言ってくるか分かってるくせに、型通りの質問をしてきてしょうがねえな。まあウエイターとしては業務のマニュアル上そうしないとダメなのだろうし、僕が毎日100%同じものを頼むとも限らないし。いつものように「コブサラダ・コブドレッシングですね」と先読みしたウエイターが伝票に入力した瞬間、僕が心変わりして「はぁ何言ってんの? 僕は季節野菜が食いたいの。勝手に決めないでくれる?」と意地悪な返答をするかもしれないし。僕だって人間。ちょっとした悪戯心が芽生えることが無きにしも非ずだ。

ずっと変わらないと思っていたのに突然ハシゴを外される。心から信じていた人からの、まさかの裏切り。無いとは限らない。100%の信頼関係とか、揺らぐことのない永続的な相思相愛など、この世のどこを探しても殆ど見つからないはずだ。ゆえに危険なのである。思い込みが深ければ深いほど、それが外れた時のダメージは深刻になるからだ。

嫌うな、恨むな、妬むな、そんなことは人間には無理だ。だけど、頼るな、好むな、信じるな、それもまた不可能。そこまで徹底できない。だから、いざという時、深刻にならないためにも、半々くらいがちょうどいい。すなわち、嫌いすぎるな、恨みすぎるな、妬みすぎるな。そして、依存しすぎるな、信じすぎるな、愛しすぎるな、である。

そしてもう一つ重要なのが、「あまり気にするな」。ロザミアを殺してしまったカミーユに対し、クワトロ・バジーナ大尉が何気なく放った言葉でもある。しかし、それこそが大人としての気遣いと慈悲とを兼ね揃えた大尉の本領発揮の台詞なのだと、この歳になったからこそ分かる。「気にしてなんかいませんよ、気にしてたらニュータイプなんてやってられないでしょ?」というカミーユの返答もまた同じ。心を前面に出すことなく、敢えて堪えていない風を装うという大人の返答。これこそ大人のやり取りであり、大人のあるべき姿。それを富野監督は25年前から既に表現していた。まさしく奇才であった。

夜メシは、嫁が同僚と飲むということで、僕も仕事を適当に切上げて合流。その後、新人も合流し、合計4人での飲みとなった。会場は、やきとん屋の「紅とん」という店。そもそも最初は、同じやきとん屋の「筑前屋」を予定していた。以前、僕が西大島の「筑前屋」に行ったという話から、茅場町あたりにも支店があることに気付き、機会があれば行ってみるという流れだったのだが、いざ本日現地に行くと、「閉店しますた」という張り紙が貼ってあった。まさかこんな、飲み屋のターゲットたるリーマンとOLで溢れるビジネス街の中心にある、しかも人気屋号の「筑前屋」が潰れているとは誰も思わない。恐らく閉店したのは最近だろう。しかし店に行ってみるか電話するかしなければ、実際に店が存続しているか否か分からないという部分に恐ろしさがある。ぐるなびや食べログは、しょせん過去の履歴の積み重ね。リアルタイムで情報更新するわけではない。5年以上更新していないホームページが当たり前のように転がっているネット世界は、意外と無責任なもの。虚と実とを見分けられなければネット世界を渡り歩くのは難しい。

というわけで、急きょ鞍替えした「紅とん」。店内はオシャレとは程遠く、コンクリートの床にテーブルとイスを直置きしているだけのカオス系。雑多で粗雑な、リーマンオヤジ達が好みそうな様相である。なので店内の喧騒もそれに相応しく、乱雑的で少々うるさ目。特に僕個人としては、僕等の縦隣の席の集団が気になった。そこには50代後半と思われる居丈高なおっさんリーマンが居た。

彼は、部下と女性社員に対して『オレ等が若い頃は』的な武勇伝を展開しつつ、「仕事というものはだな」と説教めいた話を交えながら、思う存分に怪気炎している。自分列伝を披露し生き方の何たるかを年下に教えるという構図は、不思議とどこの飲み屋でも見かける。それは即ち、飲み屋における、ありがちなパターンだ。そのパターンを分析するとこうなる。

まず話す側。パターンA『オレスゲー』と、パターンB『オレの話を聞け』と、パターンC『オレに付いて来い』が複合した論法を彼等は取る。そして、その複合パターンの中には裏心理Aである『もっとオレを褒めろ』および裏心理B『もっとオレに優しくしろ』がもれなく付随する。

次に、それを聞く側の反応。パターンA『○○さんはスゴいですね』とパターンB『もっと話を聞かせてください』とパターンC『○○さんに付いていきます』の複合形と、これも定型化している。そしてやはり、内心にある裏心理A『また始まったよ』と裏心理B『余計なお世話だよ』がセットで付いてい来る。とどのつまり、酒の席での豪語は大して相手の心に響かないどころか、逆にウザがられるという罠があるということだ。ほどほどにした方がいいぜ、おっさん。そう思いながら、僕等は僕等の話をしていたものだ。

あと、そのおっさんが話に熱中するあまり、ちょうどおっさんに背を向ける形で座っていた僕等の同僚の背中と、おっさんの背中がたまにぶつかっていたりもした。おっさんはテーブルと真正面に座るのでなく、遠山の金さんのごとく右肩をテーブル側に投げ出すようないきり肩で座っているものだから、ことあるごとにこっちのスペースに侵入してくるんだよな。そして、啖呵を切る度にいちいち身体をくねらせたりするものだから、同僚と何回ぶつかったことか数えきれない。それでいておっさんは、同僚の背中とぶつかる度に、同僚の方を向いて「何ぶつかってんだ、邪魔だよ」みたいな顔をしているものだから、まさしく一触即発風で、僕は内心ハイボールが喉に通らないほどヒヤヒヤしていたよ。まあいざとなったら、軍師の頭脳と野獣の肉体を持ち合わせたこのオレが出張るまでだがな。少なくとも、自分に非がある人間の逆ギレは、自称ヤンキー狩りボクサーである僕にとって大好物。来いよおっさん、存分に狩ってやんよ・・・!

という妄想をしながら、「紅とん」で豚トロなどをオーダーしつつ酒を飲んでいた。その酒が切れそうになると、すかさず店員のおっちゃんが「何か追加しますか?」と滑り込んでくるので、酒や料理が途切れることも無かった。場末的な店にしては、やけにデキるおっちゃんだなと感心したものだ。いや、場末だかこそ、か。この店の主要客層はリーマンで、しかも年代が高めのおっちゃん達。彼等は社内での地位が高めのはずで、社会的にも地位のある人間が多かろう。つまり、社会の酸いも甘いも知り尽くした企業戦士、選ばれし猛者達だ。社会常識がなってない輩には厳しいに違いなく、細かいことに口うるさく突っ込んでくるに違いない。要はわがままな客、メンドクサイ客だ。そんな猛者達に揉まれながら、店員の気配りや態度が鍛えられ、対応スピードも向上したのだとすれば、まさしくOJTの鏡。「お客様のおかげで私達はここまで成長しました」という理想的な店員教育がここにある。まあ実際どうかは知らないがな。気炎を吐く目の前のおっさんのようなのも居るし。人生色々、飲み屋も色々、客も色々ということだ。

とりあえず、そんな感じで店内の空気を観察しつつ、同席していた面子で話をしていた。僕は何も語らず、ただ話を聞くのみ。元々聞き役タイプだが、最近は特にその属性が色濃く出ている。持論を展開する欲求よりも、自分以外を観察することで、人の何たるか、人生の何たるかを自分なりに分析・解釈するという手法が今の僕のスタンスとなりつつある。

こんなに無口でいいのか?と最近思わなくもないが、今の自分の心境的にはそれが一番性に合っているようなので、その流れに沿うのみ。銀河英雄伝説的に言うなら、僕はラインハルトやヤン提督のように歴史を動かす人間でなく、彼等を冷静に分析しながらその足跡を形に残す「後世の歴史家」の立場であるべきなのかもしれないと、そう思うこともあるのだ。最近、自分の役割が何となく分かってきた僕は、沈黙提督アイゼナッハのごとくハイボールを口に運び、たまに「そうですね」「なるほど」と相槌を打ちながら会話に参加していた。これも一つのコミュニケーションの形。喋らずとも分かり合えるニュータイプへの道が拓ける可能性が、まあ3%くらいはあるだろう。


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