20121230(日) 和歌山旅行一日目 南紀白浜での素晴らしい出会い

121230(日)-05【0920~1220】京都~白浜移動 特急「スーパーくろしお」(和歌山旅行一日目)《京都駅~白浜駅-嫁》_02 121230(日)-06【1220~1245】白浜駅(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_005 121230(日)-09【1340~1410】和歌山ラーメン屋「和ん」 和歌山ラーメン(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_012 121230(日)-11【1425~1600】水族館 京都大学臨界実験所(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_001 121230(日)-11【1425~1600】水族館 京都大学臨界実験所(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_062 121230(日)-13【1930~1950】白浜銀座通り(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-14【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 外観(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-15【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 内装(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_08 121230(日)-16【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 クツエビのお造り(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-19【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 白子蒸し(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-20【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 クエの酒蒸し(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-21【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 つんつん巻き(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-24【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 ウニ巻き(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-29【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 記念写真 カウンター隣の夫婦(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01 121230(日)-30【1950~2220】寿司屋「幸鮨」 記念写真 板前(和歌山旅行一日目)《和歌山・白浜-嫁》_01

【朝メシ】<東京~京都新幹線内-嫁>
駅弁(味わい弁当)

【昼メシ】<和歌山・白浜-嫁>
和歌山ラーメン屋「和ん」(和歌山ラーメン、餃子、ビール) http://r.gnavi.co.jp/6370005/

【夜メシ】<和歌山・白浜-嫁>
寿司屋「幸鮨」(クツエビのお造り、クエの酒蒸し、白子蒸し、ナマコ、巻物等) http://www.kouzushi.net/

【夜食】<和歌山・白浜-嫁>
無し

【イベント】
和歌山・白浜旅行(水族館、温泉、寿司屋)

【所感】
本日から1月3日まで冬休み。5連休が短いのか長いのか。業界によって判断は分かれるが、長期休暇は実家帰省とほぼ固定したスケジュールを持つ僕としては心が揺れるほどの議論でもない。そのスケジュールに背くことで新たな境地が開ける可能性もある。しかし痛い目を見る可能性もある。世の中とは案外そんなもの。押しても引いても何らかの傷は生まれるし、右に行こうが左を選択しようが、両者共にバラの道と茨の道とがあることに気付く。「二兎を追う者、一兎も得ず」の諺どおり、両方上手く行くなんてことは滅多にない。

取り返しのつかないもの、後悔してからでは遅いもの、色々ある。だけど肝心な案件では必ず重要な取捨選択が付き纏う。選択した時点でもう一方を捨てているのが現実。両者を拾える力や甲斐性が無い限り、その苦悩からは逃れられない。それを踏まえると、実家に今のところ何も返せていないのならば、せめて親孝行であれるよう出来る限りのことはすべき。それが今の僕に出来る現実だ。別れはいつ訪れるか誰にも分からないから。今はただ、目の前に迫った帰省というイベントに向けて、自分の出来る範囲での全力を投下するのみ。

昨日の深夜カラオケのあと1時間ほど睡眠し、朝5時に家を出る。目指す先は和歌山県の白浜地域。これで二回目だ。鳥取帰省の前後に小旅行を組み込むのは最近の定番。僕は旅行が好きだから。別に贅沢をしたいわけじゃない。ただ見聞を広めたいだけ。可能な時に、可能な限り。可能でなくなる時がいつ来ないとも限らないので。

金が尽きるかもしれない、病気になるかもしれない、あるいは命を落とすかもしれない。身動き取れない状態はいつだって訪れうる。その時に、自分の旅のしおりがどれだけ分厚くなっているか。どれだけ経験値が積み重なっているか。旅でしか得られない体験と感性は確実にある。それは僕が欲しい感性と合致する。どこに行ったかではなく、何を得たか。それをどう分解し、思考に取り込み、拡散出来るか。僕が欲しいのはその感性だ。人生がいつ終わるか分からない以上、機会が得られる内にその機会を行使するというのが僕の考え方。ゆえに旅には金も時間も惜しまない。旅には、自分の金と時間と命とを投資するだけの価値がある。

それでも世界は広すぎる。結局、行きたくとも行けない場所が殆どだろう。僕の旅のしおりは、その中の何千万分の一程度できっと終わる。だけど、その何千万分の一の部分だけは、観光業者の回し者と呼ばれるくらいに自分の中に取り込めれば、その土地の使徒になれれば本望だと思う。

まったくもって旅はいいねえ。旅先で見知らぬ知識、景色に出会う時の高揚感。知らない人達と心を交わせた時の充実感。それらを折り重ね、自分だけの壮大なストーリーを作り上げる。いいねえ、旅は。旅は・・・男のロマンだよ。

朝6時頃の新幹線で京都を経由してから、白浜行き特急列車「スーパーくろしお」に乗り込む。いつも思うが、JR線の和歌山行きや奈良方面行きのホームは寂れ気味だ。たとえば新大阪駅だと、ホームは中央から一番遠い端っこに追いやられ、立ち食いソバ屋とかも設置してなかったり。鳥取方面のホームなど自販機すらない。大阪方面、三宮方面、滋賀方面などに比べ、この格差は一体何なのか。

最大の理由は、単純に利用者人口が少ないからだろう。それ即ち、その土地の人口過疎を意味する。少し前、秋葉原で一緒に飲んだ和歌山出身の友人が、「和歌山も鳥取に負けないくらい過疎化が激しいですよ」と漏らしたことがあった。僕からすれば、魅力的な観光地を多数有する場所というイメージなのだが、地元の事情を知るのはやはり地元の人間。地元人間だからこそ知りうる真相がある。そんな彼の言葉が、このJR線のホーム事情にもありありと反映されているように僕には見えた。

「スーパーくろしお」で三時間ほど揺られながら、目的地の「白浜駅」に到着。改札前では、パンダの着ぐるみを着たパンダ車掌が乗客たちに囲まれながら出迎えてくれる。駅内の窓口や改札もパンダ一色。白浜はパンダ飼育数日本一を誇るレジャー施設「アドベンチャーワールド」を擁するパンダの街だ。東京の上野には悪いが、パンダ保有数、飼育実績、繁殖実績、中国とのパイプの強さ、全てにおいて白浜の方が圧倒的に勝る。戦艦と駆逐艦くらいの差だ。アドベンチャーワールドがあるから南紀白浜空港が建造されたと言っても差し支えないほどの影響力なのだ。

そんな白浜のポテンシャルは、関西・西日本圏では常識。だけど関東・東日本圏ではさに非ず。同じ日本なのに、生じてしまう常識の相違、温度差。その温度差を埋めるのもまた旅の醍醐味であり、それに貢献できた時の高揚感があるからこそ、人は新しい知識や土地や経験を常に求め、真実に近づこうとするのではないかな。誰かに伝えたいことを伝え切れた時、人は幸せを感じるもの。僕は何となくそう思う。白浜に来ればその意味が分かる。パンダの街とは、白浜のアドベンチャーワールドのことを指す。

無論、白浜はアドベンチャーワールドだけでない。海沿いという景観を活かした観光名所、あるいは知的欲求をくすぐる南方熊楠記念館や水族館、エネルギー館など、文化色もふんだんに取り込んだリゾートエリアだ。熊野古道を擁する熊野エリアと並び、恐らく和歌山の二大観光地ではなかろうか。その白浜エリアを今回観光することにした。

この地には2年前にも訪れたことがある。正直、同じ場所に二回旅行することは多くない。僕の中では、出張や帰省、結婚式などでの遠征を除いた純粋な旅行としては、友人等と行った山梨と、あと広島と、近場で言うなら奥多摩とか、それと今回の和歌山・白浜があるのみだ。

基本的に、今まで旅行した場所はどこも素晴らしかった。「また来たい」と思い、同行者ともそう言い合ったものだ。それは本心だ。しかし、同じ場所に何度も行くほどの余裕が無い。金銭的な、時間的な、あらゆる面を踏まえると、旅行する機会が絶対的に少ない。それが現実だ。数少ない旅行の機会なのだから、経験値の増大という観点から考えるなら、同じ場所でなく未開の地を選ぶのが自然である。深く狭くではなく、浅く広く。

今の時代、旅行先から帰ってからでも、ネットなどで情報の補強はいくらでも出来る。だけど実際に足を踏み入れてない場所だと、どれだけ知識を増やしても、どうしても不鮮明な情報になり、自分の中で固定しない。武道で言うところの型の基本みたいなもの。いわば骨格か。その骨格が一本通りさえすれば、あとはネットや書物を使い情報という名の肉づけをすればいい。ゆえに、より多くの骨格を得るために、少ない機会はより分散させて配分するのがベター。それがセオリーのはずである。

だがそれでも、同じ場所に行ってしまう時がある。よっぽど気に行ったのか。相性が良かったのか。魂の部分で感じる何かがあったのか。いずれにしても、その人にとってかなりの特別性を持っているのは間違いない。今回の二回目旅行のきっかけは、嫁がアドベンチャーワールドに行きたいと言ったことから始まった。8月に双子の仔パンダが生まれ、一匹は死んでしまったが、もう一匹はすくすくと育っており、それを見たいというものだ。天に召された上野の仔パンダの代替案とも言える。だが僕は、パンダよりもむしろ再度訪れたい場所があった。

それは白良浜の白い砂浜と、そこにひっそりと建つボクシングの名伯楽・エディ・タウンゼントの銅像だ。今まで多くの海を見てきたが、白良浜のように美しい浜は―たとえ人工的でも、見たことがない。僕はその光景に心を奪われていた。そしてエディ・タウンゼント像。テディ・ビンセント(修羅の門)のモデル。ボクシングには縁のないけど、修羅の門に深い縁を感じる僕自身として白良浜をもう一度見たいし、タウンゼント像の前に再び立ちたい。僕なりのこだわりである。

もう一度訪れたいと思える場所、もう一度見たいと心に念じる光景、もう一度会いたいと強く願う人。自分にとって特別な存在。それにもう一度まみえた時の感動と、全ての物思いが氷解する瞬間は言葉に尽くせまい。その時のために生きてきたとすら思える。もし仮に、願い叶わず終わったとしても、ひたすらに想い続けるその純粋な気持ちは何物にも代えがたい。それを邂逅と呼ぶ。

邂逅は「KAIKOU」。それをアナグラムすれば「KOUKAI」すなわち後悔となる。両者は表裏一体だけど、それでも邂逅は後悔と全く真逆にある事象。後悔することすらも後悔しない、純粋な気持ち。心に存在し続けるだけで何よりも美しい、そんな想いだ。いいねえ邂逅は。邂逅は・・・男のロマンだよ。僕はダイヤモンドのような邂逅を胸に秘め続ける人達を心の底から応援しています。

そんな、僕にとって邂逅すべき場所、白浜。白浜駅入り口前に鎮座する煤けたパンダ人形。前方に広がるさびれた土産屋群と、その看板。バス停。チャチなレンタカー屋。二年前と何も変わってない。驚くほどに当時のままだ。だからこそ、いい。

時と共に、景色は変わるのが世の中。人の心も変わる。だけど変わらないものもやはりある。今、目の前に広がる白浜駅周辺の景色と、そこに流れる空気は昔のままだ。その景色と空気が代弁してくれる。だからこそ、邂逅に想いを馳せるのだと。その気持ちのままで行けばいい。人は心の中に聖域を持ち続けるからこそ倒れず進めるはずだから。天を見上げれば雨が降っていた。雨とは、名も無き観光者達が流す心の涙なのかもしれません。

雨のため、行動ルートを練り直す。宿泊予定のビジネスホテル「銀翠(ぎんすい)」にチェックインし、まずはすぐ隣にあるラーメン屋で腹ごしらえをした。ホテル「銀翠」は、目と鼻の先に西日本を代表する砂浜海岸「白良浜」を望むことが出来、近くにコンビニや土産屋もあるという絶好のロケーション。立地的にはほぼベストで価格も割安だ。朝食無しと謳っているが、食パン一枚とコーヒーなどのサービスもある。ただ一つ、「食パン二枚目からは一枚につき50円頂きます」という胡散臭い但し書きが気になるが。食パンくらいケチケチすんなよ。

あと、この近辺のタクシーの運ちゃんは総じて人が好い。フレンドリーで、喋り方も穏やか。かつ、話も結構面白い。主に和歌山のことについての話題になるが、一見の観光客をいつも相手にしているからか、説明慣れしている感じがした。東京のタクシーなんて運転が荒い、気性が荒い、どうでもいい話をして苦痛しか感じない運転手で溢れているというのに。東京のタクシー運転手が下水の汚泥とすれば、白浜の運ちゃんはまさしく山の聖水であった。

観光は、雨天のため建物内での行動を選択。運ちゃんの話を元に、南方熊楠記念館、エネルギーセンター、京都大学臨海水族館の三点に絞った。僕としては、南方熊楠記念館に一番興味を引かれる。大分昔、ジャンプかマガジンでその名を初めて知ったのだが、中でも「十何ケ国語を自在に話せる」というエピソードに大きな衝撃を受けたものだ。これこそまさに天才という人種だと…。

今でも僕は、天才とは?という問いを投げかけられれば、南方熊楠の名前を挙げるだろう。無論、真の天才は片山右京(修羅の門)以外に居ないけどな。そんな天才博物学者・南方熊楠の記念館がこんな場所にあることに胸躍りながら記念館へと急行した。

しかし、閉館していた。「そういや年末は休みだったかもしれませんわ」とお気軽な運ちゃん。僕のショックのデカさも知らないで気楽だな。落胆の中、「まあ、こうなったら水族館に行くしかありませんな」という運ちゃんの代替案に従った。「いや、水族館も結構見ごたえありますよ」と言うが、こんなチャチな建物で、ホントかよ…。だが、水族館は運ちゃんの助言通り、とても見ごたえのある施設だった。

水族館の正式名称は「京都大学臨海実験所」という。通常の水族館のように色とりどりの魚を展示し視覚的に楽しませるというよりも、魚達の生態系や特徴、習慣などを勉強させるための施設という感じだ。学術的な、研究目的の水族館。説明文は結構分かり易く、かなり勉強になった。

とりあえず、全ての動物は三十数種類の動物門で体系的に区分けされており、人類たるヒトは脊索(せきさく)動物門に属する、ということだけ覚えてきた。脊椎動物門ではない模様。あと、カメも脊索動物門に近いところに居た。僕がカメのぬいぐるみを引き連れているのにも、何か運命的なものを感じた次第。

この水族館で二時間ほど費やしたため、時間的に観光は終了。回った場所は一か所だったが、予想以上に充実した。だがそれよりも、食事的に充実した日だったろう。

まず昼メシ。ホテルのすぐ隣にある「和ん」という和歌山ラーメン屋。とんこつしょうゆ味のスープは、こってりと濃厚で、好きな人にはドンピシャだ。量が他の県のラーメンよりもかなり少量のため、ボリュームの点では不足を感じるかもしれないが、それを補うだけのしっかりとした味わいがあった。しょっぱいのが苦手な人には多分合わないと思うが、個人的には和歌山ラーメンはフェイバリットリストに含まれる資格が十分ある。

何より夜メシ。この夜メシでの二時間を、出会いを、僕は多分後々まで思い出せるだろう。発端は、白浜の名物がクエであることを知り、パンフレット等に載っているクエ料理店に予約の電話を入れたことから始まる。クエは珍魚で人気があるため、どの店も予約で一杯だった。

そんな中、4件目の電話で「幸鮨(こうずし)」という寿司屋に予約を入れる。20時からなら空いているとのことなので、僕等は迷いなく予約を入れた。しかし、予約を入れてから気付いた。その料理は地元では有名な高級店だということを。しかし、ここまで来たらクエを食わずには帰れない。近くの「白浜温泉」という温泉で風呂に入った後、僕等は意を決して「幸鮨」の暖簾をくぐった。

ところで、白浜温泉は温泉というより昔ながらの銭湯に近い。サウナもないし、石鹸やシャンプーも番台で購入するという古風なシステムだ。だが、風呂桶の湯は熱めで疲れた身体を十二分にほぐしてくれる。海がすぐ近くということもあり、湯もしょっぱ目だが、それがまたリゾートっぽい。窓から見下ろした先に広がるのは夜の白良浜海岸。不意に心が感傷的になる。それでも凝り固まった心は少しずつ少しずつ、白良浜の砂のようにサラサラと滑らかになっていく。

風呂はいいねえ。身体と心に蓄積された疲労が一気に解きほぐされていく瞬間。熱い湯船に浸かり、まるで自分は水生生物だと言わんばかりに長風呂する時の浮遊感。ふと見下ろした景色ですら心の奥に響く何物にも代え難い感傷。湯船から上がった後、身体から放出される蒸し返るほどの蒸気。いいねえ風呂は。風呂は…男のロマンだよ。

肝心の「幸鮨」の話。カウンターと座敷という寿司屋の定番的内装。入り口では60代とおぼしき和服の女将が席に案内してくれる。その静かな物腰と柔らかい話し振りからして、相当経験を積んだやり手だと分かる。こういった日本料理屋とか旅館などでは、女将や仲居や女中のレベルで店のレベルも判断できるというもの。ゆえに彼女らの一挙一動は重要である。

奥多摩の旅館の仲居(通称・ガイル)のような雑兵も居れば、肉の万世のすき焼き屋の女中のように、なかなかレベルの高い女中も居る。また、那須高原の名旅館「山水閣」の仲居さんなどは、20代前半にして既に高水準のクオリティを備えている。そのレベルに年齢や勤務年数は恐らく関係なく、ただ本人の性格と努力のみが関わってくるのだろう。それを踏まえて考えると、「幸鮨」の女将は、銀座の高級料亭とかで修業を積んでこっちに引き抜かれたんじゃないかと思えるくらい隙がなかった。まさに高級寿司屋の名に恥じぬスタッフの充実である。

そう考えると、金も時間もふんだんに持っていて、その気になればどんな店もよりどりみどりで体験できる恵まれた環境にあるのに、一箇所か二箇所に固執して他の世界を見ようとせず、自分が行った場所が最高だと喧伝する人間も一方では居るのだから、まったくもって世界が狭い。僕からすれば、もったいない。恵まれた特権を全く活かしていない。僕はそこまで多くの機会を得ることが出来ない。だから全ての店を一期一会のつもりで鬼のように観察したいのだ。基本的には観光気分だけど、何割かは観光気分でないということ。

板前連中も、非常に愛想がよく、キビキビと動いている。爽やかな笑顔で僕等の質問に笑顔で答えてくれる若い兄ちゃんも、「お客さんは前にも来たことありませんでしたかね」と言いながら、和歌山の魚事情や幸鮨のコンセプトについて堂々たる面持ちで説明してくれるスタッフ長らしきおっちゃんも、とにかく皆がコミュニケーション能力が高い上に丁寧で誠意があった。何というか、スタッフから陽のオーラが出ている。お客を大切にしているという姿勢が分かる。結局のところ、スタッフのことを好ましく思った時点で、料理の質がどうであろうとその店を気に入ってしまうものだ。それが人間心理というもの。だってオラは、人間だから…。

無論、料理の質も一流だ。案内されたのはカウンター。誰かのお供で座ることはあっても、僕主導でカウンター席に座ることなど殆ど無いので結構緊張した。ネタの入ったガラスケースの前には、オーダーした寿司や刺身などを板前がヒョイッと置いてくれる幅20センチほどのスペースがある。板前はそこに、僕等が頼んだ寿司をいきなりドンと直に置いた。僕の知る店だと、そのスペースの上に皿とか葉っぱみたいなものを敷いて、その上に料理を置くのだが、そうではなく直に置いたところに感動にも似たショックを受けた。皿などでカバーしてなくとも綺麗で清潔だぜと。直に置いてあった方が雰囲気出るでしょと。細かい部分だが、僕はこういうの、すごく好きだな。

そんなシステムの店で、メニューを頼んでいく。知っているネタを頼んでもしょうがないし、せっかく来たのだからなるべく知らない食材を。手探り状態で板前に質問しながら、料理を少しずつ平らげた。

まずはクツエビのお造り。その名のとおり、靴に似たような甲殻を持っていて、一説によれば伊勢海老よりも美味いとか。ちょうど昼間の水族館で勉強してきた。そこでは「ゾウリエビ」あるいは「セミエビ」という呼び名だったはずだが、ゾウリじゃあ何となく食欲が無くなる気もするので、敢えて「クツエビ」と呼んだのだろうかと予想した。前評判通りクツエビは旨い。少しコリッとして、だけど透き通った味わいというか。刺身と炙りがあったのだが、炙りがまた絶妙だったね。噂に違わぬクツエビ、堪能しました。活け造りだったのでクツエビの脚がウネウネウネウネとしていたあの光景は夢に出てきそうです。

次は握り。「“おどり”って何ですか?」「車海老のことですよ♪」じゃあそれを。車海老は知っているが、その呼び名に惹かれた。うむ美味い。僕の胸も踊る。

「この“さより“とは?」「そういう魚です。どちらかっていうとアナゴっぽいですが、独自の魚です」じゃあそれも。うむ、こりゃ美味いわ。アナゴより全然イケる。味が付いてるからそのまま食えるとのことだが、確かにしつこくない適度な味だ。滑らかでモチモチしてるねぇ。ああ、さよりさん、さよりさん…!

「”つんつん巻き”ってのは?」「わさびみたいなもんです。最初だけちょっとツーンときて、でもすぐに消えてシャキッと美味しいですよ♪」ほうほうなるほど。おお、確かに最初ツーンと来たぜ。だけどすぐに収まって、いくらでも食える。こりゃ病みつきになるわ。俺も負けてらんねえ。今夜どう? 病みつきにしてやんよ!

珍しい握りを食いながら、いよいよクエの登場。「酒蒸しがいいですよ」と女将。「刺身は無理ですか?」クエは珍魚のため、獲れたてじゃないと刺身は難しいとのことだ。なら、目の前の水槽で泳いでいるクエは何?「ペットです♪」「…なかなかいかついペットですね」そんなクエの酒蒸し。おおう、美味い。白身はさっぱりして、だけど妙なコクがある。クエいいよクエ!

「どうせなら白子なんかもどうですか?」白子か、いいかもしれない。じゃあこの“白子蒸し“を。茶わん蒸しの白子版みたいなもんらしいが…。ぐあ!なにこれ旨い、旨すぎ!ヤバいっす、マジでヤバいっす!お代わり欲しいっす!マジでこんな旨いものを食ったのは初めてと言ってもいいほど。この白子蒸しは衝撃過ぎた。白子ちゃんマジ天使。

あとは、ナマコでも食いましょうか。今日、水族館で見てきたナマコを、今目の前で食うという奇妙な冒険。ポン酢漬けだけど、おおう、さすがにヌメリとしてるぜ。だけどコリコリしているな。そのアンバランスさがいいぜ。

そんな鮮烈で衝撃的な幸鮨の料理。ビールも喉にクイッと入って清涼だし、日本酒も旨いし、ワインも頼んだら普通にシャブリだったりするし、高級店の名に恥じない名店だな、ここは。会計大丈夫かよ。値段書いてないし。時価の寿司屋に自分だけで入るなんて初めてじゃね? 結局、会計は二人で3万円だった。まあ、高いな。

だけど満足度から言えば十分納得だ。隣の50代と思しき夫婦など4万だったし。予算が一気に無くなって、明日からはコンビニおにぎり確定だとしても、この幸鮨に出会えたことを考えれば安いもの。僕は全く後悔していなかった。得難い、まことに得難い店であった。そう、これが旅の醍醐味でありロマン。旅先で初めての新しい料理に出会う。いいねえ、旅の醍醐味だね。

あと一つ、素晴らしい出会い。4万円会計をした、僕等の隣の老夫婦。最初は、僕がスマホで料理の写真を撮る時のバシャッ!という音にチッと舌打ちしていたが、ひょんなことから話をするようになって、結局1時間くらい彼等とスタッフを交えて会話していた。彼等は地元の人間だが、大阪に居る娘夫婦に会いに行く予定があり、その前に年末の締めくくりとして幸鮨に寄ったのだとか。見かけとは裏腹に、とても物腰の柔らかい、そして仲の良い夫婦だ。奥さんの方など、最後にカメを持ってもらうくらいにフレンドリーな人だった。

僕等もそんな彼らの人柄に心が弾み、東京から来たこと、和歌山には二回来て、白浜はものすごく気に入ったので何回も来たいと思うこと、ブログを書いていること、昔関西に住んでいたことがあること、今日偶然寄った幸鮨は最高の店だということ、色々と話をした。とにかく場が和やかだった。僕は、料理よりも何よりも、この夫婦とのひと時の和やかな会話と、それを見守りながらたまに会話に入ってくるスタッフ達の暖かい眼差しをこそ、いつまでも覚えていたいのだ。客商売だからという点があったとしても、たとえ一時的な触れ合いだったとしても、その出会いは宝だ。僕が今後心の中に置き続けていたい“縁”という言葉そのもの…。

話し込んで、結局最後の客は僕等になった。2012年は、今日を以って店じまいとのこと。つまり幸鮨にとって、2012年最後の客は余所者の僕等。お土産にみかんをくれながら、スタッフ達は「年末の貴重な時に当店を選んでくれてありがとう」と言った。だけど僕の方こそ、年末を締めくくる最後の料理店が「幸鮨」であったことに感謝したい。初めての出会いだけど、二度目があるか分からないけど、互いの幸せを願いながら、僕等とスタッフ一同は「どうか良いお年を」と頭を互いに下げ合った。

そんな素敵な店「幸鮨」。だからこそ、自分達だけの思い出で完結させるのではなく、他の人にも知って欲しいと思うし、一緒に行きたい人もいる。何かを共有できる喜び、伝えたいことを伝えられる喜びは、人の幸せの中ではかなり上位に入るものだ。そんな空想をしつつも、今はただこの2時間の出会いの意味を噛み締める。12月30日、訪れた二回目の白浜旅行の夜。僕達は、幸鮨で素晴らしい出会いをしてきた。あの感激は生涯忘れない。

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