07/08/28(火) お好み焼き屋

 
 
 
【朝メニュー】
ご飯

納豆

【昼メニュー】
自作オニギリ

【夜メニュー】
お好み焼き屋「寿々」(東京・梅島)

中華屋、カレー屋、寿司屋、etc…。何か食っていこうとなった時、ふと立ち寄りがちな店。言い方を変えればジャンル。ホント無意識に、示し合わせたように入ってしまう。庶民にとって馴染みのあるメニューだからだろうか。馴染みがあるのはそれらのメニューの露出度が高いからだろうか。確かにどこにでもある。街をしばらく歩いていれば、とりあえず見つかる、そのくらいの数はある。店を運営している人間も、そんな消費者の無意識を知っての上なのだろう。気軽に入り易いから、敷居が低いのが分かっているから、店を構えてもあまり不安を抱かない。過去から積み重ねられた実績が示す出来レース。これこそ需給の一致であった。

 
その意味では、お好み焼き屋も結構定番。ホットプレートがあれば家で安く大量に作れるのに、実際お好み焼き屋が廃れることなど滅多に無い。あの業務用のデカい鉄板と、連れと喋りながら気楽に自由に焼けるという柔軟性。人気の理由はそのあたりだろう。よっぽどでなければ、お好み焼き屋は外れない。
 
しかし、お好み焼き屋乱立の理由はそれだけで済まないかもしれない。気軽だとか庶民性が高いとかそういう次元ではなく、もっと現実的な。つまり、儲かるからではないかという推測。お好み焼き屋に入り、注文した品が来る度に僕は思ってしまうのだ。随分儲けてないか?と。少なくとも半分近くの店に対してそんな感想を抱く。半分とはつまり、店員が焼くのではなく、客が焼く店のこと…。
 
例えばぶた玉をオーダーする。ラーメン屋で例えれば、味噌ラーメンと餃子を頼むようなもの。この時点で、殆どのジャンルの店ならば完成品が客の前に差し出されるわけだ。客は店員が作ったメニューを食うことだけが仕事だから当然といえば当然である。しかし、お好み焼き屋の場合は勝手が違う。つまりオーダーしたぶた玉お好み焼きの完成品が出てくるのではなくて、焼きあがる前のものが差し出されるという不思議。小麦粉を水で溶かして豚肉やら野菜やらをボールに入れた状態。いわゆる材料を手渡されるのである。その流れで行けば、焼くのはもう客しかいない。お好み焼き屋と称する店で気楽に食おうと思った矢先、材料渡すから後は自分で作ってねと宣告される。焼くなり煮るなりご自由にどうぞと…。これでは家に居るのと変わらないのではないか?何のためにプロと呼ばれる人間が運営する店に行くのか。僕が納得できないのは、まさにこのセルフにも程がある作業。客が最も求めるものが、最も大事な一工程が抜け落ちているのだ。加えてこの値段である。お好み焼き屋やもんじゃ焼き屋は、家で作った時のコストを考えれば高目の価格設定だと僕は感じている。その高目の金額を、ただ小麦粉と水を混ぜただけの、誰でも作れる材料に払っているのだ、僕らは…。このセルフ型お好み焼き屋だけは未だに解せない。本来あるべきものが、しかし実際は存在しないものが含まれてしまっている。これでは形だけの技術料を取られているようなものである。
 
お好み焼き屋。店員が作ってくれるところは安心してこの身を任せることが出来る。だがそれだけに、いきなり材料だけ手渡された時の呆然指数。瞬間湧き上がる、店員への内なる気炎。推して知るべし。鉄板に負けない炎の視線を…。気にならない人間には気になるまい。だけど僕はその都度気になって仕方ないのだ。子供の使いじゃないんだぞと。
 
でも出来上がるお好み焼きの出来が案外良くて、何となく満足してしまったりもする。いやダメだダメだ、甘やかしちゃ。騙されちゃダメだ…。a

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