20121231(月冬休) 和歌山旅行二日目 白良浜とアドベンチャーワールドと年越し花火

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【朝メシ】
ホテル「銀翠」(食パン、コーヒー)

【昼メシ】
アドベンチャーワールド内フードコート(双子パンダカレー、パンダハンバーガー、生ビール)

【間食】
アドベンチャーワールド内
・買い食い(パンダ肉まん)
・カフェ「ラフォンティーヌ」(アニマルホットコーヒー、アニマルアイスコーヒー、パンダ大福)

【夜メシ】
ホテル「銀翠」(コンビニ オム焼きそば、たこ焼き、チーズ、チップスター、ビール、梅酒等)

【夜食】
無し

【イベント】
和歌山・白浜旅行(白良浜、アドベンチャーワールド)

【所感】
朝、ホテルのロビーで「一枚まで無料」の食パンをキッチリ一枚だけかじり、スケジュールを再確認する。昨日と打って変わって天気は快晴。思い通りの行動が出来る予感に胸を弾ませる。晴れやかな心を映し出すかのように、はるか頭上では太陽が煌々と輝き、その光は白良浜の白い砂にキラキラと反射しまるで宝石のようだった。

白良浜を歩く。前回訪れた時は夏だったが、今は冬真っ只中。それでも浜辺を歩く観光客は20~30人ほど居ただろう。このキレイな砂浜と海岸線を見られるのだから無理もない。その美しい光景にただただ目を奪われるばかり。波打ち際で繰り返される静かで心地よい波の音に、ただただ耳を傾けるばかり。その瞬間だけは、全ての雑念が遠のく。ただただ美しい自然に身を任せ、雄大な海の鼓動に包まれることの心地よさ。「素晴らしい…」口からは、ただその一言しか出てこなかった。

白良浜海岸には、白砂で敷き詰められたなだらかな砂浜だけでなく、武骨な岸壁もある。そこに登って眺める景色は、砂浜で見るそれとは一変して荒々しい。砂浜から見る海が母なる海だとすれば、岸壁から見下ろす海は父なる荒波だ。言うなれば、菩薩と修羅の融合。両者を観察してこそ、白良浜の真髄に辿り着ける。

その白良浜で、三人組の男女が砂浜を歩いていた。20代前半だろうか。男二人と女一人。そのメロドラマめいた組み合わせに妄想力を掻き立てられる僕の方に、彼等がザッザッと勢いよく向かってきた。ヤベ、心の声が聴こえたか? やるしかないのか? 俺より背も高くて若さに溢れた男二人を相手に、どこまで闘えるか。いや、そうじゃねーだろ。

「すいません、写真撮ってもらっていいですか?」と青年。まあ予想通り。こんな観光地で、誰が好き好んで闘いを仕掛けるかって。そもそもここはそんな場所じゃない。皆が童心に還り、仲良く出来る場所なのだ。僕は快くカメラマンを引き受けた後、ギブアンドテイクの条約に基づき「僕らも撮ってもらっていいですかね?」と、白良浜の静けさに相応しいアイカイックスマイルで目の前の若者にカメラマン役を強要した。僕のデジカメを受け取った彼がファインダー越しに覗くその先にはいつもの風景。僕と、嫁と、カメと…。

あと何枚、こういう写真が撮れるだろう。あと何回、旅行に行けるだろう。あと何年、生きられるだろう。いつだって”終わり”を考えてしまうのは悪い癖だ。分かってはいるのだが。頭に浮かぶ諸々の雑念を消し去る。今はただこの瞬間を楽しめばいいのだと。全ては流れのままに…。シャッターを押す若者の「ハイ、チーズ!」という掛け声に合わせ、右手を元気よく挙げてポージングする僕。自らの魂を振り上げた手の平に乗せて、その魂が天まで届くよう、心の中でギュッと拳を握り締めた。

散歩をした後、今回のメインであるアドベンチャーワールドに向かう。今回のタクシーの運ちゃんは、他の運転手に輪をかけて饒舌かつ説明上手。和歌山および白浜地方のことを分かり易く説明してくれた。うろ覚えなので正確かどうかは保証できないが、運ちゃん曰く…。

和歌山は県土全体の80%が山林地帯で、その内60%が植林だとか。その植林および土地開発のため、クマなど山林に住む動物がエサ不足となり民家に下りてくるとか。なので自動車や列車が動物を轢いてしまう事故は後を絶たず、今でも年に100回くらい動物事故で列車が止まるとか。動物が線路に近付かないよう、アドベンチャーワールドで飼育している動物達の糞尿を線路付近に撒き散らし、その独特の臭いで動物達を遠ざけていることもあったとか。そのアドベンチャーワールドは、今年で35周年になる歴史深い施設だとか。アドベンチャーワールドを皮切りに、飛行場やリゾートホテルなどの開発が一気に進み、白浜山林地帯は一大観光地になったとか。多い時には一日2万人の観光客が滞在するとか。それでも白浜市の経営は赤字だとか。

その中で運ちゃんは言った。白浜の魅力は白良浜だけでなく、田辺湾も素晴らしい景色だから一度行ってみなさい。武蔵坊弁慶の生まれ故郷でもあり、平家落ち武者の伝承を引き継ぐ町もあるからと。

元は源平合戦に敗れた平家の落ち武者が落ち延びた村。そこで彼等は密かに暮らしていたのだが、ある日、村に一人の男の子が生まれた。男子は平家復興に欠かせないシンボルで、村人達は大いに喜び祭りをしてはしゃいだ。しかし源氏にそれを見つかり、男の子ともども村人全て処刑された。以降、その町では今でも男の子の祝い事などを大っぴらに祝うことがない。鯉のぼりすらも揚げない。そんな悲しい逸話がある。その話は随分と僕の耳に残った。

運ちゃんはさらに続ける。だけど、その平家の落ち武者達を狩った源氏にしても、元は平家に滅ぼされそうになった。義朝が殺され、その子供の頼朝や義経が平家の追っ手を逃れて生き延び、最後は盛り返して平家を滅ぼした。つまりお互い様。世の中は因果応報であり諸行無常。そんな諸行無常を感じるためにも、機会があれば是非田辺湾を観光してみなさい。そう運ちゃんは淀みなく話していた。その姿がやけに心に残った。

「まあ偉そうなこと言ってますが、私も釣りが趣味のただのおっさんです」と最後に笑って締めくくる運ちゃんは、まるで学校の先生のよう。賢人はいくらでも居るものだ。大いに見習いたいと思った僕は会計時、「お釣りは要りません」と颯爽とタクシーを降りる。良い話を聞かせてもらったお礼。教えを請いたい人には進んで差し出すのが人間。知性は金では買えないけど、そのお釣り分は僕の気持ち。

アドベンチャーワールド。開園は10時からで、到着したのは10時15分。しかし会場前には、渋谷109の初売りのごとき長蛇の列が出来ていた。年末なのにこの人だかり、そしてこの活気はディズニーランドに通じるものがあろう。西日本最大級のテーマパークの名は伊達じゃない。

入口をくぐると、女性シンガーのポップな歌や、外人シンガーの楽しい歌が鳴り響く。その軽やかな曲は、平原綾香がアドベンチャーワールドのために用意したテーマソングだとか。彼女のことは良く知らないが、会場にマッチした優しく心温まる歌だと思った。

歌に合わせ、パンダグッズを身に付けたスタッフや動物の着ぐるみが来場客を明るく迎え入れる。左の土産屋を見れば、農民からかき集めた米俵を蔵に隙間無く敷き詰める江戸幕府のごとく、パンダのぬいぐるみで棚が埋め尽くされているという圧巻。少し外に出れば、パレードなどもやっている。その熱気と空気はまさにディズニー。いや、アトラクションやパレードよりも動物を主体としている分、より温かみがある。

間違いないのは、訪れる客全てが楽しそうな顔をしていること。そう、この場所に居ると楽しいのだ。自然と足取りが軽くなる、心が弾む、現実を忘れて夢心地になる。ディズニーのことを「夢の世界」と呼ぶけれど、その意味合いが良く分かる。そのディズニーと被る雰囲気や音楽、そして夢気分だからこそ、現実とつい比較してしまい、そのギャップに胸を締め付けられる気持ちも反面ではあるけれど、そんな全ての物思いを洗い流すからこそ夢の世界。今日だけは全てを忘れて大いに楽しもうと言い聞かせた。

入場後、まずパンダ館に走る。アドベンチャーワールドには動物園、水族館、遊園地が併設されているため、一日で廻り切るのは難しい。ゆえにコースを絞る必要があるが、何と言ってもパンダは外せまい。アドベンチャーワールド=パンダと言っても差し支えないほどに、同テーマパークの、そして白浜の顔なのだから。少なくとも、いつでも来れる地元以外の人間にとって、それをスルーすることは東京・浅草エリアに観光に来たのに東京スカイツリーを見ないで帰る行為に等しい。和歌山と言えば、みかんとパンダ。これ常識。それを象徴するように、多くの客がパンダ館へと吸い込まれていた。部屋掃除の際、掃除機に次々と吸引されていくゴミのように。

パンダ館は、館内展示場と館外展示場とに分かれる。分かり易く言えば館内は来賓席、館外は一般客席だ。館内には、新しく生まれた仔パンダなど、希少性の高いパンダが投入される。対して館外は、それ以外のパンダ、または仔育てを終えてお役御免となったパンダが放逐される。同じパンダなのに、この待遇の差は半端無い。上野では神の申し子のごとく丁重に扱われるパンダだが、アドベンチャーワールドに来ると価値が著しく低下する。まあ8匹も飼育しているのだから、あぶれるパンダが出ても無理は無い。

というわけで、来場客の多くは館内へとなだれ込む。今の時期はちょうど、8月に生まれた仔パンダ「優浜(ユウヒン)」が可愛い盛りということで、皆がその一挙手一投足に釘付け。益々人気は集中し、行列が出来る。前回行った時は、双子の仔パンダ「エイヒン」と「メイヒン」が生後1歳ちょっととか何とかで、同じように客の視線を一身に集めていたっけ。あの時は1時間半くらい並んだ。しかし夏だったのでまだマシだった。だけど今回は冬。かじかむ手を吐息で暖めながら小刻みに肩を震わせて順番待ちをするのは相当堪える。しかも最前列の客が、係員の注意にも関わらず同じ場所から動かずジーッと観察してるものだから、列もなかなか進まない。結局今回も1時間少々待った。辛かった。しかし「ユウヒン」の姿を見ると、そんな苦労も掻き消えた。

生後半年も経たないその身体はかなり小さく、まさにぬいぐるみ。そのユウヒンがヨチヨチと壊れたロボットのように歩く度、低めの台にいそいそと登り、失敗してコロンッと転がり落ちる度に、会場から「かわいい~ッ!」という声が飛ぶ。子供も、大人も、おばちゃんも、おっさんも、みんな可愛い可愛いと連呼する。確かに可愛いわ。ぬいぐるみのような容姿で、おもちゃみたいな動きをして、その意味不明さが客の心を和ませるのだろう。ユウヒンちゃんマジ天使。

とりあえず、パンダがこれほど可愛いと思ったのは初めてだ。こんなにいいものを見れるのなら1~2時間並ぶ甲斐はあるな。有名ラーメン店に並ぶ人間の心理も分かる。まあラーメンは人によって好みがあるし、宣伝通りに美味いとは限らないが、パンダの場合はちゃんと実利が伴うので並ぶ甲斐があるというもの。

可愛い仔パンダを見た後、館外に出る。そこでは茶色くなったパンダが3頭、野ざらしで放置プレイされていた。土とかで茶色く汚くなった身体を、用意された木造りの屋根などの上にゴロンと投げ出す彼等は、ただ寝ているだけ。たまに笹を食うためモゾリと動く。その姿は、休日寝そべってポテチをポリポリ食いながらTVの野球中継を見る仕事に疲れたオヤジのようだ。ふて腐れているようにも見えるが、まあ仕方ないかもね。仮にもパンダ。世が世なら、園内一の人気スターなのに、ここではまるで村人Aであるかのように打ち捨てられているのだから。

そんなパンダ館。館内には黄色い声援が飛び交い、人間達の愛情が満ち溢れていた。館外には、ただただ哀愁が漂っていた。それでも館内は館内で、常に衆人環視に晒されるというストレスもあるから、まるっきり幸せとは言えないだろう。中には中の、外には外の苦労がある。とりあえず、パンダ乙。

パンダ館で時間を食ったお蔭で既に昼メシ時。レストランでパンダカレーやパンダハンバーガーなどを食った。キャラクターものを頼むのはお約束ってことで。特に美味くなかったけど、キャラクターもののクオリティが低いのもお約束ってことで。つまりは食事の充実度。ディズニーとの決定的な違いがあるとすれば、そのクオリティの差だろうな。動物園とか水族館とか遊園地に行く度にいつも思う。何でメシが不味いの? もっとメシに力を入れりゃあいいのに、と。夢の国で遊んでるのに、メシ食った瞬間現実に引き戻されたとか、そんなのたまらんからね。

パンダ館は自他共に認める目玉だが、他にも魅力的なエリアは数え切れない。水族館は主にイルカショーなどがメインで、魚の展示自体はない。ただ、シロクマやアザラシ、ペンギンなどの海獣は居る。専門の水族館に比べれば小規模だが、客はパンダを始めとする動物園に集中するため、かえって空いていて良い。

中でも印象に残ったのはペンギン館。パンダ館と同じく、同パークではエンペラーペンギンの赤ちゃんが10月に産まれたらしい。産まれて間もないペンギンの子供は見たことがない僕等は、どんなに愛らしいペンギンなのだろうと、胸をわくわくさせる。さぞ愛らしくて、ぬいぐるみのようにフサフサしてんだろうな~と。ペンギン館のガラス張りの向こうには数十匹のペンギン達が戯れる。子ペンギンはどこだ?お、あそこか?ペンギン達が飼育されるスペースの左隅に、透明なガラスのパーテーションで区切られた一角を確認した。

そこには二匹のペンギンが居る。一匹は多分母親だろう。エンペラーペンギンの名に相応しく、体長1メートルほどの巨体が仁王のように直立している。そこから数十センチ離れた場所に、母親ペンギンとほぼ同じ巨体が一匹、ぽけーっと突っ立っていた。曰く、「これが噂の仔ペンギンです」。

「でかっ!!」思わず叫ぶ。コレが、子供!? 眼を疑うが、確かに他のペンギンは身体がツルツルしているのに対して、コイツだけはグレー色のフサフサした毛で覆われているけど。それにしても…。生後二ヶ月のエンペラーペンギンの赤ちゃん。生まれた時の体重は305グラムだったという。それがたった二ヶ月ですくすくと育ち、今では体長約1メートル、体重14kg超。赤ちゃんってレベルじゃねーぞ。育ちすぎだろ。

他にもアドベンチャーワールドには面白い施設や試みが盛り沢山だった。特に「”動物と触れ合う”ことを目的とした」テーマパークというだけあって、動物エリアの充実度が素晴らしい。殆どの動物が檻に入れられず野放しにされており、車を運転し直接ライオンなどの目の前を通ることも出来る。無論、徒歩用の安全ルートも用意されている。強暴でない草食動物であれば、触れるくらい間近で観察可能だ。要するにサファリパークだが、僕はここの動物エリアは心から楽しめると思った。子供に還れる場所だと。いくつか紹介していくと、

マントヒヒ。備え付けの高台から見下ろすと、10mほど下の庭園にマントヒヒの群れが居る。所々に葉っぱも何もない木が何本か立っており、一番てっぺんの枝先がちょうど僕等が立つ高台の高さくらいになる。その枝に、マントヒヒが器用に駆け上ってくる。こんな高くて細い場所を容易くよじ登る時点で人間では絶対に及ぶまい。マントヒヒは、枝先にしっかりと足を固定させ、「エサをくれ」と言わんばかりに僕等にアピールしていた。

それに応え、客の一人がピーナッツを投げる。するとマントヒヒは器用にそれを両手でハシッと受け止め、モシャモシャと食べる。食い終わったら「もっとくれよ」とばかりに、自分が乗かっている枝を、身体全体を使ってユッサユッサと揺らしながら僕等に要望する。可愛いというより、ふてぶてしいが、自分の命綱とも言える枝をそんなに揺らして、コイツ等は落ちるという可能性を考えないのか。多分、微塵も考えないのだろう。両手でエサを受け取る時も、二本の足は吸い付くように枝から離れない。サルの握力は200kgあると言われるが、足は500~600kgあるんじゃね?この破壊神のような握力と、人智を超えたバランス能力そして平衡感覚は、人間からすれば完全に神の領域だ。人間はマントヒヒには絶対に勝てない。

アフリカゾウ。高さ1.5m程度の柵越しに、ゾウが間近に見れる。金を払えばエサもやれる。僕等がエサのバナナを差し出すと、ゾウは柵の外には絶対出ようとせず、その隙間から器用に鼻を伸ばしてバナナをヒョイッと掴んでは口に運び、モシャモシャと食べていた。その気になれば最強なのに、心優しいヤツよ。それだけに仕草も何か可愛い。鼻はクチャクチャとしていて気持ち悪いけどな。子供達も「うわ、きめぇっ!」とか叫んでた。事実だけど、もうちょっと可愛がってやれよ、こんなに大人しいんだから。確かにキモいけどさあ。

サイ。その巨大かつ凶暴なツノはライオンも一撃で屠るという、隠れた強者。だけど草食。そのアンバランスさがまた魅力で、だから僕はサイが大好き。しかし、そのサイに触れるとは思わなかった。サイコーナーは二箇所あって、一箇所はクロサイが一頭だけ。2mほど上から、おっちゃん二人組が何を思ったか、サイに向かって手を伸ばしている。まるでノラネコに「来い来い♪」をするように。おっさん、そりゃ危なすぎだろ。ドキドキしながら見ていると、近付いてきたクロサイは、まるでチンチンをする犬のように2m上のおっちゃんが差し出した手に、自らのツノを擦り付けていた。ええ~ッ、サイのツノって触れんの!? つかクロサイのその巨体に似合わぬ犬みたいな仕草、超可愛いんだけど!! 僕も触りたいけど怖い! そんな時はもう一箇所のシロサイエリアに行くべし。

シロサイは三頭居る。先のゾウと同じく、柵越しに直ぐ目の前で観察出来るわけだ。ただゾウと違うのは、木製でなく鉄製の柵だということ。そりゃそうだ。いくら大人しくても、あのツノは凶器。木の柵など文字通り木っ端微塵だ。そのツノが、鉄の柵に時折当たり、ガンッガンッという衝撃音が響き渡る。やっぱ怖ぇ~。だがエサを買って与えてみると、サイは超大人しい。カバのような口をあんぐりと開けて、「エサを投げ入れてください」と、そのつぶらな瞳で見つめてくる。ヤベ、マジで可愛いんだけど。ツンデレなんだけど。

僕はツンデレのサイにエサをやりながら、控え目にツノに触ってみた。ゴツゴツとしていて、だけど鉄のような硬さではなく、カルシウムの塊という感じ。いわば極太の骨か。反面、多少のザラつきはあるがスベスベしていてちょっと気持ちいい。何より血が通っている。売っている象牙などと違い、触ったツノには確かなぬくもりと生命力が宿っていた。その感触に夢中になった僕は、心の中でサイに向かってこう言った。「可愛いヤツよ」。

他にもライオンのエサやり、鷹の手乗り体験、サーバルキャットの間近観賞など、様々な触れ合いがあった。やはりガラス越しや柵越しに見るよりも、直に触れた方が楽しいし自分の実になる。人間も含め、生物だからにはボディタッチこそがコミュニケーションの真髄だ。生きてる動物同士、きっと分かり合える。まあ本気を出したら人間なんて食われるだけだけどな。頭ばかり発達しおってからに、まったく虚弱な種族よのう。

時計を見ると夕方5時。閉園の時間だ。都合7時間、たっぷりと楽しんだ。一つの施設にこうも長く滞在するとは、よっぽど楽しかったのだろう。そう、楽しかった。久しぶりにワクワクした。アドベンチャーワールドは、掛け値なしに楽しい夢の楽園だった。

最後に土産を買った後、ホテルに戻る。つい色々買ってしまい、土産代だけで1万2000円。なぜかこういう場所では散財してしまう。まあそれもよし。皆きっとそうだ。たまには現実を忘れてハメを外すのが人間の自然体。隣の客なんて2万円くらい買ってたしな。そういえば、ここら辺のタクシーの運ちゃんは、魚釣りが趣味の人が多いな。彼等曰く、釣りたての魚を刺身にしていつも食ってるから、店の刺身なんて不味くて食えないよ、などと言っていたっけ。贅沢な悩みよのう。

ホテルに戻り、夕食を食う。昨日の寿司屋「幸鮨」および今日のアドベンチャーワールドですっかり金を使い込み既に底が尽きた。嫁の予備予算を使い、コンビニで焼きそばやら味噌汁やらを買ってくる僕。食事のグレードは一気に落ちたけど、昨日今日の充実を考えれば何でもない。毎日オニギリだけでもいいくらいだ。それくらい楽しく得難い体験だった。この白浜での二日間は。

その白浜。ホテルすぐ目の前の白良浜にて、今夜「年越し花火」が開催される模様。花火を見ながら大晦日の夜を過ごそうというイベントだ。なかなか粋で、ロマンチックな計らいである。ただでさえキレイな景色で心が静まるというのに、その上キレイな花火を打ち上げ、見る者に熱を帯びさせる魂胆か。視線が熱いねえ、身体が火照るねえ、スゴイねえ…。白浜観光センター勤務のエロオヤジ達の考えることといったら、まったくやれやれだぜ。嫁はアドベンチャーワールドではしゃぎすぎてダウンしたようなので、一人寂しく見に行くことにした。

それにしても大晦日に花火が見られるとは運が良い。花火イベントがあることを最初から知っていたわけじゃない。駅に置いてあるパンフレットでたまたま知っただけ。ただの偶然だ。通常、大晦日は殆ど実家で過ごすのが例年のパターンだが、今回は旅先。ゆえに何もないと思っていた。それだけに、ある意味ラッキーであり、この偶然に感謝したいところだが…。

本当に偶然か? 旅行先を白浜に設定したのも、旅行を大晦日まで食い込ませたのも、宿泊先が殆ど満室の中、白良浜のすぐほとりに建つ「銀翠」だけが空いていたことも、本当に偶然なのか? 僕は何か運命めいたものを感じる。何者かに操られ、今この場に立っている、そんな錯覚すら抱く。

深夜近く。白良浜の浜辺に向かうと、極寒状態にも関わらず海岸一帯には家族連れ、カップル、友人同士など、一体どこから湧いてきたのかと言うくらいの老若男女が集結し、花火が上がるのを今か今かと待ち構えていた。僕もその中に混じり、ただ無心にじっと待つ。深夜0時、漆黒の空に花火が舞い上がった。

隅田や荒川の花火のように壮大豪奢ではない、どちらかという控え目の花火。20発ほど打ち上がり、すぐに止まる。「もう終わりかよw」という周囲の観客の声が上がった直後、隣接する島の部分に京都の大文字焼きのように「2013」という文字が煌々と輝いた。皆が一転して「おお~ッ!」と感嘆する。「あけましておめでとうございます!」という声がそこら中に響いていた。

今度こそ終わりかと皆が思ったのか、帰途に着こうとザワザワと動き出し、辺りの空気は弛緩する。しかしその直後、ドッカーンッ!!と大きな花火が盛大な音と共に打ち上がった。僕はその瞬間、震えた。何か心を、魂を揺さぶれたような感覚が襲った。「おお、すげえ!」そんな掛け声に同調するかのように、花火の激しさと煌びやかさは増していき、まさしく隅田や荒川の花火に匹敵せんばかりの迫力。どうやらここからが本番のようだった。その盛大な空の宴は5~6分間続いた。僕はその間、ずっと考えていた。2012年という年のことを。溢れてきた。これまでの数多の記憶が。

色々なことがあった。楽しかったこと、辛かったこと。それは毎年同じだ。毎年、様々なことがある。しかし2012年は、色んな意味で自分が定まらなかった一年間と言える。ぶれが大き過ぎた。その定まりの無さを反省しつつ、だけど消化も昇華もし切れなくて。結局、自分で納得していない、やり切っていない、自分で思い描く方向に沿って動いてない。全力を尽くしてないから、感情がほとばしらない。要するに、自分は甘すぎた。そんな一年だ。その甘さを悔やむからこそ、翌年は悔いないよう動かなければならない。そんな思考の流れがこの深夜の砂浜に佇む自分の中で渦巻いていた。

忘れていたこと。忘れかけていたこと。忘れようとしていたこと。忘れてはいけないこと。夜空に花火が打ち上がる度に、それらを胸の中に刻みながら、自分の為すべきことをやはり胸に刻み込みながら、ただ夜空を見上げ続ける。

消える花火がある。消えない花火がある。見上げた空の光景は、自分の心そのもの。だから思い、抱き、願うしかない。2012年の年末に打ち上げた心の花火が、2013年になっても消えないように。2013年が終わる時、「ありがとう」と言えるよう。色んな人達に。何より自分自身に。夜空で儚く瞬き続ける灯の中に、心からの願いを僕は独り込めていた。

20121230(日) 和歌山旅行一日目 南紀白浜での素晴らしい出会い

121230(日)-05【0920~1220】京都~白浜移動 特急「スーパーくろしお」(和歌山旅行一日目)《京都駅~白浜駅-嫁》_02 121230(日)-06【1220~1245】白浜駅(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_005 121230(日)-09【1340~1410】和歌山ラーメン屋「和ん」 和歌山ラーメン(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_012 121230(日)-11【1425~1600】水族館 京都大学臨界実験所(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_001 121230(日)-11【1425~1600】水族館 京都大学臨界実験所(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_062 121230(日)-13【1930~1950】白浜銀座通り(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-14【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 外観(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-15【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 内装(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_08 121230(日)-16【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 クツエビのお造り(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-19【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 白子蒸し(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-20【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 クエの酒蒸し(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-21【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 つんつん巻き(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-24【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 ウニ巻き(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-29【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 記念写真 カウンター隣の夫婦(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-30【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 記念写真 板前(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01

【朝メシ】<東京~京都新幹線内-嫁>
駅弁(味わい弁当)

【昼メシ】<和歌山・白浜-嫁>
和歌山ラーメン屋「和ん」(和歌山ラーメン、餃子、ビール) http://r.gnavi.co.jp/6370005/

【夜メシ】<和歌山・白浜-嫁>
寿司屋「幸鮨」(クツエビのお造り、クエの酒蒸し、白子蒸し、ナマコ、巻物等) http://www.kouzushi.net/

【夜食】<和歌山・白浜-嫁>
無し

【イベント】
和歌山・白浜旅行(水族館、温泉、寿司屋)

【所感】
本日から1月3日まで冬休み。5連休が短いのか長いのか。業界によって判断は分かれるが、長期休暇は実家帰省とほぼ固定したスケジュールを持つ僕としては心が揺れるほどの議論でもない。そのスケジュールに背くことで新たな境地が開ける可能性もある。しかし痛い目を見る可能性もある。世の中とは案外そんなもの。押しても引いても何らかの傷は生まれるし、右に行こうが左を選択しようが、両者共にバラの道と茨の道とがあることに気付く。「二兎を追う者、一兎も得ず」の諺どおり、両方上手く行くなんてことは滅多にない。

取り返しのつかないもの、後悔してからでは遅いもの、色々ある。だけど肝心な案件では必ず重要な取捨選択が付き纏う。選択した時点でもう一方を捨てているのが現実。両者を拾える力や甲斐性が無い限り、その苦悩からは逃れられない。それを踏まえると、実家に今のところ何も返せていないのならば、せめて親孝行であれるよう出来る限りのことはすべき。それが今の僕に出来る現実だ。別れはいつ訪れるか誰にも分からないから。今はただ、目の前に迫った帰省というイベントに向けて、自分の出来る範囲での全力を投下するのみ。

昨日の深夜カラオケのあと1時間ほど睡眠し、朝5時に家を出る。目指す先は和歌山県の白浜地域。これで二回目だ。鳥取帰省の前後に小旅行を組み込むのは最近の定番。僕は旅行が好きだから。別に贅沢をしたいわけじゃない。ただ見聞を広めたいだけ。可能な時に、可能な限り。可能でなくなる時がいつ来ないとも限らないので。

金が尽きるかもしれない、病気になるかもしれない、あるいは命を落とすかもしれない。身動き取れない状態はいつだって訪れうる。その時に、自分の旅のしおりがどれだけ分厚くなっているか。どれだけ経験値が積み重なっているか。旅でしか得られない体験と感性は確実にある。それは僕が欲しい感性と合致する。どこに行ったかではなく、何を得たか。それをどう分解し、思考に取り込み、拡散出来るか。僕が欲しいのはその感性だ。人生がいつ終わるか分からない以上、機会が得られる内にその機会を行使するというのが僕の考え方。ゆえに旅には金も時間も惜しまない。旅には、自分の金と時間と命とを投資するだけの価値がある。

それでも世界は広すぎる。結局、行きたくとも行けない場所が殆どだろう。僕の旅のしおりは、その中の何千万分の一程度できっと終わる。だけど、その何千万分の一の部分だけは、観光業者の回し者と呼ばれるくらいに自分の中に取り込めれば、その土地の使徒になれれば本望だと思う。

まったくもって旅はいいねえ。旅先で見知らぬ知識、景色に出会う時の高揚感。知らない人達と心を交わせた時の充実感。それらを折り重ね、自分だけの壮大なストーリーを作り上げる。いいねえ、旅は。旅は・・・男のロマンだよ。

朝6時頃の新幹線で京都を経由してから、白浜行き特急列車「スーパーくろしお」に乗り込む。いつも思うが、JR線の和歌山行きや奈良方面行きのホームは寂れ気味だ。たとえば新大阪駅だと、ホームは中央から一番遠い端っこに追いやられ、立ち食いソバ屋とかも設置してなかったり。鳥取方面のホームなど自販機すらない。大阪方面、三宮方面、滋賀方面などに比べ、この格差は一体何なのか。

最大の理由は、単純に利用者人口が少ないからだろう。それ即ち、その土地の人口過疎を意味する。少し前、秋葉原で一緒に飲んだ和歌山出身の友人が、「和歌山も鳥取に負けないくらい過疎化が激しいですよ」と漏らしたことがあった。僕からすれば、魅力的な観光地を多数有する場所というイメージなのだが、地元の事情を知るのはやはり地元の人間。地元人間だからこそ知りうる真相がある。そんな彼の言葉が、このJR線のホーム事情にもありありと反映されているように僕には見えた。

「スーパーくろしお」で三時間ほど揺られながら、目的地の「白浜駅」に到着。改札前では、パンダの着ぐるみを着たパンダ車掌が乗客たちに囲まれながら出迎えてくれる。駅内の窓口や改札もパンダ一色。白浜はパンダ飼育数日本一を誇るレジャー施設「アドベンチャーワールド」を擁するパンダの街だ。東京の上野には悪いが、パンダ保有数、飼育実績、繁殖実績、中国とのパイプの強さ、全てにおいて白浜の方が圧倒的に勝る。戦艦と駆逐艦くらいの差だ。アドベンチャーワールドがあるから南紀白浜空港が建造されたと言っても差し支えないほどの影響力なのだ。

そんな白浜のポテンシャルは、関西・西日本圏では常識。だけど関東・東日本圏ではさに非ず。同じ日本なのに、生じてしまう常識の相違、温度差。その温度差を埋めるのもまた旅の醍醐味であり、それに貢献できた時の高揚感があるからこそ、人は新しい知識や土地や経験を常に求め、真実に近づこうとするのではないかな。誰かに伝えたいことを伝え切れた時、人は幸せを感じるもの。僕は何となくそう思う。白浜に来ればその意味が分かる。パンダの街とは、白浜のアドベンチャーワールドのことを指す。

無論、白浜はアドベンチャーワールドだけでない。海沿いという景観を活かした観光名所、あるいは知的欲求をくすぐる南方熊楠記念館や水族館、エネルギー館など、文化色もふんだんに取り込んだリゾートエリアだ。熊野古道を擁する熊野エリアと並び、恐らく和歌山の二大観光地ではなかろうか。その白浜エリアを今回観光することにした。

この地には2年前にも訪れたことがある。正直、同じ場所に二回旅行することは多くない。僕の中では、出張や帰省、結婚式などでの遠征を除いた純粋な旅行としては、友人等と行った山梨と、あと広島と、近場で言うなら奥多摩とか、それと今回の和歌山・白浜があるのみだ。

基本的に、今まで旅行した場所はどこも素晴らしかった。「また来たい」と思い、同行者ともそう言い合ったものだ。それは本心だ。しかし、同じ場所に何度も行くほどの余裕が無い。金銭的な、時間的な、あらゆる面を踏まえると、旅行する機会が絶対的に少ない。それが現実だ。数少ない旅行の機会なのだから、経験値の増大という観点から考えるなら、同じ場所でなく未開の地を選ぶのが自然である。深く狭くではなく、浅く広く。

今の時代、旅行先から帰ってからでも、ネットなどで情報の補強はいくらでも出来る。だけど実際に足を踏み入れてない場所だと、どれだけ知識を増やしても、どうしても不鮮明な情報になり、自分の中で固定しない。武道で言うところの型の基本みたいなもの。いわば骨格か。その骨格が一本通りさえすれば、あとはネットや書物を使い情報という名の肉づけをすればいい。ゆえに、より多くの骨格を得るために、少ない機会はより分散させて配分するのがベター。それがセオリーのはずである。

だがそれでも、同じ場所に行ってしまう時がある。よっぽど気に行ったのか。相性が良かったのか。魂の部分で感じる何かがあったのか。いずれにしても、その人にとってかなりの特別性を持っているのは間違いない。今回の二回目旅行のきっかけは、嫁がアドベンチャーワールドに行きたいと言ったことから始まった。8月に双子の仔パンダが生まれ、一匹は死んでしまったが、もう一匹はすくすくと育っており、それを見たいというものだ。天に召された上野の仔パンダの代替案とも言える。だが僕は、パンダよりもむしろ再度訪れたい場所があった。

それは白良浜の白い砂浜と、そこにひっそりと建つボクシングの名伯楽・エディ・タウンゼントの銅像だ。今まで多くの海を見てきたが、白良浜のように美しい浜は―たとえ人工的でも、見たことがない。僕はその光景に心を奪われていた。そしてエディ・タウンゼント像。テディ・ビンセント(修羅の門)のモデル。ボクシングには縁のないけど、修羅の門に深い縁を感じる僕自身として白良浜をもう一度見たいし、タウンゼント像の前に再び立ちたい。僕なりのこだわりである。

もう一度訪れたいと思える場所、もう一度見たいと心に念じる光景、もう一度会いたいと強く願う人。自分にとって特別な存在。それにもう一度まみえた時の感動と、全ての物思いが氷解する瞬間は言葉に尽くせまい。その時のために生きてきたとすら思える。もし仮に、願い叶わず終わったとしても、ひたすらに想い続けるその純粋な気持ちは何物にも代えがたい。それを邂逅と呼ぶ。

邂逅は「KAIKOU」。それをアナグラムすれば「KOUKAI」すなわち後悔となる。両者は表裏一体だけど、それでも邂逅は後悔と全く真逆にある事象。後悔することすらも後悔しない、純粋な気持ち。心に存在し続けるだけで何よりも美しい、そんな想いだ。いいねえ邂逅は。邂逅は・・・男のロマンだよ。僕はダイヤモンドのような邂逅を胸に秘め続ける人達を心の底から応援しています。

そんな、僕にとって邂逅すべき場所、白浜。白浜駅入り口前に鎮座する煤けたパンダ人形。前方に広がるさびれた土産屋群と、その看板。バス停。チャチなレンタカー屋。二年前と何も変わってない。驚くほどに当時のままだ。だからこそ、いい。

時と共に、景色は変わるのが世の中。人の心も変わる。だけど変わらないものもやはりある。今、目の前に広がる白浜駅周辺の景色と、そこに流れる空気は昔のままだ。その景色と空気が代弁してくれる。だからこそ、邂逅に想いを馳せるのだと。その気持ちのままで行けばいい。人は心の中に聖域を持ち続けるからこそ倒れず進めるはずだから。天を見上げれば雨が降っていた。雨とは、名も無き観光者達が流す心の涙なのかもしれません。

雨のため、行動ルートを練り直す。宿泊予定のビジネスホテル「銀翠(ぎんすい)」にチェックインし、まずはすぐ隣にあるラーメン屋で腹ごしらえをした。ホテル「銀翠」は、目と鼻の先に西日本を代表する砂浜海岸「白良浜」を望むことが出来、近くにコンビニや土産屋もあるという絶好のロケーション。立地的にはほぼベストで価格も割安だ。朝食無しと謳っているが、食パン一枚とコーヒーなどのサービスもある。ただ一つ、「食パン二枚目からは一枚につき50円頂きます」という胡散臭い但し書きが気になるが。食パンくらいケチケチすんなよ。

あと、この近辺のタクシーの運ちゃんは総じて人が好い。フレンドリーで、喋り方も穏やか。かつ、話も結構面白い。主に和歌山のことについての話題になるが、一見の観光客をいつも相手にしているからか、説明慣れしている感じがした。東京のタクシーなんて運転が荒い、気性が荒い、どうでもいい話をして苦痛しか感じない運転手で溢れているというのに。東京のタクシー運転手が下水の汚泥とすれば、白浜の運ちゃんはまさしく山の聖水であった。

観光は、雨天のため建物内での行動を選択。運ちゃんの話を元に、南方熊楠記念館、エネルギーセンター、京都大学臨海水族館の三点に絞った。僕としては、南方熊楠記念館に一番興味を引かれる。大分昔、ジャンプかマガジンでその名を初めて知ったのだが、中でも「十何ケ国語を自在に話せる」というエピソードに大きな衝撃を受けたものだ。これこそまさに天才という人種だと…。

今でも僕は、天才とは?という問いを投げかけられれば、南方熊楠の名前を挙げるだろう。無論、真の天才は片山右京(修羅の門)以外に居ないけどな。そんな天才博物学者・南方熊楠の記念館がこんな場所にあることに胸躍りながら記念館へと急行した。

しかし、閉館していた。「そういや年末は休みだったかもしれませんわ」とお気軽な運ちゃん。僕のショックのデカさも知らないで気楽だな。落胆の中、「まあ、こうなったら水族館に行くしかありませんな」という運ちゃんの代替案に従った。「いや、水族館も結構見ごたえありますよ」と言うが、こんなチャチな建物で、ホントかよ…。だが、水族館は運ちゃんの助言通り、とても見ごたえのある施設だった。

水族館の正式名称は「京都大学臨海実験所」という。通常の水族館のように色とりどりの魚を展示し視覚的に楽しませるというよりも、魚達の生態系や特徴、習慣などを勉強させるための施設という感じだ。学術的な、研究目的の水族館。説明文は結構分かり易く、かなり勉強になった。

とりあえず、全ての動物は三十数種類の動物門で体系的に区分けされており、人類たるヒトは脊索(せきさく)動物門に属する、ということだけ覚えてきた。脊椎動物門ではない模様。あと、カメも脊索動物門に近いところに居た。僕がカメのぬいぐるみを引き連れているのにも、何か運命的なものを感じた次第。

この水族館で二時間ほど費やしたため、時間的に観光は終了。回った場所は一か所だったが、予想以上に充実した。だがそれよりも、食事的に充実した日だったろう。

まず昼メシ。ホテルのすぐ隣にある「和ん」という和歌山ラーメン屋。とんこつしょうゆ味のスープは、こってりと濃厚で、好きな人にはドンピシャだ。量が他の県のラーメンよりもかなり少量のため、ボリュームの点では不足を感じるかもしれないが、それを補うだけのしっかりとした味わいがあった。しょっぱいのが苦手な人には多分合わないと思うが、個人的には和歌山ラーメンはフェイバリットリストに含まれる資格が十分ある。

何より夜メシ。この夜メシでの二時間を、出会いを、僕は多分後々まで思い出せるだろう。発端は、白浜の名物がクエであることを知り、パンフレット等に載っているクエ料理店に予約の電話を入れたことから始まる。クエは珍魚で人気があるため、どの店も予約で一杯だった。

そんな中、4件目の電話で「幸鮨(こうずし)」という寿司屋に予約を入れる。20時からなら空いているとのことなので、僕等は迷いなく予約を入れた。しかし、予約を入れてから気付いた。その料理は地元では有名な高級店だということを。しかし、ここまで来たらクエを食わずには帰れない。近くの「白浜温泉」という温泉で風呂に入った後、僕等は意を決して「幸鮨」の暖簾をくぐった。

ところで、白浜温泉は温泉というより昔ながらの銭湯に近い。サウナもないし、石鹸やシャンプーも番台で購入するという古風なシステムだ。だが、風呂桶の湯は熱めで疲れた身体を十二分にほぐしてくれる。海がすぐ近くということもあり、湯もしょっぱ目だが、それがまたリゾートっぽい。窓から見下ろした先に広がるのは夜の白良浜海岸。不意に心が感傷的になる。それでも凝り固まった心は少しずつ少しずつ、白良浜の砂のようにサラサラと滑らかになっていく。

風呂はいいねえ。身体と心に蓄積された疲労が一気に解きほぐされていく瞬間。熱い湯船に浸かり、まるで自分は水生生物だと言わんばかりに長風呂する時の浮遊感。ふと見下ろした景色ですら心の奥に響く何物にも代え難い感傷。湯船から上がった後、身体から放出される蒸し返るほどの蒸気。いいねえ風呂は。風呂は…男のロマンだよ。

肝心の「幸鮨」の話。カウンターと座敷という寿司屋の定番的内装。入り口では60代とおぼしき和服の女将が席に案内してくれる。その静かな物腰と柔らかい話し振りからして、相当経験を積んだやり手だと分かる。こういった日本料理屋とか旅館などでは、女将や仲居や女中のレベルで店のレベルも判断できるというもの。ゆえに彼女らの一挙一動は重要である。

奥多摩の旅館の仲居(通称・ガイル)のような雑兵も居れば、肉の万世のすき焼き屋の女中のように、なかなかレベルの高い女中も居る。また、那須高原の名旅館「山水閣」の仲居さんなどは、20代前半にして既に高水準のクオリティを備えている。そのレベルに年齢や勤務年数は恐らく関係なく、ただ本人の性格と努力のみが関わってくるのだろう。それを踏まえて考えると、「幸鮨」の女将は、銀座の高級料亭とかで修業を積んでこっちに引き抜かれたんじゃないかと思えるくらい隙がなかった。まさに高級寿司屋の名に恥じぬスタッフの充実である。

そう考えると、金も時間もふんだんに持っていて、その気になればどんな店もよりどりみどりで体験できる恵まれた環境にあるのに、一箇所か二箇所に固執して他の世界を見ようとせず、自分が行った場所が最高だと喧伝する人間も一方では居るのだから、まったくもって世界が狭い。僕からすれば、もったいない。恵まれた特権を全く活かしていない。僕はそこまで多くの機会を得ることが出来ない。だから全ての店を一期一会のつもりで鬼のように観察したいのだ。基本的には観光気分だけど、何割かは観光気分でないということ。

板前連中も、非常に愛想がよく、キビキビと動いている。爽やかな笑顔で僕等の質問に笑顔で答えてくれる若い兄ちゃんも、「お客さんは前にも来たことありませんでしたかね」と言いながら、和歌山の魚事情や幸鮨のコンセプトについて堂々たる面持ちで説明してくれるスタッフ長らしきおっちゃんも、とにかく皆がコミュニケーション能力が高い上に丁寧で誠意があった。何というか、スタッフから陽のオーラが出ている。お客を大切にしているという姿勢が分かる。結局のところ、スタッフのことを好ましく思った時点で、料理の質がどうであろうとその店を気に入ってしまうものだ。それが人間心理というもの。だってオラは、人間だから…。

無論、料理の質も一流だ。案内されたのはカウンター。誰かのお供で座ることはあっても、僕主導でカウンター席に座ることなど殆ど無いので結構緊張した。ネタの入ったガラスケースの前には、オーダーした寿司や刺身などを板前がヒョイッと置いてくれる幅20センチほどのスペースがある。板前はそこに、僕等が頼んだ寿司をいきなりドンと直に置いた。僕の知る店だと、そのスペースの上に皿とか葉っぱみたいなものを敷いて、その上に料理を置くのだが、そうではなく直に置いたところに感動にも似たショックを受けた。皿などでカバーしてなくとも綺麗で清潔だぜと。直に置いてあった方が雰囲気出るでしょと。細かい部分だが、僕はこういうの、すごく好きだな。

そんなシステムの店で、メニューを頼んでいく。知っているネタを頼んでもしょうがないし、せっかく来たのだからなるべく知らない食材を。手探り状態で板前に質問しながら、料理を少しずつ平らげた。

まずはクツエビのお造り。その名のとおり、靴に似たような甲殻を持っていて、一説によれば伊勢海老よりも美味いとか。ちょうど昼間の水族館で勉強してきた。そこでは「ゾウリエビ」あるいは「セミエビ」という呼び名だったはずだが、ゾウリじゃあ何となく食欲が無くなる気もするので、敢えて「クツエビ」と呼んだのだろうかと予想した。前評判通りクツエビは旨い。少しコリッとして、だけど透き通った味わいというか。刺身と炙りがあったのだが、炙りがまた絶妙だったね。噂に違わぬクツエビ、堪能しました。活け造りだったのでクツエビの脚がウネウネウネウネとしていたあの光景は夢に出てきそうです。

次は握り。「“おどり”って何ですか?」「車海老のことですよ♪」じゃあそれを。車海老は知っているが、その呼び名に惹かれた。うむ美味い。僕の胸も踊る。

「この“さより“とは?」「そういう魚です。どちらかっていうとアナゴっぽいですが、独自の魚です」じゃあそれも。うむ、こりゃ美味いわ。アナゴより全然イケる。味が付いてるからそのまま食えるとのことだが、確かにしつこくない適度な味だ。滑らかでモチモチしてるねぇ。ああ、さよりさん、さよりさん…!

「”つんつん巻き”ってのは?」「わさびみたいなもんです。最初だけちょっとツーンときて、でもすぐに消えてシャキッと美味しいですよ♪」ほうほうなるほど。おお、確かに最初ツーンと来たぜ。だけどすぐに収まって、いくらでも食える。こりゃ病みつきになるわ。俺も負けてらんねえ。今夜どう? 病みつきにしてやんよ!

珍しい握りを食いながら、いよいよクエの登場。「酒蒸しがいいですよ」と女将。「刺身は無理ですか?」クエは珍魚のため、獲れたてじゃないと刺身は難しいとのことだ。なら、目の前の水槽で泳いでいるクエは何?「ペットです♪」「…なかなかいかついペットですね」そんなクエの酒蒸し。おおう、美味い。白身はさっぱりして、だけど妙なコクがある。クエいいよクエ!

「どうせなら白子なんかもどうですか?」白子か、いいかもしれない。じゃあこの“白子蒸し“を。茶わん蒸しの白子版みたいなもんらしいが…。ぐあ!なにこれ旨い、旨すぎ!ヤバいっす、マジでヤバいっす!お代わり欲しいっす!マジでこんな旨いものを食ったのは初めてと言ってもいいほど。この白子蒸しは衝撃過ぎた。白子ちゃんマジ天使。

あとは、ナマコでも食いましょうか。今日、水族館で見てきたナマコを、今目の前で食うという奇妙な冒険。ポン酢漬けだけど、おおう、さすがにヌメリとしてるぜ。だけどコリコリしているな。そのアンバランスさがいいぜ。

そんな鮮烈で衝撃的な幸鮨の料理。ビールも喉にクイッと入って清涼だし、日本酒も旨いし、ワインも頼んだら普通にシャブリだったりするし、高級店の名に恥じない名店だな、ここは。会計大丈夫かよ。値段書いてないし。時価の寿司屋に自分だけで入るなんて初めてじゃね? 結局、会計は二人で3万円だった。まあ、高いな。

だけど満足度から言えば十分納得だ。隣の50代と思しき夫婦など4万だったし。予算が一気に無くなって、明日からはコンビニおにぎり確定だとしても、この幸鮨に出会えたことを考えれば安いもの。僕は全く後悔していなかった。得難い、まことに得難い店であった。そう、これが旅の醍醐味でありロマン。旅先で初めての新しい料理に出会う。いいねえ、旅の醍醐味だね。

あと一つ、素晴らしい出会い。4万円会計をした、僕等の隣の老夫婦。最初は、僕がスマホで料理の写真を撮る時のバシャッ!という音にチッと舌打ちしていたが、ひょんなことから話をするようになって、結局1時間くらい彼等とスタッフを交えて会話していた。彼等は地元の人間だが、大阪に居る娘夫婦に会いに行く予定があり、その前に年末の締めくくりとして幸鮨に寄ったのだとか。見かけとは裏腹に、とても物腰の柔らかい、そして仲の良い夫婦だ。奥さんの方など、最後にカメを持ってもらうくらいにフレンドリーな人だった。

僕等もそんな彼らの人柄に心が弾み、東京から来たこと、和歌山には二回来て、白浜はものすごく気に入ったので何回も来たいと思うこと、ブログを書いていること、昔関西に住んでいたことがあること、今日偶然寄った幸鮨は最高の店だということ、色々と話をした。とにかく場が和やかだった。僕は、料理よりも何よりも、この夫婦とのひと時の和やかな会話と、それを見守りながらたまに会話に入ってくるスタッフ達の暖かい眼差しをこそ、いつまでも覚えていたいのだ。客商売だからという点があったとしても、たとえ一時的な触れ合いだったとしても、その出会いは宝だ。僕が今後心の中に置き続けていたい“縁”という言葉そのもの…。

話し込んで、結局最後の客は僕等になった。2012年は、今日を以って店じまいとのこと。つまり幸鮨にとって、2012年最後の客は余所者の僕等。お土産にみかんをくれながら、スタッフ達は「年末の貴重な時に当店を選んでくれてありがとう」と言った。だけど僕の方こそ、年末を締めくくる最後の料理店が「幸鮨」であったことに感謝したい。初めての出会いだけど、二度目があるか分からないけど、互いの幸せを願いながら、僕等とスタッフ一同は「どうか良いお年を」と頭を互いに下げ合った。

そんな素敵な店「幸鮨」。だからこそ、自分達だけの思い出で完結させるのではなく、他の人にも知って欲しいと思うし、一緒に行きたい人もいる。何かを共有できる喜び、伝えたいことを伝えられる喜びは、人の幸せの中ではかなり上位に入るものだ。そんな空想をしつつも、今はただこの2時間の出会いの意味を噛み締める。12月30日、訪れた二回目の白浜旅行の夜。僕達は、幸鮨で素晴らしい出会いをしてきた。あの感激は生涯忘れない。

20121226(水)単体では力不足の食材を合体させるかのように

121226(水)-02【夜メシ2235~2300】白菜と鶏もものクリーム煮込み、明太子玉子焼き、味噌汁、スライスチーズ、スモークチーズ《家-嫁》_01121226(水)-02【夜メシ2235~2300】白菜と鶏もものクリーム煮込み、明太子玉子焼き、味噌汁、スライスチーズ、スモークチーズ《家-嫁》_02

121226(水)-02【夜メシ2235~2300】白菜と鶏もものクリーム煮込み、明太子玉子焼き、味噌汁、スライスチーズ、スモークチーズ《家-嫁》_03121226(水)-04【夜食2300頃】アイスクリーム《家-嫁》_02

【朝メニュー】<家-嫁>
ヤクルト

【昼メシ】<職場付近-1人>
肉まん

【夜メシ】<家-嫁>
白菜と鶏もも肉のクリーム煮込み、明太子入り玉子焼き、五色漬けの納豆混ぜ合わせ、ご飯、味噌汁

【夜食】<家-嫁>
スライスチーズ、スモークチーズ、アイスクリーム、柿ピー、マーブルチョコ、チョコ

【イベント】
秋葉原

【所感】
昼メシはいつもコンビニのパン一個。コンビニで少し立ち読みしてから、パンコーナーの惣菜パンを一つ手に取りレジに持っていく。基本的にカレーパンかソーセージパンの二者択一。何て味気ない昼メシ。レジの店員兄ちゃんも「ウイースいらっしゃいませーい…」とか「ハイハイさっさと金出してね」みたいな対応が殆ど。何て愛想のないヤツ等だ。ただ、たまに「いらっしゃいませー♪」「5円のお返しになりまーす♪」と笑顔でテキパキと対応してくれるデキる店員姉ちゃんに当たることもある。それが唯一の救いだ。誰だって、同じ115円払うなら地縛霊より天使の方がいいに決まってる。それにしても、何で115円なんだよ。5円玉もらったところで今までご縁なんて全然無かったぞ。

そのコンビニパンを、人気のない路地裏に入り込み、すぐ横の工事現場で威勢よく働く荒くれ作業員のおっちゃん達の掛け声をBGMにしながら20秒で平らげる。そして事務所に戻る。そういう日課だ。何て愛のない食事なんだ。まるで自分だけがこの世界から隔絶されてるよう。一応、今日は総菜パンでなくホカホカの肉まんを食ったがね。いつもと違う部分だ。しかし、それ食ったのは18時近く。仕事の外出が終わってからの昼食。昼食って時間じゃねーぞ? 虚しくならない? 自分に言い聞かせてみるが、返ってくるのは大通りから聞こえるプップーッという車のクラクションの音だけだった。

12月、年末近くの一風景。気温は身を切り裂くほどに寒い。反面、手に持つ肉まんはかじかんだ手の平が生命力を取り戻すほどに暖かい。それでも心はやはり寒くて。肉まんを15秒で胃袋の中に収めた後、手の平に残ったのは、肉まんの下に張り付いてる半透明の紙っぺら。冷たい、冷たい、氷のように冷たい紙だけが…。ヤバい、このままじゃブルーになる。僕はその流れを断ち切るべく、肉まんの残りカスのついた紙をコンビニ備え付けのごみ箱にポイッと投げ捨てた。付着する物思いと一緒に…。

夕食は変わり種。メインは白菜のクリーム煮込み。クリームシチューに白菜と鶏もも肉が投入されたイメージ。鶏もも肉は、新潟から送られてきた肉の残りをそのまま使った。有効活用はいつなんどきでも心がけねばならない。いつ世の中がサバイバル時代に突入するか分からないからな。

二品目は五色漬けに納豆を混ぜ合わせたもの。五色漬け自体は、これもまた新潟から来たものだ。しかしそもそも論として、五色漬けはしょっぱい。相当しょっぱい。ゆえに子供にはお勧め出来ないし、大人だって無理な人間は無理だ。五色漬けは、ご飯のおかず以上の地位は与えられない。だからこそ、納豆なのだ。納豆は正直なところ、そのままでは何ら美味くない。ただの粘り気のある腐った大豆だ。そこに醤油や専用のタレを加えた時、ポテンシャルが最大限発揮されるのだ。そのタレの代わりに、今回の五色漬けを使おうというのが今回の試み。納豆の味気なさが、五色漬けのしょっぱさによって色めき立つ。言い方を換えれば、五色漬けのしょっぱさが納豆の味気なさで中和される。どちらが主導権を握っているのか分からないが、両者は単品では完全体になれない。足りない部分を補い合い、助け合ってこそ、両者ともに栄えるのだ。これこそ理想的なWin-Winの関係と言えるのではないか。人生や人間関係も、これと似たような図式だ。結局、人は一人では生きられないということだ。図に乗っている人間は心した方がいい。納豆のパックの中には専用ダレが必ず付いていると決めつけることは、ただの思い上がりに過ぎないのだから。

三品目は、明太子玉子焼き。玉子焼きに明太子を混ぜた。明太子は確か同僚に貰った博多土産だとかどうとか。明太玉子焼きなど、飲み屋でしか拝めない逸品。ゆえに家でそれを目の当たりにするのは、ある意味で新鮮だ。しかし、それも明太子というオプションが家にあればの話。普段の日、わざわざスーパーで明太子を買う機会など基本ない。お土産とか、そういうイベントで登場するのが殆どだ。よって、今回の明太子玉子焼きは、たまに出現するサプライズという括りを出まい。スマップコンサートに稀に乱入するナイナイの岡村のようなものだ。極上のものが常に自分の側にある。理想の形は望めばいつでも取り込める。そう思うのは傲慢というものだ。贅沢に慣れてしまってからでは遅い。理想に埋没出来る状態がずっと続くと思う時点で手遅れ。失った瞬間、死んだ魚の目が待っている。決して驕る事なかれ。

それにしてもここ一週間ばかり、帰宅して、メシを食って、寝るというサイクルが続いている。食後の運動をする、本を読む、PCを開いて作業する、やることはいくらでもあるのだが、一旦思考の迷宮に陥り始めると、その思索に没頭してしまう。活動エネルギーが尽きているわけじゃないのだけど。ある意味、悪い癖だ。結果、やるべきミッションが積み上り、後ろに倒れていくばかり。思考するのは大好きだけど、それだけで時間を費やすのは考えものだな。食後に柿ピーをポリポリとつまんでいる時も、コンビニで買ってきたアイスをマヌケ面で舐めまわしている時も、空想やシミュレーションという名の思考迷宮に突入する。脳内は満たされるが、傍から見れば、今日の間食で食ったスライスチーズのようにニャフニャの自堕落人間だ。もっとこう、今日の間食で食ったスモークチーズのごとき固い意志を持って行動すべきだろう。それでこそ、今日の夜メシで食った五色漬けと納豆の混ぜ合わせのごとき新たな存在感が浮かび上がってくるというもの。

要するに、中途半端は良くないということだ。スライスチーズかスモークチーズ、どっちかにしろということ。さらにマーブルチョコとか柿ピーを貪るとか、もう目も当てられない。お前は何がしたいんだと。そう言われる前に、明太玉子焼きのように確固としたオリジナリティを自分の中に見出す必要がある。

20121214(金) 向上心めいた話

121214(金)-03【夜メシ2250~2320頃】坦々鍋(焼き豚等)《家-嫁》_01121214(金)-03【夜メシ2250~2320頃】坦々鍋(焼き豚等)《家-嫁》_02

121214(金)-03【夜メシ2250~2320頃】坦々鍋(焼き豚等)《家-嫁》_03121214(金)-04【夜食2330頃】きのこの山(スロ余り玉)《家-嫁》_01

【朝メシ】(家-嫁)
缶ジュース

【昼メシ】(職場付近-独り)
カレーパン

【夜メシ】(家-嫁)
坦々鍋(焼き豚等)

【夜食】(家-嫁)
きのこの山、抹茶生どら

【所感】
朝は缶ジュースだった。いつものヤクルトシリーズが切れた模様だ。まったく適当だよな。ヤクルトを補充していない嫁の迂闊さを指摘しているのではなく、僕自身のその姿勢が。要するに、飲めれば何でもいいと。いや、無くても多分大丈夫であると。じゃあ朝メシの存在意義って何なんだという話になる。

そこにあるからただ飲む。逆を言えば、そこに何も無ければ飲まないのだろう、きっと。その在り方が適当ということだ。「朝メシを蔑ろにするな」世間の人々はあれほど口を酸っぱくして主張しているのに、僕はその世間に逆行している。カラスのように気まぐれだね。しかし、朝メシを抜いた程度で人は死なない。そのことも知っているから、やはり適当なままでこれからも行くのだろう。適当な僕は、その缶ジュースを6秒で飲み尽した。ごちそうさま。

夜のこと。たまにパチスロを打ったりするのだが。30~40分くらい店でプレイして、500円勝ちに収める。たかが500円。されど勝ちは勝ちだ。プラス収支で着地させることの重要性が痛いほど胸に染みた。勝ちグセを付ける、という俗的な言い方でなく、もっとこう、ギリギリの状況下における決断の重要性とか、そのために必要な意思の強さとか。生と死を分かつ決定的な要素と言えばいいのか。天国か地獄行きかを選別するピンポイントな選択肢、そこに潜む針の一点ほどの綻びの存在、そんな言い方をすればいいのか。光を享受できるか暗黒に落ちるか、それを左右する最後のオドというイメージか。そんな重要な何かの存在を感じ取った。これもまた、進歩している証拠なのかもしれない。ガラスのように繊細になれば、その針の一点にすら辿り着けよう。

帰宅後、嫁が坦々鍋を用意していた。坦々麺の鍋版だ。しかも、坦々スープって言うの? それも一から作った模様だ。あのスープを作るのに、挽き肉とかトウバンジャンとかナントカジャンとか、ネギを刻んだヤツとか、あと色々、とにかく数十種類ものレシピが必要だという。驚きだ。しかし、その数十種類のレシピを用意し一から作ったのだから、それもまた驚き。嫁は嫁で進歩しているのだろう。悪い傾向ではない。そう、心中はともかくとして、進歩しようとする心掛けは決して悪い傾向ではない。行動に移せたのなら尚更だ。

心の中に渦巻く様々な物思いは、結局自分だけのものでしかなく、自分にしか分からない。だからこそ、ただ身体を動かし、頭を働かせて、アクティブに動く。見かけ上がそうあれば、基本的には何の問題もない。

そう思いながら僕は、財布の中に追加された今日のパチスロの勝ち分500円玉の重さを実感する。パチスロの余り玉でレジカウンターのおばちゃんにもらった「きのこの山」を一つ一つ、ベルトコンベアーのロボットアームのような等間隔な動きで口の中へと放り込みながら…。

どうせなら「たけのこの里」の方がよかった。

20121213(木) 緊急食はある意味エマージェンシー

121213(木)-03【夜メシ2230~2245】栗ご飯・焼き豚煮込みぶっかけ、ワカメスープ、こんにゃくの刺身《家-嫁》_01 121213(木)-03【夜メシ2230~2245】栗ご飯・焼き豚煮込みぶっかけ、ワカメスープ、こんにゃくの刺身《家-嫁》_03

【朝メシ】(家 嫁)
ラフランス、ヤクルト
 
【昼メシ】(職場付近 独り)
ソーセージパン
 
【夜メシ】(家 嫁)
栗ご飯・焼き豚煮込みぶっかけ、ワカメスープ、こんにゃくの刺身
 
【夜食】(家 嫁)
カール
 
 
【所感】
スマホが修復した喜びで、朝から鬼のように操作。フリック入力で素早く文字を打ち込む。やっぱフリックは良いね。入力スピードが全然違う。始めた時は手間取ったが、慣れてしまえばこれ以上はない入力形式である。
 
もう「あいうえお」とボタン連打していた頃には戻れない。僕にとって、それは退化だからだ。人は、一度便利さを覚えてしまうと、不便だった頃にはもう戻れない。上を知った瞬間、下を見なくなる。こうだと決めた瞬間、他のものが見えなくなるものだ。たとえば…、
 
キーボードのショートカットキーを覚えてしまった人間は、もうマウス操作では満足できない。
 
ブラインドタッチをマスターしてしまった人間は、チラリとでも文字キーを直視してしまう自分を許せない。
 
成り金は、金に飽かせて跳ね上がった生活水準を、凋落した後もなかなか元に戻せない。
 
「八吉」や「地中海厨房」、果ては「響」や「肉の万世」という高級飲み屋に手を伸ばしてしまった人間は、飲み会会場を今さら安価な和民に戻せない。
 
月宮あゆという運命の恋人の存在を知ってしまった相沢祐一は、一途でひたむきな幼なじみ・名雪であろうと、美人な先輩・川澄舞であろうと、癒し系お姉さん・倉田佐祐理であろうと、自分に懐く可愛い妹のような沢渡真琴であろうと、誰にも心を動かされることなくただ一人、月宮あゆだけを想わずには居られない。
 
それらの事例と同じことなのだろう。それが本人にとって理想か否か、周囲にとって望ましい形かどうかは別として、一度変わってしまうと簡単には戻れないということだ。
 
壊れたものも、なかなか元には戻らない。僕は最近スマホを壊した。スマホだけでなく、僕は物をよく壊す。つまり物持ちが悪いのだ。いや、物によってはあり得ないほど大切にするが、やはり総合的にはすぐ壊す。使い方が雑だからだろう。それ即ち、物を大切にしていないということだ。今回のスマホも同様。修理待ちの間に借りた貸出機を壊すとか、バカとしか言いようがない。
 
そのスマホの修理が昨日完了したわけで、喜びながらメールを打ち続けるのだが、自分が打ち込むのに夢中で、友人からのメールが来ていることに全く気付かなかったとか、それもまたバカ。スマホが直ったという現象に舞い上がっていたということだ。今日は嫁が女子会とやらに出掛けているので、友人と高尚なパソコン講座を開くのには格好の期日だったのだが。無念の内に帰宅した。
 
帰宅後、酔っ払った嫁が、メシを食ってない僕にメシを作ってくれた。俺はココイチの持ち帰りとかで別に構わないのだが。しかも酔っ払ってるし、大丈夫かな。鬼が出るか蛇が出るか…。というか、「鬼が出るか蛇が出るか」って言い方、何か変じゃね? 「オニ」だろうと「ヘビ」だろうと、どっちにしてもエンドだし。「天国か地獄か」に例えるなら「灼熱地獄か針地獄か」ってことにならない? あるいは「アナタが拾ったのは金の斧ですか?銀の斧ですか?」的な言い方をすれば、「アナタはどちらでやられたいですか?斧(オノ)ですか?それとも鉈(ナタ)ですか?」みたいな。どれも救済措置が無いよ。一体どういうこと?
 
そんなことを走馬灯のように考えている内、テーブルに出されたものは、よく分からない代物だった。いや、ある意味、逸物というべきか。一応、目を凝らして分析してみる。
 
基本フォルムとしては、ご飯の上に汁をぶっ掛けたものだろう。内容物を見れば、ご飯部分は恐らく、以前新潟から送られてきた栗ご飯の残りと思われる。そして汁部分は、昨日の夜メシである焼き豚入りの煮物の、これも残り物だと思われる。要するに、煮物ぶっ掛け栗ご飯ということだ。まあそれぞれの素材は悪くない。単体では、充分主役を張れるメニューだろう。しかし、二つを融合させるってのはアンタ。栗ご飯だぜ? 果たして、アリなのか?嫁の方に振り向けば「食ってみ」とか言ってるし。僕は意を決してそれを口に運んだ。
 
うん、まあまあイケるんじゃないかな。独立して考えれば旨いメシなわけだし。それがくっついただけの話しだしな。まあ、イチゴケーキに醤油を掛けるくらいのミスマッチさは否定できないけどな。旨けりゃいいさ、食えればいいさ、うん。
 
「まあ、結構イケるんじゃね?」
 
そう言って嫁に向き直る僕。その視界に嫁は既になく、視線を落とした先で彼女はグーグーと寝息を立てていた。このアマ…。
 
翌日、酔いから完全に醒めた嫁が、神妙な顔をしながら僕に対してこう言った。
 
「昨日は何か変なモン作ったみたいでゴメンね」
 
このアマ…。

20121212(水) スマホと豚肉

121212(水)-03【夜メシ2245~2310】煮物(焼き豚入り)、えのきと小松菜のマヨネーズ和え、昆布巻き、フグのつまみ(山口土産)《家-嫁》_01 121212(水)-03【夜メシ2245~2310】煮物(焼き豚入り)、えのきと小松菜のマヨネーズ和え、昆布巻き、フグのつまみ(山口土産)《家-嫁》_03 121212(水)-04【夜食2330頃】ブラウニーミックス《家-嫁》_01

【朝メシ】(家 嫁)
ラフランス、ヤクルトミルミル
 
【昼メシ】(職場付近 独り)
カレーパン
 
【夜メシ】(家 嫁)
煮物(焼き豚入り)、えのきと小松菜のマヨネーズ和え、昆布巻き、フグのつまみ(山口土産)
 
【夜食】(家 嫁)
ブラウニーミックス(韓国チョコパウンドケーキ?)
 
 
【所感】 
仕事の帰り、上野のヨドバシに寄った。11月半ばに修理に出したスマホが完了したとの報を受けたからだ。まあ、その間に借りた代用機を木っ端微塵にしているのがいただけないが。その弁償代金はキッチリ支払わされた。だけど、これでともあれマトモに文字入力が出来る。
レグザフォンは、確かに自他共に認めるダメスマホかもしれない。今回修理が上がり手元に戻ってきたとて、結局ネットは遅いままで、全ての動きは重いまま。そこに変わりはないだろう。しかし、普通に文字入力が出来て、ネットに繋がるという当たり前のことが出来る。それだけで満足感に包まれる。繰り返し言うが、レグザフォンはショボい。だけど普通のことが出来る喜びがそれに勝ることもある。わたし、普通が好きだよ…?
 
ここに至るまで、色々と痛い思い出、そして痛い出費はあったけど、今後は復活したスマホをフル活用し、自分を武装するツールと化したいところ。
 
夜メシの煮物も、ある意味ツールと言える。なぜなら、その煮物に投入されている豚肉は、以前新潟の実家から送られた焼き豚だからだ。二人では消費期限内に食いきれないからこそ、腐る前に、焼き豚を有効活用する。煮物というわけの分からぬカオスへとぶち込み、未来の腐敗を未然に防ぐ。この焼き豚こそが、ツールだ。煮物の具材の内、「肉」というカテゴリを補完し、さらに煮物全体の見栄えを良くするためのツール。人生とは、いかに周辺の事象を自らにとってプラスに働くようツール化するか、その作業の連続性を指す。
 
同じく出されたフグのツマミは、4ヶ月前に買ってきたものだけど、賞味期限が長かったので問題ない。山口旅行の思い出、満を持して登場である。この日のために暖めておいたと取るか、出し惜しみと取るか、ただ存在を忘れていただけなのか。
 
真実は僕だけが知っている。

20121211(火) 焦げたシチューの真相について

121211(火)-02【夜メシ2210~2240】シチュー(焦げめ)、昆布巻き(俺歳暮)、こけっこー系サラダ、フカヒレスープ《家-嫁》_01 121211(火)-02【夜メシ2210~2240】シチュー(焦げめ)、昆布巻き(俺歳暮)、こけっこー系サラダ、フカヒレスープ《家-嫁》_03

【朝メシ】(家 嫁)
ヤクルト
 
【昼メシ】(職場付近 独り)
カレーパン
 
【夜メシ】(家 嫁)
シチュー(焦げめ)、昆布巻き(僕歳暮)、こけっこー系サラダ、フカヒレスープ
 
【夜食】(家 嫁)
生チョコ(義弟歳暮)
 
 
【所感】
そろそろ走らないとマズい。最後にジョギングしたのが11月末。そこからもう10日以上走っていない計算だ。元々、頭の整理が付くまで運動は控えると決めてた。だから別に罪悪感は無いのだが、物事には加減というものもあろう。せっかく痩せてきたのに、筋肉も再び付き始めてきたのに、長期間放置するとまた元の木阿弥だ。僕は、キックの武蔵こと竹海直人のような精悍さでいつも居たい。「嘘食い」の迫先生などは、僕等と同じような年齢なのに、素晴らしい程にシャープで男前な顔つきをしている。あんな感じになりたい。
 
そもそも僕は、それ以前に今週の日曜のマラソン大会にエントリーしてるんだけど。今回は5kmだから、リタイアすることはさすがに無いと思うけど。前回も10km走りきっているわけだし。だけどそれも、事前の2週間にも及ぶハードトレーニングがあったからこそ。短期間のトレーニングで得た力など、しょせん一時的なものでしかなく、自分の身に付いた力ではない。気を抜けばすぐに剥がれるメッキのごとしだ。よって、今回5kmという短距離であろうとも、事前に練習していないと正直不安になる。5kmを短距離と言える時点で僕も成長したなとは思うが。ともあれ強迫観念に押されるように、朝のジョギングに出かけた。

 
結果的には、スローペースだけどミニマムの4kmは走り切れた。全く運動してなかった分、疲れが溜まってないというのも奏功したかもしれない。前回の大会のために練習した素地が、まだ残っていたのかもしれない。いずれにしても、これであれば5kmの完走は何とかなりそうだ。かつては2kmが限界だったのに。散発的とは言え、地道に続けていると何かしら残るものなんだな。だけど油断は禁物。本番まで出来る限り走る機会を作り、コンディションを整えたいところ。なるべく恥ずかしくない走行が出来るよう。タイムでなく、何より自分に恥ずかしくないように。
 
夜メシはシチューだった。シチューは好物。しかしながら、出来上がったのは焦げ目のシチューだ。何故、こんなことになったのか。過程に問題がある。シチュ-を煮込んでいる時、嫁は顔を洗うため洗面所へと移動した。その間、「ちょっと鍋見ておいて」と僕は言われる。しかし運の悪いことに、僕は漫画の「MAGI」に夢中だったため上の空で聞いていた。「鍋を見ておけばいいんだな」と、換気扇の下へと移動しタバコを吸いながら、文字通り鍋を見ていたわけだ。ただただ、じっと見つめていた。まあ実際のところは「MAGI」の漫画本に視線を落としていたため鍋の存在など忘れていたがね。
 
数分後、「焦げてるじゃないの」と嫁。随分ご立腹のようだ。「混ぜなきゃ焦げるよ」と再度嫁。ああ、確かに。僕は得心する。僕は「鍋を見る」という単純動作のその延長線上にある、「焦げがつかないようにかき混ぜる」という作業を見落としていたわけだ。要するに僕の失策ということだ。人の話はちゃんと聞けってことだな。
 
しかもよせばいいのに僕ときたら、漫画に夢中だったもんだから「おお、スマンスマン」などと誰が聞いても「気の無い返事です」と言わんばかりの返答をしたものだから。俗に言う「余計な一言」。相手の怒りゲージが溜まるだけの愚行だ。
 
そんな過程で出来上がった、多少焦げめのホワイトシチュー。鍋の底に張り付いた焦げ後が痛々しいけど、それでも普通に旨かった。
 
そして、「MAGI」は相変わらず面白かった。

20121210(月) 実家の送り物が殆どだが、それがいい

121210(月)-02【夜メシ2245~2310】カニ汁、カニ味噌、カニ茹で(新潟実家)、焼き豚(新潟実家)、やまかけ、モヤシとサバ缶のカレー味噌炒め《家-嫁》_01 121210(月)-02【夜メシ2245~2310】カニ汁、カニ味噌、カニ茹で(新潟実家)、焼き豚(新潟実家)、やまかけ、モヤシとサバ缶のカレー味噌炒め《家-嫁》_02 121210(月)-02【夜メシ2245~2310】カニ汁、カニ味噌、カニ茹で(新潟実家)、焼き豚(新潟実家)、やまかけ、モヤシとサバ缶のカレー味噌炒め《家-嫁》_03 121210(月)-03【夜食2320頃】生チョコ(義弟歳暮)《家-嫁》_01

【朝メシ】(家 嫁)
ヤクルトミルミル
 
【昼メシ】(職場付近 独り)
カレーパン
 
【夜メシ】(家 嫁)
カニ汁、カニ味噌、カニ茹で(新潟実家)、焼き豚(新潟実家)、やまかけ、モヤシとサバ缶のカレー味噌炒め
【夜食】(家 嫁)
生チョコ(義弟歳暮)
 
 
【所感】
どうやら兄・ラオウが結婚するらしい。先週、実家からの電話で親から聞いた。通常は仕事中に電話などして来ないので、次男のトキとしては着信が来た時は焦ったが、基本的にはめでたいことではある。
 
しかしラオウもラオウで、結婚の報告がかなり遅れたものだから、唐突に報告された親父などは、慌てて「コレ本当のことか?詐欺じゃないのか?それともドッキリか?」などと僕に確認の電話をよこしてきた始末。ホントどうしようもねぇな…。
 
だが、やはり基本はめでたいということで。最近、自分の周りで色々なものが変化してきた。時は動き出した。ここは一つ、ラオウの結婚話が円滑に進行するよう、トキも動き出すとするかな。
 
夜メシはカニ尽くし。新潟実家から送られてきたカニを、ボイルしたり、カニ汁にしたり、カニ味噌を仰々しく晒してみたり。あと、既に調理された焼き豚とか、至れり尽くせりな送り物だ。ついでに、鳥取から送られてきた長芋をとろろにし、マグロのぶつ切りにぶっ掛ける。いわゆる「やまかけ」だ。あとは、サバ缶を使ったモヤシ炒めとか。殆ど実家からの送り物で賄い、あとはスーパーで買ってきたサバ缶を肉っぽく見せるというテクニックも駆使しながら、非常にリーズナブルな夜メシとなった。無論、美味いがね。
 
実家の有り難味が分かる話であり、調理技術とバリエーションの見せ所である。僕はただ、食うだけ。もちろん、ちゃんと感謝しながら。でも、やはり食うだけ。皿も洗わない。どんなものかね。

20121209(日) 劇場版エヴァQとビールタワーと千駄木飲み屋

121209(日)-07【昼メシ1220~1330】生ビール(ビアガーデン「ニュートーキョー数寄屋橋本店」)《東京・有楽町-嫁》_01 121209(日)-08【昼メシ1220~1330】ビールタワー(ビアガーデン「ニュートーキョー数寄屋橋本店」)《東京・有楽町-嫁》_01 121209(日)-09【昼メシ1220~1330】ベーコンチーズハンバーグ(ビアガーデン「ニュートーキョー数寄屋橋本店」)《東京・有楽町-嫁》_02 121209(日)-19【夜メシ2000~2150】煮込み(和風居酒屋「かこみや」)《東京・千駄木-嫁、友人1名》_02 121209(日)-20【夜メシ2000~2150】刺身(和風居酒屋「かこみや」)《東京・千駄木-嫁、友人1名》_02 121209(日)-26【夜メシ2000~2150】塩焼きベーコン(和風居酒屋「かこみや」)《東京・千駄木-嫁、友人1名》_02 121209(日)-28【夜メシ2000~2150】ソバ、雑炊(和風居酒屋「かこみや」)《東京・千駄木-嫁、友人1名》_02 121209(日)-29【夜食2305頃】パンケーキ(嫁友人姪土産)《家-嫁》_01 

【朝メシ】(家 嫁)
洋梨、アイスコーヒー
 
【昼メシ】(東京・有楽町 嫁)
洋食屋「ニュートーキョー数寄屋橋本店」
http://www.newtokyo.co.jp/ntb_honten/honten.htm
 
【夜メシ】(東京・千駄木 嫁、友人)
和風居酒屋「かこみや」
http://r.gnavi.co.jp/gazy700/
【夜食】(家 嫁)
パンケーキ
 
 
【所感】 
昨日、深夜まで飲んでいたからか、目覚めた後もまどろみが抜けない。虚ろな感覚。楽しみにしているTVアニメ「宇宙兄弟」も効き目なし。せっかくせりかさんの回なのに、その美人顔を観ても目が冴えなかった。結局、二度寝三度寝を繰り返しながら、スーパーキッズタイムの番組を記憶おぼろげのままに鑑賞した後、力尽きる形で通算約十度寝へと突入した。
 
昼前、覚醒した僕は再起動を試みる。劇場版のヱヴァQを観る予定があるからだ。しかし、目は冴えたはいいが頭痛が酷い。風邪ではない。しかし昨日、激しく飲んだことを思い出す。どうやらただの二日酔いのようだ。この僕が二日酔いとはね、信じられないよ。酒に弱くなったというわけでは多分ない。ただ、以前のようにいつでもMAXイケるぜという程でもなさそうだ。
 
要は習慣の問題。諸事情により最近、平日の晩酌は基本的に控えている。なので突発的に酒量を増やすと身体が追い付かないと思われる。勉強も習慣が大事。自己啓発も弛まぬ持続が全て。持久力を鍛えるためのジョギングなども、継続しなければ意味がない。酒というジャンルですら…。
 
全ては習慣化することが大事であり、怠れば当然のごとく衰える。それが自然であり必然だ。仙豆や超神水の恩恵を受ける孫悟空などならいざ知らず、人間には突然の大幅レベルアップや超回復などという都合の良いステータスは、無い。酒が強くなればハッピーとは言わないが、少し寂しい気分でもあった。
 
それでも頭を襲う二日酔いを跳ね除けて、家を出る僕。目的地は有楽町の映画館「丸の内ルーブル」だ。聞いた話では、「Q」を上映する映画館の数は、「序」や「破」とは比べ物にならない程に増大しているとのこと。だが実際調べてみると、大した数ではなかった。既に鑑賞済みの人々が漏らす「Q」の評価はあまり良くないことは知っている。だから多くの映画館が早々に上映を打ち切ったのだろうか。全3巻で打ち切られた「男坂」のように。真実は闇のままである。
 
それにしても、本来ならエヴァを観るのは豊島園の映画館「ユナイテッドシネマ」。そう僕等の中では相場が決まっていた。しかしどういうわけか、同映画館では上映されていない模様。僕からすれば、それほど人気の無かった「序」から淡々とヱヴァを扱っていたユナイテッドシネマの志の高さに好感を持っていたのだが、最も動員数が期待されるはずの「Q」をやっていない今の現実は、納得できない珍事。ユナイテッドシネマの判断か、それとも配給元の采配か。分からないが、思い出深いこの映画館で「ヱヴァQ」を観れない現状を残念に思う。何となくやるせない。ただそれだけだ。
 
映画館に行く前に、地元の商店街へ寄り道をする。嫁が通っている行き付けの薬局から福引券をもらっており、その抽選会が今日らしい。10枚あるので、僕も5回くらい引けと、半ば強引に連れてこられた。その薬局の店主が商店街の会長を務めているとか。エステ中の雑談から、僕の存在も当然薬局スタッフの耳に入っているわけである。元々僕は表舞台に顔を出すつもりなんて無かったのだが。まあ、こうなったからには仕方があるまい。この肉体派イケメン・佐波伊之児をとくと拝め、店主よ。
 
僕の顔を見た店主は、「おお、アナタが噂の!」と形式的に驚いたフリをした後、すぐさま「よかったらこれどうぞ」と、資生堂の化粧水サンプルが入った小さな袋を、渋谷の街頭でティッシュを配る兄ちゃんのようなそっけなさで僕に手渡した。何て愛の無いジジィなんだ。
 
クソッ、当ててやる、こうなったら福引を当ててやるぜ。ランクは商品券100円分の5等から、商品券5000円分の特賞まで。当然、狙うのは特賞あるいは1等だな。僕は5回も引けるし、イケるだろう。さあジジィよ、CRエヴァンゲリオンで開店オスイチを決めたこの俺のヒキをとくと見ィさらせ! 抽選機の取っ手を握り勢い良く回す僕の目の前で、輝く赤玉が受け皿の中にポロリとこぼれ落ちた。
 
「ハイ、5等ですね!」
「・・・・・・」
 
結果は、5等×4枚、4等×1枚。計700円分の商品券。ちなみに嫁は、5等×3枚、4等×1枚、3等×1枚の1100円だ。しかも3等出した時に、福引係のおっちゃんが「おめでとうございます!」とか言ってベルをガランガラン鳴らしながら大いに持てはやしてやがる。僕の立場って何なんだよ。つか僕の運ってこの程度か? まあしょせん完全確率の福引機。機械ごときに僕の壮大な志は分かるまい。そう、運命は自分の手で手繰り寄せるものだ。そうだ、僕はクズじゃない。合計1800円分の商品券を握り締め、気持ち新たに福引所を後にした。
 
昼過ぎ、有楽町に到着。丸の内ルーブルの受付で「ヱヴァQ」の指定席チケットを買った後、腹ごしらえのため「ニュートーキョー」という洋食屋に入った。ビルの場所は知っていたが、入るのは初めて。オシャレではないが、店内は広々としているし、ランチもリーズナブルだし、味も悪くない、そして生ビールの小ジョッキで普通の中ジョッキくらいの大きさがある。色々とお得な店っぽいと判断した。
 
あと、このニュートーキョー。ビールタワー(4200円)というメニューがある。細長いフラスコのような筒にビールを大量に入れて、レバーが付いている。そのレバーを引けば、ビールサーバーのように自分でビールを注ぐことが出来る。まあHUBとかでも見かける代物だが、ここのビールタワーはその量が半端無い。一本3リットルだ。実質的な目盛りは最大4リットルまであるので、4リットル入れることも可能。それをテーブルに立てて食事をするのはなかなか壮観な光景に違いないだろうが、ちょうど僕等の左斜め後ろのテーブルに、まさにそのビールタワーがあった。
 
そのテーブルに座る客は二人。恐らく夫婦か恋人同士だろう。年は四十代前半~五十代と見受けられる。どちらとも結構恰幅のいい体型で、さすがビールタワーを注文するだけはあるという感じだ。しかし、ダンナの方の容貌というか佇まいが何というか。彼は、無精ヒゲを多少残したその強面に、茶色のサングラスを掛けている。そして短髪、金髪、角刈り。正直、怖いです。ゆえに声を掛け辛い。どうしたものか。なぜなら僕は、そのビールタワーの写真を撮りたかったからである。
 
僕等だってビールタワーを頼みたい。だけど頼めない。量的に無理だ、こんな昼から。しかし彼等は頼んでいる。しかもビールタワーの他に、大ジョッキと思われるビールやワイン、その他多数の酒をテーブル内に散乱させている。どんな酒豪夫婦なんだよと。上には上が居ることを思い知った。
 
しかし、だからこそ、なおさら尊敬する彼等に頼みたい。「そのビールタワーを撮らせてもらえませんか?」と。僕は迷った。そのダンナに「あん?人のモンをタダで撮ろうとか、なに都合のええこと抜かしてんねん!」などと凄まれたら、その時はどうする?やるか?やるしかないのか?鍛え抜いた俺の肉体を解放する時が、遂に来たのか?
 
つまりリスクが大きいということだ。しかしそれ以上の好奇心がある。それはつまり、ロマンと呼べるものだ。ロマンがリスクを越えた時、人は大胆になれる。意を決した僕は、そのテーブルににじり寄り、飲酒中の夫婦にこう言った。
 
「ぶしつけですが、そのビールタワーを撮らせてもらえませんか?」
 
一瞬、キョトンとする夫婦に、日課で食事の写真を撮っていること、カメを持ち歩いていることなどを簡単に説明する僕。次の瞬間、ダンナはこう言った。
 
「ハイどうぞどうぞ♪ こんなもんでよろしければ♪」満面の笑顔で。
 
しかも「こんな感じですか?」と言いながら、ビールタワーの前でピースサインをしたり、超フレンドリーなダンナである。奥さんも奥さんで、「もう~、それならそうともっと早く言ってくれればいいのに♪」とか、「写真写りが良くなるように、ちょっと角度変えてみるわね」とか、かなりノリノリだ。何といういい人達。やはり見かけで人を判断してはいけない。僕は反省しつつ、しかしこの楽しい夫婦に数分だけでも関われた偶然に感謝した。そして、その偶然を手繰り寄せる原因となった、リスク覚悟の果敢なアタック、それを仕掛けた僕の勇気にも…。
 
そう、この勇気が僕は欲しいのだ。誰にだって、気になる人が居る、仲良くなりたい人が居る、振り向いて欲しい人が居る。しかし、恥ずかしいとか、相手がどう思ってるか分からないなどと言って遠慮していては、その先に何も生まれない。チャンスとかフラグというものは、行動した人間の頭上にしか降って来ないのだ。しかも、その出会いは唯一無二かもしれない。二度訪れる保証など全く無い。であるなら、四の五の言ってる場合じゃないだろ。
 
大体だな。好きとか嫌いとか最初に言い出したのは誰なのか知らないが、行動に移さない限り、結果以前に過程すら生じない。独り善がりのメモリアルが自分の中をただ駆け抜けてゆくだけだ。二人のメモリアルは、リスクを受け入れた上で絞り出した、ほんの少しの勇気から始まるのだ。その勇気も持たずして、タダでいい思いをしようなんて虫が良すぎる。そんな輩はノミと同類よォーッ!!
 
とりあえず、この日の僕は勇気を出した。その結果、二人の夫婦の存在が僕のときめきメモリアルに追加された。僕はこの夫婦に会えて良かったと思うし、この数分間のすれ違い通信に感謝したい。他者との接し方、人の温もりの感じ方、そして人との縁や人に対する想いの抱き方や、自分の歩き方など、全ての方向性がその数分間に凝縮されていたように思えるから。今後もその調子で、あの頃のときめきと変わらぬ想いを抱きしめていたい。いつまでも。
 
僕は、今日の有楽町・銀座徘徊において、この夫婦との邂逅でほぼ満足してしまった。なので「ヱヴァQ」について大きく語ることは無い。敢えて言うことがあるとすれば、まず「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は「エ」でなく「ヱ」であること、そして「オ」でなく「ヲ」であること。遊び心のように見えるが、これによって庵野監督は今までのエヴァの世界観をぶち壊したいという熱意と覚悟を現したのだろう。その熱意は「序」と、そして特に「破」で革新的に形を成し、むしろ従来の原作を遥かに凌ぐ名作だと賞賛された。
 
しかし、その流れから誰もが待望し、満を持して登場した「Q」。初っ端からのトンデモ展開に、会場の全員がしばし呆然とするだろう。口をポカーンと開いたまま、頭の中に「???」が駆け巡るだろう。そしてきっと思う。やっちまったのか?またやっちまったのか?と。前作までは驚異的な自制心と理性を保ち、娯楽性に溢れた観衆のための名作を創り出してきた賢明な庵野。それがこの段になって遂に暴発してしまったのか、と。それは観れば分かる。「破」で絶対権力を手中に収めた庵野が、そのタガを外して誰にも手の付けられない暴君と化した現実が。
 
賛否両論あれど、庵野が観衆の期待を裏切った事実に間違いはなく、彼が堕天使として復活しメギドフレームを撒き散らしていることは誰の目にも明らかだ。そこに異論の余地はない。ただ、一方では納得もしている。人型兵器でない、飛行兵器による艦隊戦、目が潰れるほどのビームと弾幕、メカニック、そのフォルム、オペレーターとのやり取り、伏線を無視した跳躍的発想。いかにも庵野が好きそうなもので、いかにも彼がやりそうなこと。正真正銘の庵野イズムがそこにある。ゆえに、あらゆる場面で「オイオイお前、いい加減にしろよ」とツッコミを入れながらも、その展開自体に納得はしている。これも一つのカタチなのだろうと。
 
しかし、あまりに飛躍した展開は、大いなるリスクも内包する。前作・前々作との間に生じた調整不可能なまでのギャップは、過剰な戦闘シーンや演出などで誤魔化しきれるものではあるまい。原作との違いを証明するには、掲げた伏線を全て説明しなければならない。それが庵野に出来るのか。始まってしまった今の彼に。
 
それに、劇中での様々なムチャ振り、分からなくなったエヴァの存在意義、そしてシンジの退行現象など、その展開はまるで原作をなぞるようだ。せっかく勧善懲悪で進行していた物語を、色々な面で手に負えなくなり、収拾がつかなくなってしまい、最後の二話で「もうやーめたっと!」と一気にちゃぶ台をひっくり返すという蛮行に出た、あの時の庵野の心境に酷似しているようにも見える。さらに、その投げやりな原作の伏線を回収するとぶち上げて、しかし結局は原作以上に弾け飛んでしまった「DEATH and REBIRTH」そして「Air/まごころを君に」という、「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」と呼ばれた黒歴史の存在。そこに行き着くまでの流れに酷似しているようにも一方では見えるのだ。それは庵野の心の動向そのもの。
 
庵野は元々、普通じゃない。だから誰も普通を期待してない。しかし、それでも今回だけは、「ヱヴァ新劇場版」だけは、普通であるべき。その姿勢で最後までやり切って欲しい。そういう思いが観客の心中にあったのではないか。狂気の庵野が、人生でただ一回、正気になった時。ここ一度だけ、マトモに。それだけで良かったはずだ。しかし今の状態で行くと、広げた風呂敷を回収できないまま、観客を置き去りにしかねない。その可能性が大いに出てきた。それは誰にとっても幸せではない。少なくとも、今回の「Q」と、映画の最後に流れた次回予告「シン」の映像を見る限り、このまま終わるとは思えない。
 
最後に再び天使に反転し、その底力を発揮して万人の納得出来る終わり方をすれば、庵野の勝ち。彼は伝説となるだろう。「庵野はさすが庵野であった」と。それが出来なくとも、やはり伝説となる。「庵野はしょせん庵野であった」と。果たしてどちらが望まれるカタチか。神話となるか、闇の歴史がまた一ページとなるか。次回作「シン」に否が応でも注目が集まる。そしてもし、それこそが庵野の策略だとすれば、もう頭を垂れて感服するしかない。
 
というわけで、最終章「シン」の結末までは、微妙な立場に立たされ続ける「Q」であるが、僕としては結構満足して観ていた。全体的に見れば、普通に面白いと感じた。100点満点で言えば80点くらいか。当然、「序」や「破」で刷り込まれた好感によって点数が押し上げられているのは否めないが、これなら2回か3回は観ても良さそうだ。
 
しかし特に、何よりもカヲル君の存在が大きい。レイちゃんもそうだけど、それ以上に彼は特別だった。僕は不覚にも泣いてしまったよ。その同じ場面、僕の隣で、グスリという音がした。振り向けば、メガネのおっちゃんが、僕と同じに泣いていた。気持ちは分かるぞ、おっちゃん。僕はそのおっちゃんに、この上ない共感を覚えた。
 
映画の後、有楽町そして銀座近辺を少し徘徊。銀座インズ付近のチャンスセンターには、新装開店時のビッグアップルに並ぶ客のごとき人間達が列を作っている。年末ジャンボ宝くじを求める行列である。銀座・有楽町・新橋の宝くじ売場の当選数は日本一だからな。無理もないが、どうか皆さん誤解せぬよう。当選数が多いから行列が出来るのか、行列が出来て膨大な数のくじ券が売れるから、比率に応じて結果的に当選数が多くなるのか。それは多分、後者であるということを。
 
そんな薄い確率の年末ジャンボ。この寒空の中、二時間待ちであろうと並び続ける人々の中、恐らく誰か一人くらいは一等6億円をその手にするのだろう。しかし、どれだけ買おうが、針の穴ほどの確率でしかないのは変わらない。それでも彼等は買う。囚人のようにただ並び続ける。皆がリタイアしたい。この現実から飛び立ちたい。良く分かる。結局、皆、同じだ。誰が当たるのか分からないが、あなた達にどうか幸あれ。
 
銀座を離れた後、新宿を少しぶらつく。その時、友人から一通のメールが届く。「飲らないか?」と。僕は今日は嫁と一緒なので。すると返す刀で「ならば嫁も交えて飲らないか?」と来た。ほう、それでもいいのか?こりゃ珍しい飲みになりそうだ。僕等は待ち合わせ場所の上野に向かった。
 
普段の飲みと違い、今回はある意味、接待の一面もある。僕達が普段している高尚なフィールドを見せ付けるために。ゆえに友人は、それに相応しい美味い鍋料理屋を色々探してくれたようだ。しかし殆どが営業しておらず、あるいは満席。途方に暮れた後、千駄木にある「二番目に美味しい鍋料理屋」と自称する店を見つけ、タクシーで急行した。僕は千駄木という場所にマトモに来たことがない。友人も同じで、「千駄ヶ谷」と混同していたくらいのレベルだ。しかし千駄木は、予想以上に店が多いというか、商店街のような長い通りがずっとずっと、果てしなく続くような、まさしく飲むに困らない場所。千駄木は、かなり使えると思う。
 
店の名は「かこみや」。最初友人は「かこいや」と言っていたが、看板に書いてあった名前は「かこゐや」と読めて、しかも「ゐ」じゃなくて「み」だったとか、紆余曲折あった末に辿り着いた場所。店内は狭いけど落ち着いた雰囲気で、刺身や煮込みなど、美味しい料理が沢山。酒も美味い。ただ、鍋が見当たらない。鍋料理屋のはずなのに、何故?まあ話をしている内、細かいことは気にならなくなった。
 
飲みの席で、僕等は各々の現状や将来の目標、その他思考や嗜好について話す。友人は理路整然と柔らかいタッチで会話していたようだ。その話し振りを嫁は大層気に入った模様。驕らず、あくまで対等に、自然体に、面白可笑しく喋る。そんな彼に友達で居てもらって良かったね、と嫁は僕に言った。その点については全くその通りだ。いずれにせよ、友人の株が更に上昇したようで何より。変わり種の面子だったが、まったくもって楽しく、そして有意義な飲み会だった。
 
友人と駅で別れた後、僕等は帰途に着く。家で僕は、嫁の友人の姪が僕のために焼いてくれたというパンケーキを夜食として食った。その姪も、もはや高校生だ。初めて会った時は走り回るのが好きなやんちゃ小学生だったのに、今はもう、大人の色香漂う少女。デカくなったな小娘、というレベルではない。無論、いやらしい気持ちは全くない。ただ、その短い期間での変わりように驚くばかりだ。それでも、手作りのケーキなどを贈ってくれる彼女の優しさは6年前と変わることなく。
 
そんな彼女に多分、僕は大したものは返せない。彼女だけでなく、他の色んな人の気持ちに形で応えるだけの力が、甲斐性が、そして勇気が僕には無かった。少なくとも今までは。僕は基本、まだ誰にも、何も返せていない。それを今度こそ返すために、僕は動くと決心したわけだ。決意の12月、2回目の日曜日。そのパンケーキは、とても甘い香りがした。